第六話 「神崎猫戯」
それは、三年ほど前の初夏の出来事…。
「ネネは、ユウヒによく懐いているよ」
正座した灰色の猫中年は、茶を溶きながらポツリと言った。
「そうじゃなぁ。ユウヒもまぁ…、意外ってぇか何ってぇか…」
灰色の猫と向き合う形で胡坐をかいた大熊は、ポリポリと頬を掻きながら応じた。
見事に手入れされた庭の一角に設けられた離れ…狭い茶室内に座しているのは、中背細身の灰色の猫とユウキの二人のみ。
だが、ユウキの体が大き過ぎるので、茶室は嫌に狭苦しく感じられる。
「案外、妹でもできれば硬さも取れて、甘い兄になるのではないかな?」
「どうじゃろうなぁ…?ちょいと想像できねぇや」
柔和に微笑む猫に、熊は顰め面で応じる。というのも、まだ十一歳でありながらやたら堅く融通が利かない我が子が、五つ
になるこの家の娘相手には、以前からややぎこちないながらも優しく接しているからだった。
さらに言うなら、どういう訳かこの神崎家の長女である猫音(ねね)も、ユウヒを慕っている。
子供とはいえ既に大人顔負けの巨体で、厳つい顔付きに加えて常々仏頂面なため、ユウヒはあまり他者から接触されない。
なのにネネはユウヒが来るととても喜び、にぃにぃと呼んで傍に纏わりつき、片時も離れようとはしない。
先ほど、二人が一緒にテレビを眺めていた部屋を覗いたユウキは、我が子の意外な姿に絶句した。
やけに静かだと思ったら、赤銅色の熊少年は大の字になって眠っていたのである。さらには、そのこんもりと山になった腹
に俯せに覆い被さってネネが寝ていた。半ば乗っかる形になって。
出先で居眠りする事もなく、常に気を張って礼儀正しくあろうと振る舞うユウヒが、無防備に手足を投げ出して眠っている
上に、接近しても気付かない。
これは驚くべき事だった。家に居てもまず気を抜かないというのに、よそ様の家ですっかり気を許して熟睡しているのだか
ら…。
「ネネは常々「にぃにぃのお嫁さんになる」と言っているが…」
微笑を浮かべたビョウギの言葉を受け、ユウキは困り顔で苦笑いした。
「嫁かぁ…。そいつはまたえらく好かれたモンじゃ…」
無邪気な子供の言葉…。とはいえ、それが決して叶わない事だと両者ともよく判っていた。
神将は裏帝と逆神という大敵が生まれて以降、血の拡散を避けて来た。それはこれ以上逆神となる者を出さないようにする
ための、自粛に近い対策だったが、それとは別に神将家同士の婚姻も禁じられている。こちらの取り決めはむしろただでさえ
子を為す事に苦労する神将家を減らしてしまわぬようにとの配慮からだったが、それは表向きの理由であり、半分は別の理由
からだった。
有史以前に存在していた獣人の祖…古種の因子が現代でも強く残り、高確率で極めて強力な能力を発現させる神将の血…。
それが混じり合った場合、どのような能力者が生まれるか予想も付かないのである。それが脅威となる可能性を鑑みて禁じら
れているというのが、伏せられている理由の半分だった。
そしてその事は、ただの懸念ではない。
資料すらも残っておらず、神将家と帝しか知らない門外不出の口伝秘事ではあるが、かつて一度、恋に落ちた神将家当主候
補同士の混血によって生まれた者が存在した。
血が濃過ぎたのだろうか、その男は類い希な能力を持った代わりに、正気を持たずに生まれてきた。
良く言えば無垢、悪く言えば獣のようだったと、口伝では伝わっている。
帝から神威(かむい)という姓を賜ったその男は、ささいな事がきっかけで事件を起こし、当時の神将家当主総掛かりで捕
殺したとされているが…、七百年近くも昔の事であり、忌まわしきその記録は形では残っておらず、事の子細は判っていない。
神威を生まない事。それは逆神を作らぬ事と同様かそれ以上に大切な事であるため、当代をもって裏帝勢との暗闘に終止符
が打たれたとしても、この禁忌は生き続ける。
「…大人になれば、判る事だ…」
「大人になれば諦めもつく。…って事じゃろうか」
「まぁ、大体はそういう意味で…」
呟いたビョウギは茶の椀をついっと出して勧め、ユウキはそれを大きな手で掴み、ぐいっと飲む。
作法も無視した飲み方ではあったが、ビョウギはそれを責めはしない。ユウキは、この飲み方が美味いのだ…と言ってきか
ないので。
「大人になって、友人関係で我慢できるようになる…。保証はないが、皆これまでそうだった」
「そうじゃなぁ…、大人になれば、か…」
ずぞずぞと品無く茶を啜りながら応じたユウキは、少しばかりセンチメンタルな気分になる。
神崎家の祖先もまた、かつて神座家当主の妹に恋をしたのだから…。
許されない恋路の果てに駆け落ちした両者が見逃されるはずもなく、力尽くで追っ手を振り払う逃走劇の末に北陸の地で討
たれた。実るはずのない恋に殉じて討ち死にした後、両者は別々の山に葬られ、今は祭神となっている。皮肉にも良縁の神と
して…。
しばし黙した後、ユウキは「のぉ?」とビョウギに訊ねる。
「お主は、いつごろ大人になった?」
灰色の猫は数秒の間をあけ、「さて…」と、目を閉じて曖昧な声を返す。
「儂は、餓鬼の頃は早く大人になりたいと思っとった。じゃが、今でも心の何処かにあの頃の儂がおる。そいつがな、何処か
で納得せん」
分厚い胸に手を当てて言ったユウキに、ビョウギは微笑を向けた。
童心をどこかに留めたまま大人になり、家長となり、妻を娶り、子を為し…、そして今に至ったユウキの中は、男盛りを過
ぎた今でも悪戯小僧が住んでいる。
時折その風狂の虫が騒ぎもするようだが、上手く折り合いをつけているのだろう、問題らしい問題を起こしはしない。外す
羽目の程度をわきまえているとも言える。
(私の中からは、いつ居なくなってしまったのかな…)
失った童心。そして得た諦観。いつか自分の愛娘も同じ心境に至るのだろうかと考えながら、ビョウギは返された器を受け
取り、ユウキが口を付けた部分を避けて少し回し、残った茶を静かに啜る。
「恥ずかしがらんで間接きっすを味わったら良いじゃろう?それとも儂が飲んだ後はそんなにばっちぃか?」
耳をぱたたっと煽いで顔を顰めたユウキに、ビョウギは苦笑いを返す。
「羞恥や衛生面の問題ではなく、これは作法だよ。…それと…」
灰色の猫は悪戯っぽく笑う。童心をほんの少し取り戻したように。
「ユウキと間接キスなどしたら、唾液だけで孕まされそうだから」
「言いよるわ」
ニヤリと笑ったユウキと、涼しい顔に戻ったビョウギは、それからもしばらく、二人だけで雑談と茶を楽しんだ。
「良くねぇ…!」
ブスッとした顔で唸った当主を、傍らを歩む山羊は訝しげに見上げる。
「何がでしょう?ペースは上がっておりますし、もうじき追いつきますが…」
「そこじゃねぇ。さっきからどうにも昔の事が次々思い出されとる!こいつは良くねぇ!」
ユウキは足を止め、爺やを見下ろして顔を顰めた。
「考えてもみりゃあ親父殿の時もそうじゃった。こいつは…、凶兆かもしれん」
ユウキは豪放磊落を絵に描いたような剛の者。こんな事を言い出すのはらしくないと、御庭番達は軽く動揺する。
不安を覚えているのか?そう思わないでもないが、それを指摘するのは当主に対して失礼にあたる。確認のしようもなく戸
惑う一同に、ユウキは怒っているような顔つきになって「中止じゃ!」と告げた。
「は?中止…とは…」
「進撃中止!総員この場から散り、大神と神崎の様子を確認して来い!戦列は儂一人で押し進める。確認後に儂の元に戻れ!
ただし!何かおかしな事に気付いたなら、最寄りの神将の元へ参じて報告しろ!良いな!?」
珍しく余裕のない物言いで告げられた言葉は、異論は許さんとばかりに語気の荒い物だった。
渋々言い付けに従った御庭番達が、素早く闇に紛れて姿を消すと、たった一人残り、再度進み始めたユウキは仏頂面で唸る。
「宴の前に欠けたら許さんぞ、お主ら…!」
「神無が戻らんだと?」
傷めた腕を脇に立つ黒豚に治療させ、さらしを巻かせてきつく固定しながら、ギョウブは報告をもたらした若いリスに問い
を重ねた。
隠れ里中央の祭事用広場。裏帝の御殿を背後にし、角材と布で作られた折り畳み式の陣椅子にかけたギョウブの周囲には、
里を代表する実力者達が集まっていた。
攻勢を押さえ込むべく戦力の一点集中を計り、集合の号令を発したギョウブだが、策は何も馬鹿正直な正面からの激突だけ
ではない。
敵も味方も一箇所に、目の届く範囲に居るのであれば、あちこちに遠隔発生させる物とは違い、より高度な幻術によってサ
ポートできるという自信がある。
何より、そうなれば小賢しい神ン野が魔王槌を手に前まで赴く。そうなれば纏めて始末する事も可能と思われた。
勝算はある。だが、駒が不足してはまともにかち合うだけで不利な状況となる。
ままならない事に苛立ち歯噛みした大狸の尻の下で、さして頑丈でもない椅子が体格の良いギョウブの重みに耐えかね、ぎ
しりと苦鳴を漏らす。
だが、ギョウブは自分が焦りを感じている事を悟ると、それを周囲の者に気取られて不安を増すのはまずいと考え、平静を
装って口を開いた。
「この危急の折に、何故また…」
「はっ!すぐ引き返すとはおっしゃられましたが、どうにも神崎一派が食い込んで来ているらしく、牽制して足止めを試みて
から、と…」
どこもかしこも食い込んでくる。攻め込まれる事に関しては十分な備えをしていたつもりだが、それでもまだ不足だったの
かとギョウブは悔いた。
(神ン野と魔王槌…。おのれ…!あれらさえ何とかできれば一斉に踏み込まれる事も無く、個別に撃破する事もできたという
のに…!)
自分達が天敵同士だという事を改めて痛感するギョウブは、陣に集った面々の向こう、人垣の外側にのっそりと巨大な熊が
姿を現すと、幾分安堵したように吐息を漏らした。
「ライゾウ様だ!」
「ライゾウ様がお帰りに!」
単身で大神一派を迎え撃ちに出た巨漢の帰陣で、にわかに一同が明るくなる。巨漢には負傷が一切見られず、無事が単純に
喜ばれた。が、その空気はすぐさま変化した。
若い猫を伴ってライゾウが歩む先で人垣がさっと割れ、立ち上がって迎えたギョウブは年上の同輩の顔を見上げた。
「ライゾウ殿。手傷は負われませんでしたか」
首尾良く接触前に呼び戻せたのかと考えたギョウブの問いに、ライゾウは顎を引いて頷き、
「大神一派。この手で全て葬(はぶ)って参った」
低い声で、何でもない事のようにそう応じた。
一瞬ギョウブは何を言われたのか理解できなかった。内容を受け止め損ねて。だが呼び戻しに向かった猫が「全滅です!」
と高揚した様子で念を押すと、広場はざわめき、次いで喝采に包まれる。
「よくも…、まあ…」
武闘派の神将とその御庭番達を単身で屠った物だ。そう口にしたいギョウブは、絶句して二の句が継げなくなっていた。
偉業と言える戦果をあっさり上げて戻ってきた本人は、しかし猛るでもなく舞い上がるでもなく、実に静かなものだった。
行ける。ギョウブのみならず、その場に居合わせた全ての者がそう考えた。
神壊の現当主ならば、神代は勿論、鳴神にすら負けはしない。大神を単身で殲滅できるだけの武力を持ち得たこの巨漢なら
ば…。
(負ける事はないと信じてはいたものの、正直、ぶつかってみるまでは不安もあった。だが…)
ギョウブは確信して頷く。
「あとは、神無が戻れば…」
敵はすぐそこまで迫っている。一番槍は恐らく鳴神だろう。もうライゾウはここから動かせず、援軍を送る事もできない。
同輩の帰還を待ち侘びるギョウブの傍らで、ライゾウは静かに視線を巡らせた。
居並ぶ戦士達の後方に建つ、掘っ立て小屋と言って良い粗末な小屋の一つがその瞳に映る。
その戸口には、ほっそりとした雌熊と、まだ幼い熊の子が立ち、そっと様子を窺っていた。
一方は艶やかな黒毛が印象的なライゾウの妻。鮮やかな赤銅色の被毛を持つ幼子の方は、ライゾウの息子である。
覚悟を決めたような妻の視線を受け、ライゾウは頷く。次いで、不安げな眼差しを送って来る我が子に視線を向けると、口
の端をほんの少しだけ上げ、双眸を半眼にして微笑んだ。
(大丈夫だ。父ちゃんは絶対負けん)
もう一度、今度は力強く我が子に頷きかけると、ライゾウは笑みを消してギョウブに視線を戻した。
「御館様には下がって頂くか?」
「護衛をつけ、いつでも退避できるよう準備して頂きました。危険になれば脱出して頂くつもりです」
館を振り向いた大狸がそう述べると、巨漢は顎を引いて呟く。
「踏み入らせたくはないが…」
「四方八方から来られては安全とも言い切れません。致し方ない事かと…。それはそうと、貴殿の奥方と子供らも、下がらせ
た方が良かったのではありませんかな?」
ギョウブはちらりと小屋を見遣り、ライゾウの妻と子の姿を確認しながら訊ねたが、
「結構。御館様より先に逃げ出す腰抜けは我が家に居らぬ。家内も、ランも、フウも、神壊の一員だ」
巨漢はそっけなくそう応じた。
しかしギョウブは知っている。ライゾウの幼い息子二人の内、長男はともかく、次男は極めて気が弱い臆病者。ライゾウは
態度や顔にこそ出さないが、常に次男の事を案じている。
弱い逆神は生き残れない。
おそらく淘汰されて短い生を終える事になるだろう我が子を案じ、せめて幼い内は健やかに過ごして欲しい…。そう願うラ
イゾウの気持ちは、ギョウブにも良く判った。彼自身、先月初めての子となる娘を授かったばかりなのだから。
殺める覚悟を持つ者は、殺められる覚悟もまたできていなければならない。
奪う覚悟を持つ者は、奪われる覚悟もまた持ち合わせていなければならない。
それは自身のみならず、大切な者も含めての事…。
生涯を裏帝に捧げ、戦いに費やす誓いを立てた逆神とその眷属達は、先祖代々皆が皆、同じ心境で過酷な日々を送ってきた。
現実にそれが目の前に迫ってもなお、その覚悟に揺らぎはない。
(願わくは、この戦に勝利した後も、一人でも多くの同輩が生き残る事ができるよう…)
祈る神さえ持たないギョウブは、しかしそう祈らずにはいられなかった。
此度の激突が最後の大一番だという予感がある。
身を潜めて生きるしかなかった自分達は、その生き方に不満も疑問もない。
だが、自分達の代で因縁を終わらせられれば…。
(子供らには、日の当たる場所へ出て行ける未来が訪れる…!)
決意を新たにするギョウブの瞳が、天へ突き上げる光の柱を映す。
隠れ里を囲む防柵のすぐ外で生じたそれは、目映い金色の柱…、操光術の輝きだった。
「鳴神だ」
ライゾウの声に、ギョウブは小さく頷いた。
神無一派は、ついに間に合わなかった。何故ならば…。
(ええい!厄介な!)
鈍色の狼…、神無霜月(かんなしもつき)はギリリと牙を食い縛る。
鉄のような光沢を帯びた鈍色の毛は、操光術によって青白く冷たい燐光を薄く纏って輝いているが、そこへ細かな針が吹き
付けて弾かれる。
その周囲では、既に倒れた仲間と敵兵の死体が折り重なっている。
神将筆頭である神崎家一派の足止めを試みたシモツキは、彼らの肩書きが伊達ではない事を思い知った。
(武力は五分…。否、こちらの方が上回っている。にもかかわらず押されているのは…!)
またも、視界の悪い木立の中を暗器が突風となって駆け抜けた。
相手が潜む場所は判らない。が、こちらが身を隠す場所は丸わかりとなっている。
神崎の能力は索敵。思念波を投射し、その反射から敵の位置や性質を探り当てるソナー探査は、視界が狭まったこの状況で
は強力な武器となっている。
神崎家の武力その物は神将中で並のレベルなのだが、状況を巧みに利用し、効果的な兵の使い方をする彼らは、まともにぶ
つかれば勝ち目が薄い操光術使いを相手にしてもなお戦上手ぶりを遺憾なく発揮していた。
暗器で倒れてゆく同胞達。その中で力場を纏うシモツキやその眷属は無事なのだが、完全に包囲されている上に位置を特定
できず、後手に回り続けている。
業を煮やしたシモツキは、一度はいっそ奥義で広範囲を薙ぎ払い、見晴らしを良くしてやろうかとも考えたが、その時には
既に混戦に入っており、味方を巻き込んでしまう状態となっていた。
接触からすぐさま纏い付き始めた神崎の狙いは、まさにその殲滅手段を封殺する為の物。どこまでも小賢しいと歯噛みする
シモツキは、しかし打つ手がない。
(単身で手当たり次第に始末して行く…。時間はかかるがそれしかあるまい!)
覚悟を決めたシモツキが前傾姿勢を取り、残像を置き去りに跳躍する。
跳ね飛んだ狼が木の幹へ横向きに着地し、地面を睥睨する。
潜んでいた神崎勢を数名見つけると、狼は幹を蹴り、弾丸の如く強襲した。
ズドンと、地面を揺るがす衝撃。密集していた四名の中央…落ち葉が堆積した地面に、上方から落下したシモツキの足が突
き刺さっている。
「雹牙衝天(ひょうがしょうてん)!」
地面に突き刺さった足に力を流し込むシモツキ。直後、狼を中心に光柱が立ち登った。
上がった苦鳴も悲鳴も、一瞬で途切れた。
猫が、牛が、イタチが、犬が、足下から光に飲み込まれてずたずたにされる。
一見柱に見えるそれは、しかし実際には指先ほどの細やかな光の球の集合体。地から天へ降る雹が、シモツキの周囲で神崎
の御庭番を蜂の巣にしていた。
そして、狼の攻撃はそれだけで終わらない。
「雪嵐波頭(せつらんはとう)!」
地に打ち込んだ足を軸に旋回し、回し蹴りを放つように足を水平に振ったシモツキは、纏わせた燐光を散弾にして木立の中
に蹴り込む。
多数の力場を同時に生み出すが故に精密な操作が必要で、習得困難な高等技術だが、力場を垂れ流しにするのとは違い、消
耗するエネルギーは低く抑えられている。
低コストで広範囲を効率的に攻撃する…。大神と袂を分かってから独自に研鑽されてきた神無の牙は、この三百年で本家に
劣らぬ進化を遂げてきた。
(…まずいな…)
暗闇に同化していた黒猫は、自らを剣先として切り込んで来る神無の当主を遠目に確認し、舌打ちした。
(臆病者の逆神など居ないが…、自らが策にはまる事を怖れず、仲間に被害が出る事を防ぎに出たか…。良い頭だ)
黒猫は仕方なしに闇からぬぅっと踏み出す。
それに気付いたシモツキが足と攻撃を止め、敵の指揮官を睨み付けた。
一方、黒猫は敵意どころか闘志すら感じられない静かな眼差しをしており、距離を置いて向き合うシモツキを無言で見つめ
返す。
暗闇といっても神将血縁者の規格外な五感をごまかせるほどではない。にもかかわらず位置が掴めなかったのは、黒猫がそ
の能力の応用で感覚を欺いていたからだった。
思念波を投射してソナーにするだけではない。思念波によって軽い錯覚を引き起こす事もまた可能。神ン野の幻術には遠く
及ばないが、姿を隠してさえいれば、気配を誤魔化す程度はできる。
ソナーであり、ジャマーでもある。それが神崎が始祖から脈々と受け継ぐ、戦場を支配する能力の一端だった。
(性質だけでなく、見た目もまた大神家の者に良く似ているな…。敵でさえなければ、酒でも酌み交わして兵法について語り
合いたい物だったが…)
だが、神将筆頭として、その欲求が叶わない事は良く判っていた。
小さく息を吸う黒猫。
「神崎家当主、神崎猫戯(かんざきびょうぎ)。貴方は…当代の神無か?」
彼が名乗りを上げるという事は、つまり一騎打ちを申し入れる心積もりである事を意味している。理屈抜きに理解したシモ
ツキが、
「いかにも!我が名は神無霜月、神無の名を継ぎし者よ!」
勇ましく咆え名乗り、いざかかって来いと腰を沈めた。
線の細い体躯、やや低い背、ビョウギは荒事が不向きに見える優男なのだが、シモツキは油断などしない。
何故ならば、彼こそが当代の神将筆頭なのだから。
武力では鳴神や神代に及ばないが、帝の懐刀たる神崎は全神将の束ね役であり、メインセンサーでもある。ここで潰してお
けば、万が一敗走する事になったとしても追撃を受け難くなる。
探査型の能力を持つ神将がもう一家存在するため、万全ではないが、そちらは耳。目を潰せば半減どころではない。効果は
非常に大きい上に、相手の士気を挫ける。
ビョウギの両手が、左右の腰に帯びていた匕首を、それぞれの手で逆手に握って引き抜く。
鈍色の刃は光沢が無く、灰色の雲に覆われた曇天の空を思わせた。
二刀一対の匕首こそがビョウギの得物。軽業師もかくやという体術と舞うような短刀捌きから成る神崎の刀舞術は、流麗で
美しく、そして実体を掴めない。
その事を伝え聞いているシモツキは、個人の技能だけでなく、得物にも注意すべきだろうと考えた。戦上手が操光術に無策
で挑むとはとても思えなかったので。
「いざ」
静かに囁くビョウギに、
「応!」
シモツキが咆えて応じる。
先手は狼。身を低くし、足に無光無熱の力場を瞬時に展開、斥力を利用して加速を得るべく意識を集中する。
一方ビョウギは相手の思念波を読み、相手の挙動の種類を推測して立ち位置を変えに入った。
この先読みによるアドバンテージは大きく、速力で上回る相手にも互角以上の戦いを演じる事ができる。もっとも、刹那の
心変わりや無意識での攻撃、そして反応を越える超高速攻撃に対しては効力を十二分に発揮できないが。
距離はあれども激突までは瞬き一つ。間近で向き合うに等しい状態で緊張を高めた両者は、
『!?』
しかし瞬時に、同時に、互いから目を逸らして横手を見遣る。
ビョウギから見て右、シモツキから見て左、すばやく動いた両者の視線が捉えたのは、闇に佇む赤い影。
御庭番達も、神無の眷属達も、徐々にソレに気付き始め、赤い影に目が集まって行く。
ソレは、ダークレッドのロングコートを纏う、屈強な体躯の虎だった。
地毛の色も赤、縞模様は黒。闇に半ば溶け込んだその赤は、まるで黒い壁に跳ね、そのまま乾ききって黒ずんだ血痕を思わ
せる。
背には巨大な剣を担いでいる。全長2メートル近い諸刃の大剣は、分厚く幅広い刀身に黒い布を巻き付けていたが、剥き出
しの柄も、布の間から見える刃もすべてが真紅で、鈍い光沢を帯びている。。
筋骨逞しい大柄な赤い虎はしばしその場に佇んでいたが、やがて分厚いブーツに覆われた足を踏み出し、ゆっくりと進み始
める。
無造作に、激突寸前だった両者の中間を歩き抜ける足運びで。
(何者だ?帝の手の者か?)
シモツキは警戒を強める。視界に入るまで存在が察知できなかったのは、自分が戦いに神経を集中させ過ぎてしまったから
なのか、それとも赤い虎が巧みに気配を隠していたのか、判断が付かなかった。
(裏帝勢…にしては、あちらの反応も妙だな…?しかし、今この場に「どちらにも属さない存在」が立ち入る事など…)
ビョウギもまた虎の挙動に注意する。シモツキの出かたを覗っていたとはいえ、ここまで接近されて初めて存在に気付いた。
失態を悔やみつつも、虎の正体が気になる。
味方ではない事は判る。神将筆頭たる神崎家当主は、今夜の戦闘に参加する者の顔を覚えている。末端や伏兵に至るまで全
員の顔を…。にもかかわらずビョウギが知らないならば、虎は少なくとも帝の側に立つ者ではない。だが、シモツキや裏帝勢
の戸惑いと警戒を見るに、単純に「あちら側」とも考え難い。
所属不明の赤い虎は、委細構わずゆっくり歩む。やがて御庭番から「何者か!」「止まれ!」と誰何と制止の声が飛び始め
たが、それでも足を止めはしない。
(これは…!)
赤虎が近付くにつれ、ビョウギは悟り始めた。
この相手が、危険極まりない「敵」だという事を。
神将に比肩し得る存在だと察知したビョウギが、下がるよう御庭番達に告げようとしたその瞬間、赤虎はおもむろに右腕を
上げ、肩越しに大剣を掴み、ベルトの固定具をバツバツと音を鳴らして解放し、無造作に持ち上げる。
大きく、分厚く、重い剣が、逞しい赤い腕によって振り上げられたかと思えば、直後それは斜めに振り下ろされた。力を込
めるでもなく、ブンッと自重に任せて振り落とすように。
ビョウギは見た。その刹那、赤い刀身がそこに巻き付いた布ごと燃え上がる様を。そしてそれと同時に、強烈な遺物の気配
に神将の血が反応する。
(気配封じ!?しまった、あの剣は遺物!?)
気配を感じ取ったビョウギが、その剣が極めて強力かつ危険なレリックであると察知した時には、既に全てが手遅れだった。
振り下ろされる途中で、大剣は紅蓮の炎を吹き上げた。まるで剣自体が凝縮された炎であったかのように、それが一気に爆
裂拡大したかのように見える劇的な発火を見せて。
放出口も発炎装置も見当たらない刀身から発された炎は、地面を舐め、大気を走り、その場のありとあらゆる物を飲み込む。
大剣が発した爆炎は渦を巻き、螺旋状の火柱となって直径70メートル強にも及ぶ範囲を徹底的に蹂躙する。
酸素も木々も燃やし尽くすその炎の中、全身を焼かれ、眼球が煮爆ぜ、被毛を瞬時に喪い、体の外側から一気に炭化させら
れながら、ビョウギは失策を悔やんだ。
相性が悪過ぎた。
出会ってはいけない相手と出会ってしまった。
読み切れなかったその間合いに入ったその瞬間に、勝敗は既に決していたのだ。
(ネネ…!ネム…!)
幼い長女と生まれたばかりの次女の名は、焼かれた喉では呼ぶ事も叶わない。
炎の柱は徐々に温度を上げて色を変え、赤から橙に、そして黄色に、やがて白くなり、最終的には蒼くなる。
神崎の当主は、炎に包まれたまま崩れ落ち、数秒と経たずに骨も残さず灰となる。
その場に居たという痕跡すらも、焼かれた大地に残りはしなかった。