第四十九話 「神代勇羆」
白い大樹。
自分達が御柱と呼んできたソレを、赤銅色の巨熊はそう見た。
天に聳える巨大な塔は、巨木のように上部で枝分かれし、その先端に落雷を受け続けている。おそらくは立ち込める暗雲も
雷も、アレがエネルギーを取り込むために発生させているのだろうと察しがついた。
「ユウヒよ」
白い威容を見上げる孫に、老熊が語りかける。
「あれこそが我々が護ってきた秘密。叡智と力の結晶にして、傾国の危機その物。今の世の人々が、未だ触れてはならぬ物」
頷いたユウヒが呟く。「天の御柱…」と。
腹の内で何かがざわつく。遺物の類を感覚的に嗅ぎつける神代の血が、聳え立つ白い塔に反応している。理屈ではなく感覚
で判った。それがどれほど強大な力と叡智の塊なのかが。
貴いから守護したのではない。大切だから護り通して来たのではない。それが極めて危険な物であるからこそ、代々の神代
は、他の各地の神将は、眠るバベルが何人にも起こされないよう守護し続けてきた。
武器や兵器の規模ではない、戦艦や要塞といった規模のソレは、正しく扱う知識と技術と素養を持つ者の手に渡れば、世界
すらも容易く変えてしまえるだろう。何せ、同じ物を使用する国家が存在しないのだから…。
「ユウキ」
ユウゼンは息子を見遣る。満身創痍で片膝をついている当主は、塔を見上げながら僅かに顎を引く。
理解した。
奥羽の守護頭として、神代の当主として、一家の家長として、決断を下す時が来たのだと。
「あの御柱を、破壊する…!」
ユウヒが、ユウゼンが、その命令に頷いた。
ユウキの身を支えるウンジロウは、ゴクリと唾を飲み込む。
帝の許可は得ていない。得てくるだけの時間的余裕もない。処罰を覚悟で決行し、事後報告する事になるが…。
(できる…のか?)
老虎は寒気すら覚える塔の威容を前に、手続きや処罰を別にして、不安に駆られた。手に持てるサイズのレリックですら、
現代の最新兵器を用いても破壊はおろか損傷させる事すら困難。それが、こんな大きさともなれば…。
(これほど巨大な遺物を、ひとの身で壊せるのか…!?)
一方、長い螺旋階段を急いで登ったチベタンマスティフは、いくつかの広いフロアを抜けた所で、奇妙な部屋に至った。
頂上まではまだまだあるはずだが、殆どがらんどうだったそれまでのフロアとは違い、円形のその部屋は無数の柱が立ち並
んでいた。構造物の強度による物か、ここまでは支柱の類も見なかったのだが…。
(何故ここだけ?この柱、支えとして必要とも思えないが…)
規則正しく等間隔で立つ柱の一つにそっと触れてみたチベタンマスティフは、並ぶ柱の間から、壁際にあるテーブル状の物
に気付いた。
歩み寄って確認すると、それは壁から手前へ板が生えるように伸びた、机とも作業台とも見える物。
(コンソール!)
ラグナロク本部の品に似ていたので、ヴィゾフニルにはすぐに判った。操作用の装置すら見えないのっぺりとしたそれが、
操作パネルの一種であると。
さっそく触れてみたチベタンマスティフだったが、反応が無い。軽く叩いてみるも、動きは見られない。
(何故だ?…そうか!)
ヴィゾフニルはシャモンの血液と毛髪が入ったパックを掴んで、左手でそれを中央に押し付けるように乗せ、起動を念じる
と、ヴィゾフニルの背後で無数の柱が薄桃色の光を発し始めた。そして、眼前の真っ白だった壁がスクリーンになり、塔周囲
の景色を映し出す。
同時に、チベタンマスティフの視界に無数の文字が浮かび上がった。
ヴィゾフニルが認識できるよう英語で出力されて来る文字列は、立体映像ではない。バベル側がヴィゾフニルの認識内へ投
影する形で、操作説明や塔の状態など、知りたいと思っていた情報が提供されている。
「は…、ははは…!」
ヴィゾフニルの口から歓喜の笑いが零れた。
生きていた。
バベル側が開示してきた情報で理解した。これまで発見されたバベルは機能が損なわれていたり、損傷してまともに動かな
い物ばかりだったのだが、この塔は完全な形で残され、ほぼ何も損なわれていない。流石に内部に保管されていただろう当時
の機器類…様々なレリックは残されていなかったが、それを差し引いても期待以上の保存状態だった。
どうやらここは簡易操作しか行なえないサブコントロールルームで、頂上にメインコントロールルームがあるらしいと、開
示情報で理解する。
長期のスリープモードから復旧したので自己診断中である事、経年により劣化した構造材を修復している事、周辺から電力
という形で動力を補填し、大気中の粒子を集めて構造材の修繕に当てている事など、ヴィゾフニルの目にだけ判る形で報告が
上がって来る。
しかし、ヴィゾフニルは気付いていない。ユウキに幾度も殴られてボロボロになり、全身を激痛に苛まれているのもあり、
目が霞むのもダメージのせいだと思っているので気付けない。
自分の鼻腔から血が滴り、両目が完全に充血している事には。
天然のレリックヒューマンであるシャモンの因子を認識させる事でバベルと限定的なリンクを構築したヴィゾフニルだった
が、彼自身の脳も精神も、バベルとは規格が合わない。そもそも旧人類の中でも一部の者がリンクに対応できていたのみなの
で、現行人類や血が薄まり続けた末裔では不具合が生じる。
バベル側もアクセスしているのが接続スペックを満たしている者だと誤認しているため、警告は発せられず、ヴィゾフニル
は自分の脳が機能障害で死につつある事も知らないままアクセスを続ける。
「…治療?治療できるのか?腕を?」
負傷をどうにかするために要求した情報によれば、傷の手当てどころか、失った腕すらも元に戻せるらしい。復元措置と題
された処置の説明を読み、すぐさま実行させると、背後に林立する柱が何本か淡い光を一時消して…。
「っ!」
一瞬の、目が眩むような強い閃光。何処かから照射されたのではなく、空間そのものが突然発火したように光った。同時に
ヴィゾフニルは、静電気が指で弾けたような感触と、熱い飲み物が入ったマグカップに触れたような熱を感じた。
「…信じ難い…。これは現実か…!?」
呻いたヴィゾフニルは、瞬時に復元された右腕を眼前に翳す。感覚もある。違和感は全く感じず、慣れ親しんだ自分の腕そ
のもの。ユウキと交戦する前の傷一つ無い状態である。
チベタンマスティフ自身は知らないが、生身の部位も、人工繊維に置換された部位も、元々の構成で完璧に再現されている。
また殺せる。その感激に新品の手が震えた。
まだまだ色々な事が出来ると確信したヴィゾフニルの口元が、ニヤリと笑みの形になった。
バベルにできる事をリストで表示させる。ずらりと並んだそれらは、奇跡と呼ぶに相応しい超常現象の数々。
腕一本、何事も無かったかのように復元できる一方で、ひと一人、何も居なかったかのように分解する事もできる。そして、
「造り変える」事すらも可能。無からの復元よりも簡単に、一部を「変更」する事もできる。それは肉体などの物質に限らず、
体の各種信号や思考に伴う電気的な反応、記憶野の情報すらも対象にできる。
つまり、物質的に好き勝手できるだけでなく、価値観、認識、思想の侵略すら可能。そしてこの機能の行使に対して、現行
人類の殆どは拒否権…つまり抵抗力を持たない。
バベルの機能は元々が旧人類の戦争で使用されていた物。対策や抵抗力の獲得でこれに抗する事ができるようになった古種
の獣人やレリックヒューマンなど一部の例外を除けば、大半の旧人類にすら通用する代物だったのである。現行人類にこれを
行なえば、抵抗すらなく強制的に思考や精神性や価値観を塗り替える事ができる。
これらの機能はほんの一部だが、それだけでも絶大な効力を発揮する。そして、動力さえ充分ならば、その射程は海を越え
て他の大陸にも届く。他のバベルへ干渉し、コントロール下に置けば、世界を掌握する事も容易い。
「世界を変えられる…、いや、それどころの話ではないぞ…!」
ヴィゾフニルは愉悦に身を震わせる。
「世界を、この星を、物理的に丸ごと破壊する事も…、人類の社会を一からやり直す事すらも…、そこで神になる事すら可能
だ!…む…」
額を押さえたヴィゾフニルは、感じた眩暈を興奮のためだろうと考え、スクリーンに集中する。
意思に従い、角度を変え距離を変え、見たかった物へズームしていった画面に、満身創痍で跪いている熊親父の姿が捉えら
れた。
「…まずはこいつだな…。手足を一本ずつ消してやろうか?」
どの機能を使ってこの世から消してやろうかと、リストを確認して目移りしたヴィゾフニルだったが…。
『警告。警告。当施設への攻撃準備行動を確認』
不意に、視界を警告メッセージが埋め尽くした。
『個体識別不能。データ内に該当する個体名及び情報はありません。計測値から「根絶者級」と推定』
(何だ?根絶者級?何の事だ?)
リンクが完全ではないため、バベルからの情報を感覚でダイレクトに知覚する事ができないヴィゾフニルは、元々持ってい
ない概念についてのメッセージは意味や内容を理解できない。
説明を求める意思に反応し、バベルは情報を提示するが、
「殲滅型獣人の上位存在…根絶者?何だそれは?殲滅型の獣人?旧人類の一種か?その上位存在?」
基本意識が無いため、開示情報の説明を求め続けるときりがない。その存在の詳細はともかく、ヴィゾフニルは「それが何
処にいるのか」と意識した。
『外殻構造に損傷を被る規模の高エネルギー反応を検知。当設備のオートマチックカウンター作用対象外個体と認定。危険で
す。危険です。ただちにマニュアルカウンターによる迎撃を行なって下さい』
警告が止まない中、モニターはユウキから外れてその前方…よりバベルに近い位置に立つ、赤銅色の巨熊にズームした。
諸肌脱いで上体を晒し、ゆっくりと呼吸していたユウヒの視線が、モニター越しにヴィゾフニルに据えられる。
「!?」
ヴィゾフニルが総毛立つ。
直感した。窓がある訳でもないので実際に見えてはいないはずだが、存在を知覚されたと直感した。
モニターに警告が重なる。異常なエネルギーの集中を計測して、無数のグラフと測定結果がユウヒの姿の周辺に次々表示さ
れてゆく。
根絶者。
それは、一つの生態系レベルで生命群を抹消せしむる者。旧人類の獣人の中でも特別な、徹底した殲滅のためにのみ条件付
きで戦線に投入された、当時の水準ですらバベルをはじめとする戦略級拠点などと同等の、最高峰に位置付けられる超兵器。
神代家として辿れる先祖のさらに先、遡れる限りの記録のさらに向こう、この島国に辿り着くよりも前、遥か北原において、
当時存在していた一つの文明圏と生態系を抹消してのけた個体が、その名称で呼ばれていた。
そしてバベルは今、神代勇羆という名の一体の現行人類…「もはやそのものと言える先祖返り」を、その測定値からかつて
の根絶者と同一種であると判定した。
「狂熊覚醒…」
ユウヒの全身で筋肉が膨張し、被毛がブワリと逆立って、現れた燐光が身を覆いつつ淡く発光する。
完全制御の神卸し。限界を超えた力を引き出し、ユウヒは奥義の使用に移る。
静かに、長く、息を吸い込むユウヒの周辺で、熱エネルギーを取り込まれて気温が急激に低下。地面がパキパキと音を立て
て凍結し、ダイヤモンドダストが舞う。
巨体から発散される燐光は揺らめきながら輝きを強め、次第に圧縮されてその色味を金色から赤銅に変えてゆく。
僅か五十四秒。それが、山を一つ吹き飛ばし、河を一つ海まで繋げ、街を一つ更地に変えてのけるだけのエネルギー確保に
要する時間。
「これほどになったか…」
思わず、ユウキは呻いていた。不敵な笑みすら浮かべながら。
神代の奥義の一つ、轟雷砲。この技の使用に際し、ユウキは三分近い準備時間を要する。吸収と練り上げに長けたユウゼン
でも同程度である。
それが、オーズとの一戦を終えてなお余力を残すユウヒにかかれば、三分の一程度で準備が終わる。
「我が孫ながら、恐ろしくなるほど力をつけたものだ…」
ユウゼンは孫の完璧な力場操作に舌を巻いた。
一つ誤り暴発すれば大惨事に繋がるところだが、不安は欠片も無い。掻き集められたエネルギーが練り上げられ、増幅され
てゆく過程の安定した運用は、ユウゼンが小規模なエネルギーで同じ真似をするのと同等の精密さ。
ユウヒはほぼ完成したと、父も祖父も確信した。おそらくは、神代家のルーツである荒蝦夷の長や、神代ではなくなった男
と同等の領域に、この若熊は至った。
静かに塔を見上げるユウヒ。
見えている訳ではない。だが、討たねばならぬ者の存在を感じ取っている。
無拍子。現役時代のユウゼンをホトケと言わしめた超感覚の一種。それは武道における「機を読む」「呼吸を読む」という
物に通ずる物だと代々説明されてきたが、厳密には異なる。
端的に言えば、それは意思そのものを感知する力。実際の視線や行動などに限らず、自分に向けられた意思を感じ取る。ユ
ウゼンからユウヒへ隔世遺伝し、磨かれたその超感覚が、バベルのセンサー類を駆使して自分を見ているヴィゾフニル…その
意思と位置を把握させた。
(この世に「断って良い命」は一つも無い…)
胸の内で、ユウヒはその言葉を反芻する。
止むを得ず断たねばならない命は、役目上どうしても出て来る。しかし、断たれても構わない、断っても良い、そんな命は
この世に一つとして無い。
命は一つで完結しない。断つ命の向こうにいくつもの命がある。先に相対した白い超戦士にも、仲間が在り、親友が在った
のだろう。
自分は、誰かにとってのユウトをこの手に掛け続けてきた。
自分達は、誰かにとってのヤクモを殺め続けてここに居る。
許される殺しなど一つもない。命を奪い未来を断つのは、許された特権などでは決してない。この指は殺める都度、摘んだ
命で染まりゆく。
(屍山を築き血河を渡り、摘みし命に指を染め、この身殺して仁を成す)
ユウヒは憎悪で殺めない。怒りで命は奪わない。理解し共感し必要性を認めた上で未来を断つ。故に…。
(憂き世の雨を晴らし候、命一つを武に込めて、矢尽き刃の折れるまで…)
二度と、父の片目を奪った時のように、獣に飲まれる事は無い。
その劇的反応を伴うエネルギーの集約とは裏腹に、力の集積と増幅は安定して完了し、軽く曲げて両脇腹につけたユウヒの
左右の拳は、熱した鋼のように赤々と輝く力場を纏う。
両脚を開き、膝を曲げてしっかりと踏み締め、天を睨んで構えたその姿勢を目の当たりにし、もはや言葉もないウンジロウ
は、一転して確信していた。
(御柱は…折れる!)
先ほどまでは、ひとの手に負える規模ではないと思えていた御柱。しかしそれが、今のユウヒと同じ視界に捉えると、むし
ろ脆そうに見えて来る。
「奥義…」
被毛と同じ色の力場を纏い、聳える白を見据え、ユウヒは光を纏う両手を勢い良く突き出した。
「轟雷砲!!!」
轟音と共に生じた閃光が天地を繋ぐ。
四指を揃えた両掌で、突き飛ばすように伸ばした腕の先。天を衝いて立つ赤い光柱が、添え木のように白い塔に接した。
放ったその反動が衝撃となって、ユウヒの足下に抜けて激しい縦揺れを起こす。
奥羽山脈全体を揺さぶりながら放たれた轟雷砲は、ユウヒの手元から細い放射状となっていた。その直径は最初の2メート
ルほどから、徐々に照射面積を増やし、最終的にはバベルを飲み込む直径100メートル超えの赤い奔流と化す。
コーン状に聳える赤銅色の光柱は、バベルを外側から削り取るように破壊し、細かな粒子に分解してゆき…。
『異常確認。異常確認。異常確認。異常確認。損害率16パーセント』
構造物自体が白く発光していたバベル内部が、赤い警告灯で様変わりした。
『外殻構造及び192層のイマジナリーヴェール消失。基礎構造に及ぶ損壊を検知。損害率27パーセント』
ヴィゾフニルはしかし、その警告に従って適切な対処を取る事ができる状態にはない。
「~~~~~~~~~~~~!!!」
跪き、頭を抱え、仰け反り、裂けそうなほど開いた口から、声にならない絶叫を迸らせている。
『損壊概要、高密度エネルギー飽和攻撃による空間震動、及びその副次効果による熱、衝撃を原因とする質量崩壊。損害率3
9パーセント』
バベルからの損害状況報告と、送られてくる膨大な検知データに、元々対応していないヴィゾフニルの脳は耐えられない。
『高密度純エネルギーによる飽和現象により異層構造式防御機能が無効化されています。369層のイマジナリーヴェール消
失。損害率39パーセント』
既に塔全体が震動し、激しい軋み音と地鳴りのような低い音が足元から這い上がって来る。発狂したヴィゾフニルが叫び続
ける中、報告は律儀に、淡々と続く。
『損害率53パーセント。666層、全イマジナリーヴェール消失。損害率61パーセント』
バベルが纏う異層膜…空間の断絶すらも役に立たない。あらゆる物理攻撃をも遮断する次元断層をも、空間に飽和したエネ
ルギーは埋め尽くして到達する。
これがエナジーコート…現在では能力者の数も多く、能力としては一般的な物と認知されている力の「原初の姿」。現行人
類に多く遺伝するほど当時普遍的だったそれは、レリックが標準装備だった旧時代において、戦闘行動にも施設破壊にも必須
だった。
『損害率75パーセントを超過。当施設の残存機能は危険水準に達しました。警告。警告。根絶者級獣人兵器による直接攻撃
による破壊と認定。機密情報保護及び鹵獲防止のため、当施設は境界領域への緊急転移を実行します。滞在者各位は異層通過
における意味喪失に備え、速やかにイマジナリーストラクチャーを展開して下さい』
異層への転移のため形質変化を始めたバベル内に粒子が漂う。
もはや表示の意味すら判らなくなり、それどころか自分が何なのかすら判らなくなっているヴィゾフニルの、復元されたば
かりの右腕が、指先から霞んで透けてゆく。
「ああああああああ俺の!俺の!何か!俺の何かぁっ!治ったのにぃ!治ったのにまた…無いぃいいいいいいいいいいいいい
いいいいっ!何で!何で!何で無いぃいいいいいいいいいい!?無くなったのが治ったのに何で無いぃいいいいいいいいっ!
治ったのが無かったからぁああ!?」
指先から腕へと透けている範囲が徐々に拡大して、ヴィゾフニルは半狂乱になって腕を振る。追い払うように。払いのける
ように。しかし腕を這い上がる喪失は止まらない。
喪失してゆく。
異なる理の空間へ、自分が居ないだろう異層、あるいは居るかもしれない異層への、何の保護も受けていない状態での転移
は、そこに在る事を立証する意味も存在の連続性も、容易く喪失させる。
手だけではなく、両脚も先から消えてゆくヴィゾフニルはしかし、「足で立っている」という意味はまだ喪失し切っていな
いため、膝から下が消えていてもまだ宙に浮かぶように立っている。
「無いぃいいいいいいい!無くなる!何かが無くなるぅ!俺が無くなって何かも無くなってぇええええええええ!あああああ
あああああああああああああっ!嫌!嫌!嫌!嫌!嫌だぁああああああああああああああっ!」
頭部が下顎を残して消え、腰より上の胴体部分しか残っていないが、それでもヴィゾフニルは叫んでいた。「声を出す」と
いう意味はまだ喪失していないから。
そして間も無く、チベタンマスティフの体は完全に消えた。
程なく、響き渡っていた絶叫も止み、バベルの壁は透けて消え去り…。
ドッと、赤銅色の巨熊が両膝から崩れて、地面に両手をついた。
放熱中の体の周囲では熱で空気が揺れ、激しい発汗による蒸気が立ち昇っている。オーズとの戦闘に加え、余力を全て使い
切る奥義の全力発動。崩れ落ちて喘ぐユウヒは、流石にもう立っている事もできない。
二十秒近い轟雷砲の照射の最中、削り取られるように崩壊したバベルは、格納されていた空間に戻り、残骸ごと消え去った。
最初から存在していなかったように、跡形も無く。
「終わった…のぉ…」
呟いたユウキがガクリと頭を垂れ、「当主!」と慌てて声をかけたウンジロウは…、
「おぉ~い…!」
遠く、呼ぶ声を聞く。
火が見える。天を貫く轟雷砲で位置を確信した御庭番達が、大挙して馳せ参じた。
「ここに!ユウキ様はここに!ユウヒ様もお疲れだ!周辺警戒!手当て急げ!」
立ち上がって指示を飛ばし始めるウンジロウ。
山鳴りのような残響が耳に残ったまま、ユウゼンは空を見る。
破壊された日照が、パチンと弾けて消え、周囲は闇に閉ざされた。
「…様…!奥方様!トナミ様っ!」
繰り返し名を呼ぶ声に、遠退いていた意識が戻る。
「…ヤギ…さん…」
声を絞り出したトナミは、真っ暗な周囲に、ああ、まだ夜なのかと感じる。目が見えていない事が判っていなかった。
「村の人々は…」
喉がゴロゴロと鳴った。気分が悪く、悪寒も酷いが、確認すべき事を優先する。
「ご安心を。河祖上、河祖下、ともに非戦闘員の避難は完了しました」
答えながら、ヤギは苦悶の表情。
喀血で周囲を真っ赤に染めたトナミは、傍から見てももう長く保たない。足の早い者を選んでユウキを呼びにやったが…。
体格のいい鰐や牛がトナミを担架にそっと乗せるも、もう五体の感覚もろくに無いのか、濁った眼をぼんやりと宙に向けて
いるだけで、自発的な動きは見られない。
老山羊の声に安堵したトナミは、一度躊躇ってから訊ねる。
「…ユウトは…」
「ご心配なく、ご無事です!」
ヤギが目を向けた先には犬沢家の蔵。出入り口に貼り付けられたカードが何らかの術を発動させているようで、内部には侵
入できないが、窓から覗いた内側にユウトとシバユキが確認できた。声などは遮断されて聞こえないが、ふたりとも御庭番に
気付いており、手を振れば振り替えすし、何か喋っているのは判る。とりあえず元気な様子は確認できたので、解錠すれば助
け出せる。
ヤギは悔やんだ。
戦闘指揮と敵兵の排除に加え、並行して一般人含む非戦闘員を安全圏にある避難所へ移動させ終えた。綱渡りに近いバラン
スで乗り越えた多忙だったが、その間にトナミが致命傷を負っていた。
猛毒である事は確認できた。だが、もはや解毒がどうのという話ではない。肉体そのものが毒によって致命的な損傷を受け
ており、打つ手が無い。
「よかった…」
それきり、トナミは再び意識を失った。
敗残兵が山を降りる。
簡素な滑走機能を備えたコンテナに文字通り箱詰めにされ、ラグナロクの残存兵力は奥羽を去る。
麓には傘下組織が足を用意しており、祝手県沿岸まで出れば海上へ逃れられる。
追っ手はない。負うだけの余力もないのは明白だった。
移動するコンテナの一つで…、
「おい!輸血が足りない!パックを出せ!」
煤だらけの雌熊が吼える。その背後では、右腕を失い裂傷だらけになった熊が、三名の医療担当者に囲まれ、はだけられた
胸に電極を押し付けられている。
「ッ!!!」
目を見開いたヴェルの体が仰け反って床から跳ねる。
エナジーコートを火薬代わりに用いるアサルトベアーズの射撃は、ひとの範疇から逸脱して屈強なエインフェリアですら、
反動で大きく体勢を崩すほどの物。それを銃が分解するほどの出力で放ったのである。ヴェルが至近距離で浴びた爆圧は、エ
インフェリアの頑丈な肉体でも致命的な損傷を被るレベルであり、基本機能の維持もままならず、繰り返し心停止している。
「おい!聞こえるなヴェル!?心臓を動かせ!脳に回す血を止めるな!」
ヴェルの頭側で屈んでいる黒熊が怒鳴る。
電気ショックによる意識の喪失と、苦痛による覚醒を繰り返すヴェルは、朦朧とした意識の中、仲間の数を数えた。
アサルトベアーズも減っていた。自分達は負けたのだと実感した。
隊員が減ってはひとりあたりの負担が増える。片腕になった自分でも、機能停止したら仲間が迷惑するだろうか?
ゴヒュッ…。
そんな音を立てて、ヴェルが大きく開けた口が息を吸い込むと、黒熊がハッとした様子で顔を覗きこんだ。激しく喘ぐよう
に、胸が上下して喉が音を立てる。
「自発呼吸の再開を確認!」
医療班が声を上げるなり、輸血パックを抱えた雌熊が振り返る。
「そうだ!息をしろ!心臓を止めるな!死ぬなって、隊長命令だからね!」
網膜内にまで出血したせいで赤くなっている視界に、ヴェルは同僚の顔を捉え、喉を震わせた。
「…任務…、了解…」
自分はまだ、地獄に居るらしい。
一方、一般兵とは分けられた別のコンテナで、ヘルは跪く逞しい熊から一振りの剣を受け取っていた。
それは、表面が融解し、それでなお未だ原型を留めているミドルソード…。
「可能な限り捜索しましたが、回収できたのはそれだけでした」
声を殺し、感情を殺し、報告するバッソの前で、灰髪の魔女は表情一つ変えなかった。
何も感じていない…のではない。何も言わず、表情も見せない事が、ヘルの心境を物語っていた。
作戦は失敗した。
バベルを手に入れられなかった事よりも、戦力の損失よりも、オーズを失った事の方が痛手だった。
(これで…、もう…)
目の前に暗雲が立ち込めるような気分で、ヘルは刃が溶けて丸くなった剣を指先でなぞる。
(スルトが心を許し、頼れるひとは…、ひとりも居なくなってしまった…)
損失を計りながら、ヘルもまた自覚した。
(オーズ…、貴方は本当に…、最後の最後まで貴方でらしたのねぇ…)
戦力ではなく、オーズという一個人を失った、個人的な喪失感の大きさを。
背の高い草が風に揺れる。
灰色の草原。白い太陽。黒白の世界を風が駆け抜け、草が波立つように揺れる。
その、草の陰から声が聞こえる。
「あああああ、あああああああああ…!何だっけ…、俺、何だっけぇ…!」
背中を丸めて蹲り、チベタンマスティフが嗚咽を漏らす。
何も知らない、何も判らない、何もかもを失い、存在の喪失によって魂をはじき出されたチベタンマスティフは脅えている。
それは、幼児と何も変わらない。揺れる草が怖い。空が明るいのが怖い。目に見える物が怖い。何もかも判らない物だらけ
で怖い。その上、自分が何なのかも判らない。
「ああああ判らないぃ!判らないぃ!怖いぃ!」
本能の本質は未知への恐怖。存在するために、生物はよく判らない物を警戒する。これはその行き過ぎた反応。
静かな草原に泣き声が響き渡る中…、
「あ~…、何だぁ?」
唐突に声が聞こえ、チベタンマスティフは丸めていた背中をビクリと震わせた。
しゃくりあげながら、おそるおそる、涙と鼻水塗れの顔を起こすと、そこには一頭の大きな犬が、曲げた膝の上にそれぞれ
肘を置いて屈んでいた。
「ひっ!」
息を吸い込み悲鳴を上げるチベタンマスティフ。しかし、不思議とその大きな犬は、周囲の草や空…もう名前すら判らなく
なってしまった物達よりも怖くない。
「泣くなって。おっかねぇのは判っけども、な」
大きな犬は顔を綻ばせ、小さな子供に語りかけるように、優しく声を発する。
「もうな、泣かねぇでええんだど?何もかもすっかり終わったんだ。ここにゃあおっかねぇ物なんかな~んもねぇ。おめぇは
もうな~んも怖がる事ぁねぇんだど?さっき通った白いのなんか飄々としてたが、あ~んな感じで良いんだど?気楽になぁ」
「ひっぐ…!な…何も…?怖がらなくて…いい…?」
「んだど」
深く頷いた大きな犬は、チベタンマスティフの頭に分厚い手を置く。
鍛え抜き、戦い抜き、生き抜いた、戦士のゴツい手だった。チベタンマスティフはそっと置かれた手に一度はビクついたが、
軽く撫でられると、耳を左右に傾けて受け入れる。
心地良かった。温かかった。安心できた。
もう自分が何なのかも判らなくなったので、チベタンマスティフは気付けない。自分の頭を撫でてくれている大きな犬が、
自分と全く同じ姿をしている事に。
「ん~…。「どんな奴」なのか、ず~っと考えてたんだがな、こりゃあ完全に予想外だったど…」
不安げにすすり泣く迷子のような、自分と同じ姿のチベタンマスティフを宥めながら、大きな犬は苦笑いした。
「ま、ええか。これでもう留まってる理由も無くなっちまった。潮時ってヤツだなぁ。うん」
大きな犬はチベタンマスティフの脇に移動し、手を貸して立ち上がらせると、
「じゃ、行くど!」
その手を引いて、草をかき分け進み始めた。
「ど、何処に…?俺、何も判らない…」
不安げなチベタンマスティフに、
「気にすんな!おっかねぇ事なんかな~んもねぇど?ドーンと任してくっついて来い!」
かつてライラプスと呼ばれていた男は歩いてゆく。
かつてヴィゾフニルと名乗っていた男を連れて。
草原の奥へ、奥へ、奥へ…、黒白の交わる先、誰も知る事のない事象の地平の彼方へ…。
そして、慌しく夜が明けた。
帝への報告など、行なうべき事は山ほどあったが、先代当主だったユウゼンはその手の事に明るく、当主代行を務めるユウ
ヒを補佐して、各方面への連絡と伝達、要請を済ませた。
特に重要なのは、御柱が狙われ、一度は出現したという事。帝の近衛及び神将各家には、数日間の厳重警戒を進言した。
ユウキが独断で御柱の破壊を決定し、ユウヒがその命に従い実行した事については、「破壊すべきとした現場の判断を支持
する」と帝が直々に表明したため、結局の所お咎め無し。後日、報告と資料の提出により事後承諾という形で認められるため、
労いはあっても処罰は一切無いという、理性的な沙汰が下された。
朝方に蔵から救出されたユウトとシバユキは、屋敷の奥の間に見張りつきで匿われていた。
疲労が堪っているだろう老山羊も老虎も、若い者の数倍動いて現場を指揮している。
敗残兵が潜んでいないか確認し、山中に逃げ込んだ村の生き残りは居ないかと捜索し、被害状況をつぶさに記録する御庭番
達。炊き出し、手当て、捜索、警戒、体がいくつあっても足りない忙しさの中、「邪魔になるだけだから引っ込んでおけ」と
ユウゼンから言われた現当主は…。
「揺れるのぉ…」
溶岩溜まりを刺激された影響で、不定期に繰り返して地鳴りが続く。布団に寝かされた妻の脇に座して、熊親父が枕もとの
水差しを見遣った。
「ユウキ様…」
見えない目を、声を頼りに夫に向けて、トナミは微笑む。
「私はもう、いいですから…」
毒で喉が爛れ、おそろしくしゃがれた声だった。
「いい訳があるかい。これでも夫じゃからな、儂も」
トナミは、ユウトが無事であると知っただけで充分で、会わなくともよいと言った。床についた姿を見せず、なるべく元気
な姿で思い出に残りたいと。
ユウヒに関しても、死に際を見せたくないと言った。まかり間違って苦しみ悶えでもしたら、あの子の記憶に苦しんで逝っ
た母がずっと残ってしまうからと。
出来た妻で、出来た母だと、誇りに思いながら、隻眼隻腕となった熊親父は、残った左手を優しく妻の額に乗せる。触れら
れている事はまだ何となく判るのか、トナミの濁った眼は僅かに細められた。
「……ああ、まぁ、そのぉ…、な…」
頭をゆっくり撫でながら、ユウキは思った。
トナミの目が見えていなくてよかったと。
この顔を見られずに済んでよかったと。
「苦労のかけ通し、問題の起こし通しで、良い夫とは言えんかったが…。儂はなぁ、トナミ…」
布団の中に手を入れ、残った左腕一本で伴侶を抱き起こすと、ユウキはその耳元に囁いた。
「お前が妻で…、本当に良かったわい…。お前でなけりゃあ勤まらんかった…。感謝しとる…。本当に…、よう、嫁に来てく
れた…」
力ない妻の体を左腕で抱きながら、ユウキは伝える。
嫁に来た当時よりも熱烈な愛の言葉を聞きながら、トナミは気付かないふりをした。声の震えにも。首に感じる熱い涙にも。
「ユウキ様…」
「うむ…」
「報われました…。何よりの…、お言葉ですよ…」
次第に浅くなるトナミの息を感じながら、ユウキはそっと、回した手で妻の背をさすった。
「貴方は…、きっと気付いてくれてらっしゃったと、思いますけどねぇ…。私、幸せだったんですよぉ…?ええ、とっても…。
貴方が愛してくれている事が、いつだって、仕草や視線で伝わっていました…」
「そりゃあ…、単にスケベなだけじゃわい…」
「ふふ…、他のひとに向ける目と、違ってた事…、気付いてらっしゃらない…?」
「………そう…じゃったのか…?」
一度虚を突かれた顔になったユウキは、次いで照れ臭そうに眼を泳がせた。はぐらかす事も茶化す事もできない、言われて
みればそうだったかもしれないと気付かせる、鋭く真っすぐな妻の速球は、受け取るだけで精一杯だった。
クスクスと小さく笑ったトナミは、溜息を漏らすようなか細い声で告げる。
「ちょっと失礼して…先に…休ませて…頂きます…よ…」
「うむ。ゆっくりしとれ…、儂もすぐ追いかける事になるからのぉ、寂しい思いはさせんわい…」
トントンと、あやすように軽く背を叩かれながら、トナミは目を閉じ、微笑んで、か細く長く息を漏らし、それきり、二度
と吸う事は無かった。
「………」
妻を抱き締め、ユウキは背を震わせる。
河祖群の地鳴りが止んでいた。
長く、長く、息を潜ませるように。声の無い慟哭の、妨げとなる事を厭うように。
「物資の備蓄は使い切って構わぬ。蔵が空になろうと、必要な所に必要な分だけ回せ」
若い巨熊が上がった報告に逐次指示で応じる。判らない所は脇に控えた祖父が補ってくれるので、各種手続きに滞りは無い。
御庭番は神代の屋敷を忙しく出入りする。河祖中の生き残りは屋敷の空き部屋をあてがって休ませ、負傷の治療も進めてい
る。昨夜の戦闘から不眠不休で丸一日。もしももう一波来たとしても戦える者は僅か。緊張の中あっというまに陽が昇り、沈
んだ。
「避難者の状況は?みな不安で仕方がなく、心労もある。必要な物や要件を伺ったなら、少し静かにして気を休ませる時間も
作って差し上げるように。それと…」
まるでずっと昔からそうしてきたかのように適切に振舞うユウヒは、避難者の状況を報告に来たウンジロウの顔色を窺った。
「シマタケ爺、そろそろ小休止の頃合いだ。若い衆にも声掛けして一緒に休息を取らせるように。「休む手本」も先達が示し
た方が為になる」
ウンジロウは恐縮し、働きづめで疲れが見える若い衆を数名引っ張り、休みを取らせに入る。
(ご立派な物だ…。数年前までの、厳格ではあるが柔らかさに欠けたユウキ様とは別人のような変わりよう…。これも、御隠
居の指導の賜物か、それとも…)
離別が彼を変えたのか。老虎は、しばし前にここを去って行った、ユウヒの幼馴染の事を思い出した。
「…負傷者の状況報告纏めは後で目を通す。先にヤギ爺に上げ、指示を仰いで適切に従ってくれ。炊き出し班の交代は?よし、
その調子で進めるよう。何処かに仕事が偏ってバテ始めれば、そこから崩れる。踏ん張り所だからこそ休み休み頼むぞ」
嘆きも怒りも焦りも不安も、母を喪った哀しみさえも飲み下してユウヒは働く。一度に起きる喪失に、ともすれば塞ぎこみ
たくもなる状況でも。
(この程度でぎねげ、親父殿が安心して当主を譲れねぇ…!)
激務、と言って良い。だがユウヒは疲れを見せず、不安も迷いも全く見せず、捌いてゆく。
既に表に立てないユウキの事が、皆に不安を与えると息子は理解している。こんな時だからこそ、精神的支柱が必要なのだ
という事も…。