OZの休日

「水遊びしたいなぁ…」

 大きな本を広げている赤髪の少年が漏らした呟きを耳にして、腹の前から顎先まで積み重ねた本を抱えて歩いていた秋田犬

は足を止め、首を巡らせる。

 アグリッパ一門が管理する図書室。外から入って来て新しい本が増えたので、手が空いている門下生達は図書の移動や整理

を行なっていた。

 二十人ほどでの作業だが、本自体は約二千冊。ずっしり重たいハードカバーから収納場所を選ぶ巻物まであるので、それな

りの重労働である。他門派の発表会に出席しているアグリッパからは、急ぐ仕事でもないのでのんびりやっても良いと申し渡

されているので、休み休み作業を進めている。

 抱えていた本を一度テーブルに降ろしたヤクモは、ジョバンニが落とした拍子に開いた、大判の本の一ページを覗き込んだ。

 それは、椰子の木が点在する砂浜と、青く輝く海と空、南国の島で撮られた写真。潮流と年月で変化する海岸線についての

研究図書のようで、海流による漂着物に関する説明がびっしりと記されているが、カラー写真の美しさが一際目を引いて内容

が頭に入らない。

「ヤクモ、泳ぐの得意だっけ?」

「それなり、かな」

 特に上手という訳ではないが、着衣のままでも泳げるように訓練は受けた。ユウヒと沢遊びしたり淵で泳いだりもしたので、

少なくとも馴れてはいる。

「でも、海で泳いだ経験は殆ど無いんだ。川とか沢ならあるけど」

 山育ちなので海水浴はあまりした事がないとヤクモが言うと、ジョバンニは「ボクは兄さんが時々連れて行ってくれたから」

と、記憶を手繰るように遠い目になった。

 忙しい兄だったが、時折纏まった時間を作って、自分を様々な所へ遊びに連れて行ってくれた…。そんなジョバンニの言葉

を聞いて、ヤクモは複雑な気分になり耳を倒す。ジョバンニの兄がどんな人物なのかは判らないが、彼の話から優れた術士で

ある事や、兄弟仲が良い事は理解できている。もしかしたら自分が、かつての師であり兄にも近かった人物に寄せる感情と似

た物を、ジョバンニも寄せているのかもしれない、とも思える。親愛と敬愛。そして、置いてけぼりにされたくなくて、認め

られたくて、不安になる気持ちなども…。

 ジョバンニは尊敬する兄へ、時々近況報告の手紙を出している。しかしヤクモはこちらに移ってから河祖下村へ連絡した事

は一度も無い。ここへ連れて来てくれたフレイアに対しても同様である。

 連絡を取り合えば里心がついてしまうかも知れないという懸念と、ユウヒへの負い目にも似た感情が、せめて胸を張れる成

果を出せるまでは…、恥じない実績を上げた自分になるまでは…、と筆を遠ざけている。

「水遊び?って…、何だ?」

 海の写真を見つめる二人に声をかけたのは、スラリと背が高いジャガー。その手がアンダースローで次々と本を放り投げる。

脚立の上に座り、5メートルほどの高さに居るゲンエイめがけて。

 一見すれば放り投げているようにも感じられるのだが、術を用いて本を「飛ばして」いる。ジャガーが放った本は風圧操作

によってゲンエイの傍でスローになり、滞空し、手に取られるのを待っている。呼吸するレベルで雑務に繊細なコントロール

で術を活用する兄弟子達を見ていると、ヤクモもジョバンニも高みの遠さに眩暈がしそうだった。

「水遊びはその、別に深い意味は無いっていうか…、普通の水遊びの事で…」

 何かの隠語と思われたのかもしれないと、照れ笑いするジョバンニだったが…。

「普通の…?水遊び…?ん?んん…?」

 ジャガーは手を止めて怪訝な顔になる。

「ええ。海で泳いだり波打ち際で遊んだり…、海水浴に限らないですけど」

「海…水………?」

 ジョバンニの言葉を聞いて黙りこむジャガー。自分達は何かいけない事でも言ってしまったのだろうかと、不安げに顔を見

合わせるヤクモとジョバンニ。そこへ…。

「ああ、セルバンテスは知らないんだね」

 リストを確認しつつ、手放しで台車を操作してスクロール数十本を運んでいたトカゲの女性が口を挟んだ。

「生まれも育ちもOZだと、海水浴を知らない連中も珍しくないよ。かく言うアタシも詳しくはないしね」

 OZで生まれ育った者にとって、海とはOZと外界を繋ぐ航路という印象が強い。知識として海がどういった物かは知って

いるが、砂浜で遊ぶという事がまず思い浮かばないのである。大きな湖を湛えた浮き島もいくつかあるので、泳げる場所も無

くはないのだが、四季が存在せず常に快適な気温が保たれているため、水遊びするという習慣自体が存在しない。

「エスメラルダさんも海で泳いだ事はないんですか?」

「海はないけど、実験用に運び込まれたケルピーが湖に逃げた時に捕獲の手伝いはしたよ。こう見えて、水中での機動に便利

な術はいくつか得意でね」

 危険生物を素潜りで捕獲するという異常なソレは、もはやヤクモやジョバンニが思い浮かべる遊泳とは完全に別物である。

「ははははは!OZの中と外では娯楽の常識も食い違う…、そこで僕ですよ!」

 声高らかに笑いながら、やたらと素早く小刻みな動作で脚立をカタタタタタッと降りて来るゲンエイ。梯子を高速で降りな

がら喋っているので声が揺れている。

「ジョバンニ、ヤクモ、いい機会です。僕も経験済み…つまり君達側です!外の世界での水遊びとはどういう物か、三人で皆

に説明してあげましょう!」

 かくして、妙にノッているゲンエイに促され、急かされ、誘導され、秋田犬と赤毛の少年は、作業の手を止めた皆に説明を

始めて…。

 

 五時間後。

 

「ふんむ…。ま、良いんじゃないかの?」

 帰って来たアグリッパは、事細かに纏められた提案書を一通り読むと、顎鬚をしごきながらOKを出した。

 ガッツポーズを取るジャガー。アグリッパの手にある提案書には、「アグリッパ一門湖水浴計画提案書」と記されていた。

本の整理をそっちのけで纏められた、全80ページの企画書は、高弟達が学問以上に全力投球した品である。

 

 そして二十一時間後…。

 強い日差しが照り付ける、白い砂浜の波打ち際に、ヤクモとジョバンニは青白い顔で立っていた。

 白い雲が浮かぶ青空の下、眩しい砂浜にはビーチパラソル、ビーチチェア、バーベキューセット…。真夏の海にしか見えな

いが、ここはOZの浮き島にある湖の一つ。

 範囲を湖周辺に限定して気温を上げ、「擬似夏の太陽」と称した照明術を打ち上げ、視覚系幻術の応用で南国の青空に偽装

したスクリーンを頭上に展開。

 湖面に流動物制御術をある程度のランダム性を持たせて自然に近い波を立て、水底から引き上げたきめ細かい砂を乾燥させ

て散布し、砂浜を造成。

 そうして出来上がったのがこの「偽、夏の海」。基本、何事にも全力で探求にあたる門下生達は、その技術と知識を無駄に

総動員して、伝え聞いた話を元に湖水浴の舞台を整えた。ビーチグッズ類一式まで、資料で見た品に精巧に似せて自作すると

いう無駄なクオリティの高さで。

(地脈がモザイクタイルみたいに…!)

 ゴクリと唾を飲むジョバンニ。風水の見地から地脈を見ると、もはや大地震か何かで滅茶苦茶になったかのような塩梅。こ

れがひとの手による、しかも一日程度で行なわれた物とは、一見しただけでは信じ難い。

(誰かが術の維持をしている訳でもなく、起動した後は放置…。それでこの規模でこの精度って、どんな仕組みなんだろう…)

 一方ヤクモは、維持する術士も立てないままで、複数の大規模な術が継続起動中という現状自体に度肝を抜かれている。つ

まりこれは個人の思念波強度による力技の類ではなく、仕組みと仕掛けを用意して行なっている、舞台装置のような半自動の

術式という事になるのだから。

「そーれっ!」

 はしゃぐ声と共にジャガーがビーチボールをスパイク。外界のソレを参考に仕立てた水着姿の門下生達は、異常な順応性を

発揮してビーチバレーに勤しんでいる。
そして湖水上を見遣れば、流動体制御術による動力を仕込んだ木造水上バイクを乗り

こなす、ビキニ姿のエメラルドグリーンのトカゲ。

 八十人近い門下生が、この臨時特別休暇を思い思いに楽しんでいる。

(これが…、OZの全力…!)

(遊びにもこんな手間をかけるんだ…。しかも迅速に…)

 ジョバンニとヤクモは笑い声の中で立ち尽くしたまま…。技術力の無駄遣いもいい所だが、これを一日でやってしまう行動

力と労力も異常である。ふたりとも驚愕を通り越して色々もう何だか怖い。

「ふたりとも、何やら楽しんでおらんようじゃが?」

 と、ヤクモとジョバンニへ声をかけたのは、素肌にアロハシャツを引っ掛け、サングラスを着用し、トロピカルドリンクの

グラスを手に持つ恰幅の良い老人。
アグリッパもしっかり満喫中…というよりも、浜辺のくつろぎっぷりが妙に板についてい

る。もしかして慣れているのでは?と思えてくるほどに。

「やはり再現度がいま一つで、違和感が気になってしまうか…」

『いえそうではなく』

 思わず声をハモらせるヤクモとジョバンニ。

「さあ焼けましたよ先生!おやふたりとも、見ているだけで良いんですか?」

 歩み寄ってきたゲンエイが、皿に盛った羊肉と野菜の串焼きを師に勧めながら後輩達に声をかけた。

「いえ、その…」

 楽しむ以前に、そこに投入された技術に度肝を抜かれてしまっていたジョバンニは、せっかくなのだから楽しまなければ、

準備してくれた高弟達にも申し訳ないなと思い直す。

「さあ、ヤクモも」

 串焼きを勧められて手に取ったヤクモは、バーベキューに勤しむ門下生達の姿を眺めやる。

「文献によればマシュマロも焼くらしい」

「マシュマロとは?」

「マッシュポテトの仲間では?」

「マロは…、そうかマロンか!」

「なるほど!ではマロンは無いので芋を潰して焼こう」

「いいね」

(不安っ…!)

 手にした串焼きをまじまじと確認する秋田犬。一種類だけよく判らない野菜のような物が挟まっていたが、ミニコーンのよ

うな形状でピーマン色のそれは、OZの固有種である野菜。普通に食べられる品なのでホッとする。

 安心して串にかぶりついたヤクモは、そこでゲンエイの視線に気付いた。

「どうかしましたか?ゲンエイさん」

「ヤクモは、水着はどうするのかと思いまして」

 黒髪の青年は秋田犬の腰を見ていた。ヤクモが締めているのは赤い六尺褌だが…。

「あ、これが私の水着です」

「おや?下着で泳ぐんですか?」

「特別に水泳用の衣というのも持っていないので…」

 元々、故郷では沢遊びなどでも水着などは用意せず、下着でそのまま入水していた。そんな話を聞いたゲンエイは、「確か

に、動くのにも邪魔にならなそうですしね」と頷く。

 かく言う兄弟子はハーフパンツタイプの水着…なのだが、ゲンエイに限らず水着類は外部から取り寄せた品ではなく、資料

を元にしてこちらで急造した品。だいたい綿で作られており、およそ泳ぐのに適した素材ではないが…。

「どうしましたヤクモ?」

「いえ…」

 目を逸らした弟弟子の態度を不審がるゲンエイ。

 ヤクモは大きな尻を少し引き、努めて兄弟子の姿を正視しないようにする。ハーフパンツ一枚のゲンエイは半裸の状態。色

白な肌と、やや細身で引き締まった肉体は、強い日差しの下では眩しく見えた。

 その姿にヤクモはドキドキしてしまう。

 いつからだったのかは判らないが、自覚できたのは少し前。最近は特に…。

「近頃元気がない時が多いですね。もしやホームシックですか?」

「い、いえ!そんな事は!」

 まだ帰れない。そんな意識もあって少し強い口調で応じたヤクモは、

「では疲労で元気がないのでしょう。適時、羽を伸ばすのは大切ですよ?」

 結局いつものように、兄弟子に上手く纏められてしまう。

「さて、食べごろの物で腹ごしらえしたら、少し泳ぎますか。体を動かさないと、肩も背中も凝りっぱなしですよ?」

 そんなやり取りを交わして、串焼きを食べ終えてから、普段からそうするようにヤクモの手を取って波打ち際へ向かうゲン

エイ。その様子を、トロピカルジュースを啜りつつ串焼き肉を頬張って見ていたアグリッパは、「そうじゃ」と、唐突に何か

思いついたような声を上げた。

「バカンスの海は荒れるのが定番…じゃったか?いつ荒らそうかね。横殴りのスコールで慌てて軒下などに避難する…、とい

うのがアクシデントの鉄板と聞いたが…」

「わざとアクシデント起こさなくていいんですよ先生!?」

 この老人の場合、その気になれば本当に擬似ハリケーンを造り出せてしまうので、ジョバンニは慌てて止めた。

 

 

 外周を歩けば一周に一時間はかかる広い湖は、突貫工事で造られた砂浜を除けば、大半が岩場の間に僅かな砂浜がある程度。

水質は良く、深く見通せるほど澄んでいる…のだが、湖底の砂を砂浜に使用するという高弟達のダイナミック環境破壊によっ

て今はだいぶ濁っている。

 外の世界とは生態系が異なるOZだが、この湖に生息しているのはマスほどの大きさの淡水魚や体が透けている小魚、貝類

等ばかり。危険な生き物は居ないので遊泳には向いている。

 人工真夏の太陽と人工真夏の熱風のせいで温度は上がり、泳ぎ易い水温。むしろ限定範囲内とはいえ環境を一変させてしま

う高弟達の技術力と行動力には肌寒さすら覚えるヤクモだったが。

 波打ち際からチャプンと足を浸して湖に入り、腰まで浸かった位置で待っているゲンエイに近付くヤクモ。明日には元に戻

すそうだが、遠浅の砂浜に仕立てられたそこは、磯の匂いや塩気こそないが、足裏の砂が引き波に持って行かれる感触まで本

物の海に近い。

「さあヤクモ!あの辺りまで競争です!」

 ゲンエイが沖を勢い良く指差す。…が、岩などが顔を出しているわけでもなく、ブイの類があるでもなく、目標地点がザッ

クリし過ぎている。

「あの…、どの辺りで…」

「ではヨーイドン!」

 シャパーッと勢い良く水面に滑り出し、バタフライで泳ぎ始めるゲンエイ。フォームが異様に美麗である。

「え!?で、ですからあの辺りってどの辺り…!」

 慌てて平泳ぎで追いかけるヤクモ。脂肪分多めで体積もあり喫水線がやたら安定している。そのすぐ側を…、

「いー…やっほーぅ!」

 木目の美しさとフォルムがチグハグな印象の水上バイクに乗ったトカゲが高速で通り過ぎ、ゲンエイとヤクモは諸共に横波

を浴びせられた。

「おおっとアクシデント!こうでなくては面白くありません!」

「うわっぷ!?」

 飛沫を食らって楽しそうなゲンエイ。横波を被って全然楽しくないヤクモ。さらに…。

「加速力を甘く見ないで頂戴よ!」

 どうやらトカゲの方も他の門下生と競争中だったらしい。形だけ雑に整えられた、木目もそのままなサーフボードに乗り、

もはやヒモにしか見えない際どいビキニを着用している雌獅子が、猛スピードで水上バイクを追う。

 如何なる仕組みによる物か、サーフボードは底面から風を噴射して水霧を飛ばしつつ水面の少し上を浮遊し、ホバークラフ

トのように滑って高速移動している。

 どうやら、流石のOZの高弟達も資料や又聞き知識での再現では完璧とはいかないようで、サーフボードという存在を完全

に誤解してしまったようである。
後方…少し離れた位置から機動痕に水煙を上げて通過したサーフボードの、もはや衝撃波に

近い移動の余波を食らって、また高波が立ち…。

「はっはっはっ!これは楽しいですね!」

 波に揉まれてゴキゲンなゲンエイ。

「ここで泳ぐのやめた方がいいですよゲンエイさん!?」

 ハラハラしながら、遊泳に適した環境とは言い難い…どころか危険極まりないと訴えるヤクモ。

 

 一方、浜辺では…。

「参考にした海の映画の資料に」

「うん」

「伝説の大波というのがあった」

「何それイカス」

「よく判らないが、おそらく何千年周期とかで来る波で」

「ほうほう」

「主人公達はそれに挑んだ。たぶん海の何かを鎮める儀式か何かなんだろうな」

 ビーチバレーの休憩中、砂浜で車座になり、適当に読み流した資料の中から拾ったワードについて、よく判らないまま推測

で補って謎の現象に仕立て上げる門下生達。

「再現してみる?」

「せっかくの偽夏の海だしな」

「よしやるか!」

 OZの学徒とはいえ若者、ノリは普通にバカばかりやる学生のソレである。その結果…。

 

「ゲンエイさん!ゴールこの辺りじゃないんですか!?」

 何処まで泳ぐのか、そろそろ疲れてきたヤクモの問いに、

「あれ?どこでしたっけ?」

 最初から適当な目星で泳ぎ出したゲンエイも、自分で示した場所が判らず、答えられない。が、相変わらず悪びれない笑顔

である。

「う~ん…、まぁいいですかここで!同着という事にしましょう!」

 そもそも競争した事自体にも全く意味がない。バカンスとはそういうもの、と割り切り過ぎなゲンエイに、ヤクモはきょと

んとしてから苦笑い。

「おっと。今日やっと最初の笑い顔ですよ」

「え?そう…でしたっけ…」

 言われてから、そういえばビックリし通しで、顔が強張っていたり困惑していたりと、笑ってはいなかったかもしれないと

自覚したヤクモは…。

「…?」

 何やら周囲で水の流れが変わり、後方に引き寄せられている事に気付いた。

「おや?これは…」

 ゲンエイが目の上にひさしを作って、ヤクモの後方を眺める。嫌な予感と共に振り返った秋田犬は…。

「!?!?!?」

 視界を遮る、高さ10メートル以上の水の壁を目の当たりにして絶句した。

 浜辺では、大波つくろう良しやろう、と遊びに本気の高弟達が、砂浜に陣を描いて割と大規模な即興術具を製作。制御係、

整形係、出力係と、細かに役割分担して「伝説の大波」を再現している。やっている事は完全にバカの極みなのだが、発生さ

せられた波は前後で水面の高低差が変わる規模のソリトン波。一種の津波型兵器である。

 口をポカンとあけて見上げるヤクモは、一体どんな勝負になっているのか、大波の上で競争を続けるトカゲと雌獅子の水上

バイクとサーフボードを逆光で目に焼きつけた。

 先端から倒れ掛かるように崩れる波頭。

「ヤクモ、潜ってやり過ごしま…」

 ゲンエイの声が大瀑布のソレを思わせる水音に掻き消され、頭上からの波頭崩落に巻き込まれたヤクモは、水中深くまで押

し込まれた。

(く、空気!空気を!)

 気泡混じりで真っ白になった水流で滅茶苦茶に揉まれ、上も下も判らなくなりながら、ヤクモは精神を集中する。同時に、

ヤクモの影を白く濁った水の向こうに確認しながら、ゲンエイも術を起動した。

 アグリッパ派は、術士各々の腕前にもよるが、簡素な術であればグリモアなどの術具を必須としない。

 思念波そのものを研究する過程で生まれた技術だが、空間に思念波の痕跡と動線を認め、把握、操作する事で、その場で簡

素な術式とし、使い捨て術具の代用にできる。

 無論、術具に備わる操作や微調整、修正機能などの細やかな部分を全て自力でリアルタイムに処理しなければならず、術具

の最大の恩恵である術式の補強や思念波強度の増幅も得られないため、仕組み自体が単純で小規模な術に限られるが。

 周囲の泡を誘導して掻き集め、潜水服のヘルメットのように頭に被ったゲンエイは、ヤクモもやや遅れて同じ事を行なった

事を確認すると、白く細かな気泡が筋を引いて流れる水中から、波で大荒れの水面を見上げ、少し待とうとジェスチャーで伝

える。いま急いで浮上しても波にもてあそばれるだけだ、と。

 頷いて了解を伝えたヤクモの手を、泳いできたゲンエイが捕まえる。流れが激しい水中で、下手に逆らわず流されながら、

秋田犬は顔を熱くさせた。

 

 砂地から岩が所々顔を出している、小さなビーチ。片腕が長く逆側が丸くて大きなハサミを持つ掌サイズのカニ…OZ固有

種の騎士蟹が、槍と盾を砂上でカンカンカンと撃ち交わして縄張り争いに興じている。

「いや、面白…もとい、酷い目にあいました。はっはっはっ」

 波打ち際の岩場に腰掛けてゲンエイが笑う。

「………」

 その隣で椅子に座るような格好のヤクモは、両脚の上に肘を置き、前屈みで項垂れていた。

 褌が無い。水流によってもみくちゃにされていた間に、解けて何処かへ流されて行ってしまったので、秋田犬はスッポンポ

ンである。

 溺れずに大波をやり過ごしたは良いが、余波の水流に運ばれて、造成された砂浜からだいぶ離れた所に流れ着いてしまった。

戻るなら岸を歩いて行った方が疲れない距離である。

 なお、すこぶる規模の大きい悪ふざけは、しかし岸辺に到達する前に波が消滅し、被害を出さないように設定されていたた

め、湖周辺は静かな物。ヤクモとゲンエイが泳ぎ着いたここも何事も無かったように長閑だった。

 とにもかくにも、戻る前に少し休憩しようと、ゲンエイの提案でここに腰を落ち着けているのだが…。

 ヤクモはそっと、横目でゲンエイを見遣った。兄弟子は沖の方を眺めていたが…。

「僕をチラチラ窺う。それなのに僕を見ると辛そうな様子を見せる。近頃ずっとそうですが…、さて、どういう事でしょうね

ヤクモ?」

「!」

 視線を感じていたらしいゲンエイの発言に、ビクリと身を震わせた。

「それは…」

 問われても、答える事ができないヤクモは困ってしまう。

 それらしい答えには気付いている。気付いてはいるが言えない。だから答えられない。

 ゲンエイは自分を見下さなかった。彼が居るステージから見れば、下らないどころか幼稚でしかないだろう、未熟な自分を。

 優しくして貰えた。親切にして貰えた。期待して貰えた。褒めて貰えた。同じ術士というカテゴリー内だから、自分より遥

かに優れているとはっきり判る、優秀な先達に。

 そして、彼は体を張って自分を助けに飛び込んでくれた事がある。結果的に元通りにはなったが、左腕を黒焦げにして失う

ほどの重傷を負ってまで…。

 尊敬と信頼。それがゲンエイに対して抱く感情。それで良く、そうでなければならないはずだったのに…。

(私は…)

 胸の高鳴りを自覚する。いけない事だと思う。よくない事だと感じる。なのに、消えない。

(ゲンエイさんに…)

 「それ以上」の感情など、欲求など、不純で不敬だと考えている。それなのに、消せない。

(こんな気持ちを…)

 もっと純粋な敬愛を抱き通すべき。そう思うヤクモは、ゲンエイへの想いを不純な物と感じている。

 つまり、恋慕の情を。そして、肉体の反応と欲求を…。

 口ごもり、沈黙した弟弟子の横で、ゲンエイは偽の青空を仰いだ。

「例えば、です」

 ヤクモがハッと目を大きくする。脚に肘を乗せて前に垂らしていた左手に、ゲンエイの手が触れていた。

「僕がヤクモと「こういう事」をしたいと思っていたとしたら、どうです?」

 話が唐突だった。動きが唐突だった。虚を突かれて何が起きたのか把握しかねているヤクモの耳元に、身を寄せたゲンエイ

が囁いた。

 ヤクモは、動かなかった。

 混乱している。が、それは不快に感じる事や危機感への混乱ではない。「こんな都合の良い事などあるはずがない」、「きっ

と夢に違いない」、そんな類の混乱だった。

「拒絶しませんね」

 動きもないが抵抗もしないヤクモの手を、そっと持ち上げたゲンエイは、今度はそれを両手で包む。

「普段から「こう」なので勘違いされそうですが、からかっている訳ではありませんよ?」

 恐る恐る、ヤクモは視線を動かした。ゲンエイの目がじっと自分の顔を見ている事に気付くと、頬が急に熱を持ち、耳の先

まで熱くなった。

 ゲンエイの左手がヤクモの手から離れ、顎下に入って顔を上げさせる。まるで、自分を見ろと、目を見て確かめろと、促す

ように…。

 本気、だと思った。本音、だと思った。だから、ヤクモには判らない。「自分なんか」の何処に魅力を感じるのかと。

「僕には、君が「特別」なんですよ、ヤクモ」

 ゲンエイの囁きに、ピクンとヤクモの耳が震える。言葉の意味を受け止めるまでに、一度脳がエラーを起こした。そんな言

葉を聞けるはずがないと、慎重な部分が否定したせいで。

 特別。その言葉が耳に残る。

 自分を特別などと思えた事はなかった。何らかの価値が自分にあると考えた事もなかった。

 自分は愚かで、無知で、無価値で、何もできず、何も成せず、優秀な皆の中で役に立っていたとも思えず…。

 だからこそOZに来た。ここで学べば自分はある程度の価値を得られるかもしれないと思った。なのに、ここでの毎日は驚

きばかりで、周囲との差を再確認するばかりで、自分の無知をより知るばかりの日々で…。

「どうして…ですか…?」

 ゲンエイが何故自分を特別なのだと言ったのかが判らず、戸惑うヤクモに、

「理由は…そうですね、おいおい話す事もあるかもしれませんし、無いかもしれません。ただ、僕が君を特別だと、他の誰と

も違うと、そう思っている事だけは覚えておいてください。それに…」

 ゲンエイはヤクモの顎下から外した手を、たわわな胸に乗せた。ブルッと肥えた体を震わせた秋田犬は、触れられた事に羞

恥を覚えた。OZに来てからは訓練で体を動かす事もなくなって、随分弛んでしまった。その贅肉の蓄積が、だらしないと思

われそうで恥かしい。しかし…。

「恥かしがっていますね?しかし、こういう所も可愛いものです」

 凍りついたように身が硬くなっているヤクモの態度がおかしいのか、含み笑いを漏らすゲンエイ。

「あ…」

 胸を軽く揉まれ、ヤクモの口から小さく声が零れた。呼吸が荒くなると、ゲンエイの手は鳩尾に降りて、呼吸で上下が速く

なった腹を落ち着かせるように撫でる。

 ヤクモの体は次第に前屈みになってゆく。信じ難い言葉、夢のような出来事、しかし現実に困った問題はあって…。

「おや」

 ゲンエイは気付く。ヤクモが前屈みになって隠そうとした股間…出っ張った腹が影を落としたそこから、硬くなった肉棒が

先端を覗かせていた。

「恥かしくも心地良い…と思って貰えたなら上々です。いや捨てた物じゃないですね僕の魅力も!ははははは」

 ゲンエイは手を引っ込めると、普段の軽薄な調子に戻って笑った。空気が軽くなってホッとすると同時に、ヤクモは気付く。

 引っ込められたゲンエイの手を惜しむ気持ちがあった。もっと触れて欲しいと、もっと触れていて貰いたいと、そんな気持

ちが確かにあった。

「さて、流された下着を探すのも大変です。戻って何か取って来ましょう。裸では帰り辛いですよね?」

「は、はい…。すみません…」

 項垂れて背を丸めたヤクモに手を上げ、「すぐ戻ります」と言い残し、ゲンエイは一度砂浜に戻る。

 残されたヤクモは、顔の火照りと高鳴ったままの鼓動を、じっと、噛み締めるように感じていた。

 

 一方その頃、砂浜では…。

「ふんむ。月に一度程度、「夏の日」など制定してみるのも良いやもしれんのぉ」

 シートの上でうつ伏せに寝そべるアグリッパが、ジョバンニに背中へオイルを塗って貰いつつそう漏らす。

 なお、人工太陽は紫外線を発するレベルで本物に質を寄せてあるので、普通に日焼けしてしまう。これがOZの本気。

 そして、日光浴をするような文化が無いので日焼け止め薬なども存在していなかったのだが、今回のためにUVカットオイ

ルもサクッと調合してある。これがアグリッパの本気。

「先生は、外の世界にもお詳しいですよね?やっぱり海水浴も経験がおありなんですよね?」

 背中にオイルを擦り込んでくれている赤毛の少年に、アグリッパは笑って応じた。

「まぁ、それなりじゃよ、それなり。見聞を広める為、有望な門下生を招く為、…あと人攫いに連れ出されて引っ張りまわさ

れたりとかで…」

「はい?」

 最後の方が小声だったので、聞き取れなかったジョバンニが確認しようとしたが…、

「いんや、何でも」

 アグリッパは笑って、それ以上は話さなかった。

 そこから少し離れた所で…。

「ビーチボール内の空気に流動性を与えて、形状変化を数パターン仕込むだろ?それで、ランダムにボールの形を変えるよう

にする…。あと自動で回転する機能もつけよう」

「冴えてるなお前!」

 高弟達がまたバカな学生のノリで、ビーチバレーを別の何かに変質させようとしていた。

 

 

 

 翌日…。

「開いてますよー。開いてますどうぞー」

 自室のテーブルにかけて、ゴーレム製造術の解説本を開いていたゲンエイは、視線を上げないままドアのノックに適当な返

事をする。部屋に来るのは他の高弟が殆どなので、きっと誰かが学業の生真面目な、そしてつまらない話題を持って来たのだ

ろうと。しかし…。

「失礼します…」

 おずおずと発された声で、「おや」と首を巡らせ、栞を挟みつつ本を閉じた。

 ドアの所に立っているのは、ずんぐり太っちょの秋田犬。手には上から白いナプキンで蓋をされたバスケット。

「あの…、朝食まだだったら、一緒に…どうかなって…」

 モゴモゴと伏目がちに告げるヤクモは、それでも自分の行動に驚いている。こんな事ができたのか、と…。

「ええ、まだですとも!すぐテーブルを片付けましょう」

 満面の笑みを浮かべて腰を上げたゲンエイは、卓上の物を退け始める。

 てきぱき片付ける兄弟子の後姿を見ながら、ヤクモは、早くて、しかし不快ではない自分の鼓動を聞いている。

 自分にもこんな奇跡が起こるのか。それが、驚きをもって自覚する、今の正直な気持ちで…。

 

 こうしてヤクモは一つ、個人的な目標に近い願いを得た。

 特別と言ってくれたゲンエイに、恥じない自分でありたいと…。

 いずれは、兄弟子が誇れるような、立派な術士になりたいと…。