「ええ。ええ、そうです。取り戻せはしましたが…」

 灰色の髪の男の子は、ランプが灯る薄暗い機関室で、ソフトボール大の水晶玉に話しかける。

 深海を移動中の潜水艇。その一室で、ロキはヘルから本部への引き上げ完了の報告を受け、同時にこちら側の作戦行動結果

を伝えていた。

 ロキの傍らには分厚い百科事典のような石板が二つ。その片方は、かつて樹海の隠れ里で、妨害に現れたジークに敗北して

奪われていたグリモア。やっと取り戻せたが、ラグナロク全体の状況を見れば喜ばしいとは言えない。

 中枢幹部、オーズとヴィゾフニルの二名が戦死した。特にヴィゾフニル配下の部隊は、今回の作戦で抜擢した兵員の殆どを

失ってしまい、軍の主力を丸ごと失った格好。ヴィゾフニルの指揮下にあった兵員は、部隊としての編成や配置など、機能レ

ベルで抜本的な見直しと再建が必要になる。

 オーズは元々遊撃部隊として少数精鋭を投入していたため、兵数で言えばあまり減らしてはいない。アサルトベアーズ数名

の戦死は手痛いが、報告にある惨敗の中、撤退援護により事実上の殿を務めてもその程度で済ませられた事が、彼らの有用性

を物語っている。

「ビフレストは連合に持ち去られた後でした。これはジークも計算外だったようですがね」

『では、先進国政府連合軍の一人勝ちという事ですかぁ?』

 水晶の中で像を結んでいるヘルの言葉には棘がある。

 十全な兵力を投入できなかったが故に敗れた。オーズが存命中に行える作戦行動が、ジークが放り込んだ餌によって兵力を

分断され、この結果になった。少なくとも、スルトかロキ、あるいはもう一軍団が現地に投入されていれば、結果は違ってい

たはずである。

「そうでもありません。撤収直前にパイランの死体を発見、確保しました。現在この艦で運搬中です」

 ロキが発した言葉で、ヘルが息を飲む。

「ジークに倒されたようですが、流石の彼も仙人が相手では消耗したようですね。でなければビフレストを渡す事などなかっ

たでしょうから。まぁそれ以前に、重要性を理解しているにも関わらずパイランの死体を残して去るほど余裕が無かったとい

う事ですがね。おかげで貴重な仙骨が手に入りました」

『むしろ、仙人を殺せるという事が驚きですけどねぇ…。連合にとっては痛手でしょう、これでスルトに勝てる可能性がある

戦士は、あちらにふたりだけですねぇ』

「ええ、そこだけはこちらに得な点です。…いずれにせよ、ビフレストの件は早急に手を打たなければなりません。連中がヴ

ァルハラに入っては困ります」

『判っていますともぉ』

 一度言葉を切ったヘルは、『スルトの様子はどうですかぁ?』と尋ねた。

「変わりませんね。相変わらずの鉄面皮です。まぁ、盟主はそうでなくては困ります。古なじみの一人や二人、失って動揺し

ては話になりません」

 それはそうなのだろう、とヘルも思うのだが、スルトにとってオーズは特別慕っている相手の一人だった。何より、数少な

い「同種」でもあった。

(こちらも、そうなって行かなければいけないわねぇ…)

 

 一方、首都の繁華街の一つ、その片隅の個室焼肉店では…。

「御柱の警戒が必要という事ですが、「得物」はまだ返却されないんですね?」

 整った顔立ちに、照明が落とす黒髪の影を帯びて、若い人間の男が問う。

「おう。武装させたくねぇってのも本音だろうが…」

 テーブルを挟んで座した、屈強な体躯の白虎の大男は、手にしたものをまじまじと見ている。

 竹刀袋のような長包みから出てきたのは鉄棍。先に開けたアタッシュケースの中身は、鉈のように刃が分厚い、緩く沿った

ナイフが二振り。

 どちらも色濃い鋼鉄のように見えるが、よく目を凝らすと昏い虹を思わせる紋が目を引く、不思議な合金製である。

「取り回しと斬撃の重量を考えた結果、鉈のような厚さになりましたが、ダウドさんなら問題ないかと。大型のものを相手に

する時などには、鉄棍の両端に連結して扱う事も可能です」

 デュアルブージ。男がそう呼んだ分割式の武器を、白虎はまじまじと見つめる。遺物でこそなく、特殊な機能も持っていな

いが、希少金属神鉄を贅沢に使用した特殊合金製。いわゆる疑似レリックと呼べる水準に及んでいる武器である。

「良いのか?高ぇなんてもんじゃねぇだろう、これ…」

「一足遅れましたが、クリスマスプレゼントという事で…」

 白虎は一瞬鼻白み、次いで苦笑いした。

「…本当に天然タラシだよな…」

「はい?」

「いや何でもねぇ。で、これ何処で造ったんだ?アシがついた時にお前らがヤバじゅなるようなら、使い方も考えるが…」

「そこは心配要りません。正規の工房や店を経た流通品ではありませんから。…いわゆるアングラのオーダーメイド品です。

こちらが探られる事はありませんので」

 これはノリフサが意見を出したものの、コウイチが動いて首都に潜む情報屋を名乗る男に掛け合って製造させた品。どこか

ら探ろうとしても情報が切れるので、白虎がこれを使っていたからといって、黒武士との関係を疑われる事はない。

「…被害は、断片的にですが聞き及んでいます」

 浮かない顔で男は呟く。

「この首都でも、同じ事が起こり得る可能性がある…」

「その通りだ」

 白虎は当たり前のように頷いた。対岸の火事…などとたかを括らないのが、この男の良い所だと評価しながら。

 他国とは比較にならない密度でバベルが存在するこの島国。だからこそ黄昏は必ずまたこの国を狙う。何処を攻めるか判ら

ないのでは反撃のしようも無いが、この国に陣取れば、迎撃の機会は必ず巡って来る。

(早ぇとこ、体制を整えなきゃならねぇ…。次の標的が何処か、判らねぇんだからな…)

 

 そして、奥羽山脈、河祖群…。

 祖父の助けを得ながら当主の代行として気張るユウヒは、短い合間に飯を掻きこみ、あるいは茶で米を流し込み、深夜に小

半時の仮眠を取り、明方にユウトとシバユキの顔を見に赴いて、腰を据えて飯を食う間すらも惜しんで動いた。

 犠牲者を悼む間もろくに取れず、慌しく過ぎてゆく時間。神経をすり減らして警備に当たる御庭番達。だが、幸いにも警戒

していた第二波襲撃なども無く、とりあえずは体勢の立て直しも落ち着いて、河祖群は祝う余裕もないまま大晦日を迎えた。

 その、夕刻…。

 

「河祖上の交替人員を二割戻し休息に当たらせる。シマタケ爺、済まぬが見繕ってくれ。特に遺体搬入に当たった者を優先で」

「承知」

 赤銅色の熊が人員名簿の勤務表を手に、警戒の頭数を調整する算段をつけている。向き合って座した老虎は、疲れが多少は

見えても落ち着いているユウヒの様子を窺い、大したものだと胸中で嘆息した。

 古友達のヤギとも合間に話したが、ユウヒは成長した。

 タフである。身体的にも体力的にもタフだが、精神もタフだった。ただしそれは、以前のような無感情無感動であるが故の

耐久性ではなく、現状を正しく認識し、周囲の皆の心境を理解し、喪失の痛みを堪えた上でのタフさ。

 簡素な母の弔いを済ませ、喪失感に叩きのめされ、それでなお膝を折らず、苦しみながら耐え抜いて発揮するそのタフさは、

従う者を奮い立たせる。故に、成長したと思う。

「巡回班も人員を削減し、炊き出し班の休憩時間を長く取る。工作班は補修が一段落した段階で丸一日休みを挟ませたいが…」

 意見を求めるユウヒの視線を受け、補佐しているユウゼンが顎を引いた。

「調整役の連絡手順を少し見直すのも忘れぬように」

「!了解した。では…」

 補足を入れられたユウヒが、緊張が続く皆の疲労を考えた配置換え案を、ちょうど仕上げたその時…。

「ユウヒ様」

 ヤギが緊張した面持ちで、当主代行の前に進み出た。

「ユウキ様が、「次期当主を呼べ」と…」

「!」

 眉を上げたユウヒの肩を、祖父がポンと叩く。振り返った孫に、ユウゼンは深く頷きかけた。

 ユウヒを呼べ、ではなく、次期当主を呼べ…。

 ユウキがそうヤギに告げた。その意味を二人とも理解できた。

「しばらくは構わぬ。某が引き受けよう」

「………」

 祖父に黙礼したユウヒは老山羊に先導され、屋敷の裏庭に面した縁側へと赴いた。

 そこで、父親が待っていた。

「おう。先にやっとるぞ」

 濡縁にあぐらをかき、お猪口を持った左手を上げ、ユウキは以前と変わらない調子で息子に声をかけた。隻腕になって右袖

が潰れている事を除けば、元気そうにすら見える。

 一礼してヤギが下がると、ユウヒは父親の左隣に腰を下ろす。

 簡単な肴が載った皿と、徳利一つに、熊親父が持つ物も合わせてお猪口が二つ。父が徳利を取ると、お猪口を両手に捧げ持っ

た息子が酒を受ける。

「月が見えんのが残念じゃ」

 雪雲が覆う空の下、ニヤリと笑ったユウキが酒器を差し出し、ユウヒが乾杯に応じる。

 くいっと、同時に煽って一口に飲み干した親子が、揃って吐き出す酒気混じりの白い息。

 夕暮れの裏庭に漂い、溶けるように消える息の行方を眺めながら、

「今夜、日付の変更をもってお前を当主とする」

 ユウキはそう、息子に告げた。

 今はどこも、御柱への襲撃行動を警戒していて動けない。帝の前での宣誓ができる状態ではなく、何よりユウキにはもう時

間が無い。当事者間のみでの簡素な当主交代を、今の内に済ませる必要があった。

「謹んで、お受け致す」

 ユウヒは体の向きを変え、父の横顔に深々と頭を下げた。

「まぁ、心配はしとらん。お前はもうしっかりしたからのぉ」

 軽い調子で言った熊親父はカラカラと笑った。

「やっと肩の荷が降りたわい!さて、もう一献…、っと」

 ユウヒが徳利を取り、口を向ける。

 目を細めて、父親はお猪口に酒を注がせる。これも叶った、そう胸の内で呟いて。

 いくつかあった、生きて居る内にやりたい事…。

 神代家を神将に復帰させる。

 帝と裏帝の戦を終結させる。

 息子を立派な跡継ぎにする。

 その息子と酒を酌み交わす。

(どれも…、叶ったわい…)

 これまでにしてきた事を思えば、自分はろくな死に方はできない。そう考えてきたのだが、悪くない幕引きだと心底思う。

 ただし、まだユウヒに伝えておくべき事はある。

「後始末については、爺ちゃんに聞いて進めろ」

 神代の当主及び元当主は、大々的な葬儀を上げたりはしない。

 葬儀など、戦力が落ちたと周囲に宣伝し、敵に好機を告げるような物だったので、昔の神将家はどこも死後一年ほど隠し通

していた。今でも、神代家など数家は戦時の名残でわざわざ周知したりはせず、身内のみで小規模な弔いを行ない、任意の弔

問を受ける形にしている。

 例えどんな偉業を為した者であろうと、例外は無い。

「ユウヒ。儂らは「病死」じゃ。よいな?」

「それは…!」

 赤銅色の熊は目を大きくした。

「シバイは自ら腹を切って臨んだ…。儂は承知で毒を煽った…。シバイが責を負った以上、それで手打ちにするのが筋じゃ。

犬沢家の咎は責めん。何より、毒と知って飲んだ儂の自害とも言えるわい」

 それはユウヒが密かに望んでいた事でもあった。少なくとも、幼いシバユキには本当の事を知らせたくはないし、父の行い

で責を問われるなどあってはならない、と。

 その時、父の言葉に集中しているとはいえユウヒも、毒に五臓六腑を蝕まれて弱り切っているとはいえユウキも、揃って全

く気付けていなかった。

(とうさまが…。なに…?)

 シバユキが、一つ向こうの部屋の襖に身を寄せ、聞き耳を立てている事に

 神代親子が察知できなかったのは、柴犬の幼子本人も気付いていない、身に宿した能力の作用による所が大きい。部屋から

コッソリ抜け出し、父母がどうなったのか訊こうとしたシバユキは、見張りの御庭番に見つかって連れ戻されないように必死

だったが、そのせいで自分も存在を自覚していない能力を発動させている。

「儂らはただの病死。シバイは何もせんかったんじゃ。…良いな?」

 熊親父は笑う。

「心得た」

 深く頷く赤銅色の熊。

(そんな…!)

 柴犬の幼子が後ずさる。

 幼いながらも利発なシバユキは、盗み聞いた内容で察してしまった。自分の父が、主君であるはずのユウキに毒を与えたと

いう事を。

 神代に仕え、直轄領を護る。それが自分のするべき事だとシバユキはずっと教えられてきた。神代家を敬い、守り、大事に

しろと、物心つく前から言い聞かせられてきた。

 なのに、父は…。

 シバユキは涙を零しながら、ふたりに気付かれないままその場を離れた。

 主君に毒を盛った。ユウヒの父に、ユウトの父に、自分の父が毒を盛った。許されざる裏切りを、自分が大好きだったあの

父が働いていた。

 何のために?

 それはおそらく、自分を守るために…。

(とうさま…!とうさま…!どうして…!)

 この瞬間だった。

 神代の下、一振りの刃として生きるという方向性が、シバユキの中で定まったのは。

「ユウヒ。伝えておく件がもう一つ、あの敵兵共の事じゃが…」

 ユウキは語った。最初はまさかと思ったが、今思い返せば間違いない。

「敵兵の中に、知った顔をいくつか見た」

「知った顔!?では、本拠地などの目星が…」

「いや、残念じゃがそりゃあ判らん。組織として何なのかという事はイマイチじゃ。が、そんな事よりも「知った顔があった」

という点、それ自体がまずい」

 ユウヒは父の言葉に困惑しつつ、黙って先を促す。

「その連中なぁ…、回って来た資料に出とった、かつて戦死したり殉職した他国の軍人や諜報機関の職員の顔じゃった」

 まさかとは思ったが、ユウキは死後の指示を含めた遺言を纏め、身辺整理を進める傍らで、かつて懇意にしていた種島とい

う男に連絡し、ツテを使って調べて貰った。

 すぐには確認できない事も多かったが、調査結果が出た分だけで言えば、ユウキが怪しんだ「該当者」の遺体は全て無くなっ

ていた事が判明した。調査の完了を待つまでもなく、おそらく全員の遺体が消えているはずだと、熊親父は確信している。

 赤銅色の巨熊は黙り込み、その言葉を吟味しながら父に訊ねる。

「死亡を偽装して、あの所属不明軍に加わっていた、と?」

「そこが判らん…。顔は同じでも、のぉ…」

 見た目は本人で間違いない。が、本人ではないような気がする。

 熊親父はそう言ってから、死亡報告資料の該当ページに印をつけ、調査を頼んだ知り合いにも後は息子にと伝えておいたの

で、祖父に相談し一緒に確認しろと告げた。そして…。

「死体を残すのは危険じゃ」

 原理は判らない。が、ユウキは勘付いた。自分の死体を残すのは、まかり間違って何処かへ出してしまうのは、とてつもな

く危険な事に繋がりかねないと。

 司法解剖はさせず、自分の身は自分で処分する。勘が確かなら、司法解剖を受け持つ者や主導するだろう政府の関係者…、

そこから死体を何処かに出され、「違う何か」になる可能性がある。

 他の神将家にも、死体は「一時でも」外へ出すべきではないと伝えるよう息子へ告げてから、ユウキはお猪口を目の高さに

上げた。

「しかしまぁ骨だけは拾ってくれ。で、粉にした上で、トナミと一緒の骨壷に納めてくれんか。実は、処理の支度はもう済ま

せとる」

 日中に生存者捜索に向かった御庭番達に頼み、河祖中の集会場に燃料と火薬などを配置した。そう言ってユウキは笑った。

「派手に燃えるじゃろう。最期はパァーッといくのも悪くなかろうて」

「………」

 無言で目を伏せる若熊。

 河祖中村は廃村となる見通しだった。もう村としての機能が保てず、住民も僅かしか残らなかったのだから。

 ユウキがあえてそこを選んだのは、守護頭として村を守れなかった、けじめの意味もあるのだろう。せめて、同じ場所で命

を終わらせようと…。

「お嬢ちゃんには、手紙をしたためた。済まんが落ち着いた頃に送ってくれ」

 第二婦人であるフレイアには、一通りの事が済んでからの報告を望んだ。

 どの道もう死に目には間に合わない。しかも職業が職業、現場が現場なので、仕事中に報せを受けて平静さを欠いては危う

い事も起こり得る。終わった後でしんみりと思い出してくれれば良いと考えての措置である。

 声ぐらいなら聞けるかもしれないとも考えたが、電話などでの連絡も辞めておいた。勘のいいあの娘には死期を見抜かれそ

うな気がして。

 自分はサクッと逝く。残ったフレイアはまだまだ若いので、相応しい伴侶を探すこともできる。フレイアは余計なお世話だ

と怒って、後で報せた事を恨むだろうが、言いたい事は手紙に記した。独善的といえばそうだが、これが自分にできる内で一

番綺麗なお別れだと…。

 ゴクッと喉を鳴らし、最後の一献を美味そうに飲み下すと、ユウキは「どっこいしょ」と腰を上げた。

「見送りは不要じゃ。皆にもよろしく伝えてくれい。ユウトには、ちょっと遠いトコから見とる、と…。爺ちゃんには、長生

きしてくれってな…。ではユウヒ」

 熊親父は笑う。いつもの顔で。

「息災でな」

 居住まいを正し、ユウヒは平伏する。

「…俺は…」

 伏せた顔の下で、漏れた声が震えながら床を這った。

「俺は…!親父殿の息子に生まれだごど…、誇りに思ってる…。今までも、今からも…、ずっと…!」

 ユウキはフンと愉快そうに鼻を鳴らして、

「やめいやめい、ケツが痒くなるわい!」

 そう笑いながら言って、庭に降ろしていた草履に足を下ろす。

 平伏するユウヒの耳に、父の足音が届く。

 雪と凍った土を踏む足音が遠退く。時折バランスを崩したのか、歩調が変わって聞こえたりもした。

 だが、ユウヒは顔を上げなかった。足音が遠く去り、聞こえなくなるまで。

 死に水を取らせる事を拒み、見送り不要と言った父が、その弱った姿を見られたくないという、最後の意地を尊重して…。

 

(ヒバユキ…、いない…)

 金色の仔熊は、気付いたら居なくなっていた柴犬を探して、部屋を出て屋敷内をウロウロしていた。忙しそうな大人達に見

つかったら連れ戻されてしまうので、コソコソと隠れながら。

(そどさでだの?)

 もしかしたら屋外に出たのかも、と考えてユウトは庭が覗ける外廊下に出た。

 ユウキとユウヒが居る側とは違う方角の、冷え切って凍りつきそうなほど冷たい濡縁を歩み、かつてヤクモが作業の場とし

ていた離れが見える位置に来た所で、ユウトは足を止めて首を傾げた。

 そのままトンと、躊躇いなく雪が積もった庭園へ降りる。

 雪をギュッギュッと踏み鳴らして、離れの前まで出てきた金熊は、しばらく不思議そうな顔をしていた。

(なんかいる?)

 音ではない。匂いでもない。姿を見たわけでもない。子供特有の勘で、ユウトは察知していた。「この近くに知らない何か

が居る」と。

 そしてそれは、ユウトをじっと見ている。

 僅か1メートルも離れていない、雪が積もった木の陰から。

 やがて、ソレは気配も残さずそこから消える。

 居なくなった事にユウトが気付いたのは、しばらく後の事だった。

 

 急激に暗くなってゆく夕暮れの道を、ユウキはひとり、河祖中へと歩む。

 巡回の合間、御庭番とも出くわさない、静かな暮れの山道。

 そっと手を上げ、口元に添える。

「…っぶ…!」

 喉が蠕動し、こみ上げてきた赤黒い血が口内を満たしたが、口を固く閉ざしたユウキはそれを飲み下す。口の端からツツッ

と垂れた血が、筋になって顎下に伝った。

 既に限界を超えていた。飲んだ毒にここまで耐えられたのは生命力の賜物だが、本来なら一両日も保たない劇毒。身辺整理

を済ませ、息子が大丈夫か見定める、その使命感で無理矢理保たせたが、体はもう、殆ど死んでいた。

(御の字じゃ…。何とか最期まで保ったわい…)

 引き摺るような足取りで、ユウキは向かう。始末をつけるために、河祖中村跡へ。

 

 山風に木が揺れる。枝に積もった雪がバサバサと落ち、雪煙で根元を隠す。

 鳥も鳴かない奥羽の真冬。住民以外に行き来する者など殆ど居ない秘境。

 しかし、年の瀬迫るその日、数日前から山中を探っていた者が、河祖中村へ赴く孤影を密かに見張っていた。

 杉の幹に身を寄せて、雪中の木の影の溶け込む暗夜の紺色を纏うキジトラ猫が、息が白く目立つ事を嫌って呼吸を浅くする。

 遠目に見る影は大きい。逞しい巨躯である。

「大将…」

 静かに囁きかけたキジトラ猫の声に、

「間違いねぇぜ」

 応じた声はあったが、しかし言葉を発した主の姿は見えない。

 だが、そこには居る。

 姿を正視する事は容易ではなく、気配を探る事すら困難だが、キジトラ猫の側、木の影にもならない開けた位置に、その男

は居た。

 宵闇色の作務衣にも似た装束を纏い、鴉羽色の手甲と脚絆を着用し、腰帯に白木鞘の長ドスを差し、遠ざかる影を鋭く見据

えているのは大狸。その左袖は潰れて薄く、手が出ていない。

 隻腕の大狸をはじめとする十余名は、数日前からこの近辺を徘徊していた。神代の御庭番、河祖郡に展開したラグナロク、

そのどちらにも存在を気取られる事無く。

 彼らは、かつて樹海の隠れ里に暮らし、神将達によって攻め滅ぼされた、逆神と眷族の生き残り。神代とも因縁浅からぬ一

団。隻腕の大狸は、かつて裏帝の下で隠神刑部を名乗っていた男である。

 彼は隠れ里が陥落したあの日、可能な限りの生き残りを率いて脱出した。

 帝勢の目を逃れて何とか逃げ切ったものの、逃避行の道中で幾人もの同胞が命を落とした。

 しかしギョウブ自身は、隠れ里陥落後に己に課した使命をやり遂げたと言える。生き残りが居る事を帝勢に一切感知させず

に全滅したと信じ込ませた。ツテを使って目立たない者達や幼い子供らを世に送り出した。残る者は新たな隠れ里に身を潜め、

いつか枯れ果てるその日までの穏やかな隠遁生活を送っていた。

 そんな彼らが、かつてのように武装し、危険を冒して神代の膝元である河祖郡に赴いている理由は、報復…ではない。

 危険を押してでも、最悪の場合は神代家と一戦交えてでも、成さねばならない事ができたからである。

 ギョウブに率いられて、息を潜めながら何日も周辺を捜索していた者達は手錬揃いだったが、結局のところ今日まで目的を

達せられなかった。

 しかし、ギョウブとトライチは見つけた。やっと…。

 自らも負傷の悪化で生死の境を彷徨った、かつての逃避行の日々を思い出しながら、ギョウブは腰の得物にちらりと目を遣

る。
かつて愛用していた隠れ里で鍛えられた刀ではない。ギョウブが扱い易いように同様の拵えにしてあるそれは、あえて無

銘にされているものの、名工の手による大業物。今や心強い愛刀となった一振りである。

 交戦は避けたい。が、目的のためなら、これを抜くのもやぶさかではない。

「…トライチ。「潮騒」を支度しろ」

「はい!」

 かつての暗号を用いた総員撤収準備の命を下され、トライチが身を翻す。皆に伝えて退路を確保、ギョウブを待って一斉に

離脱するために。

 そして、ひとり残ったギョウブは…。

「何の因果だ…、ええ?」

 低く零して足を踏み出す。去った人影を追って。

 

 

 

 樽やポリタンクがグルリと壁際に並んだ畳敷きの広間で、熊親父は溜息をついた。

 呼吸の乱れが静まらない。動悸が激しく、目は霞んで、耳鳴りも止まない。

 もう長くはないなと実感しながら、ユウキは支度を済ませる。

 河祖中村の集会場、公民館の分館として長らく村民達に利活用されてきたそこは、たまたま居合わせた者を追尾したヴィゾ

フニルの爆撃によって、壁の一角に穴があいている。

 寒風が吹き込む館内は空気が冷え切っており、ユウキの浅い息は白く顔の周りを漂う。

(ようやっと、支度が済んだわい…)

 導火線となる油が染みた紐で繋いだ樽もポリタンクも、なみなみと燃料で満たされている。ユウキはこの集会場を、己の亡

骸を灰にする火葬の場として選んだ。

(さてと…)

 霞む目を室内で巡らせる。

 既に死んだ村、暮らす者の無い集落の夜。シンと静まり返って、夜泣き風と自分の息しか聞こえない。

 だが、「居る」。

 確信をもってユウキは待つ。

 気配は無い。匂いも無い。視線も感じない。しかしソレが「居る」事だけは判る。

 気付いたのは昨晩の事だった。

 驚くほど見事な隠行の技術。冬の凍てついた木と変わらぬ気配。御庭番達はおろか、無拍子の使い手であるユウヒにもユウ

ゼンにも気取られず、ソレは村の中に潜んでいた。ギョウブ達すら不用意に近付けない、神代の屋敷のすぐ側に…。

 おそらく、死が目前に迫ったせいだろうと、ユウキは考えた。五感も魂も体から離れつつあるせいで、本来は感じ取れない

物が時々判るようになっているのだろうと。

「誰も来やせんわい。そろそろ良かろう」

 集会所の中にだけ通る声でユウキが呼びかけると、ソレは、開け放たれていた入り口の戸の陰から音も無く姿を見せた。

「………!」

 居るのは察知していても、相手が誰なのかまでは判っていなかったユウキは、霞んだ目でその姿を捉え、息を飲んだ。

 赤銅色の被毛。ボロボロになった胴衣。深淵を覗き過ぎ、その物と化したような双眸…。

 少年。そう表現するのも躊躇われる歳若い熊がそこに立つ。

 十代前半だが、幼さや若々しさは無い。印象で語るなら、「生物」とは思えない。

 その容姿は少年時代の息子に瓜二つだったが、しかし決定的に違う。

 「歪みの無さが異常」という意味で、酷く歪んでいたかつてのユウヒ。しかし目の前のソレが宿す異常性はケタが違う。

 欠落していた。

 あちこち欠けて、ひととしての体裁を保っているのは外面だけなのではないかと疑いたくなるほど、ソレからは様々な物が

欠け落ちて抜けていた。風が吹けばその体から音がしそうなほど、失った物で穴だらけになっていた。

 それは、ユウヒと同等の素養を持ち、ユウヒとは違う異常性を植え付けられた、もうひとりの「根絶者」。報復の宿命を背

負わされた少年。

「…そう…か…」

 熊親父は納得した。

 「アテルイの毛並」…。ユウヒがそうで、神壊の当主もそうだった。

 しかしその他にももうひとり、「あの晩」、「あの里」で、「同じ毛色の者を見た」と、鳴神の当主であるライデンから聞

いている。

 死んだと思っていた。

 あの隠れ里で誰も彼もが討ち死にしたか焼け死んだと思っていた。

 重度の記憶障害のため見逃され、保護観察下に置かれている眷属一匹を除けば、これまでに残党一人、生き残り一人、見つ

かってはいなかった。

 だが、生き延びていた。

 神壊(くまがい)。神代と同源の血にして、天敵の一族…。

 因縁を断ててはいなかった。

 逆神はここに。神壊はここに。あの男の忘れ形見がここに…。

(天に感謝じゃ…)

 ユウキの口角が不敵に吊り上がる。

(ギリギリじゃったが、結局、儂が終わらせられる…!)

 子の代には遺さない。因縁は自分の代で断つ。

 ぶらりと下げていた左腕を、ユウキは斜に構えつつ上げて、手招きした。

「仇討ち、という訳じゃな」

 無言のまま動かない若熊は、両手を体の脇に垂らしたまま、感情の窺えない目で熊親父を見つめている。

 ラン。

 かつて隠れ里でそう呼ばれていた神壊家当主ライゾウの長男は、初めて目にした「仇敵」に僅かな懐かしさを覚えた。

 遥か昔に分かれた血とはいえ、やはり血縁なのだろう、父の面影を思い出す。

 だが、それもどうでもいい。討ち果たすべき仇であるという認識に変わりはない。

 ランが重要視しているのは、いかにして目的を達成するかという点。

 毒に侵され弱りきってなお、強敵であると認識した。放っておけば死ぬのだが、それでは目的を達した事にはならない。

(デンキチ…)

 自分は目的を果たす。父の仇を討つ。導いてくれた者へ捧げる。

 隠れ里を失った事も、多くの者が死んだ事も、今日までの苦難の時も、覚えてはいるが考えない。もはや過去を思い返して

感慨を抱く心情すらも、ランからは欠け落ちてしまっている。

 今日この時のために生き永らえた。ランは自分の命をそのためだけの物と認識している。だから、彼我の戦力から良くて相

打ちという結果が見えても、ランは退こうという気にはならなかった。

 次は無い。鍛え直してなどと悠長な事は言えない。その頃にはこの男は死んでいるのだから、どうあっても今挑まなければ

ならない。

「参れ」

 ユウキが誘ったそばから喉を鳴らす。込み上げて来る濁った血で、気を抜けば喀血しそうになる。

 名乗りあう必要などない。名前など知らなくていい。逆神はもう居ない。息子や娘が討たねばならない神壊はもう居ない。

 だから、問わない。ここで終わる以上、名乗る事にも名乗らせる事にも意味は無い。

 やがて、ランは無造作に足を踏み出した。

「凶熊…覚醒…」

 神卸しに伴い、纏った瞬間から燐光は赤銅色に輝く。

 続く足は少し速く、三歩目は風を越し、四歩目が音を越した。

 距離17メートル。構える熊親父へ、瞬時に加速したランが迫る。

 左腕に力場を集約。四指を揃えて抜き手にし、フック気味に振るいつつユウキの胴を貫きにかかる。

 反撃は合わせられるだろうが、構わない。右で受けられればよし。もし受けきれなくとも相手の腕は一本、殺されたとして

も本命の左が通ればそれでいい。

 ボッ…。

 踏みつけられた床が割れる破砕音に、布が風を孕んではためいたような音が重なった。

 影二つ。

 白い息。

 隙間風。

 そして、静寂。

 ランは息を止め、ハッと目を見張る。

 反撃は無かった。力場も纏っていなかった。それどころか、殺気が、最初から無かった。

「見事…!」

 ニヤリと上がったユウキの口の端から、ツツッと血が垂れた。

 鳩尾に穴が穿たれ、ランの左腕は右脇腹の後ろまで腹部を貫通しているが、融解面が焼かれているので血は一滴も出ない。

 自分の鳩尾を抜き手で貫いたランの肩に、上げていた左手をそっと置きながら、熊親父は目を細める。

「…この距離ならば、霞んだ目でも何とか見えるわい…。父親によく似た面構えじゃな…」

 ランは悟った。反撃可能だったにも関わらず、ユウキは自分の一撃をあえて…甘んじて受けたのだと。

 滅びの一撃を放てたはずの左手は、しかし一度も燐光を纏う事はなく、神代の技を放つ事はなく、ただ、ただ、静かに、葬

りに来た自分の肩に置かれている。

「ようやったのぉ…。これで、仇討ちは完遂じゃ…」

 ユウキは撫でる。あの日、あの男に持って行かれずに済んだ左手で、あの男の息子の肩を。

「神代…、神壊…、両家の宿怨は今宵で断たれた…」

 身じろぎ一つなく固まったまま、ランの目が微かに揺れ、次第に見開かれてゆく。成功しただとか、失敗しただとか、そん

な事すらもう考えられない。自分が何をしたのか?この男が何をしたのか?結果だけが、空虚だった胸の内を満たしてゆく。

「儂で…、最後にせい…」

 耳に届く荒い呼吸と掠れ声が、消え失せていた光を若熊の瞳に戻す。

「同じ血から産まれた者同士…、殺し合うのはもうええじゃろう…」

 ランは困惑した。

 父の仇だった男の声から感じるのは、積年の後悔と苦悶、そしてそこからやっと開放されるという、安堵だった。

 勝者のはずの神代が、何故、何について、これまで苦しんで来たのか。その答えを察したからこそ困惑を禁じ得なかった。

 ランは師から神代熊鬼こそが父の仇だと聞かされて育った。

 神代家は怨敵。その知識は持ち合わせている。しかしラン個人は神代家というくくりを曖昧にしか捉えられず、血筋単位で

憎悪する事ができなかった。

 だからこそ手出ししなかった。先ほど出会った、容易く葬れただろう幼い金熊にも。

 それ故に、思った。

 この男も神壊を敵としながら、憎悪はしていなかったのではないか?

 自分達を葬るその拳に、憎しみなど宿していなかったのではないか?

「神代が殺した神壊は、お前の父で最後に…、神壊が殺した神代は、儂で最後に…」

 呆然としながらランは感じる。肩にかかった熊親父の手の感触は、師が頭を撫でてくれた手の感触と、何処か似ていると。

 そこには想いがある。何かを託したいと願う、想いが。

「…おい、そこの」

 ユウキはすっかり見えなくなった隻眼を入り口に向ける。

 放心していたランも首を巡らせ、光が戻った瞳に驚きの色を浮かべた。

 そこには隻腕の、大柄な狸が一頭、静かに佇んでいる。

 ランがユウキを討ったまさにその瞬間に、ギョウブは飛び込んでいた。

 目の当たりにした光景に絶句し、驚きはしていたが、それも一瞬の事。今はこの巡り合わせに想いを馳せている。

(何の因果だ…、ええ…?)

 弱り切って死にかけたユウキの前に、仇討ちを志したランが立った。それはまるで、神代と神壊の宿命が、介錯を用意した

かのようですらあって…。

 黙して成り行きを見守るギョウブの半眼と仏頂面には、今や納得と理解、そして共感の光が浮かんでいる。

(自分の命で因縁を断ち切れるならば、甘んじて受け入れる、か…)

 ギョウブは自覚していないが、ユウキとギョウブは似た者同士である。

 目的を達するためならば如何なる非道も厭わない一方で、身内や仲間のためならば躊躇せず命も体も張る、有情と非情が同

居する男。それがどんなに汚い手だったとしても、不名誉な行いだったとしても、自らに不利益だったとしても、必要ならば

選択する。その点で、神代熊鬼は隠神刑部とよく似ている。

 自分の身一つと引き換えに、次代へ負の遺産を持ち越させずに済むならば…。ユウキが下した判断は、ギョウブが同じ立場

になれば選んでいただろう物だった。

「誰かは判らんが、この子の味方か…?」

「…ああ」

 ギョウブは自分の正体を悟らせないよう、念のために声音を変えて応じた。目が見えていないようだが、それでも自分が誰

なのか知ればユウキが困るだろうと考えた。「遣り遂げて」逝く者に、逆神が生き残っていたなどと知らせるのは酷過ぎる。

「その子と落ち延びた最後の生き残り、当主の仇を討つために隠れ潜んできた者だ。…が、これで想いは果たされた」

 口にするのは詭弁。胸に宿るのは賞賛。一世一代の化かし処と心得て、ギョウブは神壊の眷属の生き残りを演じる口ぶりで

告げる。

「もはや我らに果たすべき事はない」

「なら、この子を連れて去れ…。もう良いじゃろう…。禍根に囚われぬ生き方を…、させてやれ…」

「承知…」

 ギョウブが頷いた事を気配で察しながら、ユウキはふっと、笑みを浮かべる。直後、体から力が抜けてよろけ、尻もちをつ

いた。

「さて…、首でもやれれば良かったんじゃがのぉ…。生憎、頭が無ければ、流石に骨を拾う時に気付かれるわい…」

 熊親父は眼帯を外し、震える左手でそれを差し出した。

「首級(しるし)代わりじゃ。持ってけ…」

 黒革の、何の装飾もない眼帯を、ランはじっと見つめてから受け取る。

 命の残り火が宿るように微かな温もりが残るそれを、包む込むようにそっと握ったランに、ユウキは「もう行け」と、軽く

手で払う仕草を見せた。

 頷き、踵を返したランが入り口に向かって引き返すと、

「神代の当主」

 ギョウブは口を開き、言葉に詰まったように黙った。

 不倶戴天の敵同士だった。幾人も眷属を殺した憎き相手ではあった。…だが、もしも時代の流れが違っていたなら…。もし

も歴史が違っていたなら…。帝が二派に分かれる事も、神将がそれぞれに分かれる事もなかったなら…。おそらく自分は、轡

を並べるこの男を頼もしい仲間として見ていたのだろう。

「貴公は我らにとって、誉れある敵であった」

 座して項垂れたユウキが苦笑する。それと前後し、部屋からは気配が消え失せた。

「がふっ!」

 激しく咳き込むと同時に、喉にゴボゴボと夥しい量の血が上がって、口から溢れてユウキの両脚を染めた。

 白く湯気を上げる赤黒い血溜まりの中で、熊親父は「ふぅ…、すっきりしたわい…」と呟き、血染めでこそばゆい口元を手

の甲で拭う。

 そして、床を探って紐を掴むと、油が染み込んだそれに、指先に宿した力場の熱崩壊で着火する。殆ど見えなくなった目で

も、放した紐を辿って遠ざかる火種の灯りは判った。

(はぁ~…。まぁ、悪くはない幕切れかもしれんのぉ…)

 これまでにしてきた事を思えば、自分はろくな死に方はできない。ずっとそう考えてきたのだが、なかなかどうして、まん

ざらでもない幕引きになったと思う。

 いくつかあった、生きている内にやりたい事…。

 神代家を神将に復帰させた。

 帝と裏帝の戦を終わらせた。

 跡継ぎを立派に育てられた。

 跡継ぎと酒を組み交わせた。

 神代と神壊の因縁も断てた。

 やりたかった事は、だいたい叶った。

 ただ…。

「あ~………」

 項垂れたまま、ユウキは声を漏らす。

 思い浮かべるのは、残してゆくフレイアと、彼女との間にできた幼い娘の事。

 フレイアをもっと甘やかせば良かった。引退時期も聞いて第二の人生についても手配しておけば良かった。

 ユウトをまだまだ可愛がれば良かった。就学、成長、卒業、思春期、娘という生き物を見守りたかった。

 閉じた瞼の裏に浮かぶのは、ウエディングドレスを纏う金色の熊。

 恥じらって青い目を伏せる娘の手を取り、促す自分の手。

 フレイアとトナミに見送られ、娘の手を取り、逆光で姿が見えない新郎の元へ、一歩一歩進む、西洋型の結婚式。

 そして、父は手を放す。

 娘は伴侶と共に、その先へ。

 道半ばから見送る父の胸には、寂寥感と満足感。

「あ~…やっぱり…」

 苦笑いが、俯けたユウキの顔を染め上げた。

「死にたかぁ…ねぇのぉ…」

 それが、奥羽の鬼神と称された男の、最期の言葉となった。

 

 河祖中村の中心付近で火が上がり、天へ昇る。

 ゴウゴウと唸りを上げて。

(親父殿…!)

 見張りから報告を受けたユウヒは、きつく目を瞑って冥福を祈るなり、察した祖父に目配せし、ここで初めて皆を集め、正

式に告げた。

 当主が今、自らを火葬した事を…。

 

「………」

 高台の木立で、赤銅色の若熊は村から昇る炎を眺めている。

 眼帯を握ったその手をチラリと見遣り、傍らのギョウブは火の粉の上る先ヘと目を向けた。

 いつまでもこうしてはいられない。撤収準備を済ませて待っている皆に合流しなければ。

 改めてランの姿を確認する。

 分厚く、大きく、逞しく育った体躯。双子の弟も大きくなったが、赤銅色のままの兄は、より筋肉質で厳めしい外見に成長

していた。

 逃避行の折に離れてしまい、生存を半ば諦めかけていた、ライゾウの忘れ形見のもう片方…。こうして再会出来た事には感

無量だが、しかし…。

(…もう、色々な物が欠けてやがる。だが…、「かろうじて」か…)

 子供らしさも生き物らしさも希薄になった若熊は、十代前半という歳を思えば、あまりにも不憫な変容を遂げていた。しか

しギョウブは感じている。まだ、ひとである、と…。あるいは一度踏み越えて、深淵その物と化したのかもしれない。が、ど

ういう訳かランは立ち戻っている。

「…ラン」

 首を巡らせた若熊に、隻腕の狸は問う。

「ワシの事は覚えとるか?」

「…ギョウブ…さま…」

 声を発し慣れていないような、たどたどしい舌の動きが感じられる声。ギョウブは「そうだ」と頷く。

「もっとも、隠れ里が無くなり御館様も失った今は「刑部」を名乗る意味もない。普段は違う名で呼ばせとるがな。…まぁ、

今宵はギョウブでいい」

 そうか、とランは思う。

 生き延びた皆も、違う人生を歩んでいた。変わらなかったのはおそらく、自分達だけだったのだろう、と。

 これからどうしようか?そう考えてみたが何も思いつかない。仇討ちだけが目的だった。神代家を狙う気も無くなった。目

的を果たした今、自分にはもうする事が何もない。

「ワシらは今…」

 ギョウブの声で、ランは思索を中断する。

「生き残った中で何処へも行き場が無い者同志で集まり、山中に築いた里で暮らしとる」

 自分達の状況を簡潔に告げ、ランの弟も違う場所で元気に暮らしている事を説明し、ギョウブは言う。

「一緒に来い。昔と同じとは行かんが…、まぁ、静かに暮らせるぜ」

「………」

 無言のランは、

「電吉(でんきち)の骨は、里の墓地に移した」

 ギョウブが師の名を口にするなりハッと目を見張った。

「立派とは言えんが墓は建てさせた。ヌシが拝んでやればアヤツも喜ぶと思うが、どうだ?」

 しばしの沈黙の後、ランは顎を引いた。

 何処にも寄る辺を持たず、為すべき事も無くなった身である。断る理由もない。

「ついて来い。皆と合流して山を降りる」

 踵を返したギョウブから、一度だけ葬送の炎に視線を移動させたランは、受け取った眼帯を軽く握りしめ、隻腕の狸に従っ

た。そして…。

「神壊嵐爪(くまがいらんぞう)」

 先を行くギョウブが振り返りもせずに発した声で、ピクリとランの両耳が動いた。

 それは自分の事か?と問うようなランの目に、肩越しに振り返ったギョウブは頷きかける。

「ライゾウ殿から聞いていた、ヌシが元服を迎えた時に贈るはずだった名よ。…良くも悪くももう子供じゃあるまい、父君が

用意した名を名乗っちゃどうだ、ええ?」

「らんぞう…」

 その名を呟き、若熊は顎を引く。

 送り火を背に、冬の奥羽を二頭が下る。

 行く手に広がる木々と闇に、ほどなくその姿は溶けて消えた。


最 終 話 「神壊嵐爪」






















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、年が明け、数日が経ち…。

Ready Aim Fire!」

 凛とした声と共に、整列した射手が小銃を構え、空砲を撃つ。

 寒風吹き荒び、氷片混じりの雪が舞う、北原。

 真っ白な氷雪の大地で、ここを拠点にしているハンターチーム、セスルームニルは、リーダーである女性の号令の下ウォー

マイスターの死を悼み、弔銃発射で北の空を震わせる。

Ready Aim Fire!」

 ユウヒからの連絡でユウキの逝去を知ったメンバー達は、一様に驚き、悲嘆に暮れた。

 縁あって懇意にしてくれていた神代家、その当主と婦人はセスルームニルの面々にも慕われていた。

 泣き腫らした目をゴーグルで隠し、号令を下しながら、フレイアは自らも引き金に這わせた指を引く。

Ready Aim Fire!」

 フレイアの声が震える。

 もっと河祖下へ行けば良かった。

 ふたりが元気な内に会いに行けば良かった。

 こんなにも早く、しかもいっぺんに別れが訪れるとは、思ってもみなかった。

 悔やんでも悔やみきれない。まだ別れを覚悟できていなかった。

 戦闘で逝ってしまった河祖群の顔見知り。遺されたユウトの心境。当主となったユウヒの重責…。

 ユウキとトナミにもう会えないという哀しみが、きつく、強く、胸を締め付け続けている。

Present arms…!」

 銃を下げ、敬礼する一同。

 嘆くように、北原は荒れていた。

 

 

 栃樹県。数日子供達に留守を預けていた屋敷に戻ったユウゼンは、囲炉裏の間で包みを開き、漆塗りの箱を出す。

 中には一つ一つ梱包された酒器の類…ユウキの持ち物だった品々が収められている。

 父宛てに、と書置きで遺言されたそれらは、蒔絵入り漆塗り、切子細工、槌起鉄器、備前焼きと様々で、雅な品から無骨な

物まで十数種類。徳利も三種入っている。

 いずれも超高級な一級品。その中には、かつて子供らの養育費用に充てるためにユウゼンが手放した品も入っていた。

 ユウキは、ユウゼンが売り払った品のいくつかを探し出して、買い戻していた。いつか纏めて渡すために。

「親不孝者め…」

 先に逝ったというその一点だけは許せなくて、ぐい飲みを一つ取り上げて呟く。

 それだけが、いかにも安物で、ざっくりと焼かれただけの素焼きの器。最期の最期までろくに言葉も交わせなかった息子が、

気兼ねしないで使えるからと愛用していた品…。

 その悲哀を帯びた背中を、子供らが出入り口から眺めている。

「元気ないな…」

「じいちゃん、だいじょうぶかな…」

「そっとしておいてあげて。今は…」

 

 

 奥羽の山中、河祖群へのバスが停まる停留所近くの駐車場。

「そろそろ戻って来る。飽きただろうが、落ち着いて待て」

 後部座席がスモークグラスで隠されている、黒塗りの4WDワゴンの運転席で、ハンドルに顎を乗せる若い獅子は呆れ顔。

 後ろの座席では窓に顔を押し付けた大柄な熊が、しきりに顔を捻り体の角度を変えながら、山道の先を覗いている。

 訳あって訪問を見合わせ、ここで留まる事に決めたふたりは、神代家へ弔問に向かった者を待っているのだが、熊の方が待

つのに飽きてきたらしい。

 その待たれている側は、河祖下村の門を抜けて、帰りのバスを待っていた。

「信じられんの…、今も…。ユウキさんが亡くなるなんて…」

 待合所の椅子に座って項垂れているのは、弔問用の黒い羽織袴に神ン野家の家紋を背負う若い狸。身長に対して過剰に横幅

と厚みがあるでっぷりした体型なのだが、それがなおさら引き立てられるのは、隣にほっそりした狐が立っているせい。

「同感です。長生き、しそうに思っていただけに…」

 狸はチラリと、軽く咳き込んだ狐を見遣る。狐の方は従者に送迎されているので、バスは利用しない。見送りに来ただけで

ある。

(コハンさん…、またちょっぴん痩せた気がしよんの…。毛の色艶も…だんだん…)

 不安が狸の顔を曇らせる。遺伝性の病を抱えた一族なので、なおさら体調不良が気にかかる。

「少なくとも、ユウキ様もトナミ様も満足はしていたでしょうね…。ユウヒ君があんなにも立派に育ってくれたから…」

 狐は思う。自分はどうだろう?自分は息子に何を残せるだろう?告げるべき事を伝えた時、どんな顔をされるだろう?

 そして狐は村の入り口を見遣る。

 また弔問客が帰る。猿の親子を乗せたセダンが、ふたりの前を通って道を下って行った。

 一斉に持ち場を空けないよう、また、神代家に負担をかけないよう、神将達は各々バラバラに弔問の予定を立てた。

 が、蓋をあけてみれば、気遣いの帰結として半数近くの神将が日程を被らせてしまっていた。昨日は明神と神崎、神田の三

家がここで顔をあわせたと聞き、狸も狐も天を仰いだ物である。

「大神の翁はいらっしゃらないようです」

 戦力不足故に持ち場を空けられない事、次期当主も未熟で、自身は老齢であり体調もすぐれない事、それが直接の弔問を見

合わせる理由。

「コハンさん…」

 若い狸はいささか顔色を悪くしながら、小声で囁いた。

「大神の…先代…」

「はい?大神の翁が、何か?」

 細面の狐が問い返すその声音で、神ン野の若当主は…。

「いえ、お加減そんなに悪いんでしょか?心配で…」

 言いかけた言葉とは別の事を口にした。

 狐は疑っていない。誰もそんな事を考えていない。ならば自分の想い過ごしだろうかと、そんな風にも思えてくる。

 別人とすり替わっていないですか?

 飲み込んだ言葉を胸の中で転がして、若狸は小さく首を振った。

 違和感だけが根拠。当てずっぽうで口にすべき事ではないな、と…。

 

「神原様!申し訳ございません!」

 屋敷内の廊下。面白がって耳を引っ張る幼い金熊。それを肩車している恰幅のいい武人然とした猪に、老山羊が繰り返し頭

を下げている。

「お気がねなく。我が家にもチッコイやんちゃ坊主がおります故」

 厳つい顔を笑み崩して、金色の熊を肩車している猪は、皆が構う暇が無いせいで退屈していたユウトの相手をしている。

 猪はかつてユウヒから、当主となった際の得物について相談された事がある。今回の弔問と合わせ、懇意にしている刀匠を

紹介し、向こうにも話を付けてやった。

 少し落ち着いてから、その刀匠に短刀を一振り打って貰う事になるのだが、猪武者は確信していた。

 熊親父がユウヒに遺したヒヒイロカネ。それを用いて当代のマサムネが刀を打てば、きっと、宝剣としてアイヅの禁足地に

祀られている「アテルイの蕨手刀」にも負けない大業物が生まれるだろう、と。

「そろそろお八つ時か。ではお嬢、菓子を貰いに参ろうか?」

「おかし!」

 猪が金熊を連れてゆこうとし、心遣いに恐縮するヤギは…。

「鳴神様!」

 と、猪の向こうを横切る老いた獅子に呼びかけた。

 その両手には、それぞれ空の食器などが乗ったお盆が重ね芸の如く高く詰まれて、危ういバランスで聳え立っている。曲芸

師のような真似をしているのは、鳴神家当主の老武人である。

「失礼。御庭番頭、台所はどこに…」

「恐れ多い!食器片付けなどはこちらで致しますので、どうかおくつろぎ下さい!」

 持て成すべき神将家の当主達が、トナミが亡くなって代わりを務める者が無い事に気を使い、雑事の手伝いまでしてしまう

ので、屋敷の使用人でもある御庭番達は恐縮しきりである。

 一方、もうひとり屋敷で暮らす事になった子供は…。

「何もそう焦る事はない。落ち着いてから考えれば、な」

 屋敷の裏庭、屈み込んだ虎の前で、柴犬の子は頑なな表情。

 戦い方を教えて欲しい。御庭番として役に立てるよう。

 それが、シバユキの頼みである。

 一年でも早く、一ヶ月でも早く、一日でも早く、一人前になりたい。そう訴えるシバユキの要望を、父母を一度に失った事

による物だろうと考えているウンジロウは、夢にも思わない。

 この幼い柴犬が、自分を裏切り者の子と認識し、罪滅ぼしに裏打ちされた頑なな使命感を宿しつつある事など…。

 

 

 

 そして、また少し日が過ぎて…。

 

 

 

「今日から護衛役になりました。よろしくお願いします」

 骨のように真っ白な壁と床と天井の通路で、無表情な熊が挨拶し、金髪碧眼の少年は不思議そうな顔をした。

 ヴェルは利き腕を失った。そう聞いていたのだが、目の前の熊にはちゃんと右腕がある。

「義手です」

 疑問に応えるように、ヴェルは右腕を胸の前に上げ、水平に寝せる。見た目は精巧だが、金属製の骨格をカーボンで覆って

人工の毛皮でコーティングした義手である。思念認識によってある程度の単純動作はできる代物だが、パワーはあまり無い。

 ヴェルは機能の低下を理由に、アサルトベアーズから外された。利き腕を失ったのだから、狙撃手としての彼は終わったと

も言えて、ヴェル本人に異論は無かった。

 そうして受け入れたその後で、役割としてバッソがしれっと告げたのがこの任務…、重要人物であるニーズヘッグの世話係

兼身辺警護である。

「タケシ、聞いていた?」

 ニーズヘッグが目を向けたのは、斜め後ろに控えていた黒髪の美しい男の子。ニーズヘッグに気に入られて、時間が許す間

は傍に控えるようになっている。

「警護部門で人員の異動があるという話であれば、伝達を受けていました。その人員異動がニーズヘッグの警護である事、及

び配備される人員がヴェルナルディノであるという情報であれば、伝達は受けていません」

 淡々と、子供らしからぬ口調で質問に応答するタケシ。

(何だかこのふたり似てるなぁ…)

 大柄な義手の熊と、兵器として鍛造途中である男の子の間で、少年は軽く顔を顰めた。どちらも感情表現に乏しい上に、事

務的を通り越してやたらと機械的である。

「ちょっとテイアン、いいですか?」

『拝聴』

 ニーズヘッグの言葉を受けて、男の子と大きな熊の返答が重なる。

「あらためて、お互いのショウカイとかをですね、するのが良いかなって思うんです。シンミツになるためにも」

『親密』

 またも言葉が被る男の子と熊。

「そう、仲良く、です。あとタイドをやわらかく…」

『………』

 タケシとヴェルの視線がぶつかった。お互いに、コイツの事だな、と思っているのは明白である。

「とりあえず何か飲み物とかを…」

 提案する金髪碧眼の男の子。聞いているのかいないのか表情では判らない大きな熊。

 ふたりの様子を見ているタケシは知る由もない。

 後に自分がここを離れ、ここでの事を何もかも忘れた後も、意識できないほど断片化された記憶のせいで、金色と、碧眼と、

大きな熊…、という条件を満たした何かに、無意識な好感を覚える事になろうとは。

 

 夕暮れの墓標が雪の上に影を落とす。

 手を合わせる妹の横で、屈んでいるユウヒは線香の煙を目で追った。

 ここに両親が眠っている。

 そう言われても、幼い妹はまだ死がどういうものかはよく判っていないので、難しいようだった。

 だが、もう会えないという事だけは理解できているらしい。そして、自分が寂しがってワンワン泣いていては、皆が迷惑す

るという事も…。だからユウトは気丈に笑う。夜中に泣き出してしまうことはあっても、なるべく元気に笑って過ごそうとし

ている。

 忙しい最中でも、なるべくユウトとシバユキと一緒に飯を食い、同じ部屋で寝るようにしながら、ユウヒは子供らの、それ

ぞれ違う利発さに感心させられた。

「ユウト」

 兄が声を掛けると、真面目にお祈りしていた妹は目をあけて顔を向けた。

「そろそろ夕食だ。また明日来るとしよう」

「んっ」

 頷いたユウトを抱き上げて、その愛おしい温もりを感じながら、不意に涙を覚えたユウヒは空を見上げる。

「…なじょしたの?」

 妹の問いに、涙が零れぬよう天を睨んだまま、赤銅色の巨熊は応じた。

「雨が、降って来たな…」

 雨どころか、雪も降っていない。

 抱き上げられている妹は、寂しさを紛らわせるように兄の胸に顔を寄せ、頬ずりする。

 兄は甘える妹の頭に、大きな手を乗せて撫でてやる。

 冬の晴れ間の夕暮れに、二つの影は重なって伸びていた。

 

 同時刻。とある山中に、山小屋が十数軒がひっそりと身を寄せ合う隠れ里。

 墓石を前に屈んでいた赤銅色の若熊は、手を合わせたまま瞑っていた目を開く。

 目的は達した。そう、埋葬し直された師に報告しても、達成感は特になかった。ここへ移ってから毎日拝んでいるが、何も

変化はない。

 ランゾウはこの隠れ里で、神壊家の当主として扱われる事になった。社会に紛れ込むには目立ち過ぎ、力があり過ぎる。何

より馴染みようが無いと判断したギョウブは、自分達と共にここで暮らすようランゾウに提案したのだが、異論がなかった若

熊はそれをあっさりと受け入れた。

 もうするべき事もないのだから、ここで落人皆が枯れ果てて、何もかもが土になるまで、静かに暮らしてゆこうと…。

 ランゾウは歓迎された。体は大きくなっても歳はまだ子供で、おまけに神壊の後継者なのだから、生き残った落人達は皆が

生存を喜び、可愛がった。

 顔なじみが何人も生きていた上に、この場に居ない双子の弟も元気に幸せに暮らしていると聞いたので、ランゾウにはもう、

本当に何も「する事」が無い。例えばユウキの最期の言葉を無視し、徹底的な報復を帝相手に行うとすれば、その時は落人狩

りが本格的に行われ、この隠れ里も、双子の弟も、きっと狩り尽くされるのだろう。

 だからもう、「報復者として何もする事が無い」。あの熊親父が言ったように、あれで何もかも終わりにするのが、双方の

ために一番良い選択だったのだろうと思える。

「おーい!若当主ー!」

 かけられた声に振り向けば、人間女性の妻を連れた、熊のような体格の大狸が手を振っている。

「夕餉の予定がなかったらウチで一緒にどうだー?ハルナ殿が猪鍋拵えてくれたからなー!カンゲツも来るぞー!」

 しばし考えてから、ランゾウは顎を引き、夫婦の方へ歩き出す。

 既に居ないものと考えられ、もう誰からも追われる事のない落人達。枯れて消えて果てる未来しか無くとも、そこにはまだ

穏やかな日々があって…。

 ふと、耳を動かしたランゾウが足を止める。

 振り返った若熊の肩を寒風が叩いて通り過ぎ、木々がザザァ…ザザァ…と繰り返し歌う。

「…潮騒…」

 故郷の風を懐かしむように呟いたランゾウの目には、乏しくとも、しかし確かな感情の色。完全には崩れ去らずに済んだ、

ひととしての魂の色。 

 かろうじてひとの範疇に舞い戻れたランゾウが、この里で死ぬまで穏やかに暮らす事は、しかし結局時代が許さず、いずれ

運命が、彼をここから連れ出しに訪れる。

 だが、それはまた別の物語。報復の宿命を背負った少年としての物語はここまで。

 だから今は、しばしの穏やかな年月を、ランゾウは皆と共に送る。

 あの頃のように、木々の潮騒に耳を傾けながら。