惜別の潮騒(中編)
喉が乾いて目が覚めた。
薄く目を開け、音も立てずに身じろぎしたランは、のっそりと穴倉から這い出る。
星も見えない曇った夜だが、暗闇でも問題ない。耳を立て、微かな陰影を頼りに、湧き水を目指して移動する。
途中で足を止め、首を巡らせた。
闇の向こう、窪地を上がった先の岩場がデンキチの塒になっている。
少し気になる事があった。
近頃のデンキチは頻繁に出かけて、数日間居なくなる。
神壊の当主がいずれ挑まなければならない試練の準備をしていると、デンキチは言う。それは神壊の当主が皆通ってきた道
なのだと聞いた。ならば自分も挑まなければならないのだろうと、ランは思う。
しかし、そうして説明を簡単に聞いても、まだ気になった。
デンキチはやつれた。疲弊しているのがはっきり判る。それほどまでに大変な準備を何故自分に手伝わせないのか疑問だっ
たが、ランは何も言わなかった。
デンキチがそう決めたのなら従うだけ。
ランは、唯一の臣下として振舞うデンキチに、全幅の信頼をおいている。
デンキチが言うなら正しい。デンキチが言うならそうするべき。疑問があっても、気になる事があっても、ランはデンキチ
に全て委ねる。
盲目的に。
やがて水の音を辿ったランは、清水が湧く岩の前で屈むと、両手で掬って啜り始める。臓腑に染みるような冷たい水を、美
味そうに喉を鳴らして飲み、一息ついて夜空を見上げる。
ここは、故郷の樹海とは違う。風がゆるく、枝葉があまり歌わない。
潮騒。
あの風と木々の音は、そう呼ばれていた。海の音に似ているからだと、母から聞いた。
だが、ランは海を知らない。海という存在を伝え聞いただけで、実際に見た事はない。見渡す限りの塩の水溜りなど、想像
するのも難しい。
木々と同じ声で歌う水溜り…。自分もいつか見る事があるのだろうか?
そんな考えは、しかし一瞬で頭から抜けてゆく。郷愁を覚える暇も無く。
過去を振り返らず、囚われず、拘らず、今を生きて明日の先へと歩み続ける事だけが、ランにとっての生きるという事。
のっそりと引き返しながら、ランの頭はもう、修練に備えて体を休める事しか考えていない。
程なく塒に潜りこんだ少年は、獣のように体を丸めて眠りに戻った。
「祝言もいよいよ明日か」
新たに造られた隠れ里。そのほぼ中心に立つ小屋で、呟いた隻腕の狸は朱塗りの盃を口元に寄せた。
四隅に灯る燭台の小さな火が柔らかく照らす室内。木目が火の揺れで踊って見える中で、四つの影が囲炉裏を挟んで座して
いる。
ひとりは左腕が作務衣の袖から出ていない、大柄な狸。この小屋の主、隠神刑部である。
しかし今はギョウブの名を使う必要はないと、当主襲名以前の名だった「彦左」を名乗り、里の者達にもそう呼ばせている。
その盃を持つ右手側に寄り沿って控え、酌などの世話をしているのは、だいぶ年下の若いキジトラ猫。
新たな隠れ里に移って以降、トライチはヒコザの傍仕えとして同居し、甲斐甲斐しく世話を焼いている。…のだが、単なる
身の回りの世話役などでない事は、もう随分前から皆に知られてしまっていた。皆判っているが言及しないだけである。
囲炉裏を前にするふたりの前にはいつものように晩酌セットが並んでいるが、今夜は囲炉裏の反対側にも同じセットと酒が
出されていた。
ヒコザと正対する位置に座しているのは、隻腕の狸と比べても見劣りしない堂々たる体躯。180を軽く超える身の丈の、
どっしりと肉厚な大狸は、隠神の眷属…士田太助。
その隣に居住まいを正して座り、緊張気味の顔を見せているのは、烏丸の私兵にしてリトクの側近でもあった女性である。
実は、タスケとハルナは所帯を持つ事が決まった。
もはや住む者が減ってゆくだけの、いつか土に還る日を待つために造られた隠れ里に、まさかの新入居者である。事が急で
予兆も視られなかったので、これには里の者達も大層驚いた。
隠れ里に引っ込んで以降、落人達と烏丸邸とは月に一度、密使によるやりとりだけで繋がっていた。本来は腕利きの間で順
番に出ていたこの密使役だったが、これをタスケが買って出る事が増えてきたかと思えば、ある日突然、ハルナを連れて戻っ
て嫁に迎えたいと言い出したのである。
流石のヒコザも報告を聞きながら、茶を飲んでいた途中である事を忘れ、真顔で固まって持ち上げて傾けたままの湯飲みか
ら鳩尾と腹にター…ッと零すほどであった。
本人によれば、「どうもいつの間にか惚れちまったてたらしい」との弁。話を聞けばハルナも想いを寄せていたとの事。
世俗と関わりを断つ覚悟はできているとのハルナの言葉と、自分達の状況を重々承知している上で所帯を持ちたいと言い出
したタスケの希望、これらを考慮した上で、ヒコザは割とあっさりふたりの婚姻を認めた。その後は何かとボヤいていたが。
長への報告を終えたタスケを他の眷属達と供に取り囲んだトライチが、どっちから促したのかと興味津々で問うと、タスケ
は右手の人差し指で鼻を掻きながら反対の手で挙手した。
「ハルナ殿、狸の嫁になる気はねぇかい?」
密使に出向いた烏丸の分家。リトクへ挨拶と近況報告を行ない、ヒコザからの土産を渡し、土産のお返しを預かった帰りの
事。ハルナから差し入れに貰った握り飯を頬張る途中、ふと思いついたようにタスケが言ったその言葉がプロポーズになった。
何だソレは?と居合わせた眷属達も鼻白んだが、トライチだけは納得していた。それは実にタスケさんらしいなぁ、と。
隙があれば打ち込むが、必要が無いなら切っ先は動かさない。極端過ぎるが故に起こりが読み辛く、唐突に感じられるほど
前触れがなく、気付いた時には打ち込み終えている。そんなタスケの剣筋は、そのまま彼の生きかた在りかた振る舞いかた。
その剛剣一振りのような告白の様子を思い浮かべたトライチは、本当に必要だからこそ口説いたのだと微苦笑した。
「何か決め手になるようなきっかけでもあったのか?それとも、次第に好意を寄せていた…という事なのか…」
スラリとした狼…タツヨリが興味深そうに呟くと、
「握り飯で餌付けされたんじゃねぇのか?」
その隣で、隠神の眷属としては小柄な狸…サブロウタが茶々を入れた。
「それもある」
『あるのか!』
「あとはまぁ、肩揉んで貰ったりとか、よくしてくれたしなぁ」
そんなタスケの発言に耳を立てて、
「なるほど…。マッサージ、なるほど…。部屋にふたり、労うように肩をもめば、うなじにかかる甘い吐息…。なるほどそれ
は…、情緒が…ある…!」
淡い色の長毛狸…カンゲツが静かに呟いていたが、その目に怪しい光が灯って品定めするように周囲を窺った事には誰も気
付いていなかった。
多少の照れは見えるがだいたい普段通りのタスケに対し、ハルナは終始緊張気味で、恥らう余り無口になっていた。命令で
あれば躊躇無く死地に飛び込み、敵であれば眉一つ動かさず射殺し、苛烈な拷問にも口を割らない女兵士が、まさに借りて来
た猫のような有様。烏丸の女武者も、こと恋愛となれば普通の町娘だ。と言って里の皆は面白がった。
ただ、先に惚れたのはハルナの方。タスケはそのアプローチで靡き、踏ん切りをつけた格好である。
過酷な人生を歩んできたはずなのに、大狸は基本的に穏やかで素朴だった。烏丸の私兵とは違い、日頃から体表に滲み出る
ようなギラついた攻撃性などが全く見られなかった。自分達以上に生き死にが日常だとこうなるのかと、ハルナにも最初は違
和感と疑問があった。
そして、斬る必要が無い時は鞘に収まっている刀のような、その人柄にハルナは惹かれた。幾度か助けて貰った恩義もあっ
て、興味が恋へと、次第に変わっていった。
烏丸の総帥もリトクも、本人達が望むのならと快諾してくれた。特にリトクなどすっかり張り切ってしまい、盛大な結婚式
を挙げるべく都内の有名ホテルの予約を入れるなど式場の手配に取り掛かって、危うい所で制止された。
結局の所、里の者と烏丸側から数名が列席する形での人前式に話が纏まり、仲人としてヒコザが骨を折った。勿論、片腕と
してトライチも大いに働き、準備はつつがなく進められた。
春菜。季節の始まりに咲く黄色い花を連想させるその名を、ヒコザと眷属の面々は縁起が良いと口々に評した。
菜の花は神ン野家から分かれた初代の隠神が特に愛でた花であり、非業の死を遂げてなお国を支える柱となった若殿が好ん
だ花であり、樹海に隠れ里を築いた代の当主が持ち込んで育てた花。一族にとっては愛着がある縁起物の植物で、植えたり活
けたりするのは勿論、祝いの席には天麩羅にして酒に添えるのが慣わしになっていた。
里に新入りが来るというだけでも大騒ぎだったのだが、それが見知った相手で名前も縁起がいい。落人達は久しぶりに明る
い話題で盛り上がっている。
「まさか今になって仲人を務める羽目になろうとは思わんかったぜ。ええ?」
ヒコザの恨み節にハルナは恐縮し、タスケは悪びれた様子もなく苦笑い。
「それも明日でやっとお役御免だ。ようやく気が休まるぜ」
「とはおっしゃいますが、ヒコザさんも割と活き活きしてらっしゃいました」
ヒコザの右手側に座り、盃に酒を注ぎながらトライチが口を開き、ジロリと睨まれながらも意に介さず続ける。
「段取りを纏める時は楽しそうに尻尾を揺らしてらっしゃいましたし、席図を書いてらっしゃる時など鼻歌混じりで上機嫌で
したよ。本当はとても嬉しいし、めでたいと思ってらっしゃるんです」
ヒコザは酒を吹き出しかけ、ギリギリで口に留めて頬を膨らまし、済んでのところでゴギュンと大きな音を立てて飲み下し、
少し気管に入ってむせ返る。
「ゲェホゲホゲホッ!」
「あ!大丈夫ですかヒコザさん?」
丸めた背を撫でてやりながら、トライチはハルナを見やって続けた。
「結局のところ、ヒコザさんは世話を焼くのが好きなんですよ。ぶぅぶぅボヤきながらも段取り良く面倒を見るのは昔から。
口ではいちいち意地悪く言いますけど、こういうひとなんです」
「グェホッ!ゲフッ!トライチ!ヌシはまた余計な事を…!」
希代の化かし上手も、何もかもお見通しの伴侶に暴露されては形無しである。
「それはそうと、ハルナ殿。お体の加減は大丈夫ですか?」
「あ、はい。お気遣いなく」
トライチに問われたハルナは、下腹部に手をそっと添えた。
嫁はもう妊娠している。意外と手が早い、とカンゲツも唸ったが、これはタスケに避妊などの知識が無かった…というより
もソッチ方面の知識がほぼ無かったのが原因の一つ。童貞喪失から即座に父になった訳で、これには里の皆も呆れた。
よほど隠神の血が濃い子でなければ、里子に出して自由な人生を歩ませる事になる。だが、手元に置いて成長を見られない
とはいえ、嬉しい事に変わりはない。
隠神の血は絶えない。外の世界で新たな命が暮らしてゆく。戦も知らず、悲劇も知らず、太平の世を謳歌して…。
「女だったらハルナ殿に花の名をつけて貰うが、男だったら「ソウタ」だ。良い名だろう?ふふっ!」
トライチに笑いかけるタスケは、幸せそうな微笑を浮かべていた。
それを見ながらヒコザは思う。
娘は外に出した。多くの子供を里子に出した。フウは烏丸で大事にされている。
気がかりなのは、フウの双子の兄と、デンキチの事。
帝側に討たれたとは思えない。だとすれば残党狩りの体制が強化されていたはずだが、烏丸の総帥の調べでも、落ち延びて
以降増員された記録は無く、赤銅色の先祖返りが捕らえられたという情報も無い。
のたれ死んだ…とは考え難い。元々山野で暮らした民であり、デンキチはそういった技能のスペシャリストでもある。腕が
立つ上に生存技能に長けている彼が一緒なのだから、無為に行き倒れる事はないと確信している。
何らかの事故で命を落としたという線も無いではないが、ヒコザは祈っていた。
隠れ潜んでいるのでもいい。不自由していてもいい。せめて生きてさえいてくれれば、いつかは再会も叶おう、と…。
その、ヒコザ曰く「女々しい未練」、トライチ曰く「哀切な祈り」によって、今も定期的に里から手練を出して捜索は続け
ている。樹海近辺にも半年に一度は見回りを送っている。
だが、ヒコザもまだ予想してはいなかった。
諦め切れなかったが故のその行動継続が、ラン生存の手掛かりを掴む事に繋がろうとは…。
青みがかったロマンスグレーの毛髪が目を引く老紳士は、テーブルを挟んで客と向き合っていた。
深夜の密談、その相手はサラリーマンのようなスーツ姿の優男、そして藍染の法被に半股引姿の髭面の大男の二名。どちら
も黒武士会の幹部であり、総帥の近縁である。
「…つまり、昨今この国中に網を張って、支配力を強めているのは…」
烏丸の総帥は難しい顔。頷いた若い男は、優しげにも見える整った顔に、鋼鉄の決意が窺える。
「はい。中小組織の後ろ盾になって、活発な活動や抗争を促しているのは、エルダーバスティオンです」
「面目ねぇ話ですが、その一因はこっちの身内のせいでして…。首都ですら調停者どもの裏がかかれまくり、黒武士の目が及
ばねぇトコで事を起こされる始末…」
髭面の大男が後を引き取って唸る。
烏丸の支配域であるこの地域でも散発する、組織間抗争と、前触れの無いパワーバランスの変化。中小組織の「食い合い」
は明らかに度を越した頻度になっている。
烏丸の総帥は溜息をつく。
息子夫婦を失い、表の顔である財閥としての活動に力を入れ、裏社会の組織としての活動は規模を縮小してゆこうと考えて
いた矢先にもたらされた情報は、処理に困るだけの大問題だった。
「…口ぶりからすると、相手の正体は判っているようだね?」
総帥の問いにふたりの客は深く頷き、若い男が口を開く。
「はい。あの男が黒武士から持ち出した情報を元に、エルダーバスティオンは警察機関や各調停チームの行動を予測、さらに
中小組織に干渉して行動を焚き付けています」
老紳士は再び溜息をつく。孫娘を守るためには武力を手放せない。これからさらに必要になる。
正直、落人達の助力があればと思わないでもないが、それは避けたい。やっと落ち着き始めた彼らの暮らしを乱したくない。
「それで、総帥からの伝言というのは…」
状況説明は理解できたと、本題を促す総帥。
黒武士会。首都圏に君臨する組織にして、非合法組織の顔役でもある。
その行動方針は、無為に殺さず、無駄に壊さず、過度に奪わず…。国内最大級の巨大な非合法組織でありながら、決して無
軌道ではない。ある程度の秩序を保って表の社会と共存できているその現状には、末端まで浸透する総帥の支配力が窺えて、
海千山千の烏丸総帥ですら薄ら寒さを覚える。
向こうから総帥の親族をメッセンジャーとして直接送り込んでくる…。その話の重大さを総帥は理解している。恐らく活動
協力…現地での武力提供だろうと予想はしていた。しかし…。
「親書がこちらに。後でご確認頂くとして、端的には…」
懐から取り出した封書をテーブルに置くと、優男は深々と頭を下げた。
「不可侵協定のお願いです」
「…不可侵協定?」
意外な言葉で鸚鵡返しになる総帥。髭の大男が真剣な顔で少し身を乗り出す。
「はい!こいつぁ手前共の身内の不始末です。けじめは必ずやこちらで!その間ご迷惑をかける事にはなりますが、どうか不
干渉でお願いしたいと総帥は言っとります。無論、その間にエルダーバスティオン絡みで被害を被られればこちらで補償致し
ますし、供えに必要であれば兵隊も出します」
被害補償や援助もするから手を出さないで欲しい。あまりにも条件が良過ぎる…というよりも嘆願に近い話の持ちかけられ
方で、烏丸の総帥はハッとした。
「まさか…。エルダーバスティオンに移った人物というのは…?」
優男が口を開く。瞳に鋼の決意を宿して。
「黒伏法越。…現総帥の兄であり、僕の父です」
身内の不始末。髭の大男はそう述べたが、これは比喩でも何でもなく、本当に「親族」絡みの騒動だった。もしかしたら黒
武士会の総帥になっていたかもしれない男が、海外の大組織を招きいれて敵対しているのである。
「それは…、大変な事になっていたようだ…」
そんな言葉しか出なかった。気の利いた言い回しができないほど、烏丸の総帥にとっても衝撃だった。
黒伏法越。名前と能力は知っている。
「近未来の並行観測」。黒伏家の一部の血族に現れる能力だが、それは、これから自分が実行しようとする事柄がどんな結
果になるか、高精度で予測する力である。黒武士会の現総帥は数秒先の未来を十通り観測できると聞いていたが、その兄は確
か、十数秒先の未来を十数通り観測するらしい。
言い換えればそれは、実際に試行せずとも、十数パターンの結果を行動前に把握できるという物である。
それはいくらでも応用して先を覗き見る力。そして、相対した場合に十数手は確実に読まれる力。
(厄介、などという表現は生易しい…)
思わず呻いた総帥は、振動音に気付いて顔を上げた。
ハッとした優男が懐に手を入れ、携帯端末を取り出す。
この深夜、緊急連絡用の線で入った報せに、優男も髭の男も緊張の面持ちになったが…。
「…は…」
優男はメッセージを見て微笑を零した。
「はは…。エミリからだ…」
「?エミちゃんが?何て?」
髭男に問われた優男は、少し言い難そうに黙った後、ポツリと言った。
「懐妊した、と…」
髭の大男が目を見開き、驚きの表情を見せ、次いで笑みを浮かべる。
「奥さんから、かね?」
状況が状況だけに、もたらされた報せの内容に虚を突かれた烏丸の総帥も、思わず顔を綻ばせた。
「はい…」
手早く返事を送った優男に、髭の大男はニカニカ笑いながら言った。「名前だけは先に決めてたんだっけな?」と。
「ええ。男の子でも、女の子でも、「ソウマ」と名付けるつもりです」
ノリフサは愛おしそうに、端末を両手で包んでいた。
「手紙?」
浴衣姿の逞しい白虎は、品の良さそうな猫の老女から封書を一枚手渡され、首を捻った。
「送り出し人が無い手紙ですじゃ。また「倅の友人」からじゃろうねぇ」
「…随分久しぶりだな?まぁ簡単にくたばるタマじゃねぇが…」
神崎家の屋敷、窓も無く外からも遠い、盗聴や覗き見の危険が無い奥座敷で、ダウドは当主を務める老女と向き合っている。
「中身は確認しとりませんよ。どうせ例の暗号で書かれてるんじゃろうしねぇ」
「悪ぃな婆ちゃん。問題ねぇ中身なら報告するからよ」
「先進国連合のお尋ね者からの手紙の内容で、問題ないというのはどんな中身なんだか…ほほほ!」
「違いねぇや。手紙そのものが大問題か。がっはっはっはっ!」
物が物なので皆が寝静まった深夜に、直接手渡すという手段でダウドに手紙を渡した老婆は、「では休みますので」と席を
立つ。
「おう。有り難うな婆ちゃん」
片手を上げて老女を送り出した白虎は、封を破って手紙を引っ張り出す。
それは、ジークフリートからの手紙。暗号化された文面の密書だった。
「………」
ダウドが解読した一行目は、住所だった。それも北米の。
「………?」
二行目は、そこに妻が居るという内容だった。
「………!」
三行目は、妻が妊娠したという報せ…。
(…嘘…だろ?生粋のニーベルンゲンと現行人類じゃ子供ができねぇって、ミーミルが言って…)
目を疑った直後にふと気付いた。
ブリュンヒルデはレリックヒューマン・ヴァルキュリア。人為的に旧人類を再現する事を目指して造られた合成人間。身体
的にはほぼ旧人類とも言える。
技術者達のトップは言及していなかったが、あの男に限って見落とすとも考え難いので、この可能性も把握していたかもし
れない。
では、何故黙っていたのか?
(先進国連合に知られたら、それこそ畜産するみてぇにニーベルンゲンのハーフを「量産」されるからか…!)
正直、ニーベルンゲンと合成レリックヒューマンの間に生まれた存在がどういう物になるのかは予想もつかない。だが少な
くとも…。
(ジークの因子を植え付けるだけでも性能が劇的に違う生物兵器が作れんだ、その血を半分引いてるとすれば、そいつは…)
そして、四行目からは…。
―たぶん、コイツが最後の手紙になるっス―
そんな書き出しを、ダウドは凝視する。
―ヒルデの身体はもう限界っス。苦労ばっかさせちまったっスけど、余生は静かに暮らして欲しいとか、勝手な事思っちまっ
たんスよね。ヒルデの甘さが感染ったっスかね?書いた住所のトコに隠れさせとくから、迎えに行って、保護してやって欲し
いっス―
(お前はどうするんだよ…?身ごもった嫁置いて、何を…)
―先進国連合が中破したビフレストを回収したっス。しかもヴァルハラ直通のヤツ―
カサリと、手紙を持つ手が震えた。
―連合からは間違いなく「アイツ」が直々に接収に向かうっスからね。スルトもオーズも黙っちゃいねぇっス。けど…―
「待てよ…」
呻いたダウドの目が急いて続きを読む。
―スルト達でも荷が重い。「アイツ」を殺せるのはオレだけっス。…ま、「役回り」ってなぁそういうモンっス。そんなわけ
で、この手紙が最後っス―
「待てって…!」
文章を追い続けた目が、唐突に変わった内容で止まり、二度往復した。
―生まれてくる倅の名前は「アルビオン」にするっス。我ながら良い名前っス。父ちゃんに似たハンサムボーイに成長する事
請け合いっスね!―
(…「アルビオン」…)
記された名前を何度も読み返し、ダウドは最後の行に目を移した。
―じゃ、頼んだっスよ。ダウド―
(「ダウド」…、か…)
自分の名前。与えられた名前。
この名も、つけたのはジークだった。
―「ダウド」なんてどうスか?―
―あんま変わってねぇじゃねぇか?―
―何言ってやがるんスか。言い換えりゃ「ダーウード」、「ダーウィーズ」、「デイヴィッド」、「ダヴィデ」…由緒ある立
派な名前っスよ?―
―悪くはないな。いつまでも「G-Typeニーベルンゲン分類ダウト」では呼び難いし合理的ではない。そもそも人物の呼
称にダウトなどと用いるのは適切とは言い難い―
―サンドイッチモチャモチャ食いながら言ってんじゃなけりゃソコソコいいセリフなんだがな?―
―じゃあ決まりっス。今からお前は「ダウド・ジハード」っス―
―おい。勝手に…―
―良かったな「ダウド」。では私は研究室に戻る―
―おぉ~い!決まりかよ!―
ガシガシと頭を掻く。
面白くない。納得行かない。面と向かって言いたい事が山ほどある。だが…。
「頼まれちまったんじゃ、仕方ねぇよな…」
「時が熟したと、判断致しました」
ある日、デンキチはランにそう告げた。
少年は師の顔を黙って見つめる。そこには疑問の表情も、訝しむ眼差しもない。感情の起伏が無い熊はデンキチの言葉を待
つ。ただ、態度には出ないが相変わらず気になる事はあった。
何処かへ出てゆく事が多かったデンキチは、様子を見るために樹海へ戻っていたのだと、準備の内容を明かした。移動距離
を考えても、ろくに休みも取っていないのだろうと窺える。
「ラン様には、当主襲名の試練…「百鬼の行」に挑んで頂きます」
既に、デンキチは知る限りの事を全てランに教えた。自身が体得できなかった奥義等も、いつかはと望みを繋げ、口頭で伝
えた。残るは仕上げ…、神壊の当主が必ず挑み、それを経て神壊と成る最後の試練のみ。
試練とは、神壊が代々管理してきた洞穴に九十九の敵…危険生物を放ち、百日篭って生き延びるという物。百日の間、食う
ものは屠った敵の死骸。共食いなどで数も減るので、単に逃げ回るだけでは生き延びる事はできない。
百鬼の行。学ぶ機会も無いランには知る由もなかったが、それは蠱毒という物に近い荒行である。
適応と進化を強制する密閉された戦場。数多の異形の肉を食らい、血を啜り、その業を身に蓄積する過酷な生存競争。この
試練に挑んだ者は兵器として最適化されるが、その結果として、代々の神壊当主は精神の一部に欠落を生じ、あるいは人格の
どこかに異常をきたすなどした。ランの父であるライゾウも、感情を態度や表情に出す機能が欠落し、口数が少なくなった。
試練の場が健在である事は確認し、下準備は済ませたとデンキチは言う。
ランに断る理由はない。即座に頷き、促されて旅支度に取り掛かった。
向かう先は故郷、樹海の一角。
無数に存在する富岳の風穴、その一つが試練の場となる。
風が吹く。木々がザワザワと枝葉を鳴らす。
折り重なるその音が潮騒にも聞こえる木々の中を、ランはデンキチに連れられて歩いてゆく。
樹海。富士の膝元。かつて裏帝の隠れ里があった、彼らの故郷。
一ヶ月近くかけて帰って来たそこで、しかしランは郷愁の念に囚われる事もなかった。
終戦直後は落武者狩りの部隊が間をおかず巡回していたが、既に年月も経ち、今では定期視察が月に一度程度回るだけ。今
ならば遭遇に注意して侵入するのは容易い。
広大な樹海の大半はランにとって見知らぬ土地だった。里に居た頃は幼かったので、近くしか出歩いた事がなかった。だが、
覚えがあったとしても、もうそこにかつての景色を見る事はできない。
裏帝の隠れ里は、徹底的に痕跡を消されていた。
大規模な森林火災で焼けたのもあるが、帝側の手が回って何もかも変えられている。
あの戦の痕も、生き残りの掃討戦の跡も、ひとが暮らした名残すらも、徹底的に除去された上で、六年の間に、植樹された
木々と茂った草に飲まれて消えた。
「覚えてらっしゃいますか?」
足を止めて口を開いたデンキチが見つめるのは、どっしりとした大岩。かつてライゾウがよく上に座し、瞑想していた場所
である。
「………」
黙って顎を引くランの表情に変化は無い。
この大岩があるという事は、既にかつての里の近くのはずだが、景色からかつての面影を見い出す事は叶わない。
望郷の旅に来たわけではない。かつて里があった方角に手を合わせただけで、二頭は目的地を目指す。
目当ての風穴は里から三時間半ほど歩いた位置にあった。火山岩の地面が隆起し、流れ込んだ地下水と風が広げた洞穴で、
全長は数キロに及ぶ。出入り口は二箇所、洞穴の両端にあるだけだが、内部は蟻の巣のように入り組んでおり、立体的に見て
も複雑な構造になっている。
その二つの出入り口は、ある条件下で認識できなくなる。隠神の眷属達が仕込んだ幻術の術式が残されており、一度作動さ
せると一定期間、内部の者に出入り口を認識不能にする。簡素ながらも単純な幻術なので、手入れを受けていなくとも効果は
万全だった。
「今日から準備の仕上げに入ります。二週間、ラン様はお体を休め、自己鍛錬に勤しみ、英気を養っておいて下さい」
デンキチからそう言われたランは、待っている二週間の塒として、風穴の一つに案内された。
奥行き5メートル強、幅3メートル弱、最大で高さ2メートル80ほどの、乗用車がそのまま車庫に出来そうなそこは、奥
が崩れて他の穴とは繋がらなくなった穴倉。その入り口付近には隠神の眷属が仕掛けた幻術の術式が残されていた。
入り口脇の壁の穴に置かれた石を、決まった手順で並べる事で、思念波の代わりに地脈を源として幻術が起動する仕組み。
ここの仕組みも至極簡素な物だがよくできており、時を経た今でも機能が生きていた。外から入り口が知覚できなくなる簡素
な幻術で、元々は食料倉庫として使用されていたここを、野生動物から守るための備え。これが起動されていれば万が一誰か
が近くを通っても気付かれない。
教えられて起動方法を覚えたランは、塒に布団代わりの草葉を運び込んでから、言われたとおりの手順で石を動かして、幻
術を起動する。
内側からは像が透けて見える岩壁を眺めながら、ランはどっかと胡坐をかく。
懐かしい。ここに来て初めてそう感じた。
昔を振り返る事もなく、思い出してもすぐ頭から抜けて行ってしまうランは、珍しくじっくりと昔の事を思い出せた。
里で普通に暮らしていた頃、隠神の若頭領は、子供をあやす要領で時々幻術を見せてくれた。息を吸って腹を膨らまし、ボ
ンッと叩いて音を鳴らせば、時に大狸が五六人に増え、時に姿がかき消え、時に幻の雪が降った。
無愛想で生真面目過ぎる、そこがまた当主には相応しくもある…というのが里での評判だったが、面倒見が良い一面を、自
分達子供には見せてくれた。それはきっと、公私をしっかり切り離していたから。配下や同僚に示しが付かない事はしない一
方で、隠神の大将として振舞う必要がない時には幻術で子供を楽しませたりもする。余裕さえあれば押し隠した諧謔味を覗か
せる人物だったのだと、子供心に感じていた。
今はどうしているだろうか?
長らく考えてこなかったのに、他の落人達の現在がどうなのか、少し気になった。
隠神の大将には妻も娘もあった。年寄りも何人か一緒だった。連れられていた中には自分以外の子供も居た。そして…。
(…フウ…)
双子の片割れは、どうしているのだろうか?
何もかもが遠く離れて霞んで感じる中、ランはいつまでもいつまでも、一方通行の幻の壁を眺めていた。
樹海の潮騒を聞きながら…。