第九話 「ロキ」
手足を大の字に投げ出して芝生の上に寝転び、丸っこい狸は空を眺めていた。黒い学生服に草きれが付くのも気にせず。
鰯雲が連なる空は角度が付いた斜陽に照らされ、雲はお互いの間の青に薄い影の線を伸ばしている。
夕暮れが近付く秋の空は高く、泳ぐ鰯雲は気楽そうで、
「はぁ…。羨ましいわぁ…」
アクゴロウ少年はため息をつき、そう零した。
神将、神ン野家の次期当主となる事が定められた少年は、この時点で齢十五。元服を迎えて御役目を賜る立場となっている。
とはいえ未だ修行中の身であり、親元を離れて志国に移って修行とこちらでの御役目を同時にこなしているのだが…。
「おい!おられたか!?」
「こっちでは見んかった!西斜面は!?」
「三人回してある。…どこに行かれたんじゃアクゴロウ様は…!」
アクゴロウは寝転がったまま視線を動かす。
周囲を御庭番達が慌ただしく動き回っているが、大福餅のような丸っこい狸に誰も気付かない。
高度な幻術により、アクゴロウは芝生広場の地面と一体化して見えてしまうのである。
森林公園を駆け回る御庭番。彼らはアクゴロウの護衛なのだが、本人が逃げているという、何とも奇妙な状況である。
「ご苦労さんですけどねぇ…、ぼくもたまには一人になりたいんや」
アクゴロウのそんな呟きも、彼の能力で風鳴りの幻聴に変換され、御庭番達には届かない。
のんびりおっとりしており、そんな素振りなど見せはしないし勿論口に出した事も無いが、アクゴロウは自分の立場に不満
があった。
とは言っても、御役目の大切さは理解しているし、自分がそれを担わなければならない事も判っている。
好むと好まざるとに関わらず、生れ落ちたその日から次期当主として位置付けられたアクゴロウは、大切に、そして厳しく
育てられた。逆神との戦で散ってしまわぬよう、宿敵である隠神一派に殺されてしまわぬよう、神ン野家の血筋を絶やさぬよ
う…。
それは、万事自分勝手な父親が、それでも一本心の芯とした、嫡子アクゴロウに対する判り易くはないが偽りのない愛情か
らの態度であり、扱いであった。
根性やら使命感やらやる気やらを口にしたり、態度に出したりする事のない、何事においてもゆるいアクゴロウだが、幼い
頃から言い聞かせられてきた自分の立場や役目については、我が身よりも大切な事だと肝に銘じている。
「子供等が戦わんで済む日が来たなら、嬉しい事じゃ」
ずっと昔、屋敷を訪れたユウキが父との酒飲み話で口にした言葉が、アクゴロウの耳元で蘇る。
六つか七つだったアクゴロウは、まだ御役目に深く関わる事はできず、面と向かって聞いた訳ではない。たまたま通りかかっ
た際に耳に届いただけの言葉だった。
「この手で隠神を滅ぼせるなら、アクゴロウにゃ押し付けたりせんわい。叶うなら、可愛い息子にキツい仕事は残しとうない」
応じた父の声もまた、続いて蘇る。
甘くはないし我儘だし、傍若無人といって良い父親が、酒で気持ちを緩ませて、うっかり零してしまった本音…。
あるいはあの時あの言葉を聞けなければ、自分は何処かで父を信じ切れず、立場にも使命にも嫌気がさしたかもしれない…。
アクゴロウはそう思っている。
面と向かって言われなかったから、聞かれないようにこっそり言い交していたから、だからアクゴロウは素直ではない父の
本音を、宝物のように大切にしている。
だから立場はわきまえているつもりだ。しかしそれでも、アクゴロウには夢があった。
寝転がったまま首を巡らせる狸。その目に映るのは、キャッチボールに勤しむ同年代の少年達。
田舎故に牧歌的な遊びが根付いたままのこの地では、この当時も、昔ながらの外遊びが主流だった。
「…羨ましいわ…」
そう、またポツリと呟いたアクゴロウには、友達とキャッチボールなどで遊んだ経験がない。
修行を除けば父と触れ合う事もなく、遊んで貰った記憶もない。御庭番は良くしてくれるが、やはり遊び相手にはならない。
アクゴロウは、同年代の子供が送る普通の生活という物に憧れていた。
肉体的には平均的な調停者と同程度の頑強さしか無く、素早い訳でも力が強い訳でもないが、アクゴロウは幻術使いとして
はサラブレッドであり、名家の嫡子。普通の子供との交流などなく、中学を卒業するまでも送り迎えされ、授業が終われば真っ
直ぐ帰宅するだけ。友達など居なかった。
そんなアクゴロウは「よっこいしょ…」と起き上がると、うろうろしている御庭番達の間を抜けてキャッチボールしている
少年達に近付いていく。そして、
「ね、ね、ぼくもちょっと混ぜてくれん?」
御庭番達にだけ見えないように術を変質させ、人懐っこい笑みを浮かべて話しかけた。
そうして考える。
どんなに自分が羨んでも手に入らない物を、普通に手にしている少年達…。
羨ましい彼らを、得難い普通を、御役目をこなす事で守れるのならば、
(ぼくは、幸せ者かもしれんなぁ…)
さりっ…、と浅い音を残して一歩踏み出し、アクゴロウは柵の切れ目から内に踏み入る。
少年期のとある一日が脳裏をよぎったのは、ついに決戦の時が来たと実感できているからなのだろうか?
そう自問してみたが、アクゴロウはすぐに注意を現実に引き戻し、前を大きくはだけて着込んだ胴衣の、腹の下部を支える
ようになっている部分をポンと軽く叩き、太鼓腹を揺らした。
コミカルで静かな物だが、アクゴロウなりに気を取り直し、気合を入れているのである。
アクゴロウの傍らを歩むコハンは左右に目配せし、大柄な雌雄のトドが頷く。
主とアクゴロウを両脇から挟む形で守りに入ったトド達は、その背後に三名ずつ、適度な間合いを保持した同僚を引き連れ、
油断なく周囲を睥睨した。アクゴロウとコハンが、左右四名ずつ計八名の護衛に囲まれた格好である。
護衛が減り、陣が薄くなっているのは、大半が戦闘に突入しているせいだった。
倒れ伏す味方と敵。攻める帝勢と守る裏帝勢。防柵を境にした正面激突により、甚大な被害が双方に一瞬で生じ、瞬く間に
拡大した。
全身に無数の裂傷を負い、まるで干された布団のように柵へ腹を引っ掛ける形でぶら下がり、ボタボタと鮮血を零している
死体。
右腕と右肩と胸の一部、そして頭部だけとなった、袈裟懸けに切り裂かれている俯せの死体。
行く手に横たわるのは胸に大穴を空けられた死体。
跨ぎ越したのは付け根から斬り飛ばされた左腕。
むせ返るような濃い血臭と、晒された臓腑が発する異臭、それに混じる焦げ臭さ。
耳は間断なく上がる叫びと断末魔、打ち交わされる得物の金属音を拾い続ける。
五感を満たすその空気を味わいながら、アクゴロウは顔色一つ変えずに足を進め、思う。
自分は今、合戦の最中に居るのだなぁ…、と。
恐れは無い。全く無いわけではないが適度なものに留まり、動作や判断に支障をきたすほどではない。修羅場におけるその
平常心こそが、アクゴロウという若い神将が最も高く評価されている点でもある。
アクゴロウの横手を、誰かが投げ、そして弾かれた苦無が流れ弾となって通過するが、風が肩口を撫でるほど近くを飛び過
ぎて行ったそれにすら、アクゴロウは視線を向けはしなかった。
その注意の大半は、神ン野家の宿敵たる逆神…、同じ血より生まれ不倶戴天の敵となった存在の気配を手繰る事に傾けられ
ている。
(何処や…?何処におる、隠神…)
宿敵の姿は見えない。会った事こそまだないが、姿を見れば誰がそうなのか判るという確信がある。血の共鳴とでも言うべ
きか、すぐ近くに居ると気配で判る。
ぼんやりと内から光を放つ破幻の瞳で戦場となった隠れ里を見渡すアクゴロウ。一方ギョウブは…、
(あれが…、今の神ン野の当主か…?)
護衛に守られ、ゆっくりと歩を進める丸い狸を鋭く睨んでいる。
傍らを歩む狐…コハンの動静にも意識を割いているものの、今やギョウブの注意はその殆どが、奇しくもアクゴロウ同様に
宿敵へと傾けられていた。
感覚により、その丸く肥えた狸が宿敵の血族である事は判る。だが、かつて二度姿を見た神ン野悪太郎ではない。
(息子が跡を継いだのか?では、あ奴は死んだのか…、それとも隠居したのか…)
抱いた疑問は、しかしすぐさま頭の隅に追いやられた。
どちらにせよ倒すべき相手。向こうの事情などこの場を切り抜けてからゆっくり推察すれば良い。
(まだ若いが、あれで当主か…)
逆神最年少である自らと、初めて顔を見る当代の宿敵を重ね、親近感にも似た物を一瞬覚えたギョウブだったが、その双眸
はすぐにすぅっと細まり、目の奥に憎悪の炎が灯る。
その手が握るのは得意の幻刃ではなく、実体を持つ長ドス。術の無効化に備えて持ち出した、無銘ながらも鋭く強靭な一振
りである。
幸いにも相手はまだ自分の位置に気付いていない。姿を求めて視線を走らせている。
ギョウブとアクゴロウが本気になって行使した幻術は、破幻の瞳ですら見破れないレベルに達している。両者の化かし合い
は互いの破幻という特性を封じた状態でおこなわれる事になるのだが…、
(魔王槌…。あれが伝え聞く我らが天敵か…)
ギョウブはアクゴロウが持つ小槌を見つめ、緊張を強めた。
あれを何とかしなければ一方的に術を破られる。使わせずに倒すか、奪うか、そのための手はいくつか考えてあった。
そしてギョウブは動き出す。
誰にも気付かれないまま、アクゴロウの方へと。
「アクゴロウ君。近くに居そうですか?」
コハンの声に頷き、アクゴロウは鼻をひくつかせた。
「おるはずなんですけど…、もう術を仕掛けとるみたいですわ」
「それはその瞳でも…、見破れないんでしたね」
尋ねかけたコハンは、以前アクゴロウの父から聞かされた話を思い出し、質問に自ら回答する。
「互角かそれ以上…、って事ですわ。気が入ってない遠隔幻術なら見破れますけど、気合入れて拵えられたモンは、どうにも
看破できんっぽいですぅ…」
力不足を恥じるように耳を倒したアクゴロウに、コハンは「では…」と改めて訊ねた。
「その小槌はどうなんですか?それで術破りができるのでは…」
「できます。けど不用意に使うのはまずいんですわ。連続使用はちょっと無理やから…」
アクゴロウは手短にコハンへ告げた。
魔王槌が効果を現せば、たちどころにギョウブの幻術をかき消すだろう。しかしこの神器は一度使用するとクールダウンが
必要になり、短時間に何度も効果を発動させる事はできない。使い所を見極め、真に危険な術に対応するために温存しておき
たいというのがアクゴロウの考えだった。
相手の姿は見えないが、言い換えれば今はまだ、「ただそれだけ」なのである。幻術の特性を考えれば戦局を一気にひっく
り返される事もあり得るのだから、ここ一番という時まで使用を控えておきたい。
「術比べならともかく、まともにやりあったら勝ち目は薄いんですわ…。捕まったら僕の負けなんやから」
アクゴロウはそう言いながら、魔王槌を握り締めた。
「魔王槌で術を破って、その隙にこっちの切り札をぶつける…。一番勝算が高いのは、情けない事に結局は道具頼りの一発で
すわ」
問題は、とアクゴロウは心の中で付け加えた。
おそらくギョウブにも通用するだろう神ン野の奥義たる幻術…、アクゴロウは二つあるそれらの内、まだ一方しか体得でき
ていない。しかもそちらは術の発現までに数秒の隙が生じる。
魔王槌で相手の術破りをおこない、その隙に使用でもしなければ、準備段階で潰される恐れがあった。
(まぁ、駄目だったら別の手を考えよ…)
図太い狸はそう考え、それからふと気になった。
押している。間違いなくこちらが押している。壮絶な戦闘は僅かながら帝勢が優勢で、徐々に差が付き始めていた。
なのに、ギョウブは姿を消したままで、動きを見せない…。自分だったら看過しないだろうパワーバランスの綻びを前に、
ギョウブは何故行動を起こさない?
(…困ったわぁ…。大失敗や…)
アクゴロウの目がすぅっと細まった。
「コハンさん。訊いてもええ?」
「はい?何…」
「今足元に何が見えます?」
狐が応じるか否かの内に、アクゴロウは彼の足元を見ながら言う。そこに、幻の白い小石を投射しながら。
「これといって何も…。地面ですね」
「ほんとに何も変わったもんは見えてへんのですね?」
「何かあるんですか?」
問い返すコハンは、アクゴロウが既に何らかの異常を嗅ぎ取った物と確信し、警戒して歩調を緩め、配下を立ち止まらせた。
戦場の様子に変わりはない。お庭番達にも、自分達にも、まだ攻撃を受けた形跡はない。
だが、受けた形跡がない事が、今まさに攻撃を受けている結果なのかもしれないのだ。
「全員、自分の足元に何があるか、ぼくに教えてくれへん?」
トド二頭が顔を見合わせ、その他のお庭番も胡乱げな顔で足元を見遣り、それぞれが何もないと言う。
全員が全員、アクゴロウがピンポイントにそれぞれの足元へ発生させた幻の白石には気付いていない。それどころか…、
「…何だ?そこらの白い石…、さっきからあったか?」
雄のトドが警戒しつつそう漏らし、アクゴロウに答えをもたらした。
(参ったわ…。ずらされとる…)
アクゴロウは仲間の足元へ幻を生み出した。が、仲間達は足元に幻を見ず、別の場所に見ている。それはつまり、アクゴロ
ウが見ている彼らの姿と、彼らが実際に立っている位置が違う事を意味する。
(いや、ぼくだけやない。たぶん皆もお互いの姿が正しい位置に見えてへん…。地味に嫌ぁ〜な攻撃やわ…)
ギョウブの術により、いつの間にか互いの位置関係を錯覚させられていると気付いたアクゴロウは、その場から動かないよ
う全員に告げ、小槌を握り締める。
「今破っとかんと、どこまで追いつめられるか判らん。仕方ないわぁ…」
魔王槌を使用する事を決意し、発動準備に取り掛かったアクゴロウは、コハンがそろそろと、足元を確かめるように慎重に
足を動かし、自分の方へと近寄ろうとしている事に気付く。
「心配要りませんよぅコハンさん。すぐに破ってまうから、ちょっと待っとって」
安心させようと笑いかけたアクゴロウに、足で地面を探るように近付きながらコハンが応じる。
「ええ。任せますね」
アクゴロウは頷き、そして「ん?」と首を傾げる。
任せると言ったコハンが、それでもそろそろと近寄って来るので。
「コハンさん。動かん方がええですよぅ」
「判っていますよ。じっとしておきます」
念を押され、苦笑が混じるコハンの声。だが、狐は判ったと言いながらも動いており…。
(コイツか!?)
アクゴロウはさっと左手を前へ突き出し、幻術をかける時と同じ要領で思念波を投射する。幻に対するジャマーとして。
直後、コハンの姿がすっと薄れ、半透明になった細身の狐に重なるように、大柄でいかつい狸の姿が現れる。
(コイツが…、隠神…!ずらしとっただけやない。コハンさんだけ姿を消して、自分に幻を重ねとった…!)
なまじ幻のコハンが見えていたせいで位置関係の認識をずらされているだけと思い込み、ここまで接近を許してしまった…。
アクゴロウは取り乱しそうになるのを堪えてそう判断する。
視覚と聴覚に違和感を覚えさせずに作用する緻密な幻術。加えて二重に欺く用心深さ。改めて相手の周到さに舌を巻く。
初めて目にする天敵にして宿敵の姿。看破された事に気付いたのか、ギョウブが地を蹴り、アクゴロウに迫る。
圧倒されそうな体格差。逞しく頑強なギョウブと、背が低くまん丸いアクゴロウでは、肉弾戦では勝負にならないと見た目
からも判る。
名誉や一家の拘りなど二の次と捉えているアクゴロウは、そもそも一対一で決着をつけなければならないという考え自体を
持っていない。敵の排除という最優先すべき目的のためには、プライドなど捨てるし笑われようと構わない。
加勢を得なければと考え、時間稼ぎを最優先し、まず後ろ向きのまま下がるアクゴロウ。コハンの能力が捉えさえすれば、
いかに隠神だろうとひとたまりもないのだから、拘りなど無く助けを求める心積もりだった。だが…、
「かかったな…」
アクゴロウの眼前で、宿敵がにぃっと口元を歪める。
幻のギョウブが。
ハッと目を大きくし、振り向こうとしたアクゴロウは、しかし結局首を巡らせる事ができなかった。
左の脇下を通って後ろから回った大きな手が、アクゴロウの口を覆う。
「んぶっ!?」
ギョウブの指の隙間から、くぐもった声と、鮮血が漏れ出た。
大きくはだけられて露出した太鼓腹、その鳩尾から、血に塗れた鈍色の切っ先が飛び出していた。
ギョウブは初めから、後ろに居た。
背後から奇襲を受けたアクゴロウが串刺しにされているその光景は、しかしコハンや御庭番達に見えていない。ギョウブが
生み出しているずれた光景の中で、幻のアクゴロウが先ほどまでと変わらない様子で立っているように見えている。
カタカタと震えるアクゴロウの手から、魔王槌が足元へ落ちた。
小刻みに震えるぽってりした手が、羽交い絞めにしながら口を覆うギョウブの腕に触れるが、逞しい大狸の手を除ける事は
叶わない。
(まず…。これ、まずいわぁ…)
アクゴロウの動きを封じ、その身を凶刃で貫きながら、ギョウブはぐりっと刃を捻り、傷を広げにかかった。
刃と肉の間からビピュッと血がしぶき、アクゴロウの口からごぽりと大量の鮮血が吐き出される。
「これで、永きに渡る我らの闘争も終いよ…」
囁きかけたギョウブの声には、悲願を果たした満足感も、敵を討ち取った高揚感も無い。
遠い昔に血を分けた宿敵は、憎悪の対象ではあるが、それでも血族なのだから。
「さらば…!」
別れを告げたギョウブが手を放し、長ドスを一気に引き抜くと、背と腹に穿たれた傷から前後にぶしゅっと血が吹き出し、
赤い霧と水たまりを作る。
「う…あ…」
腹を押さえて呻いたアクゴロウの膝が折れたかと思えば、ドッと血に染まった地面につく。
「敵わん…なぁ…。こら…参ったわ…」
疲れたような声で呟いたアクゴロウは、困っているような苦笑いを浮かべ、そのままどさりと俯せに倒れた。
その頃、戦の中心から離れた位置で、男の子はやや呆れたように呟いていた。
「ヘル。物色している暇などありませんよ?」
言われたヘルは前屈みにしていた上体を起こし、顔にかかったソバージュを掻き上げる。足元に横たわった兵の死体から視
線を外して。
「判っていますとも先生。ただ、帝の近衛というのがここまで脆弱だとは思わなかったから…」
ヘルが見回す周囲には、あるいは焼き尽くされ、あるいは氷漬けにされ、あるいは感電させられ、あるいは外傷らしいもの
もなく死体に変えられた、三十名を超える兵の姿。
レリックや最先端技術を駆使した防護服などで武装し、能力者が含まれながら、近衛達は術士の子弟によって壊滅させられ
ていた。包囲網外周端が近い、それなりに腕を信頼されている部隊が。
ここだけではない。ロキとヘルはここに至るまでの短時間で、他に二つの隊を皆殺しにして、スルトの退路を確保している。
連絡も、応援呼集もさせず、いずれもほんの一瞬で。
「弱兵揃いという話だったでしょう?要するに帝の近衛という物は、信頼できる由緒正しい家柄が慣例的に務める名誉職のよ
うな物らしいですから。しかも…」
「神将が居るせいで、本人達に武力が無くとも実際に務まってしまう、と…」
「そういう事です」
頷いたロキは、まだかろうじて息がある、倒れ伏した駆除対象達を見回し、その中の一人…へたり込んでガタガタ震えてい
る兵に視線を向けた。
「さて、片付けて進みましょう」
ロキがそう呟いたその時、ドォンと、地面が震えた。
音の出どころへ目を向けようとしたその時には、紅蓮の炎が遠くで立ち昇り、男の子の白い頬を薄赤く照らしている。
規模は先のものより小さく、熱量も低いが、二度目の爆炎が天を衝いていた。
「どういう事ですか?」
ロキの目が細められた。
想定していた位置と違う。隠れ里のかなり手前、接近しているとも言えない場所で上がった火柱は、赤虎が予定の位置まで
進んでいない上に、そこまでしなければならない相手と出くわした事を意味していた。
「神将は逆神に供えて前線に固まっているはずです。あんな位置に居るはずが…」
「腰が軽い当主でも居たんですかねぇ?」
スルトの腕を信じているヘルは気楽に軽口を叩いたが、
「だとすれば厄介な腰の軽さです」
想定していた、規律立った動きから外れて行動する神将…、目前の宿敵との決着より、一般兵の被害を案じて確認を優先し、
結果的に独断で動きを変えたユウキは、スルトは勿論ロキにとっても計算の外に居た。
そして、その炎に気を取られた短い時間が、二人の行動計画を狂わせる結果となった。
「まーた酷ぇ有様になったモンっスね」
その声はどこかのんびりとしていて、緊張感の欠片も無かった。
場にそぐわないその声で、しかしロキが、ヘルが、表情を消して素早く振り向く。
ジャリッと、かつて溶岩だった物が大地となった地面を、ごついブーツが踏み締める。
脛の半ばまでを頑強な黒いブーツで覆われている太い脚。
身に纏うのは宵闇を思わせる黒に近い濃紺のジャケットとズボン。
鳩尾までジッパーを引き下げたジャケットからは、真珠色の被毛に覆われた分厚い胸が見えている。
太く逞しい腕はジャケットの袖を肘まで捲り上げて半ばまで剥き出しにされており、両手にはジャケットと同色の指出しグ
ローブがはめられている。
そしてその右手は、分厚く、長く、重々しい何かの柄を握り締めていた。
黒い布を巻き付け、上から何重にも太いバンドで締め付けた全長2メートル程の得物…。それが何なのかはぱっと見ただけ
では判らないが、いかにもかさばりそうなそれを、その男は逞しい肩に軽々と担ぎ上げている。
その男は、北極熊の巨漢だった。
身の丈は2メートル半近くあるだろう、太り肉だがごつい体躯は分厚く、大きく、逞しい。
頑強そうな体躯を覆う真珠色の被毛が闇夜にも鮮やかで、その巨体は闇から浮き上がって見えた。
だが、見る者を圧倒するような巨躯でありながら、巨漢からは「怖さ」が感じられない。瞼が降りた半眼の中、金色に輝く
美しい瞳は月を思わせる場違いな穏やかさをもって惨状を映している。
まずはロキ達の、次いで生き残り…ただ一人意識がある近衛兵の目を引き付けた巨漢だが、その傍らにももう一人、寄り添
うように歩む人間女性の姿があった。
燃えるような赤い髪。霜のように白い肌。双眸に輝くのは薄赤い瞳。
身に着けているのはサイズこそ違うものの、北極熊と同じデザインの黒に近い紺色のジャケット。頑強なブーツは細身との
対比でやけに大きく見える。
傍らの北極熊とは対照的に、細く締ったスレンダーな肢体が闇に浮かぶ女性は、美しい。
取り立てて美人という訳ではない。街中などで時々見かける、ああ、綺麗だな、とすれ違った者に軽い印象を残す程度の美
人と言えるだろう。
だが、どこか憂いが感じられる表情が、その女性に儚げな美しさを与えていた。
いずれ散る事が運命付けられた、可憐な花のように…。
巨大な北極熊が分厚い靴底と重量で硬い地面を浅く踏み崩し、足を止めると、女性もまたそれに倣って軽い足音を残して立
ち止まり、静かに首を巡らせて惨状を確認し、口を開いた。
「目立たないようにと気を付けるあまり、加減がきき過ぎたのね。珍しい事にまだ息がある者が居るわ」
「大半は致命傷で、助かりそうにねぇっスけどね」
「そこは、流石ロキ様とヘル様と言った所でしょう。即死でなくとも、この傷で放っておけばそう経たずに息絶えるもの」
「案の定スルトは居ねぇっス」
「やはり先程の焔は…」
そんな事を言い交わす、同じデザインのアサルトジャケットで身を覆う二人を前に、ヘルが小さく舌打ちし、ロキが胡乱げ
に目を細める。
「何故ここに居るんです?ジークフリート。それに、ブリュンヒルデ…」
男の子の問いに、北極熊は口の端をニッと微笑の形に歪め、片眉を上げて見せる。
「何しに来たと思うっスか?」
「まぁロキ様におかれましては、本当はご存じでいらっしゃるのでしょうけれど…」
巨漢の後を引き取って、女性もまた微笑んだ。