第五話 「大神狼牙」

 それは、もう六年も前の冬。

 雪も深く積もり、歩く道だけが掘り進まれて回廊のようになった、北国の集落は、例年のように春まで溶けない白に染めら

れていた。

 住み慣れた者にはこれが普通でも、雪に不慣れな者には別世界のような環境と光景。

 賑わう街から遙か遠く、存在すら忘れられたかのように人も通わぬ奥地にある、一際寒さも厳しいその集落は、ある大事な

御役目を背負う集団の本拠地でもあった。

 氷祖脇村(ひそわきむら)。それがこの地の名。

 そして雪の中に蹲る家々の中心に鎮座する大きな屋敷の主は、大神という。

 屋根に登った若い犬や猫が灰色の空を背景に、晴れ間の内にと積もった雪をせっせと掻き落としているその屋敷の中で、

「いないいないいないいない…ばぁ〜っ!」

 火鉢が脇に置かれたゆりかごにすっぽり収まる小さな狼の赤子の脇に、小山のような巨体の熊が座り込んで、精一杯おどけ

た顔を作りながらいないいないばぁをしていた。

「まだ見えておらんぞ?」

 そう横から声を掛けて苦笑いするロウガに、

「雰囲気じゃ雰囲気!赤ん坊にはまずこいつをやらねぇとよぉ!」

 ユウキは腹を揺すって笑いながら応じた。

「大神司狼(おおがみしろう)か。すっきりした響きの良い名前じゃ」

「妻が考えた」

 得意げに少し鼻を上げるロウガと、「なるほどなぁ」と呟くユウキ。

「なるほどとは何だ」

「おめぇが付けたら、もうちっとモッサリした名前になったんじゃろうなぁ、と」

「失礼な。私が付けるとしても素晴らしい名を考えたとも」

「「くーる・あんど・すたいりっしゅ」にか?」

「無論!」

「怪しいのぉ…」

「失礼な」

 当主二人がそんな会話を交わしている和室は、庭に面した障子と窓が開け放たれており、見える物全てが雪を纏ってふんわ

りとした景色が見えている。

 折を見たように吹き込む風に乗って寒気が入り込もうとするが、囲炉裏と火鉢の熱がそれを追い出し、赤子を守っていた。

 その、寒冷極まる雪の庭に、ぎゅっぎゅっと雪を踏んで恰幅の良い雌熊が姿を見せる。

「トナミ。ユウヒは一緒じゃなかったか?」

 ユウキの言葉に妻が肩を竦めた。

「タクロウ君に連れられて、修練場を見せて貰いに行きましたよ」

 これを聞いたユウキは「羽を伸ばしに来たのにあの阿呆は…」と顔を顰め、ロウガは可笑しそうに口の端を上げた。

「父親に似ず、真面目で良い子だな」

「父親に似ず、社交性がねぇんじゃ」

 嘆息したユウキが「あの堅物具合はどうにかならんもんか…」とぼやくと、ロウガは「いやいや」とかぶりを振った。

「良い事だ。父のようにふらふらしないのは」

「八つであれじゃぞ?先が思いやられる」

 まだ子供だというのに、ユウキの息子は他の子供らに混じって遊ぶ事も無ければ、友人を作ろうともしない。御庭番の子な

どの関係者以外とは交流しようとせず、一般人とは距離を置いていた。

 御役目の大事さと自分の家の特殊性を幼くして理解している。無愛想なのも排他的なのもそのせいだった。

「匙加減ができねぇんだなぁ、あのぶきっちょは」

「子供にそこまでの判断を要求するのは酷だろう。まぁ、もう少し肩の力を抜いて良いのだと、ちゃらんぽらんの手本のよう

な父親から言ってやれ」

「言って聞くようなら苦労しねぇ。あの頑固さと無愛想な所は、一体誰に似たんだか…」

 むすっとしたユウキの横で、ロウガは「それは…」と、何事かを思い出すように視線を上に向けた。

「祖父に似たのかもしれんな?」

「…かもな…」

 面白くなさそうな顔で頷くユウキ。彼の父は非常に厳格で、自分にも他人にもとことん厳しい男だった。

 案外自分の腰が軽いのは、抑圧への反発で人格が形成されたからだろうか?などと思わないでもないが、だとすれば自分の

適当さ加減に反発してユウヒはああなっているのか?と新たな疑問も生まれて来る。

「めんこぐねぇなぁ…」

「嘘を吐け。可愛くないはずがなかろう」

 呟いたユウキにロウガがすかさず突っ込む。

 ユウキが武功を立て続けているのは、家を神将に復権させたいという神代家の悲願のためだけではない。その事をロウガは

よく知っていた。自分も同じだったから。

 永きに渡る逆神との闘争を自分達の代で終わらせる…。それが、ユウキの本当の望みだった。

 子々孫々にまで負の連鎖を続けさせる事はない。ただでさえ過酷な御役目を背負う我が子らに、同じ血から生まれた親族と

の殺し合いなどして欲しくない。

 万事適当で、大雑把で、自分勝手なようでも、ユウキはその事をずっと胸に秘めて歩んできた。

 拳を奮うは帝のため。ひいては国のためであり民のため。だが同時に、子や孫やその先の子孫達の為でもある。

 神代家に限らず、神将家は子が生まれにくい。世代が進む毎にその傾向は強まっている。

 それは、祖先の血を絶やさぬよう、力を失わぬよう、かつて分かれた血統から伴侶を選ぶ事を続けてきたせいだった。

 こんな事を繰り返して行けば、いずれは子を為す事ができなくなるのかもしれない。代々の神将家当主達もそう思わないで

もなかったのだが、逆神との闘争が続く限り弱い者は淘汰されてしまうため、より強い子を残すために、近い血統での婚姻を

続けて来なければならなかった。

 特に神代家は、天敵との潰しあいで幾度も血が絶えそうになる、過酷な戦いの年月と共にあった。だから、嫁を自由に選ぶ

事もできなかった。

 だからユウキもロウガも思う。

 裏帝との、逆神との戦いを自分達の代で終わらせ、息子達には自分で伴侶を選ぶ自由を与えてやりたいと。

「ところでロウガ…、こいつを見ろ」

 急に口調を変えたユウキは、懐に手を突っ込んでごそごそまさぐると、黒く太いペンを取り出す。

 眼前に突き出されたペンを胡乱げな表情を浮かべて見つめたロウガは、ユウキの太い指がペンを捻り、先端からシャープペ

ンのペン先が飛び出すと、「む?」と眉根を寄せた。

 ユウキが得意満面でペンをさらに捻れば、シャープペンは引っ込んで黒いボールペンが顔を出す。

「こ、これはっ!?」

 さらに捻られたペンの先が赤いボールペンに変わると、ロウガは目を見開いて呻いた。

「ふっふっふ…!田舎暮らしじゃお目にかかれんだろう?こんな「めかにかる」な筆にはよぉ。なんと三色じゃ!どうじゃ?

羨ましいか?」

「…ふ、ふん…!そんな物、羨ましくなど…!」

 顔を逸らしたロウガは、しかし、

「一本やるか?」

 ユウキが自慢げに言うと、「む…!」と口を引き結んで呻いた。

 そんな当主達のやりとりを庭から眺めながら、

「平和よねぇ本当に…」

 トナミはそう、ひとりごちていた。



 良くない。

 太刀を手に斬りかかってきた鹿を、力場も纏わせない拳骨で殴り飛ばしたユウキは、顔を顰めた。

 急に昔の事を思い出すのは良くない傾向。ユウキは周囲を見回し、御庭番達の様子を見定める。

 だが、負傷者は多いが欠員は無い。裏帝一派を相手にしてこれならば上々の戦況と言える。

(嫌な予感がしよるぞ…)

 胸騒ぎを覚えたユウキは、しかしその正体が判らぬまま、隠れ里目がけて突き進む。

 鳴神は当主を先頭に細く伸びた錐の陣形で、既に隠れ里目前に達している。この大一番で、言いようのない不安を理由に遅

れる訳には行かなかった。



 神卸しを行なった大熊を前に、ロウガは異質な気配の分析にかかっていた。

(形としては狂熊覚醒そのものだ。強化性質もほぼ同じだろう。だがこの気配は…どこかで…)

 ロウガは記憶を手繰り、ある事に思い至った。

 かつて相対した特殊な危険性物が発散していた禍々しい気配と、目の前の大熊が放つプレッシャーが似ている事に。

(牛鬼と似ている…!)

 レリックと同源の存在。現在の技術で生み出せない危険性物。伝説の中に息づくソレと相対した時の感覚が蘇る。

(どういう事だ?先祖返りしたとて、妖獣の類と気配が似通う訳では…)

 その思考が終わる前に、大熊は動いた。

 土が跳ね上がる。

 巨躯を驚異的な加速で押し出すその踏み込みの正体を、その時ロウガはやっと掴んだ。

(空歩(くうほ)の応用!力場を爆ぜさせないせいで発光も無いが、斥力を利用した加速…!)

 ロウガはその動きに対応すべく姿勢を変える。

 推測に思考が流れていた事で力の集中が遅れ、奥義を放とうにも充分な力場の形成は間に合わない。

 他者であれば思考すら満足におこなえない刹那の間に判断し、方針を切り替えたロウガは、

「雪華屹立(せっかきつりつ)!」

 軽く上げた足をドンと踏み下ろし、地面を震わせた。

 直後、突進して来る大熊のやや前方で地面が輝き、目映い閃光が吹き上がる。

 手足を問わず、触れた部位から力場を地へ伝播、任意の箇所で吹き上げさせるそれは、大地を砲身とするが故にフィードバッ

クに備える力場を展開させる必用が無く、低コストと出力が高い水準で組み合わされた大神の隠し玉。

大神家はエネルギー放出における基本出力で鳴神家に及ばないが、この反動を気にせず撃てる技は、その差を埋める高火力

と、不意を突けるという性質を併せ持つ。

 直径3メートルにも及ぶ光の柱は、力場にかかるエネルギー量が一定値を超えた事で変色し、白々と冷たく輝いている。

 だが、その光柱を真っ向から踏み破り、光の粒子を吹き散らしながら、逆神は姿を現した。

 ありえない。ロウガの思考は、一瞬その一言だけで占められた。

 破壊力で鳴神の操光術にも匹敵する攻撃を、涼風程にも感じていないかのように突進して来るその熊は、焦げ茶色に変色し

た超高密度の力場を全身に纏っている。

 出力で相手が大きく上回っているが故に、神卸しまでおこなった攻撃が通らない。

 驚愕するロウガの視界で、大熊は全身の燐光をすぐさま消し、右腕に集中させて指先から肩までを覆い、蹴り足で展開させ

た力場を利用して再度加速する。

 先程よりも、さらに速く、鋭く。

「絶躯(ぜっく)…」

 超加速し、踏み込んできた熊の口から呟きが聞こえたその時には、ロウガは反射的に身を捻り、二歩ほど横にずれた位置に

いた。

 だがそれすらも遅かった。大熊が呟いたその時には、攻撃は既に終わっていたのだから。

 ロウガの右腕が、手首より少し上の位置で断たれて宙を舞う。体に残ったのは肘と肩の中間ほどの長さだけ。

 右胸が消失し、左胸側が十五センチほどだけ残り、抉れて消えていた。

 肺を失い、声すら出せないロウガの、千切れかけの体が、飛び退いた勢いにすら絶えられずにぐにゃりと捻れる。

 胸の左端を支点にし、そこから上だけで振り向くような格好になったロウガの視線の先で、飛び出した祖父が胴を狙った一

撃を受けている。

 両腕を交差させて高密度の力場を生み出し、体を貫かんとする抜き手と力場を防ぎ止めようとした老狼は、

「断息潰腑(だんそくかいふ)…」

 止めたはずの熊の手が、纏った力場を爆砕させると、熱と衝撃を全身に浴びて吹き飛ばされた。

(散華衝(さんげしょう)の…、応用技…?)

 跪いた下半身に引っ張られるロウガの視線が上へ逸れる。動き行くその視界の下端に、母を守らんと、恐怖を殺して飛び出

した息子の姿がかろうじて入った。

(いかん…、逃げ…!)

 死にゆく父の声は届かない。

 父を倒し、祖父を退け、自分達に迫る大熊を前に、奮い立った若狼は、まだ習得途中の奥義で迎撃を試みた。

「奥義!天狼槌!」

 集中した高密度力場が右脚を覆い、振り上げる蹴り脚は別に展開した力場の反発力を借り、筋力のみのそれとは比較になら

ない初速を生み出す。

 一本の武器となったその脚は、叩き上げ、そして叩き落とす、天狼の鉄槌となる。

 はずだった。

 ボシュッという音と共に、自分の右脚が振り上げる最中で消失する様を、タクロウは見た。

 無造作に払うかのような動きを見せた熊の左手に、全力生成した力場ごと、脛の半ばから先を削り取られて消されている。

 及ばなかった。そんな思考が浮かぶ前に、右脚を大きく前に出す形で踏み込んだ羆が、右腕を若狼の頭部へ送り込む。

「滅頭…」

 横薙ぎに頬を張るようなその一撃は、しかしタクロウを張り飛ばしはしない。

 手が通過したそこには白い塵が舞うばかりで、首から上は失われていた。

「タクロォオオオオオオオオオオオッ!!!」

 悲鳴を上げて駆け寄る母親。右足と頭部を失った我が子をそれでも庇おうと、抱き締めようと。

 両腕を広げて駆け寄る雌狼は、あと一歩で息子に触れられるというそこで、

「断息…」

 息子の胸を貫いて背後に抜けてきた熊の腕で、両の乳房の中央に大穴を空けられた。

 勢いでそのまま息子の体にぶつかるも、体の中央を焼き消された母は腕すら動かせず、抱き締める事すら叶わない。

 はずみで一瞬我が子を抱くように左右からせばまるも、当たって跳ね返り、だらりと下がる。

 二人は、胸に空いた大穴に通された熊の腕で支えられ、かろうじて立っている状態だった。

 母子を纏めて串刺しにした熊は、頭のない若狼の死体の上を越え、母親の顔を見つめた。

 母親の目には憎悪も、怒りもない。

 ただただ哀しげな光と、懇願するような色が瞳に滲んでいる。

 熊は無表情のままその目を見つめ返していたが、やがて無造作に腕を引き抜くと、首のない狼の死体をトンと突き飛ばし、

二人纏めて地面へ倒す。

 そして向き直った。目の前で主君を失いながらも、この数秒間で何が起こったのか把握し切れず、現実を受け入れられず、

立ち尽くしたままの御庭番達に。



鉈を思わせる武骨な刃が、垂直に振り上げられる。

柄を両手で握るごつい体躯の大猪は、少し腰を落とし、やや出た腹を突き出す形に背筋を伸ばし、左足を半歩前に出し、大

上段に得物を振りかぶったその姿勢で一瞬静止した。

最前の一合で槍の穂先を付け根付近から斬り飛ばされた鹿は、「くっ!」と呻いて柄だけになった得物を水平に寝せ、受け

に回る。

そして、大太刀は下ろされる。

ボゥッと、大気が音を立てて断ち割られ、追い散らされる程の剛剣が、水平に寝せて受けに回った槍の柄を両断し、その下

にあった鹿の顔、胸、腹、腰を真っ二つにしながら股下へと抜ける。

一刀両断を体現する一撃から、出した左足をすっと摺り足で引いた猪が、今度は振り向きざまに、右下から左上へ刃を大き

く薙ぐ。

後方から詰め寄り、切りかかっていた山猫の刀が音を立てて両断され、同時に頭部が半ばで両断される。

ふしゅっと猪っ鼻から息を吹き出し、呼吸を調節して次なる相手に向き直るその猪は、ドラム缶を思わせる頑強そうな太い

体躯の中年。

左の牙は先端近くが欠け、吊り上がり気味の目に太い眉という面相、猪首にどっしりした体躯、佇まい。

身に帯びるは、兜こそ被っていないものの、赤茶色を基調とした古めかしい胴丸一式。篭手や脛当て、袖に胴、全ての金属

板と革が同職に染められ、赤い紐と糸で止められている。

古武士然とした威容の武者は、ぶんっと太刀を振るって返り血を振り落とすが。この得物が少々変わっていた。

刀身三尺五寸五分の大太刀なのだが、刀は刀でも、刀身の形状が風変りである。

刃は分厚く重く、先にゆくほど幅が広くなり、頭が特に重い。

鉈をそのまま引き延ばしたような形状の、異形の大太刀であった。

太刀の名は獅子王。折れず、反らず、曲がらない、現在の技術では到底精製不可能な合金で造られた刀身を持つ、レリック

ウェポンである。

そしてそれを振るうのは、剣の腕では神将一の武家、神原の当主、神原猪門(かんばらいもん)。

齢三十四。コハンと同じく当主としては若い方なのだが、こちらは見た目が狐とは真逆の男である。

年齢以上に老けて見える上に、近寄り難い厳めしい顔、よく比較されるのだが、どこまでも似通わない。

が、似通わない二人は何故か気が合うらしく、その事が周囲には不思議だった。

しかし気が合う理由は実に簡単で、外見は全く違い、性質も武と術に偏り相反している両者は、古風な気質という点で一致

し、自然体で付き合える仲となっていたのである。

「臆すな!我らが押しておるぞ!」

イモンが吠え、配下を激励する。

彼らの相手は、逆神の眷属と思われる狸と狼を中心に、元御庭番の子孫なのだろう様々な種が群れ集った混成部隊。それを

相手に、神原一派は猪突猛進の正面突破を試みていた。

相手には隠神の眷属が含まれており、幻を用いた戦術で先手を取られた神原一派は多数が眩惑された。

が、これを気迫と勢いで虚実諸共に撃砕しようというのである。

身の危険を顧みない馬鹿正直な全力攻勢は、しかし功を奏した。

気迫に押された逆神勢が陣を崩して混戦状態となり、幻が機能的に用いられ辛くなったのだ。

元より眷属達はギョウブ程の力が無く、集団を的確に惑わせるには術の精度に欠けていた。御頭のように一体一体を一人一

人につかせ、リアルタイムで数十人を眩惑しながら戦える者など居ない。故に、混戦模様になると幻術が崩れ、妙な所に現れ

て槍を振り回す幻などが出る始末。

相手の得意も不得意も関係なく、自分の得意とする物で勝負する。そんなイモンの判断は、被害を最小限に、成果を最大限

に発揮させた。

正面からぶつかり、これを跳ね除け、駆け抜ける…。それが神原の戦。

元々が武家である神原家は、神将中でも武器の扱いに特に秀でており、その御庭番達も太刀に槍、薙刀と、それぞれの得物

で超一流の腕を持つ強者揃い。まともに殴り合う事さえできればそうそう遅れは取らない。

また一人切り伏せ、素早く視線を巡らせたイモンは、相手と鍔競り合いしているさなかの御庭番に忍び寄る鼠を目に留め、

左手を右腕の上…肩を守る鎧袖の下に滑り込ませた。

引き抜くやいなや左手を水平に振るえば、そこから銀色の線が伸びる。

月光煌めかせ、宙を裂いて飛んだそれは、長さ15センチ、直径1センチほどの太い金属針。

山刀を振りかぶり、今まさに御庭番の猫へ背後から切りつけようとしていた鼠は、しかしその軌道に割り込んだ銀光によっ

て刃を弾かれた。

鼠は目を見張る。飛来した金属針は、宙にピタリと静止していた。まるで、そこに見えない壁か何かがあって、固定されて

いるかのように。

刃を弾いても折れず、曲がらなかったその針は、しかし一拍おいて切り付けられた部分からパツッと切れ、足元にぽととっ

と落ちた。

高速で飛んできたかと思えば止まり、刀を弾いたかと思えば一瞬遅れて割れる。

理解不能な現象を目の当たりにし、何らかの能力が作用している事を察した鼠が警戒しているその間に、

「誰ぞ!コマルに助太刀を!」

イモンが叫び、鼠の近くで相手を突き伏せたカモシカが、十字槍を構えて挑みかかる。

「臆すな!踏み破れ!」

大声で仲間を鼓舞するイモンは、しかし顔や態度に出してはいないものの、先ほどから奇妙な胸騒ぎを覚えている。

それは、これまでにも数度経験した、あまり良いとは言えない思い出に絡む胸騒ぎと似通っていた。

(まさか…、誰ぞ敗れた訳ではあるまいな…?)

目の奥に仲間を案ずる不安の光を湛えたイモンは、かぶりを振って気持ちを切り替える。

(全員無事に集まり、酒を酌み交わすと約束した。欠ける事などあるものか…!)



「…あ!」

 周囲を警戒しながら前進していた若い猫は、死屍累々たる戦いの跡に一人立つ大熊を見つけ、素早く駆け寄った。

「雷爪(らいぞう)様!」

 表情のない顔を猫に向けた大熊は、「おう」と短く応じる。

 その傍に寄り、改めて周囲を見回した猫は、

「これは…、大神と、御庭番ですか…?」

 大熊がたった一人で全滅させたのが、神将とその御庭番からなる集団だと察し、驚くと共に顔を綻ばせた。

「お、お見事です…!お一人でここまで…!」

 大熊が「迎え撃つ」と一言だけ言い残し、単身で里を出たのは、猫がギョウブと共に一時撤退する直前の事と聞いている。

 それから伝令役として急ぎここへ向かったのだが、警戒しながら前進してきたのが馬鹿らしくなるような結果が、眼前に広

がっていた。

 大熊が出陣してから十分程度しか経っていないはずだった。移動時間を鑑みれば、戦いその物は一、二分しかかかっていな

いだろう。

「で、何だ?」

 そう大熊に短く問われ、感動に近い衝撃で一時ぼうっとした猫は、ハッと我に返る。

「申し上げます!鳴神勢が防衛線を越え、隠れ里付近まで到達しました!迎撃の手が足りないのでお戻りになって欲しいと、

ギョウブ様が…」

「承知した」

 短く応じて頷いた大熊は、踵を返し、そして肩越しに振り返る。

 その瞳が映すのは、その手で纏めて胸を貫いた母子の遺体。

 大熊が押して倒した事で、首のない息子の遺体は母ともつれ合い、丁度その腕に抱かれる格好になっていた。

「いかがなさいましたか?…まさか、まだ敵が…!?」

 振り返っている大熊から視線を外し、鋭く周囲を見回す猫。

 だが、一瞥を終えて顔を前に戻した大熊は、「いや…」と首を振り、足を踏み出す。

「戻る」

「あ、は、はい…」

 何でもなかったのかと拍子抜けした猫は、大股に歩き出した巨漢の背を追った。



「申し上げます!」

傍に寄り、跪いた人間の若者を見遣り、足を止めたユウキは「吉報じゃろうか?」と口の端を上げた。

隠れ里目前、足止めを片っ端からなぎ倒して進む神代一派に接触した若者は、伝令として報告を携えて来た帝の近衛である。

「はっ!神原、明神、尾神のご三家が敵勢防衛隊を駆逐!戦列を大きく進め、隠れ里の防衛陣に到達しました!」

「ほう!吉報じゃが、ちぃと分が悪いのぉ…」

たっぷり肉がついた顎下に手を入れて擦り、ユウキは耳を倒した。

いささか居心地悪そうな様子の巨漢に、「如何なさいましたか?」と、不安を覚えた若者が問う。すると、

「儂らが遅れとる…!」

神代の当主は、やや困り顔で唸った。

(やれ進め進めもめでたいが、下手な当たり方をするとまずい…。何せあっちには…)

ユウキは眼を鋭く細め、往く手を睨んだ。

(儂らの天敵がおる…)

ユウキが警戒しているその逆神は、三百年ほど前に神代の当主が裏帝側についた事で生まれた血脈。

逆神の中で最も手強く、最も危険な彼らは、こう呼ばれる。

神すらも壊す者…神壊(くまがい)と…。