OZの移住者(中編)

「ヤクモこれ、ここの所の記述だけど…」

「うん?どれ?」

 テーブルを挟んで身を乗り出した赤髪の少年は、上下逆さにした本を秋田犬に見せながら指差した。

 そこは術の実験で成長をコントロールされた蔦がカーテンのように下がり、本来つけるはずのない林檎のような実から清涼

感のある香りを漂わせるフロア。アグリッパ派の図書室の中の一画である。

 普段は折り畳まれている読書用個室を開いて自由に使えるここで、ヤクモとジョバンニは借りた書物を開いていた。

「「カットした宝石の反射を活用した立体的術紋構築については…」って」

「あ!本当だ!」

 秋田犬が身を乗り出す。術具の開発に行き詰まりかけた秋田犬は、同門の学友から「読んだ本のどれかに触れてあった」と

助け舟を出されていた。ジョバンニが言うとおり、そこでは宝石に術式を込める手法の一つについて触れてあり、参考となる

文献や技術継承者が記されている。

「でも、「ウチの図書室」にはこの文献ないみたいなんだ。何処にあるのかな?」

「う~ん…。先輩に聞いてみる、とか?」

 目当ての記述を見つけたふたりは席を立ち、個室を出てドアを閉める。無人になった部屋は「閉じ」て、元通り何も無い石

壁に戻った。

 そのまま持ち回りの史書係が居るカウンターに歩み寄ると、ヤクモは「先輩、済みません」と声をかける。

「目当ての記述は見つかったのかい?ヤクモ、ジョバンニ」

 読んでいた本から目を上げて応じたのはエメラルドグリーンのトカゲ。二十代半ばの女性で、ゲンエイと同じアグリッパ派

の高弟のひとり。

「はい。でも今度はそれの参考文献が必要になって…。先輩は何を読んでいたんですか?」

 さぞ難解な術の書物を読んでいるのだろうと、ジョバンニが訊くと…。

「漫画」

 トカゲはニマニマしながら読みかけのページをふたりに見せた。そこでは赤い服を着込んだサイボーグがロボットと戦闘を

行なっている。

「ヤクモの生まれ故郷のさ」

「え?ヤクモの?」

 意表を突かれたジョバンニが間の抜けた声を漏らす。一方ヤクモはリアクションするどころではなく、無言でどんぐり眼。

「いやいや、いつの時代も娯楽創作は舐めてられないんだなコレが。外の世界には外の世界の発想がある。OZの中では思い

つきもしない物が娯楽の中で語られる。いや、人類の発想と空想の翼は偉大な物だよ。この漫画で主人公が使う超加速…、思

考と行動を加速させるっていうのはアタシ達から見たって有効な物さ。もっとも術で実演できるのは運動性の加速ぐらいで、

思考の加速っていうのはおいそれとできる物じゃない。何でか判るかな?はいジョバンニ」

「え!?えぇと、思考だから…、脳に負担…とかが?」

 突然振られて驚きながらも、思いついた答えを口にした赤毛の少年に、トカゲは「正解」と満足そうに頷き、腕を組んだ。

「その通りさ。だから思考の加速っていうのは難しい。リミッターを解除できる一部の獣人は運動性能の上昇に伴って反応速

度も上がるけどね、それもせいぜい1.数倍から2倍程度の物だ。それでも脳への負担が持続時間っていう枷を作ってる。こ

の漫画みたいに一瞬で何十秒分もの動きができる加速となると、身体への負荷が無視できないのは勿論、脳が情報を処理でき

なくなる。それこそ人為的な補強を施した体にでもなければ身がもたない。となると負荷からの脳と肉体の保護や情報処理の

補助が必要になるんだけれども…。はい、何かなヤクモ?」

「神おろ…いや、オーバードライブで運動性がさらに上がるひと達はどうなんでしょう?エナジーコートなどで補強できる方

は例外として、生身のままの方もいらっしゃいますけど…」

「おや。オーバードライブを知ってるのかい?感心感心」

 トカゲは弟弟子の博識ぶりを喜んで目を細める。

「オーバードライブ中の現象に関しては、何せ研究対象が少ないから未知の部分も多い。ただ一つ言えるのは、アレは「旧人

類が大戦争で用いていた決戦機動のスペック」だ。ワールドセーバー直々に付与された特殊な現象が発生している事も多い。

実は、オーバードライブ中に音速を超える加速が可能だった個体というのもこれまでに二名確認されてるらしいんだけど…、

驚くべき事に実質的に音速で動きながらもその速度に対応でき、しかも運動負荷で肉体が損傷する事も、摩擦熱で衣類が燃え

る事もなかったそうだ。その速さで花びらを散らさないままコスモスを摘めたっていうんだからもう訳判んないよねハハハ!

原理はさっぱりだ!」

 オーバードライブという物が何なのかぼんやりとしか判らないので、首を傾げるジョバンニ。一方、思案するヤクモは重ね

て先輩に疑問を投げかける。

「OZの術士に、思考を加速できたひとは居ないんですか?」

「いい質問だねヤクモ」

 トカゲは目を細くする。楽しそうな様子で。

「答えは、「居た」けど「術じゃない」だ」

「え?居た?」

「そうとも。十何代か前…千年ほど前のグレートメイガス、当時の「エリファス」がそうだった。ただしそれはエリファス師

特有の能力による物でね。術じゃないから継承も出来なかったし、その仕組みを術に落とし込んで応用する事もできなかった

そうだよ」

「能力?思考を加速する能力…ですか?」

 ヤクモの問いに、トカゲは「端的に言えば」ねと応じる。

「脳や神経をそういった状態にもできるっていう能力だったらしいね。一代限りの能力で、一種の特異体質のような物だから、

そこから先の子孫にも受け継がれなかったんだ。昔、短期間だけOZに滞在してた先生の客もそういった事ができたけど…」

 トカゲは「おっと。長話になった」と目を大きくすると、軽く舌を出してウインクした。

「いけないいけない。それで、どんな文献が必要かな?」

「あ。えぇとですね…」

 ジョバンニが暗記したタイトルを口にすると、トカゲは「第二種重要資料だね」と顎を引いた。

「それなら中央書院に置いてあるよ。原本は持ち出し禁止だけど立体画像で貸し出ししてくれる。これからすぐ行くなら準備し

ててくれるように連絡入れておこうか?」

「あ!そうして貰えるなら助かります!」

 先輩の親切に感謝して、申し出に飛びついたジョバンニだったが、

「…今の話の、OZに滞在していた先生のお客さんって…、「ミーミル・ヴェカティーニ」っていうひとですか?」

 ヤクモの問いに対し、「おや、知ってるのかい?」とトカゲは目を丸くした。

「先生から少しだけ話を聞いていました。それと…」

 秋田犬は先輩の話に混じった情報を整理する。別の件であるように錯覚しそうだが、否定する材料は一つもない。

「実質的に音速で動けたっていうふたりの片方も、そのひとだったんですか?」

「!?」

 トカゲが目を見開く。ヤクモは先輩も知らなかったのだと確信しながら、自分の仮定はおそらく当たっていると感じた。

 OZに来てからミーミル・ヴェカティーニという人物の話をちょくちょく耳にした。だが、断片的な情報を元に組み合わせ

ても、人物像がさっぱり見えてこない。

 曰く、医者であったとも研究者であったとも、思考の加速ができたとも音速で動けたとも、電磁波による治療ができたとも

手を触れずに物を動かせたとも…。

 知れば知るほど判らなくなる。その能力と特性の本質がどこにあるのか…、どんな人物だったのか…。

(「カミサマになりたかったひと」、か…)

 顎を引いたヤクモは、本題に戻って資料貸し出しの手続きを頼み、ジョバンニと共に図書室を後にした。



 見渡す限りの広大な「夜空」。宇宙空間かと錯覚するOZの領域を小船がゆく。

 船尾に立ってオールを操るヤクモの手付きは、だいぶ慣れを感じさせた。櫂であり舵でもあるオールにはさほど労力が必要

ない。航路の流れに挿して軽く角度を調節する以外は、スピードを上げたいときに掻くだけでいい。

 船首側に座るジョバンニは無限の星空に浮かぶ大きな浮き島…徐々に拡大するその威容の一角を指差し、「右側の桟橋に空

きが多いよ」と声をかけた。

「ありがとう。じゃあそっちに…」

 少し進路を変えるヤクモには、まだ桟橋の詳細は確認できない。ジョバンニはかつて学んだ風水の応用で気脈を読み、目標

地点の「有」と「無」…小船に絞った存在密度を感知して教えていた。

 不可視で触れられないが、航路は地面や水面と一緒だというのがジョバンニの説。浮き島のように物質で構成されてはいな

いものの、気脈は地面同様に流れていて、辿る事は難しくない…どころか読み易いぐらいなのだという。

 それはつまり、不純物が無いせいだろうとヤクモは仮定している。

 彼が読む気脈は、通常は何らかの物質の中にある状態である。つまり地面の下や水中などといった具合に。しかしこの航路

は探知を妨げる土も水も無い。故にほぼ剥き出しの状態で気脈を探知できるのではないかと秋田犬は推測した。

(航路を利用すれば、物質越しでの探知よりも精度が上がって有効距離も伸びる…。ジョバンニが学んだ風水の技術を使えば、

航路自体を利用して浮き島間の連絡や伝達の手段を作れるかも…)

 河祖郡に居た頃と違って他の事を考えなくてもよくなったせいか、ヤクモの中では以前と比べ物にならないほど知識への欲

求や物事への探究心が強まっている。それが熱心さとして表出してもいるのだが…。

 しばしあって、桟橋に小船を着けたふたりは、石畳の歩道を並んで歩み、石段を登って広場に出る。

 その浮き島はかなり大きく、直径1キロメートルを超えていた。星空を背にして、無数の尖塔が重なり合って壁のように聳

える大きな浮き島は、図書館と資料庫が集まった重要区画。全ての建物が内部に空間を折り畳んでおり、見た目の数十倍の許

容量を誇る。

 研究された術の資料だけではない。貴重な遺物や旧世界の歴史に触れる資料もあるそこは、正しく知の宝庫と言えて、OZ

の存在を知り、同時によからぬ事を企む輩に度々狙われてきた。ただし、その企みが一度として成功した試しはなく、OZが

外圧に屈した事は一度も無い。

 そんな智の宝庫ではあるが、OZの民になったとはいえ新入りのヤクモ達が閲覧できる物には限りがある。貯蔵された貴重

品類は重要度によって区分されており、立場や功績によって閲覧可能な区分は異なる。

 まず、誰でも資料そのものを物理的に持ち出せる「第三種」。これらはOZの民であれば誰でも借りられる。

 次いで、原本などは持ち出せないが立体映像として写しを借り出せる「第二種」。ヤクモ達のような普通の門弟が閲覧でき

る範囲はここまで。

 「第一種」は各学派の高弟以上や中立な学会幹部のみが触れられる持ち出し禁止の貴重品で、自然環境を改変できるほどの

術の仕組みまで含まれる。

 そして、「第零種」とされる六十二冊の書物…代々の学派長などが記した手記などを含む品々に至っては、一門の長でなけ

れば目にできない。このクラスになると大陸一つをどうこうできるレベルの術まで載っている。

 さらに希少、あるいは危険な物については「禁種」と呼ばれ、各学派の長過半数の承諾に加え、それぞれの品の専属保管責

任者である史書長達などの許可がなければ、空間隔離を解かれないしくみになっている。

「第二種ってことは、結構たくさんのひとが目にできる資料のはずだよね?」

 ジョバンニの問いに頷いたヤクモは、

「だったら、読んで判らなかったら兄弟子達に訊いて、いろいろ意見を貰えるかも」

 そんな少年の意見で口元を綻ばせた。

 ジョバンニは行き詰るとすぐにひとを頼る。それを自己努力が足りないと咎める兄弟子も居るが、頼む事やお願いする事を

躊躇わない彼の性格は、研究探求学習において時に有効に働くとヤクモは思う。確かに、門下生全員が「次のアグリッパ」を

目指すライバル同士という見方をするならば、ジョバンニの姿勢は敵を頼り敵に情報を与える行為にもなるのだろうが…。

(別に、先生の後を継げるとか、そういう事は思っていないから…)

 ヤクモも、そしてジョバンニも、継承については重要視していない。外の世界では触れられなかった知識に夢中で、研究と

学習に夢中になる毎日で満たされている。

 次のアグリッパになるという一応の目標を除き、現実的な線でジョバンニが考えている将来像は、立派な術士になって兄に

認めて貰う事。

 一方ヤクモはというと、具体的なビジョンが特に無い。目先の知識とやりたい事に集中している状態で、数年後どんな自分

になっているかなど想像もしていない。

「あ」

 唐突に声を漏らしたジョバンニが足を止めたのは、目的の図書館に向かう途中、通路がやや細くなった場所での事だった。

 建物の背面や脇にあたる煉瓦壁が向き合ったそこを、ジョバンニは嫌そうな顔で見つめる。

「…大丈夫だよ」

 周囲を見回してからヤクモはそう言った。「今日は誰も居ない」と。

「だったら良いけど…。今日はゲンエイさんも居ないし…」

 ジョバンニは顔を曇らせたまま、少し前の事を思い出した。



「では目当ての調べも終わったところで息抜きと行きましょう!イチゴのカスタードソフトサンドが美味しい店があります。

サンドは嫌いですか?嫌いではありませんね?では行きましょう!」

 その日、図書館で目的の資料を閲覧してから戻る途中で、いつものように話をあまり聞かない兄弟子に連れられたふたりは、

桟橋までの歩道を歩いていた。

 ゲンエイが言うカスタードソフトサンドとはOZの一般的な菓子で、果汁入りクリームをパンで挟んだ焼き菓子。店ごとに

フレーバーが異なる。

 大きさはサンドイッチだがパンはクッキーとの中間の食感で、外側のサクッとした食感や果汁入りカスタードクリームの味

わいなどはマカロンに近い。これの苺版を最初に食べた時にヤクモが気に入った様子を見せて以降、ゲンエイは事あるごとに

弟弟子達に食べさせようとする。

 なお、ジョバンニは苺があまり好きではないのだが、いつも兄弟子の作る流れに翻弄されっぱなしでなかなか言い出せない。

本当はバナナ味かバニラ味がいい。ただしカスタードソフトサンド自体は嫌いでなく、むしろ好きなので同行を拒みはしない。

 なお、カスタードハードサンドという物もある。味は同じなのだがこちらは固くなったフランスパンのような食感。人間に

は歯応えが厳しく、顎が丈夫なヤクモでも食べるのに時間がかかる品。「何で存在してるんでしょうねははははは!」とは弟

弟子達に食べさせた張本人ゲンエイの弁。

「ゲンエイさん。他に食べた事が無い味のは何があるんでしょう?」

 同期生に気を利かせたヤクモが尋ね…、

「値段が二倍以上になりますが、オレンジがありますね」

『二倍以上!?』

 ゲンエイの答えでジョバンニともども目を大きくした。

 OZは外界と環境が異なる常夜の国。この環境でも育つ固有種の苺や林檎などはあるが、外界で言うオレンジに相当する果

物は無い。レモンの一種はあるのだが酸味が強く、くさみ消しや香り付け、入浴剤や香水などに使われるだけ。他の柑橘類も

似たり寄ったりで、食すのに向いた甘い柑橘類は一切存在しないのである。

 外の世界にはない旧時代からの固有種も多い一方で、OZで育たない作物が材料になる物は高値になってしまう。よって、

ヤクモやジョバンニが慣れ親しんでいたありふれた物も、数割が貴重品だったり驚くほど高値だったりした。

 もっとも、アグリッパの話によれば何処の異層領域構造も似たような物で、独特な生態系になっているイマジナリーストラ

クチャーばかりだという。外の世界と比較的似ているのは「桃源郷」というところぐらいの物だが、そこも四季が存在しない

常春という異常さ。常夜であるOZや、冬以外の季節がないニブルヘイムなど、異層領域構造には昼夜や季節の変化がない所

が多い。

 例外として、健在なワールドセーバーが直接統治しているイマジナリーストラクチャーなどは、こまめな管理と手入れで外

界同様の細かな環境変化が再現されているらしいが。

「柚子やハチミツよりはマシかな…」

「だね…。ボク、パンケーキにハチミツをかけるのが難しいところに住むなんて思ってもみなかった…」

「そもそも蜂が居ないですからねOZ。はっはっはっ!」

 なお、OZでの通貨は精霊銀ベースの合金コインである。とはいえコインその物を流通させる経済システムではなく、コイ

ンに記録された貨幣価値的な数値をコイン間でやり取りするという物。一種のクレジットカード決済に近く、多くの者はだい

たい2~3枚所持している。

 ちなみに、ヤクモやジョバンニなどの生徒達には学徒報奨という名目で学派から日当が支給されている他、研究の手伝いな

どでも賃金が出ており、生活に困る事はない。OZでは学ぶ事自体も誉れある労働行為であるため、苦学生という概念が存在

しないのである。

 少しぐらいの贅沢は…、と兄弟子の提案に乗って間食する事を決めたふたりは、しかしそれから数歩も進まない所で歩調を

緩めざるを得なくなった。

 細くなった路地。その向こうから歩いてきたローブ姿の十数名が、三名の行く手を阻むように通路を埋める。

 足を止めたゲンエイの後ろで、ヤクモとジョバンニも立ち止まる。

 一団は学徒階級である事を示すローブを纏っている。しかしデザインはヤクモ達の物とは異なり、群青色でフードが無く、

前をボタンで留めるタイプ。襟や袖、裾などに黒いラインが入っている点も異なっていた。

 左胸の印は月桂樹が象った「b」。それは彼らの学派を示しており…。

「ベザレル一門の学徒達ですよ」

 ゲンエイは小声で後輩達に告げる。その間に、通せんぼした一団の中、中央に居た人物が一歩進み出た。

「アグリッパ師が、また「外の血」を入れたらしいな。ゲンエイ」

 口を開いたのは狼。マールブルーとホワイトの毛並みで、双眸は深いサファイアブルー。

 OZの獣人の末裔…旧人類と分類される者達の血を濃く引いた彼は、外の世界では「古種」と呼ばれる。

 その友好的とは到底言えない眼差しを涼しい顔で受け止めながら、ゲンエイは「ええ、ええ、その通りです!」と頷き、後

輩達を手で示す。

「どうかあなた達も歓迎してください!このふたりもその中の二名、「新たな血」です!」

 にこやかに朗らかに述べるゲンエイに、しかしベザレル派は明確な敵意と不快感を滲ませた視線を向け続ける。

「お前達一門は、どこまでOZを濁らせる気だ?」

 狼は憎々しげな表情で、威嚇を込めてジョバンニを、次いでヤクモを睨み付けた。

 赤毛の少年は萎縮して首を縮め、後ずさる。まだ他の学派の事を詳しく知らないが、彼らが外の術士を快く思っていない事

は明白だった。おまけに…。

(圧が…!息苦しい…!思念波強度がボクとは段違いだ…!)

 術士としての素養の差、圧倒的な思念波強度の差を感じ取って体が震え出す。彼らがその気になれば、強力な術で自分を痕

跡も残さず消す事ができると、ジョバンニは肌で感じた。

 一方ヤクモは…。

(殺気…。ううん、そこまでじゃない)

 怖がってはいなかった。おそらく目の前の学徒達は術士として自分より数ステージ上に居るだろうと直感している。思念波

の揺らぎ…、圧からその事実を理解できる。

 だが、怖くはない。御庭番として幾度も命を危機に晒し、死線を潜り抜けてきたヤクモにとって、ただ「力がある」という

だけの存在は怖くはない。

 本当に怖いのは、強固な殺意と明確な生存意思。

 殺すつもりでいる犯罪者は怖い。生きるために何でもする危険生物は怖い。だが、力は持っていても命のやり取りを経験し

ておらず、命を取る気もない学徒達は、ヤクモから見れば「安全な生き物」の範疇である。

「…?」

 狼が眉を顰める。睨みつけているのに、秋田犬が視線にも圧にも反応らしい反応を示さないのが面白くない。

(力の差が判らないほどの節穴か?こんな血までOZに持ち込むとは…)

 腹立たしく感じた狼は…。

「そこのブクブク肥えた犬ッコロは何だ?見所もないそんな木偶の棒まで引き込んで。お前達の師と似たような体型でシンパ

シーでも…」

 その発言は唐突に打ち切られた。カツン…という小さな音とともに。

 狼の足元に、小さな石が放られていた。平たく丸いそれは白い石のおはじきだったが、これを見たベザレル派の学徒達は一

様に顔色を変える。

「先生はともかくとして、弟弟子を侮辱する事は容認できませんね~」

 おはじきを放ったのはゲンエイ。その意味を知らないヤクモとジョバンニは兄弟子の背中を見遣る。場に満ちた緊張の質が

変わった事を、ふたりも感じ取っていた。

「…正気かお前?」

 狼が唸る。

 白い石のチップ…「緊急隔離術式」を地面に置く。それは、OZの術士達の作法による一対一の術比べ…つまり「決闘」の

申し込み。

「僕が要求する勝利報酬は、「彼ら以外も含めた新しい弟弟子達への不当な誹謗や退去要請の禁止」です」

 涼しい顔のゲンエイに、唇を捲り上げて牙を剥き出しにする狼が吼えた。

「受けた!私が勝ったら「他の弟弟子とお前がOZから出て行く事」、良いな!」

「承諾しました。では…」

 ゲンエイが袖に手を入れ、片手で一掴みにできる手帳サイズのグリモアを取り出す。

 狼がローブのポケットから、到底そこに収まっていたサイズには見えないメロン大の水晶玉を掴み出す。

「最低でも5メートル程度は下がっておいてくださいね。結界が展開されます」

 ゲンエイは弟弟子達を振り向いて下がらせ、ベザレル派の学徒も狼を残して5メートルほど後退したのを確認すると、小さ

く何事かを呟いた。

 直後、白いおはじきが発光し、狼とゲンエイを覆って、直径10メートルほどのオーロラのようなカーテンを張り巡らせる。

 それはOZの中でのみ使用できる簡易結界術。OZを構成する理に干渉する事で事象の隔離を行う、ワールドセーバーの奇

跡の部分的活用。OZ内ではありふれた物で、危険な実験を行なう場や、事故の可能性がある工房などでもこの術が活用され、

被害が大きくならないよう緊急安全装置として活躍している。

 オーロラの向こうに相手ともども閉じ込められた兄弟子を、ジョバンニは不安そうに顔を曇らせ、震えながら見守っている。

が、ヤクモは一見するとぼんやりしているようにも見える面持ちで佇んでいた。

 ゲンエイの勝ちだとヤクモは直感した。ゲンエイは勝利報酬を要求した。が、狼は「自分が勝ったら」と述べた。趨勢は、

既に精神状態と物の考え方含めて決まっていた。

「では、始めましょう」

「応!」

 吼えた狼が水晶玉を突き出す。その表面に発光する文字が浮かび上がり、周囲を回転する帯のように動き出す。それと交差

する格好で縦方向にも文字列が現れ…。

(術を二つ同時に!どんな術を…)

 ジョバンニが緊張から唾を飲み下したその直後、ゲンエイの周囲にダイヤ型の立方体が複数、包囲するように出現した。大

気を結晶化する高位の術である。

 さらに、狼が手にした水晶から紫に光る電撃が放射され、立方体に導かれる形で収束、レーザー光のような線となって宙を

駆ける。

 それは一瞬の出来事。立方体の一つに吸い込まれるような形で直進した紫の線は、他の立方体との間に無数のラインを構築

する。綾取りのように。

 その稲妻の線は包囲した対象であるゲンエイの体を、縦横無尽に貫通して感電させた。

「ひっ!?せ、先輩!」

 堪らず悲鳴を上げるジョバンニ。勝ち誇る表情の狼。しかし…。

「やあやあ、お見事!綺麗なショーですね、実に美しい!」

 その声は、狼の背後から聞こえていた。

 慌てて振り向いた狼の眼に映ったのは、キスができそうなほど至近距離にある優男の顔。同時に、乱反射する電光になおも

貫かれ続けているゲンエイの姿が消え、焼け焦げた手帳型のグリモアが地に落ちて砕ける。

 にこやかなゲンエイの手は、ある物を握って狼の水晶玉に突き立てていた。

 それは牙。十五センチほどの長さの大きな獣の牙に、柄をつけてナイフの形状にした術具。ナイフと言っても刃はなく、刀

身は牙その物の形だった。よくみれば、牙の表面にはビッシリと細かな字で術式が刻み込まれている。

 ゲンエイが今回ナイフから起動した術は二つ。一つはナイフそのものの物理的な破壊力を上昇させるための術…具体的には

力をこめなくとも石をゼリーのようにほじくれるようになる固有術。もう一つは、使用者の気配や足音などを隠す隠蔽術。

 そして、電撃に焼かれて砕けたグリモアに仕込まれていたのはまた違う術…。ゲンエイが最初に取り出して見せ、起動する

なりその場に放り捨てたグリモアは主力ではなく、使い捨て前提の簡易術具。ナイフこそが彼の得物だった。

 狼が持つ水晶玉は術の展開を停止し、牙が突き刺さったそこから蜘蛛の巣状にヒビを拡大させ、カシャンッと軽い音を立て

て粉々に砕け散る。

「勝負ありという事でよろしいですね?」

 笑顔を崩さないゲンエイとは対照的に、狼は顔を引き攣らせていた。

 ローブの防御機能があるとはいえ、再起不能の大怪我を負わせる事も躊躇わずに、最良と思われる高等な術を使用した。そ

れに対してゲンエイは、小手先の技とも言える、疲弊もしない術を並べ、見事に出し抜いた。

 術比べとは言っても術の強力さばかりが重要な訳ではない。機転と発想、そして相手を無傷で下す手腕…。ゲンエイの方が

この決闘で優れていた事は、この場の誰もが認めざるを得なかった。

「では、今後弟弟子達に意地悪をしないようお願いします」

 クルリとナイフを持ち変えた手を肩の高さに上げるゲンエイ。手放されたナイフはそのままローブの袖の中にスポンと落ち

て姿を消す。

「それでは皆さん、よい夜を!」

 ゲンエイは手をヒラヒラ振ると、弟弟子達を引き連れて歩き出す。サッと道を空けたベザレル派の学徒達は、薄気味悪そう

にしながら遠巻きになり、三名を見送った。

「…ゲンエイさん。さっきの…」

 ヤクモが小声で尋ねる。あの使い捨て術具…手帳サイズのグリモアについて。

「最初に使った術。あれはどんな物だったんですか?」

「おやおや、あんな物にも気付きますか?」

 感心したように応じたゲンエイは、「あれがアグリッパ一門の基本にして、重要視する術の形態です」と、小さく笑いなが

ら言った。

「思念波残留による存在偽証です。僕は術であの場に痕跡を残して、普通に近付いて、放射タイプの術だったら怖いので念の

為に後ろに回って、…ついでだからビックリさせるよう演出も兼ねて、水晶玉をガチャンッと」

 ゲンエイ曰く、思念波をあの場に残留させ、自身は思念波の放射をカットし、相手の認識をそちらに向けさせたまま行動し

ただけとの事。ゲンエイ自身は透明になった訳でもなく、あそこに幻術の像が出現していた訳でもない。見る者が勝手に、あ

の場にゲンエイが存在していると認識しただけ…。

 そんな事を軽く説明する兄弟子に、ジョバンニは薄ら寒いものを感じた。

(それってつまり…、透明になる必要すらなく、自分の所在と存在を誤認させられるって事なんじゃ…?)

 外の世界でなら、こんな芸当ができるだけで様々な事が可能になる。暗殺。窃盗。逃亡。カウンターとなる術でもなければ、

これが悪事に転用された場合は打つ手がない。その事実にジョバンニは恐怖した。

「すごい…!」

 一方、ヤクモは素直に感心していた。兄弟子の卓越した技能も術も、そして相手を傷付けず、手玉に取るようにして下した

手腕も、秋田犬には美しく見えた。

「私にも、あの術は学べるでしょうか…!?」

「勿論です。君達全員、そう時間をかけずに体得できますとも。何度も言いましたが、思念波の操作こそがアグリッパ一門の

基本にして、最も重要な術形態なんですからね。…まぁ重要視しない学派も多いので、あんなにも簡単に引っかかってくれる

訳ですが…。あっはっはっはっ!やあ愉快愉快!」

 そんな兄弟子は、ジョバンニの「あの…」という、不安げで怖がっているような声を聞いて半面振り向く。

「あの水晶、圧が凄かったんですけど…。相当な術具なんじゃないですか?壊しちゃって、問題にならないんでしょうか…」

「ああ、それは問題ですとも。彼…えぇと…、名前何でしたっけね…?まあいいか」

 ゲンエイは狼の名前を思い出そうとして、やめた。

「術具が壊れた事で、彼はベザレル師から大目玉を食らうでしょうね。何せあれは高弟に貸し与えられる品…、OZが蒐集し

てきた宝の一つですから」

『えええええええっ!?』

 ヤクモとジョバンニが揃って声を上げる。ゲンエイ曰く、各学派はそれぞれが所持する希少な術具を高弟に貸し与え、これ

を認可の証にしているのだと。

「ちなみに僕のはさっきのコレです」

 ゲンエイは袖から先ほどのナイフを取り出す。獣の牙に文字がビッシリと彫りこまれたその術具を、弟弟子達はまじまじと

見つめた。

「何の牙なんですか?これ…」

 神々しさと不気味さを同量感じて恐る恐る尋ねたジョバンニに、ゲンエイは「虎獣人の牙です」と応じた。が、普通は虎獣

人にこんな長大な牙など生えていない。

「ただし、その虎獣人は「仙人」でした。つまりこれは「仙骨」でできた術具という事になります」

 付け加えられた言葉で弟弟子達は目を剥く。気が遠くなりそうだった。御伽噺や神話レベルの存在や品が、師や兄弟子の口

からはごく普通に語られ、そこらからポンポン出て来る。

「先生の知人に「桃源郷」を出奔した仙人が居るそうで、若い頃からの知り合いだそうで、何かのお礼に貰ったらしいですよ。

…あ、桃源郷がまず何だか判りませんかね?中国に入り口があるイマジナリーストラクチャーで、桃が特産です」

 説明が非常に雑である。

「まぁとにかく、あの水晶球も貴重品でしたが、最初が肝心ですから仕方ないですね!あれくらいはやっておかないと!少な

くとも、彼の公式な決闘による敗北があった以上ベザレル派の学徒は今後とやかく言わないでしょう!めでたしめでたし!」

 さっさと歩いていくゲンエイの背中に、ヤクモは「あの…」とおずおず声をかけた。

「私達のせい…ですよね?」

「その質問には、そうである…とも、そうでない…とも言えますね」

 ゲンエイは足を止めないまま軽く首を縮める。

「OZには原初の術士…つまり旧人類の血を引いている事や、血の濃さに拘る者達も少なからず居ます。彼らにとっては外か

ら迎え入れられた血は、誇るべき古い血を薄めたり濁らせたりする物だそうです。だからまあ、旧態依然で進歩がウミウシの

歩みのような連中も多い訳ですが…」

 連中は自分達新入りが気に入らなかった。だから兄弟子の手を煩わせた。そうヤクモとジョバンニは気落ちしていたが…。

「彼らから見れば僕も同類ですから。いや、もっと忌まわしいかな?はっはっはっ!」

 ゲンエイはそう言って軽い調子で笑う。

「僕も生粋のOZの住民じゃないですからね!君達と同じで、外の世界生まれです」

 これにはヤクモとジョバンニも驚いた。そして同時に親近感も覚えたが…。

「形質は比較的近いんですが成り立ちが異なります。僕は人為的に再現されたレリックヒューマンですからね!」

 兄弟子が続けた言葉で困惑し、少し考え…。

『!?』

 ジョバンニもヤクモも足を止めて硬直した。

 レリックヒューマン。それは旧人類…、ワールドセーバーの半数が危険視した「人間」を意味する言葉。

「おっと。正確には再現しようとして失敗したレリックヒューマンでした。僕は先進国連合軍の特殊兵士開発計画で作られた

実験体だったんですよ。まぁ単純に術士から提供された卵子と精子を体外受精させて、彼らが特殊だと思っているものの効果

不明瞭な育成装置内で生育させられたっていうだけなんですけどねはっはっはっ!まぁ実験は失敗、計画は中止、何せ術士の

素養があるだけで何ら優れたところは無かったんですから。つまり術士の両親から普通に生まれるのと変わらないわけです。

いやぁ無駄な実験でしたね!それでまぁ存在意義あやふやで行き場が無くて処分待ちだった僕を引き取ってくれた物好きが先

生です。それにしても、フィンブルヴェト辺りででも作られていたらちゃんとしたレリックヒューマンになっていたかもしれ

ませんけど、先進国連合軍ではねぇ…。あっはっはっ!まぁ生まれる場所を選べないなんてみんな一緒ですけども!」

 いつも通りの軽い口調で話すゲンエイは足を止めず、距離が離れ始めた弟弟子ふたりは慌てて後を追う。

「とにかく、血統だのを重んじて排他的になっている連中が君達を非難するとしても、理由には正当性が欠けていますから無

視して結構ですよ!何せ先ほどの通り、OZの純血を標榜する輩も、外の世界で造られた失敗作に決闘で敗れます。生まれは

術士としての優劣にさほど影響を及ぼさず、学問に関してもこれまた然りという物です。全ては君達の頑張り次第ですよ。は

はははは!」




「…行こうか」

 思い出していたジョバンニは秋田犬に促され、先に立って歩き出した同期生に続く。

(ヤクモ、怖くないのかな…)

 またあの連中と出くわしたら…、思い出すと足が竦むジョバンニだったが、ヤクモは違う。

 秋田犬があの時の事を振り返って感じるのは、怖れではなく、兄弟子の言葉への感謝の気持ち。

 ヤクモが学びに没頭するのは河祖群への郷愁を振り払うため。だが、他にも理由がある。

 期待してくれる師に応えたい。良くしてくれる兄弟子に報いたい。それが、OZに移り住んだ秋田犬を邁進させる原動力と

なっていた。

 しかしジョバンニは…。

(ゲンエイ先輩は凄い…。ヤクモも臆病者じゃない…。ボクだけが…)

 兄のようになりたいのに、自分は他の誰より兄から遠い弱虫のような気がする。

 勇気が欲しい。

 堂々と振舞える、兄に恥じない立派な術士に、男になるために、ジョバンニは勇気が欲しかった。