惜別の潮騒(後編)

「最終試練の支度が整いました」

 デンキチからそう告げられた朝、ランはそれまでと同じように頷く事で応じた。

 生傷だらけになったその姿に疑問はあったが、あえて問わなかった。

 試練の舞台となる洞穴にも、隠神が仕込んだ幻術が備わっている。洞穴に導き、入り口の壁面にある窪みに、いくつかの石

を出し入れして並べ替えて操作したデンキチは、ランを振り返って口を開いた。

「こちらから中へ。出口は進んだ先にありますが、今は出られません。ただ今、隠神の幻術の設定を百日後に解除されるよう

直しました。事が済んだ後、反対側から外へ抜けられれば試練完遂となります」

 百日はこの時計で計れると、デンキチは懐中時計を手渡した。それは壱から百の漢字が振られた手巻き式の懐中時計で、首

からかけて吊るせるように、長い革紐もついている。

 頷いて受け取ったランは、それを首にかけて吊るし、襟元から鳩尾に入れると、洞穴の暗がりを一瞥する。入り口は高さ1

メートル半といった所だが、下り坂の奥へ向かうにつれて高さも幅も増している。

 抜けて来る風に異臭を嗅ぎ取ったランに、デンキチは続けた。

「既に中には集めたものを放っております。その悉くを葬り、百日の後に外へ…。その時こそあなたは神壊となります」

 再び無言で頷いたランに、デンキチは恭しく頭を垂れる。

「御武運を。出口でお待ちしております」

 成るや否や。

 果てるや否や。

 全ては、この仕上げにかかっている。



 湿気が多少ある、肌が凍りそうに空気が冷えた洞穴を、ランは無言で進んでゆく。

 完全な闇ではない。壁や天井、足元の溶岩に混じっている、蛍石の欠片にも似た淡く光る石が、星明り程度の光を提供して

いる。細部まではっきり見える明るさではないが、闇夜での行動に慣れたランには地形を把握するには充分な光量だった。

 無警戒で無造作な足取りに見えるが、しかしその実、被毛の一本一本にまで神経が張り巡らされ、微細な空気の揺れから進

行方向の空間の広さや、風の動きなどもおおまかに把握している。

 しばらく進んだ辺りで水音が聞こえた。少し広くなった所で視界が開け、氷柱が無数に下がる氷窟になった。この洞穴は地

下水脈と繋がっている上に気温も低いので、あちこちにこんな場所がある。

 足を止めたランは、白い息を静かに吐き出し、やおら身を捻って後方斜め上めがけて拳を振るう。

 両脚でしっかと足場を掴み、太い胴を捻って繰り出した裏拳は、一瞬前まで何もなかった空間を薙ぎつつ、軌道上で強固な

甲殻を砕き、殴り飛ばす。

 しかし浅かったのか、激しい音を立てて地面に叩き付けられたソレは、素早く体を起こした。

 蟹…モクズガニに見えるソレは、胴体が畳の半分ほどもある。何より異様なのは、目に当たる部位がボコボコしており、人

間の顔に見える事。ちょうど、巨大な蟹の目の部分に、マネキンの首をつけたような具合である。

 大柄なランを捕食できそうなほど大きい蟹は、ボコボコと泡を吹いているが、それが滴った地面では湿った岩がジュウジュ

ウと音を立てて煙を上げている。

 ランの裏拳は蟹の口に当たる部位の下側に命中しており、大きく陥没させて、甲殻の亀裂から肉を覗かせていた。どうやら

ダメージと怒りから泡をふいているらしい。

 相手を識別したランは、軽く足を開いて腰を沈め…。

 嵐が、吹き抜けた。

 ほぼ同時に何かが焼けるような、そして液体が蒸発するような、ジュッという小さな音が鳴る。

 一瞬。刹那の間に蟹との距離をゼロにしたランは、口の下…先ほど破損させた部位に燐光を纏う右腕を突き入れていた。

「断息(だんそく)…」

 背中の甲羅まで突き抜けた腕を引き抜くと、音を立てて蟹が崩れ落ちた。

 痙攣するをれを見下ろし、絶命を見届けたランは、屈み込んでスンスンと鼻を鳴らす。

 趣旨は理解している。洞穴の中には自分を含めて百の命。百日生き延びるためには無駄は作れない。

 解体を始めたランは、蟹には自分がつけた以外に大きな外傷がない事を確認する。 

 デンキチが疲弊しながらも単身で捕らえ、放った危険生物…。ほぼ無傷というその状況に鑑みれば、彼の手腕の非凡さが窺

える。それは殺すよりよっぽど難しいのだから。

 蟹は甲羅が分厚く、内部も駆動用の堅い筋が無数に繋がった構造になっており、食える身は少なかった。

 丁寧に甲羅を砕き、ガツガツと身を貪るラン。荒行はまだ始まったばかりである。危険生物同士の共食いもあるだろうし、

食いやすいものばかりとは限らないので、可能な限り腹におさめておく必要がある。

 この広大な風穴には、出入り口以外にもいくつもの幻術が仕込んであった。小部屋として仕切るように、幾重にも壁を見せ

る幻術が。

 デンキチは生け捕りにして来た危険生物を、この幻術を使って分断しながら洞穴に閉じ込め、ランが入ったと同時に仕切り

となっていた幻を全て解除した。

 いまやこの洞穴は、無数の危険生物が徘徊し、喰らい合う、蠱術の壷に等しい地獄と化している。ここで百日、ランは生き

延びなければならない。




 ランが最終試練に挑んでいるその頃、ある立派な邸宅の、ある立派な調理室では…。

「オハギも貴重品だったの?」

 泣きボクロが特徴的な可愛らしい少女が、テーブルに両肘をつき、頬杖で頭を支えながら問う。

 視線の先には幅が広い、肉付きのいい背中。

 トレーナーに綿パンと、格好は普通だが特注サイズの衣服を身につけ、上から白いエプロンを着込んだ白毛の熊は、餡子を

乗せた米を適度な圧で握り固めながら頷いた。

「何で…。ああ、お米自体が貴重だし、餡子もあんまり作れなかったんだっけ」

 察した少女の言葉に、白い熊はコクコクと頷いた。

 少女が座っている事を差し引いても、白い熊の顔の位置がだいぶ高い。十一歳にして身長はもう180センチに迫り、体重

はもうじき200キロに達しようかという巨体である。

 皿におはぎを五つ並べたフウは、一度流しで手を洗うと、ポケットからメモ帳を取り出した。ポケット自体も大きいが、筆

談用のメモ帳も見易いようにだいぶ大きい。フウは広げたメモ帳にサラサラと書いて、トモエに向ける。

 餡子は兄の好物だった。と記されているのを見て、トモエは「そうなの?」と目を大きくした。

 辛い思い出を振り返りたくなかったからなのだろう、フウが幼少期の家族と過ごした時期の事について語る事は少なかった。

それが、落人達が新たな隠れ里に移った辺りから、少しずつやり取りに情報が混じり始めている。

 自分の中で整理がつきつつあるのか、それとも精神的に成長して落ち着いてきたからなのかは判らないが、トモエはフウが

教えてくれる家族の話を歓迎した。

「ギョウブおじさまもタスケ先生も教えてくれなかったけど、フウとそっくりだったんでしょう?」

 そんなトモエの言葉に、フウは視線を上に向けながら耳を倒し、考え込むような表情を見せた後で、またメモを記した。性

格は正反対だった、と。

「正反対?全然似てないの?」

 兄弟だから見た目だけは似てたかも。と書いて見せるフウに、「荒っぽかったの?」とトモエは尋ねた。穏やかなフウと正

反対なら、気が強い乱暴者だったのだろうか?と。

 フウは少し考えてから、元気だった、と言葉を選んで表現し、あと真面目だった、と書き加える。

「元気で真面目?」

 コクリと頷いたフウは、沸いたヤカンをコンロから取り上げ、茶葉を入れておいた急須に、慣れた手つきでそっと注ぐ。茶

を淹れる作業がだいぶ板についていた。

「…スポーツが得意なクラス委員みたいな感じかしら…」

 トモエの比喩にフウは頷けない。屋敷内で教育は受けており、年相応の学力と知識は身についているのだが、学校には行っ

ていないので想像するのは無理だった。よって、伝えようと意図したものとだいぶ違う印象をトモエが抱いているという事を

指摘できない。

(フウがスポーツマンで…、真面目なクラス委員で…)

 モヤモヤモヤポンッとトモエが思い浮かべた空想上のフウの兄は、クールな切れ長の目で、小脇にサッカーボールを抱えた、

ジャージ姿の巨大な白熊の姿。

(眼鏡は外せないかしら?)

 空想上のフウの兄はスチャッとフレームレス眼鏡を着用すると、中指で中央をクイッと上げ、キックオフ。

「…いや。体格的にエースストライカーっていうよりキーパーかもしれないわね…。ベタだけど…」

「?」

 少女の独り言で首を傾げたフウは、ふたつの湯飲みに緑茶を注ぐと、トレイに乗せてノソノソとテーブルを回り込む。遊園

地のきぐるみのようなユーモラスな見た目とボリュームだが、全て自前の肉と毛である。

 トモエの隣に丸椅子を二つ並べて、腰を下ろしたフウはオハギと茶を勧めるが…。

「一つでいいわ。あとは全部フウが食べて」

 出来上がったオハギを一つ取るトモエ。フウの手の大きさに対応して生産されたお徳用サイズなので、三時のおやつとして

は乗せた手に感じる重量がだいぶエグいのだが、慣れているので眉一つ動かさない。

 そもそも、同年代の少女と比較してもトモエはかなり食がいい。剣の鍛錬などでカロリーを使用しているせいで、毎日重た

いおやつを食べても健康的なスタイルに変化はない。

 「いただきます」と一口齧ったトモエは…。

「え?これ凄くモチモチしてるわね?美味しい」

 フウの握力は尋常ではない。米を捏ねる時に一度ぐっと力をかけていたので、程よく潰れ合った米がモチモチした食感になっ

ている。褒められて満足げなフウは、大きなオハギを一口で頬張る。

 落人達が新たな隠れ里に移住した後、屋敷に残されたフウは穏やかな毎日を過ごしていた。

 使用人達の仕事を見ながら家事全般を覚えている最中で、今は調理技術を学んでいる。

 将来どうするのかはまだ決めていないが、使用人や秘書としてトモエの傍に居るのがいいのではないかと、総帥は言ってい

るのだが…。

「美味しい。ビックリしたわ。オハギ作りの才能あるわよフウ?」

 褒めるトモエの顔を照れ笑いしながら見返して、フウは安堵する。家族の話が出ても泣かなかったな、と…。

 トモエもまた、両親を亡くした。

 本当に急な事だった。海外に出ていた両親から、クリスマスには帰るからと連絡が入った、十二月頭…。それから三日後に

両親は死んだ。身辺警護のために同行していた総帥の懐刀である壮年執事が、その遺骨を持ち帰った。

 事故だったと、トモエは祖父から説明された。

 それが嘘だという事を、気付いていながら口にはしなかった。自分への気遣いなのだと理解していたから。

 祖父の話を信じたふりをしながら、本当は敵対関係にある組織などに命を奪われたのだと、トモエは確信している。

 喪失感と深い悲しみで連日泣き崩れるトモエに、フウはひたすら寄り添っていた。

 気持ちは判るとも、同情しているとも、フウは告げなかった。その沈黙と態度で示す気遣いがトモエを支えてくれた。だか

らこそ立ち直るのは早かった。

 血は繋がらなくとも、まるで本物のきょうだいのように、同じく両親を失ったふたりは気持ちを通わせている。




 あれは、落人一行から離れて、数ヶ月後の事だった。

 そう、珍しく夢を見ながら、ランは見ている光景と記憶を照合する。

 寒かった。風が強く、雪がちらつき、冷えた空気が手足の指先からジワジワと入ってくるような、辛い寒さだった。

 同時に、酷い悪寒があった。耳鳴りが酷く、自分の早くて浅い呼吸すら遠かった。

 時々薄目を開ければ、見えるのは岩壁。風が吹き込む浅い洞窟の、外から差し込んだ光が斜めに線を描いた、でこぼこの壁。

 胡坐をかいたデンキチの脚の上に横たわり、頭側を腕で支えられ、高熱を発したランは介抱されていた。

 片耳の熊は半裸だった。自らの衣類も防寒用に加工していた毛皮も、全てランを包むのに使った上で、抱きかかえて温めた。

 熱が落ち着くまでの二日間、ランのために少量の水と食料を確保しに離れる時以外は一時も目を離さず、自らは飲まず食わ

ずで眠る事もなく、ランを温め続けた。

 まるで、洞窟の岩壁に彫られた石像の如く。

 ランの容態を子細に確認しながら、薄く目があく度に、デンキチはその頭を軽く撫でた。

 悪寒の中、その手は温かく感じられた。鮮烈な記憶として焼き付けられるほどに。

 壁に射す外の光が消えて。冷たい風が唸って。粉雪が吹き込んで。デンキチは出口に背を向けてランを抱え、入り込む寒さ

から護って…。

 難しい事は判らなかった。詳しい事は知らなかった。主家への忠義、忘れ形見への忠心、そんな言葉も概念も幼いランには

理解しようもなかった。だが、ただ、その自分に向ける心が本物である事だけは、幼心に感じ取っていた。

 ただひとりの味方。

 ただひとりの仲間。

 ただひとりの同胞。

 デンキチが望むようになる。デンキチが思い描く自分になる。理想とされる自分になる。

 それが、デンキチから捧げられる忠に、自分が返せるただひとつの物だと…。


 水音で、ランはまどろみの中から引き戻された。

 硬くザラついた岩場の床。覚醒した意識がその感触を捉えるなり、指先へ爪のように纏わせた力場を食い込ませ、寝転がっ

た姿勢から四肢で跳ね飛ぶ。

 直後、寸前まで居た場所が、金物で叩いたような甲高い音を立て、火花を散らした。

 地面すれすれの横っ飛びから、転がって四つん這いになり、身を起こしたランの瞳は、異形のシルエットを映す。

 蛇腹状に甲殻が重なった蛇のように長い下半身に、これまた甲殻に覆われた人間男性のような逞しい上半身。しかしその両

腕は手首から先が蠍のハサミのようになっており、尾の先もうねって丸まり、針がついている。頭部に当たる部分はカマキリ

のような逆三角形だが、蜘蛛のように複数の目が点在し、昆虫のソレを思わせる左右に割れた口からは、イソギンチャクの触

手のような物が垂れ下がり、唾液が滴っている。

 異形は餓えているのか、しゅしゅしゅ…と吐息のような音と唾液を、絶え間なく漏らし続けていた。

 ランはチラリと異形の背後を見遣る。

 一昨日仕留めた女面鳥身の異形、その食い残し…吊るしておいた足一本が無くなって、切断された紐だけが揺れていた。

 貴重な食料を取られたのも手痛いが、それに気付けなかった上に、寝首をかかれる寸前まで接近されたという事実も痛い。

 七十九日目。ランは心身ともに疲労を蓄積させていた。

 日の光も入らない地の底で、獲物を探し、殺し、食らう。あらゆる死角に敵が潜んでいる可能性がある、恐ろしい闇に包ま

れたままの二十四時間。休息時は勿論、どんな時も気を抜けない毎日…。

 音も無く、滑るように異形が前進する。大気の中を泳ぐような、滑らかで素早いその動きは、魚類のそれにも似ていた。

 対してランは硬い岩場を蹴り付け、前に出る格好。燐光がその両手首から先を覆う。

 如何なる異能の作用による物か、異形の鋭い鋏もまた、素早く繰り出されながら風切り音すら立てない。ランが接近に気付

けなかったのは、唾液が滴った以外に音が無かったせいである。

 瞬時に間合いが詰まり、伸びる鋏を掻い潜って、ランは異形の胸部に掌を叩き込む。

 パリンと、ジャリッの、中間のような音が鳴った。割れたガラスを踏んだような音が。

 ランは瞠目する。相手の胴に叩き付けた掌に纏っていた燐光が、砕けて霧散していた。

 出力の著しい低下。本来ならば多重展開した力場を相手に叩き付け、斥力とその崩壊に伴う衝撃で臓腑を破砕するはずの技

は、自身の手を保護する程度の力場しか展開できていない。

 力任せに平手で突き飛ばす格好になり、壁まで6メートル近く吹き飛ばして叩き付けたが、ダメージは浅い。異形は怯んだ

様子もなくシュルルッと蛇が滑るように体勢を立て直し、ランは力場を再度展開して追撃に入る。

 迎え撃って伸ばされた鋏の切っ先がランの眼前に迫って…ボヅッともげて宙を舞った。内から外へ、下から上へ、斜めに払

うように動いたランの右平手が、異形の鋏を手首にあたる位置で、掴み取るようにして消滅させている。次いで…。

「滅頭(めっとう)…」

 ボッと大気が唸り、左平手が異形の頭の位置を通過した。

 抵抗無く突き抜けた手の軌道から、異形の頭部が粉微塵に消滅している。

 前のめりに突っ伏すように倒れ込んだ異形を見下ろし、ランは息を整える。

 体調が悪い。疲労が抜けない。腐臭漂う洞穴の中、既に嗅覚はバカになって敵を察知する役には立たない。あと二十一日も

残っているが、共食いが進んだせいで危険生物と出くわす機会はだいぶ減っている。

 先に仕留めた女面鳥身の異形は三日ぶりの貴重な食料で、四日かけて食い繋いだ。そもそも食える部位が少ない危険生物も

多いので、日に日に食料の確保は難しくなっていた。

 落ちた鋏を拾い上げたランはその断面を見つめ、高熱で融解し、塞がっているそこに、躊躇い無くかぶりつく。

 グジュッ…と体液が口に流れ込む。啜ってみたそれは悪臭が鼻の奥を刺激し、胃が蠕動して吐き戻そうとするほど不味い。

 甲殻の中身はほぼ液体だった。スポンジ状の体組織に流体が含まれたその構造が、哺乳類でいう筋肉組織の役割を持ってい

る。衝撃には脆弱なそれらを強固な外骨格で覆った生物だったらしい。 

 スポンジ状の組織は甲殻類のスジにも似た繊維質で、甲殻同様に食える物ではなかった。体液は海草をドロドロに煮込んで

薄めたような物だったが、ランは悪臭すら漂うソレを、喉を鳴らして無理矢理飲み込む。

 あと何体残っているのか判らない。水以外に腹に入れられる物は何でも貴重である。

 そうして、ランは溜め込んできた。

 不浄を、瘴気を、取り込んで濃縮してきた。

 その体内で、煮凝りのように濃くなったモノが、少年を内側から変えてゆく。






 そして、二十日が過ぎる。






 のそりと、素足が冷たい地面を踏む。

 虚ろに濁った目を闇の先に向け、ランは進んでゆく。

 首から提げた懐中時計は、百日目を示して止まった。

 幻術による認知妨害が解けたのだろう、風の流れる方向で出入り口は判る。脱力した体を引き摺るように、ランは一歩ずつ

進んでゆく。

 何十もの危険生物。食い合ったそれを殺して、食って、殺して、食って、殺して食って殺して食って殺し食い殺し食い殺し

食い殺し食い殺し食い殺し食い集め溜め殺し食い留め濃く残し殺し食い塗り重ね殺し食い縮め固め殺し食い…。

 ランの体は、取り込み続けた危険生物の組織や成分の影響を受けたのか、おかしくなっていた。

 不調…ではある。だがそれだけとも言い切れない。体調は悪く意識も朦朧としている。なのに感覚は鋭敏で、五感から入る

情報が処理しきれないほどだった。

 空気の音さえ耳障りなノイズ。その中から仕留める物の気配を濾過して捉える。疲弊しきったランは、思考すら挟まず反応

だけで効率的に対象を葬る術を身につけていた。

 そして、その歩みは外の匂いがいよいよ強まった辺りで止まる。

 まだ明かりは見えない、ただ空気の流れから外が近い事は判る、暗く闇が溜まった洞穴。

 居る。

 風がゆるやかに出口へ向かう、その流れの中で不動の何か。蝙蝠が音で対象物を補足するように、ランはソレの位置と形状、

サイズを把握する。

 人型。サイズは自分と同等。危険生物としてはそれなりの大きさである。

 ただ、やけに静かだった。

 それは、まずい事だった。

 何らかの異能による気配の遮断や、能力による錯覚現象ではない。攻撃距離に入ってなお、攻撃の意思を読めず、敵意など

も肌に感じない。

 次の瞬間には即座に攻撃して来そうであり、逆にいつまでもそのままのような気もする。

 おそらく、放たれた危険生物の中で最も強いとランは感じた。

 しかし判っている。倒さなければ試練は完了にならないと。

 もうじき外に出られる。

 デンキチが待っている。

 ランと影の対峙は、二秒にも満たない物だった。

 火蓋を切るのはランの左手。人差し指と中指を揃え、纏うなり一点に収束、圧縮させた力場を、銃弾のように撃ち出す。

 雷音破。

 既に枯れて掠れた喉からは声も出ず、息が漏れただけ。

 デンキチに手解きを受けた、圧縮する事で貫通力も熱量も高度も高まった技。

 影が動いた。あらかじめ判っていたかのように身を屈め、到達前に跳躍している。

 天井が鳴る。一瞬光に照らされたそこに残像を置き去りにして、影はランめがけて降下した。

 横っ跳びに避けたのは本能に命じられたから。事実、ランが立っていたそこに影が落着した瞬間に、地面が砕けて弾けて岩

片が散弾のように飛び散る。

 力場での防御を行なう以前に、下手に受けるのは危険だと本能レベルで察した結果、難を逃れたランだったが、影はその爆

心地で旋回し、舞い上がった粉塵を貫いて何かが飛翔してくる。

 今度は全身に力場を纏って防ぐ。細かな破片に混じって飛んで来たのは大きく鋭利な岩の破片。ひとの頭部ほどもある、先

端が尖った溶岩塊の凶器…それが四つ。

 叩き付けるように浴びせられる細かな破片を防ぎつつ、立て続けに飛来した砲撃に等しい岩を、ランは力場を厚くした両腕

で捌き、流し、殴り、撃墜する。懐中時計の紐が破片で切断され、激しい動きで振り払われるように跳んだ。そこへ、粉塵纏

う影が追うように飛び込んできた。

 認めたのは光。闇に慣れた目を焼く烈光の輝き。

 考えて判断する間も飛ばし、ランの両手は前方に向けて広げられ、直径2メートルを越える半球体状の力場の盾が出現する。

ソレが飛来した眩い光と激突し、巨大な氷山が軋みながら割れてゆくような音が洞窟内に響き渡った。やがて、音高く砕ける

ガラスのように、本来の出力に及んでいない急場凌ぎの盾が割れて飛び散る。

 その砕けて分解して熱と粒子になり、霧散する崩壊の間隙を縫って、鋭く大気を抉る物がある。

 一時的に視覚を失いながら、しかしランの耳が対象を捉えて動く。紐が切れて跳んだ懐中時計が岩の地面に落ちて音を立て、

その反響が迫るそれの位置を教えてくれた。

 目で見えぬ物は音で視る。空手の回し受けにも似た捌きで弾いたのは、鋼鉄のように硬い感触。しかして力の篭った、四肢

の打突そのものの重み。

 他の危険生物と違う。そんな思考も現実への対処を優先して何処かへ追いやる。間断無く、連続して飛び込んでくる高速の

攻撃。拳打。蹴撃。払い。抜き手。相手の動きを耳と肌で「見る」ランは、神経を研ぎ澄まして精神を集中し、その全てを防

ぎながらも、しかし徐々に後退してゆく。

 力が出ない。体力が残っていない。凌ぎ切れているのは今だけで、すぐにもたなくなると理解した。

 死ぬのか。

 自分は、ここで死ぬのか。

 仇討ちを成せず。目的を果たせず。半ばで死ぬのか。

 待っているデンキチをひとり残して、期待にも応えられず…。

 ギシリと、音が鳴った。

 軋んだのはランの体…その全身を覆う力場。

 いやだ…。

 燐光が明滅する。しかしそれは、出力のブレによる物ではない。色調自体が変じて明滅している。

 いやだ。

 それは、急激な変化であり、劇的な成長。

 いやだ!

 ランは死を拒んだ。成せずに終わる事を拒んだ。

 死ぬ事を恐れたのではなく、期待に応えられず、望みに応えられず、果てて成せなくなる事を忌んだ。 

 その「成れぬ果て」を、憎悪するほど激しく拒絶した。その執念が最後の条件を整え…。

 キシッ…と、軋むように大気が鳴り、震える。

 卵の殻が割れるように。

 蛹の殻が裂けるように。

 ランが纏う燐光は色を濃く変じ、赤く発光する粒子がその身を覆って定着する。

 不浄を腹に溜め込んで、瘴気を肺腑に取り入れて、擦り切れる寸前まで感覚を研ぎ、淀みの限界まで濃く練りこまれた力の

色は、ランの被毛と同じ色。始祖の被毛と同じ色。すなわち、赤銅の輝き。

 神卸し、凶熊覚醒。

 強制的された機能開放が、壁に背をつけたランを一瞬で変えた。条件が整った溶液が、一滴の試薬で完全に違う物へ変質す

るように。

 迫る一撃が緩慢に思えた。

 気配だけにも関わらず、腕の一振りで正確に払いのけると、それはひしゃげて折れ、弾けて千切れた。

 左手にはもう力が収束していた。赫々と燃える赤光を湛えて、抜き手が突き出される。

 展開された力場が割れて砕ける音がした。しかし何の抵抗も無かった。手応えすらも。突き出した軌道上、抜き手が通った

後は何も残らず、細かな塵だけが舞っている。

 穿った。胴の中心を。手応えは感じずとも確信が残る。

 素早く引き抜いた腕を追うように、どさりと、重みを預けて脱力した影がのしかかって来る。

 眩んでいた目が次第に慣れてきた。粉塵がゆっくりと鎮まって薄くなってきた。

 だが、見えるようになる前に、ランは気付いていた。

 鼻がヒクンと震える。

 倒れ掛かってきたソレ。立ち込める腐臭の中でやっと嗅ぎ分けたその匂いは、ランがよく知っている物だった。

「デ………キ…チ…?」

 乾いて割れて掠れた喉が声を発すると、ソレは、満足げな笑いの気配を微かに伝えて来た。

 のろのろと腕が上がる。ずり落ちて行く体を抱いて支えようとしながら、ランも力尽きて膝から崩れる。

 へたり込むように崩れたランの前で、デンキチが倒れて横たわる。

「…デ…ン………チ…」

 出口で待つ。

 確かにデンキチはそう言った。

 だがあれは、外で待っているという意味ではなかった。

 試練の最後の相手として待っている。ランはやっとその真意に気が付いた。

 胸に風穴をあけられたデンキチは、遠ざかる意識の中、満足していた。

 仕上げは成った。斃されるべき最後の一鬼、自分にも務めおおせる事ができた。

 赤銅色に輝く命の灯火…、ランは神壊の操光術の真髄に至った。ここまで来れば、自分が仕組みや修練法だけ伝えた神壊の

奥義の数々も、いずれは体得してのけるだろう。

 見事だと、期待どおりだと、賭けた甲斐があったと、褒めたかったがもう声も出ない。あとは、事が成されるよう祈るのみ。

(ラン様、御武運を…。必ずや皆の仇を討って下さい…)

 ふと、手に感触を覚えた。

 ランはデンキチの手を握っていた。それを持ち上げていって、おずおずと自分の頭の上に乗せた。

 デンキチは霞む目でそれを追い、ランの頭から力なく滑り落ちる自分の手を眺める。

(…ラン様…?)

 ランは呆然とした面持ちでデンキチの手を見つめ、もう一度持ち上げ、自分の頭の上に乗せる。

 撫でて欲しいのだ。そう察したデンキチだったが、体が言う事をきかず、指一本も動かない。

 デンキチの腕がまた落ちる。ランは途方に暮れたようにそれを見つめる。

 動かない手をまた取り、じっと見つめたランの目から、ポロリと、涙が零れた。

 透明な滴が落ち、デンキチの手の甲で弾けた。

 遠く遠く、微かな物として、その涙の感触を受け取りながら、デンキチは嫌な感覚を抱いた。

 自分は間違ったのではないか?

 持ち上げたデンキチの手に、ランが頬を押し付ける。指一本動かない手に、頬ずりして涙を塗る。

 ランはデンキチを慕っていた。この六年をともに過ごし、育ててくれた従者。師であり、親のような存在でもあり、家族で

あり同族と見ていた。

 五つで家族も故郷も失った少年にとって、デンキチは人生の半分以上をふたりきりで過ごした相手。主従の関係ではあって

も、肉親とかわりない存在だった。

 デンキチ自身がそう仕向けたせいで、感情が表に出なくなってしまい、内心を察する事は難しくなっていたが、ランの本心

を感じ取る事は、その気があれば不可能ではなかった。

 他でもない。デンキチ自身が理解する事を放棄していた。そんな感情を求めもしなかったからこそ、ここまで慕われている

事に、心を寄せられている事に、今の今まで気付けなかった。

 表情のないランの頬を伝う涙を、焦点が定まらない目で見つめながら、デンキチはひどい悪寒と後悔を覚える。

 他の生き方があったのではないか?

 他の生き方を選ばせるべきではなかったのか?

 この子に、不自由ではあっても幸せな明日を用意してやるのが、正しい道だったのではないのか?

 自分は、この愛すべき若き主の背を、未来に向かって押すべきだったのでは…。

 やっと理解できた。

 隠神刑部が何故あんな選択をしたのか、どんな気持ちで決めたのか、やっと…。

 だが、もう取り返しはつかない。

 デンキチの口が開く。

 だが声は出ず、こひゅぅ、と弱々しく空気が漏れただけ。

 待ってくれ。

 消えゆく意識の中でもがく。

 待って。

 暗くなる視界の中にランの顔が消える。

 まだ。

 自分の呼吸も、脈拍も、心音も遠ざかる。

 まだ、死ねない。

 感覚が失せてゆく。何もかも消えてゆく。

 ああ。

 ああ…。

 私には、貴方に言わねばならぬ事があったのに。

 本当に言うべき事は、他にあったというのに。

 示すべき未来は、別の物だったというのに。

 どうか。

 どうか。

 ラン様。

 どうか。

 止めて。

 忘れて。

 生きて。

 ラン様。

 どうか。

 自分は為すべき事を見誤った。己の選択を正しいと、忠義の物だと信じて疑わなかったデンキチは、初めて後悔した。

 違うのだ。

 違う道を歩んで頂くべきなのだ。

 これからは。

 そう、これからは。

 ラン様には穏やかに、健やかに、生きて頂けるよう仕え直して…。




 風が吹く。

 樹海が懐かしい潮騒を奏でる。

 かつての当主が座した岩に手を合わせていたデンキチは、やがて目を開けると、傍らで同じように手を合わせていた少年を

見遣った。

 少年も目を開け、ふたりは顔を見合わせる。

「ラン様、そろそろ出立致します」

「うん」

 顎を引いた少年を促し、デンキチは故郷に別れを告げる。

 もうここに用事はない。二度と戻る事も無いだろう。

「長旅になりますが、急ぐ必要もありません。安全に、余裕をもって向かいましょう」

「うん」

 少年と並んで歩きながら、デンキチは軽く眉を下げる。

「…あてがある、と隠神の大将はおっしゃいました。一時身を寄せ、隠れ家など手配して貰えるやもしれない相手があると。

まずはそこを目指します」

「うん」

「…やれ日和っただの、気概がないから報復を諦めるだの、散々胸中で文句を垂れておきながら、今更どの面下げて頼るのか

という気持ちもありますが…、まぁ致し方ありますまい」

 片耳の熊は何とも情けなさそうに厳めしい顔を顰めた。その顔が珍しくて面白かったのか、ランは目を少し大きくしてから、

こちらもまた珍しい事に笑った。

「手前の身勝手です。幸いこれまで何もなかったものの、勝手な行ないが生存を勘付かせ、帝勢を刺激し、他の同胞に危険を

招く可能性があったのは事実。恥には耐えましょう。どんな謗りも仕置きも甘んじて受けましょう。腹を切れと言われれば切

りましょう。全ては手前の不明が原因で、ラン様に責は無いのです。…それでも、隠神の大将がラン様を迎え入れてくれぬと

なれば、その時は…」

「どうする?」

 横に並んだ若当主の問いに、デンキチは「何とかしましょう」と応じた。

「何処ででも生きてゆけます。何処へ行くにしても、これまでと同じくご不便をおかけする事にはなってしまいますが…。こ

のデンキチめが、必ずやラン様に新たなお住まいをご用意致します。そう!」

 片耳の熊はランの前に回りこむと、跪いて述べる。

「もはや修練のために寒風雨雪に身を晒す必要もなくなったのです。一国一城とは流石に申せませんが、雨風凌げる館を、暖

かい布団を、少しでも快適な日々の暮らしを、まずは献上致しましょう。こう見えて、里に居た頃は大工仕事も御役目の内で

したので、手前には多少大工の心得がありまして…。昔取った杵柄とはいえ、錆び付いていない腕を御覧に入れましょう」

 見上げるデンキチは、ランの満足げな笑顔を目に焼き付けて微笑む。

 これでいい。

 これで良かったのだ。

 大事な大事な若殿を、自分は生涯支え続けよう。

 怨恨は眠らせ、ただ穏やかに、健やかに、生きていけるよう骨を折ろう。

 いつかあの世で先代に会ったら怒られるかもしれないが、仕方ない。それでも構わないと選んだ道なのだから、甘んじて叱

責を受けるのみ。

(フウ様も大きくなられただろうか…。隠神の大将や眷属の面々、神無の若い衆や、御館様の身の回りをお世話した経験があ

る女衆もついている。ラン様ほど不便はしなかっただろうが、何せ大人しくお優しい性分だった。お気持ちには相当の負担が

あったはず…。何せ兄君を手前勝手に連れ出してしまったのだから…)

 これから忙しくなる。何せ神壊の落胤はふたり居る。首尾よく合流叶ったなら、分け隔てなくふたりとも支え奉らねばなら

ない。

 まずは大変な時期に置き去りにした事から詫びなければと、デンキチは謝る文言を考え始め…。

「参りましょう」

「うん」

「まずは腹ごしらえを」

「うん」

「身なりも多少整えまして…」

「うん」

「首尾よく事が運びましたら、道中何処ぞで何とかオハギを手に入れて参ります」

「うん」

「それから」

「うん」

「それから…」




 物言わぬデンキチを見下ろして、ランはその手を握り締める。

 洞穴の天井を黒々と映す虚ろな半眼から、今際の夢と命の残滓が消え去って、喉から最後の空気が漏れた。

 それきり、デンキチが動く事は二度となかった。

「デン…キチ…」

 少年は掠れ声で名を呼ぶ。

 喜んで欲しかった。褒めて欲しかった。よくやったと。

 それももう、叶わない。

 デンキチの手が冷えてゆく。温もりが消えてゆく。生きた痕跡が失せてゆく。

 自分が殺した。

 デンキチを殺した。

 自分のこの手がデンキチを殺した。

 自分がこの手でデンキチを殺した。

 動かない手を頬に当てて、涙が止まったランは、その眼差しを望洋としたものに変えてゆく。

 デンキチの遺体と、同じように。




 翌日の未明。

 風が強く吹いて激しく木々を揺らす中、少し盛り上がった土を前に、ランは独り、立っていた。

 故郷の土に埋めた。

 育ててくれた親代わりで、師でもあった男の遺骨を。

 焼いた遺体と一緒に、壊れた懐中時計と、デンキチが持っていた小刀も埋めた。刃毀れだらけのそれで魚を捌いて貰うのが

好きだったが、それももう二度と見る事はない。

 そこだけまだ土が新しい、僅かな盛り上がりを見下ろして、ランはいつまでも佇んでいる。

 平坦だった。心が。

 突き刺さるような胸の痛みがあったのに、今はもうすっかり消え失せている。

 その代わり、ぽっかりと穴が空いたように、寒々しい虚無感が居座っている。

 最終試練百鬼の行。

 それは、襲名の儀。

 そして、報復の儀。

 神代を、神将を、帝を、仇敵を滅ぼし復讐を果たすために力を求めた神壊家が辿り着いた、試練という名の儀式。

 歴代の神壊家当主がそう成ってきたように、ランもまた失った。

 そう仕向けられ、そうと知らぬまま従兄弟を手にかけた父と同じように。

 ランもまた、慕う者を失い、心の一部を失った。自らの手で葬る事で。

 かくして、新たな神壊の当主は誕生した。

 そこに在るのは「成れの果て」。

 胸を抉った空虚を抱え、ただ葬る為に在る者。

 数時間経ち、空が白み始め、ランは顔を上げた。

 すべき事は判っている。その他には何も無い。

 無くなってしまった。この手で無くしてしまった。だからもう、他に望む事は何も無い。

「…葬(はぶ)る…」

 小さく呟き、ランは踵を返した。

 潮騒を背に浴びて、赤銅色の若熊はただ一頭、討つべき仇敵のもとを目指す。

 惜別の時。風吹く樹海より、奥羽へ…。



















































 半月後。

「…まさか…」

 呻いた狸の、腕が入っていない左袖を、風が激しくはためかせた。

 樹海。彼らの故郷であり敗戦の場。

 嵐の海のような激しい潮騒の中、ヒコザは掘り返された地面の前に立っている。

 恭しく跪いている長毛の狸の前には、強風に飛ばないよう四隅に石を置かれた茣蓙が敷かれ、その上には真新しい骨壷に納

められた遺骨と、壊れた懐中時計、腐食して割れた木鞘と、土塗れの錆び付いた小刀が並べられている。

 探索に出ていたカンゲツ達から緊急の知らせが入り、ヒコザは応援を連れて樹海に駆けつけた。事前に話を聞いていてなお、

隻腕の狸は驚きを隠せない。

「デンキチ殿に違いないかと…」

 塚を掘り起こして遺骨を発見し、骨壷に納めておいたカンゲツは、遺骨そのものと副葬品と状況から、確信を持ってヒコザ

に報告した。

「そうか…」

 呟いたヒコザの噛み締めた歯がギチリと鳴った。

 ヒコザに同行してきたタスケは念のために戦闘が得手な者を引き連れ、神壊の最終試練場の深部を確認中だが、内部に夥し

い数の危険生物の死骸の残りがあり、使用された事が明白であるという情報は、第一報の時点でヒコザにも知らされていた。

「デンキチ…、ヌシはランに、アレをさせたのか…!」

 ヒコザは何が起きたのか、何が行なわれたのか、ランがどうなったのか、状況から確信していた。

 「その可能性」を考慮していたからこそ、ヒコザは定期的に樹海へとひとを差し向けていた。だが、ランが元服も迎えてい

ない内に最終試練に挑む事は想定外だった。だからこそ隠れ里跡近辺への偵察頻度はそれほど高めず、より広く探索する手は

ずで事に当たっていたのだが…。

(ランは、やり遂げたのか…!)

 ヒコザの右腕がミシリと力んで、拳を握る掌に爪が食い込む。

 デンキチはランを百鬼の行に挑ませた。そしてランはそれを突破した。元服もまだの子供が歴代の当主と同じ試練を抜けた。

 百鬼の行がどんな物なのかはヒコザも知っている。デンキチが知らなかった事まで。

 古種の血を濃く残す神壊家。その体質は他の獣人とはだいぶ異なり、きっかけがあれば物理的に「転化」する。

 それは、兵器としての自己調整。

 太古の生物兵器をベースに生まれた現行の危険生物は、人工天然問わずに、太古の因子を宿し続けている。神壊の者がそれ

らの血肉を摂取し続けると、肉体が環境を「彼らが兵器だった時代の環境」と誤認し、本来あるべき性能に戻ろうと、機能を

最適化させ始める。

 その結果、肉体も思考も、現代の人類からは離れてゆく。不要な物を欠落させて…。

 そして、最後にそれが固着される。己の手で親しい者を葬らされる事で、欠落の跡に空虚が宿る。

(ライゾウ殿が、息子達にはやらせたくないと言ったのに…!ランはアレを…!)

 試練を終え、デンキチが死に、独り残されたはずのランは、しかし探索中の樹海ではまだ見つかっていない。

 では、一体何処へ消えたのか?

 もしや帝のもとか。

 あるいは近くの神将のもとか。

 それとも…。

「………!」

 不意に嫌な予感がした。まさか、と頭では否定するが、直感は確信になっている。

 冷静に考えれば在り得ない。…などという考えが既に甘い。何せ相手は、分別もつかない子供からそのまま兵器へ転化した、

常識を知らずに生きて来た存在なのだから。

「トライチ!」

「はい!」

 傍に控えるキジトラ猫を振り返り、ヒコザは命じた。

「烏丸の頭に連絡を取る!足が必要だ!急げ!」

 根拠は無い。だが、今日まで自分を生き延びさせてきた鋭い勘が、ヒコザに確信を抱かせた。

 ランが向かったのは奥羽。他の何処の神将家でもない。帝ですらない。狙いは神壊の仇敵、神代家。

(まずい…!)

 ヒコザは歯噛みする。

 いかに試練を終えようが勝ち目などない。

 力があれば殺せるような手合いではない。

 あの敗戦で、神ン野、神座、神原、そして神代と、四名もの神将家当主と直接相対したヒコザだからこそ判る。

 あの中で、神代熊鬼は頭一つ抜けていた。危険性という点で他の神将の比ではない。

 おそらくは、その技で上をゆくのはいまだに鳴神雷電だろう。

 万全の状態での真っ向勝負ならば、ライゾウが確実に勝つだろう。

 だが、「何でもあり」の命の獲り合いならば、神代熊鬼は両者の上をゆく。

 ヒコザは自覚していないが、それはふたりが似た者同士であるが故の直感。同胞のためなら躊躇いなく命も体も張るその一

方で、目的を達するためならどんな非道も厭わない、有情と非情が同居する男。それがどんなに汚い手だったとしても、不名

誉な行いだったとしても、必要ならば選択する。その点で、神代熊鬼という男はヒコザとよく似ている。

 だから理解していた。いかに試練を抜けたとはいえ、「それだけ」のランにはまだ無理だと。

「洞穴の連中も捜索隊も呼び戻せ!ランはこの近くには居らん!撤収して速やかに隊を編成、少数精鋭で追う!行き先は…」

 風が荒れる。木々が激しくざわめく。

「帝直轄奥羽領「禍祖(まがつのそ)」。その守護頭…、神代家だ!」

 嘆くように、潮騒はいつまでも鳴り止まない。