OZの移住者(前編)

 星が瞬く眼下を、赤い髪の少年が船べりから見下ろす。

「この航路、ボク初めて乗りました…」

 赤みの強いブロンドヘアが微風にそよぐ。中背だが妙にホッソリした人間の少年は、眼鏡越しの気弱そうな目を果てのない

下方…無限の夜空に向けながら呟いた。

 顔立ちと表情と声が相まって頼りなく見える、十代半ば過ぎの少年に…、

「おやそうでしたか?ああ、まぁ確かに君は得意分野から言っても、あの工房には用事がないでしょうが…。しかしジョバン

ニいけませんよ!図書館と瞑想室にばかりこもっていては?よければ明日にでも中奥島の硝子街にカスタードソフトサンドを

食べに行きましょうか?よしそうしましょう!弟弟子達を息抜きに誘うのも兄弟子の務めですから!」

 応じたのも人間、船尾に立ってオールを握っている黒髪の若い男。スラリとした均整が取れた体型で整った顔をしているが、

陽気な口調と雰囲気のせいで非常に軽く見えた。

 永遠の夜がそこにある。

 星々が瞬き、月が輝く、何処までも果てなく夜空が広がる空間。無数に浮遊する大小様々な岩と、その上に建造物が乗った

奇妙な光景。

 イマジナリーストラクチャー…異層とでも言うべき空間に存在する、研究都市OZ。存在座標がずれた領域。

 街を乗せた大岩から、一軒家の庭程度の広さしかない岩までの、何もない空中に見えるそこを、ふたりが乗った小船がゆっ

たりと進んでいる。

 ゲンエイが握るオールは虚空を掻くが、それでも水上を進むのと変わらない要領で船は進む。ここでは浮遊岩同士が不可視

のルート…帯状の航路で繋げられており、船はそこに満ちるエネルギーの流れに浮くようにできている。オールもまたそのエ

ネルギーに干渉するように造られ、見た目は原始的ながらも肉体的な労力を殆ど使用しないで移動できる。航路のエネルギー

は例えば磁力のように目には見えず、手で触れる事も肌で感知する事もできないが、反応する物を介せば抵抗が感じられる物。

 そんな航路を小舟で行くふたりは、サイズこそ違うが同じデザインになっているチョコレート色のローブを着用している。

左胸には「a」を描く月桂樹の模様が刺繍されているが、これはアグリッパ一門である印。

 アグリッパ一門は師と同じ、頭から被るタイプのフード付きローブを制服とする。それらは一見すれば何の変哲もない衣に

見えるが、実際には多重防護機能が付与されたアグリパ自身の手による術具。術の実験や術具の検証などで事故が生じても着

用者を保護するよう、危険を感知して自動で選択された術が発動するそれは、制服であると同時に作業用防護服でもあった。

 ジョバンニも他の門下生が破損したグリモアの構造解析中に、自己消滅用に仕掛けられた起爆トラップに引っかかった現場

に居合わせたが、その際にはローブが風の障壁で門下生を護り、同時に発動させた水を精製する術で即座に消火を行なう様を

目撃している。

 程なく船が接岸したのは、ログハウス調の小屋が一棟建つ小さな浮き島。先に下りたジョバンニは舳先の杭に一度触れた手

を、桟橋の係留柱に当てた。反応らしい反応は何もないが、これで小船は桟橋に吸い付けられ、ロープなども必要なく固定さ

れる。

 オールを小船に置いてヒラリと桟橋に降り立ったゲンエイは、ジョバンニを引き連れて小屋に向かう。木製のドアの前に立

ち、ノブを掴んだ青年は、自動認証でロックが解除されると…。

「ヤクモ!先生!夕食の時間ですよ!」

 勢い良く開けて中に駆け込んだ。

 ハッと振り向いたのはムックリ太った和犬。しかしテーブルについてドアに背を向けていた少年は反応が遅れ、椅子に座っ

たまま後ろから抱きつかれてしまう。

「根をつめ過ぎてはいけませんよ?おや?毛並みがだいぶ悪くなっていますね」

 背もたれごと抱き締めたゲンエイの手が肉付きのいい顎下に入ると、秋田犬の少年は赤面しながら「す、済みません…!」

と声を嗄らす。

「これゲンエイや、作業中作業中。大事な仕上げの最中じゃ」

 青年を諌めたのは、秋田犬と向き合う格好でテーブルを挟んで座していた、白髪白髭の恰幅がいい人間の老人。

「おや失礼しました」

 と言いはしたものの、ゲンエイの右手は秋田犬の豊満な腹をローブ越しに、左手は耳を倒した頭を、それぞれ撫でるのをや

めない。手元の邪魔にならないならば作業に差支えがないだろうという考えである。

 兄弟子の過剰なスキンシップで困り顔をカッカさせながら、少年はテーブルに取り落とした小さな宝石の玉を摘み、筒状に

加工した石の端にはめ込んだ。

「丁度組み立て中でしたか!いいタイミングですね。ほらほらジョバンニ、近くで見なさい!完成するところですよ!」

 呼ばれた赤髪の少年は、ゲンエイと秋田犬の後ろからテーブルを覗く。そこでは、一本のスクロールが今まさに組み上げら

れようとしていた。

「本当に一ヶ月で完成しちゃった…」

 思わず呟いたジョバンニに、ゲンエイも「三ヶ月と見ていましたが、いやはや本当に優秀です!」と満足げに応じる。

 秋田犬は兄弟子に撫で回されながら、石筒の両端に宝玉を嵌め込み、それを芯にした巻物を組み上げた。

「できました…!」

 様々な角度から眺めて歪みが無い事を確認すると、秋田犬は巻物をテーブルに置いてホッと息をつく。それは、少年が元々

使用していた巻物型の形から外れないまま、汎用性を重視して機能を拡張した物と言える。

 手に取ったアグリッパが広げると、巻物は無地。しかし…。

「あ…。文字が…」

 ジョバンニが見ている先で、アグリッパのコントロール下に入った巻物が発光する文字を浮かび上がらせる。

 それは、本来一本に一つの術しか込められない巻物型術具に、芯に別種の軸としてグリモアを搭載する事で機能を拡張した

品。両端に嵌め込まれた宝玉は思念波を蓄積する機能を持つ。

 石の芯に巻かれた無地の布はモニター。そこに投射する術式を納めた芯はソフト。配置された宝玉はバッテリー。

 予め芯に仕込んだ術を選択して展開する機能を持ち、かつ思念波強度が低い者でも扱えるよう配慮された巻物は、異なる大

系の術式と技術を融合したハイブリットスクロール。

「ふむ…。心地良いフィードバックじゃ。どれ…」

 老人はテーブル上に置いてあった一掴みサイズの木片を取り上げると、30センチほどしか引き出していないスクロールの

発光する文字を見つめる。直後、老人の手の上で木片が浮き上がり、その表面をサリサリと削られて滑らかに変えてゆく。

「空気圧縮による吹き付けヤスリ、といった所かの。では…」

 アグリッパが目を細めると、スクロールの文字が変化して別の術を展開する。今度は風圧で浮いていた木片がチリチリと音

を立て、乾燥し始めた。

「ドライヤー。ほっほっ!これは便利!」

 楽しげに笑うアグリッパ。秋田犬は恐縮している様子で首を縮める。

「試作とは言ってもせっかく造るんですし、作業に欲しい機能を集めました。本当は十得ナイフみたいに多機能にしたかった

んですけど…」

 浮かない表情の秋田犬に、アグリッパは小さく顎を引く。

「気付いたかの?」

「はい。巻物がスクリーンになる…この機能のせいで思念波伝達が阻害されてますよね?先生みたいに思念波強度が高いひと

は使えますが、そうでないと…」

「うむ。期待値ほどの効果は出んじゃろう」

 初起動で秋田犬は悟った。芯にした石材と術士の手の間に入る形になる布地が、思念波の伝達に抵抗を生じさせてしまって

いる事に。術式を投影してその場で構築する機能を持たせた弊害だと、製作者である少年は即座に解に辿り着く。

「…発想を変えます。宝玉側に術式を仕込んでスイッチにする…、芯のグリモアに思念波蓄積機能を持たせる事ができれば…」

「ふむ。それも面白い。仕込める術は減るが、思念波蓄積容量は向上するじゃろう」

 このやりとりを聞いていたジョバンニは、目を大きくしていた。

(すごい…!)

 アグリッパの後継者候補として集められた歳若い術士達の中で、秋田犬は一際異彩を放っている。

 術比べであれば上を行く者が多数居る。術の実践利用という面であれば、高弟のゲンエイがトップである事は揺ぎ無い。秋

田犬は思念波強度もさほど高くない上に、扱える術もあまり強力ではないので、おそらく中の下といったところだろう。

 だが秋田犬は、他の術士とは目線もアプローチも大きく異なる。

(「八雲」というこの子の名前には、「幾重にも折り重なった雲」という意味があるそうじゃが…)

 アグリッパは好々爺の笑みを浮かべ、長い顎鬚をしごいた。

 技術の融和による刷新。それこそが、アグリッパがヤクモから見い出した可能性。外から吹き込んだ新しい風。

 多くの術士は、自分が属する術大系から離れようとせず、例え複数学ぶ機会があったとしても主とする大系を規準に序列を

つける。誇りから拘泥する者、慣れから拘る者、理由は様々だが、その価値基準が研究や技術発展の妨げになる事は、もはや

大半の術士であれば避けられない。

 しかしヤクモには拘りが無い。元々戦う為の手段として、実用第一で術を継承してきた板前家には、自らが継いできた物を

価値ある継承術式とする見方がそもそも無い。だから異なる術大系に属する様々な品や技術を、先入観に囚われず体感し、解

析し、理解し、応用する。

 プライドが無いのか?と眉を顰める術士もあるが、ヤクモにはそもそも彼らの不快さが理解できない。活用できる物や相互

補完で進歩する物がゴマンとあり、しかも自由に研究と実験と作成ができるこの環境で、何故自前の流派や技術大系に拘って

選択を狭めるのか?そう不思議に感じるほどである。

 一方で、ゲンエイはヤクモの在り方を面白がった。

 彼の術具開発には、必要とされる思念波強度のハードルを下げる事も目標の一つとして織り込まれている。術士個人の資質

ではなく、多くの者が使え、利便性と汎用性と安全性を兼ね備えた、便利で身近な道具としての在り方を求めている。

 術士と術具を貶めるものとして、ヤクモの研究と製作を快く思わない者もあるが、ゲンエイにはこれが面白い。何千年も引

き継がれて研鑽してきた術大系、その既得権益に座して見下す古い血統…。これを外から迎えられた少年が、OZの常識外で

ある彼の常識をもって揺さぶる構図はなかなか痛快だ、と。

 兄から本格的な術の指導も受けられないまま、預けられた先で風水を学んだジョバンニもまた、術の大系に対しての拘りが

無い。だから忌避する気持ちなど当然皆無で、ただただヤクモが打ち出す新機軸と発想力、丁寧な仕事に感心させられる。

 アグリッパは、そもそも新しい血を入れるために広く門弟を求めたのだから、秋田犬が持つ価値観を歓迎こそすれ、否定な

どしない。手広く取り込んで学ぼうとする姿勢も、区別せずあらゆる体系の術式を活用しようとする考え方も、期待以上の柔

軟性だと喜んでいる。

「さてそれはそれとして…。先生、ヤクモ、食事の時間です」

 ヤクモから離した手をパンパンと打ち、ゲンエイはローブの左袖に右手を突っ込むと、ズルリと銀色の大皿を取り出す。

 取り出されてテーブルにドンと置かれたドーム型カバーつきの大皿は、袖に入っていればそうと判るサイズ。直前までは確

かにそこには無かった。しかもゲンエイはヤクモに触れたり手を上げ下げしたりもしていたので、もしも入っていたとしても

中身がゴチャゴチャになっているはずなのだが…。

「稲火亭のラムステーキと添え物のセット、フィッシュ&ポテトフライとムニエル、胡桃入りバゲットとクリームシチューで

す。先生にはエール酒も」

 次々と袖から料理を取り出して並べてゆくゲンエイ。器具や術具があってもおかまいなしなので、ヤクモとジョバンニは慌

てて卓上の物を除ける。

 ゲンエイは袖の中に小型のイマジナリーストラクチャー…異層空間とでも呼ぶべきスペースを作り、そこに料理を収納して

きていた。これはローブ自体に標準機能として刻まれた術式による物だが、起動と維持が難しく、アグリッパなどの各派指導

者や各門派の高弟達、そして各種機関の責任者達を除けば、この芸当ができるのは数名だけである。

「ふんむ。キミらも食事はまだかね?」

 量を見て訊ねたアグリッパに「ええまだですとも」と応じたゲンエイは、ヤクモの右側で椅子を引いてジョバンニに座るよ

う促し、自らは反対側の席につき、四角いテーブルを四人で囲む格好に落ち着く。

「ではヤクモや。せっかく持ってきて貰ったんじゃから、今日の作業はここまでにして、食事にしようかね」

「はい。有り難うございます、ゲンエイさん」

 ヤクモが耳を倒して済まなそうに礼を言うと、

「可愛い弟弟子のため!そしてついでに尊敬する先生のため。食事の手配など苦にもなりません!ああ、シャワーを浴びたら

出かけましょう。頑張ったらご褒美です。甘いもので疲れを癒し、次に備えてたっぷり休まなければ!先ほどカスタードソフ

トサンドを食べに行こうとジョバンニを誘ったところです。行きましょう是非行きましょう!」

「えぇと…、はい…」

 曖昧に笑い返すヤクモ。そしてひとりだけがやたら饒舌な食事が始まる。

 潤沢な材料と資料、万全な研究環境、膨大な先人の知識、理解ある師、理解ある兄弟子、理解ある学友…。

 ヤクモにとってここは、想像し得る限り最良の研鑽環境だった。




 今回の術具開発研究に関する一通りの作業が終わって、報告を纏めて提出し、やっと一段落して資料類を返却してきた秋田

犬が螺旋階段を登る。

 反対側まで50メートルはある広大な吹き抜けを巡り、一抱えほどもある石が煉瓦のように積まれた内壁を這って、何処ま

でも続くように見える階段を。

 そこはアグリッパ派が居住区画としている浮き岩に建つ、塔の内部。とはいえ、外から見た塔は確かに大きいが、直径20

メートルも無い。外観と実際の内部スペースが矛盾しているのは、空間が折り畳まれているせいである。

 長い階段はしかし、肥っているヤクモにも苦にならない。階段の上は重力が調整されており、体が軽くなっている。

 吹き抜けの上端も底も見えない階段を登り続けたヤクモは、やがて変わった所も見えない場所で立ち止まると、おもむろに

壁へ手をのばす。

 そこに、ノブがあった。前から存在していたように、木製のドアも。

 塔の内壁と外壁の隙間に収納され、使われる時だけ展開される、折り畳まれた部屋。OZにはこういった不思議なスペース

もありふれている。
ヤクモがドアを潜って後ろ手に閉じるなり、部屋の入り口は壁面に戻って消え、螺旋階段は無人となった。

 正面の壁に「八雲立つ」と記された掛け軸が掲げられた、石壁の部屋。

「ただいま…」

 誰に言うでもなく呟いたヤクモは、のったりした歩みで部屋中央の木製テーブルに向かうと、椅子を引いて腰を下ろす。

 体重を預けられた背もたれが軋む。静寂が満ちる部屋の壁は棚で埋まり、大量の書物や術具、そしてその材料類が詰め込ま

れていた。

 銀の水差しに手を伸ばし、触れた手に吸い付くような冷たくも滑らかな感触を味わいながら、出しっぱなしになっていたグ

ラスに水を注ぐと、ヤクモは一息にそれを飲み干した。OZでは精霊銀すらも珍しい物ではない。むしろ思念波を蓄積する性

質を買われ、様々な術式を刻まれて積極的に利活用されている。ヤクモの水差しにも中身の温度を変化させない術が刻まれて

おり、しかもその効果はほぼ永続している。

 銀の水差しには、疲れでぼんやりしている秋田犬の顔が、上下に引き延ばされて映り込んでいた。

 OZに移り住んで以降、研究と勉強に没頭する日々が続いている。熱心に。夢中に。

 それは、郷愁に囚われないよう河祖群での思い出を振り払うためであると同時に、もう一つの理由による物だとヤクモは自

覚している。

(私は、何も知らない…)

 ちょくちょく、手や頭を休めた際にその思いが首をもたげる。

 ここに来てヤクモは己の無知を知った。

 元から御役目のための手札として術を継承してきた板前家は、自分達が受け継ぐ術の範囲内でのみ実践的技法は探求してき

た。他にやってきた事といえば、より質の良い巻物を造る手法の練磨程度。「術」という物が、「術士」というものが、どう

いった経緯で発生した物なのかという根源的な物への知識は勿論、疑問すら持ち合わせていなかった。

(私は、本当にまだまだ何も解っていない…。知らない事ばかりなんだ…)

 知識に対して、もっと貪欲でありたいと思う。この小世界の環境も含めて、物を知らない自分を変えて行きたいと思う。

 イマジナリーストラクチャー、研究都市OZ。現実の座標からズレた位置に存在する秘境。ここでは太古から術士達が日々

術の研究を行なっている。

 この小世界は環境自体が外と異なり、球体状の広大な空間が閉じて、外周が逆側と繋がったループ構造になっている。瞬く

無数の星々も、巡りながら満ち欠けする月も実物ではなく、常夜の国の灯りとして「表示」されているに過ぎない。

 その造られた環境が、人々の住まう無数の浮き島を内包している。湖を湛えた島。山を頂く島。街を乗せた島。一軒家がポ

ツンと佇む島…。大小様々な島々に息衝く動植物も、半数近くが外の世界とは違う。

 最も多い動物は羊。乳や肉などを取るほか、衣類の素材として毛も重宝されるので、牧畜が行なわれている。海は無いが淡

水に生息する魚介類は取れるので、魚や貝も主な食料。穀物は小麦とジャガイモなどが外の世界と同じで、主食はパン。羊乳

でチーズやバターなどの乳製品も作られている。

 果実類や昆虫類は大幅に異なり、外の世界でありふれた果物やハチミツが貴重品だったりもする。なお、島の外周には羽が

生えた猫がうろついており、場所によっては野良猫がたむろするのどかな港町のようになっている。

 そんなOZに住む術士達の本来の目的は、ヤクモが師から知った一端によれば、術の研究そのものではなく…。




「端的に言うと、じゃ」

 肉汁したたるハンバーグを丁寧に切りながらアグリッパが言ったのは、ヤクモが一通りの説明を聞き終えた翌日…OZに来

て三日目の事だった。

 常夜であるOZには昼夜の概念が無いので、食事はそれぞれの都合と時間にあわせた形になる。そんな環境に入ったばかり

で、まだ不慣れな新入り達は困っているだろうと、門下生を迎え入れた大術士は順番にふたりきりの時間を作って食事しなが

ら、「自分達」のそもそもの目的について新入り各々に説明していた。

 その日はヤクモの番で、食べたい物を訊かれて戸惑い、OZにどんな料理があるのかまだ判らない秋田犬が「ハンバーグと

かはあるんでしょうか?」と応じたところ、アグリッパは肉料理が豊富なこの酒場に、落ち着いて話せる個室をとった。

「OZはかつて、この世界を管理しとった存在が造った「小世界」の一つじゃ。隔離空間ともシェルターとも言えるが、こう

いった異層の小世界は世界中にいくつか存在しとる。ワタシは入郷した事はないがキミの国にもふたつほどあるという話じゃ

ったな?確かタカマガハラとヨモツヒラサカじゃったか」

 少し身を乗り出して耳を傾けるヤクモに、アグリッパはざっくばらんに噛み砕いて説明した。

 OZの術と世界中に散らばる全ての術。その継承された大元…発祥まで辿ると、かつての世界…旧文明まで遡る事になる。

「まずその辺りから順に説明してゆこうか」と、師はヤクモに前置きしていた。

 大術士は語る。かつて世界に人類は存在せず、動植物だけが在った。その世界を高次存在が管理し、世界の運行は安定して

いた。この高次存在を「ワールドセーバー」と呼ぶ。自分達から見れば神に等しい存在だが、彼ら彼女らの弁によれば全知全

能の神ではないらしい、と。

 何にせよ、そのワールドセーバー管理下の世界に異常が生じたのは、「人間」の発生がきっかけだった。

 知性を持ち、異常な早さで進歩し、自己保存のため、快適性と利便性のため、環境を激変させてゆく「人間」を、ワールド

セーバーの半数が新たな生命の在り方として受け入れ、残りの半数が危険視した。

「この頃の「人間」は現行の人間とは別物と考えるべきじゃ。「レリックヒューマン」。身体能力、思念波強度、学習能力…、

まぁ基本性能からして違っとる。そして…」

 ワールドセーバー達は長年議論を続けたが、「人間」による文明の発展と、それに伴う環境の激変がいよいよ不可逆に及ぶ

に至り、二派に分裂した。

 片や、「人間」を生命の頂点とし、このなりゆきを見守るべきと主張する派閥。

 片や、「人間」を環境改悪の要因とみなし、強制排除するべきと主張する派閥。

 そして後者は「人間」を駆除するため、ワールドセーバーと獣を合成したような生物兵器…「獣人」を生み出した。「人間」

を屠るだけの力を備えた強靭なそれらは、「横並びの世界のワールドセーバー」に似せて造られたというのがOZでの定説に

なっている。

 対して前者は「人間」を護るため、自分達が扱う技術や能力を縮小及び劣化させた超技術を与え、様々は異形の生物を護衛

につけ、「獣人」達に対抗させた。これがレリックや危険生物、能力者や秘匿技術、そして今日まで続く術大系の起源である。

 やがて彼らの生存戦争兼ワールドセーバーの代理戦争は、地上の生命全てを巻き込み、最終的にはワールドセーバー同士の

全面戦争に発展した。

 旧文明は滅び、旧人類の歴史は終焉を迎えた。「人間」がほぼ絶滅するという結果をもって。

「結果として、ワールドセーバーの二派はほぼ共倒れになったらしい。「人間」も「獣人」も僅かにしか残らなんだ。そして

「人間」を護ろうとしたワールドセーバー達は、大戦末期には能力的にも機能的にも劣るものの、繁殖能力に優れた新たな人

間…つまり「今の人間」を作り出しとった。戦争が終わり、ワールドセーバーの僅かな生き残りが世界の管理から手を引くと、

残った僅かな旧人類…「人間」と「獣人」は、新たな人間と共存する道を選んだ少数を除き、ワールドセーバーが拵えたイマ

ジナリーストラクチャーに退去するなり、隔離して封じられるなりした。…OZの最初の住人は、この時に退去した旧人類…

旧文明当時の「人間」や「獣人」じゃった」

 ヤクモは頷く。が、しかし…。

「はい。えぇと。…?」

 情報が完全に理解の外なので頷くしかなかっただけで、師の話が解っている訳ではない。

「退去と…、隔離…?」

「ワールドセーバーの提案に乗って、世界の行く末を新人類に任せると決めた者達は「退去」じゃな。しかしそれを良しとせ

ず、新人類の世を認めぬのは勿論、戦争の続行を望んだので強制的な隔離を行なわれた者達もあった。彼らが封じられたイマ

ジナリーストラクチャーは「閉じ」とるからのぉ、ワタシらもどんな小世界にどう暮らしとるのかは判らん。そして基本的に、

何らかの手段で現世と行き来できるイマジナリーストラクチャーの住民達は、世界は現行人類の手に委ねられた物として干渉

は控えとる。そっちはそっちでやってくれぃ、というスタンスじゃな。OZは比較的オープンな方じゃが、これは探求や観察

のため。例外的なモンじゃよ」

「………………」

 ヤクモの沈黙は長い。難しかったと悟った師は大きく顎を引いた。

「ふんむ…。まぁそこらはボチボチ、ふんわり理解して貰えば良い。とりあえず現行人類は大戦後に生まれた新しい人間と、

生き残った獣人と、極々少数の「人間」の子孫であるとだけ覚えて貰おうかの。世代が進み血が薄まり、だいぶ種としての変

化が進んどるが…、それでもワタシやキミらの中には当時の血が引き継がれとる。…ああそうそう、旧人類の「人間」の事は

「レリックヒューマン」と便宜上呼称しとるが、「獣人」は「古種」と呼称される。キミの保護者で主人でもあったウォーマ

イスター・クマシロなどは、その血を濃く残した血統じゃな」

 これはヤクモにも理解し易かった。ユウヒをはじめとする「先祖返り」と称される存在…、その「先祖」が何を意味するの

かという解を得たような気分である。

「で、ワタシらOZの術士が何をしとるのかと言うとじゃな…。当時このイマジナリーストラクチャーを造ったワールドセー

バーの御業…、その技術と現象を解き明かす事を最終目標としとる」

 曰く、OZに退去した旧人類達は「他にする事がなかった」ので、自分達を取り巻くこのイマジナリーストラクチャーを解

析研究するという生き甲斐を設けた。

 しかし永い時をかけ、流入した新人類との混血も進み、できたのは現在の術大系。アグリッパは言う。自分達の研究は結局

「ひとの技」の域を未だに出られていないのだと。

 自然に起こり得る現象。人為的に起こせる現象。理論上は起こる現象…。術士が組み上げ自力で運用できるようになった術

の大半は、科学によって解析できる現象までしか起こせない。OZの中でという条件付きであれば、予めワールドセーバーが

この小世界に焼き付けている法則を変化させる格好で活用もできるが、それも空間の折り畳みや展開などに限られ、当初の設

計意図から外れるまでは行かない。真の意味でひとの理を超えられた術などほんの一握りだった。

「判ったじゃろう?ワタシの代でもひとはそこには至れんじゃろう。じゃからワタシはキミらに託す。これは果ての見えない、

地平線の向こうまで広がる無色のジグソーパズルを組んで行くような物じゃ。何百年後か、何千年後か、何万年後か…、ワタ

シらが組んだ先をずっと未来の誰かが完成させる事を夢見て、今日もこつこつと研究を続けとる」

 終わりの見えない、はるか彼方へ至る探求。それがOZの術士達の最終目標。これを聞いたヤクモは、やや緊張しながら師

に尋ねた。

「それを解き明かして…、何をするんですか…?」

「ふんむ?」

 少し身構えているヤクモに、アグリッパは答えた。「いや何も?」と。

 解き明かし、理解する事が目的。それを利用してどうこうしようとは思ってもいない。その過程で得られる物で知識の拡大

や技術の発展は享受するが、最大の目的は「ただの目的」であり、解明できたからどうのという、いわゆる次のステップに当

たる目標は無いのだという。

「世界の支配者になろう、とか…、そういう風な目標は立てなかったんですか?」

「いや?面倒臭いじゃろう世界の支配なんて。研究の時間がとれなくなるわい。そもそも支配される事なんぞ誰も望んどらん

じゃろうし」

 老人は肩を竦める。アプローチの仕方や研究の進め方、手法などに大きな違いはあるものの、これは各派閥共通の認識だと

アグリッパは語った。

「しかしキミが言う事は判らんでもない。超越者たるワールドセーバーの力、その一端を手に入れられたなら活用したくなるじ

ゃろうという仮定はの。しかしじゃ、「世界を好きにできる力」が手に入ったなら、もう「世界の支配」になど興味は無くな

るじゃろうな」

 そういうものだろうか?とヤクモは半信半疑だったが、「思うがままにできる事に熱心に執着する事は、OZの術士には難

しいんじゃ」とアグリッパは言う。

「研究、実験、開拓、発展…。こつこつと重ねて進むのが性分じゃからのぉ。例えばキミが、アリンコを自在にコントロール

する力を得たとして、アリンコ達の巣作り観察に遣り甲斐を感じられるじゃろうか?」

「あ。それは…、たぶん見てても虚しいだけじゃないかと思います」

 イメージできたヤクモにアグリッパは頷き、「しかしまぁ…」と瞼を半分降ろした。

「かつて、ワールドセーバーになろうとした男がOZを訪れた事もある」

 ヤクモの眉が上がる。OZの外の人物であれば、やはりそういう事も考えるだろう、と。

「具体的には、「カミサマになるにはどうすればいい?」と、抽象的な質問を投げかけられた」

「え?カミサマ…ですか?」

「うんむ。酷く憔悴した顔で、失望と諦観に塗れ、それでなお一縷の望みに縋るような…、そんな表情をよく覚えとるよ」

 秋田犬は首を傾げて繰り返した。「カミサマ…」と。

「多くは語らなかったがのぉ、アレはおそらく、ワールドセーバーになる…超越者の力を得る事すら、何かを成す為の手段な

のじゃろう」

「どんな術士だったんですか?」

「術士…ではないのぉ。いや、術士、能力者、研究者、医者…、如何なる肩書きも彼の本質を一言に表す事はできまいて。能

力者ではある。術士にもなれる。研究者であろう。そして医者でもある。…が、そのどれかという在り方に収まらん。アレは

おそらく、新旧含めて人類史上最高の天才じゃったろう。そんな男が藁にも縋る思いでカミサマになりたいと言いおった。ど

んな事情があったのか、もはや知る事も叶わぬが…」

「何というひとだったんですか?」

 自分が名を知っている人物ではないだろうと思いながらも尋ねたヤクモに、アグリッパは顎鬚をしごきながら応じた。

「「ミーミル・ヴェカティーニ」…。かつては「ファンタジスタ」とかいう役職じゃったとか…」

「ファンタジスタ!?」

 ヤクモは腰を浮かせ気味にして身を乗り出した。

 ファンタジスタ。欧州の一国を守護する防衛の要、ユニバーサルステージクラスに分類される国付きの能力者…その代々の

役職名。ヤクモの母国で言う神将に該当する立場の存在である。

「もっとも、OZに来た時は既に出奔しておってな。「フィンブルの雪」の一角…つまりフィンブルヴェトの最高責任者のひ

とりじゃった。ん?どの程度までならキミも知っとるかな…。フィンブルヴェトには六花に例えて六部門にひとりずつ最高責

任者がおったんじゃが…。ありゃ?まずフィンブルヴェトが判らんかな?」

 そこから先の師の話は、ヤクモには予備知識が足りずに理解し損ねる事が多かった。

 十数年も経った後、師から聞かされた様々な話は、世界を渡り歩くヤクモにとって大きな助けとなるのだが、今は誰も知る

由もなく…。




「!」

 カクンッと首が落ちて、ヤクモは椅子をガタリと鳴らしながら頭を起こした。

 椅子についたまま居眠りしてしまった秋田犬は、空になったグラスを見つめ、水差しに手を伸ばす。

 術具の製作中は神経が昂って集中していたので、いま一つ自覚できていなかったが、どうやらだいぶ疲れていたらしい。喉

を潤してから眠ろうと、グラスを煽って空にしてから、その場で寝るためにモゾモゾと机に突っ伏した秋田犬は…。

「おやおやヤクモ、いけませんね」

 突然背後からかかった声でガバッと身を起こし、目を見開いた。

 寝ぼけて幻聴を聞いたのかと一瞬思ったが、振り返ればそこに、軽い雰囲気の優男が立っている。

「ゲンエイさん…!?」

 制服ではなく普段着である濃緑のチュニックにタイトなジーンズ姿のゲンエイは、取っ手に右腕を通して吊るしていたバス

ケットを上げて見せた。中には小ぶりなパンと、瓶入りのミルクが入っている。

「休むのは結構ですとも!ええ、休むべきですきっちりと。しかしそうやって机で寝るのは感心できません。癖なんですか?

作業中ずっとそうしてきたんでしょう?寝床で休むべきです!しかしまずはこれを召し上がってください。入眠に最適な成分

バリバリ調整済み羊乳とチーズパンです」

「あ…。有り難うございます…」

 礼を言ってからヤクモはハッとして腰を上げ、兄弟子に椅子を勧めた。

 各々の部屋は基本的に無許可侵入は不可能な個人空間だが、アグリッパや高弟の一部は緊急時のために部屋主の承諾なしに

入室が可能となっている。特にゲンエイはこの特権を十二分に活用してフラリと前触れもなく現れるので、弟弟子達はプライ

バシーの侵害と隣り合わせの生活を強いられる。

 なお、これは「新入りの監視」というような大層な物でもオフィシャルな物でもない。ゲンエイの純然たる暇潰しと興味と

気紛れによる訪問である。

「苺のジャムもありますよ。パンも物足りない量でしょうが、これは一種の入眠補助薬ですから、食べて飲んだらゆっくり休

むように。…やや?」

 ゲンエイは椅子につかないままテーブルにバスケットの中身を出すと、ヤクモに目を向けるなりつかつかと歩み寄った。そ

して遠慮なく顎下…首と顎の境目に手を入れる。

「まだ身を清めていませんね?」

「あ、済みません…!戻ってすぐ居眠りしてしまって…」

 毛並みが悪くなっているヤクモの、羞恥と申し訳なさが滲んだ顔に、ゲンエイは笑みを向けた。

「では起きてからでもいいでしょう。ヤクモ、熱心さは先生も認めるところですが、過ぎるきらいがあるのは頂けませんね。

我々がしているのはマラソンです。短距離走ではありませんよ?」

「は、はい…!」

 度々同じ注意を受けているヤクモは、兄弟子の苦言に恐縮する。

「判ればよろしい!なかなか改めることができなくとも、とりあえず理解できているなら結構です!」

 顔を熱くさせるヤクモの首から手を引くと、ゲンエイはその背後に回って、椅子につくよう背を押して促す。

「ではお腹も撫でてあげましょう!さ、ヤクモは食事を。済んだら休むように」

 座ったヤクモの後ろから、ゲンエイは脇腹越しに手を伸ばして抱え、豊満な腹をローブの上からサワサワ撫でる。

 頬を赤らめつつも、しかしヤクモは思う。

 このスキンシップは自分に限った事ではない。ジョバンニなど赤髪がグシャグシャになるほど撫でられるし、他の弟弟子も

同じように接されている。自分に対してこうした接し方をするのは、「犬は首や腹を撫でられると喜ぶ」という考えに基く物。

猫科の弟弟子の場合は喉を撫でられている。だから、兄弟子は決して自分だけ特別視している訳ではないのだと…。

 そんな事を考えつつ、兄弟子が持ち込んだ小さなパンを甘味が濃い羊乳で流し込むヤクモは、「おや、今日はブレ月ですね」

という声を聞き、いつの間にか窓辺に寄って外を覗いていたゲンエイに目を向ける。

 壁にポッカリあいたアーチ型の窓には戸が無い。誰かが使用しない限りは折り畳まれており、物理的に存在していない状態

になっているので、そもそも開閉の必要が無いので。

 急いでパンを飲み下して立ち上がったヤクモは、兄弟子と並んで外を覗いた。

「本当だ…。ブレて見える…」

 永遠の夜に浮かぶ月は、プリズムを通したように複数に見えた。蒸散した思念波と、ゲートから入った海霧の濃度が高い時

にだけ見られる現象だと聞いていたが、ヤクモが実際に見るのはこれが初めてである。

(本当に、違う世界で暮らしているんだ…)

 度々自覚する、OZの常識と自分の常識の距離。

 何も知らない自分を知った、異郷での新生活…。

 不安は徐々に和らぎ、少しずつ環境に慣れてゆく秋田犬は一時眠気を忘れて、兄弟子と一緒に不思議な月を見上げ続けた。