樹海の潮騒(前編)

 申田虎壱(しんでんとらいち)が思い出せる記憶の中で、最も古く、はっきりしているのは、もうすぐ五つになる頃の光景

だった。

 里の正面から御館様の屋敷まで列をなす、勇壮な戦人達の姿…。

 年に一度、その年に元服を迎えた少年達は揃って御館様の元へ伺う。にっくき神将達が裏帝と呼ぶ自分達の旗印へ、忠誠を

誓う為に。

 元服を迎え、宣誓の儀と呼ばれるそれを終えた少年達は、御役目を授かれる正式な兵となる。

 母に手を引かれ、二人の兄と共にその列を見守る里の衆の中に混じったトライチは、人さし指を咥えながら居並ぶ兵どもの

中でも一際目を引く大柄な少年の姿を眺めていた。

 幼いキジトラ猫の視線が注がれているのは、熊と見紛う大柄な狸。

 分厚く幅のある肥り肉の体躯は、すぐ後ろを歩む屈強な黒熊と比べても見劣りしない重量感。

 未だ成長期だが身の丈175、めかたは140、どこかふてぶてしくも厳めしい顔付きも手伝って堂々たる益荒男振り。

 隠神彦左(いぬがみひこざ)。隠神家の嫡子。いずれは彼が次の隠神家当主…つまり「隠神刑部」になる。トライチも物心

がつく前からその事を聞かされており、疑問に思った事はない。

 もっとも、討ち死にさえしなければ、という条件付きだが…。

 列の左右を挟んで見送る里の衆が、晴れ姿に声を上げる中、ふと、大柄な狸は視線を巡らせて何かを探し始めた。

 そうして首を巡らせる狸に、後ろの黒熊が何事か囁き掛け、キジトラの母子を見遣って指をさす。

 ようやくトライチ達兄弟とその母の姿を見つけた若い大狸は、口の端をほんの少し上げ、目立たないよう胸の所で小さく手

を振った。

 トライチは指をしゃぶっていた手を振りかざし、にぱっと笑って大きく振った。

 申田家からは、トライチの祖母姉妹が隠神とその眷属と婚姻している。そのためヒコザとその父…当代の刑部とは特別に親

しかった。

「ヒコザ様、すっかりご立派になられて…」

 そんな母の声を聞くトライチは、自分も早くあのようになりたいと、小さな胸を疼かせていた。

 いつか立派な、強い兵になるのだと…。



 しかし、物を知らない幼子は、育つほどに、歳を経る毎に、現実を思い知って行った…。





 ドスッと、重い音と同時に背中が地面に叩き付けられる。

 一瞬前まで相手と木立を見ていた目には、木々の隙間から覗く空が映っている。

 組打ちの最中に投げられて背から落ちた。その事実を認識した途端に、空気を絞り出された肺が勝手に収縮し、激しく噎せ

かえる。

「本当に使い物にならんな、トライチは…」

 隠れ里近くの練兵場の中央で、指南役のカモシカが呆れ顔でぼやき、投げて掴んだままの手を引いて、トライチを引き起こ

した。

 この時トライチは十四になり、元服を控えていたが、兵としては極めて貧弱だった。

 二人の兄はここまでではなかった。既に元服し御役目を賜っているが、へまをした話など聞いたことがない。

 兄弟の中で、トライチだけが一際非力だったのである。

 気の毒そうな視線を向ける同年代の少年達の前で、トライチは俯き加減に列へ戻る。

 次に出た狼が指南役と組み打ちを始め、善戦する様を眺める目には、羨望と失望が同居していた。

 神無の血が顕在化した狼は「眷属」と呼ばれる、濃い血を宿す少年。肉体的にも強く、能力も強弱の差こそあれ、将と同種

の物を宿す。

 だが、トライチにはいずれの将の血も顕在化しなかった…。

 隠れ里の住民達の間では、幾世代にも渡って狭い範囲での交配が繰り返されてきた。よって、誰もが大なり小なり将の血を

引く。

 そんな彼らの婚姻には、厳密な取り決めが設けられていた。

 逆神達…つまり、神将に対抗し得る本家筋の血を薄め過ぎないよう、特段の配慮がなされていたのである。

 優先的に維持されるのは本家の血。

 次いで維持されるのは眷属の血。

 自由なのはその他交雑した血。

 本家は血の濃さを失わないように相手が選ばれる。しかし、あまりにも濃い血は心を壊すとされ、血の濃い者同士の婚姻は

避けられた。

 中でも、本家同士の血が混じる事は御法度。かつて神将同士の混血から、「神威」と名付けられた大災厄が生まれた例もあ

る。これは何があっても避けねばならない。

 そうして、血が濃くなり過ぎないよう近縁婚を避けられるよう土台をつくり、逆神の血を維持するために適度に将の血が顕

在化する者を生み出す調整が進んだ結果、交雑が進み過ぎて血が殆ど顕在化しない者が里の多数を占めるようになった。

 複数の将の血が薄く、複雑に混じり合った雑種…。トライチはその一人である。

 仲間達が指南役に挑む様を見取り稽古し、その後はろくに呼ばれもしないまま、トライチはその日の訓練を終えた。

 とぼとぼと足取りも重く里へと引き返す最中、トライチは暗鬱たる表情で足元ばかり見ていた。

 力が足りない者は、この里において役立たず。

 女であれば子も産めるが、男のトライチにはそれもできない。

 トライチは真っ直ぐ里に戻る皆から離れ、樹海の鬱蒼とした木々の中に踏み入る。

「ボクは、何になれるんだろう…?それとも…、何にもなれないの…?」

 思わず口から零れたトライチの言葉に、

「何ぞ悩み事か?」

 予期せず応じたその声は、頭上から落とされた。

 ハッと見上げれば、地上4メートル程の高さで枝の上に腰を据え、胡坐をかいている大狸の姿。

 体格が良く骨太で、肥り肉なヒコザが横へ張り出した枝に座っていると、折れるのではないかと心配になる。そんなアンバ

ランスさだったが、ヒコザはその不安定な状態でも全く揺らがない。

「あ…、いえ…、その…」

 漏れた弱音を聞かれて赤面したトライチの前に、飛び降りたヒコザがドシンと着地した。

 半ばはだけて楽にしていた漆黒の作務衣の前合わせから覗く、鍛えてもなお突き出ている太鼓腹が、ゆさっと揺れる。

 その様に視線を奪われたトライチは、視線を上げ、口の端を少し上げて意地悪そうに笑うヒコザの顔を確認し、目を伏せる。

「ヌシはちょっとした事でいちいち落ち込みよる。悪い癖だぜ?」

「は、はい…」

 恐縮したトライチに歩み寄ると、ヒコザは自分の半分もない小柄な猫を間近から見下ろした。

 成人したヒコザは181センチの153キロ。堂々たる巨体は、しかし駆け比べでは神無の眷属たる狼衆をも上回り、相撲

を取れば神壊の眷属たる熊衆も負かす。

 おまけに剣術においても体術においても里で屈指のレベルにある。

 心技体、全てを兼ね備えた傑物を前にして、トライチは自分がどれだけちっぽけか、改めて考えてしまう。

 ヒコザの活躍の程は聞いている。齢二十四にして当主達に劣らない働きぶりを見せている、と…。

 神出鬼没、大胆不敵、千変万化の幻術師。ヒコザは隠神次期当主の名に恥じないどころか、稀に見る天才だった。

 自分とは、あまりにも違う…。

 今しがた手もなく捻られた訓練を思い出し、項垂れるトライチ。

 そんな少年をしばし見下ろしていたヒコザは、「ふん!」と不快げに鼻を鳴らすと、その太い腕をトライチの首に絡め、強

引に肩を組んだ。

「どうせ暇なんだろう?少し付き合え」

 体格の良いヒコザに無理矢理引き摺られる格好で、トライチは里からも練兵場からも離れていく。

 その胸は、トクントクンと高鳴っていた。

 やがて辿り着いたのは、下生えが分厚い、木々が少しだけ開けた狭い空地。

 草は茂っているが、その下は溶岩が固まった岩場に土が浅く堆積しただけで、遊ぶにも組手をするにも不向きな場所だった。

 そこでやっと肩から手を離したかと思えば、

「せぇっ!」

 裂帛の気合と共に、キジトラ猫の細い手首を掴んだ大狸が、少年の軽い体を力任せに放り投げる。

「あっ!」

 上下逆さまになったトライチの口から声が上がる。

 腕一本。まるで布きれを空で払うようなぞんざいさで宙を舞ったトライチだが、その手はヒコザがきっちり握っていた。

 そうして空中に綺麗な弧を描いたトライチは、気が遠くなりそうな中で声を聞いた。

「ひっくり返って見えても、地面は動いとらんぜ!」

 ハッとしたトライチの腕が引かれ、減速する。済んでの所で足から落ちたキジトラ猫は、跪いたその格好から、手を繋いだ

ままの大狸を見上げた。

「できるじゃねぇかよ。えぇ?」

 ニィッとふてぶてしい笑みを浮かべたヒコザが、禁圧を解いたその剛力で再度トライチを投げる。

 宙で高く弧を描いた少年は、ヒコザの上を越え、また腕を引かれて減速しながら反対側の下生えを踏んで着地する。

「下は岩場だぜ?コケたら痛ぇぞ!そらもう一丁!」

 おもちゃのように放られ、着地し、また反対側へ投げられ、また立つ。

 繰り返す内、次第にトライチはタイミングを掴み始めた。

「どうだ?コツが判りゃあ簡単なモンだろうが?」

 やがて、やっと手を止めたヒコザが息を弾ませて笑い、話しかけた。

「低く投げられても同じだぜ。転がされたって同じだ。地面は動かん」

 その時にはもう理解していたトライチは、息を切らせて喘ぎながら頷いた。

 ヒコザは、実は先の修練風景をこっそり見ていた。そしてトライチが上手く行かない事で落ち込んでいると察し、ちょっと

ばかり稽古をつけてやったのである。

 大狸は傍の岩塊に歩み寄り、腰を下ろすと、横を平手で叩いてトライチを誘った。そうして隣に座らせて言ったのは、

「ワシは、何でもできる」

 そんな、自慢しているような言葉。しかし事実を淡々と語るような口調で、そこには自慢する響きも得意そうな様子も見え

ない。

「ヌシができる事は大概できる。だがなぁ、ヌシの方がワシより向いとる事は、いくらでもあるんだぜ?」

 ヒコザが何を言いたいのか判らず、黙っているトライチは、

「その軽くて柔っこい体はな、ワシにはないモンだ。受け身の取り方、木の登り方、狭いトコへの潜り方…、そんなモンはヌ

シの方が上手くなるはずだぜ」

 大狸のそんな言葉でハッとする。

「適材適所。神無の爺様は常々そうおっしゃるぜ。ヌシにはヌシの持ち味があらぁな。努々忘れちゃいかんぜ?何もできんの

だとてめぇを卑下しちまったら、何だってそこまでだ」

 バシンッと強く背を叩かれて、トライチは前のめりになる。

 何とか転ばずに堪えて顔を見遣れば、ヒコザは可笑しそうに笑っていた。

「精進しろよ?早ぇ所ワシの脇を固められるようにならにゃいかんぜ?」

 トライチは無言で頷く。コクコクと、何度も繰り返して。

 顔が、カッカと熱く火照っていた。

 ふてぶてしく、自信に満ち溢れ、言動に実力が伴う堂々たる偉丈夫、隠神彦左…。生まれたその時から里の守護を担う事を

義務付けられた大狸…。

 しかしその実、御館様への忠誠心は厚く、里への想いは熱く、御役目に対しては厳格にして誠実。

 浮いた話の一つも無い、戦に明け暮れるだけの若大将。

 幼い頃から己の使命と里の未来を見据え続けているその瞳。

 自分に無い物を兼ね備えた立派な体躯と、鋼のような精神力。

 トライチは、そんなヒコザに恋をしていた。

 次代の長たるヒコザ相手に、許されるはずの無い恋だと、いけない想いだと、重々承知しながらも、焦がれる心はどうにも

静まらなかった…。





 それから一年、ヒコザは多忙な御役目の合間を縫って、トライチに稽古をつけてくれた。

 それなりに厳しくはあったが、概ねヒコザはトライチに優しかったし、無理はさせなかった。

 本音を言えば、ヒコザは近しいキジトラ猫が可愛かったのである。歳の離れた弟のように見ている事もあって…。

 基本的な組み打ちや、戦技レベルでの駆け引き、特にヒコザが得意とする心理の裏をかく絡め手や、洞察によって上手く欺

くコツなどは、非力なトライチにも役立てられる貴重な戦力となった。

 修練を課すだけでなく、ヒコザはじゃれ合い半分でトライチと組み合い、揉んでやった。

 相撲にも似た取っ組み合いや、子猫のじゃれ合いのように絡まり合って草の上を転げ、上を取り合う遊びの勝負。

 体格差もあり、力も技量もまるで違うヒコザにトライチが勝てるはずもなかったのだが、遊びという事もあって、大狸は適

度にわざと負けては少年に花を持たせてくれた。

 草むらで仰向けになった大狸の腹へ馬乗りになり、見上げて来るヒコザがからから笑って「一本取られたぜ」と褒めてくれ

るのが嬉しかった。

 そうして、気晴らし込みの手ほどきを繰り返すヒコザの心付けで奮起したトライチは、自分の持ち味を活かす方向で成長し

始めた。

 真っ向からの組み打ちでこそ戦績は奮わなかったものの、ヒコザの手ほどきの甲斐あって、野での模擬戦ではそれなりに優

秀だった。

 身のこなしに集中して鍛えられたトライチは、駆け、跳び、受け身と、持ち前の柔軟さと軽い体を活かせる軽業で才能を開

花させたのである。

 さらに、手先の器用さと潜伏技能では指南役を驚かせる伸びを見せ、その道に特化した兵としての生き方を視野に収めるよ

うになっていった。

 そうして鍛えて貰いながら、トライチはヒコザへの恋慕を募らせる。

 血を分けた実の兄達よりも慕う、敬愛すべき先達…。

 実るはずの無い恋。報われるはずのない想い…。

 寄せれば傷つき、心は血を流す。かさぶたは容易にはがれ、痛みは絶える事が無い。

 それでも…、それでもなお…、傍に居られる、ただそれだけで…。





「この間、加茂の頑固親父が褒めとったぜ。使いモンにならんと思っとったのに、この一年で化けよったとな」

 塩で味付けされただけの、具も入っていない握り飯を齧りながら、ヒコザは面白がっているように口の端をつり上げる。自

分が手ほどきしてやった落ちこぼれが指南役を見返した事は、なかなかに痛快で愉快だった。

「ボクが伸びたのは、若大将のおかげです」

 竹筒に入った水を飲み、トライチが微笑む。

 二人が並んで腰かけているのは、平らに均された台形状の岩塊。元々はこんもりと山型だったらしいが、先代の神壊が手刀

ではねてこの形になったと言われている。

 そこは結界の際。岩の位置からは里を隠す結界を維持する要…隠神達が拵えた注連縄の陣がよく見えた。

「いよいよ明日だぜ」

「はい」

 呟くヒコザに頷くトライチ。

 明日は宣誓の儀。今年元服を迎えたトライチは、いよいよ本格的に御役目を賜る立場になる。

 幼い頃、ヒコザの晴れ姿を見たあの日から、既に十年の時が流れていた。

「「外」は、どのような所ですか?」

 樹海の奥から出た事がないトライチの、期待と不安が混じった問いに、ヒコザは即答しかねた。

 樹海の中しか知らない者に、あの色彩豊かで人工物に溢れた世界をどう説明すれば上手く伝わるのか、なかなかに難しい。

 そもそもヒコザ自身も、それまで聞いて、写真で断片的に見て、思い描いていた物と、実際に観た外の世界は大きく違って

いて、戸惑ったものだった。

「色々あり過ぎてな…。月並みだがな、百聞は一見にしかずってぇアレだぜ。何とも説明し辛くてかなわん」

 顔を顰めたヒコザの横で、しかしトライチは諦めきれずにおずおずと訊ねた。

「では一つだけ!「海」とはどういう物ですか?」

「海か…」

 ヒコザは肉が付いた顎下に手を添え、ニヤリと笑った。

「ありゃあ度胆抜かれるぜ?でかくて、匂う。ここじゃ判らん匂いと音に満ち溢れてな、この世にゃこんなに水があったのかっ

て…、ワシも立ち竦んだわ」

「匂いと、音…?」

 写真では判らない事柄に思いを巡らせるトライチ。

「磯の匂いだ。そして、潮の音が絶えず鳴っとるんだぜ?あの音は…」

 ヒコザは太い指を口元で立て、耳を澄ますようトライチに促す。

 緩やかな風が樹海の上を撫で、木々のざわめきがザザァッと二人の頭上を通り過ぎて行った。

「潮騒というのは、あの音に似とるぜ」

 ヒコザは言う。樹海とはよくいった物で、海とここは様々な所が似ている、と…。

「音に、見通しのきかん所…、色んなモンが隠されとる所もな」

「海の匂いとは、どんな物ですか?」

 興味をくすぐられたトライチの問いに、ヒコザは笑って「そうがっつくモンじゃねぇぜ」と応じた。

「じきに判る。楽しみはそれまで取っとけ」

 頷いたトライチは夢想する。ヒコザに伴われて海を見る、その日の事を…。





 翌日、滞りなく儀式を終えたトライチは、若手中心に編成された部隊に配属された。

 時には隠神一派の下につき、任務に励む事もあった。

 一年経った頃、働きが認められたのか、それともヒコザが口添えしたのか、トライチは伝令役として抜釘され、隠神の長、

刑部の元で働くようになった。

 線は細いままだが、それでも幾分逞しくなり、顔つきには精悍さが滲み始め、大人への過渡期において、声もいくらか低く

なった。

 神将達との暗闘が激しさを増す中、それなりに戦果を挙げてゆく隠神とその眷属、そして配下達。

 だが、良い事ばかりではない。

 この数年の内に、帝側の動きが例に無いほど活発化し、トライチが元服してから二年の内に戦は激化した。

 次々と仲間が命を落とし、同期の訓練生も二割が戦死した。

 トライチも例外ではなく何度か危うい目にあい、二度も生死の境を彷徨う程の重傷を負ったが、それでもなんとか生き永ら

えられた。

 だが、二人の兄は双方が別の場所、別の時に、同じ男の手にかかって命を落とした。

 一番上の兄は、腰から上が無くなった姿で里へ帰って来た。

 だがそれもまだマシで、二番目の兄は遺体すら残らず蒸発させられ、遺品一つ戻って来なかった。

 兄を殺めた男の名は、神代熊鬼。

 神将の中でも直接戦闘に特化した血筋…。遡れば、神壊と始祖を同じくする戦人…。

「出くわした事は無いが、彼奴にはワシらの眷属も随分殺されたぜ」

 二番目の兄の合同葬儀の際、空の骨壺を前に、深酒したヒコザがそう言っていたのを、トライチははっきり覚えている。

「いつか顔を合わせたら、ワシが葬(はぶ)る…」

 酒がまわって据わったヒコザの目には、暗い光が宿っていた。

 哀しい時、寂しい時、ヒコザはそれを隠して静かに怒るのだという事を、この頃にはトライチも理解していた。

 そしてこうも感じた。上に立つ者は、感情に任せて自由に振る舞う事が許されない…。ヒコザはこんなところでも、自由に

はなれないのだと…。



 二番目の兄が亡くなった一月ほど後に、トライチの母も逝った。

 傷心から衰弱した所で、折悪く季節の変わり目に風邪をひき、こじらせた末に。

 身寄りがなくなったトライチは、既に一線を退いた隠神の眷属の家に引き取られ、同じく家族を全て失った老狸の元で暮ら

し始めた。

 トライチ自身は幻術が使えないものの、老狸が酒の夜語りで教えてくれる術の話は為になった。

 様々な術の性質や特徴、そして欠点が、ヒコザを補佐する上で気を付けねばならない事柄として役立ったのである。



 そうして、トライチが一人前と呼んで差し支えないほどに成長した十七歳、ヒコザが二十七歳となった年、事件は起こった。

 結界を維持するにも、隠神の血族が足りなくなると危ぶまれていた矢先、その長である隠神刑部が倒れてしまった。

 幾重にも身に刻んだ深手…、古傷…、それらをおして出陣を重ね、激務に激務を上積みしたツケに、歳経た体が耐えられな

くなったのである。

 宿敵、神ン野の当主率いる御庭番と、加勢に現れた牛の偉丈夫…明神家当主との戦で深手を負い、御役目を中断して里に帰

還した隠神刑部は、自力で立てないほどに弱っていた。



 その五日後…。



「昨夜、親父から言われた」

 草の上にごろりと寝転がり、仰向けで空を睨みながら、ヒコザがぽつりと呟く。

 傍らで膝を抱えたトライチはちらりとその顔を見遣って、「大将は何と…?」と、先を促した。

「自分はもう戦に出られん。それどころか、下手をすれば冬までもたん。だから…、吉日を見て来週辺りにでも引き継ぎの儀

を行う、と…」

 はっと息を飲んだトライチの頭上で、ざわざわと木々が風に鳴る。

「ワシは、「刑部」になる」

 隠神の長は、代々が「刑部」を名乗る。役目を引き継いだ後は、いつか子に引き継がせて役目を降りるまで、親に与えられ

た名を使う事はなくなる。

 引き継ぎの儀で襲名した後は、ヒコザも「ギョウブ」と名乗るようになる。

 隠神の長、要の一角、その重責を担う日が目前に迫ったヒコザの目は、薄曇りの空を映して暗く濁っていた。

「おまけに…、早々と嫁まで決められちまったわ…!よほどワシの事が不安と見える」

 苦笑いしたヒコザの言葉に、トライチの胸がドクンと鳴った。

 いつかこんな日が来ると解っていた。夢の終わりを覚悟していた。告げずに想うだけの日々は、辛くも幸せだった。

 だが、現実が今、少年に突きつけられた。

 ヒコザが名を口にした嫁の候補は、トライチもよく知っている隠神の眷属だった。

 血は濃過ぎず、薄過ぎず、申し分ない相手といえる。

「お、おめでとうございます…!世継ぎがお生まれになる日を、ワタシも心待ちに…!」

 祝う言葉は、しかしどうしようもなく震えて、掠れた。

 だが、ヒコザは何も言わなかった。

 おかしいと思われて当然なのに、何も…。その違和感を反芻するトライチの耳に、ヒコザの声が滑り込む。

「ワシには夢がある」

 空を睨むヒコザの口が発した言葉は、短くもはっきりした物。

「ワシらの代で、戦を終わらせる。御舘様の身を相応しい御殿に落ち着かせ、不自由をかけんようにする。もう子供が刃を握

らんでいいようにしてやる。外を知らん子供が居らん里を…、いや、里に籠らんでいい環境を作ってやる」

 とうとうと語るヒコザは、「そして…」と呟き、一度言葉を切った。

 樹木がざわざわと風に鳴って、静寂を埋める中、

「ヌシのような少年兵が、もう要らんようにしてやる…」

 長い沈黙の後に、大狸はそう言った。

 トライチに言葉は無い。目を見開いている少年は、細く華奢な手に重ねられた、大きく分厚い手の暖かさで硬直していた。

「その為なら…、ワシは修羅にも羅刹にもなってやるぜ…」

 頑なな決意。悲壮な覚悟。己の全てを投げ打ってでも里に尽くすその信念は、揺るぎない物だった。

 そうして、青春の全てを隠神の跡継ぎとして捧げてきた事に、後悔はない。

 …否。

 ヒコザは小さくかぶりを振る。

 悔いはあったのだ。その証拠が今トライチの物に重ねた手…。

 知っていた。気付いていた。少年が自分に寄せる想いに…。

 諦めると思っていた。折り合いをつけると思っていた。なのにトライチは変わらなかった…。

 ヒコザの悔いとはつまり、自分が早くに諭す事もせず、放置し続けた挙句に、こうまでなってしまったトライチの恋慕。そ

して、己の…。

 釘を刺す勇気が無かったからこそ、トライチは軌道を修正できなくなった。ヒコザはそう考え、自分の責だと捉えている。

「ワシは、もうじき勝手が許されんようになっちまう」

 ヒコザの声が、凍り付いているトライチの胸を締め付ける。

「言いてぇ事、あるんじゃねぇのか?」

 ドクンドクンとトライチの心臓がはち切れんばかりに脈動し、その音が木々の囁きすらかき消す。

 数十秒に渡る沈黙の後、トライチは消え入りそうな声で囁いた。

「ずっと…。ずっと…!お慕いしておりました…!」

 決して口にする事はないと思っていた、長年の想いを吐露する喉の震え…。その言葉が終わるか終らないかの内に、トライ

チの手に重ねられていたヒコザの手が離れ、腕を掴み、乱暴に引き倒した。

 崩れる形で俯せにトライチが倒れ込んだ先は、分厚くも弛みがあるヒコザの胸…。

「知っとった…。随分前からな…」

 睨むように至近距離からトライチの瞳を凝視した目は、しかしすぐさま迷うように、恥らうように、横へと逸れた。

「ワシは…知らんからな…。ひとの愛し方も…、どうすれば良いのかも知らんからな…。そんな物を学んだ事はねぇんだ…」

 そして…、覚悟を決め、眼差しを前に戻した大狸が囁く。

「ヌシのせいだぜ…?いつの間にかワシも…、ヌシを憎からず思うようになっちまった…」

 責めるように告げたヒコザの口が、トライチの口に重ねられた。

 不器用で乱暴な口付けで、牙がぶつかった。

 驚きに見開かれたトライチの目が、涙を浮かべて細くなった。

 淡い尊敬から始まった、十数年越しの想いが、やっと実った…。

 顔を互い違いに傾かせ、舌を絡めあい、二人は貪るように口を吸いあう。

 暗がりに生きる野生の獣が求め合い、愛撫し合うような、本能的で情熱的で濃く深いそれが、二人にとって、生まれて初め

ての口付けだった。

 長い貪りあいの後にようやく離れた二人の間で、唾液が糸を引き、橋を作るなり切れて、落ちる。

「ヌシの…せいだぜ…?」

 繰返したヒコザの顔を、覆いかぶさるような格好で見下ろすトライチの目から、涙が零れた。

 透明な滴が、ヒコザの顔を彩る狸特有の隈取に落ち、濡らす。

 どうして自分達は、こうなってしまったのだろう?

 どうして自分達は、こんな生まれ方をしたのだろう?

 生まれて初めて覚える、自分という存在と、それを形作る一部たる環境への疑問…。

 右目のすぐ下に落ちたそれで目を細めたヒコザは、そっと手を伸ばし、太い指でトライチの目の下から涙を掬い取る。

 指の被毛に吸われる事無く、上に乗ってか細く震える透明な滴をしばし見つめたヒコザは、それを口元に運んでぺろりと舐

め取った。

 塩の味。涙の味。透明でありながらそこに切ない思いが溶け込んでいるような、舌を刺激する味…。

 何もかもが、生まれて初めて…。

 ヒコザは太い両腕でトライチをかきいだき、力任せに抱きすくめた。

 きつく、きつく…。

 強く…、強く…。

 ヒコザと身を重ね、胸を合わせ、胴を絞られ息を吐き出させられるトライチ。絞り出された吐息がヒコザの首筋を撫でる。

 鼻をくすぐるのはお互いの体臭と、樹海を駆け抜けた風が運ぶ、秋枯れの草の香…。

「わ、若大将…!」

「ヒコザだ…。今のワシはただの「ヒコザ」だぜ…、トライチ…」

 鼻声で呻いたトライチに、ヒコザが念を押す。

 せめて今だけは、立場やしがらみなど忘れたかった…。