絶えぬ潮騒(後編)

 夜色の塊がボンネットに落ち、ドゴンと音を立てた。

 ひしゃげてへこんだボンネットは、落着したその男が手にする一振りの刀で貫かれ、一撃でエンジンを殺されている。

 上げられた顔の中、赤く光る両目が驚愕する運転手の顔を映した。

 飛び乗った衝撃で後部が僅かに浮いたジープが正常な姿勢に戻る前に、車内に居る面々の姿を確認したタスケは、太刀をボ

ンネットから引く抜くなり、膝立ちの姿勢のまま上半身を大きく捻る。

 そして、大きな捻転から繰り出された大太刀の横薙ぎ一閃でルーフの前半分が吹き飛んだ。運転手と助手席の男の頭部ごと。

 バガンと凄まじい音を響かせて中破したジープが、コントロールを失って尻を振り始める前に、タスケはボンネットから横

手へ跳ぶ。そこへ速度を落としたバイクが滑り込み、大狸を拾った。

 巨体のタスケを後部座席に着地させても、バイクは最小限の揺れで安定を取り戻す。腕利きのライダーは黒いツナギで全身

を覆っているが、ボディラインから女性である事は判った。

 再加速したバイクの上で、タスケは刀を鞘に収めつつ叫ぶ。

「外れだ!ハルナ殿!次の車まで頼む!」

「了解!」

 フルフェイスのカバーを開けて叫び返した女性が、フルスロットルで大型バイクを飛ばす。後方では、ガードレールを突き

破ったジープが河川敷に落下して行った。

 その遥か上空を一羽の鴉が舞う。

 ただし、その姿を地上から視認するのは、夜闇に紛れる色でなかったとしても不可能だっただろう。高度13,000メー

トル。巡航する旅客機以上の高みから、鴉は地上を見下ろしている。

 黒い瞳はその距離から地上の建造物、道、車両、歩行者を精密に捉え…。




 黒い鴉が首を上げる。それを肩に止まらせて目を閉じていた老紳士は、一つ頷いて瞼をあけた。

「C28、R199を走行中のジープ在り。W9、R72+25に二台目を確認」

「了解!伝達します!」

 別荘地下、大型モニターと数十基のコンソールが並ぶ指令室で、ヘリで本土へ送り返した私設部隊の精鋭、ひいては葬り屋

達に情報が伝達される。

 総帥と身近な数名にしか存在が明かされていないここは、島の別荘の地下。本家邸宅や分家が落ちた際に指揮を執れるよう

万が一に備えて用意されている臨時指令室である。リトクとその片腕の男もここの存在は知らされていなかったので、大いに

驚かされた。

 表の顔である烏丸コンツェルンのゲスト用別荘であるここは、裏の仕事から指揮系統的に切り離されている。あえてそこに

臨時司令部を設置できるよう準備していた総帥の抜け目なさにリトクは舌を巻く。

 肉親にも他言無用と釘を刺されたところを見ると、どうやら自分の両親にもここの存在は明かされていないようだと、リト

クは唸る。緊急時故に仕方なく存在を明かされただけ、何も無ければこれから先も秘密なのだろうと察しはついた。

(とにかく、ここのおかげで巻き返しが速く済んだ!)

 分家とは連絡が取れないままだが、本家から斥候が数名出ているので、状況はすぐに判るはずだった。

 襲撃者側にとって予想外だったのは、この反撃の迅速さと正確さだろう。

 確かに、本家邸宅は襲撃を前提としていない上に、今夜は手薄だった。だが、総帥は監視の目を屋敷に残しておいた。

 高空から該当車両を追跡しているカラスと、総帥の肩にとまっているカラスは、一見すると普通のカラスだが、その実体は

「本物と見紛う精巧さで造られた、意思を持つ生きたレリック」である。

 現行人類とは規格が異なるらしく、リンクするだけで一苦労。並の思念波強度では感応すらできない代物だが、老紳士はこ

れを本来のスペックで使用できる。

 片方のカラスが得た情報は、もう片方のカラスもタイムラグ無しで共有する。そしてその五感が捉えた情報を、リンクした

者にも共有させられる。

 屋敷に残されていたカラスの一方は、トモエが攫われた事を屋敷内の人物達の会話で把握するなり、自発的に籠を出て窓か

ら飛び立ち、屋敷を襲撃して逃げ去った全てのジープを超高空から監視した。どれにトモエとフウが乗せられているのかは判

らないが、一台たりともマークを外していない。総帥は今、監視する側のカラスの視界をそのまま脳に投射されていた。

 もっとも、カラスの五感が拾う情報は人間が処理できる限界を超えているため、情報共有は酷く精神力を消耗させる。それ

故に常時監視は不可能なのだが、こういった緊急時には強力な索敵性能を時間限定で発揮できる。

 総帥がカラス達とのリンクを維持できるのは連続四時間ほど。夜明けが近付く頃には追跡が切れてしまうため、勝負はその

間に限られる。とはいえ…。

「ナンバー3沈黙!」

 情報統合係が報告する。猛追するタスケが一両仕留めた事を。

「二時間要らない、とギョウブ君は言ったが…」

「やるでしょうオジキなら。そのための足と道は責任もって用意します…!」

 総帥が呟いた横でリトクが深く顎を引く。

 足はリトクが用意した。ヘリで戻した所から、選抜された葬り屋の精鋭…つまり最大戦力を不届き者達の喉元へ送り届ける

のは、烏丸の私兵の中でもドライビングテクニックに秀でたメンバー達。機動力に長けた彼らは葬り屋の足になりながら、こ

の司令室へ状況報告を行なう通信兵の役割も担う。

 一年半で培われた双方のコンビネーションが遺憾なく発揮され、バラバラに逃走する各車両への強襲という一見無茶な作戦

が、普通に成果を上げている。

 勿論、強襲部隊はタスケだけではなく…。


 ゴンッと屋根で音がした。

 襲撃を警戒していた男達が天井に銃口を向けたその時、サイドガラスを突き破り、燐光を纏った抜き手が助手席の男の頭を

水平に貫通する。

 運転手が悲鳴に近い声を上げてそちらを見遣った瞬間、今度は運転席側のドアが開き、太い尻尾をぶら下げた下半身が車内

に侵入。首を脚で極めるなり、追って伸びた手が小刀でシートベルトを切断、男を捕らえた下半身は車外へ振り戻ってポイッ

と路肩へ投げ捨てた。

 電柱に頭から突っ込んで即死した男には目もくれず、サブロウタはもう脚から運転席に侵入してハンドルを握る。その時に

は助手席の死体を外に捨てたタツヨリが座席を倒し、後部席へなだれ込み、その凶器たる四肢をもって銃で武装した男達を刈

り取るように始末している。

「せっかくだから少しこのまま走らせるぞ。死体が何か情報持ってないか調べてみようぜ?」

「名案だ。ではじっくり荷物を検分させて貰う。とりあえずは…」

 狼はライトを消して並走するバイク…自分達を送り届けた私兵部隊に中を探る事をハンドサインで告げて追走に移らせると、

シートを調節している狸に後部座席から目を遣った。

「運転手はシートベルトを締めなければならないのではなかったか?」

「まずいなー。切ったからなー。でも緊急事態だからなー」

「では仕方ないな」

 寛容に頷く狼だが、そもそもサブロウタ含め葬り屋全員、運転免許など持っていない。シートベルト以前の問題である。

「さあ、フウとお嬢様はどの車だ!?情報出さねぇと順番に皆殺しだぜ!」

「まぁ、返して貰った所で全員葬る方針に変更はないが…」

 燐光を纏った右手の五指をゴキゴキと蠢かせ、タツヨリは冷酷な声音で囁きながら、死体の衣服をバリバリと引き裂く。

「ところで、カーナビってさ」

「うむ」

「行き先に道案内するんだったよな」

「そうだったと記憶している」

「これ、案内してるっぽいんだけど…、行き先見たいから地図縮小してくれるか?」

「む?」

 狼は身を乗り出してモニターを見ると、拡大縮小の文字を見て当たりをつけ、地図を操作してみた。

「面妖な…」

 現在地をリアルタイムで表示し続ける電子地図に薄気味悪さを覚えつつも、タツヨリは案内先が表示されるまで地図を縮小

し…。

「ハママツの砂丘辺りか?これ…」

 ハンドルを握るサブロウタが顔を顰め、持たされていた無線機を懐から取り出した。

「道に自信なかったんだろうけど、目的地までカーナビに案内させるとか、ウカツ過ぎだろこれ?乗っ取られたらどうする気

だったんだ?」

 まず、ナビをリセットする暇も無く奇襲して乗っ取る手合いの存在を普通は想定できないのだが、それを普通にやってしま

うサブロウタは心底不思議そうだった。


 ガンガンガンと続けて音が鳴る。ジープの後方で屋根の上から逆さまにリアガラスを覗き込み、手にしたハンマーで遠慮な

く叩き割っているのは、淡い色の大狸。

 だが、車内の四名は誰もその存在と行動に気付いていない。既にカンゲツの術中に落ちており、運転手などバックミラーに

映る不穏な影を目にしながらも認識できていない。

 術の集中を維持するために原始的な手段で車内に侵入したカンゲツは、後部座席の男の片方から銃を拝借すると、烏丸の私

兵に教えられた手順に則って安全装置などを操作し、単発射撃に切り替えた上で、後部座席と助手席の男達を射殺した。

 ここで襲われるわけがない。襲われるとしたら車両の外。並走や追走してくる車…。そんな思い込みがあればこの通り、術

が綻ぶきっかけとなる疑惑や警戒の外へ身を置いたままのカンゲツは、術を維持したままでいられるので、容易く暗殺を実行

できる。

「合流地点まであと三時間もかからない」

 運転席の男が言う。

「やっとこの国ともオサラバだ…!」

 誰の返事も無いその違和感に男が気付いた時には、カンゲツは男達の荷物から見覚えのある品を見つけていた。

(ダンダラ模様の会員証、か…)

「おい、どうしたお前ら?静かになって…」

「それは、もはや語らう事が不可能になったから、だな」

 返って来た声は聞き覚えのない物だった。運転手はその時点で術が解けて、車内の濃密な血臭に気付く。

 助手席の男は死んでいる。バックミラーに映る後部座席のふたりは項垂れて、その手前には、赤い光る目が二つ…。

 十数秒後、ジープは路肩に停められ、運転席のドアを開けて降りてきたカンゲツは、距離を詰めてきて停車したバイクの男

にダンダラ模様の身分証を見せる。

「ふたりは居なかった。が、これを見て頂きたい」

「これは…、「ダンダラ」の!?」

 カンゲツは静かに頷くと、車に飛び移る前と同じく、バイクの後部にのしっと跨り、その若い男の腰に手を回してしがみ付

く。狸の手の位置が低過ぎる事が気になったライダーだったが…。

「武装も、抗争中に見た兵達の物に似通っている気がする。残党と見て間違いないかと。であれば、兵力は無尽蔵ではなく、

あるいは今夜の車両群が最後の切り札という可能性も…。急ぐとしましょう」

「はい!お任せ下さい!」

 カンゲツに急かされ、バイクをスタートさせながら司令室へ通信した。




 敵対者の正体が判明し、一応の目的地に目星がつくと、司令室から各実行部隊員に情報が伝達された。

「ダンダラの報復…、にしちゃあ腑に落ちません。恨みつらみはあっても、それを晴らすのが最大の目的とは思えませんね」

 リトクは顔を顰めて考え込む。偶然という線は拭えなくもないが、手薄になるタイミングを見計らっての行動と見た方がしっ

くり来る。万全の状態であれば確実に返り討ちに遭う程度の戦力で、総帥不在の屋敷から孫娘を浚ったという現況を見れば…。

「「この国からオサラバ」、そして、カーナビの位置設定…。攻撃が目的じゃなく、逃走先への手土産としてトモエの身柄が

欲しかった…?」

 リトクが思考を整理しながら漏らす言葉に、総帥も同意見だった。考えたくない事だが、こちらの動向が把握されていたと

見ればこの状況にも説明がつく。

「まず、連中は手薄になるタイミングを知って動いたと考えます。今日非番だった連中にそれとなく探りを入れましょう」

「身内を疑いたくはないが、仕方ないか…。頼んだよリトク」

 ギョウブとつるんで作戦に従事する事が増えて以降、リトクは頼り甲斐がある男になった。思考や推察能力、今回足を用意

させた手際などの実務面だけではない。精神面でも大きく変わった。

 彼の実家である分家の状況が判っていない。父母ときょうだいの安否が判らない状況で、心中穏やかではいられないにも関

わらず取り乱さないのは、彼がひととして成長した証でもある。

 もはや分家の長男だからという理由だけで用いる必要は無く、頼れる現場指揮官として総帥も重用できる。

「隠神のオジキはどうしてる?」

 リトクはオペレーターのひとりに歩み寄って確認すると、カーナビに設定されていた目的地と隻腕の狸の現在位置を頭の中

で並べて浮かべ、使える手をありったけ思い浮かべて数秒考え…。

「おい。サイレントレインは定期整備が済んでたはずだな?すぐに出せるか?」

 郊外格納庫に隠されている秘密兵器の名を口にした。




 砂の上にジープが踊り込む。その数二台、通信途絶した八台は辿り着けなかった。

「もう少しだ…!」

 トモエとフウに自動小銃を向けたまま、男が唾を飲み込んだ。

 この先の海岸線で「取引相手」が待っている。オブシダンクロウの総帥の縁者を引き渡せば、国外に逃亡する手助けをして

くれるという約束だった。

 やがて、砂丘を越えて水平線を望む砂浜へと降りて行った二台のジープは、速度を緩めて…。

「…何処に居る?」

 用意してあるはずの船の姿が見えない。ドライバーが、助手席の男が、慌てて周囲を見回す。

「位置が違うんじゃないのか?」

「座標は合ってるか?」

 口々に言いあって、男達は停車したジープから次々に降りた。

 しかし、どれだけ目を凝らしても迎えの船は見えず…。

「…騙された…のか…!?」

 嫌な汗が背中を伝った。

 そこへ、音も無く人影が二つ歩み寄る。その影に、しかし男達は気付けなかった。

 ドサリと、砂に重い物が倒れ込む音が響いた。

 パタパタと雨が降るような音。続いて砂地を濡らしたのはしかし、水ではなく赤い液体…。

 抜き身の長ドスが闇に銀光を刻み、喉を一文字に切り裂かれた男は自分の身に何が起こったのかも判らないまま絶命する。

「悪ぃが雑に行くぜ、ええ?」

 ドスの利いた低い声を発したギョウブが、太い体躯を捻る。作務衣の裾をはためかせて繰り出された胴回し蹴りは、隣に居

た男の顔面を陥没させた。

 さらに、蹴り飛ばされた先に居た男の頭部に、そのひしゃげた頭部がビリヤードの球よろしく激突し、頭蓋骨をかち割る。

 本分は幻術使いではあるものの、ギョウブは体躯の頑強さを活かし、戦闘機動においては禁圧を切った駆動を多用する。瞬

間的な解除による初動の加速や攻撃の瞬間の加圧という、基本性能の底上げによって、卓越した剣術と体術をより強力な物へ

変える。常人の域を出ない戦力ではまるで歯が立たないどころか、抵抗らしい抵抗すらできない。

 そしてもう一条、長ドスとは別の煌きが宙を奔った。

「げうっ!?」

 喉に灼熱感を覚えた男は、触れようとした指をパックリ開いた首の傷に潜りこませ、大量に喀血しつつ仰け反る。直後、背

中を向けていた別の男は背中に衝撃を感じ、胸に痛みを覚え、視線を下げたところで鳩尾から生える尖った刃先を目にした。

 コマ落としのように、殺傷直後の瞬間だけ速度が落ちたキジトラ猫の姿が視認できるが、動作の途中は帯を引いた影となっ

て詳細が判らないほど。太陽の下であれば残像がはっきり見えるだろう戦速である。

 ひとり喉を裂いて殺し、返す刀でもう一名を刺殺してのけたトライチは、冷たく光る瞳を三人目に向ける。

 一言も無く、呼吸すら聞かせないが、キジトラ猫は大層怒っていた。大事な神壊の嫡子を、世話になっている烏丸の幼子と

共に浚われた事で。

 自分達が襲撃を受けていると、既に手遅れになった男達が認識したのはこのタイミング。

 鮮やかな奇襲を仕掛けたふたりをこの場所まで運んだのは、砂丘の窪地に身を潜めて翼を休めている、戦闘機のような鋭利

なフォルムの黒い機体だった。

 オブシダンクロウが擁する超低音ステルス航空機、サイレントレイン。戦闘機ハリアーを参考に、秘匿技術を惜しみなく注

ぎ込んで建造された垂直離着陸が可能な黒色の鋼翼。鴉の濡れ羽色に染め上げられた機体は既存のレーダーシステムを掻い潜

り、光学迷彩機能によって身を隠す。この翼がジープ群の追撃にあたっていたギョウブとトライチを拾い、現地へ先回りさせ

ていた。

 無論、総帥の許可を得た上でこの隠し玉を投入したリトクは、カーナビの目的地がダミー情報という可能性も考えた。そし

てその可能性を加味してなお、サイレントレインの機動力であれば巻き返しが可能と判断し、実行に移している。

 操縦桿を握るのは信頼できる総帥の側近、秘書とボディーガードを兼ねるゴリラ。間違いが起こる確率を可能な限り排した

布陣からの一手は、ギョウブとトライチをトモエとフウの元に送り届け、ダンダラ残党の喉下に刃を突きつけた。

 六人目の男がトライチに飛び掛られる。抱えた自動小銃は、しかし火を吹かない。

「あ!何…」

 男が指の違和感に気付く。トリガーに掛かった状態から指を引く事ができなかった。人差し指がピンと伸びてトリガーガー

ドを内から弾き、その一瞬のまごつきが致命的な遅延を生む。

 天邪鬼。それがトライチの能力名。視認範囲内の相手の「意図している動作」を一瞬だけ「反転」させる力…効果を受けた

者の体が「意図と真逆の動作を行なってしまう」という能力。かつては射程も短く、一度使えば再使用まで時間を要する使い

勝手の悪い能力だったが、現在の最大有効射程は98メートルまで伸び、使用間隔一時間十一分にまで縮んでいる。

 稼いだ一瞬でトライチには充分。伸びながら逆手に握った刃を一閃すれば、発砲が間に合わなかった男の喉が派手に鮮血を

しぶかせる。

(フン…。リトクもそうだが、トライチも随分やるようになった)

 チラリと横目を向けたギョウブは、眷属達にも劣らない働きをするようになった片腕を評価する。

「くそっ!ここまで来て!」

 七人目が自動小銃を乱射する。連続する発光に照らされた隻腕の狸とキジトラ猫に鉛玉が浴びせかけられて…。

「術中ですか?」

「当然よ」

 明後日の方向に銃を連射する男を眺めるトライチに、長ドスを鞘に収めながらギョウブが応じる。半狂乱で発砲を続ける男

の首に、後ろから太い右腕が回り、コキュッと捻って気絶させた。情報源確保である。

「お嬢ちゃんとフウは車か?」

「そのようです。ワタシが…」

 トライチが先に立って車に歩み寄ろうとしたその時…、

「動くな!」

 ジープの片方が後部ドアを開け、中に残っていた最後の一人が声を上げる。抱えた銃が向けられた先には…。

「フウ君!トモエちゃん!」

 声を上げたトライチが立ち止まり、ギョウブもそれに倣う。

 ジープ後部で抱き合う白い熊の子と人間の女の子。自動小銃の銃口は二人の頭の高さ。男の手は力んでいて、トリガーにか

かった指はちょっとした刺激で引いてしまいそうだった。

 隻腕の狸はドスに手をかける事もなく、静かに口を開く。

「詰みだ。もうどうにもならんぜ、ええ?」

「うるせぇ黙れ!これから言う事をよく聞けよ!?」

 既に男は冷静ではない。半狂乱で要求を叫ぶ。

(天邪鬼は使うべきじゃなかったかな…)

 少々後悔したトライチだが、状況はさほど悪くない。ジープは最初からギョウブの射程圏内。神ン前鳥居で意識を切り離せ

ば即座に子供達の安全を確保できる。

 しかし、隻腕の狸は動かない。より正確には、幻術を仕掛ける準備が整っていたにも関わらず、思い直して行動を止めたと

いった所。

 ギョウブの目は既に要求を並べ立てる男から離れ、銃を突きつけられている熊の子を注視していた。

 フウは、もう震えていなかった。表情が消えたその顔は、幼く、毛色もまた変わってしまっているが、ギョウブに同胞の事

を思い出させた。

(やはり、ライゾウ殿の子って事かよ、ええ?)

 トモエを抱くフウはその目を男の銃と開いたドア、そしてギョウブ達に向けて何かを考えている。好機だと、幼い熊は冷静

に把握していた。

(フウ?)

 トモエは自分の腕にかけられた熊の子の手に目を向ける。モソリと、静かに、ゆっくり、しかし抵抗させない力をこめて、

フウはトモエの体の位置をずらさせ、姿勢を低くさせた。男の目から隠すように。

 普段と雰囲気が違うフウの目を見つめ、頷きかけられたトモエは、そっとその手を取った。

 決意を固めたフウは、繋いだ手に確かな温もりを感じる。暖かくて、生きている。おてんばで、賢くて、元気で、それでい

て優しい。初めて出来た友達の体温。双子の兄と同じように愛おしい脈拍。

 ゆるさない。トモエ。きずつけさせない。ぜったいゆるさない。まもる。かならず。

 駆け巡る思考は断片的で、整っていない。だが、それらは一つの目的に対して纏まった方向性を持つ。

 抱えたこの命を誰にも奪わせない。

 その決意と覚悟が、フウの中で恐怖を真っ白に塗り潰す。

 繋いだトモエの手の感触で後押しされるように勇気が湧いてくる。決意がより固まる。覚悟がより強固になる。

 男はギョウブ達に集中していた。喋っている内にフウがトモエの位置をずらして、万が一にも射線に重ならないよう伏せさ

せている事にも気付いていない。

 男は脅えていて不安定。目を戻した時にトモエの位置が変わっているだけで過剰に反応する可能性は高い。チャンスは、男

が確認のために目を戻す瞬間…。

「早くしろ!ガキを殺されたくなかったら…」

 男の目が戻った。が、大事な方の子供…トモエの姿がフウに隠れて見えなくなっていた。人質として価値が高い方に狙いを

つけられない。

「この!」

 カッとなった男の脳を思考が高速で巡る。邪魔をするな。熊の方は無価値。女の子だけ居ればいい。どうせ連れて歩くのも

邪魔になる。

 殺してもいい。そうすれば見せしめにもなる。

 男の力む指がトリガーを引き絞る。

 トモエを護るように抱えて、フウはグッと身を堅くする。

 銃声が響いた瞬間、カメラのストロボが発光するような、強烈な光が奔った。

「!?」

 閃光に飲まれた男は声も上げられなかった。が、発砲する瞬間の光景だけは目に焼きついた。

 白い子供の熊、その体が青白く発光していた。エナジーコート、という単語を思い出したが、その時はもう遅かった。

 それは、フウの父、ライゾウが纏った燐光とは似ても似つかぬ物だった。

 それは、兄やかつての自分、歴代の神壊が纏った物とは異なる色だった。

 その身が帯びたのは、絶望と失意でその身を染め直した白と呼応したように、冴え冴えと輝く真冬の満月のような、白く、

青く、鋭く、美しくも冷たい燐光。

 抱き締めたトモエもろともにフウを覆った白光の表面は、鉛玉が接触するなり小規模自己崩壊を起こし、着弾点から逆向き

に、反応装甲のように弾けた。しかしその反発力は単に衝撃を軽減するだけではなく、銃弾を分解しつつ外側に向かって炸裂

していた。

 撃った男はひとたまりもなかった。至近距離で指向性対車両地雷が炸裂したような物である。銃弾が質量分解されたエネル

ギーと力場の崩壊熱と衝撃を合わせて浴びせられ、向けていた面の衣類も皮膚も瞬時に燃焼させられ、ジープ後部の側面もろ

とも吹き飛んでいる。

「フウ君!?」

 突然の爆光から腕で目を護りつつ、トライチが声を上げた。しかし、ジープ後部を破壊した爆発から弾き出された白い塊は、

砂地をしばらくゴロゴロと転がってから止まり、荒い息をつきながら身を起こす。その体を覆っていた青白い燐光はサッと霧

散して、光の粒子になってしばし周囲を漂った。

 抱えられていたトモエも、彼女を体の下に庇う格好で上体を上げたフウも、無傷である。

「フウ君!トモエちゃん!ふたりとも無事!?」

 駆け寄るトライチを見送り、焼け焦げた塊になって弱々しく手足を蠢かせている男を見遣ったギョウブは、難しい顔で瞼を

半分降ろした。

 フウが纏ったその力場は、反応が通常の操光術による防御と異なっていた。衝撃に対する反応は確かに基本現象の一つだが、

その反応の性質自体が異常だった。青白い力場はその強度で鉛玉を弾いたり破壊したりしたのではなく、接触して来た鉛玉に

対して攻撃的な反応を示し、分解して生じたエネルギーまで巻き込んで噴射している。

 特筆すべきは、弾丸が瞬時に分解された着弾点。その一点において生じていた現象は、神壊の操光術…対象を高エネルギー

で抉るように分解する絶対破壊の拳に酷似している。

 過剰なまでの防御反応。

 苛烈なまでの迎撃性能。

 彼の父、ライゾウが振るった拳と酷似した性質が防衛に転化されたそれは、指向性地雷型反応装甲とでも言うべきか。

 単純に進化と呼ぶことが躊躇われるその変化は、父から技を習っておらず、戦闘訓練も受けず、戦う術を知らなかったフウ

が、その本能に根ざして引き起こした「新化」と言える。

(力場を纏う事はできていた。が、訓練も受けずに自力で編み出した…いや、変質させた…。やはりフウも神壊の血が濃い…)

 大人しい性格故に兄ほどは目立たなかったが、フウもまた神壊の直系。ライゾウと同じ神将殺しの血を色濃く受け継いでい

る。性格に難がないからという理由だけで安易に里子に出さなかったのは正解だった。

「…っ!…!…!!!」

 声も出せずに砂上でもがく男をギョウブは見下ろす。顔も胸も腹も手足も、爆光を浴びた部位は焼け爛れていた。標的の目

標部位だけを抉り消すライゾウの技とは違い、フウが目覚めた防御膜は制御ができていない。過剰防御の余波だけでこの有様。

 抱えたひとりは護れる。が、もしも周囲に仲間が居たなら大惨事になるだろう。

 介錯してやろうと、ギョウブが長ドスの柄に手をかけたその時、男の頭部が撃ち抜かれ、大きな痙攣一つを最後に沈黙する。

(ガイゼか。良い仕事をしやがる) 

 隻腕の狸が目を向けた先には、砂上に伏せた狙撃者の姿。駐機しているサイレントレインから少し離れた位置、砂上に伏せ

たゴリラが構えたライフルが、マズルから硝煙を吹き流している。

 ガキョンッと音を立ててボルトを前後させ、次弾を装填したゴリラだが、念を入れるまでもない。一射で見事に頭部を撃ち

抜き即死させていた。

 ギョウブとトライチが落ち着き払っていたのは、幻術でどうこうできるというのもあったが、この狙撃というカードが伏せ

られていたからでもある。

「怪我はない?トモエちゃんも大丈夫?」

 屈み込んで無事を確認するトライチに、トモエは「うん、だいじょうぶよ」と気丈に応じた。

 一方フウは、痛いほど激しく心臓が鳴っている胸に手を当てて、フゥフゥと息を整えていた。

 問題ないとトライチから頷きかけられるなり、ギョウブはゴリラに向かって片手を上げ、ハンドサインでふたりの無事を告

げる。

 ゴリラが通信を始めた様子を確認して目を戻したギョウブは、トモエが立ち上がり、周辺を見回している事に気付いた。

 明かりのない夜の砂丘。暗闇の中で倒れた影。それらを一つ一つ確認するトモエの表情は堅い。

 自分達の救出に伴う犠牲である事…つまり自分達の無事と引き換えに奪った命である事を、幼い女の子は理解していた。

(この歳で、か…)

 大したものだとギョウブは素直に感心した。幼くともあの総帥の孫。生まれながらに烏丸の子。

 あるいは、彼女の両親の代を経て、その次の総帥は婿などではなく、トモエ本人の方が適しているかもしれないとギョウブ

は考えた。

 親の次になるので、女当主となる頃には中年以上の歳になっている事だろう。おそらく婿を貰い、子供も居るような歳に…。

 その頃でも恐らくリトクは健在。フウも同じ年頃。里子に出した隠れ里の末裔達もきっと…。

 遠い年月の先を想い、軽く頭を振って今に意識を戻したギョウブは、トモエとフウの方へ歩み寄った。

 そして、臨時司令部に人質奪還成功の報告が齎されて…。



 サイレントレインは座席が二つしかない。来る時はトライチとギョウブが後部席へギュウギュウに詰まって乗り込んだが、

流石にそこへ子供をふたり加える訳にも行かない。
ゴリラに頼んで子供達ふたりを先に運ばせる事にしたギョウブは、垂直に

浮上してゆく無音の機影をトライチと共に見送った。

「戻ってからも大忙しだぜ。ええ?」

 ゴリラが残して行った携帯食料…フルーツ&チーズ味の焼き菓子風カロリーバーを齧り、水で流し込む合間に、ギョウブは

傍らのトライチに念を押す。

「はい!…それにしても…、この携帯食、美味しいですね…」

「ああ…。何やらモソモソして口の中が乾くが、味は上々だ」

 死体に囲まれてなお平然と食事を摂り、次に備えるふたりは、気絶させて捕虜にした男と自分達を別の足が回収に来るのを

待つ。
少しの間会話が途切れた後、潮際に耳を傾けていたトライチは、

「「フウガ」…か…」

 ギョウブの小さな呟きを聞いて、「はい?」と目を向ける。

「風の牙と書いてフウガ…。ライゾウ殿から聞いていた、フウが元服する折に与えるはずだった名だ」

 神壊家は代々、子供の頃は幼名で過ごす。忌み名の願掛けと称し、病や死が大事な子と見て奪ってゆかぬようにと、生まれ

た赤子にはあえて雑な一文字の名が与えられる。

 神壊風(くまがいふう)。父親は双子の片方をそう名付けた。片割れに元気で劣り、そのくせ泣き止まない双子の弟を、吹

き止まない風のようだと称して。

 だが後に、この子が大きく育ち、無事に元服を迎えたならば、どうか護るべき者を護れず涙するような男にはなって欲しく

ない。護るべき時だけでも良い、成すべき時だけでも良い、どうか突き立てる牙を備えた男になって欲しい。…ライゾウはそ

う願いを込めて、元服の折に与える名を決めていた。

「…フウガ…」

 トライチは口の中でその名を転がす。勇ましい字面に、「風雅」にも通じる雅な響きの名だと感じた。フウが元服した暁に

は、ライゾウが遺したその名をギョウブが代わって告げるのだろう。

 だが、ランはどうなのだろうかと疑問に思ったトライチは、ギョウブに訊いてみる。

「ラン君の元服後の名前も聞いていたんですか?」

「ああ、聞いとった…」

 隻腕の狸は半眼になって黒い水平線を見据えた。

 八方手を尽くして探したがラン達は見つからず、しかし帝側でも逆神の生き残りを討ったという話は上がっていないらしい。

生きていると思いたいが、しかし過度に期待をかける事も、目立つような探し方もできないのが現実。

(生きとるのかラン?ええ…?)

 神壊嵐(くまがいらん)。双子の弟とは対照的に、赤子の時点で力も強く活発で、少しも目を離せなかった兄の方を、小さ

な嵐のようだと称して父親はそう名付けた。

 生きているのか死んでいるのかも定かではないが、もしもまだ生きているなら、そして元服まで生き続けたなら、自分はど

うやって、ライゾウから聞いていた元服後の名を伝えればいいのだろう。

 夜闇の潮騒は、立ち尽くすギョウブに故郷の樹海を思い出させた。




 約四十分後。捕虜は駆けつけた輸送部隊がトラックのコンテナに収容し、ただちに叩き起こして拷問が開始された。

 聞き出せた情報によると、ダンダラの残党は「オブシダンクロウの総帥の縁者を連れてくれば、国外脱出の手助けをする」

と話を持ちかけられていたらしい。かつてダンダラの後ろ盾をしていた組織…エルダーバスティオンからである。

 分家の邸宅からレリック類を奪って引き上げた側も、迎撃に遭って死体になった者からダンダラの身分証が回収されていた。

オブシダンクロウは別働隊と見て行方を探り始めていたが、しかし新たな情報で困惑する事になった。

 分家邸宅への襲撃については何も知らないと捕虜は言った。両脚を爪先から足首まで生ハムのように薄くスライスされてゆ

きながらの訴えだったので、どうやらこれは本当らしいと尋問役も認めた。

 それが事実ならば、まんまとレリックを盗んで逃げおおせた分家襲撃側は、ダンダラに偽装した別の集団という事になる。

本家への襲撃とタイミングが合っていた事から、そちら側がダンダラの動向を把握していた事は確実。

 だが結局、元々レリックのカラスによるロックオンと追跡ができていなかった上に、トモエとフウの安全確保が最優先となっ

たため、分家を襲撃した側はオブシダンクロウも追跡できなかった。

 そして、慌しい夜が明けて…。




 一週間後。

 羽織袴の正装に身を固めたギョウブが、広い玄関ホールを抜けて廊下の一本に入ると…。

「どうでしたか?」

 補修が進む烏丸本家の邸宅内、総帥と共に分家の見舞いを終えて戻って来たギョウブに、トライチが尋ねた。

「立派な物だ。リトクも、弟も、妹もな…」

 損害が大きかった分家の屋敷は、一度解体して建て直す事になった。生存者は僅か八名。ミノリと、エミと、ミノリが救出

して脱出させた使用人六名だけ。実働部隊が出払っていた代償は大きかった。

 分家は当主が代替わりした。これからはリトクが亡き父に代わって幹部会の一席を埋める事になる。

 総帥にあつらえて貰った礼服を纏うギョウブは、歩きながら左を固めたトライチに問う。

「フウはどうしとるんだ?」

「今は休憩中だと思います。正午まではタツヨリさんから操光術の基礎を教えられていました」

 フウは進んでタツヨリに教えを乞うた。自分の能力を知り、制御し、活かすために。

 フウが纏った青白い燐光は、あの一時限りの物ではなかった。発生させる力場があの色で固定されてしまっていた。

 父のライゾウが纏う燐光も、出力の向上に伴い赤銅色に変化する質を有していたが、どうやらフウの力場にも似た形質が受

け継がれていたようで、基本性質の変化に伴って色が変わってしまったらしい。

 同じエナジーコート能力者であるタツヨリは、フウの青白い燐光が持つ新たな性質を「爆薬」と称した。力場としての防御

性能や応用力はそのままに、任意、あるいは力場が破壊されるような衝撃に反応してその部位だけを起爆させる、爆薬のよう

な性質が加わっている、と。

 あの夜に起きた反応爆発は、傍にいる味方にまで被害を及ぼすという事を、フウは自覚していた。父が絶対破壊の拳を制御

していたように、自分も制御しなければならないと、熊の子は誰に言われる事もなく考えた。

「熱心だな」

「変わるだけの出来事だったんです。子供でも…」

 トライチはずっと昔の事を思い出す。使い物にならないと称されていた元服前の自分は、ギョウブの言葉で変わった。

 弱々しいと思っていたフウも、危機に晒され、トモエを守ったあの夜を経て、変化が始まったのだと思う。

「お嬢ちゃんは?」

「お昼からはフウ君と一緒に居ます」

「そうか…」

 ギョウブは難しい顔をしている。劇的な変化を遂げたフウ。しかしそれは、本当に「彼自身による変化」だったのだろうか?

そんな疑問が頭の隅に居座っている。

(案外、お嬢ちゃんが影響しとるのかもしれんな…)

 未だ正体を知らないトモエの能力。どういった物なのかはともかく、彼女の存在がフウの変化を後押ししたのではないかと、

ギョウブは考えていた。

「とにもかくにも、まだまだ気は抜けん。タスケは本人も希望しとるからあっちに置いておくが、明日にはカンゲツとサブロ

ウタをこっちに戻してヌシとノブミツに分家の警護に入って貰う。ワシはこっちをそうそう空けられんからな、抜かるんじゃ

ねぇぜ、ええ?」

 とりあえず急場は凌いだが警戒は解けない。葬り屋は手薄になった分家側に精鋭をあてがって、防衛に当たらせている。

「はい!それは勿論!」

 応じたトライチは生真面目に続ける。

「こっちを大将が固めてらっしゃるなら、安心して打って出られます!」

 自分達はいずれひっそりと消え去るが、里子に出した者達は太平の世に生きてゆく。

 フウも然り。大手を振って太陽の下を歩けなくとも、生きているというただそれだけで、神壊が滅びていない事実となる。

 烏丸と共に生きる事になるフウ。その居場所は守らなければならない。

 潮騒は絶えない。絶やしはしない。

 靡く羽織りの左袖側に控えながら、トライチは未来に想いを馳せた。


「あのね。わたしおもうの」

 外に出る事を禁じられたトモエは、子供部屋のフカフカした絨毯に座り込んで口を開いた。

 向き合って座る白い熊の子は、オヤツ時の間食としては相当量が多いクッキーを、上品に、しかし休まず口に運んで咀嚼し

ている。

 操光術の訓練を受けるようになってから、フウは食事の量が増えた。あの青白い燐光は通常のエナジーコートの単純な上位

互換などではなく、消耗が異常に高いという欠点を抱えた亜種。カロリーを蓄えておかないと、使用時間が短くなるどころか、

短時間の展開維持で倒れてしまう代物だった。

 加えて、体を鍛える事にも熱心になったので、成長しようとする細胞が栄養を欲している。お抱えコックが作る上質な素材

に拘ったバタークッキーは、フウの疲労回復にも成長の為のカロリー補填にも欠かせない物となっている。

 トモエはクッキー一つを少しずつ食べながら、言葉を話せない白い友人に語りかける。

「フウはとってもつよいの。たぶん、ふつうのおとなたちよりもずっと」

 返事をしないまま、しかしフウはトモエの顔を見つめる。そんな自覚は無い、というような表情だった。

「あなたは、らんぼうなことはきらいだけれど、らんぼうなことをだれよりもやりやすいの。ふしぎよね。ふしぎで、いじわ

るだわ」

 トモエは口を尖らせた。フウは大人しくて穏やかで臆病だった。なのにあんな強烈極まりない力を身に宿していた。あの力

に助けられたとは思うのだが、それでもトモエは納得が行かない。

 何故フウなのだろう?何故気が優しいフウにあんな怖い力が与えられたのだろう?神様がそうしたならば意地悪過ぎる、と。

 フウは無言のまま小さく首を横に振って、トモエの手を取った。

「おこってないの?かなしくないの?フウはあんなのいらなかったんでしょう?」

 フウは質問の一つ一つに繰り返し頷いた。確かに「怖い力」だと思う。だがそれだけではないと子熊は感じている。

 父も母も兄も居なくなった。けれど、この友達になってくれた娘だけは居なくならないで欲しい。幸せに楽しく笑って過ご

して欲しい。そのために役立ったなら、この怖い力にも意味が、価値が、確かにあったのだと思える。

 フウはトモエの手を引いて、キュッと優しく抱き締めた。

 いつも手を引いてくれる。いつも言いたい事を察してくれる。そんなトモエに、せめて年上の自分は、してあげられる事を

してあげたい。いざという時は護ってあげたい。

 トモエが好き。

 ただしそれは恋ではない。友達より近く、恋人とも違う少女に向けるその親愛の情は、「兄妹愛」とも呼べる物だった。

「うん。あぶなくなったら、またたすけてくれるのね?」

 抱き合う格好で白熊が頷くと、トモエはくすぐったそうに目を細めた。そして、「そうだわ!」と思いついた様子で身を離

し、フウの目を近くから見つめる。

「おじいさまもリトクにいさまも、おじさまたちのことを、「はぶりや」ってよんでるのよね。どういうことばかわからない

けど、なんだか「トクベツ」よね?きっと」

 確かそうだった、とフウも頷く。やはり言葉の意味は判らないのだが。

「だったらね?わたしはフウのこと、「まもりや」ってよぶわ。まもってくれるひとだもの。ね?」

 白熊の口が動いた。

 ま。も。り。や。

 声は出なかったが、フウの口は確かにそう動いて、トモエは満足げに「そうよ!まもりや!」と頷いた。



 それから何年も経って、フウがすっかり大きくなって、立派な大人になって、潮騒絶えない島に身を置くようになる頃…。

この時トモエが口にした言葉は、フウの元服後の名に並べられ、烏丸の関係者内で使われる事となる。

 烏丸の最終防衛線。「護り屋、神壊風牙(くまがいふうが)」と…。











「うん。うん。いいわよそれで、全部任せるから」

 ホテルの一室で、少女は内線電話機に向かってそう話す。

 再度の襲撃に備えて、エミとミノリはそれぞれ別のホテルに移動させられていた。一日おきにホテルを移る移動生活は、そ

う簡単には突き止められはしない。はずだが…。

「興味があったのは指輪だけ、他は好きにして貰っていいわ」

 エミはテーブルの上で指輪を一つ転がしながら笑う。分家を襲撃した部隊から、ミノリと合流する前に受け取っていた、「

レディスノウの指輪」と呼ばれるレリックを。

 エルダーバスティオンに情報を提供したのはエミだった。ダンダラとの抗争中、その背後にある組織と個人的に接触してパ

イプを持ったエミは、既に烏丸側に立ってなどいない。欲しかった指輪のために両親すら切り捨てている。

 本家の襲撃もトモエの拉致も、エルダーバスティオンにとって本命ではなかった。ダンダラの残党を使い捨てて本家側を襲

撃させたのは、本当の目的を達し易くするため。彼らが起こした騒ぎを囮にし、同時侵攻で狙った分家側こそが本当の標的で

ある。

 目当ては保管、研究されていたレリック類。そちらを襲撃したダンダラの残党に偽装した部隊は、エルダーバスティオンの

下請けである別の小組織だった。

「うん?「リア・ファル」?それも別にいいわよ、お爺さんにあげる」

 満足げに通話相手と談笑するエミは、身内を切り捨てる事にすら何の痛痒も感じない。そもそも、葬り屋の慰労に合わせて

分家側の襲撃を手引きしたのも、ダンダラの残党を使い捨てにしてトモエを拉致するよう提案したのも、全てエミである。

 ミノリ同様、エミは達するべき目的のために何でも躊躇わず実行できる、揺らがない意思を持つ。ただし兄と違うのは、そ

の「目的」が全てエミ個人にとっての利益であるという点。

 だから、数年後にトモエの両親を売る時も、彼女は全く躊躇わなかった。