OZの移住者(後編)
「さあヤクモ!ジョバンニ!食事に行きましょうか!」
「うわぁっ!?」
「ゲ、ゲンエイさん!?」
瞑想室からの帰り、並んで通路を歩いていた秋田犬と赤毛の少年は、いつものように唐突に現れた兄弟子に後ろからのしか
かられる格好で肩を組まれた。
驚く弟弟子達の反応など歯牙にもかけず、「先生丸一日居ませんからね!急ぐ提出物も課題も無いでしょう!」と、グイグ
イ押してゆくゲンエイ。そこへ…。
「おうジョバンニ、ヤクモ、またゲンエイに捕まったか」
通路の先から来た背の高いジャガーが、面白がっているように表情を崩しながら声をかける。
「捕まえましたとも!これから休息食事睡眠のタイミングが崩れまくりがちな弟弟子達に課外授業です!ははははは!」
「それじゃあ俺も、手が空いたら他の連中捕まえて酒でも飲みに行くか!」
高弟仲間と言葉を交わすゲンエイに首を抱えられたまま、ジョバンニが「セルバンテスさんはこれから瞑想ですか?」と問
うと、ジャガーは「暇ができたから三時間ばかりな」と応じる。
OZの術士…とりわけ思念波そのものの仕組みを探求しているアグリッパ派にとって、瞑想は重要なトレーニング。ステッ
プアップには思念波を捉える感度の高性能化が必須と言える。
自分の思念波把握は勿論、様々な物体に残留している微かな思念波の感知などを経て、彼らは感覚を研ぎ澄ませて順応させ
てゆく。外の世界で生まれ育ったヤクモやジョバンニなどの新人達にとっては特に、感覚をOZ式に置換してゆくための大事
な基礎だった。
このトレーニングを経て思念波の流れや発散、残留などの特性を体感的に把握できるようになると、術の構築の際に、ある
いは術具の製造の際に、要求される思念波の質が判るようになってくる。また、この思念波コントロールを非常に高い水準…
それこそ一門の長のレベルでこなせるようになった術士は、念話という意思疎通手段…一種のテレパシーにも似た芸当が可能
になる。
最初は、思念波を蓄積し易い精霊銀の品に高弟が触れて、弟弟子達がそれに付与されたイメージなどを読み取る訓練から始
まった。悪戯者のゲンエイなどは美味しそうな食事のイメージを付与するので、修行中の弟弟子達は不意打ちで空腹感を刺激
されるが…。
それから自然石、陶器、製造された鉄など、徐々に思念波が残留し難い物に変えてゆき、最終的には空間に残る思念波の残
滓を感知するところまで行き着ければ一人前。大気よりも残留し難い性質で読み取り難度が高い題材は、上級者にとっては特
に良いトレーニング器具になる。
「ああそうそう、外界の電子部品に使われてた合金が手に入った。思念波殆ど残らないヤツな。今度貸してやるよジョバンニ。
お前ぐらいになるとあのレベルで丁度いいだろうしな」
ジャガーがそう言うと、赤毛の少年は嬉しそうに恥かしそうに「ありがとうございます!」と会釈した。兄弟子が言ったよ
うな品…外界で現行人類に作られた近代的な合金は、思念波との兼ね合いの悪さから、逆にトレーニングで重宝されていた。
今のところ、ヤクモは三分程度前まで誰かが居たならば「そこに誰かが居た」と感知できる程度だが、ジョバンニは新入り
門下生の中ではずば抜けて感度が高く、今では瞑想室に入った瞬間に数時間前まで遡った数名の在室順番まで言い当てられる
までになっていた。
これは風水を齧り気脈を読む術を学び、その方向で感度を高めてきた事もあるのだが、本人の多感で繊細な性格もまた一役
買っているらしい。気弱で自信が持てない弟弟子の気質はジャガーもそろそろ把握できてきたので、得意分野を褒めて刺激す
る事を忘れない。
少し機嫌が良くなったジョバンニを押して歩きながら、ゲンエイは思い出したように口を開く。
「そうだ!僕も外で手に入れた計算機を持っていました。水を零したら壊れてしまいましたがははははは!外側はプラスチッ
クですし、中身に思念波感応が悪い金属も入っているかもしれません。練習材料用に提供しましょう!」
外の世界ではありふれた物が、OZでは貴重な素材となる事も多い。
もっと色々持ち込めば良かったなと、最近少し後悔するヤクモとジョバンニであった。
「先生の用事ですか?政策決定会の出席ですよ。ああ、ちなみに終わった後は会食するそうなので、かなりかかります」
深皿に入ったホワイトソースをスプーンで掬い上げながら、ゲンエイは弟弟子達の質問に答えた。
二階建ての食堂、その壁面全てがガラスすらない吹きさらしの席は、しかしシールドによって大気が遮断されており、風も
浴びずに星の海を見下ろせる展望席。
三人が摂っている食事は、羊乳を主材料にして作られたホワイトソースにチーズをかけ、小麦粉を練ったマカロニのような
形状のパイプが入れられた料理で、見た目も味もグラタンに近い。具として入っているのはマカロニ風の練り物と淡水生の蟹
の身だけだが、ホワイトソースの味付けが濃厚なので物足りなさはない。
「政策決定会…」
「あれ?この前アンケート取られたのって…」
「ええ。中央広場に関する政策のアンケート、あれも今回の議題です」
研究都市とはいえOZにも政治はある。とはいえ政府は存在せず、いわゆる共和制に近い自治が行なわれている。しかし全
ての事柄に対していちいちOZの全住人の意見を募ってはいられないので、基本的には政策を行なう特別室が設けられている。
この政策室が寄せられた様々な意見などを元に政策を立案するのだが、約十五万人の民の代表としてこの立案に決裁を行な
うのが、いわゆる公務員的立場にある立法官の各最上級職達と、絶対中立を維持する史書長とその補佐、OZの公式工房全て
を総括管理する房主長と副房主長、各学派のトップ…アグリッパを含むグレートメイガス達である。これは住民の大多数が何
らかの学派に属しているOZにおいて、一門の長はそれぞれの民意グループ代表とみなされる事に由来したシステムである。
グレートメイガスは基本的に古来から存続する七大学派の長達だったが、OZの長い歴史上、その人数が増減する事もあっ
た。時に既存の学派から分派するなどの理由で新たな一門が発生したり、逆に統合されたりで。
最大時には十名が決裁権をもっていたが、現在のOZでグレートメイガスと呼ばれるのは六名のみ。百年以上前に七大学派
の一つが消滅し、以降は六つの学派のみが継承されている。
「消滅したんですか?」
ジョバンニの問いに「ええ」とゲンエイは頷いた。
「より正確に言うと門下生それぞれが各々に合った学派に移動する形で、分散消滅したというところです。何せ一門の長がO
Zを出て行ってしまいましたから」
「出て行った?どうしてです?」
今度はヤクモが問うと、「僕も簡単にしか聞いていませんがね」とゲンエイは肩を竦める。
「何せ先生が生まれる前の話ですから、又聞きの又聞きなんですよねはっはっはっ!端的に言うと、OZの中だけでは不満だ
と言って出奔してしまったらしいです。細かい経緯はいま一つ判りませんが、こう言い残したと聞いています」
OZの悲願はOZの中では果たせない。
観察すべき物はいくらでもあるが、観測するための物差しが足りない。
その物差しを得るためには外へ目を向ける必要がある。ワールドセーバーが残した他の遺産に…。
その術士はそう言い残してOZを追放された。
「へぇ~…。ん?追放?」
ゲンエイの話を聞いて、ジョバンニは首を傾げる。
「ええ、追放です。まあ実際には自分から出て行ったそうですが。何せ力ずくでどうこうできる術士は居なかったそうで。い
や凄いですねはっはっはっ!」
気になるのはそこではない、と赤毛の少年が困惑していると、ヤクモがおずおずと口を挟む。
「追放されるような事をしたんですか?一門の長が…」
ウンウン頷いて質問に同意するジョバンニ。ゲンエイは「そうらしいですよ」と首を縮める。
「何でも、禁忌事項に抵触する研究を行い、実行もしてしまったとかで」
ゲンエイの口から出た説明でジョバンニもヤクモも納得した。
研究都市OZには、「それについて研究も実証もしてはならない」とされる、禁忌指定分野がある。単純に危険な物、制御
する術が確認できていない物、そして触れる事自体が許されない旧時代の逸品…。その禁忌分野については各一派の長でも触
れる事は許されず、例外として全学派の長と議会の承認が降りた場合にのみ、公開研究が許可されるだけ。それも研究の価値
と実効性が客観的に認められた場合に限る。
「それは、どんな…」
自分達が知っていい物かどうか迷いながら尋ねたヤクモに、ゲンエイはあっさり応じた。
「有り体に言えば、「転生術の一種」です」
「転…え?」
流石にジョバンニも困惑する。
「もっとも、御伽噺に語られる創作のような、本当に生まれ変わる秘術などではありません。何せ意図的に生まれ変わるなど
という真似はワールドセーバーですら不可能らしいですからね。死は死、意味の拡散は何人にも覆せません。実現できたのは
あくまでも「個の延長」に過ぎない代物だったそうですが…。まぁ概要を聞いて判るでしょうが普通に「ひとの範疇から逸脱
した奇跡」です。その術士が手を出したのは人格転移術…「用意したボディ」に自分の記憶や意識をそのまま転移させるとい
う物でした。理論上、新しいボディが用意できる限り寿命は無限という事になりますが…」
非常に優秀な人物だったそうですよ、とゲンエイは言った。
優れた研究者であった妻とふたりで、「世界の奇妙を片っ端から奇妙でなくそう」と、日々楽しく、面白おかしく、神秘を
解き明かしていたその男は、OZの永い歴史の中でも五本の指に入るだろう天才だった。
歯車が狂ったのが何時だったのかは、二通りの説がある。
一つは、待望の長子が幼くして亡くなった時。十にもならない愛し子の突然の死がきっかけだったという説。
もう一つは、妻が事故死した時。最高の助手であり最大の理解者でもあった妻を亡くしたのが原因だという説。
どちらにせよ、男は妻子を失った数年後には、自らを実験台として禁忌の人格転移術を未承認で実行し、そして成功させた。
一通りの事情を聞いたジョバンニは、何を言えばいいか判らず口ごもったが…、
「…どうして人格転移術は禁忌なんですか?」
傍らの同期生を少し驚いて見遣る。ヤクモは話の事情よりも、そもそもその術が何故禁忌なのかという点を気にした。
これは、戦場を経験した少年であるが故の思考。何がよくて何が悪いのか、その線引きを曖昧にしたままでは対応できない。
それと同じ価値基準で禁忌であるか否かをヤクモは知りたかった。
「詳しくはありませんが、転移させられる要素に「欠け」があって、これを改善できる目処が立つまでは手を出すべきではな
いという事らしいです。知識や記憶などは完璧に移せる段階にあるらしいですが、OZでも未解明の「魂」が正しい状態で転
移させられないとかで…、具体的には記憶も性格もそのままで人格などに変質が生じるとか」
内容の細かなところや原理などはゲンエイも知らないと言ったが、おおまかな事は判る説明だったので、ヤクモは納得しつ
つ質問を重ねて投げる。
「その、人格の変質とかで重大な事故などが起こった事があったんですか?」
禁忌になるならそれ相応の「実績」があるはずだと勘繰ったヤクモに、ゲンエイは「あったそうです」とすんなり顎を引く。
「千何百年か前の事ですが、倫理観がおかしくなって酷い事をした術士が居たとか。危険な術の広域実験を無許可で行なって、
当時のOZの住民の十分の一が殺されたそうです。一体どんな術の実験をしたんだか。いやいや凄い物ですね、精神が狂って
も脳の性能はそのままなんですから性質が悪いですははははは!」
可笑しそうに笑うゲンエイだったが、弟弟子達は笑えない。OZの住民…真祖の術士の一割を殺す術など、恐ろし過ぎて想
像もしなくない。
二皿目のグラタンを注文しながら、ヤクモはついでに兄弟子へ尋ねてみた。
「禁忌の種類はおおまかに教えられましたけど、具体例みたいな物は何処かで調べられますか?術具造りで抵触しないように
気をつけないと…」
「図書に纏められているので調べられますよ。もっとも、引っかかりそうなら先生や僕達が気付きますからね!心配しないで、
発想の翼を自由に広げて勤しんでください!必要なら外界の品も手に入れられますから…」
「あ」
ゲンエイの言葉を聞きながら、ヤクモは思い出したアグリッパに相談して、外から品々を取り寄せて貰っていた事を。到着
予定は確か…。
「今日だった…!」
ヤクモ達も一度通った、外界の海に通じるOZの正門。港にはOZに出入りできる許可を得た船が、物資を運び込んでいた。
OZに入れる船や船員は身元も所属も一定しておらず、外の世界で大罪人だろうが極悪人だろうが問題ない。OZの利とな
るか否か、注文通りに荷物が届くかどうかだけが大切なのである。
とはいえ、外界のバランスが崩れるような干渉を極力避ける事だけは徹底されているので、例えばOZの存在とルートを把
握している国の公的機関が交渉に赴いても、門前払いを食らわされる。
入港した外界の船を懐かしそうに望み、足早に歩いてゆくヤクモ。興味があるので後ろからついてゆくジョバンニと暇なゲ
ンエイは、秋田犬が頼んだ品が何なのかを考えている。
(本とかかな?)
(本などですかね?)
今回アグリッパが物品搬入の手配を頼んだ相手は、オーシャンネットワークと名乗る企業の船。表向きは海運業を営む大企
業だが、実は無害そうな皮を被っているだけの非合法組織…通称ONCである。
様々な積荷を運んできた大型貨物船には、しかし今回はいつもの運搬員だけでなく、いずれは組織の幹部になると目される
若き候補者達が乗り込んでいた。
荷卸し作業を甲板から見下ろしている中で、鷲鼻の白人男性は双眼鏡を手にし、永遠の夜に無数の巨岩が浮かぶ異郷の景色
を眺めていた。
不思議で奇妙な光景をじっと目に焼き付ける白人の周囲で、口々に感嘆や驚きの言葉を口にする若者達。しかしその中で、
「逆の意味で目立つ」若者がその空気を断ち切る。
「面白い景色だな。しかも智の宝庫らしいじゃないか?いずれ欲しいと思わないか?なぁ、フェスター」
その男が歩み寄ると周囲の若者は道を空けた。場所を譲るのではなく、忌避するように距離を取って。鷲鼻の若者は双眼鏡
を下げながら、話しかけてきた男に横目を向ける。
双眼鏡を手にした鷲鼻の青年は、背が高く筋肉質だった。
一方、皆から距離を取られながら話しかけた側は、枯れ枝のように細く目も落ち窪み、病的にも見える痩せ方をしている。
「興味深く、また神秘に満ちている「国」だ。が、執着する必要はない」
鷲鼻の青年はムスッとした顔を崩さないまま、枯れ枝のように細い男に応じる。魅力的ではある。が、手に余る。牙を向い
て良い存在ではないという事を、若いながらも把握していた。
鷲鼻の男は面倒臭がっている内心が透けて見える態度だったが、痩身の男は意にも介さず話し続ける。
「そうかね?戦いも知らない連中だ。制圧は簡単な事だと思うが…。おやおや?まさかフェスター、ビビッているのかい?」
挑発する枯れ枝のような青年に対し、鷲鼻の青年は冷ややかな声音で「たぶんな」と応じ、取り合わない。
同期であるこのふたりは、とことん不仲である。表面上はこの程度だが、お互いに胸の内では蛇蝎の如く嫌いあっている。
ギスギスした空気に顔を顰める男達だったが、ある積荷の搬出作業が始まると、一様にそちらへ注意を向けた。
それは高さ2メートルを超える円柱形の金属容器。クレーンで吊り下げられて下ろされてゆくそれらの中身は、彼らの組織
が造り上げた生物兵器である。
古代の超技術を元に製造したは良いが、制御用の登録が上手く行かないので、意見を聞くためにOZへ持ち込まれたそれら
は、幹部候補生達が見守る中で次々と搬出されてゆき…。
「おや。見物に来たのかなヤクモ?」
大きな腹を弾ませながら駆けて来た秋田犬を、積荷伝票と依頼の請け書にサインして対応していたエメラルドグリーンのト
カゲ女性が迎える。
「エスメラルダさん!はぁ!今日の、受領係だったんですね?ふぅ!」
駆け寄った秋田犬に、トカゲは「その通り」とボードを上げて見せる。白い陶器の板のように見えるが、ヤクモが手掛ける
巻物と同様、表面に光の文字が浮かび上がるスクリーンになっていた。
「私がお願いした荷物も、今回の便には、入ってくるはずだったので、はぁ…はぁ…!」
息を切らせているヤクモからそう言われると、「荷物?」と眉根を寄せたトカゲは、すぐに「ああ!」と納得したような声
を上げてボードを見た。
「日本産の品々セット、これは君の注文だったのかな?「味噌」「長葱」「蒟蒻」「豆腐」「牛蒡」「白菜」「人参」「大根」
「豚肉」…。何の触媒なのか気になってたんだ。一体何だいこれらは?」
「触媒とかじゃなくて…、食材なんです。先生に話した時に、食べてみたいって、言われて…。そんなに特別な物でもないん
ですけど…。ふぅ~…」
息を整えつつ、くだらない物を取り寄せて、などと渋い顔をされるのではないかと思って耳を伏せたヤクモだったが、エメ
ラルドグリーンのトカゲは興味津々の様子で目を輝かせた。
「へぇ!君の故郷の料理か、興味があるね!私も味見させて貰いたいものだ!何より我等が先生は食べる事が好きだからね、
きっと楽しみにしていただろう」
「たくさん作れる量なので、よければ味見してください」
ホッとしつつ気を良くした秋田犬が表情を緩めると…。
「おや?ジョバンニあそこを」
荷卸し場に歩み寄る途中でゲンエイが足を止め、降ろされている金属容器を指さす。
「何ですかね?あそこ見えますか?プラプラして、おかしくないですかね?」
「え?」
同じく足を止めたジョバンニは、何だか判らない品を把握しようと、気脈を読む要領で感覚域を拡大し…。
「…うっ!」
口元を押さえて呻いた。感知できたのはひとの物とは異質な思念波。それが容器から漏れているという事は…。
「蓋が開いてます!中の、何か怖い物はもう起きて…」
ジョバンニの言葉が終わらない内に、クレーンで釣られていた容器が割れるように開いた。そこから現れたのは、巨大なカ
マキリにも似た異形。
「え?」
異音に気付いたヤクモが目を見開く。
落下したその異形は、先に降ろされていた容器に激突し、けたたましい音を立ててドミノ倒しにした。
「鎮圧対処!急げ!」
甲板上で鷲鼻の男が声を上げたが、突然の事で現状を把握できている者はおらず、皆ポカンとしている。
「ありゃー。珍しいトラブルだね」
トカゲが呟く横で、ヤクモは顔を強張らせていた。
(虫の怪!蟷螂型!)
転がった容器の中で身を起こしたのは、インセクトフォーム、マンティスの原種。人型に姿を整えられるなどの特殊な調整
も、戦闘用のチューンナップも施されていないベースタイプのそれは、腕を二本、脚を四本備え、全身を濃い緑色の外骨格で
覆われている。ONCが調整に難儀している高等生物兵器である。
「ヤクモ、心配要らないけど近付いちゃいけないよ。自動排除で術が作動するから」
トカゲが言うとおり、OZの護りは万全である。港に限らず異物や危険物を自動判別する監視機能が常に働いており、感知
するなり排除の術が自動で起動する。
許可の無いOZへの侵入を阻むそれは、指定された線を越えた際に地面から天上へと駆け抜ける雷。落雷と同等のそれが立
て続けに幾度も発され、対象を消し炭に変える。高度な判別がなされるのでヤクモ達が対象に取られる事はないのだが…。
(積荷の卸し方をしてる人達が…!)
ヤクモの目は、容器が倒れて開き次々と目覚めるカマキリを、間近で見て凍り付いている作業員達を捉えている。
次の瞬間、秋田犬はトカゲの忠告を無視して駆け出していた。
(術の手持ちは…!)
袖に手を入れて巻物を抜く。即座に紐解いて展開した巻物は、瞑想室で使うために持っていた品…試作の試作とでも言うべ
き物。元々使っていた巻物型の両端に術のソフトとして宝玉をはめ込んだそれは、出力を加減しての試験運用を一度行なった
だけである。
込めてある二つの術、その片方は…。
(怖くない怖くない怖く…ない!)
浮かんだ文字が残光となって置き去りにされる。広げた巻物を惑星の輪のように展開した状態で、ヤクモは飛んだ。文字通
りの飛翔である。
疾走からの急加速。球状に展開された風のフィールドを纏い、大気を裂いて飛ぶ秋田犬は、大筒から叩き出された砲弾のよ
うな勢いだった。
(制御!集中!)
未完成の術を試作の術具に込めてあるので、制御をしくじった場合の安全装置のような機能はまだ付与されていない。そも
そもこれは浮遊を目的に組み上げて失敗した術である。急速自己崩壊する風のフィールド、その噴射による推力は不安定で、
角度が少し変わっただけであらぬ方向に吹き飛ばされてしまう。いわば、空気が抜けて飛び回る風船に近い。
それでも、自分に言い聞かせるヤクモの駆動制御は完璧だった。作業員に向かって鎌を振り上げるマンティスに迫り、纏っ
たフィールドで体当たりし、吹き飛ばす。
途端に風のフィールドは爆散し、強風を撒き散らして消滅。周囲のマンティスや容器、作業員達も強風に煽られて散る。
ブレーキも無い暴走する術から放り出されたヤクモは、石畳に激突して、激しく回転しながら十数メートル転がったが…、
「伏せて下さい!」
跪いたまま上体を起こして巻物を再展開、もう一つの術を起動する。
それは、大気のネット。足場や捕縛用として幾度も使用してきたそれは、しくじらずに組み上げて搭載してある。そして、
試作とはいえ巻物の機能自体はほぼ完成しており、懐中電灯のスイッチを切り替えるように、術の変更は即座に済んだ。
巻物の発光する文字が一瞬で変わり、丸まった状態で射出されたそれは、水平飛行の途中で左右に広がり梯子状になり、マ
ンティスを一体絡め取って捕縛する。
「逃げて下さい!」
大声で叫んだヤクモの警告で、作業員達が弾かれたように動き出す。
「ゲンエイ先輩!あ、あれって!」
騒ぎが起こった事を見て取り、怯えた声を上げるジョバンニ。同じく状況を理解したゲンエイは「ふむ」と鼻息を漏らす。
その袖から手帳サイズの使い捨てグリモアがスルリと落ち、手の中に納まった。
「ジョバンニ、ここから動いてはいけませんよ」
言うが早いか、ゲンエイはタンッと地を蹴った。そこには手帳サイズのグリモアが残され、ジョバンニの周囲で電磁網が展
開される。攻撃的な迎撃術で護られ、同時に動きを制限されたジョバンニは、カタカタ震えながら声を振り絞る。
「先輩!船のひとが危ない!」
距離があるから見えていた。マンティスの一体が羽を広げ、甲板上へと飛び上がっているのが。
正直なところ、ゲンエイは船員達がどうなろうが構わない。ヤクモさえ護れればいい。
ナイフ型術具を抜いたゲンエイは、目当ての秋田犬の挙動に注目し…、計算外の行動に眉を顰めた。
(船は防衛術の対象外!なら…!)
秋田犬は術を切り替えて再起動。瞬時に風のフィールドを纏い直し、横手へ飛翔する。
一方、甲板の縁に取り付いたマンティスが顔を覗かせ、船上で悲鳴が上がった。
「ちっ!」
指示は出したが間に合わなかった。舌打ちした鷲鼻の男は懐から拳銃を抜いている。S&W、44マグナム。念のためにイ
ンセクトフォームにも有効な物を選んで帯びていたが、至近距離まで接近したマンティスをこれで仕留める自信は五分以下。
かなりの確率で自分が死ぬと理解している。
邪魔になる同僚を蹴り倒し、覚悟を決めて引き金を絞ったフェスターは、発砲の轟音に重なって雷鳴を聞いた。
防衛術が発動し、マンティスのみを判別した雷撃が、地から天へと駆け抜けた。
しかしそれは波止場までで、船上は守護の対象外。目も眩む閃光を背に、マグナム弾で複眼を片方吹き飛ばされながらも飛
び掛ってくるマンティスから、フェスターは後ろへ跳んで逃れようとした。
(くっ!間に合わ…!)
鎌の射程から出られない。マンティスの接近の方が早い。避けられるようなスピードではない。
しかし…。
「!?」
素早く鎌を伸ばしたマンティスの腕が、関節部で断たれた。見えない刃で切断されたように鋭利な断面を晒して。
(何が起きて…、うっ!?)
直後、風がフェスターの身を包んだ。同時に息が詰まるような衝撃を背中に受け、何かに抱えられる。
(再硬化!間に合った!)
それは、大回りして船の後ろに移動していたヤクモ。船の後方まで移動して狙いを定め直し、突撃したところで、計算外に
もマンティスと相対する男がいたので慌てたものの、機転を利かせて風のフィールドを軟化させ、男を内側に収容している。
そして…。
ドパンと、フェスターを抱えたまま激突したヤクモから、風のフィールドの風圧をそのまま預けられ、マンティスが吹き飛
ぶ。無策に突っ込めば危険もあったが、幸いにも振るった片腕がそのまま無くなっていたので心配は要らない。
そして、体当たりで吹き飛び甲板から投げ出されたカマキリは、すぐさま防衛術の雷撃に絡め取られて消し炭にされる。
一方、術を解除したヤクモと、投げ出されたフェスターは、風のフィールドが爆散して荒れ狂う甲板を二方向に離れるよう
に転がって行き、それぞれ手すりに激突した。フェスターは背中から当たったが、運悪く、秋田犬は体を丸めていたにも関わ
らず支柱に脛を強打する。
(痛い痛い痛い痛い痛いっ!)
声も出せずに脛を押さえて転げ回るヤクモ。一方、痛みに顔を顰めながらも立ち上がった鷲鼻の男は、丁度止むところだっ
た雷撃の柱が消えるのを見届け、全てのマンティスが黒焦げの死骸に変わっている事を確かめてから、やっと息をついて拳銃
をしまう。そして、蹲って痛みに耐えている秋田犬に改めて目を向けた。
(今の介入が無ければ、どうなっていた事か…)
焦りもあった。恐れもあった。しかしそんな感情で行動を阻害されてはいなかった。元々御庭番として優秀とは言えなかっ
たが、それでも神代配下の一員として厳しい訓練を受けたヤクモの身体能力と反応速度は常人を超える域。何より、やるべき
事、なすべき事を実行するようにできている。一瞬の間の事だったが、高速接近からの術の変質とフェスターの保護、術の再
変質からマンティスへの攻撃と、全てを完璧にやってのけた。
そんな秋田犬の行動と機転を間近で見せられたフェスターは、取り乱したまま落ち着きが戻らない同僚達を見回し、ひとり、
へたりこんでいる男に目を向ける。
「ショーン。「戦いも知らない連中」…と言ったか?」
腰を抜かしてへたり込んでいる枯れ枝のような男に、辛辣な一言を投げかけたフェスターは、涙目になって脛を擦っている
秋田犬に近付くと、背筋を伸ばしてから丁寧に頭を下げた。
「感謝致します。アグリッパ師の高弟殿とお見受けしますが、御芳名を賜れますか?」
ローブの印で学派を確認し、組織がパイプを持っている一門の人物だと確認したフェスターは、自組織の幹部達やゲストの
貴人に対する態度でヤクモに接する。
「え?えぇと…、あの、私は高弟ではなく、ただの…」
慌てて立ち上がったヤクモが、丁寧すぎる対応に戸惑っていると、
「お目が高い!いずれ高弟になる事は間違いありませんからね!」
軽い口調で朗らかな声。それはヤクモのすぐ後ろから。
「彼はヤクモ・イタマエ。次期アグリッパ候補のひとりです」
どんな術を使ったのか、甲板へひらりと飛び上がってきたゲンエイは、驚く弟弟子の肩をポンポンと叩く。
「それはそうとですよ、ヤクモ」
「は…」
返事をしようとしたヤクモが息を詰まらせる。ゲンエイの右手が翻り、秋田犬の腹にナイフが突き込まれていた。
刀身の根元までが突き刺さった…ように見えるし、そうでなければおかしいのだが、しかしヤクモに外傷は無い。それどこ
ろか痛みもなく、脛の痛みや全身の打撲による痺れが緩和されてゆく。
仙骨…仙人である虎獣人の牙を加工した術具には、アグリッパが直々に刻んだ術式の数々が宿る。その中には治療の為の物
も入っていた。
ローブも透過しヤクモの体に侵入した牙は、全身の痛覚を鈍らせつつ細胞を刺激。打撲傷を回復するために血行を良くし、
体温を上げている。
驚いて口をパクパクさせているヤクモの腹からナイフを引き抜くと、くるりと回して袖の中にしまいつつ、「痛み止めに過
ぎない応急処置ですから、あとできちんとした治療を受けるように」と告げて、ゲンエイはパチンと指を鳴らす。
電磁網が解除されたジョバンニは、ホッと息をつくと、違和感を覚えてきょろきょろした。
(何か…、「残り香」みたいな物が…)
激しい雷撃が発生した事による乱れとは違う、微かな思念波のゆらぎ…その残滓。発砲事件における硝煙反応のような物を
赤髪の少年は感知する。
か細いそれを見失わないよう集中しながら、注意深く足を進めてゆくと、微かな違和感の元が何処なのか判った。
(あそこ…?)
黒焦げのマンティス達が転がる傍、最初にゲンエイがおかしくないかと言って示した金属容器。そのロック機構なのだろう
アームがひしゃげて壊れていた。
「おやジョバンニ、何かあるのかい?」
エメラルドグリーンのトカゲが歩み寄り、屈み込んで確認していた少年は顔を上げた。
「あの、これ…!」
破損したアーム。その一点には、まるで弾痕のような、硬い何かが衝突してできたのだろう抉れ跡が認められた。
「…さて、どういう事だろうね?これは」
トカゲは半眼になって注意深く痕跡を見定めた。
金属疲労などによる偶発的な事故ではない。これは明確な、人為的に起こされた事件だった。
「ヤクモは…ゲンエイと一緒だね。ならあっちはいい。…いいかいジョバンニ?アタシの傍から離れちゃいけないよ?それと、
何事も無かったように振舞うんだ。何にも気付いていないように。できるね?」
「は、はい…!」
トカゲは察していた。自分達に気付かれないままこれをやれる者は、各一派の高弟以上の存在でしかないと。下手に狙われ
ればジョバンニでは命が危ない。
(やれやれ、キナ臭くなってきたな…。次期アグリッパ候補の新入り達を快く思っていない連中がいるって、ゲンエイから警
告はされてたけど…)
アグリッパ一門が招き入れた船。そしてこれを狙ったトラブル。面倒な事にならなければいいがと、トカゲは溜息を漏らし
ながら船上を見上げ、軽く顔を顰める。
(ゲンエイ…。君、その腕…!)
「あ、あの…」
驚きがさめて少し落ち着いたヤクモは、兄弟子に頭を下げる。
「ありがとうございました。そして、済みません…」
勝手を咎められるだろうと、耳を倒してしょぼくれたヤクモは、
「いえ。「そういう生き物」なのでしょう君は?生き方なんてそうそう変わる物でもないですしね」
ゲンエイは軽い調子で言い、少しばかり安堵したヤクモは顔を上げ…。
「!!!」
兄弟子の左腕に視線を固定し、目を見開いた。
ローブの袖が肘まで焦げて無くなったそこから、真っ黒になった腕が覗いていた。
ゲンエイの左手は指先から肘辺りまでが炭化して、小指と薬指、そして掌の半分が崩れて無くなり、前腕の下半分は骨が露
出し、あちこちで焦げた表面が剥がれ落ちた所からは火を通された生焼けの肉が覗いている。その足元には、土くれのように
崩壊したグリモアの残骸が落ちていた。
これが、発動中の雷撃に飛び込んだ代償。いかに対象を判別して発動するとはいえ、既に起動した術の中に飛び込めば…。
ゲンエイはヤクモの意図を察し、止めるよりもマンティスの動きを阻害する必要性を認めた。そして、術の間合いまで接近
するため、使い捨てのグリモアで防御フィールドを作り、一時凌ぎにしかならないそれを盾にして雷撃の中へ飛び込んでいた。
術とローブの防衛機能を最大限に使用し、結果、犠牲にしたのは腕一本…。
「なに、少し時間はかかりますが治りますからね。安いものですよはっはっはっ!」
いつもと同じように軽い調子で笑うゲンエイ。対してヤクモは…。
「す、すぐ治療に!」
兄弟子の右腕を掴むなり、巻物を広げて飛翔の術を起動した。
申し訳なかった。そして、胸が痛かった。
おそらく、自分が飛び込もうとしなければ、ゲンエイはこんな真似をしなかっただろうと、理解できていた。
数時間後。
アグリッパ派によって貨物船の徹底的な調査が内々に行なわれ、ONC側の不備ではない事が確認されると、船側はホッと
胸を撫で下ろした。契約上OZの方が立場が強く、瑕疵などによる不利益を生じさせた場合は重大なペナルティがある。落ち
度が無かったと認められただけで安堵した。
一方でアグリッパは、一度現場に顔を見せた後は高弟達に任せて、他学派の長の下へと赴いていた。
「前回の事もある。調査をしておこう」
恰幅のいい老人と向き合っているのは、小柄で細身の猫の女性。妙齢の黒猫はグリーンの瞳を半眼にし、挟んだ盤面を見つ
めている。
「疑う真似をして済まんね」
ぷっくりした老人の指が騎兵の駒を進め、コトリと置く。
「なに、近年随分と過激な考えを持つ者が増えていた。お灸の据え時だろう」
当代の「ベザレル」は応じてポーンを動かし、溜息をつく。
ベザレルはアグリッパと対等なグレートメイガスではあるが、親子以上に歳が離れている。自身が一学徒だった頃から一門
の長を務め、グレートメイガスとなってからも色々と援助してくれたアグリッパに対しては、立場上同格の術士として振舞い
ながらも、接し方は先達や年長者への物になる。提言や依頼があれば真摯に応じ、よほどの事が無ければ否を唱えない。
ゲンエイと自分の所の高弟が決闘になり、希少価値の高い術具が粉砕された件で、ベザレルは一度アグリッパに謝罪してい
た。無礼があったのは自分の弟子の方だと明らかだったので、損害を責めるつもりはなかった。
そんな事があったからこそ、今回アグリッパ派の新弟子達がでくわした事件を引き起こしたのも自分の門下生ではないかと、
アグリッパから話を聞くなりベザレルは疑った。
「OZの外が無価値な訳でも、外の世界から入る物が劣っているわけでもない。弟子達がそんな事も理解できない内は後継な
ど選ぶに選べない」
コレもそうだ、と言いたげにベザレルはチェスの駒を摘んで軽く振ってみせる。
各学派の長は、外の世界を無価値とも劣っているとも考えない。OZの術は至高であるという自負はあるが、他を認められ
ないような狭量な指導者はいない。視野も価値観も狭めてしまえば展望はなく、視座を固定してしまえば発展は望めない。高
みを目指す者は常に、その一点以外も見定め続けなければならない。
「後継といえば…。不躾だが、新たな弟子の中にもゲンエイ以上の者は居ないと見る。御師の方では後継はもう決まったよう
な物なのでは?」
気楽だろうと言いたげなベザレルの言葉に、しかしアグリッパは難しい顔。それは盤面が劣勢だからというだけではない顰
め面である。
「腕でも実績でもそうなんじゃがのぉ…」
老人は白い顎鬚をしごいて思案する。
迷いがあった。現時点で選べと言われたらゲンエイが最も実力が高い。しかし、数年先を見越すと判らなくなる。
様々な、持ち味が異なる才と腕が集まった。その中にはアグリッパ自身が「面白い」と感じる者もある。何より…。
「他ならぬゲンエイ自身が言うんじゃよ。「急いで決める必要はない」と…」
「ほう…」
黒猫が眉を上げた。アグリッパにとって、かつて拾ったゲンエイは他の門弟とは違い、息子のような物。だからこそ、贔屓
と言われないよう特別扱いはせず、他の弟子と変わらない指導をしてきた。その平等さと公平さはベザレルも他派の長も認め
ている。だからこそ、仮にゲンエイを後継に指名しても誰も身内贔屓と非難はしないのだが…。
「継ぎたくないというよりは、そう…」
アグリッパは盤面の向こうに弟子達の顔を浮かべる。
(適任が他に居る。アヤツ、そんな口ぶりじゃったが…)
(鼻の奥に臭いがこびりつてるみたい…)
ドロドロした緑色の薬湯風呂に三十分以上浸からされたヤクモは、スンスンと鼻を鳴らして腕の匂いを嗅ぐ。酷く青臭い上
にハッカにも似た香りが混じる薬湯だったので、既に鼻が馬鹿になっていた。とはいえ効果は覿面で、痛みなどはすっかり引
いている。本当に短時間で、打撲や捻挫が物理的に完全修復されていた。
患者衣にも似た、薄着の施術用ローブを裸体に羽織った秋田犬は、アッグリッパ一門が専用でもっている治療所の廊下を歩
き、自分が入っていた部屋とは別の施術場所に繋がる通路の前で足を止めた。
ゲンエイは最優先で治療を始められた。左腕は元通りになるらしいが、それでもしばらくは使い物にならないと、医療術を
得意とする担当術士は言った。アグリッパの同期であり後継者候補でもあったという年配の術士の確かな見立てなので、言葉
を疑ってはいないが…。
大きな借りができたと、ヤクモは立ち尽くしたまま通路の先を見つめ続けた。
明朝…と常夜の小世界でいうのも妙な話だが、OZ基準での一日後、ヤクモは小鍋を一つ抱えて階段に立っていた。
何も無い石積みの壁。そう見えるそこを前に、秋田犬は迷っている。
(まだお休み中かな…。休養が必要って言われてたそうだし…)
また改めて訪ねようかと、踵を返しかけたその時、ヤクモの眼前に扉が出現する。
「!」
部屋の主は自分に気付いている。入って来いという意思表示だと悟り、ヤクモは唾を飲み込んでからノックした。
「あの…」
控え目に声をかけたヤクモは、勝手に開いてゆく扉の向こうを確認し、絶句した。
「やあやあ、嬉しいですねヤクモ。見舞いにきてくれたんですか?」
そこに、何事も無かったかのようなゲンエイが座っていた。新しいローブを纏い、指先まで包帯で巻かれた左手をぶら下げ、
右手で本を開いて。
テーブルチェアセットについているゲンエイの顔色は悪くない。むしろ普段より血色が良い。
彼が受けた治療は、失った肉体を他の部位から補填する、置換術という物だとヤクモは聞いていた。肉体の損失率が大きけ
れば大きいほど衰弱するという副作用がある、と…。
「まあ座って下さい。飲み物ぐらいしかありませんが…」
椅子を勧める兄弟子を見つめ、ヤクモは気付く。
「あの、ゲンエイさん」
「はい何でしょう?」
「我慢とか、無理はしなくていいですから…」
これを聞いたゲンエイは一瞬戸惑いの表情を見せ、次いで苦笑いした。
「これは参りました。やはり本調子とは行きませんかね?ははははは!」
ヤクモは見抜いていた。ゲンエイは術で印象を誤魔化しているだけだ、と。
バレた以上は無意味だと、ゲンエイは錯覚術を解く。たちまちヤクモの目に映る兄弟子の顔色は、血の気が失せて青白く変
じた物になった。
「一応、兄弟子としてのプライドみたいな物だったんですがね」
いつも通り軽薄に、いつも通り飄々と、ゲンエイは肩を竦める。
「…ごめんなさい。ゲンエイさん…」
項垂れるヤクモ。
自分のせいだと判っていた。自分が危険を冒さなければ、ゲンエイもあんな真似をせずに済んだのだと。
「何を謝るんです?僕が勝手にやった事なのに?ははははは!おかしいですねぇ!」
笑うゲンエイに申し訳なくて、ヤクモは視線を上げられない。その目が見つめるのは、抱えてきた小さな鍋。
「ところで、差し入れですか?それ」
話題を変えようと指摘したゲンエイに、ヤクモはハッと思い出して鍋を少し持ち上げる。
「は、はい!あの…、故郷の料理なんですが…!」
テーブルに置かれた鍋は、蓋を取り払われると食欲を誘う芳りを立ち昇らせた。
それは、アグリッパに乞われてヤクモが作った豚汁。
材料を取り寄せてまで作ったそれの、最初の一杯を食べて欲しくて、ヤクモは見舞いとしてゲンエイに持って来た。
「おや。先生が楽しみだと言っていたのがこれですか…」
河祖郡の作り方に因んだ具沢山の豚汁を覗き込み、ゲンエイは目を細めた。
「せっかくです、頂きましょう!栄養を取るようにと言われていますしね!ではとりあえず、食べ方も教えて貰いましょうか。
できれば食材の解説なども交えて、ね!」
ウインクしたゲンエイは本を置くと、傍に立ったヤクモの背中を右手で押し、着席するよう促す。
兄弟子はいつものように強引で、いつもと同じく賑やかで、いつも通りに軽い調子で…。
「あの、ゲンエイさん」
椅子に座らされたヤクモは、意を決して尋ねた。
「どうしてあんな事をしたんですか?」
「ヤクモはどうしてあんな事をしたんです?」
即座に質問を返されて、言葉に窮した弟弟子に、
「そういう事でしょう、きっと」
ゲンエイはニコニコしながら言う。
「そういう…事…」
「そういう事です。…で、どうやって食べるんですかコレ?シチューやスープ的な食べ方ですか?そもそもこれスープですか
メインですか?分類的に言うと何料理系?」
「あ!えぇと、スープと言うか、豚汁は…。豚汁は…?…あれ?」
少し考えてから、ヤクモは首を傾げた。
「豚汁…ですかね…?」
「ははははは!なんとも哲学的です!」
きっと、この頃からだったのだろう。
ヤクモは数多くの仲間や兄弟子達に囲まれながら、この飄々とした男に特別意識を向けるようになっていった。
学び、励む、場所を移した二度目の青春期。
後にヤクモがこの頃を思い出す時、何年経っても、何十年経っても、その風景の中心には常に、ゲンエイの姿があった。