第四十二話 「ラタトスク」

「あら神代の奥さん!」

 イヌサワ家に着く直前、呼び止める声に振り向いた夫妻は、猪の壮年女性を認める。

 まだ歩みもおぼつかない孫をあやしているのは、早めのお歳暮を貰ったばかりの相手だった。

「先にお邪魔しててください。私ちょっと挨拶してきますから」

 トナミに促されたユウキは、「あんまり長話するなよぉ」とニヤニヤしながら、ユウトを連れて先にゆく。

 その様子を…。

 

「ん?ウォーマイスターの奥さんだけが離れた?」

 報告を受けるなり眉根を寄せた白いジャガーは、『如何しますか?全員入るまで見届けるべきでしょうか?』と指示を仰ぐ

見張りに、

「いや、そこまででいい。ウォーマイスター・クマシロが家に入るのを確認するのが目的だ。奥さんはそもそも警戒対象では

ないし、来なかったら来なかったで構わなかったしなぁ…」

 オーズは考えながらも部下に撤収指示を出し、すぐさま近くの熊達にヴィゾフニルの部隊と別働のヘルに連絡を入れさせる。

あとは実行部隊の判断に任せよう、と。

「さて、あとは連絡を受け次第ヴィゾフニルが動く。こっちは基本的に援護と掃討だ。が…」

 オーズは部下達を見回し、一拍の間をあけてから続けた。

「状況に関わらず俺も打って出る。以後は各自の判断に任せ、臨機応変な対応を期待する。…一応はバッソ。何かあればお前

が皆を指揮してくれるか?」

「イエッサー」

 灰色熊が背筋を伸ばして敬礼で応じると、オーズはその逞しい胸をノックするように軽く叩いて笑う。「頼んだぞ」と。

(さて…。ヘルの事だし「中の方」は抜かりないだろう。ヴィゾフニルが痺れを切らしそうなのだけが心配だが…)

 会った事は無いが、一度交戦したスルトから話を聞いて把握している。ウォーマイスター・クマシロなる男が、どれほど危

険な存在なのかは。
少なくとも、重要な目的を前にして動いていたスルトが、それでも排除し損ねたほどの強者という事にな

る。自分かヴィゾフニル以外が直接交戦するのは危険過ぎる。それどころか、場合によっては自分達ですら危うい相手…。

(跡継ぎになるはずの長男が不在なのは有り難いが、それで安心しては油断が生じ、油断が生じれば敗北もままある。さて…。

逸ってはいけないと、舐めてはいけないと、ヴィゾフニルは理解してくれているだろうな?)

 

 

「来たぞシバイ!」

「ひばゆき!」

『いらっしゃいませ御当主!』

 朗らかに門を潜ったユウキとユウトを、黒い艶やかな被毛が美しいシバイの妻と、詰めている御庭番達が出迎えた。

 犬沢家はこの河祖中を固める御庭番の詰め所も兼ねるため、常時それなりの人数が駐屯している。来訪予定を聞いていた皆

は、一時手を休めて集まり、揃って当主を出迎えていた。

「どうぞお上がり下さい。お嬢様も」

「うむ。今夜は厄介になる」

 ニンマリ笑うユウキと、そのやや品のない笑顔を真似しようとして可愛らしいニッカリ笑いになったユウトは、婦人に案内

されて家に上がる。

 ユウトにとっては実家の次に馴染んだ家、シバユキはどこかなと、抱き上げられたままキョロキョロしている熊の子の口元

からは笑みが絶えない。

「どうぞ」

 先に立って案内した婦人が襖を開ける。そこには、正座しているスラリとした柴犬の姿。

 犬沢芝居。家の主は、上座を空けてユウキを待っていた。

 広くはない和室だが、床の間には掛け軸と生け花が飾られ、今日は御香も焚かれている。

「ご足労、申し訳ございませんユウキ様」

 深々と頭を下げ、平伏するシバイ。

「相変わらずかったいのぉ!晩飯に呼ばれて労も何もあるか」

 笑うユウキが上座に向かい、腰を下ろす。シバユキは来ないのかと、キョロキョロするユウトだったが…。

「お嬢様はシバユキと遊ばせても構いませんか?」

 もてなしの茶を出した婦人が申し出て、金熊を促す。

「…む?あ~、そうじゃな。仕度ができるまでは…」

 一瞬何かに気を取られた様子になったユウキは、婦人の申し出に頷いた。そして…。

「シバイよ、何があった?」

 金熊と婦人が退室すると、しばし待ってから口を開いた。

 焚かれた御香と、抹茶の匂いが漂う中に、ユウキは嗅ぎ取っていた。

 嗅ぎ慣れた匂い…血臭を。

「………」

 シバイは顔を俯ける。その翳った表情の理由は…。

 

 

 

「し、シバイと申します。ふちゅつか者ですが、よろしくお願い申しゃげます…!」

 ろれつが怪しくなっている柴犬…ようやく少年と呼べる年頃になりつつある子犬は、頭を下げたまま軽く震えていた。

 茶の仕度がされた和室。ふたりきりで面会している相手は、赤茶けた被毛を纏うゴツい体躯の熊…神代熊鬼。

 元服前の奉公…一種の社会勉強として神代家で住み込み雑用係となり、ユウキの傍仕えを申し渡されたシバイは、緊張で震

えが止まらない。

 父のユウゼンが人格者として敬愛されるのに反し、息子の方は「まるで違う」と噂に聞いている。腕は立つが、とにかく乱

暴で我侭だと…。

 機嫌を損ねたらどんな仕置きをされるかと、戦々恐々なのだが…。

「承った」

 挨拶を受けて返されたのは、野太い声の短い返事。とりあえず機嫌は損ねなかったとホッとしたシバイは…。

「が」

 続けてユウキが発した声でビクリと大きく震える。恐る恐る顔を上げると、そこには盛大に顰められた厳つい顔。

 不興を被った。シバイの背中を冷や汗が伝う。

「堅い…」

 一言、溜息とともに吐き捨てるユウキ。「え?」と思わず声を発したシバイに、熊は顰めっ面で続けた。

「堅い堅い堅いわ。湿気た煎餅か?子供がしかつめらしい面で挨拶をするのは、まぁ可愛いと見る向きもあるじゃろうがよぉ、

そんな態度で傍仕えされちゃ、こっちの気がてんで休まらねぇわ」

 立派に、上品に、と背伸びして振舞おうとするシバイの態度を、子供が強いられた無理と断じたユウキは、胡座をかいてい

た足をパンパンと不機嫌そうに叩く。

「す、済みませ…」

「詫びる所でもねぇわ!そういうのも堅ぇ!」

 言葉を遮られて泣きそうになったシバイは、おもむろに腰を上げたユウキにのっそりと間を詰められ、息を飲み込み…。

「釣りに行くぞ。付き合え」

「…え?」

 何を言われたのか理解できず、そしてそれに返事もできず、伸びてきた腕に後ろ襟を捕らえられたシバイは、ヒョイッと猫

の子のように持ち上げられる。

「え?え?え?」

 混乱して目をグルグルさせるシバイを片手で吊るしたまま、ユウキは部屋を出て使用人に外出の用を告げると、倉庫に寄っ

て釣竿と魚籠を取り、そのまま山に分け入った。

「ほれ」

 やがて辿り着いた渓流が溜まった淵で、シバイは押し付けられるように釣竿を渡された。戸惑う彼を尻目に、ユウキは手頃

な岩に腰を下ろして流れに竿を投げ込む。

「何も難しい事をしろとは言わん。歳をとったらそれなりに頼む事も増やすが、当面の仕事は羽根伸ばしの付き合いじゃ。…

いくら御庭番の子で将来が決められとってもじゃ、近所の子と普通に遊んどったじゃろう?遊びたい盛りには遊びたい盛りの

役目がある。今は遊びに付き合え」

 広い背中を困惑顔で見つめるシバイは、

「遊びに…?」

 そう呟いてから、ポロリと本音を零した。

「それならぼくにもできそう…」

 これを聞いて耳を立て、肩越しに振り向いたユウキは、

「よし!」

 ニカッと、人好きのする笑みを見せた。

 それからだった。シバイがユウキに抱いていた印象が変わり始めたのは。

 がさつで乱暴で我侭で好き放題、ただし自分勝手なようで世話は焼くし責任も取る。そういうひとなのだなぁと、子供なが

らに理解でき始めた。

 

 元服して御役目に就くようになった時、初陣ではユウキの近衛を命じられた。

 何かあっても手が届く範囲ならどうにかできる。そんなユウキの配慮で傍に置かれたというのもあったが、理由はもう一つ。

戦況の情報を仲間内で共有するための連絡役として、本陣であり戦力の要でもあるユウキの口と耳として働く者に、シバイこ

そが相応しいと判断されていた。

 ユウキの傍仕えとして気心を理解できるのもあったが、足が速く身が軽いシバイは、最低限自分の身を守れる伝令役として

適任。ユウキ本人だけではなく、御庭番頭の推薦もあっての抜擢だった。

 そんな初陣は、何が何だか判らない内に終わった。

 必死になって指示を伝えて戦況を監視して報告して…。集中していたのもあったが、懸命に働く内に終わっていた。

 危険生物の首級は一つもあげられなかったが、それでいい、とヤギもユウキも満足げだった。

 目先の判り易い手柄に拘るよりも、全体に貢献できる活躍ができるのは美点だと…。

 

 シバイはあまり「強い」とは言えない御庭番だった。

 徒手空拳に暗器の扱い、刀術に投擲術と、体得した技能は非の打ち所がなかった。だが、神代式の操光術を扱う者や、実戦

向きの能力を持つ者が目立つ中、単純な戦力としては中程度といったところ。

 ただし、隠密行動や偵察、潜入工作などには若い内から際立った才覚を見せ、非常に役立った。よって、強い御庭番ではな

かったが「頼りになる御庭番」と、皆から評された。

 これについてはユウキも同様で、シバイを高く評価した。側役だから持ち上げるのではなく、手柄で持ち上げられる。それ

が嬉しいと、酒を飲んで舌が緩むとよく漏らしていた。

 失敗した事は殆どなかった。だから信頼もされた。皆が寄せる信が、主君が寄せる期待が嬉しくて、張り合いがあった。ど

んな危険な御役目でも、怯まず竦まず対応した。皆のために。主のために。

 

 妻とは、御庭番頭のヤギの勧めで会った。ユウキは何故か、「そんなに急いで身を固める事もなかろうに」と漏らして、判

り易く不満げだった。

 個人的には身を固めるのを急ぐ必要はないと思っていたが、ヤギの顔を立てるためにも、とりあえず顔だけあわせておこう

と、見合いの席にも似た茶会に応じた。

 意外だったのは、断る前提で臨んだその席で、相手を気に入ってしまった事。

 そういう席で、そういう人物が引き合わせるのだから、着飾って立派に見えるように振舞って当たり前。品が良く見えて当

たり前。見栄えが良くて当たり前。

 …だったのだが、その女性は自己紹介の後ろの方で、緊張のあまり思い切り舌を噛んだ。動揺したようで、手が派手に震え

出して茶を零した。庭園を一緒に歩いた際には、慣れない着物が災いして、飛び石に躓いて派手に転倒した。

 とにかく何から何まで不安なひと…というのが第一印象。妻として好ましいかどうか以前に、頼りなくて心配になった。

 彼女が転んで鼻血まで出したため、茶会は中断。明確な答えも出ないままお流れになったのだが、しかしそれが縁になって、

シバイは彼女と時折会うようになり、よく気がつくのに上がり症で、小まめなのに失敗が多い、その人柄と性質を気にかけな

がら好意を深めていった。

 派手さはない、取り立てて美人でもない、しかし気兼ねしなくていい相手となったその女性を、結局シバイは妻に選んだ。

 恋愛というよりは、好感が深まっての「このひとなら良いかもしれない」という結論。盛り上がりに欠けるとはユウキの弁

だが、シバイはそれもまた地味な自分らしいと感じた。

 仲は良かった。ちょっと親しい顔見知りという関係の延長から、入籍後に親密さを深めていったので、一緒に暮らすように

なってから初めて気付く事も多かった。

 ワラビ餅を作るのが何より上手だった。よりによってどんなオカズより菓子が上手いのはどうなのだろうかと、本人も若干

気にしていたが、それも面白いしワラビ餅は嫌いではないと、シバイはそこを気に入った。

 布団叩きが上手かった。枕も敷布団も上手い具合に空気が入ったフワフワの状態に仕立てた。針仕事より得意なのはどうな

のかと、本人はやや気にしていたが、寝心地は良いし立派な特技だと、シバイはそこも気に入った。

 子をあやすのが上手かった。幼い子の扱いなど初めてで判らないと言う割に、赤子の世話は誰の手伝いも必要とせず、ひと

りでテキパキこなして、なお余裕があった。この特技にはシバイもビックリした。

 結局、妻が自分にとっては一番の女性だったのだと、シバイは思う。

 良い伴侶に恵まれた。良い子供を授かれた。自分は幸せ者だ。この家族が守れるなら、他に何も要らないとすら思った。

 思っていた。

 

 暗がりに、なまめかしく浮かび上がった脚。

 見慣れた妻の、太腿の所で切り離された右足を、シバイは血の涙を流して凝視していた。

「聞き分けがなかったので、残念ながら」

 初めて会うリスの男は、悪びれる風もなくそう言った。

 その横で、畳の上に立っていた。

 ぼんやりとした、泣き疲れたような顔の、妻の首が。

「お子さんには怪我などさせてないので」

 リスの男は脇に仔犬を抱えていた。気を失い、ぐったりしたシバユキを、荷物のように。

「声を上げるのはやめた方がいい。でないとこの子も…」

 リスが笑う。シバイの反応を上機嫌に観察しながら。

 家族が待っていたはずの寝室。むせるような血生臭い寝室。

 遅くなった自分が悪いのか。付近に現れた危険生物が悪いのか。討伐を命じたユウキが悪いのか。

 否。否。否。

 悪いのは、この目の前の…。

 なのに、何もできない。我が子の首が押さえられている。何も、できない。

 

 

 

 これは、正しい事では決してない。

 これは、赦される事では決してない。

 これは、認められる事では決してない。

 それでもなお、それでもなお、シバイはそうしなければならなかった。

 大恩ある主に、絆を育んだ仲間に、守らねばならない民達に背いても。

 

 

 

「………」

 無言のまま、ユウキはシバイを見つめる。

 そうせねばならなかった。その罪悪感に陰った目元を、じっと…。

「よほどの理由が、あるんじゃろう…」

 やおら、ユウキは湯飲みを取って一気に飲み干す。

 ゴクリと鳴った熊親父の喉が上下する様を見て…、

「…申し訳…ございません…」

 詫びの声を呻くように漏らしたシバイの口元から、赤黒い物が零れて顎下に向かう。

 ゆらりと、シバイの上体が揺れる。

 腰を浮かせたユウキが素早く手を伸ばす。

 倒れ込むその身を抱き止めた熊親父の腕には、深いに湿ったジュクリとした感触。鼻先に漂うのは濃い血臭。シバイが羽織っ

た着物の腹が、湧き出るような赤黒さに染まってゆく。

 影腹。切って十一時間の生き地獄。

 主に叛き、害を為す我が身を、シバイはあらかじめ誅していた。長く苦しむよう、すぐには死ねぬよう、朝に斬って今まで

耐えた。

「何があった?」

 ユウキは、何故だ、とは問わなかった。その言葉が、シバイの胸を深く貫く。こんなひとを、自分は裏切ったのだと…。

「妻が…殺されました…」

 コロコロ鳴るシバイの喉が絞り出した声で、熊親父の首周りで被毛がブワリと逆立つ。

 では、今しがた自分が会ったのは…?

 先ほどユウトを連れて行ったのは…?

 その時、ズン…と、突然の地鳴りに足元が震えた。

 

 

 

「あら、滞りなく済んだのねぇ」

 薄暗い土蔵の中で、灰色の髪にソバージュを当てた女性が、長持ちに腰掛けながら通信機に応える。

 女性の視線は床に向いている。手足ごと荒縄で縛られて転がされた、柴犬の男の子に。

 猿轡を噛まされたシバユキは、フゥフゥと荒い息をつきながら、ヘルを睨み上げている。

 幼いながらも胆力は一級品だと、評価しながら妖艶に笑うヘル。その手には村役場から失敬してきた住民名簿。既に一通り

目を通し、名前はだいたい憶えている。

「ええ、そろそろ行くわねぇ。あとはよろしく」

 立ち上がったヘルは仔犬を一瞥し、「それじゃあね、ボウヤ」とヒラヒラ手を振り、蔵を出た。

 ひとり残されたシバユキは、ガジガジと猿轡を噛んで千切ろうとし、体をくねらせて縄から逃れようともがいたが、一向に

歯が立たず…。

 やがて、再び土蔵の扉が開いた。

 ハッと顔を上げたシバユキが見たのは、母と…。

「ひばゆき!…ひばゆき?」

 自分を見て喜び、次いで何をしているのかと首を捻る金色の小熊の姿。

(かあさま?おじょうさま?え?かあさま、なんともない…?)

 仔犬は困惑する。

 母は無事だったのか?自分の目のまで暴漢に襲われたのに。あれは夢だったのか?何かの見間違いだったのか?では、自分

がおかれているこの状況は何なのだ?

 しかし、すぐに気付いた。何やら母の雰囲気が違うと。

 薄笑いを浮かべた婦人は、子熊の背中をドンと押した。

 おっとっと、と前のめりになり、転んだユウトが転がされたシバユキの前に倒れ込む

「いたた」

 あまり痛がっている様子もないユウトの背後で、土蔵の扉が閉められてゆく。

 その狭まってゆく隙間の向こうに、シバユキは見た。

 母の顔をした誰かの周囲で、ジジッとノイズが空間を乱し、一瞬後に栗鼠の男の顔になる。

(だれ…!?)

 軍服姿の栗鼠。見た事のない顔。見知らぬ誰かが母に化けていた。ゾワリと怖気を覚えたシバユキの視線の先で、扉が完全

に閉ざされる。

「あ!おばちゃん!?」

 立ち上がったユウトは重々しい扉の音に驚いて、駆け寄って開けようとした。閉じ込められたという感覚があっての物では

なく、蔵に入った時は何かあっても判るよう扉を開けておくようにとトナミに言われていたので、開けたままでなければいけ

ないという意識から。しかし…。

「うーん…!」

 扉は開かない。閂もかかっていないのに。

 この土蔵そのものが、ヘルが細工した術のせいで、内からも外からも開かない独立したシェルターと化していた。

 ややあって、ズン…と、突然の地鳴りに足元が震えた。

 

 

 

「済みました。言いつけ通りに扉の外にカードを貼っておきましたが…」

 犬沢家の裏手、土蔵から少し離れた場所で、足早に歩み寄った軍服姿の栗鼠は、木陰の雪が薄い場所で待っていたヘルに報

告した。

「それで結構よぉラタトスク。これであのオリエンタルな倉庫は明日の朝まで「破壊対象」から除外されるわぁ」

「はあ…」

 栗鼠…ラタトスクは異議があるような表情で問う。

「何故生かすんです?」

「殺さないって約束したじゃないのぉ?まぁ、今後は判らない事だけれどもぉ」

 シバイとそう約束を交わした。今から何をするかは別として、約束は約束、守らなければならない事だとヘルは考える。

「あの犬の子供はともかく、ウォーマイスターの娘は何故隔離するんです?」

「ついでみたいなものよぉ。いざとなれば人質にもなるけど、ねぇ」

 肩を竦めたヘルの手に住民名簿を認め、

(また無駄なセンチメンタリズムか)

 ラタトスクは呆れ半分に、内心せせら笑う。

 これから皆殺しにする住民の名前や情報など、何の価値もなかろうに、と。

「さて、始まるわねぇ」

 ヘルが、ラタトスクが、空を見上げる。

 チラチラと、輝く何かが夕暮れの空から舞い降りて…。

 

 それは、黄昏空から降る雪にも似ていた。

 オーロラのように空が揺れたかと思えば、ヒラヒラと光輝いて降ってきたそれは、よく見れば、小さな羽毛のような形状を

している。

 それに気付いた住民の熟年夫婦が、はて、夕陽を浴びて光る雪だろうかと手を差し伸べる。

 それに気付いた住民の子供達が不思議がり、背伸びして触れようとする。

 鼻先に降りてきて気付いた郵便配達員が、目を寄せて見つめる。

 窓の隙間から入り込んだそれを、味噌汁を作る主婦が湯気の向こうに見る。

 ただし、儚げで美しいそれはエネルギーの結晶。広範囲に散布された超小型爆弾。

 生物に寄ってゆくように、舞い降りながら住民達に近付いて行ったその羽毛のような物は、

「起爆」

 報告を受けて高台に移動したチベタンマスティフが、燐光に覆われた右手を強く握り込んだ途端、一斉に爆ぜる。

 ズン…と、河祖中村全体で起きた小規模爆発が、その爆音を一斉に轟かせて重ね合わせ、重い音に変えた。

 中睦まじい買い物帰りの夫婦が、雪玉を投げ合って遊んでいた子供らが、夕餉の支度に戻る母が、配達を終えて局に帰る郵

便配達員が、雪掻き中の老人が、また明日と手を振りあった子供らが、夕刊を取りに玄関を出た旦那が、立ち話をしていた婦

人達が、交番前に立つ駐在が、役場の玄関に戻った課長と若手が、隣の家に煮物のお裾分けを持って行かされた娘が、首がす

わったばかりの赤子をおぶった中年女性が、尽く、肉片と骨欠と臓物と血煙を撒いて四散。原型を留めぬ残骸となる。

 その一斉爆破で、雪が積もった道が、庭先の凍った石畳が、玄関が、居間が、寝所が、あらゆる場所が血に染まり、河祖中

村の住民、及び居合わせた人数の合計625名の内、591名が死亡。御庭番については見習い含む35名の内、32名が死

亡した。

 呻き声すらない。何故なら負傷者はゼロ…損傷を受けた者はひとり残らず「死者」になっているから。

 そこかしこに転がる死体は、だいたい上半身を持っていかれている。爆発は被害者の頭部や頚部付近で起きており、直径1

メートル半程の規模で粉々に爆砕していた。よって、多くの犠牲者は胸よりも下と、両腕の先などを残すのみとなり、周辺に

は肉片と臓物が零れるように撒かれていた。

 双眸を覆うバイザーの下でチベタンマスティフの目が細められ、口角が吊り上がって、牙が剥き出しになり、獰猛な歓喜が

顔を彩う。自分の力が創り出したこの景色に満足して。

 これがヴィゾフニルの力。神代家などとは異なる、独自の進化を遂げたエナジーコート能力。河祖中村だけに降ったその羽

毛は、広範囲に散布されたエナジーコートの欠片。

「ダメ押しだ」

 チベタンマスティフが左腕を水平に伸ばす。その指先までを瞬時に覆ったエナジーコートは、猛禽類の翼を思わせる形状に

拡大される。そして、その腕の一振りに乗り、細かな羽毛がチラチラと舞い上がり、村に散ってゆく。生き残りを殺すために。

 放出主体…と分類できない事もないが、神代の技とは違い、光弾や光の奔流といった形質は取らず、ヴィゾフニルは細かな

羽毛状という特異な形態で力場を放出した。

 その特質故に、気象条件次第だがかなり広範囲での散布も可能。さらに、例えばひとの体温や火器の熱源など、周囲とは異

なる条件を設定して散布すれば、対象を絞りながらある程度の自動追尾攻撃も可能となる。

 上手く使えば建物などにはあまり被害を出さず、ひとだけを選んで爆殺できる、実に効率的な虐殺が行なえる性能。これに

加えて、自身がソレを纏えば、力場の層によってフィードバックを限りなくゼロに近付けられるリアクティブアーマーとなる。

 この能力ゆえに、ヴィゾフニルは自身を最強のエインフェリアであると自称する。スレイプニルという存在があってなお、

彼は自身の方が高性能であると確信し、公言する。

 確かに、類を見ない規模と殺傷能力、そして扱い易さを踏まえれば、能力その物は術士達の広範囲殲滅術式をも軽く凌駕す

る。基本性能その物も、現在のラグナロクが製造できるエインフェリアでは及ぶべくもない。

 かつて、フィンブルヴェトにおいて二番目に製造されたエインフェリア。

 そしてミーミル・ヴェカティーニが直接製造に携わったエインフェリア。

 それがヴィゾフニル・ターミネーター。能力名は、シニスターウイング。

 二度目の爆破が大気を揺さぶり、河祖群の空に咆哮にも似た轟音が響き渡ると、チベタンマスティフは号令を下した。

「鏖殺開始!蹂躙しつつ駆け抜けろ!到達目標はポイントアルファ「水に沈んだ塔」!阻む者は殺せ!会う者は殺せ!見かけ

た者は殺せ!全て貴重な贄となる!」

 目的地は河祖の文字の語源たる、河川の源となる山中の池。そしてそこに眠る「禍祖」…御柱、龍樹、バベルなどとも呼ば

れるメガリス。すなわち、旧世界の遺物の中でも特別強力な遺跡クラスの超巨大レリック。

 ヴィゾフニルを中心に、軍勢が展開しながら駆け始める。その鬨の声が、死者の村と化した河祖中に迫る。

 

「では、そろそろ退散しますのでヨロシク」

 ラタトスクは敬礼してヘルに別れを告げた。

 村の中でも、あらかじめ標的対象から外されていた数箇所には羽毛が降りていない。彼とヘルの周辺は安全地帯だったが、

血生臭い殲滅戦闘には付き合っていられないと、栗鼠は退散に移る。

「そう。では作戦完了後にあいましょうねぇ」

 ひらひらと手を振ったヘルは、足早に去るラタトスクの後姿を見送ってから、土蔵へ視線を移す。

 彼女が施した、師直伝の術…OZの術式に通じる短時間の位相変遷作用により空間的に隔離されているため、この蔵だけは

安全地帯となっている。全部隊にも手出し無用と通達してあるが、万が一ヴィゾフニル配下の悪漢兵士達が妙な下心を出した

としても、生半可な手段では侵入は勿論、蔵の破壊も不可能。

 対象建造物を一時的にイマジナリーストラクチャー化するカードは貴重な消耗品なのだが、ヘルはこれを惜しまず、約束の

履行のために使用した。

 術が解け、子供らが出てこれるようになる頃には、自分達がバベルを奪取し、全てが完了している予定である。

(ま、今夜限りという約束だけれどもぉ…。サービスで何処か遠くに逃がしてあげましょうかぁ)

 奪ったバベルを目指してこの国は攻撃をしかけるだろう。守ってやるのは約束外だが、せめて戦地から逃がすぐらいは過剰

ではないだろう。そう、ヘルは考える。

 無論。予定通りに行かない事もあると、想定はしているが…。

 

「では、戦闘行動を開始する」

 白いジャガーが無線機に囁くと、軍人達は統制が取れた動きで展開した。

 オーズによって命じられたアサルトベアーズの任務は、討ち漏らされて脱出を試みる者の掃討と、外周への警戒。

 河祖中を突破して充分な贄のノルマを稼ぎつつ侵攻するヴィゾフニル達主力部隊は、三村を線で結んだ三角の中心にある池

を目指す。その進軍ルートと目的地の都合上、目的地に近付けば近付くほど河祖上及び河祖下の位置関係は、部隊の両側面に

近付いてゆく。さらに、進めば進むほど退却が難しくもなり、特に行動が遅れて河祖郡以外の戦力が到着した場合は容易く包

囲されてしまう。

 この目的地に迫るほど横腹を突かれ易くなり、退路も保ち難くなる進軍を、速度を緩めずに成立させるためにオーズが立て

たのがこの作戦。

 隊のリーダーでありオーズのエージェントでもあるバッソは、先行して河祖中村を回りこみ、河祖上方面との中間ポイント

へ向かう。

 後続も来るが、まずは彼が率先してポイントを確保し、早期警戒に入る事になる。彼自身もオーズも、相対した事はなくと

も河祖郡の御庭番を舐めてはいない。ともすればすぐにでも雪崩れ込んでくると、警戒視している。

 そして、特にこの区域の防御を担っている河祖上の御庭番を重視したその警戒は、結論から言えば正しかった。

 長大なライフルを担いだまま、雪山の悪路を物ともせず、飛ぶように突き進む灰色熊からだいぶ遅れて、同じくロングライ

フルを担いだ同じく灰色熊のエインフェリアは、追走する他の仲間の姿も視野に捉えながら殿を務める。

「ヴェル」

 オレンジに近いライトブラウンの熊女性が、並走しながら灰色熊に話しかけた。

「オーズは寿命が近い。今回の作戦で自分の身を軽視する事も考えられる」

 ヴェルと呼ばれた灰色熊は視線だけを横に向けた。

「彼はまだまだ必要だ。場合によっては、確保した退路を優先的に、彼に使って貰いたい。協力してくれ」

 そんな熊女性の内密な囁きに、灰色熊は視野を元に戻しながら応じた。

「それは、ジブンには判断する権限のない事であります」

 命じられた枠外の事であり、内容的に他の命令と衝突する。故に、ヴェルは同僚の頼みを請け負わなかった。

「…判った。いい」

 ライトブラウンの熊女性は、不機嫌さを隠さずに速度を上げて離れ、別の同僚に接近する。

 その背中をチラと、一瞬だけ視野の中央に収めた灰色熊は、やはりすぐさま視線の位置を戻した。

 

 その頃、河祖下の神代の屋敷では、詰めていたヤギが異音を聞いた皆に意見を求められていた。

 雷にしてはおかしい。しかも河祖中のシバイの屋敷に電話が通じない、と…。

「…神経質だと、笑われるならそれで結構」

 一大事。そうでなければそれでよい。そんな考えを基底に置いて、御庭番頭の老いた山羊は皆に武装と出陣準備を命じる。

そして…。

「向こうも動いている頃だが念のため、河祖上の詰め所にも連絡を」

 若い御庭番にそう指示を出しつつ、左右の腰に小太刀を三本ずつ挿した。

 

 同時刻。河祖上の御庭番詰め所では…。

「総員、武装の最終確認!二番隊、三番隊が先行!一番は中継、四番隊は後詰めの支度も抜かるなよ!」

 歳のせいでやや体が緩み、しかし未だ巌のようなゴツい体躯の老虎が、好々爺の顔を一転させ、御庭番として声を張る。

 定時の巡回が戻らず、連絡もつかない事に加えて、先の轟音と河祖中との連絡不通。これをもって、河祖群の守護を担う河

祖上御庭番組は早急に準備を整え、すぐにも出られる体制まで短時間でもってきていた。

 河祖上御庭番組の頭領である縞竹雲示郎は、引退も視野に入れた六十過ぎの老齢。歳もあって遠駆け早駆けは流石にもう若

い衆についていけないが、この帝直轄奥羽領において、神代家を除けば未だ直接戦闘において最強。郷の一大事となれば当然

自らも戦線に突入する。

「…いや待て」

 一度考えたウンジロウは…、

「「さる御隠居」の元へも一報を」

 祖父の館へ出向いているはずのユウヒにも、連絡するよう指示を出した。