第四十話 「不破武士」

 コツコツと、カラカラと、小さな音が廊下に反響する。

 時と風雨に洗われ続けた骨のように白い廊下は、照明もないのに明るい。ドアも天井も全て白く、それ自体が発光している。

 小さな車輪が回転し、アンバランスに伸びた高い点滴スタンドが進む傍らで、細く小さな子供が、か細く息を漏らした。十

代に入ったかどうか、少年というより男の子と呼ぶべき年頃である。

 美しい男の子だった。

 そうあれと、彫刻家に削り出された彫像のように目鼻立ちが整い、上質な陶磁器のように白く透けるような肌には染み一つ、

皺一つない。

 腰の後ろまで伸びたプラチナブロンドの美しい髪はゆるいウェーブを描き、黄昏に輝く海原を思わせる。

 纏っているのは薄い清潔な衣…といえば聞こえは良いが、患者衣である。移動式の点滴スタンドから伸びた管と、バイタル

サインを確認するモニターから下がったコード類が、袖や襟元に潜り込んでいる。

 男の子の斜め後ろに控え、点滴スタンドを押しながら歩くのは、屈強な体躯の灰色熊。羽織るジャケットも穿いたズボンも

薄緑色の迷彩柄で、衣服の上からでもゴツい筋肉質な体型が見て取れる。

「お運び致しましょうか?」

 男の子の息が少し上がり、心拍上昇の兆しが見られる事を、モニターを介すまでもなく把握した灰色熊が提案するが、

「ううん。いいです」

 男の子は足を止めながらもやんわり辞退した。

 立ち止まって休憩する男の子の傍で、同じく足を止めた灰色熊は、「失礼します」と声をかけるなりジャケットの胸ポケッ

トからハンカチを取り出し、男の子の白い額を軽く拭う。

 ゴツく大きな手だったが動きは繊細で、トントントンと、軽く叩くような手つきでハンカチに汗を吸わせると、灰色熊は目

を閉じていた男の子に「結構です」と声をかけた。

「うん。ありがとうございます」

 壁に背を預けて休む男の子。灰色熊はその傍に控えたまま、「本日の運動はもう充分かと」と意見した。一見すると事務的

な口調と態度ではあるが、実際には自分を案じていると理解しているので、男の子は疲れが見える顔に微笑を浮かべた。

 ニーズヘッグ・ノートリアス。それが男の子の名前。このラグナロク内でも特に重要とされる人物のひとりである。

 ニーズヘッグの息が整うのを、灰色熊は直立不動で待つ。置き物のように動かないが、しかし何かがあれば即座に対応でき

るよう、男の子の様子を窺っている。

 会話も無く、しばしの休憩が終わる。

 男の子は歩き出し、灰色熊は傍をついてゆく。

 コツコツと、カラカラと、足音と点滴台のタイヤが鳴る。

 ゆるく曲がった角で、ふたりは向きを変えると…。

「オーズさん」

「オーズ様」

 男の子が立ち止まり、灰色熊は背筋を伸ばして腕を上げ、敬礼の姿勢を取った。

 そこには、壁に寄りかかって腕組みし、目を閉じている白い男の姿。

「くあ…」

 声に耳を震わせ、腕組みを解いて背伸びしつつ大欠伸したのは、引き締まった体躯に均整の取れた筋肉を纏う、純白のジャ

ガー。アルビノ個体と思しい外見だが、開かれたその両目は鮮やかな金色である。

 灰色熊と同等の長身だが、あちらが重量挙げの選手のような体つきだとすれば、こちらは短距離走の選手のような体つき。

衣服は灰色熊と同じだが、徽章が幹部としての位を示しており、両腰には幅が広めのミドルソードを帯びている。

「よう。具合は良さそうだなニーズ」

「はい。今日は少し多く歩けています」

 ジャガーは太い鼻梁の向こうで鋭い目を細め、目尻に皺を寄せる。一見獰猛そうに見えて、笑えば快活そうな顔だった。

「バッソ、付き添い御苦労。楽にしていいぞ」

「はっ」

 灰色熊が敬礼していた腕を下ろすと、ホワイトジャガーは男の子に目を戻した。

 オーズオース・フェダイーン。ラグナロク最高幹部、中枢六名の一角。

 彼がここに居たのは偶然ではない。今日は男の子が少し歩く距離を伸ばす事は予測の範囲内。この辺りまでで休ませるべき

だというのが予め下していた判断。それまではと、壁にもたれて休眠状態に入っていた。

「あれ?今日は大きな会議があるのでは…?」

「ああ。もうじきだな」

 ジャガーは見上げる男の子が少し息苦しそうだったので、膝を曲げて屈み、目線を近付けた。

「決まる事は判ってる。おそらく今度は、東洋の島国に出撃だ」

「はい。ご武運を…」

「任せろ。何せ俺はアドヴァンスドコマンダーだ。…元だが」

 男の子の目に不安の色を見て、ニッと笑って見せたオーズは、「それに…」と灰色熊を見遣る。

「今度はバッソもだが、アサルトベアーズ全員を連れて行く事になるだろうよ。久しぶりの全力出動だ」

 灰色熊は片眉を上げた。出撃はスケジュールに入っていない。おそらく先の会議で決まり、正式には後で通達されるはずの

事なのだろうと察する。

「全員…」

「どうにも次の相手は相当手強いらしい。…という訳で、頼むぞバッソ」

「はっ」

 言葉少なく応じる灰色熊の目が、ちらりと男の子の頭に向いたのを、オーズは見逃さなかった。

「それでだ、ニーズ。俺と熊共が不在の間は、シャモンと一緒に居住区画で過ごして貰う。世話役としてスレイプニルがつく

から安心しろ」

 灰色熊は上げていた眉を下ろした。

 スレイプニル。最初のエインフェリアにして、中枢幹部就任を拒んだ男。ラグナロクでも屈指の強力な兵器にして、最高幹

部の懐刀。臨時の護衛としてこれ以上は望めない破格の人選である。ならば憂いはないと、灰色熊は安堵する。しかし…。

(彼を攻め出る方にではなく、護りに割く判断…。ここに居る限りシャモン様の身に何かあるとは思えないが、盟主は何かを

警戒なさっておいでか)

 灰色熊は思案したが、その疑問を口には出さない。何か事情があるにせよ、知っているだろうオーズはそれで良しとした。

ならばこの布陣は理想的な物であると信用する。

「あの、オーズさん…」

「うん?」

 男の子が不安げな目のまま、ジャガーに尋ねる。

「寿命は、大丈夫なんですか?」

 金色の目が少し見開かれた。驚きと疑問で。

「オーズさんは強いって知っています。でも、ぼくと同じで、体が悪いんですよね…?」

 オーズは無言で目を細めた。優しく。

「…バッソ?誰が…」

「申し訳ございません!」

 ジャガーが微笑のままやや困惑顔になって確認するなり、灰色熊は弁解せず詫びた。

 男の子はずっと見てきたジャガーの、最近の変調に気付いていた。

 何処か悪いに違いない。どうして治さないのか。そんな疑問に、ローテーションで男の子の護衛に当たっている、灰色熊と

同部隊の熊が、追求を避けきれずに漏らしてしまった。

 元々試作型生物兵器であったオーズは、活動限界時間…寿命が近付いているのだと。

(バッソは誤魔化し上手じゃあないが、うっかりミスする事は絶対にない。自分で言わんと決めた事は間違っても言わんだろ

うしなぁ…。怪しまれようが責められようが頑張ってだんまりを決め込むだろうし…)

 たぶん灰色熊以外の誰かが漏らしたのだと察しながら、オーズは「まぁ、そうだな、うん」と、頭を掻きながら顎を引いた。

対外的には機密事項だがラグナロク内では特に秘密ではない。男の子には多少ショックだろうと考えて黙っていただけである。

 寿命を伸ばす手立てはない。正確には、かつてはあったが今はない。フィンブルヴェトが滅ぼされた際に、彼の活動限界を

延ばす手掛かりとなるはずのパーソナルデータは、他の貴重な資料諸共破棄した。他でもないオーズ自身が、先進国連合に渡

してはならない物とみなし、自らの手で物理的に抹消したのである。

 そして、例えパーソナルデータが残っていたとしても、それを活かせる技術者がもう居ない。フィンブルヴェト時代の非戦

闘員達は、大半が基地制圧に乗り込んだ先進国連合兵によって殺されてしまった。研究者も技術者も医者も、ある意味平等に

殺戮された。

 だからもう、オーズには既に見えている寿命をどうする事もできない。

「だが一つ訂正だニーズ」

 ホワイトジャガーは男の子の目を見つめて言い聞かせる。

「「同じ」じゃない。良いか?俺のコレは仕方がない。生物はみんな寿命があるのと同じで、俺にも時間が決まってる。それ

が少し短いだけって話だ。だがお前は違うんだぞ?」

 白い手が伸びて、男の子の髪をワシワシと撫でた。雑だが、しかし愛情が篭った手つきで。

「お前は必ず良くなる。ミーミル先生が言ったろう?「今は治せないが、第二次性徴期に入った後は自然に改善する」と…。

何をしても治せないが生きてさえいれば何もしなくても治るんだ。それを忘れるな。忘れそうなら何度でも言ってやる。ほら、

返事は?」

「は、はい…!」

 首から上をグラグラ揺らされている男の子が返事をすると、オーズは満足したように顎を引いて目を細める。

「さて、そろそろ行くぞ。バッソ、出撃準備は正式に命が出てからで良い。他の熊どもにも俺の方から促してだけおくが、当

面は気構えだけしておけ」

「はっ」

 立ち上がったジャガーは、男の子と敬礼した灰色熊に見送られ、通路の奥へ。

(なに、俺が居なくなってもスルトが上手くやってくれるさ…)

 腰の剣に手を這わせ、オーズは疲れたような笑みを浮かべた。

(お前達の居場所は、新しい世界になら必ずある…。そこで生きていけば良い…)

 軽い眩暈を覚えながら、しかし誰かに見られても問題ないように、オーズは足がふらつかないよう細心の注意を払いつつ、

休息できる自らの執務室を目指す。

 残りの寿命を見据えるジャガーには、既に生への執着はない。

 嫌なのは、残り少ない寿命を無為に消費する事。先が短いからこそ、理想を少しでも先に進めるための燃料として我が身を

使い切りたい。

 心配なのは、自分が居なくなったあとの事。

 もしも、とオーズは考える。もしもあの男が、昔と同じようにスルトの傍らに立っていたなら、自分は何も思い残さず逝け

るのに、と…。

(…ジーク…。何故スルトに賛同しなかった?何故…、俺達の敵に回った…?)




 無機質な金属の壁と床、そして天井。

 壁際に並ぶ無数のケーブル類が様々な観測機器から伸びた中心に、円筒状のケースが鎮座している。

 上部と基部が金属で、周囲がぐるりと継ぎ目のない透明な材質になっているそこに、小さな影が沈んでいる。

 それは、ひとりの子供…人間の男児である。

 五歳程度に見える幼い子供は、一糸纏わぬ姿でケースの中に立っており、身じろぎ一つせず、目を閉じていた。気泡すら混

じらない密封されたケースの中は、それ自体が薄黄色に発光する液体で満たされているので、男の子の体には陰影ができず、

全体的に明るく見える。

 男児はアジア系と思しき容貌で、目鼻立ちが整っており、少し伸び気味の黒髪が液体の中で逆立ち、ゆるやかに揺れている。

 その観測機器とケースだけがある部屋の隣…、大きな窓で区切られたモニタリングルームには、十数名の研究員が待機して

いた。ケースを監視するだけでなく、別室で寝台に横たわり、何かの施術を受けている獣人達や、防護服を着込んで遺物の反

応テストを行なっている倉庫など、モニターに上がる様々な映像や上がって来るデータを忙しく処理し続けている。

 その部屋の後方、窓よく見える位置に置かれたソファーには、三つの人影があった。

 片方は、ゆったりしたローブを羽織った灰色の髪の男の子。紅茶のカップを手にしながら、ローテーブル上に置かれた小型

モニター越しに、男児が入ったケースを眺めている。

「安定化は順調です」

 魔人ロキは満足しているのか、双眸を心なし細めている。

「カテゴリー的には人工ですが、素材の100パーセントが「本物のレリックヒューマン」…実質的に天然物と変わりありま

せん。素の状態でも現行の人間とは比較にならない身体機能を備えていますから、オクタヴィアシリーズの身体強化行程の中

でも最難関だった、人工臓器や筋肉への置換術は必要ありません。それに、そもそもの因子純度の桁が違うのでヴァルキュリ

アシリーズのように劣化し易いという事もありません。あのとおり、促進剤に浸けて負荷をかけておくだけでも、想定した以

上の活性化と機能強化が認められています」

「つまりぃ、人格や感覚器に障害が出る可能性が高い施術行程を飛ばして、機能増幅から開始できるという事…。そうですよ

ねぇ先生?」

 ホットチョコのマグカップを片手に口を開いたのは、灰色の髪にソバージュをあてた女性。

「ええ。後天的な改造を必要としないポテンシャルがあります。…というよりも、今の我々が有する技術で手を加えた所で、

逆に劣化に繋がりかねませんから、何もしないのがベターでしょう」

 ヘルに応じたロキは、質問は無いかと促すように、ローテーブルを挟んだ反対側を見遣った。

 そちらには、筋肉質で逞しい体を軍服にも似た戦闘服で覆った、赤い虎の偉丈夫。

「能力の方はどうだ?」

 腕を組んでいるスルトは、モニターではなく窓越しに直接ケースを眺めていた。鮮やかな金色の瞳には眠っている男児の整っ

た顔が映っている。

「規模は小さくまだ不安定ですが、問題なく発揮できる事は確認しました」

 答えたロキの隣でヘルが薄く笑う。

「期待できるわぁ、何せシャモンちゃんと同系統の能力ですからねぇ」

 スルトは思慮深さが窺える眼差しをやや下に向け、熟考しているような半眼になって呟く。

「補助を必要としないイマジナリーストラクチャーの単独生成、及びその応用による様々な形態の空間干渉、か…」

「マイクロイマジナリーストラクチャーとも呼べますね。世界と呼び得る規模ではありません。が、OZの術士がローブに仕

込む収納空間と同様の物を身一つで管理できる他、小規模空間歪曲の発生、消去を自在に行なえる…。これはこれまでに確認

されているレリックヒューマンの異能の中でも、彼女同様に極めて異質です。よりワールドセーバーに近いと言えるでしょう

ね。もっとも、能力そのものにはオリジナルとは多少の違いが見られます。単に未成熟なせいかもしれませんが」

 ロキは一度言葉を切って紅茶を啜ると、「しかし、最大の成果は能力そのものではありません。彼が我々が望む通りの機能

を有している事です」と続ける。

「適当に見繕った遺跡に連れて行って実験しましたが、彼には彼女と同じく非常に高位のアドミニストレーター権限がありま

す。おそらくバベル級のメガリスにも入場できるでしょう」

「それを聞いて安心した」

 スルトは低く応じて口を閉ざす。

 樹海の隠れ里で回収した少女は、彼らの計画に必要不可欠な性質を有していた。古代遺物の中でも特殊な、「器具」レベル

の遺物ではなく「建造物」クラスの特別なレリックに干渉し、ロックを解除して使用可能にする性質「アドミニストレーター」

の権限を。これは旧人類の「人間」でも一部だけが所持していた性質。「人間」の側についたワールドセーバーが与えた、強

力な設備を扱うための許可である。

 かつてフィンブルヴェトにはアドミニストレーターが幾人か所属していたが、ほぼ殺されるか拘束されてしまい、ラグナロ

クには該当者が居なかった。
今後の計画にはアドミニストレーターが必須となるため、早急な確保は最優先課題。それ故に、

かつて帝と裏帝の戦争に乗じ、危険を冒してでもその血族の誰かを入手する作戦が立てられた。

 果断と言えただろう。大規模交戦には至らず、幹部数名という精鋭中の精鋭で行なう奪取作戦は、結果として裏帝当人の娘

を入手できたのだから。

 だが、それを安易に使い潰す事はできない。彼女を失えば計画は振り出しに戻り、アドミニストレーターを探すところから

始めなければならなくなる。

 だからこそ、ケースの中の男児の出来栄えは重要だった。

 プロジェクト・ベヒーモス、その完成品第一号。彼女の予備であり、彼女に代わる供物たる、人工レリックヒューマンを生

産する計画の貴重な成果が、ケースの中に浮かぶその子供。
第一号であるこの男児だけではなく、他にもノウハウを活用して

女児が一名生産されており、三号にあたる子供の生産計画も立てられている。

 オリジナルに極めて近いレリックヒューマンの因子は改竄困難なため、専用の人工子宮は一基しか製造できておらず、ひと

り生産するために数年かかってしまう。コストは当然として管理体制などの労力も馬鹿にならない。

 だが、それだけの価値はある。危険を冒して探索せずとも、数年に一人とはいえ、希少なアドミニストレーター権限を持つ

人材を増やせるのだから。

「不破武士(ふわたけし)…。シャモンちゃんがつけた名前、自分に似た感じで母国風にしたんでしょうけど、意味とか由来

とかあるんですかねぇ?」

「ファーストネームの意味は確か、「敗れない武士(もののふ)」との事です。もしかしたら、「そんな者が居たならこんな

境遇には居なかった」というような、彼女の感傷が付けさせた名前なのかもしれませんね」

 ヘルとロキが言い交わす前で、赤い虎は再びケース内の子供をじっと見る。

(誰かに似ている…)

 勿論、因子のドナーである少女に似ているのは判る。彼女の因子を用いて生み出されたのだから当たり前の事。だがスルト

はその子に、それとはまた違う誰かの面影を見ているような気がする。

(…ただの気のせいだろうが…)

 人間の子供は似たような顔に見える。同じアジア系人種ともなればさらに似てくる物だろう。スルトはそう考えるものの、

しかし頭と気持ちは一致しない。

 その子を見ていると、妙に落ち着かない気分になる。心浮き立つような落ち着かなさではない。不穏な、警戒心を刺激され

るような落ち着かなさである。

「…彼はシャモンの因子を受け継いでいる。間違いないな?」

「ええ。因子提供した側とされた側の関係なので、母子とも言えますが…、実際にはコピーに近いですね」

 ロキは赤虎の方を見ないまま、気配だけ窺った。

 いつか勘付かれるだろうか?と。

 やがてスルトは腰を上げ、無言で部屋を出て行った。それを見送ったヘルは…。

「またシャモンちゃんの様子を見に行くんでしょうねぇ。一応あの子の親や仲間の仇っていう立場ですけどぉ、やってる事は

保護者っていうのがまた、あのひとらしいと言いますか、何と言いますかぁ…」

 ロキは「そうですね」と応じて冷めた紅茶を啜る。

「非常に貴重ですから、だいぶご執心のようです。だからこそ、レリックヒューマンを複製する計画にも同意せざるを得なかっ

たわけですが」

 都合が良かったと言わんばかりの発言だが、ロキの声は術によって遮断されており、ヘルにしか届いていない。

「貴重だから執着っていうのとは別に、無理ありませんけれどねぇ…。シャモンちゃんにも、世界に復讐する正当な権利があ

りますからぁ。勿論…」

 ヘルは微笑する。達観したような褪めた笑みには、微かに苦笑も混じっていた。

「スルトだけじゃなく、わたし達に対しても…。ですけどねぇ」

「復讐する正当な権利…ですか」

 ロキはモニターの向こうを眺める。

 調整が続く少年。おそらく、実際に現地投入する機会はそう遠くない。推論通りにバベルの扉を開けるか否か、試す日はそ

う遠くない。彼が自意識をもって動く日はそう遠くない。そうなった時、彼は何を思うのだろう?そう、ぼんやり考える。

(彼にもあるでしょうか?こちらの都合で生み出した我々に、復讐する権利が…)




 三重の気密ドアを抜けて、赤虎は厳重なロックがかけられた大扉前に立つ。

 一見すれば立派な劇場のドアのような、重厚で雅な扉に見えるが、中身は分厚い金属で、各種生体認証機能があり、登録さ

れている者以外は通れず、入退室は全て記録される。

 扉の前でスキャンを受けたスルトは、ロックが解除される音を聞くと、二つの取っ手に手を掛けて引き開けた。

「盟主」

 声を発したのは灰色の馬。逞しい体躯に軍服とプロテクターを纏う馬は、入室者を迎え撃つかのように扉の正面に立ってい

た。棒立ちに見えるが、不審な入室者であれば即座に排除できる戦闘態勢である。

「失礼を」

 姿勢は変わったように見えないが、気構えを解いて戦闘態勢を解除した灰馬に、スルトは僅かに目を細める。責めるどころ

か、その警戒と油断の無さを頼もしく、好ましく感じて。

「来てくれていたのか、スレイプニル」

「は」

 道を譲って脇へ退いた灰馬が一礼する。その先には、テレビモニターに向き合うどっしりと重々しい一人掛けソファーに座

り、顔だけこちらに向けている少女の姿。

 十代半ばを過ぎた年頃。整った顔立ち。気品を窺わせる眼差し。ただし纏うのはその容姿に不似合いな、迷彩柄のコンバッ

トスーツ。

「スルト…」

 少女の目が細められ、口の端がほんの少し上がった。

「退屈していないか?シャモン」

 歩み寄ったスルトはソファーの横に屈み、少女に目の高さを近付ける。

「ええ。スレイプニルが歌劇のソフトを持ってきてくれたの」

 言われて目を向ければ、モニターの中ではファンタジックなミュージカルの舞台が上演されていた。続いてスルトが灰馬に

目を向けると、ティーポット片手に茶の支度を始めていた彼は、「ヘル様より勧められました」と応じる。

 少女の前のテーブルには、作戦行動時などに重宝される、クッキーバー型の携帯食料が食べかけのまま置いてある。

 大事に育てられたとはいえ隠れ里の外を知らなかった少女は、むしろひとの手が過剰に入った人工物が珍しいようで、彼ら

が作戦で使用する栄養補給用のクッキーやゼリー、飲料などを好んだ。お世辞にも美味いとは言えず、だいたいは味気ないの

だが。

「変わっている」

 ポツリと、そしてしみじみと、スルトが漏らす。

「いつもそう言うのね?」

 少し怒ったような、恥かしがっているような、そんな半眼を赤虎に向ける少女。

「レーションが好きだなどと、世が世なら姫君だった娘が言うのだ。面食らいもするし、…少し面白い」

「同意です」

 スルトの意見を肯定したのはスレイプニル。

「レーション類でも栄養は摂れていますが、ひとは食事を楽しむ生き物です。例えばラーメンなど如何ですか?」

 茶葉を蒸らす灰馬の発言に、シャモンは「ああ」と何か思いついたように眉を上げた。

「確かに、インスタントラーメンは美味しいわ」

 違うそうじゃない。と灰馬の僅かに引き攣った表情が語る。

 どうしてこうなった。と露骨に呆れ顔な赤虎の表情が語る。

 裏帝の隠れ里から連れ出されて以降、シャモンはずっと、ラグナロクで暮らしている。

 軟禁に等しい扱いで、外の世界に出る事はまずできないが、不自由しないよう配慮されている。

 貴重な人材として丁重に扱われているのも勿論あるが、ラグナロクのメンバー…特にフィンブルヴェトの生き残り達の大半

からは、同情と共感の目を向けられている。

 公的には存在していてはいけない。その存在を世界が許さない。その境遇をもって、フィンブルの亡霊達は少女に仲間意識

を向けている。

 シャモンにしても、彼らを憎からず思っている。

 確かに里を焼いた火を放ったのはスルトなのだろう。だが、里を滅ぼしに来ていたのは帝勢。そしてどのみちあの場を逃れ

る事は、自分達には叶わなかった。そう、今では冷静に受け止められる。

 スルトはシャモンに言った。少女には、自分に復讐する正当な権利があると。それが果たせるまでは生きてみたらどうだと。

 少なくとも、その方便に乗って生きようと、当時のシャモンが思ったのは確かだった。

 しかし今は少し違う。

 世界。

 先進国連合が主導権を握る、今の世界。

 それを良しとせず、報復し、破壊し、その後に来る新たな世界を夢見るラグナロク。

 彼らの行く末が、先にある未来が、どんな物なのかを見定めたい。

 シャモンはそう考えている。

「お茶の仕度ができました。今日はオーズがお持ち下さったカモミールティーです」

 灰馬がトレイを手に歩み寄り、今日もささやかな茶会が始まる。美味くもない携帯食料と、上質な紅茶で。




 数日後。

 六つの卓が中央にある立体映像投影装置を囲む部屋に、六つの影が集まった。

 灰色の髪の男の子、ロキ。

 灰色の髪にソバージュをあてた女、ヘル。

 金眼のホワイトジャガー、オーズ。

 バイザーで双眸を覆い隠したチベタンマスティフ、ヴィゾフニル。

 髪にも髭にも白い物がだいぶ混ざった初老の男、フレスベルグ。

 そして、赤い虎、盟主であるスルト。

 この六名の最高幹部によりラグナロクは統率されている。当初はこの中の一角に別の人物が就くはずだったが、本人が辞退

したのでこの顔ぶれになった。

「地形その他の情報は該当地域と一致している。資料にある「禍祖(まがつのそ)」という地名が、日本、帝直轄奥羽領河祖

群を示す事はシャモンの証言でも裏が取れた。まず間違いは無い」

 スルトの言葉を聞きながら一同が見つめるのは、部屋中央の立体映像。非合法組織を攻め滅ぼして入手した巻物状の資料が、

全員から見える角度で表示されている。さらに、全員の机の上には空中にモニターとして映像が投影され、資料の中身…記さ

れた内容が確認できる。

「「いみかくし」というらしいが、一種のまじないによる概念的防御作用の強化のため、日常的にはあえて異なる文字を用い

て上書きしているらしい」

「名前の読みや文字を変える事で?ふん、眉唾だな」

 巨体のチベタンマスティフが疑わしそうな半眼で吐き捨てる。

「潜伏活動の偽名でもあるまいし、効果が疑わしいそんな物に頼るなど、迷信深いのか脆弱なのか…」

「この事に関してはロキが明るい」

 スルトの視線を受け、灰色の髪の男の子は「ええ」と顎を引く。

「本来の名に何かを被せるというのは、特に高次存在が用いた手段です。旧文明に関連する物であれば、名称に何かを被せる

事で機能の隠匿や封印を図る事も、本質から遠ざける事で効力を抑える事も珍しくはありません」

 ホワイトジャガーが「そうか」を目を大きくした。

「言われてみれば、我々もワールドセーバーを様々な異称で呼ぶ。平時はケニングの類で尊称するな」

「あらあら良い例えが出ましたねぇ。オーズが挙げてくれたのは、名称への細工の中でも最たる物でしょう」

 ヘルが満足そうに言い、ロキも大きく頷く。

「ワールドセーバー自身も人類に対しては本当の固有名称をあまり使いませんが、それは自己の運命力や存在力の圧を抑える

ためでもあります。告げる相手を選ぶのは、脆弱な存在を自分の圧で押し潰してしまわないようにです。本当の名を告げられ

ても問題ない存在は、現行人類では一握りに過ぎませんからね」

「つまり、用いる対象にもよるが効果は確か、と」

 老人が顎鬚をしごく。

「思えば、スカディも…」

 フレスベルグの呟きで、全員が息を潜めたような沈黙が部屋を満たす。

「彼女なりの配慮だったんだろう。チャランポランなようでもな…」

 神妙に呟いたオーズの声を遮り、ヴィゾフニルが鼻を鳴らした。

「で?確実と見ていいって話で良いんだな、スルト?」

 チベタンマスティフの睨むような視線を受け、赤虎は「ああ」と応じた。

「バベルがある。ほぼ確実にだ」

「それは結構な事だ。ついでに…」

 ヴィゾフニルは手元の立体モニターを指でなぞる。そこには河祖郡を守護する神代家と御庭番による平時防御体制や巡回警

備、緊急時の迎撃手順などまでが細やかに網羅されていた。

「「贄」もたっぷり居る」

 チベタンマスティフが薄笑いを浮かべて舌なめずりした。

「神将と御庭番って連中は腕利きの兵隊揃いだったな?なら、断末魔の思念波は極上な物になるだろう」

「おそらく配備は変わるだろう。この情報が抜けた怖れがあるならば、そのままで捨て置くはずもない。もっとも、情報が抜

けた事に気付けないような節穴であれば、非常に容易い仕事になって助かるのだが…」

 フレスベルグが顎鬚を撫でていた手をモニターに向け、スライドさせて資料を替える。

「配備が変更されようと、総戦力はそう変わらないだろう。「贄」が減っているという事はなさそうだ」

「上等だ。弱兵ばかり相手にしていて腕がなまりそうだった。ワシが…」

「スルト」

 チベタンマスティフの言葉が終わる前に、ホワイトジャガーが片手を上げる。

「俺も出る」

 赤虎の金眼に僅かな動揺が見えた事に、オーズは気がついている。

「確実を期したい作戦だ。上手くいけばこの一回で「準備が終わる」可能性もある」

(オーズさん、貴方…)

 灰髪の魔女がホワイトジャガーの顔を覗う。

(死地を決めた…、という事なのね…)

 ヘルがそれとなく自分の様子を窺っている事に気付いたオーズは、「勿論」と付け足した。

「適材適所、他の幹部皆の協力は不可欠だ。よってヘル女史、良いアドバイスを期待している。それに、ヴィゾフニル」

「何だ」

 先んじて声を上げられた事が面白くなかったチベタンマスティフは、

「貴官の能力と戦力は、こんな山中の舞台なら奇襲や強襲で猛威を奮うだろう?是非主力として活躍して貰いたい」

 オーズは自分が先陣を切るとは主張せず、ヴィゾフニルを持ち上げて巧みに宥める。

「俺もアサルトベアーズを指揮して立ち回るが、なにぶんこの体だ。現場には確実なエースが欲しい」

「ふん。言われるまでもない」

 不機嫌そうではあるが、その実まんざらでもないチベタンマスティフの返答。

「………」

 しばし黙っているスルトの様子を、ヘルもオーズも見ている。

 自分を出さない理由を探しているのは、オーズには判っていた。

「フレスベルグ翁に後詰めを担って貰えれば安泰だろう。異存が無ければロキには本部の防衛を受けて貰いたい」

 現地にヘルが出るならロキに異議はないだろうと、オーズは判った上で訊いている。そうして発言権を巧みに活かし、過半

数を納得させた上で…。

「では盟主、決断を」

 磐石の布陣を示した上で盟主としての判断を迫られれば、スルトも異論は挟めない。まして個人的な気持ちによる反論など

できるはずもない。

「………」

 虎の苦悩を理解しながら、オーズはじっと、答えを急くように、真っ直ぐ瞳を見つめ続けて…。


「貴方はまだスルトに必要だと思っていましたけどねぇ」

 解散後、長閑な牧草地の映像が壁面に映し出されている白い小さな部屋で、休憩用のチェアにこしかけたヘルが責めるよう

な口ぶりでホワイトジャガーを見遣る。

「ははは!後生だ。いや、後生がもうあんまり残ってないんだが…、まぁとにかく最後の我侭と思って呑んでくれ」

 テーブルを挟んで座っているオーズは苦笑いすると、「それにだ。いつまでも俺が出しゃばっててもダメだ」と、コーヒー

入りのカップを口元に運ぶ。

「スルトは独りでどんな決断もできるようにならなきゃいけない。精神的にキッツい事も、正直やりたくない事もあるだろう

が、もう選り好みなんかしていられないんだ」

 ヘルは何か言いたげに口を開きかけ、しかし思い直して閉じる。

 延命の手段はない。もしかしたら、探してみたら、間に合うかもしれない…、などと不確実な事を無責任に言うような真似

はできなかった。この、既に腹を決めている男相手には。

「アイツはその道を選んだ。世界を焼き尽くす覚悟が必要だ。そこに先の無い身内への執着を挟んでいるようじゃまだまだだ」

 冷厳な低い声でそう言いつつも、オーズは次の瞬間にはまた苦笑いを浮かべている。

「ま、個人的には有り難いし、気遣いさせて申し訳ないとも思うがね」

 ヘルは溜息をつく。

「できる限りは、背中を押しますけどねぇ…」

「是非頼む。いやぁ、安心して頼める相手が居るってのはいいねぇ」

 気楽な口調のホワイトジャガーを、ヘルは責めるような目で睨んだ。