第四十四話 「縞竹雲示郎」
何故こんな事になっている?
サルーキは木立の影に屈み、周囲の音に耳をそばだてる。
既に日が落ちた河祖郡の、村から少しだけ離れた森の中に、男は身を潜めていた。
掃討戦のはずだった。村に残った生き残りを殺して回るだけのはずだった。それが今は…。
緊張で呼吸が早くなる。雪を踏んで近付く音が無いか神経を尖らせる。
接近されれば判る。そもそもこの闇の中、灯りも無しに見つけ出される事などそうそうないはず…。
サルーキは十数分前の事を思い出す。
状況が一変したのは、前触れもなく現れた無数の黒影の出現による。
住民の生き残りを探し出して狩り立てる最中、ふと気付くと、サルーキの傍らに居たはずの、ライフルを携えた猪が消えて
いた。見回してから前を向くと、先行していたガゼルも一瞬で居なくなっていた。
そして気付く。ポタリと落ちた赤い滴に。
見上げると、葉を落とした冬装束の大銀杏の太い枝に、干された洗濯物のように猪がぶら下がっていた。首筋にグルリと、
棘付きの首輪を嵌めたように、無数の苦無が突き刺さって、絶命した猪は白眼を剥いて長く舌を垂らしていた。
はっと前を向くと、先行していたはずのガゼルも、居なくなった訳ではないという事が判った。
ブーツを履いた右足首だけは、まだそこに居た。
ヒヤリと首筋に冷たい物を感じた瞬間、サルーキは混乱しながらも手にしていたアサルトライフルを我武者羅に振り回した。
手応えは無く、跳び下がった細身の犬の黒衣が翻る。
身に纏うは黒作務衣。手に握るは光を照り返さない小太刀と、何らかの毒か薬物であろう液体でぬめりを帯びた苦無。そん
な出で立ちの三名が、サルーキを取り囲んでいる。
猫、犬、鹿、黒い三名は河祖上の御庭番。奇襲というアドバンテージさえなくなれば、黄昏の部隊も強敵ではない。質にば
らつきはあるが大半は密やかに仕留めてみせる。
そして、到着しているのは彼らだけではない。既に密やかで静かな反撃が始まっており、掃討部隊はその数を瞬く間に減ら
している。
形勢逆転。戦況を見るまでもなく感じ取ったサルーキは、迷わずその場から逃走した。
いやに静かな戦場だった。本隊と合流すべきだと思うのだが、敵兵の展開状況が判らない。サルーキはとにかく一度落ち着
くべきだと、冷や汗をかきながら神経を尖らせる。
周囲は表面が凍った雪。こうも静かなら接近されれば判る。
そんなサルーキの判断は正しい。相手が地上を来るなら。そして、それほど速くないなら。
ドッ、と木の幹が鳴った。サルーキから15メートルほど離れた位置の樹上で。
ビクリと身を竦ませた時にはもう遅い。闇に紛れる作務衣で身を覆った虎が、降下しつつ急速接近する。
無表情な顔に、獰猛な光を湛えた双眸。それが、サルーキがこの世で見た最期の光景。
瞬時に間合いをゼロにした六尺三寸余りの巨体は、反撃の備えすら許さずサルーキの首を太腕で抱え、勢いのまま諸共に雪
面を転げる。もつれあうような格好の両者の体が地に着く前に、メリゴキッ…、と、何かに包まれた硬い物が割れ折れる音が
響いた。
嫌な音とサルーキの体を残し、転げる勢いから流麗な動作で流れるように立ち上がった虎は、仕留めた相手を一瞥する事も
なく跳躍し、木に取り付いてスルスルと、水が逆さまに流れてゆくように昇ってゆくと、木々の間を飛び移って移動しながら
次の目標を探す。
そして見つける。緊張で上がった白い息を、不注意にも何もせず撒いている、武装したシェパードを。
シェパードはサルーキよりも反応が良かった。が、アサルトライフルの発砲はフルオートで五射。飛び掛る虎の体を正面で
捉えはしたが、その全ては、ボクシングのガードにも似た形で虎が体の前面に揃えた腕に弾かれる。
その両腕には分厚くゴツく、そして光を反射しない鈍色の手甲。銃弾を容易く弾いて接近した虎は、射程に入るなり身を捻
り、繰り出された蹴りがシェパードの首を、皮まで引き延ばす勢いで蹴り折る。
折られた首を二倍の長さに伸ばされたシェパードがドウと雪面に倒れた時には、蹴り折ったその首を踏み躙りつつ、虎は猛
然と駆け出している。そして…。
「大事ないか?婦人、わっぱ」
暗がりで抱き合い震えていた甲斐犬の母子は、雪を蹴立てて近付いた虎に声をかけられ、安堵のあまり泣き出した。
「もう心配ない。安心せい。すぐ助けが来る、頑張って安全なところまで移動したら、たっぷり休んで、泣け」
屈み込んで目線を近付け、無表情だった顔を優しく緩めて、子犬の頭を撫でてやりながら、虎は首にかけていた笛を咥えて
鳴らす。音は聞こえないが、訓練された御庭番には聞き取れる、要救助者在りの報せである。
「すぐに若い衆が来る。もう少しの辛抱だ。おっかさんを護ってたか?偉いなぁわっぱ」
母に抱えられながらも、顔も体も外に向いていた子供を褒めて、虎はすっくと立ち上がると、子立ちの向こうから聞こえぬ
笛を応えに鳴らして接近してきた若い二人組みにサッと手を挙げ、再び走り出す。
御庭番、河祖上の組を取り纏める古参、縞竹雲示郎。
六十を超えた老虎は、歳もあってだいぶ体も緩んできているが、しかし未だに巌のような力強さが窺える大男。ユウキと相
撲をとっても勝っていた虎は、河祖群屈指の組み打ちの腕前が全く衰えていない。
しかし、加齢の影響が全く無い訳ではない。続かなくなったスタミナは如何ともし難く、一息に本隊へ迫るのは難しい。己
を知り、過信しないが故に、自分達の手の届く所から着実に盛り返してゆく手段を選んだ。
気がかりなのは、仕掛けを作動させた以上は討たれていないはずだが、姿が見えないユウキの事。そして…。
(奥方は居られんか…!奥方は…!)
トナミの行方である。
先んじて動いたウンジロウの行動は功を奏し、河祖中の生き残りを連れて逃げてきたトナミは、首尾よく先行部隊と接触し
て住民達と一緒に保護された。
が、報せを受けてウンジロウが安堵したのも束の間、その後すぐに、単独で再出撃して行ってしまったという連絡が追いか
けてきた。おそらく防衛、救助目的での出陣である。何せ、ユウトの消息が不明、外面はともかく内心は当然穏やかではない。
数秒立ち止まって乱れた息を整え、ウンジロウは河祖中周辺を縦横無尽に駆けながら、外敵を排除し、生き残りを探し出す。
そして…。
「シマタケ!」
馴染みの声を聞き、杉の巨木に取り付いた状態で下を見遣った。
「ヤギか!河祖下の一同も!」
ウンジロウの声に喜色が表れる。見下ろしたそこには、手錬五名を引き連れた御庭番頭の老山羊。既に小部隊規模になって
いるという事は、河祖下の展開が終わった証拠である。
飛び降りたウンジロウは状況を手短に伝え、老いた山羊は敵軍本隊へ包囲戦を仕掛ける支度がほぼ済んだと告げた。
「流石、手早いな!」
「とはいえユウキ様がおられぬ。これは、ともすると…」
敵軍を囲んで慎重に距離を詰めているにも関わらず、ここまでに発見できないとなれば、単騎駆けに入った可能性が高い。
「どうする?」と問う虎に、「いつもの事」とヤギは応じた。
「先陣駆けるはあの方の性分、追走してなだれ込む」
「なら、河祖上は散った敵の掃討と生存者の救助を優先、済んだ隊からそちらに加わ…」
その時だった。銃声。ただし僅かに違和感のある炸裂音が響いたのは。
咄嗟に身を伏せた一同の中で、ひとりだけ、屈めなかった者があった。ヤギが連れた御庭番のひとりが、頭部を失って膝を
折り、尻もちを付き、糸が切れた人形のようにへたり込む。
「狙撃か!?シマタケ!」
「おう!」
射撃方向を察して即座に木陰へ飛び込んだそれぞれだったが、今度は別のひとりが左肩から鳩尾に至る風穴を胸部に空けら
れ、絶命する。
「どんな銃器だ!?」
舌打ちする虎。その傍で立ち木の幹がごっそりと抉れ、射線の先で雪面が直線状に雪煙と土煙を上げる。
そこから500メートルほど離れた位置で…。
ドウンと、重々しく吼えたロングライフルが跳ね上がり、これを構えた屈強な熊獣人が後方に5メートルほど滑走する。
踏ん張って後退を捻じ伏せたバッソは、即座に横移動しつつライフルのボルトを前後させ、次の銃弾を装填、さらに発砲。
闇を見通す彼の目は、遠方で身を隠すヤギ達を捉え、障害物だらけの長距離と言う狙撃条件を物ともせず、驚異的な精度の
狙撃を敢行している。
バッソは見抜いていた。ヤギとウンジロウが会話する様子や、連れられている護衛から、彼らが御庭番の司令塔であるとい
う事を。
河祖郡を守護する防衛ラインも、頭を押さえられては十全に機能しない。たったひとりの狙撃手で指揮系統が機能不全に追
い込まれる。…かに見えた。
ボルトアクション式の長大なライフルを抱え、レバーを前後させて次弾を装填したバッソは、
(…!?)
小まめな移動からの狙撃の最中、一瞬止まった。
仕留め損ねても逃がさぬよう、威嚇も含んで均等に狙撃していたが、離脱を試みる動作が一際多いヤギにやや多く注意を向
けて彼は、ほんの少しの間大人しかった虎を狙うべく射線を定めたが、木陰に隠れていたはずの大柄な体は…。
(衣服のみ…?)
虎の人影と見えていたのは、広げて木の幹に苦無で縫いとめられた作務衣の上。
横っ飛びで身を投げ出したバッソの、伸びた足の先でブーツを霞め、鋭角に落下してきた影が雪面を殴り砕く。
ヤギと連携して姿をくらませ、距離を詰めたウンジロウが、バッソを睨んで獰猛に牙を剥く。
「大物発見…!」
他の兵とは格が違う。おそらくは指揮官クラスで、しかも村に入った部隊や御柱へ向かった軍勢とは別働の何か。そこまで
看破したのはウンジロウだけではなく、ヤギも同様。進軍の主力とは別系統の部隊が存在すると気がついた。
バッソはロングライフルを掴み直し、棍のように持ち替え、腰を低くして身構えた。上着を脱いで半裸になった老虎。体は
やや緩んでいるが、それでもなお歴戦の猛者であると風格で判断する。
ジリッと、両者の距離が縮まる。
バッソ達アサルトベアーズは、全員がエナジーコート能力者。そして、独自の操作技能を体得した部隊である。
彼らが用いる銃器の弾は薬莢が空っぽである。彼らはそこにエナジーコートの応用操作で高密度エネルギーを詰め、炸薬代
わりに使用する。御庭番達が発砲音に違和感を覚えたのはそのせいだった。
この技能はつまり、好みの弾丸を自力調合できる事を意味する。弾丸の初速を使用者の任意で変えられるのみならず、衝撃
が残り肉体をずたずたに損傷させる低速弾から、高い貫通力で抉り去るアンチマテリアルライフルまで、銃器を取り替えずに
使用できる。
その性質上、用いる銃器は出力上限の関係上、非常に強固に作られており、鈍器としての使用にも耐える。
対するウンジロウの得物は両前腕を覆う強固な手甲。ダンゴムシの背中のように曲面を帯びた鉄鱗が五枚、拳を覆う先頭か
ら肘までを覆う形になっており、盾であると同時に武器でもある。思念波を拡散させる神鉄製の手甲は重量も嵩むが、能力に
よる様々な現象の攻撃にも有効な防具であり、エナジーコートの力場とも殴り合える。
先に動いたのは虎。雪面を蹴って素早く間合いを詰め、右腕を顔の高さに構える…が早いか踏み込みつつ左拳が中段で繰り
出された。
フェイントこみの右手が攻撃を捌くための物と見抜いたバッソは、棍にしたロングライフルを斜め下から先端を跳ね上げる
格好で繰り出し、迎え撃つ。
接触と同時に響く重々しい金属音。バッソのライフルは手の甲を下に向けたウンジロウの右腕で、下げられるように叩き落
され、その鳩尾めがけて左拳が唸りを上げる。
が、刹那の発光。バッソが瞬間展開したエナジーコートがボディアーマーとなり、胸部から腹部を保護して拳を弾き、一瞬
で消える。
ライフルの先端を叩き落した虎は、その反動を活かして右手を跳ね上げ、掌で顎下…下顎と喉の接合部を狙う。気管と喉仏
を押し潰すはずだった鋭い掌打に、バッソは身を捻って肩を指し出す事で対抗、コンバットスーツの下に仕込まれた弾性のあ
るカーボンプロテクターで受け、そのまま虎の足を左足で払う。
スパンと出足を掬われたウンジロウの腰が崩れ、上体が泳いだところへ、キックをスイッチさせて、跳び膝蹴りで顔面を狙
うバッソ。しかし弾かれた左手を引いた虎が、これをパシンと平手で受け、勢いに体を乗せる格好で巨体を浮かせつつ、払わ
れたばかりの右足を膝蹴りの格好で曲がっているバッソの脚に絡めた。
一瞬、両者が旋回する。空中で絡み合うようにもつれ、バッソが半ばを握ったライフルの銃口を向けて発砲、ウンジロウが
これを手甲で受けつつ熊の腰横を突くように蹴り、双方弾かれるように離れ、雪面を転がって同時に起き上がる。
(右膝を持っていかれるところだった…)
鈍痛が残る右足の動作を確かめるバッソ。虎は膝を取るなり関節を一瞬で極めていた。対処が僅かにでも遅れれば靭帯も関
節も粉砕されていただろう。打撃もそうだが関節技も恐ろしい、合戦組み打ちから発展させられた戦闘技術は、バッソが知る
他の格闘術とも大きく異なる。
(癖が悪い奴だ…。引き金に触れすい発砲できるとは、武器頼みではなく能力主体の戦技か)
バッソがエナジーコートを利用した事で、ウンジロウはその闘い方を薄々察する。エナジーコート能力の汎用性は知ってい
る。使い手の技量に大きく左右されるものの、神代に仕える彼らには、一流の手にかかればどのように輝きを変える力なのか
が充分に理解できている。
だが、両者供にここで退く気はない。
ウンジロウからすれば、この銃撃を他所に向けられては堪らない。なにより、これほどの戦力が普通に居ればもっと確実な
攻め方があった事に鑑みて、ウンジロウはこの男が特別であると判断した。自分が指揮から離れても、ここで抑える価値はあ
る、と。
バッソからすれば、他のアサルトベアーズメンバーでも厳しいこの相手を、背水の陣となっているヴィゾフニル軍へ雪崩れ
込ませる訳にはいかない。自分ならば一対一で勝負できるが、勇猛とはいえヴィゾフニル配下の一般兵では、次々討たれてい
たずらに数を減らすのが関の山。
構え直し、じりっと間合いを詰める両者。戦いそのものは今のところ互角だが、その拮抗は簡単に崩れるような物でもある。
老いてなお研がれた技は冴え渡っているが、ウンジロウは歳なのでスタミナが続かない。離れた一拍や脱力の一瞬を上手く
使って体力をカバーしている。
そしてバッソからすれば、ここは既に敵陣の中に取り戻された区域である。加勢が来れば撤退が難しくなるため、注意は周
囲にも向けなければならない。
二頭は再び間合いを詰め…。
「勢いで押し負けるな!後ろは溶岩、逃げ場は無い!それでも臆病風に吹かれて退く者は、俺が殺す!」
チベタンマスティフが怒号を上げる。ヤギの命でついに戦端が開かれ、包囲される側となったヴィゾフニル軍が、押し寄せ
る御庭番達を迎え撃つ。
奇襲による先手が河祖中村を蹂躙し、バベル出現予想地点まであと僅かと迫ったヴィゾフニルの軍だったが、溶岩の噴出に
よりその進軍は阻まれた。
焼けた岩が流動する溶岩溜まりを背に、黄昏の兵は一転して防戦を強いられる状況となった。さらに言えば、河祖中の僅か
な生き残りも根絶やしにしようと、隊列が延びるのも厭わず掃討兵力を残したのも仇となり、本隊から遅れて離れた部隊は、
河祖上村から駆け下って来た御庭番達によって分断、包囲、殲滅されていった。その数二百強。相当な戦力を無為に失う結果
となった。
ヴィゾフニルにとって痛手だったのは、布陣し直す猶予が想定より遥かに短かった事。河祖上、下両面からの増援は動き出
しの判断が早かった上に、夜闇に沈んだ山中の森でも行軍の脚を全く鈍らせなかった。
さらには、兵団としても異常だった。
声を上げて武力を示し威圧する、密集陣形のヴィゾフニル軍に対し、御庭番達は森の見通しの悪さを活かし、姿を隠しなが
ら小班編成で波状攻撃を繰り返す。大軍に対する小勢の散発的な攻撃は効果が薄い…はずなのだが、ここでは違っていた。
「くっ!」
懐に飛び込んだ猫に斬りつけられた兵が呻く。しかし深追いはせず、猫は素早く下がった。
「この…え?」
射線を確保し、背後から撃ち殺そうとしたその兵は、しかしぬぅっと横手からのしかかるように現れた影に覆われた。
「げぐ?」
陣列を乱して出てしまった兵は、鰐の巨漢に喉を掴まれ、首を握り潰されると同時に、伸びた体を盾にされる。
味方の銃撃で絶命する兵を、鰐は力任せに投げ飛ばす。先陣を飛び越えて後詰めに入った兵達は、上からの奇襲と誤認して
発砲、味方を背後から撃つ。その時には鰐はさっさと姿を消し、猫は別方向から仲間と供に突撃小隊側面に食いついている。
そんな光景があちこちで見られた。
入れ替わり立ち代り、牽制と奇襲を織り交ぜて攻める御庭番達は、闘い方がえげつない。地の利を生かした歴戦のゲリラも
真っ青の、泥沼に引きずり込んで勝負する…どころか事故死を誘発させるような手で攻める。頭数で大きく差をつけられなが
らも戦線は膠着し、ヴィゾフニル側でのみ死者が急速に増え、不本意ながら贄に加えて行く有様。
自然とヴィゾフニル軍の脚は鈍り、勢いが衰えた前線は進まなくなる。さらには…。
「皆、動いたか…!」
木立の中を歩んできた熊親父が、負傷者を下げて後衛が入れ替わりに入る、御庭番衆の後端まで辿り着いた。
地面の雪を掬い上げ、口に押し込み、飲み下し、そして吐く。強引な胃洗浄で毒を薄めたユウキは、不調を気取られないよ
う大股に歩み寄り、「状況は?ヤギ爺はどこじゃ?」と若手に尋ねた。
「ユウキ様!」
当主到着の報は最優先で回り、御庭番達の士気が上がる。
「何?殺到して行った連中の他に、配置された軍がある?」
「はい。シマタケ様とヤギ様は、包囲陣の外から包囲されて挟み撃ちになっては堪らないと、これを抑えに…」
「なるほどのぉ。ならそっちは任せ、こっちはこっちで戦に集中するか。全容の把握に努めろ。対象首の位置を最優先で探れ。
この兵共は骨が折れる相手じゃ。潰走も許さん統制の要は「恐怖政治」とでも言うかのぉ…、圧を手綱にした支配力じゃ」
ユウキはふらつきそうになる脚を叱咤し、仁王立ちで指示を飛ばし始める。自分が普段のように動けない事は判っている。
片っ端から薙ぎ倒すような闘い方では、この毒に冒された身はもたない、と。
頭を潰す。そのために体力を温存する必要があった。
「ユウキ様!」
参戦の報せを受けた屋敷付きの御庭番が、熊親父の下に駆け込んで跪き、恭しく大徳利と綱を差し出す。ヤギに言われて屋
敷から持ち出した、ユウキの得物を。
「よしよし、これで百人力じゃ!」
ニヤリと笑ったユウキは、徳利を持ち上げポンポンと叩いた。
「七番隊だ」
黒装束を纏った五つの死体の傍で屈み、屈強な牛が呻く。
外側の兵力を警戒しつつ探っていた河祖上の四人組は、同僚達の死を悼みながら、その「異常な死」に疑問を持った。
全員、安らかな死に顔…というレベルではない。苦痛に歪む事も、絶望に引き攣る事も、恐怖に染まる事もなく、生きてい
る時と同じどころか、今もなお役目に従事しているような引き締まった顔のまま。何処も見ていない瞬きのなくなった目を覗
けば、死んでいるとは思えないほど。
おそらくこの全員、死んだ事に最後まで気付かなかった。
いずれも胸を一突きされて絶命している。苦しんだ様子は無いが、しかし武器は抜いている。交戦したと思えるのに、しか
し隊列に乱れは無い。
「…何者か」
牛の背後で背の高いカモシカが誰何の声を上げた。
木立の中を影が一つ、足早に、しかし走るでもなく、ザッザッと音を立てて歩いて来る。
それは、白いジャガー。
両手に抜き身の直剣を握った男は、歩調を緩め、堂々と胸を張って正対すると、朗々と名乗りを上げる。
「ラグナロクのオーズオーズ・フェダイーン。今宵ここに攻め入った、諸君らの敵のひとりだ」
敵将。間違いなく率いる者の器。そう確信した御庭番達は、各々の得物を抜いて構える。
「いざ、勝負!」
ジャガーが吼える。
「応!」
武人の振る舞いと見て、御庭番達が相応の態度で応じる。
直後、ジャガーの姿が霞んだ。まるで放たれた矢のように、雪煙を上げて瞬き一つの間に急接近。
牛が直刀を振るい、切りかかったジャガーの右剣を弾く。
勢いを殺さず体を反転させたジャガーは、打ち込まれたカモシカの袈裟切りを受け流し、投擲された苦無を柄尻で叩き落す。
囲むように打ちかかった御庭番達の間を抜け、ザザッと雪煙を立てて制動をかけたオーズは、スッと直立姿勢に戻ると、二
本の剣をくるりと回して逆手に持ち替え、鞘に収める。
その後方で、御庭番達がバタバタと倒れ伏した。
いずれも、胸部への一突き。胴体中央、急所を貫かれて絶命している。未だ戦闘中の、闘志を湛えた表情のまま。
トスッ…。
そんな軽い衝撃だけが、彼らが覚えた致命傷の感覚。その死に、痛みも苦しみも恐怖も無い。
「屍をそのままにするのは礼儀に欠けるが、許されよ。…こっちもやや余裕が無くてな…」
戦士には名誉ある戦を。決したならば安らかなる死を。
その信念に基き、オーズは格下であったとしても、不意打ち可能な状況であったとしても、自身の「我侭」が許される状況
においては、必ずその姿を見せ、名乗り、正面から討ち果たす。
冥福を祈る言葉を短く呟きながら、オーズは足早に去る。ヤギやウンジロウが存在を感知した「外側の軍」は、しかし人員
が少ない。少数精鋭のアサルトベアーズは広く展開しており、穴はオーズが単独遊撃する格好で塞いでいる。移動を含めたそ
の労働量は、この戦場の誰よりも多い。
(ヘルがどの程度で対策を実行してくれるかが問題だ…。いつまでもひとりで回せる物じゃない。頼むぞ?)
その頃、ヘルは河祖中村に戻り、井戸を覗いていた。
「今頃は後詰めの後ろまで退避している予定だったんですがね…。まだ見つかりませんか?」
急かすように声をかけたのは、付き従う栗鼠。軽量のオートマチック拳銃を手に、落ち着かない様子で周辺を警戒している。
捜索を続ける御庭番が駆け回る中、彼女の「作業」が滞りなく進むようにと、オーズから命じられたラタトスクは、安全な
ところから戦を見守るという当初の計画が崩れ、不満げである。
「ここもダメねぇ…。もっと適した井戸でないと」
しばし中を窺い、見えないほど深い水の様子を探った灰髪の魔女は、見切りをつけて次に向かう。
ヘルが探しているのは、地下水脈に干渉し易いアクセスゲート。専門ではないので風水師やドルイドほど得意としている訳
ではないが、ロキ唯一の弟子である彼女は、あらゆる術大系についての知識を持つ。応用で何とかできる自信はあった。
「…そうねぇ。あの蔵の近くにも井戸があったかしら?」
庭で蓋つきの井戸を見ていた。その記憶を頼りに戻ったヘルは、犬沢家の庭で井戸の蓋を取り払い、中を覗いて目を凝らす。
ややあって…。
「ここが良いわぁ。早速、水脈を弄らせて貰いましょう」
ヘルは近場を目で探り、柄杓を見つけて手に取る。この水場と繋がりが深い品を、思念波で覆い簡素な術具に仕立て上げ、
井戸に投げ込む。
井戸の上に手をかざし、目を閉じて集中し始めたヘルは、水脈に干渉して地表へ流れ出る溶岩を防ぐため、操作を開始した。
限定的な支配型能力とは異なり、あくまでも術の延長による干渉なので、作用範囲は限定的で操作そのものにも細心の注意を
要する。
(さて…、思った通り大量の地下水があるわぁ…。これを利用して…)
思念波を網のように水脈に広げ、干渉に集中するヘルは…、
「何者ですか?」
予想し得る中で最悪のタイミング。駆けつけた誰かに横目を向ける。
ヘルの作業にばかり気が向いていたラタトスクは接近を許し、距離にして10メートルも離れていない位置の相手に拳銃を
向けた。
タタタンッと連続する発砲音。燐光を纏った腕が交差し、頭部に着弾するはずだった弾丸は全て力場に弾き散らされる。
そこに居たのは恰幅のいい熊の女性…生存者の捜索と救助に戻ったトナミだった。
「くそっ!エナジーコート能力者か!」
銃撃を続けるラタトスク。ヘルはまだ井戸から離れられない。
敵で間違いないと確認したトナミは、防御姿勢のまま突進する。女の方が動かない、その理由が判らないため、殺すよりも
捕らえるべきだと考えた。
が、その結果を重視した判断が、最悪の事態を誘発する。
迫るトナミに気圧されて、ラタトスクはくるりと向きを変えて逃走した。ヘルの護衛という役目より、自身の生存を優先し
て。この動きでトナミは迷った。背後から雷音破で撃ち殺す事も可能だったが、灰髪の女性を残して迷わず逃走したその行動
が、ラタトスクも意図しないまま彼女を困惑させた。そして…。
(仕方ない、仕方ない!これは仕方がない!)
栗鼠はガスマスクを装着し、後ろ手に缶を放った。
中に何が詰まっているのか、重たい音を立てて転がった缶は、シュボッと煙を吹き、周囲に紫色の霧が立ち込める。
「ラタトスク!」
ヘルの声が高くなった。栗鼠が放った缶、その中身は猛毒。さほど時間をおかずに酸素と反応し、短時間の内に中和されて
無害になる代物だが、目に入れば視神経がたちどころに破壊され、吸い込んだなら気管も肺腑も爛れて不可逆な損傷を負う、
即効性の毒物。
ヘルは堪らず風の障壁で流入自体を阻む。いまは撤退できない。何より術を中断してはならない、と。だが…。
(しまった…!)
灰髪の魔女は蒼白になった。元々微細なコントロールが必要だった術式は、集中が乱れたせいで入力の均等さを欠き、不完
全な物となった。もはや作用は止められない。
そしてトナミは…。
「…うっ…!」
立ち止まり、胸を押さえて呻く。
本人の認識とは関係なく有害な物を弾くエナジーコートは、トナミが知らないその毒物も遮断する。
だが、力場の全身展開は一歩遅かった。既に吸い込んでしまったトナミの口から、ツツッと、赤黒い血が顎へ伝い、目尻か
ら赤が混じった涙が頬へ流れる。
肺の内側に何かがへばりついているように息苦しく、両目がジクジクと痛んで開けていられない。
トナミが膝から崩れるのと同時に、ヘルは通信機を取っていた。
「オーズ!しくじりました!全軍に退避命令を!」
すぐさま風の障壁を使って宙に舞い上がるヘル。残されたトナミは手探りで這いずるも、
2メートルも進まずに力尽き、伸ばした手が雪面に落ちる。
その体から、力場の燐光が薄れて消えて行った。
地下の深い位置で溶岩と接触し、時間をかけて冷やして固めるはずが、ヘルの制御が不完全に干渉してしまった水脈は、地
表めがけて上昇しつつ溶岩のルートと交錯する。
その結果…。
「地鳴り?」
部下達に進軍を命じ、自らも最前線に向かうヴィゾフニルは、足元を見遣り、一瞬後に表情を強張らせ、即座に光の防壁を
纏う。
そして、地が割れる。
地表すれすれまで上がってきた水脈が溶岩と交わり、大規模な水蒸気爆発が発生。ヴィゾフニルの軍勢も、包囲する御庭番
達も、火山弾と高熱の蒸気に襲われ、河祖三村に囲まれた窪地は一瞬の内に見えなくなった。