OZの高弟(後編)

「ラスプーチン氏の指導は有効活用できそうかい?」

 ティーカップを口元に寄せる兄弟子に問われ、ヤクモは「はい」と頷いた。

 ゲンエイの私室。ヤクモは実技講習の講演を終えて、ゲンエイも野暮用を済ませた後。夕餉なども既に済ませて、ふたりの

一日が終わろうとしている。

「さしあたって判ったのは、禁圧解除は私には向いていないという事です」

 耳を倒して紅茶を啜る秋田犬。

「どうにも、私の中に残る古種の血はもう薄いようで、一般人と大差ないようです。できるようになった所で極々短時間だけ

らしくて…。できるに越した事はないんですけれど、有効性を考えると、やるべき事の中で最優先ではないですね」

 そんな言葉とは裏腹に、ヤクモの顔にもゲンエイの顔にも落胆の色は無い。

 効果的でない事が判ったというのは、そのまま無駄だったという事にはならない。他の方向を探るべきと判断できたのは、

それだけで一歩の前進を意味する。OZの術士達はそうやって研究の方向性を定め、発展形を模索する。

「そういう流れで、発動までに要する手順が少なく、挙動が安定する防衛術の類をいくつか見せて頂きました」

「物になるかな?」

「OZの術大系と随分違うので少し手こずりそうですけれど、予め術具に仕込むタイプの物は私の分野に近い所がありました

し、陣を敷設するタイプの術はジョバンニの得意分野にも通じるようなので、いくつかはどうにかなりそうです」

「それは良かった。…ジョバンニといえば、ジョギングはどうだったかな?」

「う"

 変な声を漏らして固まるヤクモ。意地悪く微笑するゲンエイ。

「…単純に深刻な運動不足だって、痛感しました…」

 かつては神代の御庭番として戦闘訓練を受けていたヤクモだが、元々できが良いとは言えなかった上に、OZに来てからと

いうもの、大半の時間を机に向かっての勉強と作業と研究に費やしていたため、体力の低下と体脂肪率の増加は否めない。

 加えて、日用の便利な術を開発しては自ら実践して効果を確認する生活が続いている。最近はちょっとした移動にも歩行補

助の術を使ってみていたので、なおさら筋肉を使わなくなっていた。

 その結果、気を使ってさほど速くないペースで走ってくれたジョバンニに、5キロついて走っただけですっかりバテて、足

を引っ張る結果となってしまった。もはや一般人以下の持久力。学生と駆け比べしたら普通に負けるレベルである。

「はっはっはっ!身体強化の術に頼る前に、少し運動して体力をつけた方がいいな」

「返す言葉もありません…」

 耳を伏せて小さくなるヤクモ。

「今夜は少し多めに汗をかこうか」

 ゲンエイが笑い混じりに囁くと、秋田犬は俯いたまま頷き…。

「明日はラスプーチン氏も指導をしてくれないだろうし」

「え?どうしてですか?」

 兄弟子の言葉で顔を上げた。

「「眠り姫」がお目覚めになったそうだ」

 ゲンエイの発言で目を大きくするヤクモ。

「いつですか!?」

「数時間前だよ、一年半ぶりだな。という訳で明日は何処もお祭り騒ぎだ。ラスプーチン氏も先生に同行して離宮に行くだろ

う。という訳で、ゆっくりできる時間はたっぷりある。まずは身を清めようか」

 ゲンエイはウインクし、ヤクモはちょっと恥かしげに視線を伏せて頷いた。



 薄明かりの部屋の中、秋田犬が顔を前後に揺する。ベッドに腰掛けた青年の陰茎を咥えたまま。

 寝台が軋む音と、湿った音と、息遣いだけが聞こえる部屋で、ヤクモもゲンエイも全裸になっている。

 口で奉仕するヤクモの頭を、ゲンエイは両手で挟んでいる。耳を親指と人差し指の間に収める格好で。

 男根に這わせる舌も、含む口も、香料と薬品を加えたハチミツで光沢を帯びている。これには感度を上げると同時に興奮作

用もあるのだが、ヤクモはこれに頼るのが常。増幅された興奮で恥じらいすらも紛れるので重宝する。

 前戯にたっぷりと時間をかけて愛撫するヤクモは、口の中で時折震える兄弟子のそれを、夢中になってしゃぶる。

 ふたりがこういう事をする関係になってしばらく経つ。どちらから関係を迫るでもなく、手を重ね、抱擁し、口付けを交わ

し、次第に進んで身を重ねるようになった。

 そういった知識については調べて覚えた。別段、同性間の関係についてはOZにおいては問題視されておらず、大声で言っ

て回るような事ではないが、こういう事をする者達も少なくはない。男性同士に限らず、女性同士でも、こういった事をする

ための手法を記した書物が何種も存在している。加えて言うなら、血統を重んじる学派とは違い、アグリッパ一門には制約も

一切ない。

 ゲンエイの手がヤクモの額を親指で撫でる。嬉しくて尻尾がハタハタと揺れる。一生懸命奉仕する弟弟子の頭から後頭部、

そしてうなじへと、愛おしそうに撫でる手を進めるゲンエイ。こそばゆくて、心地良くて、ヤクモの耳が小刻みにフルルッと

震えた。

 やがてヤクモが肉棒から口を離し、ハチミツ混じりの唾液のアーチが伸び、切れて落ちる。

「さあ、今度はこっちがほぐそう」

 促されたヤクモは、立ち上がったゲンエイと入れ替わるように寝台の上に乗ると、仰向けになった。

 過剰な皮下脂肪がついた胴で、胸と腹が自重で潰れ、左右に流れる。その様をベッドサイドに立ったまま見下ろしたゲンエ

イは、広い腹に手を当てて軽く撫でた。

 犬にそうするようにワシャワシャと腹を撫でるとヤクモは喜ぶ。恥かしそうに耳を伏せながらも意、その顔は嬉しそうに緩

んで微笑を湛え、尻尾は太い脚の間でせわしなく揺れていた。

 ひとしきり撫でて貰った後で、ヤクモは腰の下に枕を敷き、太腿に手をかけて脚を開き、股を大きく広げた。

 開かれた脚の間に膝立ちで入ったゲンエイは、ハチミツを塗った指を軽く舐めて、ヤクモの尻に近付ける。

「ふっ…」

 秋田犬の鼻息が漏れた。ハチミツが潤滑剤になって、ゲンエイの細くしなやかな人差し指がスルリと中に入ってくる。数度

抜き差しされたが、指一本なら慣らすほどでもない。すぐに指は二本に増やされた。

「相変わらず貪欲だなヤクモ。こんな簡単に飲み込んで…」

 ゲンエイの声が羞恥を煽り、秋田犬は顔を横に向けて目を逃がす。

 抜き差しされる指が肛門をゆっくりほぐし、息を弾ませるヤクモの顔は次第に蕩けていった。

 しなやかな指が中でククッと曲がり、腸壁越しに前立腺を刺激すると、秋田犬は鼻にかかった声を漏らして首を揺すった。

 お互いに、感じるポイントは熟知している。幾度も身を重ねてきたのだから、何処が喜ばれるかは理解している。

「ゲンエイさん…、もう、入れてください…!」

 我慢できなくなった弟弟子の懇願を受け、兄弟子は焦らす事なく自分の陰茎を握り、挿入準備をする。時間はたっぷりある。

じっくり楽しむのは一回戦済ませてからでもいい、と。

「良いかい?我が愛しのヤクモ」

 ヒタリと肛門に陰茎の先端をあてがわれて、ヤクモが頷く。

 ツプ…。

 ゆっくりと、ゲンエイが腰を前に出す。押し広げて自分の中に入って来る熱を感じ、ヤクモは堪らず「んんっ!」と鼻を鳴

らした。

 肛門が、腸が、広げられる圧迫感。しかし苦しさよりも快感が強い。カリの部分まで挿入し終えたところで一度止まったゲ

ンエイだったが…。

「ゲ、ゲンエイ…さん…!もっと…」

 もっと欲しい。奥に欲しい。懇願する秋田犬の熱っぽい目を見返して、ゲンエイはグッと腰に力を入れ、最奥までゆっくり

押し込んだ。

「あんっ…!く…!」

 体の奥深くまで広げられ、入り込まれる感触と、腸の内壁が擦られながら前立腺を圧迫される快感。体の深い部分が熱をも

ち、じわりと全身から汗が滲み出る。

 根元まで挿入された陰茎の脈動を、体の中で直に味わうヤクモ。その様子を眺めながら、ゲンエイは秋田犬の股間で体毛と

肉に半分埋没した陰茎を握る。

 ヒクヒクと震えるソレを優しく愛撫されると、ヤクモの呼吸は徐々に浅く、早くなってゆく。余りがちな包皮の先から顔を

覗かせたプックリ丸い真っ赤な亀頭は、先端からタラタラと透明な汁を垂らしていた。夥しい量の先走りを潤滑剤に、ゲンエ

イは秋田犬の陰茎をクチュクチュと刺激する。

「ゲンエイさん…、ゲンエイさん!もう、我慢できな…い…!」

 求めるヤクモにゲンエイが笑いかける。「かわいいな、ヤクモは」と。

 そして青年は腰を少し起こした。角度が変わって前立腺をより強く圧迫されたヤクモが、小さく「ひん…」と声を漏らす。

 ゲンエイの腰が後退し、腸壁を擦りながら抜けて行く陰茎。備えてヤクモが軽く息を吸うと、助走距離を取ったソレが奥ま

で一気に再侵入した。

「んぁう!」

 突きこまれた陰茎の延長線上、脳天まで突き上げるような刺激でヤクモが声を上げる。そして陰茎はまた戻ってゆき、素早

くまた突き込まれる。

「ひんっ!」

 ゲンエイが腰を打ちつける度に、ヤクモのたわわな胸と腹が波打つように揺れる。

 ヤクモはその性格とは裏腹に、行為自体は激しくされる事を好んだ。何もかも差し出して、好きに乱して貰う事を望んだ。

絶対の信頼を兄弟子に寄せるが故に、全て曝け出して。

「かわいいな…。かわいいな…、我が愛しのヤクモ…」

 弾む息の合間に囁くゲンエイ。腹の中をグチャグチャにかき混ぜるような激しいピストン運動で、体全体を弾ませ、高い声

で喘ぐヤクモ。

 程なく、秋田犬の両手が求めるように伸ばされて、ゲンエイは両手を合わせてしっかり指を絡ませる。

 陰部と両手で繋がって、繰り返し繰り返し突き上げられて、汗と涙で顔をグショグショに濡らして、我を忘れて時間も忘れ

て、与えられる刺激を享受する事に没頭して…。

(好き…)

 思考も乱れるほどの快楽と刺激の中で、純粋にその思いだけが浮いている。

(ゲンエイさん…、好き…!)

 敬愛との境目が定かではない恋心。しかして好意である事に間違いはない純粋な気持ち。

(もっと…!もっと…!もっと一緒に…!)

 性行為の最中でもなお足りない。奥まで入れられてなお足りない。もっと、もっと、と相手を求めてしまう。感触を、温も

りを、繋がりを。

「あああっ!」

 ジンジンと、下腹部から浸透するような刺激が陰茎に伝わり、肛門と睾丸の間が激しく疼く。声を上げたヤクモの逸物から、

トプンと込み上げるように、白濁した液体が溢れ出た。

「あ、ああ…、あ…!」

 激しく突かれて揺すられながら、コプッ…、コプッ…、と精液を零し続けるヤクモは、繰り返す絶頂の中、次第に朦朧とし

始めて…。



「溜まるのが早過ぎると思うんだが…。三日ぶりでこれか」

 汗が引き始めたゲンエイは、横でうつ伏せになっているヤクモの背中をツツッと指で撫でて震えさせる。

「ジョギングのスタミナはともかく、こっちは相当だな」

「あ!もう…!またそうやってからかう…!」

 とはいえ、体位を変えて立て続けに二度掘って貰ったヤクモは、流石に疲れが濃く、気だるくも心地良くなっている。

 充満する雄の匂いが、焚かれた御香の甘い香りに紛れて薄まる中で、ゲンエイは「少し休憩しよう。眠ったらどうだ?」と

ヤクモの頭を撫でた。

 兄弟子の体温を感じながら、秋田犬はうつらうつらと寝ぼけ眼になり、抱き込むようにゲンエイの腕に縋る。

「高弟達のこんな姿を見たら、弟弟子達は驚くだろうな」

 ゲンエイのそんな声を聞きながら、秋田犬は思う。後継者には誰がなるのだろうか、と。

 自分がアグリッパの名を継ぐ事はないだろうと、ヤクモは確信している。優秀な者がたくさん居る中で、自分が相応しいと

は思えない。

 ゲンエイが次のアグリッパになるのだろうか?

 そう考えると、ヤクモは胸が苦しくなる。

 ここで立派な術士になったら、河祖下へ帰って主に仕え直す。それがヤクモのぼんやりとした目標。要らぬと言われたらそ

れまでだが、役に立てる男になって一度は帰ろうと決めている。

 もしも。

 そう、もしも。

 ゲンエイが次のアグリッパにならなかったら、一緒に河祖下へ越せたらいいなと思っている。

 ユウヒとゲンエイは気が合うとは思えないが、特に相性が悪いとも思えない。双方が相手をどう評するのか興味があった。

 ユウキはきっと面白がるだろうと思う。優秀な術士が居れば部隊戦術の幅も広がる。キリグモの件を考えれば無条件に採用

し、重宝するとも思えないが、それは時間をかけて変えていける物だと思う。

 ユウトはもう随分育っただろう。活発な娘を見るトナミは、どんな具合に毎日を送っているのだろう。フレイアはちゃんと

会いに行けているだろうか。御庭番の皆は…。

 気になる事も多いが、他の何よりも、ヤクモには望みがあった。

 自分が育ったあそこを案内したい。連れ出されるあの日、短時間しか滞在していなかった兄弟子に、美しい景色を見せたい。

 兄弟子の体にすがり付いてまどろむヤクモは、程無く寝息を立て始める。

 そして、松が並ぶ懐かしい山道に、ゲンエイと供に立つ夢を見た。




 それから十数時間後。

 OZのグランドメイガス、役職者、そして貴賓は、夜空が広がる空間に、揃って跪いていた。

 無限の星空がどこまでも続くそこには、壁も床もない。一同が跪いているのも地面ではない。しかしそこには不可視の足場

がある。

 透明な床がある訳ではない。大気を凝縮して作った足場がある訳でもない。厚みゼロ、空間がその面だけを不可侵にする事

で、一同はそこに立つ事も跪く事もできる。ひとの業ではないが、ここではそれが極々普通の事となる。

 その、早々たる面子が揃って頭を垂れる先に、天蓋付きの寝台が浮かんでいる。

 象牙色の寝台…白く薄いヴェールが幾重にも天蓋から垂れて覆い隠す、巨大なそれの内側から、静かに、微かに、衣擦れが

聞こえて、ヴェールを通して何かが動いたのが薄っすらと見える。

 ここは、このイマジナリーストラクチャー、研究都市OZの核。「離宮」と呼ばれる空間。この領域を創造し、今も維持し

続ける存在が身を置く寝所。

 すなわち、一同が謁見している相手はワールドセーバーである。

「…御苦労」

 ヴェールの向こうから幼い声が聞こえると、一同はより深く頭を下げる。

 ほどなく、天蓋から垂れた幕が数枚、カーテンを開けるように滑って、薄くなった帳の向こうに寝台の内側が透けて見えた。

 広い広い寝台。巨大な枕と過剰なまでのクッション。どれほどの厚みなのか少し見ただけでは判らない布団。その中に、小

さな小さな幼子の姿がある。

 薄桃色を帯びた銀の髪。磁器のように白い肌。そして、発光しているような薄桃色の瞳…。身に纏うのは、フリルが柔らか

く踊る純白のネグリジェ。

 人形のように整った顔立ちの、美しい女の子…。十歳にもならないように見える彼女こそが、このOZを造り、今も維持し

続けているワールドセーバー。

 しかし統治者という訳ではない。彼女はOZの在り方を住民達に委ね、世界の行く末を現行人類に任せ、一切干渉しない。

昔からずっと、ここで多くの時間を眠ったまま過ごしている。

 その理由をOZの住民達は知っている。彼女が幼子の姿である理由も知っている。だからこそ最大限の敬意と敬愛をもって、

彼女が目覚める度に謁見する。

 「常夜を統べる髪」、「上がらぬ帳に隠れるもの」、「なべて明日を夢に見る方」、「七人のオールドミスの一人」、そし

て、「かつて星を救ったひと」…。彼女を言い表す言葉は数多くあるが、OZの住民は敬愛を持って「眠り姫」と呼び、外の

人々は畏怖を持って「夜の女王」と呼ぶ。

「ラスプーチン…。久しいわ。お元気そうね」

 鈴が遠くで鳴るような、大きくはないのによく通る、耳に心地良い声を受けて、

「は。お目覚めの時に列席できました光栄を喜び、ご尊顔を拝謁できました栄誉を噛み締めております」

 賓客である髭男は最大限の敬意を払って返答する。

「堅いのね。息がつまるわ。そうだわ、ヴェルヅァンディはどんなご様子?」

 幼女が発した言葉に、何でも無いように含まれていた名に反応して、一同は軽くみじろぎした。その芳名を耳にするのも恐

れ多い、と。

「…相変わらずと申しますか、再結合には遠いとの事で…。未だ顕現なされませぬ。というか拙僧最近若干避けられておるよ

うな気がしなくもないのですが…」

「だってあなた、うるさいんだもの」

「なんと!」

 ややショックを受けるラスプーチン。幼女は構わずひとりごちる。

「そう。あのひとは一番酷い傷を負ったもの、わたし達以上に弱っていて当然。寂しいけれど、仕方がないわね」

 寝台の中で上体だけを起こしている幼女は、ゆっくりと上を仰ぎ、遠い目で偽りの夜空の向こうを見遣った。

「ニブルヘイムを維持し続けるのに相当な力を削がれているから、希薄になった存在を保ち続けるだけで精一杯なんでしょう。

…今でも、自分自身よりも世界を守護する事の方が大事なのね、あのひとは…」



 同時刻。

 OZに浮遊する無数の島。その中の一つに、航路が一本しか繋げられていない島がある。

 中世の貴族の住まいにも似た、防壁に囲まれた巨大な館が聳えるそこは、かつてグランドメイガスのひとりが住まい、かつ

て存在した学派の本拠地だった島。そして今では、その学派の長が残した禁忌を隔離する孤島。

 常時六名からなる見張りが船着場に詰めているそこへ、交代要員が乗せられた船が到着する。

 暗号をボソボソと言い交わし、双方の身元の確認を終えた後で、やっと勤務明けだと軽口を叩いて気を緩めた男達は、気付

いていなかった。

 到着した小船には、実は七名乗ってきていた事に。

(さて、見張りは誤魔化せたが、あとは侵入手順が正しいかどうかだな)

 見張りを尻目に悠々と船着場を後にし、館へ向かうのは黒髪の青年。

 知られていない形式の隠匿術…ワールドセーバーの奇跡を応用した高度な被認迷彩を纏ったゲンエイは、館への道を閉ざし

た巨大な門扉を見上げた。

(この向こうにタブーが保管されているのか…)

 聳え立つ鋼鉄の門扉に見えるそれをしばし見上げていたゲンエイは、そっと手を上げると、しばし精神を集中してから、扉

の表面に指で文字を記す。

 かつてここを中枢とした学派の名と、OZの創造主たるワールドセーバーの名。そのアナグラムが開門のパスワード。これ

は、ここを潜った者の痕跡…すなわち残留思念波をトレースする事で得る事ができた。

 門その物に動きは無いが、解錠の手応えはあった。ゲンエイはそのまま足を進め、門扉にズブリとめり込み、液体を通過す

るように門を潜り抜ける。警報はパスワードを盗むのと同様の手順で解除しており、誰にも動きを悟られない。

(グランドメイガスが時々確認に入っているおかげで、侵入も可能になる)

 数ヶ月に一度点検に入るいずれかのグランドメイガス。彼らの来訪が残したその薄い残留思念波を正確に読み取る事で可能

になるセキュリティ突破方法…。これは世に言うサイコメトリーという物に近い。ただし、長い時間が経過した状況で目当て

の物を正確に読み取るのは、現アグリッパと遜色ないレベルの精度が無ければ不可能である。

 ゲンエイはこの精度を常に伏せてきた。他の高弟にも、師にすらも。だからこそこの侵入は誰にも予見できなかった。

 ゲンエイの目当ては、遥か昔にこの館で研究されていた禁忌の術…その痕跡。

 図書館で調べると、許可が必要な上に履歴が記録される。だから、動向の痕跡どころか興味がある事すら知られたくなかっ

たゲンエイは、まっとうな手段で記録を調べるのではなく、現地で情報を漁る事を選んだ。

 「眠り姫」が目覚めた今が侵入のチャンスだった。グランドメイガス全員が離宮に赴いているこの状況は、いつ誰が注視し

ないとも限らない普段と比べれば圧倒的に手薄と言える。

(正門から入れるな…)

 敷地内を躊躇いなく進むゲンエイ。

 この行為は違反などという生易しいレベルに留まらない、OZその物への反逆。ゲンエイはそれを理解しながら行動に及ん

でいる。

(綺麗なものだ…)

 埃もない、自浄作用が保たれたままのエントランスへ踏み入ったゲンエイは、広い空間を見回す。セキュリティはまたして

も難なく解除できた。警報が鳴るどころか、ゲンエイの息遣い以外に何も聞こえず、空気は静謐に淀んでいる。

 左右と正面に階段があり、ぐるりとエントランスを囲むように廊下が巡る。そこにびっしりと並んだ扉は、一つ一つが広い

研究室や資料室に繋がる。瀟洒な洋館の内側、そんな体が保たれた内装に、かつての主の気品が窺えた。

 青年は迷わず正面の階段を登り、二回廊下中央の扉に手をかける。その奥にあるはずだった。かつての長の私室と、その向

こうに隠された禁忌の研究室が。

 ゲンエイは扉を開け、ひとが暮らしていた頃と変わらない廊下を抜け、もう誰も帰る事のない居室に踏み入る。

 天蓋つきのダブルベッドが目を引くその部屋には、食器棚やテーブルセットもそのまま残っていた。本来外面と接していな

い屋敷中枢に位置しながら、窓からは庭と正門が覗ける。当然、位置関係も距離も物理的にあっていない。

 秘匿された研究室に至る入り口を探しながら、ゲンエイはふと、棚の上の壁に飾られた肖像画を見遣る。

 そこには、十歳になったかならないかという男の子を挟んで、椅子にかけた貴婦人と、ふたりを見守るような位置で立つ長

髪の中年紳士の姿が描かれていた。

 婦人はブロンドだが紳士と男の子は黒髪。男の子の愛らしい顔立ちは母親似と見える。

(一門最後の指導者、そしてその婦人と息子か。妻と子を失ってからおかしくなったという事だが…)

 紳士の顔は資料で知っていたが、家族の容姿は初めて見た。この部屋で暮らした家族の肖像を前に、しかしゲンエイは外見

情報を得る以上の物は感じない。

(…ここか)

 家族の肖像の下で棚が少し浮き、横へずれる。下から現れたのは壁と床の境目にぽっかり空いた降り階段。

 アグリッパの塔と同じ、石積みの壁に囲まれた階段を降りてゆくゲンエイは、集中して残留思念波を拾う。

 石段を降りてゆく紳士の背中が見えた。疲れ果てた背中は曲がり、老人のようにも感じられる。

 突き当たりの扉をスゥッと抜けて消えたその姿を追い、ゲンエイは館の最奥に至った。

 そこは、石積みの壁に四方を護られた密室。殺風景な広い部屋の中央に、角ばった巨大な水晶体が鎮座している。

 当時そのままに設備が残された部屋で、ゲンエイは思念波の名残を見た。

 紳士が水晶体をじっと見つめている。

 中に、眠るように目を閉じた男の子が浮いている水晶体を。

 紳士は血走った目で水晶体に触れる。水晶体の台座には辞典の様なグリモアがセットされ、紳士はそれと良く似たグリモア

を左脇に抱えている。

 水晶体が脈動するように発光し始め、紳士の目から急激に光が失われてゆく。そして、水晶の中では何らかの副作用が生じ

ているのか、男の子の髪の色が薄れ、灰色に変じてゆく。

(なるほど、これが禁忌の真実…。おそらくグリモアを媒介にした思念波の伝送を応用した術か…)

 ゲンエイは理解した。

 自分は今、OZの永い歴史における最大の汚点、「魔人ロキ」誕生の瞬間を見ているのだと。

 水晶体の中で男の子が目を開ける。同時に、紳士が膝から崩れ落ちて床に倒れる。

 思念波で物を見ているゲンエイには、何が起きたのか判っていた。

 紳士の中から「情報」が失われ、空っぽだった男の子の中に移し替えられていた。

 男の子は水晶体の中で手を胸元まで上げ、それを見下ろし、動作を確認するように手を開き、握る。その中身は、直前まで

紳士だったもの。

 肉体の寿命が更新され、ここからまた探求と観察に時を費やせる。

 人格転移術。

 かつてこの部屋で行使されたそれこそが、ゲンエイが求めた術。手を出した事が知られればただでは済まない禁忌だが、そ

れすらも彼にとってはどうでもいい。

 正直なところ、ゲンエイにとって術士の本懐などどうでもいい。OZの悲願も大望もどうでもいい。次期アグリッパという

立場にも興味は無い。

 兵器となるべく生み出された。拾われて育てられた。OZで学ばされた。その人生に、主体性を持って選んだ要素は一つも

無い。あるいは兵器としての製造過程が影響したのか、その精神性は生まれつき「ひとに良く似ていながらズレがある」物と

なっていた。

 他にするべき事がなく、目的もないから、今の立場で望まれるように振舞っているだけ。軽薄なお調子者に見えるのは、そ

う演じている本人がひとの心を理解できず、理解しようとも思わないまま、とりあえず警戒されない程度に振舞えればいいと

思っていたから。

 軽薄で優秀で無害な高弟を演じ続ける…、そんな人生を過ごして死ぬのだと、ゲンエイは考え続けていた。生きる事に執着

が無く、意味の無い人生だと感じても、死のうとは考えなかった。生きる事も死ぬ事も平等に無意味だったから。

 だがそんなゲンエイは、執着対象と出会った。

 板前八雲。

 ウォーマイスターの配下として生まれ、そこから出された術士の少年。望まぬ形で生を受け、不要とされてそこから出され、

OZに放逐された者…。少なくともゲンエイにとって秋田犬はそう見えた。

 自分と似た境遇の存在で、能無しであるが故に不用とされただろう秋田犬は、己の無知を補おうと足掻いた。いつか有能に

なって故郷へ帰りたいと、己を必要とされたいと、滑稽なほど諦め悪く。

 何故自分を棄てた者へ、放逐した者へ、なおも寄り添いたいと願うのか?その感情は理解し難い一方で、同時に興味を覚え

た。どうして自分とは違うのだろうかと。

 だから、執着無く、当たり障り無く、無難に接してきた無価値無関係な周囲の皆の中で、ゲンエイには秋田犬だけが「特別」

だった。

 彼への配慮は掛け値のない、本当に大切に想うが故の物だったから、弟弟子は応えるように懐いてくれた。そうなるよう振

舞ったゲンエイの期待通りに、尊敬し、慕い、見つめてきた。

 快感だった。生まれて初めての快感だった。他者がそう思おうが、どう褒めようが、響く物がなかったゲンエイに、ヤクモ

の眼差しだけは快感をもたらした。元々何も欲しい物がなかったゲンエイにとって、ヤクモの視線と意識は別格の、初めて心

の底から「欲しい」と思えた物だった。

 それを失う事…、この世でたった一つその事だけは、耐え難かった。

 そこでゲンエイが考えたのは、最悪の事態…ヤクモを失うという事態への対処手段。

 護り切る自信はある。ヤクモもそう簡単に潰れはしない。しかし絶対とは言い切れない。だから探した。

 護り切れなかった場合、ヤクモを失ってしまった場合の対処手段を。

 そして、OZで禁忌とされるそれを、ゲンエイは躊躇う事なく選択肢に加え、ここを訪れるチャンスを待っていた。もしヤ

クモが殺されても、その人格を別の肉体に移し替えればいい、と。ゲンエイにとっての問題は、それがどのような術なのかと

いう点であって、禁忌であるかどうかなどどうでもよかった。

 もっとも、人格転移術の危険性についてはゲンエイも知っている。転移する際に生じる情報の劣化により、「決してそのま

まではいられない」という危険性は。

 故に、ヤクモに使わざるを得なくなった時に備え、まず自分が危険性を把握しておく必要がある。

(さて、詳細はここで調べられるが、今見たケースは肉親の身体間での人格転移だという事は押さえておかなければ。他人同

士の身体の場合でも成立するのかどうかも含めて、チェックすべき事が多い)

 とはいえ協力者など得られない。内密に進める必要がある。となれば…。

(僕自身で実験するのが堅実で確実だろうな。それはそれとして、転移先を含めた「材料」も必要になる…。そうだ。「彼ら」

を材料にすればヤクモの安全も守れて一石二鳥だな。さて、これから忙しくなりそうだ)




「ジョバンニ、ゲンエイさん見なかった?」

「え?見てないけど、約束でもしてたの?」

 塔の一階、広いロビーの隅に何セットもあるテーブルセットで、後輩達と昼食を摂る赤毛の青年に、「いや、約束とかはな

いんだけど…」とヤクモは耳を伏せる。

 兄弟子が不意に居なくなるのはいつもの事。何処をフラフラしているか予測もつかないのは普段から。ただ、今日はグラン

ドメイガス達が謁見に赴いているので、師の付き人として働いている訳ではないはず。暇があるなら一緒に居たいと考えてい

たのだが…。

「ごめん、邪魔した。ちょっと図書室探してみる」

 塔の出入り口に向かって歩き出したヤクモは、小脇に菓子が入った袋を抱えていた。

(ゲンエイさん何処かな…。良いお茶とお菓子が手に入ったんだけど…)

 独り、秋田犬は行く。兄弟子の姿を求めて。

 この日を境に、アグリッパ派の学徒に起こる「不可解な事故」は減少の一途を辿り、やがてゼロになる。

 そして、他の学派からは日をおいて、高弟を含めた幾人かの行方不明者が出始める。

 紅茶に沈む角砂糖のように、穏やかな日々は静かに、滑らかに、不可逆に、崩れ出し、「幻影」の胎動が始まった。