惜別の潮騒(前編)
チチチ、と小鳥が囀る声が、朝もやが消えたばかりの森にこだまする。
二羽、三羽と、枝から枝へ飛び移る影が見えたかと思えば、何かに驚いたのか、七羽ほど纏めて羽ばたき、それにつられて
十羽余りが飛び上がる。
下生えがうっそうと繁茂し、蔦が巨木に巻きついて這う、山深い窪地。小動物や鳥が活き活きと暮らすそこで、「異変」は、
当事者達にすら異変と知覚されないまま進行する。
その変化は、傍から見ていても気付けなかった。
小鳥の声が一羽分消えていた。
次いでもう一羽分が、さらにもう一羽分が、囀りの輪から外れる。
枝から枝に跳んで回る小鳥達は、しかし減っている事にまだ気付けない。無くなった三羽の声を異変と認識できない。
そこに外敵はなく、危険はなく、一羽たりとも危機を察する事はなく…。
ただ、ただ、ぽっかりと、三羽が唐突に消えたという事実だけが残った。
何が起きたのか、知っている者はしかし皆無ではない。
その窪地から這い出るように、斜面を登る何かが居た。
ゆっくりと、しかし力強い歩みで、前傾しながら斜面を移動して行くそれには、奇妙なほど無かった。およそ気配と呼べる
ような物が。
よくよく見れば、それは獣人である。
肉付きのいい固太りの体躯は、まるでゴロリと転がる自然岩のよう。
赤銅色の体躯に纏うのは、茶色い毛皮を加工した衣。白が混じるそれは鹿から剥いだ毛皮を雑に縫い合わせ、甚平の形に仕
立てた衣服である。
十一歳。まだ仔熊と言える歳だが、しかし体つきも既に大人顔負けの大きさと逞しさ。既に顔からは幼さが失せており、野
生動物のように表情がない。
口元をベロリと舌が舐める。己が死んだ事も気付けぬまま捕食された三羽分の鳥の血が、綺麗に拭い取られた。
ラン。
仔熊は父によってそう名付けられた。嵐の一文字を以ってその質を表現され。
しかし、ランにはもう名を付けてくれた父も、産み落としてくれた母もない。
朝餉として小鳥と山菜類をとって食い、岩溜まりの湧き水を手で掬って飲み、音も立てずに緑の中を移動するランは、もし
その姿を目にできる者があったなら驚かれるだろう。
まるで実体がない幻のように、音が無く、気配が無く、痕跡が無い。生い茂る草を揺らさず、足音も全く立てない。像だけ
がそこにあるように現実味が薄く、野生動物ですら接近を察知できない。その荒々しい名に反するように、草木の呼吸や大気
の流れに紛れて消えてしまうほど気配が希薄だった。
やがて、移動し続けたランは朽ちた巨木の根元に立つ。太い根の間から立ち枯れた巨木の下に掘った穴、それがランのねぐ
ら。元々は狐か何かの巣穴だったらしい所を掘り広げたそこは、大雨になっても奥まで吹き込まないほど深い住居。
ランは入り口脇で太い根に腰を降ろし、何を見るともなくじっと、折り重なる緑の向こうに目を向けていた。
しばしあって、その視線の先に影が現れる。
それは、左耳が半ばから欠けている、厳めしい風貌の熊だった。骨太で筋肉質な全身は巌のようで、赤黒い体躯の上に毛皮
を加工した甚平風の衣を纏っている。
大柄な熊の偉丈夫は、名を祉城電吉(しじょうでんきち)という。
「お早うございます。ラン様」
かしずいて挨拶したデンキチに、ランは無言で顎を引いた。
「では、本日の修練を始めましょう」
朝食を済ませたかどうかは訊かない。独力で生き抜く事もまた修練の一環なので、従者ではあるが世話を過分に焼く事はない。
デンキチの言葉に頷いて、ランは腰を上げ、先導する彼について行った。
やがてふたりが足を止めたのは、下生えの草が周囲よりやや薄くなった場所。この山野を修練の場とするふたりは、痕跡が
濃く残らないよう、こまめに位置を変えている。そうでもしないと草木がそこからだけ消えてしまうので。
「では、始めます」
言葉少なく腰を落とし、半身に構えるデンキチ。
顎を引き、軽く膝を曲げて足を踏み出すラン。
直後、ランの体が前傾するや否や、ボウッと風を鳴かせてデンキチに高速接近する。
疾走に腕の振りが伴われない独特な姿勢。そこから、無造作に体の脇に垂らしていた両腕が動く。ランの両手首から先を燐
光…それも、高密度の眩い力場の塊が覆っている。
迷い無く、接近速度から伸びた右の抜き手が大気を抉る。しかし胸部を狙うこれを、デンキチは全力で形成した力場で覆う
左腕で弾く。
次いで、ランの左手が翻る。今度の狙いは頭部だが、デンキチはこれも集中させた力場で防御を固めている左腕でいなす。
間髪入れずランの体が翻り、旋回にあわせた回し蹴りが、高密度の力場を纏ってデンキチの胴を両断すべく唸る。熊の偉丈
夫はこれに左腕を合わせて受け、蹴りの勢いを殺しつつ脚払いをしかける。その足の甲もまた、当たれば対象を破砕する力場
に覆われていたが、ランは片脚を軽く跳ね上げてこれを避ける。
そしてドンと、地を鳴らして両者の足が踏み締められると、その場での打ち合いが始まった。
力場を纏う拳を拳で、脚を脚で、攻め、弾き、打ち、払い、足を止めてぶつけ合う。弾けて砕けて、力場が火花のように光
の粒子を散らし、両者の間で間断なく轟音が響く。
一撃入ればそこが無くなる一撃を、無数に叩き付け合う荒行。それは、真剣を持ち出し防具無しで立ち合うような物。それ
を十一の子供が歴戦の猛者と繰り広げる。互角に、である。
神壊式の操光術は、本家である神代の操光術と大きく異なっている。
全身に力場を纏って身体を補強し、仕掛ける攻撃に合わせて力場の放出を行なうのが神代式。程度やバランスの違いはある
が、鳴神を祖とする他の流派同様、オーソドックスなスタイルと言える。
しかし神壊式だけは、同じ源流を持ちながらも、その基本運用部分からして他の流派と違う。
全身に纏う力場を極々薄いものに留め、防御に割かない出力を攻撃に振り分ける。これにより攻め手は出力が集中されてよ
り強いものとなる。
その反面、力場による身体補強…駆動負荷の緩和や、物理的衝撃への常時耐性という特長が殺されている。力場の防御運用
や負荷対策での身体補強については、その都度任意で出力を振り分け直して展開する必要があるため、判断を誤れば無防備に
攻撃を受ける事にもなるし、負荷や反動で身体を痛める事も有り得る。
具体的には、全く同じ力量の者同士でも、神代式で攻め手の出力10とすれば、神壊式であれば15。基本防御幕の頑強さ
は神代式10に対して神壊式は5。外部からの衝撃のみならず、肉体を負荷から守る効果も薄いため、状況に応じた調整を行
なう技能が必須となる。使用者のセンス如何によっては、その戦闘スタイルで闘うこと自体が自殺行為にもなる、尖りに尖っ
た配分と言えた。
父が討たれて六年。主君が落命して六年。隠れ里を出て六年。落武者となった皆から離れて六年。神壊の眷属、デンキチに
よって連れ出されて六年…。
力以外の何も求めず、強さ以外の何も欲さず、鍛錬に全てを注ぐ日々。この六年を経て、ランの力は既に、かつての裏帝臣
下の中で上位と目された精鋭達を超えるほどにまで伸ばされた。
デンキチは眷属の中でも上位に位置していた猛者。神壊の操光術と体術の大部分を修めた、皆伝の腕前である。隠れ里が壊
滅した今、師として彼以上の適任は居ないのだが、単に教え手が良かったからという理由だけでこうまで成れた訳ではない。
ランには天賦の才があった。葬(はぶ)る者として、屠(はぶ)る者として、破府(はぶ)る者として、デンキチが深く感
嘆するほどの才能を幼い時分から覗かせていた。
ライゾウに比肩し得る。ともすれば彼すら超える可能性すらある。デンキチはランをそれほどの逸材…歴代の神壊で最強の
男となれる可能性がある子供だと確信して鍛え込んだ。
その結果として、ランは感情の起伏が殆ど無い、表情に乏しい子供に成長した。あたかも、監禁と拷問が長く続いた囚人の
ように。
その拳には驚くほど、躊躇いも無駄もない。
兵器。
今のランを表現するのであれば、その呼称が最も本質に近い。
あるべき形に落ち着いた先祖返りの体。
襲い、葬る事を追求して身に付けた技。
それは全て、たった一つの目的のために。
主君の仇を討つ。仲間の無念を晴らす。帝に、神将に、復讐を果たす。
それが、ランが描く未来であり、たった一つの目的。
報復者。
ランに与えられたのは、そしてラン自身が望んだのは、そんな役割。
その過程で、少年の顔からは幼さどころか、他の物も抜け落ちたように消えている。
虫でも鳥でも蜥蜴でも、食える物なら何でも食った。
生きるために…ではない。成長するために。大きくなるために。力を蓄えるために。生きる事も含めて、全てが目的を果た
すために行なわれてきた。
力場が出なくなるほど長時間、繰り返し実戦形式で稽古を続けた両者の頭上で、今日も日が暮れる。
操光術の発光が目を引かないように、戦闘の修練は日中に限って行なわれ、日が落ちてからは野戦行動と隠密訓練。それが
毎日繰り返されている。
修行が切り替わる間、短い休息の時間で、デンキチとランは食事を済ませる。
今日の夕食は猪。ランが仕留めてきたそれを、ふたりは操光術の応用で毛皮を焼き裂きながら解体し、掴んだ生肉を力場の
崩壊熱を加減して焼きながら食らう。
地べたに腰を下ろして向き合い、黙々と食事するふたり。子供とは思えないほど大きくなったランは、180センチのデン
キチを明日にも追い抜こうかという背丈なので、遠目に見れば似ている。
「かつて、ライゾウ様に率いられ、猪の群れを駆除した事がありました」
デンキチはおもむろに口を開き、ランは手を止めて師の顔を見つめる。
「無論ただの猪ではありません。瘴気に中てられ、あやかしの類となった猪の群れでした」
時折、デンキチはこうして休憩中に前当主…ライゾウの話を聞かせた。息子が父の口から直接聞けなかった、数多くの武勇
伝と戦果について。
「あの時、こちらは総勢七名と、隠神の眷属達の支援。対して猪共は六十余りで…」
道がある。
地均しされたように細木も草も踏み潰されたそれは、月光注ぐ山中を貫く、真新しい道に見える。
しかしそれは、ひとの手による造成ではない。よくよく見れば無数の足跡が踏み躙り、踏み砕き、踏み固めたが故の、意図
されぬ結果である。
地面に落ちている厚みを失った木の枝に、赤銅色の手がそっと乗せられた。
「………」
無言で地面の堅さを確かめるのは、身の丈八尺を超える巨躯の大熊。作務衣にも似た闇色の衣を纏う巨漢は、しばし地面の
固さを確認した後で顔を上げ、道の先を見据える。
「追跡中の隠神一派からは、群れは一直線に移動中。この分では蔵敷市街地方面に至る可能性もある、と…」
巨漢に報告したのは後方に控えたデンキチ。ライゾウの後ろには彼を含めて六名の配下が居並ぶ。
隠れ里を離れ、少数精鋭を率いて御役目に当たったライゾウ達一行は、目的を達したその帰りで出くわしていた。異常な雰
囲気…、毒にも似た刺激臭と、悪寒を抱かせる気配を持った、やけに牙が長く伸びている一頭の猪と。
何か良くない物に触れた野生動物かと考え、凶暴化しているソレを仕留めた一行は、しかしソレの死骸を埋めて処分してい
る間に、さらに三頭、同様の気配を持つ猪を発見した。
ライゾウはそれを、何らかの事情で「瘴気」を帯びた存在と断定、帰還を中断して殲滅を宣言した。
瘴気とは、何らかのエネルギー体のようでもあり、気体にも似た性質がある、詳細が未だ判っていないモノ。非常に悪い質
を持つ残留思念波の一種とも取れ、生体が帯びた場合は凶暴化したり発狂したりと、不可逆の変異が生じてしまう。
慣習的に害悪以外の何物でもないと伝えられ、隠れ里では「性、悪にして、質、毒である」と称される。敵である帝や神将
軍とは別に、逆神達が優先して対処すべき「国を脅かす害悪」の一つ。
隠神の眷属の中でも腕利きが配備された二番隊が、たまたま別の御役目…偵察任務で近場に出て来ていたのは幸いだった。
機動性と隠密性を活かして囲い込んだ狸達は、ライゾウが思い描いた通りの働きで猪を一塊にしてみせた。
が、理想的に事を運べたのはそこまでだった。
猪達は、集められたそこから、決壊した川の水のように一気に移動し始めたのである。凶暴性が増し、障害物もお構い無し
に突進するそれらは、まるで何かを目指しているようにも見える有様で…。
「浅学の身故、細かな事は判らぬ。が、飛蝗の類には集まると気質や体質を変えるものがあると、シモツキ殿からお聞きした
事がある」
ランゾウはかつて話を聞いた「相変異」について配下に語った。大量発生し、群れの密度が高まる事で、群生相という形質
変化を見せるバッタがある、と。気質のみならず、身体的な特色まで変化するその現象は、主に虫達に見られる物なのだが…。
「瘴気に中り、「まっとうな生き物」でなくなった獣を「普通」と断ずる事はできぬ。普通には起きぬ事も起き得る物」
朴訥な物言いと平時の寡黙さから誤解されがちだが、ライゾウは非常に明晰な頭脳を持っていた。異常事態の中で起こる異
常、予定の中で生じる予定外に、天性の勘で知識を当てて本質に迫る。決して武力一辺倒ではなく、野生の直感と冷静な思考
で事を把握するが故に、逆神最強だった。
判断は早かった。機動性に優れる隠神の眷属達に指示を出し、回り込んで幻術を仕掛けて進路を変えさせ、移動先に陣取っ
て迎撃する作戦を立てたライゾウは、そこで配下に命令した。
「前に立つ。抜けた猪をふたり一組で討て」
かくして、山を切り拓くように突撃してくる猪の群れが上げる土煙が、迎え撃つ七名に迫った。木々を薙ぎ倒して奔流のよ
うに突進してくる猪達の姿に、デンキチですらも寒気を覚えた。
標準的な猪よりも大きい、おそらくは瘴気で変質し、第二種危険生物級となった獣達。いやに黒々と光る凶眼の群れ。巨躯
の熊はそれらを真正面から見据え、両の手に光を宿す。
「無量(むりょう)」
揃えて掌を正面に向け、突き飛ばすように伸ばしたそこから、光条が一本伸びた。一瞬で彼方まで到達したそれは、直径2
メートルほどの柱状の閃光。力場の放出ではあるが、単純な放射ではない。
それは、範囲と射程を設定され、その中に展開された高密度の力場。神壊が手足に纏う、対象を跡形もなく崩壊させる力場
の拡大展開である。それ故に崩壊熱や衝撃の余波が拡散せず、周囲に飛び火する事もない。
光柱は突進して来る猪の群れ…その中央を通過し、ジュッと微かな音を立て、範囲内の物を分解した。
鋭利な刃物で切り取ったように、範囲内だけがごっそりと消失している。中には体の半分を抉り取ったように消し飛ばされ
て、走って来た勢いそのままに倒れこんで滑る猪もある。
とはいえ、中央を吹き飛ばしただけ。半数以上はそのまま突進して来るのだが、ライゾウは怯まず前へ。
一閃されたのは左の手。手刀が振り下ろされた下で、頭部の中央を通過した範囲で消し飛ばされた猪が絶命する。
次いで空に焼き付けられるのは、回し蹴りの弧。あえて滅失の力場を纏わずに蹴り飛ばすことで、一頭を屠り、飛ばした先
で巻き添え死を誘発する。
それは、激流の正面に立って、己の五体でそれを切り分けるようにも見えた。一挙手一投足が無駄なく、慈悲なく、滞りな
く命を絶つ。間合いに入ったが最後、即座に葬る。
しかし、既に恐怖感も野生の勘も失われ、ただ突撃するだけの存在となった猪達は、ライゾウの働きを前にしても怯まない。
もはや生物としての基本的機能…生存本能や欲求まで失っている。
巨熊の手足が届かない位置を、数匹の猪が通り抜ける。デンキチ達は言いつけられたとおり、抜けた猪一体につき、ふたり
で仕留めにかかった。
それは最適な割り振りであった。
ひとりで一体でも無理はない。斃される事はない相手ではある。が、足止めとトドメに役割分担し、ふたりでかかれば仕留
めるのは一瞬。散発的に抜けて来る猪を、余裕を持って屠り、取りこぼす事はない。
戦闘行動は僅か五分足らずで完了した。
大半をライゾウが葬り、数体は配下が残さず仕留めた。念のために広く間合いを取って包囲陣を敷いていた隠神の二番隊は、
感嘆しつつも、出番がなかった事がいささか不満そうだった。
息一つ乱さず、事を済ませたライゾウは、淡々と指示を下して後始末に入った。
瘴気の出所については、隠神の眷属達が短時間の捜索で突き止めてのけたので、何者も近付けないよう位置誤認幻術をかけ
させた上で措置に臨んだ。
結局、土中に埋まっていた即身仏が原因だった。数百年は前の物と思われるが、何らかの理由で掘り起こされ損ねた即身仏
が、装具が遺物だった事による相互作用によって、一種の思念波吸引装置となってしまっていた。
実際のところ、負の思念を吸い寄せるというその作用は間違いなく聖人の偉業で、在るだけで近くの者は穏やかな気持ちに
なれる。…のだが、ひとの世はとかく業深い物。集め集めてキャパシティオーバーに至ったようで、霊験あらたかな即身仏は
呪詛の塊のようになってしまっていた。
一同は隠れ里のしきたりに従った作法で即身仏を清めて瘴気を消し、土中の石室に収め直して供養した。
ライゾウは手を合わせて長く黙礼していた。
死してなお、人知れず太平の世を守る僧侶に敬意を払って。
「あの猪退治は例として最たる物。適したところに適した力量を割く…、力場の配分も同様です。御父上は戦技においても戦
術においても、その判断を誤られる事はございませんでした」
話を終えたデンキチは、ランにそう説いた。
語る武勇伝のどんな事柄も、ただ戦術の解説として伝えられるのみ。その背景も顛末も重要視しない。
そして、ランはデンキチから語られる事と解説を素直に受け取った。垣間見える父の横顔に興味がない訳ではないが、訊こ
うとはしなかった。
解説しないのは、その必要がないから。デンキチを信頼するが故に、ランはそう解釈した。
ランは既に正常ではない。
情感が育まれ、人格が形成される時期…。多感な季節に得るべき物を得ず、与えられるべき物を与えられなかったランは、
子供らしさどころか、ひとらしい情緒が殆どなくなった。
それが良いか悪いか、それすらも考えないほどに歪な、しかし兵器としては優秀な存在に、ランは成り果てようとしていた。
気配を殺して山野を駆ける訓練が終わると、デンキチは自分の居場所に戻った。
木々が鬱蒼と茂る中、盛り上がるように地面から生えた岩に背を預け、目を閉じる。
眠ってはいない。ただ体を休めているだけ。いつも、眠る前に以前のことを思い起こすのが習慣である。
ランを連れ出して以降、寝食は別にしている。早く独り立ちさせるためではあったが、そこに子供への配慮を差し挟む事は
なかった。
デンキチは養育係として、指南役として、ランを教え導き、仕えるべき最後の主君として接した。そこには間違いなく真摯
な敬意がある。
だが、歪んではいた。少なからず。
デンキチは既に、死に場所と死ぬ時を求めて生きている。仇討ちを為して死ぬのが彼の望み。嫌なのは、何も成せずに死ぬ
事だけ。報復という目的と、その先の死のために生きている。
この命を捧げて悲願を成し遂げる。ランを育て、主君の仇を討つために、何もかもを捧げる。
それが忠義だと、デンキチは信じている。
落人達から離れて少し経った頃、デンキチは首尾よく、残党狩りに出ていた帝の近衛をひとり捕らえた。隠神の眷属が自分
達を探すことは判っていたので、動きをだいぶ制限していたのだが、眷属たちの探査網をすり抜けて捕虜を得られたのは僥倖
だった。
デンキチは彼を拷問して戦の情報を得た。
四肢を末端から少しずつ焼き潰し、失血やショックで死なないよう丁寧に扱い、殺してくれとせがむ男をできるだけ長持ち
させて尋問し、デンキチは里の主だった人物の最期を、可能な限り詳細に聞き出した。
神代家の現当主。彼こそがライゾウを討った男。
その事実を知った時、デンキチは少なからず衝撃を受けた。直に聞いた戦況では鳴神の当主と一騎打ちに臨んだと聞いてお
り、ランもその戦闘と、父の負傷を目撃していた。
何らかの理由…おそらく里に火が上がった事で、手負いの状態で離脱したのだろうと察したデンキチは、その後で神代の当
主に討たれたのだと確信した。
それは、神壊の眷属にとって忸怩たる思いを抱かずにはいられない結末だった。怨敵たる神代の当主に、我らが神壊の当主
が敗れた…。その事実はデンキチを打ちのめし、憎悪をより滾らせた。
だが、被害確認に等しい、拷問で得た情報の中で、ただ一つ、気になる事があった。
神無の当主である霜月。彼の死体は特定されず、状況的にこれだろうという候補の焼死体が見つかっただけ。逆神の個体情
報の詳細など帝側には入手できていないので、特定が困難なのは理解できるが…。
一方、神将大神家は当主も妻も長男も討ち死にし、口もきけないほどの重度の火傷を全身に負った老狼と、まだ幼かったせ
いで連れて来られなかった次男だけが生き永らえた。
老いた狼は大神家の御庭番の生き残りによって、瀕死の状態で連れ帰られたのだというが…。
その辺りが、デンキチには気になった。
そんな「都合のいい話」があるわけがない。そう断じたからこそ行動も起こさなかった。
万が一「そうだった」としても、動きが無い以上、隠神の当主同様に日和ったか、臆病風に吹かれたか、命が惜しくなった
に違いない。そう考えていた。
だが、最近思う。
「同じ」だったとしたら?
自分達と同じく、機会を窺い準備を整えているのだとしたら?
否。
デンキチは目を開ける。
計算に入れるべきではない。不確かな推測など程度の悪い妄想に過ぎない。
自分達は自分達で事を為す。予定通りに…。
同時刻、ランは野鳥を捕らえて食事を摂ってから寝床に潜りこんだ。
日に日に大きくなる体に合わせて巣穴も広げてきたが、狭い事に変わりはない。大きな体を丸めた少年は、デンキチから毎
晩聞かされる名を反芻する。
神代熊鬼。
神代家の当主。
討つべき仇の名。
父を殺した男の名。
どんな男なのかは知らない。だが、強敵である事に間違いはない。
だから鍛える。力を得る。
確実に殺すために。最悪でも刺し違えるために。
スイッチを切り替えるように、ランは即座に入眠する。静かな寝息を立て、しかし常に耳は澄ませたまま。
安らぎなどない。体を休め、明日に備えるためだけの休息が始まる。
環境への最適化が進み、ひとから離れゆく少年は、もう夢を見る事も殆どなくなっていた。
降り積もる今を踏み固め、今日より強く在るための明日。
その繰り返しが行き着く先、怨讐の果てに何があるのかすら、もはや考えもしないし想像もしない。
仇討ちを果たす。
今のランには、その他に何もない。
星空を見上げている。
白くてむっくりした熊の少年は、物言えぬ口を少しあけて、ほう…、と夜気に吐息を放った。
烏丸の豪邸。母屋の三階にある一室が、少年に与えられた私室になっている。
開け放った窓から見上げる梅雨あけの夜空は、湿気のせいで星が震えるように瞬いていた。
部屋の中には必要な物が全て揃っている。
大きなベッドは、恰幅が良い、肥満体で大柄な少年にも充分な広さ。
天上まで届く本棚には、欲しいと思った知識がすぐに拾える、豊かに取り揃えられた図鑑類。
机にはクッションも充分な背もたれと肘掛けつきの大きな椅子。卓上には読書を助ける、光量調節可能なスタンドライト。
サイドボードつきの棚には、食器が少しとティーセット類、電気式ポットが収納されており、菓子や紅茶、インスタントの
ココア類も入れられている。
ウォークインクローゼットには、どんどん大きくなる身体にあわせて増えた、余裕がある特大サイズの衣類が並ぶ。
入り口近くの傘立てには赤樫の木刀。鍛錬用のソレは素振りの際の負荷を重視してあり、刀身にあたる部分が太く作られて
いる。
物を欲しがらないのでゲーム機や玩具の類などは部屋に置かれていないが、望みさえすれば過分に与えられる。
散々辛い目にあってきたのだから、せめてこれからは人一倍恵まれた暮らしを…。そんな老人の意向により、故郷も両親も
声も失った少年には、何不自由ない生活が保証されている。
美味しい食べ物。温かな部屋。柔らかい寝床。良くしてくれる屋敷の皆。きょうだいのように親しい少女…。
烏丸の邸宅で暮らすフウは、十一歳という実年齢からすれば驚くほど大柄な少年に成長していた。
身の上が身の上なので学校には通えないが、屋敷に招かれた個人教師によって、同年代の子供と同じだけの学力と知識を与
えられている。
鍛錬も欠かしていないので、太ってはいるが巨体を駆動させるに充分な筋肉がついた。重々しくも逞しい、それでいて柔ら
かな印象も併せ持つ体つきになった。
既に新たな隠れ里に移り住んだ落人達も、稀に様子を見に来て手解きしてくれている。
将来どうするかは、まだ決めていない。無限の可能性…とは言えないが、制限がある中でも選択は無数にある。
ぼんやりとだが、自分は烏丸の中で生きていくのだろうという思いはある。目立ってしまうのはまずいので、トモエの秘書
やボディーガードはできないだろうが、烏丸の中で何か仕事や役目が貰えればと考えている。
トモエ。
フウはその名と供に、泣き腫らした少女の顔を思い浮かべる。
しばらく元気が無かった少女は、今日やっと笑顔を見せてくれた。
しばらくは哀しみに暮れる日々が続くだろうが、寄り沿って慰めてゆきたい。
しばらくすればきっと、前のように明るく快活に笑ってくれるだろうと思っている。
両親を失った自分は声も失った。
だが、トモエは弱虫だった自分とは違うと思う。
強い娘だからきっと大丈夫…。立ち直れるし、歩き出せる…。そう、フウは信じて願っている。
満ち足りた生活を送らせて貰う恩返しに、暖かな日々を過ごさせてくれる恩返しに、少女が辛い時は自分が支えよう。両親
を失った痛みが和らぐよう、
そんな想いを新たにして、フウは思う。
ランは今、どうしているだろう?
隠神の大将は、何処かに身を潜めている、と不定期ながらも探索を続けているが、フウはそれが自分への配慮が半分で、隻
腕の狸自身の淡い希望が半分の行動だと理解している。
そして、大半の落人が、既にランもデンキチもこの世に居ないと諦めている事もまた理解している。
絶対に生きている…とは言えない。その根拠がない。
だが、かつてトライチがこっそり教えてくれた。ギョウブがボソリと言った事を。
―生きとって欲しいと願うぐらいは、敗残兵にも許されるだろう。ええ?―
又聞きだったのに、ぶっきらぼうに慈悲深い、あのひとの声で聞こえた思いだった。
その通りだとフウも思う。
生きていてほしい。そしていつか会いたい。
淡い願いと期待を胸に、フウは窓とカーテンを静かに閉めた。
生きているとは断言できない。だが、兄が死んだという確信は、それ以上に無かった。
星も見ず、夢も見ず、明日も昨日も見ず、土だけを見て眠りにつく、未来を決めた少年。
星を見て、過去を振り返り、思い出と期待を胸に眠りにつく、未来を決めていない少年。
別れて久しい、かつて一緒だった二頭は、もう何もかも違っていた。