第四十一話 「ニーズヘッグ」
「そろそろ休憩になさっては?無理はよろしくありません」
プロテクターで上半身のシルエットが膨れている、逞しい灰馬の戦士に提案され、患者衣姿の細く小さな男の子は「判りま
した」と素直に頷いた。
薄暗い、長い廊下。診察を受けに行ったついでの長歩きで、少し体温が上がっている。
馴染みの皆が発ってから数日。ニーズヘッグはスレイプニルの警護を受けていた。ボディーガードとしてだけでなく、細や
かな配慮ができる人材としても盟主から信頼されている灰馬は、日常的に接していたわけではなくとも、すぐに男の子と馴染
んで、過不足無く世話を焼いている。
今歩いているエリアは、ニーズヘッグも時折足を運ぶ場所ではあるが、普段の散歩で歩く区画とは別。研究、医療、実験施
設が集まっているエリアで、男の子がこの辺りに来るのは、平時は健康状態のチェック時だけである。
「喉が乾いたようですね。この中で少しお待ちをニーズヘッグ」
心拍数と体温の変化を把握しているスレイプニルは、近くにあったドアに向かうと、休憩室になっているその部屋へとニー
ズヘッグを招き入れた。
窓もない、骨のように真っ白な部屋。そこには先客がひとり…。
(あれ?だれだろう…)
ニーズヘッグは自分と同じ患者衣姿の、黒髪の男の子に気付く。
部屋の隅のベンチに座り、まるで人形のように身じろぎしない男の子は、こちらが視界に入っても目を向けようとせず、じっ
と正面の空中に視線を固定している。
「フワ、独りなのか?」
灰馬が声をかけたが、男の子は「はい」と応じただけで、やはり目も向けない。
その男の子が座っているのとは別のベンチに座らされたニーズヘッグは、「彼は?」とスレイプニルに尋ねた。
「不破武士と言います。所属は…」
灰馬は一瞬言葉を選び、「ナーストレンド研究所預かりです」と説明した。このラグナロクに加盟している者はほぼ全てが
何らかの部署に所属しているのだが、流石に子供達には所属部署名も無い。
「幼いので少し人見知りなのか、あまり喋らない子です」
ニーズヘッグは自分が診て貰っているラボの名を聞き、男の子に軽い興味と僅かな親近感を覚えた。
ラグナロク内部には複数の研究チームがある。その体制は、競わせる事で成果の向上が期待できるというロキの意見による
もの。各々のチームで得意分野が異なるのだが、ナーストレンドは主にレリックヒューマンや現行人類の能力者を中心に、人
間についての研究を行なっていた。
「すぐに戻ります」
一礼した灰馬は、近場でカップと水が手に入る研究員用休憩施設に向かう。ニーズヘッグの護衛は最重要任務なのだが、男
の子と一緒に残しても問題ないと考えた。
何故なら、その男の子は命令には従うものの、自発的な行動をほとんど起こさないからである。
不破武士と名付けられたその子は、レリックヒューマン…旧人類の再現体なのだが、「教育」による成果とはまた別に、感
情表現が殆どない、元々物静かな子供だった。
そんな事まで知らないニーズヘッグは、タケシに興味を持って歩み寄った。ここには大人ばかりで兵器ばかり。ニーズヘッ
グには東洋出身の少女しか同年代の相手が居なかったので、黒髪の男の子が気になった。
「ねえ。きみも東洋から来たひと?」
真正面に立ったニーズヘッグの顔を、しかし男の子は見返さない。視線は真っ直ぐのままで、ニーズヘッグの腹の辺りに固
定されている。
「いな、です。じぶん、は、ここ、の、うまれ、です」
たどたどしい、短い言葉を繋ぎ合わせたような返答。そこでニーズヘッグは、どうもこの子は何かおかしいぞと気がついた。
もしかしてブーステッドマンの手術が失敗したひとのように、頭の中身に傷がついてしまったのだろうか?そう考えたニー
ズヘッグは、痛ましそうにタケシの額を見る。目立たない毛髪の中などに手術痕が残っている事が多いのだが…。
(…無い?)
身じろぎもしない男の子の額にかかった髪をそっと上げて、ニーズヘッグは見える位置に縫い目などが無い事を確認した。
その瞬間、ニーズヘッグも意図しない事が起きた。
タケシは、頭の中で何かが壊れたような音を聞いた。卵が落ちて割れたような、カシャンという音を。
次いで、その双眸が自分の前に立つニーズヘッグの顔を見る。
タケシは、「相手」を認識していた。別の個体、自分とは異なる意思で動く生命、「他人」を。
ニーズヘッグは気付いていないが、それは、タケシが初めて見せた行動だった。
それは、高度に再現されたが故に、現行人類寄りの器に適合せず、一部休眠状態にあった脳が、調律されたように機能し始
めた兆候…。
ニーズヘッグがこのラグナロク内でも最も重要なひとりとされているのは、彼の死んだ父が有していた能力が理由である。
才能の開花。端的にいえば、彼の父の能力はそういう物だった。休眠状態にある能力には発現を促し、蓋が閉まっているよ
うに抑えられた思念波には放出を促す。つまり、能力者などを覚醒させ、発掘する、そんな能力だった。
しかし、ニーズヘッグはそれをそのまま受け継いでいる訳ではない。ラグナロクもその特性を把握はできておらず、彼自身
も能力をコントロールできていない。それどころか、能力に対して未だ無自覚だった。
その能力特性は、「不具合の解消」。言い換えれば、対象が持つ何らかの素養が上手く働いていない場合、それを有効活用
できるよう、対象の中の不具合を取り除く、接触型の能力。
才能開花の妨げなどを取り除く事で、「計算が得意」「音楽の聴き分けが得意」「道を覚えるのが得意」などといった長所
や特技、個性を引き出す事もあるその能力が、タケシに対しては脳と体を調律させた。
ラグナロク内の記録には残っていないが、これがニーズヘッグの能力がはっきりと働いた最初の事例となった。
後に「リコール=ワン」と名付けられる事になる、「因果を無視して結果を発現させる」異能の、最初の対象者と呼ぶべき
男の子は、
「………」
無言のまま、ニーズヘッグを見上げる。光に乏しかった瞳に、怪訝そうと呼べる感情の瞬きを浮かべて。
ニーズヘッグは、髪を触られるのが嫌だったのかなと、微苦笑して手を引っ込める。
「ごめんね」
「…ごめん?」
謝られた理由が判らなかったタケシは、触れられた額に手を当てる。
静電気を帯びたような感触は、しかしあっという間に薄れて消えた。
「ニーズヘッグって言うんだ。はじめまして」
差し出された手を、黒い瞳がじっと見る。
握手。確かそういう風習があったはずだと、未だ教育途中の男の子は思い出した。どういう時にするのかはよく判らない物
だったが、こういう時にする事なのだと、感覚で理解できた。
「…フワ、タケシ、です…」
差し出された手を握り返し、タケシは名乗り返した。
それは、そのような場でさえなければ、世界中の何処ででも見られるような、子供同士が出会っただけの出来事だった。
ただし、世界に対しては決して影響のない出来事とは言いきれなかった。
研究者達は、タケシに自発的行動があまり見られなかった事については、幼いが故の物だったのだろうと結論付けていたた
め、その変化を有り触れた「成長によるもの」と定義した。それがイレギュラーだという事に気付かないまま。
ラグナロク内ではオリジナルと目されるシャモン。しかしタケシはある男の意図により、彼女を超える素養を密かに、強引
に宿されていた。原種に等しいレリックヒューマン、その大きく仕様が異なる二種の掛け合わせという手法によって。
その、ロキがドナー情報の片方を偽ってまで試みた、無理がある「素材の掛け合わせ」は、本来は正常な人格が宿らないと
いう結果に落ち着くはずだった。
誰も、研究者達はおろか、この時に「ひとらしさのタネ」とでもいうべき物を得たタケシ当人も、それを促したニーズヘッ
グすらも、それがどれほど重大な変化をもたらす事なのかは把握していなかったが、この邂逅こそが、後のタケシがどうなる
かを決定付けた。
色濃く帝の血を引く一方と、別系統のもう一方の、天然のレリックヒューマンとの掛け合わせ。強力ではあるが自発的な行
動ができず、道具に過ぎない存在となるはずだったタケシは、この時にひととなるための素養を得た。皮肉にも、後にラグナ
ロク最高幹部のひとりとなる男の子がきっかけで。
そして後々、徐々に、タケシは感情の起伏は小さいながら、少なくとも自分の意思を持つ「ひと」となっていった。
結果、情を知り、愛を知り、哀を知り、「終わる世界」という一つの結末を回避した。
世界の総体など知らず、しかしその街を知っただけでも、護りたいと思えるだけの価値を見い出したから…。
一方、水を取りに行ったはずのスレイプニルは…。
「遅かったじゃないか?」
レーション開発を主に行なっているラボに入った所で、軍服姿の赤毛の女性から咎めるような目を向けられていた。
「済まないゲルヒルデ。ニーズヘッグの体調が気がかりで、必要以上にスローペースで散歩してしまった」
灰馬は自分よりだいぶ小柄な女性に耳を伏せながら頭を下げた。
「まあ、貴方の事だからそうじゃないかとは思ったが。ゴメン待たせたね、冷蔵庫を開けてくれるか?」
ゲルヒルデと呼ばれたサバサバした女性はラボの研究員に声をかけ、資材保管用の高性能冷蔵庫を開けて貰うと、中から手
提げのついた紙箱を取り出した。
「これが注文のケーキだ。モンブランやチーズケーキなど五種類入っている。まさかどれも嫌いという事はないだろう」
「気遣い感謝する。やはり貴女に頼んで良かった」
目を細めて受け取るスレイプニル。親しく面倒を見ているオーズ達が不在となったが、せめて彼らの代わりに少しでもニー
ズヘッグを喜ばせてやれればと、馴染みが深い同僚に頼んでケーキを調達して貰っていた。
「相変わらずマメだな、貴方は」
ゲルヒルデは凛々しい顔に微笑を浮かべる。自分を旧式の兵器と定義している灰馬は、しかし下手な新型エインフェリアよ
りも、ひとの情緒を、感情の機微を、汲み取ろうと努力する。
だから、ゲルヒルデは思う。
死体を再生して生み出された彼らと、ひとに造られた自分達と、生粋の人類…。その心の有り様に違いが有るのだろうかと。
その疑問こそが彼女がラグナロクに居る理由。ひとと認められない彼女は、自分達を拒絶した世界をどうしても正しいもの
と思えなかった。
自分達は、先進国政府連合の要請を受けたフィンブルヴェトに造られた。なのに自分達は、先進国政府連合の決定で抹殺対
象となった。
自分達を造り出す技術を確立させた男は、こうなる事が判っていれば、兵器に人格など宿らせなかっただろうに…。
海原を裂いて、五つの船影が駆ける。
異様な速度で海面を走りながらも、一糸乱れぬ五隻はラグナロクの小型高速艇。個人所有のクルーザーのように偽装されて
いるそれは、秘匿事項関連技術や遺物によって組み上げられた、最新鋭の先行量産型である。
「おお、好いな好いな!やはり陸上も水上も向かい風は強い方が心地良い!しかし新型は違うなぁ、乗り換えて正解だった!」
白いジャガーは高速艇の舳先付近に立ち、目の上に庇を作って上機嫌。
「流石にグリンブルスティやヒルディスヴィンには劣るでしょうけどねぇ」
風の影響を受けずに届いた涼やかな女性の声はヘルの物。しかし甲板上に姿がないどころか、彼女は船室でワインを楽しん
でいる。会話が可能なのは、彼女の術により振動する空気帯が二者間で接続されているおかげである。
「それは仕方なかろうよヘル。あちらは100パーセント旧時代オリジナルのレリックで構成されて、しかも多目的戦闘二輪、
設計思想も運用も異なっていた。…また乗りたかったなぁ…」
フィンブルヴェト陥落の際に失われた一台と、先進国政府連合に鹵獲されるのを避けるべくジークによって解体されたもう
一台の二輪車を思い出し、しみじみと漏らしたオーズは、
「…ん?」
不意に振り向く。視界の隅に捉えたのでも、音が聞こえたのでもなく、直感で。
巡らせた視界に入ったのは、減速して回頭に移る一隻。
「一番艦?どうかしたのか?スルトが乗船していたな…」
「はい?」
ヘルは言われて気付いた。盟主を乗せた小型高速艇の方向転換に。
そしてその直後、各幹部に緊急連絡が入った。全員が耳を疑うような連絡が。
先進国政府連合が、残存していた半壊状態のビフレストを回収した。
その報せに加え、かつてロキがジークに奪われたグリモアの反応も検知されている。
スルトはただちに阻止に向かい、ロキも出撃する。本部に幹部が不在となるため、フレスベルグが護りに入る事になり、後
方を航行中だった兵員輸送船から小型高速艇で引き上げた。
(偶然か…、必然か…、やれやれ)
白いジャガーは耳を伏せて目を細め、ガシガシと頭を掻いた。
先陣をヴィゾフニルとその部隊が、二陣を自分の部隊とヘルが、後詰めをフレスベルグが固め、さらにスルトが控える万全
の布陣。オーズが提案したその案は、寸前で覆された。
スルトもフレスベルグも兵力は残してゆくが、痛手という他ない。
元々タイミングが決まっていた作戦行動、ここまで来て中止する訳にもいかなかった。何より…。
(先送りにしたとして、その時は俺がもう居ないしなぁ…。それに…)
困り顔から一転し、ジャガーの面持ちは鋭いものに取って代わる。かつてフィンブルヴェトで辣腕を振るった、戦士の貌に。
(スルトの手をこれ以上汚させずに事を済ませる、最後のチャンスでもある。今回王手をかけられれば、黄昏は一年かけずに
世界に勝てる)
もはや仕切り直すという選択肢は無い。最も犠牲を少なくし、最も盟主の名誉を汚さずに、事を済ませられるタイミング…
それが今である。
今の世界からは存在を認められない者達が「普通に生きて死ねる」世の中ができればいい…。同胞達がその世界で穏やかに
暮らしていければいい…。それが、オーズが望んだ未来。そして、彼自身はそこに自分が暮らせなくとも構わない。天寿は天
寿と割り切っている。
(「オペレーション・ヴィジランテ」…。アイツの事だ、必要と判断すればあの最悪のシナリオも受け入れるだろう…。あん
な事をスルトに強いる前に、世界が新しくなれるのなら…)
むっくりした影が二つ、奥羽山中の雪道をゆく。
舗装路ばかりではない河祖郡は、国道指定された道すら所々砂利敷きのままで、勾配がきつい道もあれば、雨が降ればぬか
るむ道もあり、お世辞にも歩き易いとは言い難い。しかしそれに文句を言う者は特に居ない。それが普通であり、災害などで
道が損壊すれば自力で復旧させるのだから。
そんな起伏に富んで風光明媚な、歩き難いが景色はいい道を、苦にせず歩いているのは熊の夫妻。
片や大柄で肥っている、そろそろ老齢にさしかかろうかという歳の熊。片やふっくらした、穏やかそうで品の良さそうな婦
人。歳はだいぶ離れているので、夫は体毛に混じる白い物が目立ち始めているが、妻の方はまだまだ若々しい。
夫の腕には金色の幼い仔熊が抱かれ、棒が付いた渦巻き模様の大きな飴を舐めている。
ギュッギュと音を立てて雪を踏み締め、神代夫妻は夕暮れまでもうしばしという空の下を、娘を連れて坂を登る。
夫妻は、良い肉が手に入ったしクリスマスだからとイヌサワ家の夕食に呼ばれ、河祖中へ赴く途中である。公的な用務では
ないので供も連れていない。
「河祖中に行くときは機嫌が良いのぉ」
金色の小熊を胸に抱いて歩んでいた熊親父は、上機嫌の娘をおもむろに持ち替えて高い高いする。
「シバユキ君と遊べるのが嬉しいんです。ねぇユウト?」
トナミから顔を覗きこまれ、「ひばゆき!」と元気よく応えるユウト。
ユウトはイヌサワ家の息子が一番の遊び友達で、ちょくちょくトナミに連れて行かれる。あちらの子と比べると操る言葉の
レパートリーも、覚えるペースも遅く感じられるのだが、その半面だいぶ活発で、猫のように木に登ったり縁の下に潜りこん
だりと、野生動物のような運動性と多動さが特色になっている。
もっとも、言う事はそれなりに聞くし、オヤツを預けておけばだいたいの場合しばらく大人しいので、手間がかかるという
程でもないのだが。
(しかし、晩飯に誘われるなど本当に久しい。アイツも随分と堅苦しくなったモンじゃからのぉ…)
シバイは歳若い頃にユウキの側役をしていた男。たまには夕餉を…と誘われれば尻が軽い神代当主は即座に応じる。
以前のユウキとシバイの関係は、かつてのユウヒとヤクモの関係にも少し似ていた。歳はだいぶ離れており、若当主に引っ
張り回される見習い御庭番という構図ではあったが、公私の「私」部分にあたる付き合いがだいぶ深い。
互いに妻を娶って落ち着いたためか、若い頃のようにつるむ事はもう稀になっているが、それでもユウキにとっては気の置
けない相手である。
「馬刺を食うのも久方ぶりじゃ。いつだったか、アイヅの客人に貰った馬刺は良かった。火の国の品と比べるとサシが少ねぇ
分甘味は薄いが、あれはあれで噛み応えがあっていい」
「タレを付け過ぎないように気をつけて下さいまし。もう若くもないんですよ」
「判っとる判っとる」
絶対に判っていない返答を堂々とする熊親父。夫の生活習慣病が気になる婦人。
なお、同行していない一家の長男は、その頃…。
「ユウヒさん。風呂湧いてますから、飯の前にどうぞ」
太った虎の少年が洗面所を覗いて声をかけると、溜めたお湯でザブザブと手を洗っていた農作業後の赤銅色の熊は、肩越し
に振り返って「おお、かたじけない」と耳を立てた。
身長が250センチ近くまで伸びた若熊は、手を洗うだけで洗面台がやけに狭そうに見える。
ちょくちょく出向く短期滞在での稽古。繰り返し通うユウヒは、もうすっかり祖父の家での暮らしに馴染んでいる。
「晩飯は豚汁です」
「それは今から楽しみだ」
目を細めて口角を上げたユウヒは、
「「19」が頑張りました」
虎がそう続けた途端に耳を倒す。「15」が無表情だった意味がよく判った。
「大丈夫です。クリスマスですから他にチキンも用意します。食べ物はありますから」
虎の代替え提案。
「…うむ。楽しみだ…」
真顔のユウヒ。
とはいえ、以前のような表情に乏しい仏頂面とは異なる、感情の変化がある真顔である。
随分変わったと、「15」は思う。
ぎこちなくて堅かった巨熊は、厳めしい顔に浮かべる表情をよく変えるようになった。厳かで穏やかで、静かで緩やかで、
言葉遣いもそうだが祖父にだいぶ似てきた。前よりだいぶ感じが好いと思える。
「塩分は何とかします」
「助かる」
「野菜類は「16」が、渡す前に一度蒸すと言っていたので、前のようにはならないはず…」
「そう…、か…」
少し安堵した表情を見せるユウヒ。
以前、狐の子が張り切って拵えた豚汁は、ゴボウがほぼ生で、噛むとボリッグシィッと鳴った。何故か一口大の塊のように
なっていた大根や人参やジャガイモは中がかなり生で、噛めば噛むほどジョリジョリした。なお、肉だけは徹底的に過熱され
たらしく、ボソボソだった。「あれ?こうなるはずないのに」とは調理した「19」の弁。
「何はともあれ立派な物だ。遊びたい盛りのあの歳で、家事手伝いを自ら申し出るのは…、うむ。立派だ」
タオルで手を拭いながら頷いたユウヒは、もう子供達ともすっかり馴染んでいる。
修練のために訪れているとはいえ、ここでの交流もおろそかにはしない。時に遊戯に付き合い、戯れられる事も避けず、真
心をもって接している。ユウヒにとってここの子供達は、己が護るべき民が可視化された存在であり、象徴でもある。
厳かに、しかし穏やかに、日に日に祖父に似てゆくユウヒは、しかしあまり自覚していない。言動やら何やらが凄まじい勢
いで若く見えなくなってゆく事に…。
「では遠慮なく、ひとっ風呂馳走になってこよう」
「はい。上がる頃には仕度ができてるはずですから、囲炉裏の間に来て下さい」
「うむ、心得た」
「15」が顔を引っ込め、ユウヒは下着を取りに部屋へ戻ってから風呂場へ向かう。
もうじき雪が厚く積もる。時期を見込んで冬野菜を仕込むのは、体が芯から冷えて指先が凍える重労働。身を清める以上に
体が温まるのは有り難い。
が、どうやら先客が居たようで、脱衣場の籠には見慣れた作務衣がきちんと畳んで収められており、床には木の棒に受け皿
のような器具と固定用ベルトがついた物…簡素な義足が寝かせてあった。
(御爺様も風呂か)
先ほどまで一緒に農作業をしていた祖父が、既に入浴中らしい。
風呂場は広いし気兼ねする必要もない身内なので、ユウヒも作務衣を脱いで手拭いを取り、「御免」と声をかけて擦りガラ
スの引き戸を開ける。
沸いたばかりでまだ若い湯気が漂う、心地良い空気の浴室内には、大柄で肥り肉な老熊の姿。
「ユウヒか」
壁際のシャワーと向き合い、床に直接尻を据えているのはユウヒの祖父、ユウゼン。褪色が進んで白毛も増えたので、全体
的に淡い色の被毛になり、歳のせいでだいぶ体も弛んでいるが、それでも逞しさは損なわれていない。肩幅も四肢の太さも充
分ある。
義足を外したユウゼンは既に頭から湯を被って清めていたようで、膝下から先が無くなった切り株のような右足を仕上げに
洗っている。
「御邪魔します」
断りを入れて隣に並び、どっかと腰を下ろしたユウヒがシャワーヘッドを取る。もうユウヒの方がだいぶ大きくなったので、
座っていてもなお大柄なユウゼンは頭一つ近く目線が低くなる。
「今晩は豚汁だそうだ」
「はい。今しがた「15」から聞きました。「19」が頑張ると…」
孫の声はいつも通りだったが、
「そう不安がらずとも良い」
内心を「感知」したらしく、ユウゼンは微笑する。
「実は、前回の失敗は本人にも相当堪えたらしく、あの子は密かに…おっと」
突然言葉を切る老熊。先が気になって思わず横目を向けるユウヒ。
「ここから先はお楽しみ、という事にしよう」
悪戯っぽく微笑む祖父の横で、これ以上の話はたぶん聞けないだろうと悟るユウヒ。
実は、次にユウヒが来るまでにはと、子狐の「19」は頑張って豚汁作りを練習していた。驚かせようと皆にも内緒で、祖
父の指導をこっそり受けて。その結果、一品特化ではあるが、豚汁だけは美味しく作れるようになっていた。
「19」だけではない。他の子供らもみんなユウヒが来るのを楽しみにしている。勿論、ユウゼンも。
老熊は、やっと成人した孫と酒を飲むのを楽しみにしている。
父と祖父の教えあってか、ユウヒは若いながらも酒の嗜み方はもう弁えており、音を立てずにクイッと煽る仕草が既に様に
なっている。
好みは磯物と辛口の酒の組み合わせだが、どうにもこれは父譲りの好みのよう。
今夜はクリスマスイブ。子供達はサンタクロースからのプレゼントが楽しみで、一日中ソワソワしていた。
楽しい夜になりそうだと、ユウゼンは笑みを深くする。
そして、再び河祖群。
「うん?」
河祖中村に入ってすぐ、熊親父は立ち止まって首を巡らせた。
夕暮れの空き地で遊ぶ子供の声。暗くなるから家に入れと子供を呼ぶ母親の声。塒に帰ってゆく鴉の声。
いつもの、平和な村の姿がそこにある。
(…気のせいか)
太い首を軽く傾げるユウキ。ユウトが抱えられたまま、遊んでいる子供達に混ざりたがってモゾモゾと身じろぎして、足が
父熊の出っ腹を蹴る。
「我慢じゃ我慢。美味い飯とシバユキが待っとるからのぉ」
「ひばゆきんち!いぐ!」
応じたユウトの期待に満ちた笑顔を見返し、ユウキはニンマリ笑う。
一方…。
(何かしら?静か…いえ、こんなに賑やかなのに?)
夫が一瞬覚えた違和感に、近いが少し異なる物を、トナミは捉えていた。しかし自分の印象がすぐに思考で否定され、違和
感の正体が判らない。
静か。そう感じた理由が判らない。遊ぶ子供ら、家から呼ぶ声、いつも通りの河祖中村の風景に、おかしな所は何もない。
(変ねぇ…)
婦人は不思議がりながらも、ユウキと同じ結論を出した。
しかし、その違和感は、本当は間違ってなどいなかった。
「第五チェックポイントの通過を確認しました」
白い雪中迷彩服に身を包んだ灰色熊が、通信機に報告する。
杉の木の枝の上、折れそうにしなったそこで長大なボルトアクション式ライフルを担ぎ、取り外したスコープで神代一家の
入村を見届けながら。
もしも灰色熊に撃つ気が微塵でもあったなら、一瞬でも攻撃という考えが頭を過ぎっていたなら、たちどころにユウキは嗅
ぎ付けていただろう。しかし、殺気は一切発さず、ただ監視だけを行なう灰色熊の卓越した気配の抑え方もあって、結局は違
和感を気のせいで済ませる程度にしか反応できていない。
バッソ・ソリッドゲイル。ラグナロク中枢幹部直属の戦士、通称「エージェント」のひとり。オーズ配下にある彼の高い質
は、神代の御庭番達や、裏帝の眷属達すらも軽く凌駕する。そんな存在が監視網を抜けて接近していた事など、神代夫妻も予
想できていなかった。
「御苦労。あとは第六ポイントからの監視報告を待つ。こっちに引き上げて準備に入ってくれ」
『イエッサー』
通信を終えた白いジャガーは、整列して待つ兵士達を見回し、「ここまでは順調だ」と現状を告げた。
河祖中村にほど近い山中に潜む彼らは、格好こそ同じ雪中迷彩の戦闘服だが、全員が様々な、統一感のない種類もバラバラ
な銃火器で武装している。
連射機能を備えた拳銃を両腰に帯びた者。サブマシンガンを腿にホールドした者。ベルトでアサルトライフルを肩からかけ
ている者。主武装の他にランチャーを脇に置いている者も数名見られる。
命令さえあればすぐにも動ける状態で待機している兵達は、十四名全員が獣人で、大半が熊種。彼らはアサルトベアーズと
いう総員二十名の部隊。部隊名は設立当初のメンバー六名が偶然にも全員熊だった事に由来する。
彼らは戦闘が主任務となる実働部隊だが、その特色は驚異的な任務達成率にある。メンバー全員がエインフェリアであり、
エージェント候補になり得る戦闘力を有する。少数精鋭部隊という括りで見ればラグナロク内でも最強の戦闘集団と言えた。
「予定通りに行動する。もう武装の最終チェックをしておいて構わないぞ?」
隊員達が口々に『イエッサー』と応じ、座り込んだり屈んだりして、思い思いに武器のチェックに取り掛かる。オーズは点
検作業を行なっている兵達の間を歩いて見回るが、目についたひとりに「ヴェル」と声をかけた。
無表情な顔を上げたのは、雪面に座り込んで長大なボルトアクション式ライフルを手入れしていた灰色熊。バッソと似た毛
色で、同じような体格の、ガッシリした筋肉質の固太りである。
「肩の力は抜いておけよ?確かに強敵ではあるし、緊張するのも判るが…、なに、やる事もできる事も普段と同じだ。いつも
通りと考えて取り組め」
「…了解であります」
応じた灰色熊は再び視線を落とし、ボルトの前後動作のチェックに戻る。
無言で片眉を上げるジャガー。
ヴェルナルディノ・ソリッドゲイル。部隊の中で最も不安なのがこの灰色熊だった。
間違いなく精鋭ではある。戦闘能力、作戦遂行に必要な各種技能、それらは問題なく備えている。ただ、本人は任務の効率
的遂行のためか、余計な事を考えないようにしているようなのだが、それが行き過ぎてしまうきらいがあり、独自判断にやや
不安がある。フィンブルヴェト壊滅後に製造されたエインフェリアなので、経験不足という部分もあるのだろうが…。
(まぁ、今回は後方狙撃に徹するように言ってある。無茶はしないだろう)
一方、オーズ達が待機しているのとは逆方向、河祖上村と河祖中村の中間を見張れるポイント付近では…。
「動き出せばワシらが主役だ」
白い戦闘服に身を包んだチベタンマスティフが獰猛に唸る。
持ち込んだ物資がおさまっている木箱に腰掛ける彼の周囲には、雪中迷彩装備で身を固めた六十余りの兵士。特筆すべきは
アサルトライフルを持ちながら、全員が手斧や剣など、本格的な近接戦闘用武装を帯びている事。
トナミが覚えた違和感は、彼女から見て村の向こうにあたる方向で、山中の鳥達が潜んでいるチベタンマスティフらの殺気
を察知し、極々近い範囲でのみ静まり返っていたせい。つまり環境音が数種類減っているが故の物だった。
ヴィゾフニルの足元には、雪を赤く染めて倒れ伏している犬獣人二名の姿。ただし、その胴体と頭は分かれており、一方は
垂直に雪面に立って舌をべろりと吐き出し、もう一方は横倒しで、チベタンマスティフの右足でボールのように踏まれている。
河祖上村の御庭番、今日のこの時刻の巡回当番であった彼らは、接敵の報せを持ち帰る事はできなかったが、配備の情報も
吐かなかったのでヴィゾフニルの腹いせに殺されている。
ラグナロクの幹部の中でも、最も好戦的で最も残忍な武闘派なのがこの男。開戦の時を、虐殺の時を、「仕込み」が働く時
を、今か今かと待っている。
かくして、クリスマスイブ…河祖中村最後の一夜が始まる。