第四十八話 「ヴィゾフニル」
「お前から見て、気持ち悪いんじゃないのか?」
壁際のドリンクサーバーから紙コップにアイスコーヒーを注ぎつつ、男は問う。
「何がっスか?」
シャワーを終え、全裸で涼みながらベンチに腰掛けて冷水を飲んでいたもうひとりの男が、先に声を発した男の背中に目を
向けた。
どちらも白い被毛を纏い、双眸は金色だが、容姿は大きく異なる。
アイスコーヒーを飲んでいる男は白いジャガー。引き締まった体躯を柔軟な筋肉の陰影で彩った、均整の取れた体つきで、
白亜の彫像のように美しいボディラインが印象的。
全裸でベンチに掛けている男は北極熊。身の丈2メートル半はあるだろう肥満体の巨漢で、あちこちが筋肉で丸く盛り上がっ
た、離れていても目を引く巨体である。
ベンチとロッカーが並ぶ、トレーニングルームに隣接した休憩室。深夜という事もあって二人以外にひとの姿はない。
「だから、「ニーベルンゲンの模倣物」が、だよ」
波打つコーヒーの水面を見つめて、オーズは言った。
オーズは、旧世界の獣人の一種である「ニーベルンゲン」の因子を、卵細胞の段階で植え付ける事で造られた生命体である。
その因子の提供主がジーク。…とはいえ、本人が知らない内に無断使用されていた格好であり、存在を知るまではそんな事が
行なわれているなど想像もしていなかったのだが。
ニーベルンゲンは異層…イマジナリーストラクチャー「ニブルヘイム」に篭り、出て来る事はない。記録にある範囲で唯一
ニブルヘイムを出たニーベルンゲンであるジークは、非常に貴重な存在である。かつてある事への見返りを要求する代償とし
て、自らの価値を知ったジークは先進国政府連合に細胞を提供した。
その細胞を元に、先進国政府連合は人工のニーベルンゲンを造ろうとした。
オリジナルであるジークをA-Typeとし、B、C、D、E、F、Gと様々なアプローチで生み出そうと画策した。どれ
だけ手間や金をかけても再現あるいは劣化コピーを造る価値がある…。全ての能力者やレリックに対して天敵となり得るニー
ベルンゲンという存在は、それほどまでに魅力的だったのである。
だが、その多くは失敗した。
B-Typeはそのままジークのクローンとして一体だけ生み出されたが、指示に従わず、制御もできず、強制凍結処分と
なった。
C-Typeは細胞を培養し、各種刺激などを与えてひとの姿にしようとしたが、肉隗にしかならなかった。
D-Typeは現行人類の獣人をジークの因子で遺伝子改良しようとしたが、尽く全身が病巣化するという悲惨な最期を遂
げた。
E-TypeはD-Typeと同様の手法で、被験者を十代前半以下の少年少女に絞ったが、結果は同じだった。
そしてF-Typeは、人工授精させた卵細胞に因子を付与するという物。結果的に、58個の卵細胞から四体の赤子を生
み出す事に成功し、その内一人がジークに近い特異体質を持っていた。
それがオーズ。唯一のF-Typeニーベルンゲン正規仕様。提供受精卵が濃い古種の遺伝子を持っていたが故に反発作用
が抑えられ、偶然誕生した人工ニーベルンゲンである。
フィンブルヴェトの設立にあたり、オーズは先進国政府連合軍から送り込まれた。オリジナルであるジークと水面下で比較
する狙いもあったのだろうが、理由はもう一つあった。
F-Typeニーベルンゲン唯一の成功例であるオーズには、欠陥があった。
それは、寿命である。
オーズは細胞の劣化が早く、試算では四十歳程度で寿命を迎える事が早くから判っていた。皮肉にも悠久の時を生きるニー
ベルンゲンを模そうとして、短命の生物ができあがってしまったのである。
だから先進国政府連合の担当部署は、フィンブルヴェトでオーズの有効性をアピールし、さらなる研究を行なう口実を得た
かった。より高品質な、欠陥のない、納得の行くニーベルンゲンを造るために。
オーズは時々、自分と同時に誕生した他の三名の事を思う。因子が定着せず、普通の獣人として誕生し、物心がつく前に他
界したきょうだいの事を。
彼らと比べれば長生きできた。そう思っているから短い寿命をどうとも感じない。
そう造られたからそのように生きて死ぬ。ずっとそう考えてきたので、兵器として、兵士として、死地に送り込まれる生き
方に何も疑問は無い。
だが、気になったのである。オリジナルである同僚は、自分をどう思っているのかと。
「別にどうとも思ってねぇっスけど?」
ジークは言った。何言ってんだコイツ?という顔で。
「いや、性格悪かったりしたら嫌っスよ?そりゃ人並みに好き嫌いはあるっスから」
何を言っているんだコイツ?という顔でオーズはジークを見返した。
「生まれそのものについてどうとも思わないのか?連合はお前の因子を無断で使って我々を作ったという経緯を、ミーミル先
生から聞いたぞ?」
自分の因子を無断で使用して造られた出来損ないのコピー。これを不快と感じないのかと、オーズは食い下がる。しかし…。
「そこなんスよ。勝手に作られて知りもしなかったから、遺伝子がうんぬんとか、オリジナルがこっちとか、言われたトコで
実感ねぇんス。親戚みてぇなモン?って言われてもピンとこねぇっス。だいたい…」
ジークは面倒臭そうに言った。
「オレの因子を勝手に使ったのはお前自身じゃねぇ訳っス。責めろとか言われても困るんスよね。だいたい、生まれちまった
モンは仕方ねぇっス」
「………」
オーズは黙り込む。ジークは本当にどうでも良さそうな口ぶりで、何とも思っていないようで…。
不意に二人の顔が出入り口のドアに向いた。
乳白色のドアが音も無くスライドし、その向こうから姿を見せたのは、でっぷりした肥満体によれよれの白衣を羽織った、
だらしない身なりのジャイアントパンダである。
「邪魔するぞ」
寝不足で目が充血しているジャイアントパンダは、咥えタバコのままモゴモゴと低く言って、一度全裸のジークに目を向け
たが、シャワー後の冷却には裸でいるのが合理的と判断したので何も言わない。
ふたりの間を通過したジャイアントパンダは、更衣室奥の壁面に手を触れる。直前まで白壁にしか見えなかったそこが四角
く手前に迫り出して、箱のように開いた上側に手を突っ込んだジャイアントパンダは、中を通っていた配線からプラグのよう
な物を外した。途端に天井の灯りが消えて、ジャイアントパンダは壁面が発する淡く白い光の中で、外した部品をしげしげと
見つめた。
ジークが「また不具合っスか?」と問うと…。
「リレーに異常反応があった。原因は部品の精度だな…。既製品はどうも相性がよくない。特にこれは酷いな、安物だ。こん
な有様では飛行機能の復旧など危険過ぎる。いつ落ちるか判ったものではない」
「古代の遺産ですから、既存の技術とは噛み合わない所も多いのでしょうが…」
ジャイアントパンダがぼやき、オーズが唸る。
ここ、フィンブルヴェトの本部として先進国政府連合から提供された「ヴァルハラ」は、古代の遺物…建造物級レリックで
ある。調査研究途中で何だか判っていなかった代物を、価値を見抜いたジャイアントパンダが要望しフィンブルヴェトのトッ
プに在る獅子が交渉して提供させた物。
つまり、不明な部分も多いので、本部として利用しつつ住み込みで解析する事になる。受け渡しから一週間、ヴァルハラは
未だに大半が機能不全の状態なので、技術部門のメンバーは日々仕事に追われていた。
不明な所は解析しつつ、現行技術を導入し、どうにか補う格好で施設として運用できているものの、実はこれがかなり無茶
な手法。そもそも構造体その物が回路から駆動装置まで兼ねた構造になっているため、現行技術で電力や空調のラインを補っ
た箇所は噛み合いが悪くなるケースが多い。
そして、技術部門のトップにあたる主任のジャイアントパンダは、昼夜問わず異常が見つかる度に、こうして自ら現場を確
認している。スタッフには優秀な技術者研究者が揃っているのだが、その中でも飛び抜けているジャイアントパンダは、他者
に任せるのは合理的ではなく自分がやる方が確実で手っ取り早い、という結論に至るので、スタッフが増えても一向に仕事が
減らない。
「ここ禁煙っスよ」
「知っている」
タバコを咥えたまま焼けたプラグを確認したジャイアントパンダは、白衣のポケットから同型の物を取り出しながらジーク
に応じる。
「知っててなんで咥えタバコで入って来てんスか?」
「消すのが勿体無いし面倒臭い」
しれっと応じたジャイアントパンダは、さしあたっての応急処置を手早く行ない、天井の照明を点灯させた。「抵抗圧を考
えて自分で部品を作るのが合理的か。面倒臭いが…」などと零しながら。
そんな、面倒臭い面倒臭いと口癖のように言いながら、実際には誰よりも働いているジャイアントパンダに、ジークは思い
出したように訊ねた。
「ミーミル。人工のニーベルンゲンとオレ、何か違うっスか?」
「何だ?藪から棒に抽象的な質問だな」
面倒臭いと表情で語るミーミルは、オーズをちらりと見遣る。
同僚となって一週間。互いの素性も知った以上、何かやり取りがあったのだろうと察しはついた。
「種が違う。私とオーズオースの種が違う程度に、お前とも違いがある。他は、微々たる物だ」
燃え尽きそうなタバコを取り出した携帯灰皿に突っ込んで消し、新しいタバコに火をつけながら、ミーミルは続ける。
「誕生の経緯の違いについて聞きたいなら、そちらも実質的に差は無い」
「?」
オーズは眉を上げた。自分は自然に生まれた者ではないのに、と。それを尻目に、話を振ったジークは腰を上げて飲料サー
バーを操作し、ミーミルに焼けるような熱いコーヒーを用意する。
「誰も彼もが、生まれ方も生まれる場所も選べない。そこに納得や満足ができるかというひとの命題はさておき、どんな生ま
れ方であろうと実際に誕生し今を生きている生命であるという点は同じだ」
紫煙を吐き出し、天井へ昇るそれを見送って目を細めたミーミルは、ジークが差し出したホットコーヒーのカップを受け取
りながら顔を戻すと、オーズを真っ直ぐに見る。
「ジークに気を使う必要もなければ、誕生の経緯について卑下する必要もない。お前は優秀な兵士であり、ジークとは違う一
個人…、そして、連合首脳部とも異なる思考を持って当たり前の、一人格だ」
生まれはどうあれ一個人。誕生経緯で自分の立場や周囲との接し方をいちいち考える必要はない。ミーミルはそう意見を述
べ、付け加えた。
「生まれは選べず、しかし生き方はある程度選択でき、場合によっては死に方も選べる点については、我々は何も違いはしな
い。これは老婆心からの忠告だが…」
コーヒーを吹いて冷ましながら、ミーミルは告げる。そう在りたいと自らが思い続けている事を。
「自分の定義は自分で決めろ。己が思う己であれ」
「…はい」
オーズが神妙に頷くと、解決を丸投げしたジークが白々しく拍手した。
「流石は医者っスね!」
「メンタルケアは専門ではない」
ぶっきらぼうに応じるミーミル。必要だったとは思うがジークから押し付けられたのが面白くない。
「専門家じゃなくても対処はできるって事じゃねぇっスか。伊達にファンタジスタやってねぇっス」
「「元」ファンタジスタだ。バチカンは既に私を除籍している」
ミーミルは飲みかけのコーヒーを片手に出入り口へ向かい…、
「ああ、そうだ」
思い出したようにふたりを振り返った。
「明日にはディンから正式な話があるだろうが、半月ほど後、ニーベルンゲンが増える事になる」
『は?』
ジークとオーズは声を揃えた。
「ディンが正式に疑義を伝えた事もあり、ニーベルンゲンの再現実験は中止されるそうだが、ロールアウト寸前だった被験者
…つまり最終ロットにあたるG-Tyepをこちらで預かると決まった。まったく、流れるように仕事を増やしてくれる物だ」
北極熊がチラリとジャガーを見遣る。
抱いているのは後継が存在した驚きか、あるいは迎える喜びか、それともそれ以外の何かなのか…、オーズは複雑な顔をし
ていた。
ザゴンッ…と音を立てて立ち木の半ばを二条の線が走る。
輪切りにされた木の脇に、転げた赤銅色の羆は両腕を交差させる。
回避したユウヒを音も置き去りにする前蹴りで捉えた白いジャガーは、足に纏う白い蒸気と、防御に回った熊の腕の間に生
じた空間を凝視する。
分解されて光の粒子に変わってゆくユウヒの力場は、しかし穴が空かない。
(対処され始めたか!)
ボッと大気が震え、周辺に雪煙が舞い、蹴り飛ばされたユウキが木をへし折りながら砲弾のように吹き飛ぶが、宙で体勢を
整えた巨熊の目には衰えが無い。ほぼノーダメージである。
ユウキがオーズの霧に対処すべく打ち出した手段は、エネルギーの高速流動。力場を強靭に固めるのではなく、かき消され
る傍から流れ込み流れ去る体表を循環する新形態で纏っている。
強靭であり柔軟でもあり、決まった形を持たない…。そんなエナジーコートと称される能力の本質に迫る、祖父の下での修
練があって可能になる発想。
雪面に足が着くなり急停止するユウヒ。足裏からスパイクのように力場を発生させ、急制動で生じたGも物ともせず、飛ぶ
ように接近するオーズを迎え撃つ。
白く透き通る刃を纏ったミドルソードは間合いを伸ばしているが、その変化にも順応した。
そして、ユウヒが用いるのは流動させる力場だけではない。握り込んだ拳に力を集約し、散らさせる速度を上回る強烈なエ
ネルギー放射で覆う。
振るわれた左剣を右拳で打ち払う。突き込まれた右剣を左拳で殴り払う。そして脇を締めたコンパクトなボディ狙いのフッ
クが唸りを上げる。
オーズは腕を交差させてこれを受け止め、踏み締めた雪面から氷塊が飛んだ。
そして二頭は足を止めての乱打戦に突入した。散らさせる傍から纏い直す力場。吹き消されるや否や噴出される蒸気。一進
一退の攻防に見えて、しかしここに来て僅かにオーズの旗色が悪くなる。
ユウヒはこの戦闘の最中、徐々に反応速度を上げている。より正確には、これまでにない強敵を相手に、ポテンシャルを引
き出し「順応」している。オーズという強敵との鬩ぎ合いによって、神代勇羆は祖父との修行の成果を己の闘法に馴染ませる
形で急成長を遂げていた。さながら、見合う砥石が見つかった強靭な刃が、やっと研ぎを入れられるように…。
「!?」
オーズの右手から剣が弾き飛ばされた。次いで、ユウヒの右拳が鋭く、腰の入った正拳突きとしてジャガーの胸を捕らえる。
散ってゆく速度を上回るエネルギーの放出で、金色に輝く一打。それがオーズの胸甲を、バギンと叩き割った。
オンッ…と風が鳴く。この戦闘において初めてクリーンヒットを許したオーズは、蒸気で白い線を宙に残しつつ高速飛翔し、
当たった木々を木っ端微塵に粉砕しながら50メートル以上も吹き飛んだ。
雪面に転げ、長い滑走を経て、ようやく止まったオーズは、起き上がろうとして手をつき、しかし激痛で崩れ落ちる。
「げはっ!」
うつ伏せのまま咳き込んだジャガーの口から大量の血が泡混じりで零れた。肋骨の大半をへし折られ、それが臓器に突き刺
さっている。ダンプカーの激突でも負傷しない強靭な肉体はしかし、一撃命中しただけで簡単に破壊されてしまった。
呼吸もままならない状態で、何とか顔を起こす。
(行かなければ…)
周囲の木々の上に聳えて見えるバベルを、ちらりと見遣る。
(行かなければ!)
雪面に突き立てた剣を杖に、震える膝を叱咤する。
(スルト…、アレを、お前に…!)
バベルがあれば何とかなる。世界を相手に戦える。自分はもう無理だが、せめてバベルを皆に与えてやれれば…。
雪を踏み、大股に近付く影。喀血して足元を赤く染めたオーズが顔を上げれば、そこにユウヒが立っている。
「…勝負あった。ここまでだ」
戦える状態ではないどころか、手当てが必要な命に関わる重傷。戦闘行動は不可能と見て降伏勧告するユウヒは、戦いを通
して察していた。
このジャガーには、憎悪がない。敵意がない。必要であるが故の殺意は剣筋に篭っていたが、それは自分達が御役目に臨む
際の気構えと同じ、目的のための物に過ぎないと理解できた。運よく命があったのだから、ここで切り上げるべき。そう考え
たユウヒに、
「済まないな…。気遣いまでさせて…」
オーズは笑った。激痛に歪んだその苦笑いには親しみすら篭っている。堅苦しさの中に見え隠れするユウヒの配慮で、オー
ズはかつての後輩であり、現在の盟主である赤い虎を思い出していた。
「だが…、ここで降りる訳には行かないのさ…」
杖にしていた剣を雪から抜いて、一本になった愛剣を構える。
「俺は、どのみち残り一日二日の寿命でね…」
ユウヒの眉が僅かに上がる。
「驚いたかい?」
「病…か?」
「まぁ持病に近いかな、生まれつき短命になる事が決まってたような物さ。で…、そろそろ体も保たない」
オーズはまた笑った。済まなそうに。
「だからまぁ、我侭と意地を通したいのさ…。やれる事はやった人生だった、ってね…。そんな訳で…」
ユウヒが構える。オーズの望みを察して。
「…悪いね…」
ジャガーは耳を倒した。最期の瞬間まで前へ進みたい、残せる物があるなら仲間に託したい、その意気を皆まで言わずとも
汲んでくれた強敵に、感謝を抱きながら詫びる。
案外、出会い方が違えば、立場が違えば、じっくり話す事もできた相手かもしれない。浮かんだそんな考えを、どうしよう
もない「たられば」だと、オーズは払拭する。
「…オーバードライブ…」
オーズの身を覆う軽甲冑と、剣に纏った白い刃が全て分解され、蒸気に戻って周囲を漂う。それが、両手で握り締め、眼前
で垂直に立てて携えたミドルソードに集まり、色濃い渦となって根元から上へ移動してゆく。
「クランブリング…ホワイト…」
移動する霧が巻きつくようにして生成したのは白刃。先ほどまでの刃とは違い、ミドルソードの元々の刀身が見えないほど
色濃い、純白の刃。残り少ない命を前借りし、呼吸すら止めて身構えたジャガーは、手負いでありながらもダメージを感じさ
せない。
おそらく、ここから短時間はこれまで以上の動きを見せるだろうと理解して、ユウヒは作務衣の袖に腕を引っ込め、襟を掴
んで引き卸し、諸肌脱いで上半身を晒す。
腰をしっかり沈め、肘を左右に張る格好で、両拳を胸の前で向き合わせた赤銅色の巨熊は、一瞬だけ躊躇いを見せた。
正直な所を言うと、神卸しは使いたくなかった。修練はしているが完璧に御し切れる自信がまだない。暴走するのではない
かと不安が残る。
だが、禁圧解除だけでは張り合えない。最期の力を振り絞るオーズと勝負するなら…。
「狂熊…覚醒!」
ゴヅンと、ユウヒの拳が胸の前で接触する。線が繋がった電球のように、その身を覆った力場の燐光が光量を上げる。その
表面でチリチリと火花のように散るのは、空間に留め置くには余剰となり、飽和限界を超えたエネルギー。
そして、それが明度を落とす。金色に近い眩さから、夕暮れの空のように赤味を帯びて、変じた先は赤銅の色。
(…よし!)
ユウヒは両拳を軽く握って感触を確かめる。
澄み渡った感覚と、消え去った疲労感。満ち溢れる力は膨大だが、それに翻弄される事も、獣牲に囚われる事もない。神卸
しの完全制御を成し遂げたユウヒの力場は、その被毛の色にも似て、赤々と燃える燐光と化している。
「いざ」
オーズは両手で握った剣を、刃先を後方に向ける形で水平に寝せ、ジリッと距離を詰める。
「応」
ユウヒは腰を低く落として右足を前に、左足を後ろに、右腕を軽く上げ、肘を曲げて前腕を立て、左腕は脇腹にヒタリと据
える格好で構えた。
勝負は一瞬。次の動きで決着がつく。
タンッとオーズが跳んだ。延長された白刃が、包丁が西瓜の実を切るように、抵抗なく大地を切り裂いて下からスイングさ
れる。単純な切り上げの動作だが、それはオーバードライブによる膂力、走力、スイング速度を全て注ぎ込んだ一太刀。刃先
どころかオーズ自身が体丸ごと音速を超えている。その剣の軌道上に身を置けば、薄紙を剃刀で切るように易々と両断されて
しまうだろう。
対するユウヒは、オーズの初動と同時に、引いた左拳に赤々と命の火を灯していた。
「奥義。千花(せんか)…」
集約された過剰なエネルギーで空間が軋む。肘の後ろで力場が弾け、噴射する。
ロケット噴射の要領で瞬時に音速まで加速された左拳に宿るのは、力場の障壁によってかろうじてその形状に保たれた、崩
壊熱だけで1万℃超に達する超高密度かつ高純度の、一千枚に及ぶエネルギー幕の多重層。
「斉萌(せいほう)!」
噴射するエネルギーで彗星のように尾を引き、赤と白の箒星が激突。大地が抉れ返り、周囲の木々が衝撃で吹き飛ばされな
がら燃え上がり、瞬時に灰と化して飛び散る。
(「己が思う己であれ」…。死に方はまぁ、選べた方だろうな…。ミーミル先生は選んだ内に入らないと言いそうだが…)
閃光の中で、オーズは笑っていた。
心残りはあるが、気分としては悪くない。そう思えて。
(悪いねヘル、あとは頼んだ…。済まないなスルト、先に休む…。後始末は任せるぞ、アサルトベアーズ…。…そして、ニー
ズ…。帰れなくてごめんな…。皆…、なるべく長生きするんだぞ…)
噴火が再び生じたような轟音が、河祖群を揺らした。
円形に拡大し、周辺一体から根こそぎ雪を蒸発させた閃光と熱波が落ち着くと、爆心地となったその中心部に、佇む影が見
えた。
熱の残滓に揺らめくその中心部に仁王立ちするのは、纏う被毛も燐光も赤銅色の、若き巨熊。
オーズの姿は無い。衣類の一部、被毛の一本すら残さず、完全に消滅していた。
チリチリと、余剰エネルギーが火花を散らす力場を纏ったまま、ユウヒは短く黙祷を捧げた。自分がこれまでに出合った中
で最強の、おそらくは信念に裏打ちされたのだろう強い芯を持っていた、ひとりの戦士に。
踵を返し、夜空に枝を広げる御柱を見遣ったユウヒは、ふと、地面に立つ鉄の輝きに気付く。
消えかけて明滅する日照の光を受けて煌くのは、先の殴り合いで弾き飛ばしていた、オーズのミドルソードの一方。
レリックの類ではない。非常に強固な合金製の業物ではあるものの、現行技術によって製造された、何の機能も持たないた
だの金属剣…。
表面が融解してなお倒れず、熱波で炙られた地に突き立ったままのそれが、ユウヒの目には、死する時まで信念を曲げなかっ
た白い戦士の、碑銘無き墓標に見えた。
そこに目的の物があった。
黒ずんだ隻腕の影は、溶岩が固まったゴツゴツした地面を、足を引き摺るようにして急ぐ。
チベタンマスティフの目には、聳えたバベルが象牙色に輝く大樹と映った。
「はぁ…、はぁ…、あそこまで…、あそこまで行けば…!」
無くなった左腕を押さえ、ヴィゾフニルは白い塔を目指す。救いを求めるように。何かから逃れるように。
明滅する光球…消えかかった日照の灯りに照らされたその威容を見上げるチベタンマスティフの口の端が、僅かに上がった。
好機だった。
扉を開けて中に入れる者は限られる。ヴィゾフニルが預けられている品…シャモンという天然のレリックヒューマンの血と
遺伝子情報は、扉を開く鍵となる。
あの男も中までは追って来れない。あの男から逃げられる。もう少し…。もう少しで…。
当初の目的よりも組織の指令よりも、ヴィゾフニルは個人的欲求でバベルを目指す。つまり、我が身可愛さで。
例えバベルの使い方が判らなくとも、中に入りさえすれば助かる。ラグナロクは総力を挙げてここを占拠しに来る。疲弊し
た御庭番達は蹴散らされ、自分は救助される。
枝分かれした塔の先端に落雷する音が、空を震わせ地面を揺する。
オアシスを目指す砂漠の遭難者のように、ヴィゾフニルは塔に近づいてゆき…。
「そこに居ったか!」
その声が、チベタンマスティフの体を震わせた。
振り向けば、焦土を越えて追ってきた熊親父の姿が、地面から立ち昇る煙の隙間に見えた。
瀕死の重傷を負ってなお背筋を伸ばす、隻腕となったユウキの凄まじい眼光が、チベタンマスティフを射抜いた。
「ひ…!」
悲鳴を飲み込み、ヴィゾフニルは前に向き直って急ぐ。巨大建造物の基部…太い塔の扉を目指して急ぐ。
その背中を睨みつけ、熊親父は残った左腕に力場を発生させた。
「雷…」
不意に声を途切れさせ、ゴポリと頬を膨れさせたユウキは、体をくの字に折る。
「げふっ!がほっ!…げぇっ!」
ビチャビチャと足元に大量吐血し、激しく咳き込んで背を震わせるユウキ。その左拳に宿った燐光が、不規則に明滅したか
と思えば光の粒子を四方に散らして消え失せる。
操光術の光は、生命力を転化したエネルギー。毒が回りきったユウキの体にはもはや力が残っておらず、四肢も殆ど言う事
を聞かなくなった。
膝から崩れ、ドシャリと音を立てて地に手をつく。
(あ、あと一歩じゃと言うに…!動け!動けこのポンコツが!今動かんでどうする!)
中に入られてしまっては追えない。御柱の扉を開ける者は定められていると、伝承に聞いている。おそらく御柱を狙った敵
軍は扉を開ける何らかの手段を持っているのだろうが、少なくともユウキや御庭番には入る手立てが無い。
目が霞む。景色が揺れる。滲んで揺れる視界の中で、ヴィゾフニルが遠ざかる。
「入り口…、はぁ、はぁ、い、入り口ぃ…!」
ヴィゾフニルは、ジャケットの内側から取り出したシャモンの密封遺伝子情報…バベルの入場キーとなるカプセルを翳し、
扉に近付く。
ロキの話によれば、大半の建造物級遺物には厳重なセキュリティが設けられており、それらが正常に作用しているならば「
しかるべき情報」を感知させなければ開門しないようにできているらしい。バベルに携わっていたタイプのレリックヒューマ
ンの遺伝子情報は、入場パスとして機能すると聞いているが…。
ヴィゾフニルが焦りながらカプセルを押し付けた瞬間、扉は淡く明滅し、ゆっくりと開いた。
「は…、はは…!」
歓喜が、安堵が、チベタンマスティフの顔を彩った。
「しくじった…!」
唸るユウキ。遥か先で扉が閉まってゆき、内側でヴィゾフニルが嘲笑する。
自分の勝ちだと…。
そして、扉が重々しい音を立てて閉じ切ったその時…。
「当主!」
聞き馴染んだ声がユウキの耳を叩いた。
焼けて固くなった地面を急ぐ足音。そこには堅い響きも混じっていて…。
「シマタケ…。それに…」
脇に駆け寄った老虎は跪くなり、不動索で雑に止血されていた、付け根しか残っていないユウキの右腕に被せる格好で包帯
を巻く。さし当たっての傷の保護しかできないが、やらないよりはマシである。
さらに、背中に触れた掌の感触に次いで、ジワリと温かさが広がり、肌が熱を取り戻す。
「無茶をする」
その声に、ユウキの口元が思わず綻んだ。
「手足の一本、親父殿と違わんわい」
息子の背に手を当てて、周囲から吸収した熱エネルギーを還元してやりながら、ユウゼンはバベルを見遣る。
「これが、禍祖の御柱か…」
「神代ではなくなった男」がここ河祖郡に村を拓いたのも、元はと言えばこのバベルの存在が確定的だったからこそ。いわ
ば神代家がこの地に根ざす理由でもあり、この地を守護する最大の理由でもある存在と言える。存在を疑った事は無かったが、
生きている間に顕現を目の当たりにする事は想像もしていなかった。何せこれが出現するという事は、敗北に等しいのだから。
しかし…。
(ユウキには…、無理か)
荒い息をつく息子を見下ろし、老熊は考える。
鳴神より分かれた神代の技は、危険な遺品を破壊するために代々磨かれてきた。その危険な物には、手に取れる品だけでな
く「建造物級」も含まれる。
「………」
果たして、この老いた体に残った力を振り絞って、破壊を為せるか否か。ユウゼンはしばし黙考し…。
「!」
大地を踏む足音に、耳を反応させる。
感覚が鋭いユウゼンには歩調で判る。それが、自分の教え子でもある孫の物だと。
振り向いた老熊が、目が霞む熊親父が、老いた虎が目を向けた先には、諸肌脱いで赤銅色の上半身を晒す、若き巨熊の姿。
「恩爺様…、親父殿!?」
父親が片腕を失っている事に気付いたユウヒは、大股に近付いて…。
「撤退、開始するわぁ」
灰色の髪を右手でサイドに跳ねながら、ヘルは負傷兵が大半を占める残存兵力に宣言した。
頭を垂れているバッソは反論しない。担架に括り付けられているヴェルも、望洋とした目を向けたまま口を開かない。
生き残ったアサルトベアーズ8名は、もう理解していた。反応が消えた仲間やオーズは、もうこの世に居ないのだと…。
指揮を引き継いだヘルにとっても苦渋の決断である。
オーズは逝った。
盟主にとって最も必要だった幹部であり、この陣容での最大戦力が逝った。
ヴィゾフニルの状況は定かではないが、ここから盛り返す事も、バベルを占拠して援軍が来るまで持ち応える事も不可能。
ヘルにできる事はもう、オーズ達が逃した敗残兵を纏めて引き上げる事だけ…。
「返事が無いわねぇ?撤退よ、良いわねぇ?」
復唱を促して繰り返す魔女の口調は、内心とは裏腹に、完全に平時のそれだった。
(オーズ…。周りがどれだけ貴方を必要としているか、ちっとも弁えないで勝手をする悪い癖…、最後まで治してくれなかっ
たわねぇ…)
白く、仄かな光を宿す壁に囲まれた空間。
塔の内部に侵入したヴィゾフニルは、開門のキーとなるシャモンの遺伝子情報が入ったカプセルを握ったまま、右手をダラ
リと下げた。
「何だ…これは…?」
見上げたチベタンマスティフの目が映しているのは、吹き抜けになっている巨大な塔の内部空間。内壁に沿って延々と続く
螺旋階段は、遥か頭上で壁などの象牙色に溶け込んで消えている。
壁や床を構築している物質は、レガリア特有の構造物。陶器のようでもあり生物の骨のようでもある、うっすらと発光する
材質。ヴィゾフニルには馴染みの材質なので、これが間違いなく古代の遺物である事は判った。が…。
「何も…ない…?いや、上に何かあるのか?」
声すら反響しない、ただただ広い空間の中で見上げ続けたヴィゾフニルは、ちらりと扉を振り返った。
入って来られるはずはない…、と思いたいが熊親父の目が脳裏にちらつき、足が階段に向かう。この先に何があるのか確か
めたいというよりも、少しでも遠くへ離れたいという意識が働いたのだが…。
(もしかすると…)
ヴィゾフニルは思う。
(もしかすると、この先には、塔を制御するシステムがあって…)
口の端が僅かに上がる。
(上手くすれば…、使う事もできる…か!?)
恥辱を与えてくれた連中に、目に物を見せてやろう。暗い笑みを浮かべ、ヴィゾフニルは螺旋階段を登り始めた。