第四十七話 「ヴェル」

 直径二十メートルほどもある、乳白色の壁に囲まれた、ドーム状の天井を持つ円形の食堂。ホールを思わせるそこで、迷彩

柄の衣類に身を包んだ大勢が、それぞれ丸テーブルについて食事を摂っている。

 窓などは無いのだが、壁面に取り付けられたいくつもの大型スクリーンは波が穏やかに寄せる砂浜の景色を映しており、閉

塞感はない。

 全員が迷彩シャツにズボンという装備か、軍服、あるいは白衣姿である。談笑しながら食事を摂る兵士や研究員達の中で、

2メートル半はあろうかという北極熊と、これまた巨漢のチベタンマスティフが、飯を掻き込んで皿を積み重ねながら笑い合っ

ていた。

「…で、アイツ何て言ったと思うっス?「合理的だ」って、たった一言っスよ」

「わっはっはっはっ!主任らしいなぁ!そこでたまげねぇのがまたあのひとらしいど!」

 声が大きいふたりのテーブルに、逞しい体つきをした灰色の馬が軽く顔を顰めながら歩み寄り、サンドイッチとドリンクが

乗ったトレイを置く。

「ジークフリート、ライラプス、声が大きいぞ?隔離備蓄庫まで聞こえそうだ」

「おっと悪ぃだな!ついつい声がでかくなっちまうのは悪ぃ癖だど」

 ナポリタンのソースで口の周りをベタベタにしたチベタンマスティフが応じ、北極熊は「堅ぇ事は言いっこなしっス」と悪

びれた様子もなく笑う。

「何せ一ヶ月の遠征なんス、憩いの食堂ともしばしのさらばっス」

「それと周囲への配慮はまた別問題だジークフリート。ライラプス、テーブルをあまり汚すな。上品にとは言わないが、もう

少し奇麗に食べられないのか?」

 灰色の馬が軽く溜息を漏らす。北極熊やチベタンマスティフが胸元を大きく開けて腕まくりしているのに対し、灰馬は襟も

袖もきっちりとボタンで留めており、逞しい胸が若干窮屈そうにも見える。それが彼の性格を如実に物語ってもいるのだが。

「ザンザスは準備終わっただ?オラは今朝の内に済ましたど」

「いつでも出られるよう昨夜には済ませた」

 チベタンマスティフと灰馬が言葉を交わしている間に、空になったシーフードグラタンの皿をまた一つ重ねたジークは、「

ところで…」と声を潜めた。

「ふたりとも、例の書類にサインしたんスか?」

「ん?ああ、殉職後の献体か。済ませたとも」

「オラもしたど」

 北極熊の問いに灰馬とチベタンマスティフが応じる。殉職後の献体…要するに、死んだら肉体を研究や実験等の材料として

提供するという書類にサインしたのかとの問いだったのだが、二頭はさらりと答えた。

「死んでしまえば後はどうとでもなれだ。遺体は勝手にして貰って構わない」

 さめた返事をする灰馬。一方…。

「死体になってもお役に立てる事があるんだど?望む所だ」

 チベタンマスティフは胸を張って誇らしげだった。

 そのこめかみの辺りに、ジークは目を向ける。

 被毛に隠れて見えないが、そこには手術痕がある。かつて埋め込まれていた小型爆弾を取り除いた痕跡が…。

 今はライラプスと名乗っているこのチベタンマスティフは、本名を丁香(ディンシャン)といい、かつてはとある国の軍人

だった。正確には、徴兵されて軍人にされた男である。

 エナジーコート能力者であった彼は、生まれつき特異な性質と、類稀なキャパシティーを持っていた。突然変異と言えるレ

ベルの先祖返り…旧人類の獣人に近い質を有する、一代限りの古種だったのである。

 少数民族であり、貧しい山羊飼いの家で育った彼は、素朴で、真面目で、ひとを疑う事を知らなかった。だから、その特性

に目をつけた当局によって、半ば強制的に徴用される事になっても、国から金が出て家族の暮らしが楽になると知って、不安

がるどころか喜んだ。お国に尽くせる立派な仕事。家も生活が楽になる。降って湧いた幸運だと…。

 そして彼は軍人になった。肉体的にも恵まれたポテンシャルを持ち、元々仕事熱心で真面目な山羊飼いなので、厳しい訓練

にも耐えて。

 同時に、その性質を解明すべく様々な実験にも駆り出された。貴重な変異体、珍しい先祖返り、そんな彼を失わないために、

軍はその頭部に外科手術で発信機兼、情報抹消及び逃亡防止のための爆弾を埋め込んだ。

 歩く爆撃機。生きる殺戮兵器。生来の性格とは裏腹に、持ち得た異能はそのように危険極まりない物だった彼は、それを自

覚しているからこそ、その措置を必要な物だと考えて、恨みもしなかった。

 従順で、真面目で、熱心で、家族愛があり、何より無知であるが故に国と軍を疑いもしなかった。

 転機が訪れたのはフィンブルヴェトの結成。強力な兵士が求められ、協力に見合う発言権と成果の提供を受けられるという

話が出た時に、研究調査が行き詰まっていた政府は彼を手放した。

 彼にとって、それはある意味幸運だった。

 フィンブルヴェトではライラプスというコードネームを与えられた。本名と似た花…ライラックに因んで、長官である獅子

が決めてくれた名を、彼は格好いいと喜んだ。

 白衣のジャイアントパンダは「非合理的な監視装置だ。暴発の可能性を黙認していたのか?まったく…」などと顔を顰めな

がら、彼の頭の中の発信機兼爆弾を取り除いてくれた。

 上官と同僚にも恵まれた。軍人とはいえ田舎者で社会常識に疎い彼を誰も馬鹿にしなかったし、誉れある「世界の為になる」

任務に従事できた。

 戦闘は好きではないが、必要ならば天に与えられた力を振るう。それが皆のためになるならば、焦土となった地面を見つめ

るやるせなさも、焦げて煙を上げる無残な死骸を見る悲しさも、我慢すると心に決めていた。

 自分は幸せだと、素朴な田舎者のチベタンマスティフはしみじみ思う。だから、もしも自分が死んだとしても、ジャイアン

トパンダ達の研究の材料になって彼らを手助けできるのであれば、こんなに嬉しい事はない。

 …そんなにも純粋で、他人を疑う事を知らないライラプス。だからこそジークはもう何も言えない。

(無駄に命を奪うのを厭う性格に、広域殲滅に優れた類稀な能力…。難儀な性分で戦い続けて、行く末まで捧げる、忠犬の在

り方っスか…)

 彼らが承諾したのは、ジャイアントパンダが発案した研究実験についての献体ではない。フィンブルヴェトの母体組織であ

る先進国政府連合軍からの命令による、戦死者の再利用研究…エインフェリア計画に利用される素体としての死体提供である。

 吐き気がするほど合理的。そうジャイアントパンダが述べたあの計画は、できないと突っぱねてしまったら長官の立場が悪

くなる。断るつもり満々の技術局主任も、自分達を使って欲しいと兵達が言えば無下にできない。そんな彼らの献身で、得を

するのは先進国政府連合軍…。

「よう、出征前の食い溜めかジーク、ライラプス。ザンザスが引いてるぞ?」

「お疲れ様ですコマンダーの皆さん!」

 声を掛けたのは軽食を乗せたトレイを両手に持ったアルビノのジャガーと、ファイル類を抱えた普通のジャガー。隣のテー

ブルについたふたりは、ホットドッグとフライドポテトを口にしながら気さくに話しかけ、

「軽食で済ませるという事は、この後新人に稽古でもつけるのかオーズ?」

「ポテトもええな…。ちょっと分けてくんねぇだか?交換でナポリタン一皿やるど?」

 生真面目な灰馬と素朴なチベタンマスティフがそれに応じて…。

(現行人類は多様っス…)

 ジークは黙して考える。好感を持てる人類が居る一方で、居ないほうが良いだろう者も少なからず存在する。連綿と繋がれ

る使命を果たし続けて来た自分達一族とは、根底から違う多様な価値観と欲求を持つ、不安定な生命集団…。

「お?ロキー、アンタも今から飯だかー!?こっち来て一緒に食…何でクルって回れ右するだ!?」

「静かに食事したいからに決まっているだろうに…」

「賑やか過ぎるんだよなぁお前…。そういうの嫌いじゃないけどさ」

「よし、ならこっちが行くど」

『向こうは嫌がってるんだから行くなよ』

「何でだー…?」

 北極熊は片眉を上げて、皆のやりとりを見ている。

 それなりに時間を掛けて見てきたつもりだが、まだ理解には及ばない。現行人類は誰も彼も不思議で、理解が難しい。

(ま、時間はたっぷりあるっス…)

 ジークはまだ知らない。自分達が辿る運命を。同僚達の末路を。

 悲劇はまだ先。過酷ではあっても穏やかと言える時間は、この頃はまだ続いていて…。











「はーっはっはっはっはっ!なかなかしぶといな!だが、いつまで耐えられる!?」

 哄笑と共に羽ばたき、滞空するヴィゾフニルから、地上に降り注ぐ光の羽毛。それはまるで飛翔する金の鳥が地表へ爆弾を

投下し続けているような物。眼下の熊親父が爆発に追われ、炙られる様をチベタンマスティフがせせら笑う。

「まるで地を這う虫けらだな!存外しぶとい所も含めてそっくりだぞ貴様!」

 絨毯爆撃で、防御しているユウキの力場が一方的に削られる。しかも試みる反撃が一つも通らない。

「雷音破!」

 雪のように降る羽毛の隙間を狙い、ユウキが光弾を放つも、それに反応して通過する傍の羽毛が反応して爆発、周囲の物ま

で誘爆させて、雷音破を掻き消してしまう。

(さっき一撃加えた時もそうじゃが、どうもアヤツの力場は、攻めに反応して爆発するらしい。しかも爆破力がゴキゲンな高

さじゃ…)

 ユウキは仕組みを看破した。ヴィゾフニルの「質」は攻撃に特化していると。あの防御性能は反応装甲…爆発という攻撃的

リアクションの防御転用による物。力場を強固に固める方向ではなく、衝撃や熱に反応崩壊する爆発力を高める方に特化して

いる。つまり、瞬間的な防御力であれば、爆発による反作用によって非常に高いと言えるが、持続する防御性能は持ち得ない。

(捕まえさえすれば何とかできるはずじゃが…、ええい!こりゃあジリ貧というヤツじゃ!地面に引き摺り下ろさんとどうに

もならん!)

 立て続けに爆破攻撃を行なう、その密度が問題である。大技で地対空攻撃を仕掛けようにも、守りを薄くすれば吹き飛ばさ

れる。無防備に受けてしまえば立つこともままならなくなる。飛び上がって肉薄するのは論外、空中を自在に飛翔するヴィゾ

フニルには、例え羽毛を貫いて接近しても逃げられてしまい、空中で攻撃の的にされるのがオチである。

(隙が、一瞬でいい、隙が生じれば手もあるんじゃが…)

 そんな時だった。打ち上げられた光の球が、太陽の如く輝いたのは。

 ヴィゾフニルが反応する。何らかの攻撃か、と。それほどまでに、無視できない強烈な輝きだった。眩いそれは周辺を昼間

のように照らして…。

(何だあの光は!?砲撃…ではない?照明弾?しかしこの光量は…!)

 それは小型の太陽に等しい。正体不明の現象の確認のためとはいえ、反射的に目を向けてしまったヴィゾフニルは、一瞬だ

けだが眩さに視力を奪われた。

(隙ありじゃ!)

 構えた左腕を上空のヴィゾフニルに向けるユウキ。細く光が収束する手の平にエネルギー塊が生成され…。

「天鼓雷音!」

 本来両腕で放つソレを、片腕で行う簡易版の天鼓雷音。出力は半減し、光柱は絞り切れずに拡散してしまう。多数の羽毛を

巻き込んで誘爆させるが、ヴィゾフニルには届かない。

「隙を突いたつもりか!?浅はかな!」

 嘲笑するチベタンマスティフだが、その時はもう、爆発に姿を、爆音に音を紛れさせ、不動策が唸りを上げていた。

 ユウキが腰から解き、振るった愛用の得物…。縄目自体が分裂するように増えて延長する不動策がスイングされた先端には、

それ自体が破砕鉄球代わりになる強固な大徳利。

 誘爆は目くらまし。慈業日照の発動にヴィゾフニルが気を取られたその隙に、ユウキは縄を伸ばして横手から大きく振りつ

つ、チベタンマスティフまでの直線状を熱線で薙ぎ、届かない攻撃をもって目を引きつつ油断を誘っていた。

「な!?」

 ヴィゾフニルが目を見開く。左脚に縄がかかった感触に次いで、そこを支点に旋回する大徳利。熱も衝撃も無い柔軟な縄掛

けには、ヴィゾフニルの力場は反応爆発を起こせない。

 脚部からの力場放射によって飛翔しているチベタンマスティフは、脚を絡め捕る縄と旋回する大徳利の重量でバランスを崩

した。そして…。

「ぬぅん!」

 絡め捕ったチベタンマスティフを、熊親父は力ずくで引き落としにかかる。

 反射的に両脚からのエネルギー放射を強めるヴィゾフニルだったが、縄を掴むユウキの両腕がメキメキと音を立てて怒張し、

推力がピークに達する前に引く力が上回り…。

「どぉりゃっ!」

 それはまるで、風の孕み方を間違えて墜落する凧揚げ。光の翼を広げた巨犬が、縄に引かれて高速落下、地面に叩き付けら

れる。

 散布中だった羽毛が撒き散らされたままだったので、墜落と同時に爆発、誘爆して周辺全てを巻き込む大爆発を起こす。

(同じ手は通じんじゃろう、二度は飛ばせん!ケリをつける!)

 猛然と間を詰めるユウキ。

「おのれ!」

 片膝立ちで身を起こし、腕を振るい、羽毛を散布して阻むヴィゾフニル。

 連続する爆発を強行突破し、熊親父が肉薄する。その最中…。

「狂熊覚醒…!」

 ゴヅンと胸の前で拳を打ち合わせ、ユウキは神卸しを敢行。力を振り絞って勝負をかける。

 即座に纏う力場が厚みを増し、赤黒く発光色を変え、密度の高い爆発の嵐を強引に突破し…。

「奥義!」

 射程に捉えたその直後、ユウキは走りこむそこからさらに加速した。踏み切った蹴り足が破砕して推進力に利用した力場の

余波で、後方に、爆破されたように土くれが飛び散り、土砂が舞い上がる。
固めた右腕には高密度の力場。赤々と赤銅色に輝

くエネルギーが、ギシギシと空間すらも軋ませる。

 防壁を練る余力はもうない。反動を殺す事など考えない。

「百花繚乱!」

 ヴィゾフニルの左腕が伸びる。受け止めるように、翼の如き巨大な力場に覆われた腕から、無数の羽毛を撒き散らして。

 それを、拳一つが貫いた。

 羽毛を纏めて爆砕し、翼を象る分厚いエネルギーを穿ち、力場の内側に到達した右拳が、そのエネルギーを解き放つ。

 それは、単なる多重展開された力場とは違う。

 薄い力場を、さながら新聞紙を幾重にも折り畳んでゆくように重ね、散華衝の数十倍にまで織り込まれた、百層前後からな

る力場の幕。その全てを連鎖崩壊させれば、得られる破壊力は加算ではなく乗算となる。鉱物でもタンパク質でもお構い無し

に塵に変える一撃必殺の拳は、神代の古式闘法の源流たる鳴神の技には存在しない。

 それは、神代独自の技。

 抹殺でも、殲滅でもない。そもそも対現行人類を仮定した技ではない。

 ひとの力では傷をつける事すら困難な太古の遺産…危険な遺物を破壊するために編み出され、神が作りたもうた兵器すらも

消失せしめる、破壊その物に特化した技。

 光が爆ぜた。

 ふたりの接触点から球体状に閃光が広がり、土も岩も巻き上げて弾け飛ぶ。

 赤々と眩しい烈光の中に、ヴィゾフニルは見た。自分の左腕が、迫り来るユウキの拳に触れる寸前に、角砂糖が崩れるよう

に崩壊し、塵になって消えてゆく様を。

 同時に、ユウキも把握していた。防御膜を構築する余裕が無かった自分の右腕が、放った百花繚乱の余波で、被毛も皮膚も

肉も骨も、先からひしゃげて潰れ砕けてゆくのを。

 周囲が吹き飛ぶ爆風に次いで、強烈な閃光が迸り、間欠泉のように吹き上がった。やや斜めに上がった土砂と光柱の中に、

きりもみするヴィゾフニルの姿がある。一方、後ろ向きに吹き飛ばされ、空中で垂直に一回転して獣のように着地したユウキ

は、肩からバタバタと鮮血を落とす。

(右を根こそぎ持ってかれたわい…。が、この程度なら上々!)

 ユウキの右腕は、肩のすぐ下まで無くなっていた。不動索を噛んで腕の付け根に巻きつけ、強引に縛ったら収縮させて止血。

手早く済ませて臨戦態勢。

 そして、地面に叩き付けられ、転げて、ゆっくりとよろめきながら身を起こしたチベタンマスティフは、左腕を上腕の半ば

から焼失させられていた。断面は高熱で炙られ、出血もしていないが、パラパラと白い灰になって傷口付近が剥離し、赤黒い

肉が露出し始める。

「ぐああああああああああっ!テメェ…。テメェッ…!」

 無くなった腕を抱えるように背を丸め、バイザーが割れて弾け飛んだヴィゾフニルが、粉塵の向こうに立つ熊親父を睨む。

「どうしてくれんだテメェエエエエエ!片腕じゃ殺し難くなるじゃねぇかぁああああああ!!!」

 激昂するチベタンマスティフ。ユウキは…、

「腕の一本程度でガタガタ抜かすな小僧!」

 吠えながら突進していた。

 痛みも、衝撃も、喪失も、一顧だにしない。赤々と輝く力場を纏い、巨体を揺すって猛然と駆け込む。

 その左腕が、赤光を纏ってヴィゾフニルの顔面を捉えた。

 反応。誘爆。しかしその爆発でも踏み留まるユウキ。反対にヴィゾフニルが、フック気味に振るわれた拳で弾け飛ぶように

その場から殴り飛ばされる。

 バウンドしたチベタンマスティフが跳ね起きた時には…、

「なっ…」

 また眼前に熊親父が走り込んでいる。

 激突音。力場が軋み、砕け、弾け、反応爆発する。

 駆け込んだ勢いをそのまま乗せる拳に、再び殴り飛ばされたヴィゾフニルを、爆炎を裂いてユウキが執拗に追う。

 一発。もう一発。さらに一発…。

 放出するエネルギーは無限ではない。殴られるたびにヴィゾフニルが纏う力場の総量は減少し、削がれ、失われ、そして力

場越しにも衝撃は残る。

 都合、七発。殴り飛ばされ、地面に深い溝をつけ、膝に来たヴィゾフニルがようやく立ち上がると…、

「…ゲブッ…」

 ユウキは吐血し、黒く濁った血で胸元を染めた。

 鼻腔からも双眸からも血が滴る凄まじい形相で、なおも凄絶な笑みを浮かべる熊親父に…、

(何だ…、この男は…?)

 呼吸を荒らげるヴィゾフニルは、眩暈と同時に寒気を感じた。

 製造されて以降初めて、恐怖という感情を覚えた。強い弱いの個体能力の話ではなく、その理解不能な在り方と精神性に怖

れを抱いた。

 これが「奥羽の鬼神」。殺戮に快楽を覚える異常者ですら恐怖する、歳経た狂戦士。

 顎に垂れた血を手の甲で拭い、ユウキはニタリと笑う。

「さぁて!競争の再開じゃ…!どっちが先におっ死ぬか、のぉ!」

 血が混じる唾を飛ばして吼えるユウキ。気圧されたヴィゾフニルは無意識に半歩退く。

 もはや戦力の残りも、有利不利も関係ない。もうとっくに、勝敗は決していた。

「う、う、う…!」

 ユウキが踏み出す足を見ながら、ヴィゾフニルの口からうめき声が漏れる。

 満身創痍で、死にかけで、なおもギラギラと瞳を輝かせるその形相に、衰えぬ気迫に、止まらぬ足に、ヴィゾフニルは竦ん

でいる。

(まだだ!)

 そして、見つけた。理由を。

(まだ倒れるわけには行かないなすべき任務が残っている自分がやらなければいけない部下共も逃げ散ったいま自分がやらな

ければ誰がやるのだそう自分がやらなければいけない逃げるのではない避けるのではない為すべき事があるから!)

 縋るように「逃げていい理由」を見つけ、身を翻したヴィゾフニルが、残った右腕を振るって羽毛を飛ばす。

「行かせるとでも…、思うたか!」

 隻腕隻眼の熊親父が猛進する。赤々と変色した力場の衣を纏い、この場で枯れ果てて力尽きる事も厭わずに。

「お主はここで死ぬ!」

 逃げるヴィゾフニルの背に、声が追い縋る。

「何も為せず!」

 もつれそうな足に、宣告が絡みつく。

「何も残さず!」

 爆風を押し分けて、声が迫る。

「何も得ず!」

 そんな事はない。

「ここで終わる!」

 そんな事はあり得ない。

 自分は黄昏最強の戦士だ。幾多の命を蹂躙し、数多の命を殲滅し、かつて先進国政府連合から「焦土の魔犬」と綽名された

アドヴァンスドコマンダー、ライラプスの死体から、ミーミル・ヴェカティーニの手で生産されたエインフェリアだ。肉体は

改造され、基本性能でオリジナルを凌駕している最強の戦士だ。

 為せない事など…。

 ならば何故逃げる?

 何故逃げている?

 違う。

 逃げてなどいない。

 これは逃亡ではない。

 目的を優先するが故の…。

 そうして事実からも逃げながら、ヴィゾフニルは必死に駆ける。

 自分は、ライラプスの…。

 だが、誰も呼ばなかった。

 自分を、「焦土の魔犬」という、ライラプスの二つ名では呼ばなかった。

 何故…。

 自分の方が強靭なのに。

 自分の方が優れているのに。

 自分の方が新型だというのに。

 何故?

「ひっ!」

 足に焼け焦げた枝が引っ掛かり、息が止まりかけた。

 脅えて蹴り放したヴィゾフニルが振り返れば、10メートルと離れていない位置にユウキの姿。

 冥く凶暴な光を隻眼に灯し、凶悪極まる凄絶な笑みを浮かべ、それは追ってくる。

「ひいっ!」

 恐怖。恐怖。恐怖。

 死ぬのが怖い以前に、その熊が怖かった。

 もう見たくなかった。もう近付きたくなかった。もう闘いたくなかった。

 足がもつれて、転ぶ。

 無様に転げて地を這う。

 必死に手足を動かして進む。

 生きる為でもなく、目的を果たす為でもなく、ただ逃げる為に、前へ。

 助けて。

 嗚咽が漏れる。

 誰か助けて。

 鼻が詰まり涙が漏れる。

 こんな怖い事があるなど知らなかった。

 こんな怖い者が居るなど知らなかった。

 何かの骨を踏み砕く。

 焼け焦げた銃を踏みつける。

 仲間入りを待つように、焼け残った遺体の手足が前進を妨げる。

 焦土を転げて這いずって、ヴィゾフニルはただ、ただ、逃れようと足掻き…。

 

 

 

「急げ!止まれば死ぬぞ、動ける者はとにかく走れ!」

 黒熊が声を張る。ほうほうの体で逃げる兵達を促し、殿を固めて。

 飛び掛った鯖虎猫の御庭番は、黒熊の頬に浅く切り傷をつける。気を取られた瞬間、傍らに接近した鰐からサスマタを突き

出されて脇腹を捉えられる。

 むせ返る、その反応すらも押さえ込み、黒熊は右手をポケットに入れた。

(防げるのもここまで、だな…)

 既に機関銃は壊れて、力も使い果たした。撤退を支えるのも限界。

 ポンと放ったのは筒状の閃光弾。御庭番達の目を焼きつつ、足を引き摺る兵をふたり担ぎ上げて、黒熊は声を張る。

「逃げろ逃げろ!散って逃げろ!生き延びる事だけ考えろ!動けない者には構うな!」

 負傷者二名を担ぎ、説得力のない勧告を叫びながら走った黒熊は…、

「!?」

 突然、自分達の後方で大木の太い枝が弾けて、声を飲んだ。

(狙撃!?前方からだ、誰が…)

 駆けながら、黒熊は見た。雪面に跪き、長大なロングライフルを構え、こちらに向けている灰色熊の姿。

 一瞬自分達の隊長かと思ったが、バッソではない。遠目には似て見えるが別のメンバーである。

「ヴェル!助かった!」

 黒熊の声には返事を返さず、ヴェルナルディノ・ソリッドゲイルは素早くボルトを前後させ、次弾を装填し、発砲。砲撃に

等しいその反動で、がっしりした固太りの巨躯が2メートルも後ろへ滑り、同時に御庭番達の頭上で直線状に枝葉が抉られる。

 当たれば確実にそこが無くなる狙撃。さしもの御庭番達も警戒し、無理な追撃はできなくなる。

 踏み止まるなりボルトを操作し、立て続けに発砲する灰色熊の脇を、黒熊を先頭に敗残兵が駆け抜ける。

「ヴェル!もういい、行くぞ!」

「了解でありますアーヴァン。これをもって、援護射撃を終了します」

 黒熊の声に低く平坦な声で応じ、ヴェルは味方の足音が後方へ遠ざかったのを確認してから、

「………」

 無言で天を見上げた。

 明るく輝く第二の太陽。その目を焼く光を直視して、位置が変わらないよう不動のまま弾丸を握る。

 注ぎこむのは生命力。薬莢の中にエネルギーを充填し、弾丸として完成させ、装填する。

 ガションッとボルトが動き、咥え込まれた弾丸が薬室に据えられた。目を焼く光を見据えながらロングライフルを向け、射

線をずらさないように腰を沈め、踏ん張った足が雪面に埋まる。

 そして、閃光が奔った。

 頭上の光球を打ち抜いて、夜空へ駆ける一条のか細い光…。それは、弾頭すら融解して粒子化した、レーザーに近い一射。

 次いで、地上では轟音が鳴り響いた。

 

「日照が…?」

 見上げるユウゼンが、信じ難いと表情で語る。

 打ち抜かれた光球が明滅し、光量を十分の一以下にまで減らしている。核を撃ち抜かれたそれは、残り数分で完全に消えて

しまうだろう。

「あんな芸当、一体何者が…!?」

 ウンジロウも唸る。優位に立てるはずの起死回生の一手が、まさか破壊されようとは思いもしなかった。

 ユウゼンが圧縮した力場を貫いて秘術を崩す。これが可能なのは、高密度に圧縮した操光術などに限られるはず…。敵の残

存戦力に、先程のジャガーのような怪物が居るかもしれないと考えたウンジロウは、嫌でも警戒を強いられ、ユウゼンの傍を

離れるわけには行かなくなった。

 

「好機ね…」

 ヘルは負傷者を押し込んだコンテナに向かって叫ぶ。

「順次発進させてちょうだい!」

 千載一遇の好機。これを逃せば犠牲が増える一方である。

(オーズ!もういいから戻って…)

 これは既に敗戦である。バベルの顕現を成功させたとしても、それを確保して維持するだけの戦力も士気も残っていない。

 ヘルの中では、こんな負け戦でオーズを失う事は、兵の全てを喪失する以上の痛手という位置付けである。しかし…。

(応答しない…。また通信を切って…!)

 探しに行きたいのは山々だが、ここを放棄しては既に敗軍の兵となった者達が纏まらず、撤退行動に遅れが出る。

 灰髪の魔女は、ままならない現状に歯噛みする。当初の予定通りの布陣であれば、こんな事には決してならなかった。

 

「何じゃと!?」

 ユウキが空を見上げる。

 アレを破壊する事の難しさは知っている。直接殴り壊すのならば自分でも可能だが、あの高度では高密度圧縮した物で打ち

抜かなければ破壊など不可能。それだけの密度に圧縮する事はユウキでも困難で、眩いアレの中心を正確に狙撃できる射手に

も心当たりは無い。なのに…。

「!う…、うわぁああああああっ!」

 その隙を、ヴィゾフニルは逃さなかった。

 右腕に纏わせた光の翼を解き放ち、全てを爆弾の羽毛に変換。同時に脚部からエネルギーを噴射し、自身を飛翔体として射

出する。

「しまっ…!」

 防御姿勢を取ったユウキを、再び爆風が飲み込んだ。

 

 バッソが駆ける。何が起きたのか、誰がやったのか、彼は気付いていた。

 嫌な匂いを立ち込める煙に嗅ぎながら、先ほどの射線の根元へ、爆発の中心地へと駆け込むと…。

「ヴェル!」

 そこに、灰色熊が居た。上が吹き飛んだ巨木の、1メートルほど残った根元に背を預けて。

 力を使い果たしたヴェルは、虚ろな目を隊長に向けた。その右腕は肘のすぐ下で失われ、残った骨が二本、ざくろのように

弾けた肉の中から覗いている。

 自分にできるかどうかは賭けだったが、ヴェルはキャパシティを越えるだけのエネルギーを注ぎ込み、圧縮していた。日照

を貫くに足る一発を放つために。

 ロングライフルは跡形もない。射撃の反動に、薬室内での炸裂圧に、耐え切れず爆散し、ヴェル自身もこれに吹き飛ばされ

て木に叩き付けられていた。

 正確かつ強力な、神将の秘術に介入し得る、たった一発の代償がこれ。張った防壁すら気休めにしかならない凄まじい余波

で、ヴェルは利き腕をもって行かれた。顔と胴体も衝撃によって裂傷を無数に生じており、ジャケットの内側からドクドクと

血が溢れ、尻の下から雪面を染めて行く。

「狙撃…、成功で、あります…。効率的な撤退は…、実行可能…」

 自身の撤退を優先順位上位に設定。そこに、撤退の効率的達成の妨げとなる光球の破壊を盛り込んでも命令違反にはならな

い。自分が重傷を負うとしても、バッソが下した指令には抵触しない。それが、ヴェルがこの判断に至った根拠。

「屁理屈を!」

 思わず声を荒らげたバッソだったが、もはや自力で立てないヴェルの胴に腕を回し、前後逆で肩に担ぎ上げ、「…よくやっ

た…」と、掠れ声で労う。

 オーズが不安を覚える、唯一のアサルトベアー隊員、ヴェル。その不安は、あまりにも無感動で機械的で、何より自分を軽

視する思考と判断に起因する。

 自分と同等の性能と素質を有する唯一の隊員、その利き腕が失われた事を、バッソは悔やむ。

 命の価値には差がある。今逃がしている何十人もの敗残兵より価値のある、一本の右腕が失われたのは、痛手だった。

 駆けるバッソに担がれて揺れながら、しかしヴェルは考える。これで良かったのだと。

 思い出すのは、友軍の撤退支援時に、自分の位置が露見する事を恐れて、引き金にかかったまま動かなかった人差し指の感

触。結果的に、撤退中の友軍は掃射に倒れ、自分の位置もバレて無数の銃弾に貫かれた。その記憶が、おそらくは後悔と呼べ

るのだろう感覚と共に、心の深い所に染み付いている。

 ただし、それはバッソ自身が経験した事ではない。思い出せるが、自身の記憶ではない。

 エインフェリアには在り得ない記憶。存在しないはずの記憶。存在してはならない記憶。つまり、「素体の記憶」…。

 自分を調整した技術者の不名誉にもなるだろうし、迷惑にもなるだろうから誰にも言っていないが、こんな記憶がある以上、

自分は失敗作なのだとヴェルは自己判断している。自分を惑わせるその記憶があるからこそ、ヴェルは機械的に在ろうと、無

感動に在ろうと、日々努めてきた。

 そんな自分が、心に居座る後悔らしき感情を少しは払拭できる形で、皆の役に立てた。

(これで良いのであります。腕を失っても、このまま活動停止するとしても、処分されるとしても…、ジブンは、これで良かっ

たのであります)

 そんなヴェルの内心を知らぬまま、バッソは通信で呼びかけた。大至急、最優先で救護兵を回せと。

 

 チリリと、うなじの毛がざわついた。

 同時に動きを止めた赤銅色の巨熊とアルビノのジャガーは、日照の光が弱まり、舞い上がった噴煙が黒々と目立つ空を見上

げる。

 不意に頭上の球の光量が落ちたかと思えば、今度は空が鳴り、大地が震えた。

「…条件を満たすだけの思念波が集まったか…」

 ポツリと呟くオーズ。

 空に湧き出した黒雲。その下を駆け巡る稲光。

 それは、兆しである。

 バベル。呼び方は様々だが、世界では広くその名で知られる旧世界の遺物は、休眠状態にある限り、人々が触れる現実の空

間からずれた位置…異層に格納されている。

 その休眠状態から起動状態にするためには大量の思念波が必要となるのだが、そもそも、現行人類どころか、旧人類達です

ら扱う事を想定していない「世界の管理者」のための設備なので、「大量の思念波」という言葉が意味する規模が尋常ではな

い。一般的なひとの思念波であれば、何十万人が何百年間も、ひたすらに念じ続けてようやく起動に漕ぎ着けられる。そうま

でしなければ、バベルに干渉するだけの量が層の違いを超えて届かない。

 ただしこれは、経年で失われる量や拡散による劣化などを踏まえての話であり、短時間に集められるのであればもっと少な

い量で済む。

 その手段として用いられるのは、例えば「大量死」である。

 死の間際に断末魔として放たれる思念波は、通常時に念じるそれの数十倍の強度を持つ。それを活用し、バベルの封印地に

おいて一斉に命を刈るのが、人道的ではないが効率的なバベルの起動手段である。

 必要となる贄が厳密に何人分なのかは判明していない。しかし、御柱が出現した時代の資料類からは、少なく見積もって二

万人から三万人程度の犠牲者が捧げられたらしいという事は判っている。とはいえ、そのような事を行なった国や王朝の類は

往々にして長くは保たなかったため、資料自体が少なく正確ではない。

 しかし、ラグナロクはバベルを効率的に起動させるための手段を、二つ突き止めた。

 その一つが、「特異日」の使用。

 位置毎に時間帯は僅かにずれるが、年に一度、十二月二十四日の日没前後から明方付近までの時間帯には、世界を世界たら

しめる節理が緩む。干渉が届きにくくなっている異層のバベルにも、この夜だけはロスを最小にして思念波を届けられる。

 そして今この時、河祖郡を満たした兵達の士気が、村から失われた命の断末魔が、焼け付くような激しい感情が、ボーダー

を超えた。

 ズズ…、と地が震える。底からの震動ではない、地表に大質量を設置される、不快で不安になる表層の震動である。

 そして、多くの者がその信じ難い光景を目にした。

 立て続けに落ちる雷、それを浴び、雲を突く巨大な白影が現れる。

 時と風雨に洗われ続けた古い骨のように白く。歳を経た大樹のように大きく。先端が無数に枝分かれした、白い威容…。

 それは塔と形容され、樹とも表現される物。世界各地の伝承に、大樹や巨大建造物として語られる物。多くの犠牲が積み重

なり、充満した心を受けて、枝の先端に落雷を招き寄せながら、薄っすらと白く光る。

(あれが…御柱!)

 赤銅色の巨熊は目を見張った。

 幼い頃から話にだけ聞かされてきた、生まれて初めて見る御柱の威容。それは、美しくも恐ろしい、直感的に「ひとが触れ

てはならないモノ」と察せられる代物だった。

 奥羽のバベル。この国で与えられた固有名称は「第十七番御柱、禍祖(まがつのそ)」。

 五百年ぶりの顕現であった。