第七話 「鳴神雷電」
瞬時に立ったそれは、距離を置いて見れば柱だった。
発生したその時は赤く、徐々に明度を増して最終的には青白く変色した、天を突く炎の柱。
太い支柱に紅蓮の炎が二条、螺旋を描いて蛇のように絡みついており、目にした者に理屈抜きの畏敬の念すら呼び起こす威
容となっている。
ただしその直径は300メートル以上にも及び、それに飲まれた地に這う者にはその全貌など判りようもない。
そう。判りようもないまま、一切合切が灰塵と化す。
しかしその猛烈な熱と範囲の広さとは裏腹に、炎の柱は出現した時と同様に、瞬く間に消え失せた。まるで幻だったかのよ
うに。
だがそれが夢でも幻でもない事を、大地に焼き付けられた痕跡が物語る。
範囲内では木々が残らず炭化し、黒々とした細い残骸を僅かに残しながら、名残の炎を上げている。
一瞬で焦土と化したその中で、ロングゴートを纏う赤い虎は、まるで彼だけが周囲の変化から置き去りにされたように佇ん
でいた。
炎も、熱も、その大男を焼きはしない。ただその周囲で怖れ敬うかのように舞い踊るのみ。
酸素すら燃焼し尽くされ、流れ込んだ空気と上昇気流で風が荒れ狂い、炎と灰を巻き上げる。そこはもう、到底真っ当な生
物が生きて行ける環境ではなくなっていた。
その中に佇む赤虎は、防護服もマスクも着用していないにも関わらず、被毛の一本も焼かれる事はない。
大剣を右肩に担ぎ上げ、あちこち融解した地面の上を足早に歩き出す赤虎。炎の揺らめきを映して煌めく、その金色の瞳は、
倒れ伏し、炭化したり、焼け焦げたりした死体の数々に向けられる。
焼け具合に差があるのは、エナジーコート能力者が炎を防ごうと能力を発動したせいだったが、生半可な力場はコンマ数秒
で焼き破られていた。
神将も逆神も一瞬で排除してのけた赤虎の名は、スルト。
ラグナロクの盟主である彼が、直々にここへ出向いたその目的は…。
「あらあら。また派手にいったわねぇ…」
枝の上に立ち、スコープを右手にぶら下げたまま、裸眼で炎の柱が出現して消える様を見届けたヘルは、唇に微苦笑を乗せ
て呟いた。
「ですが、あれでも理想的なタイミングとデモンストレーションでもあります」
声に振り向いたヘルが視線を向けると、男の子は灰色の髪を押さえた。直後、熱波の残滓である突風が、二人が立つ木を撫
でて揺らす。
「確かに、目を引きつつも痕跡を残さない手ではあるけれどぉ…。打ち合わせでここまですると言っていたかしら?もう少し
地味に行くと思っていましたけどねぇ」
ロキは肩を竦める。「たぶん進路に邪魔な何かが居たんですよ」と。
「でも、樹海の外からでも観測できちゃうわよぉ?マウントフジは観光名所なんだから、夜に眺めている一般人も多いでしょ
うしねぇ」
「その心配は、むしろ帝とその関係者がするべき事ですよ。隠匿に走る下っ端の皆様方にはちょっとだけ同情しますがね」
どこまで本気なのか判らないロキの言葉に、ヘルは「ま、それもそうねぇ…」と頷く。
「とにかく神崎は片付いたようです。これで動きやすくなりました」
「あらあら。言葉だけだと本当に簡単に聞こえるわぁ」
可笑しそうに笑うヘルの横で「まったくです」と頷いたロキは、しかし自分達のように思念波に頼った戦い方をする術士で
は、戦乙女達を上回る感知能力を持つ神崎とは相性が悪過ぎる事も予想していた。
「加えて、あれならば現場を確かめない訳には行かないですからね。人員を確認に割く事で帝勢の進軍も鈍り、激突の気勢を
削がれます。そして、裏帝側もまた同様に現況を把握したくなる。その隙に…」
言葉を切ると、男の子は枝を蹴ってふわりと宙に浮く。
「そろそろ退路確保に移ります。彼は迅速ですからね」
「りょ〜かい…」
妖艶に微笑んだヘルもまた、ふわりと宙に浮く。
そして両者は浮遊したまま、足跡を含めて一切の痕跡を残さず、木々の間を抜けて移動し始めた。
「何じゃ?ありゃあ…」
逆神の眷属だろう狼の首を取ってねじ伏せ、地面に押しつけて屈んだ状態で、ユウキは唸った。
木々の隙間から見えるのは、天まで焦がす目映い炎の柱…。
(明神の炎か…?いや違う。いくら何でもあそこまでは…)
神将の技ではない。いや、より正確に言うならば、神将の炎術使いのそれを上回る炎。大熊も知らない、目にした事のない
規模の火炎地獄だった。
組み伏せられた灰色狼もまた、固唾を飲んでその炎に目を奪われている。
(幻術…か?おびき寄せる為に隠神の当主がやったか?…いや)
ユウキは顔を顰める。炎の柱が消滅するなり、爆心地と呼んで差し支えないそこから吹いてきた風が駆けてきて、熱風と異
臭を鼻先へ届けた。
疑ってしまえばきりがない。風が体を撫でるこの感触までもギョウブの幻術がもたらす幻覚作用という可能性もある。そう
いう意味では、ギョウブもアクゴロウも「居る」という事を知っただけで脅威となる男達だと言えた。
そろっと、ユウキは取り押さえた狼の様子を見遣る。
驚いている。少なくともあの火柱については何も知らず、何なのか判断がつかないのだと察しはついた。
あれは少なくとも帝側の誰かがした事ではない。となれば裏帝側の手と考えるべきだろうが…。
(本当にそうじゃろうか?)
ユウキは顔を顰める。可能性は低いが、この戦場に「第三者」が介入しているのではないか?あの炎はまやかしなどではな
く本物なのでは?そして、誰かが攻撃を受けたのではないのか?
常人が二重の意味で介入できないここへ、実際に介入できるとなれば、それは…。
(少なくとも、儂ら同様ゆにばぁさるすてぇじ級の存在…。今時分公式に入国しとる者はおらんはずじゃったが…)
やがてユウキは考えていてもらちがあかないと、狼の首を捻って沈黙させ、肩に担ぎ上げ立ち上がった。
「誰ぞ居らんか!?捕虜を取った、尋問を頼む!」
帝の近衛や連絡役は居ないかと大声で咆えたユウキは、先程四方に放った御庭番達の事が気掛かりになった。あれを見たな
ら不用意に近付かず、近場の神将の元へ報告と指示受けに向かうはずだが…。
(あれが幻ではなく本物だったとして、あれだけの火柱を起こした者と、万が一にも出くわしたら…)
ユウキは唸る。御庭番だけではない。自分達のような防御手段を持たない神将でも、あれだけの物を見舞われたら命は無い。
(儂が適任じゃろうなぁ…)
きな臭いが行くしかない。腹を決めたユウキに、丁度伝令を持って来た連絡役が、先の火柱で戦々恐々となりながら駆け寄っ
て行った。
一方その頃。隠れ里の防柵付近には、妨害を切り抜けた帝勢の一部がついに到達していた。
一番乗りは現役最強の神将、鳴神雷電とその配下。
足を止めたライデンの背後にずらりと並ぶ鳴神一行は、道中神無の眷属達から繰り返し散発的な奇襲を受けて来たが、負傷
者はあっても頭数は減っていない、
神将家、並びに各御庭番中最強最大の実効戦力…それが南端の守護者鳴神。逆神の眷属を相手にしても、その武は遺憾なく
発揮されていた。
だが今、仁王立ちになったライデンの後ろで、その配下達は緊張を隠せない。
当主の向こうに居並ぶ裏帝勢。その前、距離にして10メートルほど一人だけ出ている男…。その男が「何」なのか、名乗
りを受けずとも全員が理解していた。
腕を組み、足を肩幅に開き、静かに一行を眺めているのは、巨漢の大熊だった。
太り肉で腹も出ている。太く分厚い体躯を覆うのは闇夜に溶け込む色合いの胴衣と下履き。大柄な雷電を軽く上回る巨躯は
神代の当主のそれにも匹敵し、圧巻ですらあるが、武器らしい物は帯びていない。
そうしてそこにただ居るだけの巨漢に、名だたる鳴神配下の腕利き達は戦慄していた。
一流中の一流だからこそ理解できる。無防備にただ立っているだけのその男が、とんでもない化け物だという事が…。
最前に上がった巨大な火炎柱を目にした衝撃すら忘れてしまう程に、御庭番達は畏怖と緊張で絡め取られている。
逆に、裏神勢も極度の緊張を強いられていた。
相手は生ける伝説。当代最強の神将、シーサーこと鳴神雷電。
裏帝勢としてはその武勇伝を耳にしているだけではない。腕利きの逆神が、同胞達が、幾人もこの男に屠られているのだか
ら、むしろ帝側よりもその武勇の程が身に染みている。
緊張が空気にまで滲み出て、ピリピリした場の中で、
双方の先頭に立った獅子と大熊だけが落ち着き払っていた。
「お主が、今の神壊か…」
ライデンの声が静かに流れただけで、裏帝勢も、帝勢も、ビクンと身を反応させる。そんな中で静かに、無言で、大熊は頷
いた。
「我が名は鳴神雷電。お主の名を聞いておこう」
「神壊不二守雷爪(くまがいふじもりらいぞう)」
応じた大熊の名乗りに、ライデンは眉をピクリと動かす。
「フジモリ…。そうか…」
姓と名の間に入った三文字が意味する所を、ライデンはすぐさま悟った。
「お主が今の逆神筆頭か」
またも無言で頷くライゾウ。その腕組みがゆっくりと解かれ、両腕が体の脇にだらりと下がる。
我らに間に言葉は不要。武で語れ。
ライゾウの掌が薄く燐光を纏い、何よりも饒舌にそう語った。
頷く事で応じて、ライデンは右腕を水平に伸ばす。
退け。
無言でのその命令に、配下は戸惑いながらも従い、陣容を入れ替えつつ後方へ下がり、距離を取る。
下がった彼らの中で前列に出たのは、力場による防壁形成が得意な数名。戦闘の余波で被害を出さないよう、防御陣を拵え
たのである。
次いでライゾウが肩越しに同胞達を振り返った。
「せっかく陣を組んで貰って済まんが、他所へ加勢してくれ」
相手が相手。自分も本気で掛からねばならないとくれば、同胞達まで巻き込んでしまう。
自らの手で被害を出してしまわないようにする為に下したライゾウの指示に、裏帝の兵達は無念そうに頷いた。
ライゾウが本気で闘わねばならないのならば、もはや援護や連携など自分達では不可能となる。同時に取りこぼしを摘み取
る必要性すら皆無となり、居るだけで足手まといにすらなりかねない。
裏帝を守る兵としての矜持が傷付いたが、ライゾウを困らせたくはない。退く兵達の足取りには無念が滲む。
さっぱりと後方からひとが居なくなり、ただひとりで柵を背に守る形になると、ライゾウは左足を前に出し、右足を後方に
引き、左手を軽く上げて眼前に掲げ、半身に構えてぐっと腰を沈めた。
それに応えるように、ライデンもまた半身に構え、軽く拳を握った左手を眼前に据える。
両者の構えは似ていたが、片や拳を握り、片や手を開き、構えた足の開き具合が違うなど、少しばかり様子が異なっていた。
むしろライゾウのそれは鳴神の構えよりも神代の構えに酷似している。
構えを保持したまま、二人の中で同時にスイッチが入る。
体中を駆け巡る暴威的なまでのエネルギーが閉ざされた回路を強制的に開き、生物の範疇から逸脱する力をもたらす。
出し惜しみは無し。両者ともに余力を考えず、全力でこの大一番に臨むつもりだった。
「獅子奮迅!」
「凶熊覚醒…」
神卸しをおこなうなり、ライデンの両手が左右に揃えて突き出される。同じくライゾウの双掌も揃えて突き出され、両者の
手は異なる色で強く発光した。
『天鼓雷音!』
異口同音に発せられた声と同時に、ライデンの両手からは金色の閃光が、ライゾウの両手からは赤みを帯びた閃光が迸った。
放たれた光は、もはや双方共にこの技の常体である光柱を成していない。膨大なエネルギーが左右にまで広がり、奔流となっ
て木々や地面を分解しつつ、両者の中間で衝突した。
帝側、裏帝側、双方で最強とされる、奇しくも同じく雷の字を名に冠する両者の戦いは、こうして始まった。
そのほんの少し前。鳴神一派が居る位置と反対側に当たる方向では、コハンとアクゴロウが率いるほぼ無傷の隊が、隠れ里
の防柵を望む位置まで到達していた。
「明神の…?ではなさそうですね」
消え去った炎の柱を見つめた後、難しい顔で呟いたコハンの横で、アクゴロウがプルルッと耳を震わせる。
「今のあれ、幻術やないですよぅ…。本物やわ…」
かといって、明神でなければ誰があれだけの炎を?目で問うアクゴロウに、しかしコハンも答えられない。その代わりに別
のことを口にする。
「距離があります。調べには別の誰かが向かうでしょう。こちらはこちらで…」
迷いを断つように、コハンは前方を見据えた。
「大仕事が目前です」
狐の目に映るのは、防柵の前に展開し、背後の隠れ里を守る裏帝勢。
戦力を集結したのだろう。居並ぶ兵は生ける石垣であり、土嚢でもある。
コハン、アクゴロウの両脇を固める雌雄のトドが既に身構え、眼光鋭く敵陣を睨む。
逞しく頼もしい阿吽仁王像の如き守護者の間で、しかしアクゴロウはぼうっとしているような、緊張感のない顔をしていた。
(おるわ…。近い…。すぐ傍におる…)
魔王槌を胸の前でギュッと握り締め、アクゴロウは顔に一切変化を出さないまま、神経を研ぎ澄ませて行く。
血の共鳴とでもいうべきか。いつでも幻術を発現させられるよう散布している思念波が、先に展開されていた自分と良く似
た質の思念波と反応している。
(隠神刑部…。ボクらの宿敵が近くにおる…!)
濃淡無く広げられた思念波の出所は判らず、正確な位置は勿論居る方角さえ掴めないが、それでもアクゴロウは、同じ血か
ら生まれた先祖代々の宿敵の存在を感じていた。
静かに練り上げて行く思念波が、徐々に内側で昂ぶり、その瞳に赤い光を灯させる。
だが、その静かな緊張も、コハンの思索も、突然打ち切られた。
閃光。そして爆音。そう遠くない、隠れ里の別方面にあたる防柵付近で、閃光の壁が垂直に登っていた。
勢いよく衝突した波が行き場を失って上に跳ね逃れたかのような有様で夜空に登り、そして散った閃光の正体を、二人は同
時に悟る。
ぶつかったのは目映い太陽の如き金色の閃光と、やや赤みを帯びた閃光。どちらも一定の出力と密度を超えて変色した生命
の光だった。
あそこまでの力場を発生させられる者は、世界広しといえども数名しか存在しない。
「鳴神のおじいちゃん!?」
「一番乗りは、雷電殿ですね」
声を重ねたコハンとアクゴロウは、相手が誰なのかも理解している。
(片方はユウキのおっちゃんのとちょっと似た色やった…。なら相手は…)
「迎え撃ったのは、神壊ですか…」
アクゴロウの胸中での呟きに、コハンの静かな声が重なった。
(来たか…)
胸の内で呟き、瞑目していたギョウブはゆっくり目を開ける。
その破幻の瞳は既に赤く変色し、臨戦態勢となっていた。
天敵にして宿敵、神ン野の気配が感じられる。それも、すぐそこに居るという事が判る。
(神ン野、そして魔王槌、二つを同時に断つ!今夜こそ永きに渡る因縁に終止符を打つぜ、神ン野の当主…!)
ギョウブはだらりと下げた手に意識を向ける。
ひびが入った腕は結局神無の応急処置を受ける事はできなかったが、間に合わなかった物は仕方がない。
むしろ自分の傷よりも、自ら手勢を率いて打って出たきり神無が未だに帰還せず、赴いていたはずの方向で正体不明の火柱
が上がった事が気掛かりですらある。
そうそう簡単に死ぬ輩ではないと判っているが…。
(いや、今は目前の事に集中せねば…)
逸れかけた意識を目前の事に戻したギョウブの耳に爆音が届き、瞳に二色の閃光が映る。
決着まで、さほど時間は残っていない。
(こいつは…、難儀じゃなぁ…)
腕を上げて熱風から顔を庇いつつ、ユウキは爆心地を目指す。まだ素の体で耐えられるが、既に気温は息苦しいほど高く、
行く手で燃える炎の舌が空へ延ばされチロチロと蠢いている様が、木々の隙間から見えていた。炎の柱が立ち昇った位置から
はかなり離れているにも関わらず…。
一体どれだけ広範囲が焼かれたのか、地上から一部を見ただけでは想像し辛かった。
「ユウキ様!」
遠くから呼ぶ声に、大熊は首を巡らせる。
同じく調べに来たのだろう配下の御庭番が、木々の隙間を縫って駆けて来るのが見えて、ユウキはホッとしたように表情を
緩めた。
「おうシバイ!大事ないか!?巻き込まれたモンはおらんか!?」
当主がかけた安堵が混じる気遣いの声に、赤茶色のやや背が低い柴犬は、駆け寄りつつ尾を振って頷いた。
犬沢芝居(いぬさわしばい)。ユウキが居を構えて守護する河祖下村からさらに登った奥、河祖中村を守護する御庭番の一
人である。
まだ二十代前半だが、腕も良く、能力もなかなか使える類の物で戦力としても申し分ない。何より真面目で忠誠心が強いた
め、皆からの信頼も厚い。このまま経験さえ積んでゆけば、ゆくゆくは河祖中の御庭番取り纏め役に相応しい男になれるだろ
うというのが周囲の評価だった。
「私めが最外周を駆け、皆はそれより内側でした。あれに巻き込まれた者はおそらく居ないかと…」
シバイの言葉でひとまず安心したユウキは、何が起きたか確かめようにも、熱と炎で近付けないのだとの報告を受け、鷹揚
に頷いた。
「儂が確認してくる。皆にはこのまま隠れ里を攻めるように伝えてくれい」
「お言葉ですがユウキ様…」
何が起きたか判らないのだから、いくらユウキでも一人で行くべきではない。そう続けようとしたシバイは、
「おぐぅっ!?」
突然ユウキに胸ぐらを掴まれて釣り上げられ、息と声を絞り出す。
一体何を?そんな疑問が浮かんだか浮かばないかの内に、シバイは急な加速で意識が半ば飛びそうになった。
シバイを捕まえるなり足下で力場を爆ぜさせ、砲弾のように急加速して跳ね飛んだユウキは、自分の四分の一程度しかない
柴犬をしっかりと抱え込み、体を丸めて防御姿勢を取る。
その全身を高密度の力場が覆ったかと思えば、刹那の間もあけず、一瞬前までユウキとシバイが立っていた場所で紅蓮の炎
が爆ぜた。
何も無い空間で、予兆すらなく突如出現して炸裂した火炎は、着火点から直径20メートル程の球体状の範囲で炸裂し、紅
蓮のドームを作りながら、抱えたシバイごと力場で身を覆って防御するユウキを飲み込む。
咄嗟の事なので出力の上手い加減などしていない。緊急離脱したユウキの体は力場を展開したまま、炎に押し出されて行く
ように外周へ飛び、行く手にあった木々をへし折って減速した。
減速して地面が近付くなり右腕を伸ばして大地を掴み、力場の爪を深々と突き刺して制動をかけたユウキは、シバイをしっ
かり抱えたまま、右腕と両脚で四つん這いに近い姿勢を取り、爆心地を睨む。
「ゆ、ユウキ様!?一体何が…!」
肉が分厚い熊親父の胴に半ばめり込むように密着させられ、強く締められているシバイは、それでも状況を悟って緊張する。
もしもユウキの攻撃察知が一瞬でも遅れていたら、もしも捕まえて貰える距離に居なかったら、今頃は何が起こったか判ら
ないまま火だるまになっていただろう。そう確信した途端に背中に嫌な汗をかいた。
「判らん。…が、たぶんあれじゃ。敵襲じゃろうな…」
ユウキは応じるなり顔を顰めた。
敵。そう、敵には間違いない。だが、これは裏帝側の者の攻撃なのか?ユウキは改めて疑問を覚える。
神将にも発火能力者は居る。神将の一角、明神家がそうだった。だが、明神から堕ちた逆神は存在しないのである。
(裏帝側への協力者?それとも…、第三者が介入しとるのか?)
ユウキはしかし、そこで推測を打ち切る。
「ユッ…!」
きつく抱き締められたシバイが、分厚い胸に堆積した脂肪に顔を埋没させられて声と呼吸を途切れさせられたその途端、ユ
ウキの体は再度砲弾のように跳ね飛んだ。
身を覆う力場とは別に、外側で作り出した別の力場の炸裂で地面に深い窪みを刻み、今度は斜め上方へ跳躍している。
地上13メートル、巨木の半ばほどの幹に横向きに着地したユウキの巨体は、その勢いと重量で木全体を弓なりに反らせて
メキメキと軋ませたが、その音すらも新たな爆音にかき消される。
ユウキが足場にして抉れた地面が、またも突然燃え上がった炎に舐め尽くされた。
さらにユウキは、たわんだ木を蹴って宙へ逃れる。すると今度はその木が根本から天辺まで蒼い炎の柱に飲まれ、一瞬で炭
化する。
そして宙に飛び出したまま、ユウキは見た。
木立の向こう…、暗がりの中に佇む、赤い巨剣を担いだ大柄な虎の姿を。
(何者じゃ?)
ユウキは眉を顰める。間違いなく帝勢ではない。見覚えのない容姿だった。
落下の最中、ユウキは一方の手を突き出す。
「雷障陣!」
シバイと自身を守る力場に加え、前方へ広げた傘を向けるようにエネルギーフィールドを形成し、攻撃に備えたのは、遠く
望む赤虎が剣を振り上げる様子が確認できたからだった。
一閃。赤い刀身が振り下ろされた軌跡がそのまま飛翔するように、深紅の三日月がユウキめがけて飛ぶ。大気を赤熱化させ
ながら伝播し、刃の軌道がそのまま遠方へ達するその攻撃は、ユウキが新たに展開した力場の盾と衝突し、四方へ熱を散らす。
瞬く間に周囲の木々が枝葉を燃え上がらせ、視界が灼熱の赤に覆われたその中で、炎の中からさらなる赤が飛び出した。
(速ぇなおい!)
ユウキはその瞳に信じがたい光景を映した。
自らの攻撃を追って接近してきたスルトが、荒れ狂う炎の中で巨大な剣を背後まで振りかぶっている。
(コイツめ、神卸しが使えるか!)
最前までの間合いを鑑みればありえない移動距離。ユウキの想像を上回る速度での接近だった。
ユウキは顔付きを険しくした。赤虎が宙で身を反らし、両手でしっかり保持した剣を振り下ろす様を見据えながら。
静止状態から動作に移ってからが異常に速い。まるで、限界まで張られた輪ゴムが切れ、唐突に飛ぶような劇的な静から動
の変化。
遠距離攻撃を防いだ力場が赤い巨剣を受け止める。が、威力を殺し切れずに断ち割られた。
前に出していた腕に纏わせた力場の密度を咄嗟に上げ、手で止めに行ったユウキは、掌に集中させた超高密度のエネルギー
塊を半ば叩き付けるようにして剣に当てる。だが、赤虎の剣はその力場にまで浅く食い込み、ユウキを驚愕させた。
(下手すると、神原の太刀より重く、速くねぇか…!?)
赤虎は素早く剣を引くなり、今度は水平に薙ぎ払う。その大きさと重さからすれば信じられない程に速く、鋭く剣先が舞い
戻り、先の一撃へ十字に重ねたような斬撃が、ユウキに二度目の直接防御を強いる。
「狂熊…覚醒っ!」
素早く腕の角度を変えて受け止め、損壊した力場で剣を止めたまま、ユウキが唸る。
全身を覆う力場が色合いを変え、出力と密度の上昇に伴い赤みを帯びてゆく。
くすんだ赤光から赤銅色へと変色した燐光は、常の物を遥かに上回る堅固さを持つ。ユウキの手から発せられる燐光に食い
込んだ刃は、補填されたエネルギーで形状を戻してゆく力場にぎりりと押し戻された。
これまでに相対してきた敵の中で最速。加えて戦闘向きの神将に比肩し得る力。しかもシバイを捕まえているため片腕が塞
がり、満足に戦えない状況。
だが、その状況下でユウキは笑った。
獰猛に、不敵に、好戦的に。
「楽しいなぁおい…!」
その囁きが届いたのかどうかは、赤虎の表情からは読み取れない。
だが、無表情ながらもその金色の瞳には、強い意志の光が宿っており、全身から覇気が滲み出ている。
ユウキが足を繰り出す。赤みを帯びた燐光を纏うその蹴りを、すぐさま戻した剣の刃先を下にして、垂直に立てて受けるス
ルト。重々しい金属音と、力場が軋む音が混じり合い、空間その物が啼くような不協和音を奏でる。
その衝撃により、弾かれるように宙で別れた双方は、同時に地面へ降り立った。
大柄で骨太、筋骨逞しい体躯にもかかわらず、柔軟に衝撃を殺し、体勢を崩す事なく着地したスルト。一方、超重量級の体
躯を太い両脚で支え、衝撃をねじ伏せてズシンと着地するユウキ。
睨み合う両者の他にただ一人だけ、この場に居合わせてしまったシバイは、
「ユウキ様…!放して下さい!」
自分が足手まといになっている事を悟り、堪らなくなってそう訴えた。
むっちりした胸に顔を埋めさせられ、息継ぎにも困る有様なので、相手の姿も今の状況もはっきりとは確認できないが、ユ
ウキが神卸しを使った事から、相手が逆神級の強敵である事は判る。
見捨ててくれ。言外にそう訴えるシバイに、
「嫌じゃ」
ユウキは笑みを深めながら応じる。
「儂が欲張りなのは知っとるじゃろ?手放して堪るかっ」
胸と腹を通し、ユウキの笑いがシバイに伝わる。
こうなのだ。神代熊鬼という男はこうなのだった。だからシバイも諦めざるをえない。
ユウキは欲張りで、執着心が強く、気が多い。
裏を返せば、ちょっとでも気に入った物は何が何でも手放さず、守り抜く男とも言える。しかも多くの物に対してそれが適
応される。
袖が触れ合った程度の付き合いの相手だろうと、古馴染みだろうと、分け隔て無く馴れ馴れしく肩を組み、絶対に手放さな
い。敵対者に対しての徹底的な武力行使とは裏腹に、それ以外の者への行動には深い情が含まれる。
本来ならばこの状況で駒として扱い切り捨てるべきシバイを、不利を承知でなお手放さないのは、その矯正不可能な性格の
ため。
つまり神代熊鬼とは、昔ながらの気っ風の良いガキ大将が、中身がそのままで大人になり、歳を取ったような男だった。
「さて…、楽しくなって来よった…!」
強敵との出会いに歓喜し、ユウキはニタァッと顔を弛ませた。