終節・潮騒の残響

「今日の日中は、釣りに付き添います」

「ん?」

 箸を持ったままの右手で起用にお椀を持ち、味噌汁を啜っていた隻腕の狸は、左側に並んで座るキジトラ猫に横目を向ける。

 串焼きの山女魚と白菜の味噌汁、そして沢庵。質素ながらも真心こめてトライチが拵えた朝餉を摂りながら、ヒコザは呟いた。

「…まだ駄目か」

「えぇと…」

 トライチは言葉を濁して苦笑い。ようやく生存が確認でき、何とかこの隠れ里に連れて来る事にも成功した神壊の長男は、

しかし様々な意味で問題が多かった。

 幼少期からつい先週まで、神代への報復のためだけに日々を送ってきた神壊の遺児は、一般社会での生活が可能かどうかを

論じられるレベルではなく、とにかく様々な部分が抜け落ちている。その最たる部分は、「道具」の使い方を殆ど知らないと

いう点。

「とにかく、進歩はしていますから」

 そうフォローするトライチは、魚の身をほぐして箸でつまみ、ヒコザの鼻先に寄せる。片腕とはいえ介助が必要ではないヒ

コザも、こういった伴侶の甲斐甲斐しさはまんざらでもない。ただし、魚にパクリとかぶり付き、粥を啜りこむ横顔には、無

表情を装いながらも若干の照れが見られる。

「用事がありましたら朝の内に片づけます。あ、召し物は畳んでありますから、汚れたらそちらに着替えを…」

「判った。特に頼み事もない、気にせず行ってこい」

 隠れ里はほぼ自給自足の生活である。農耕、狩猟、採取によって必要な物は賄えており、煙草や茶、酒などの嗜好品も、量

は限られるが里内で作れるようになった。

 ここに腰を落ち着けてからのヒコザは、周辺の警戒や、里周辺を覆う大規模な敷設結界幻術のメンテナンスを兼ね、里の周

りをそれなりに広い範囲で歩きながら山の恵みを採取して回る事を自らの役目としており、トライチは主に鳥や魚を中心にし

た狩猟を行うようになっている。

 他の面々も各々が得意な事を中心に仕事をしているが、基本的に全員が樹海で暮らした狩猟採取民なので、誰が何をやって

も下手を打つ事も不足する事もない。

 なお、オブシダンクロウに生活の支援を求められない事もないのだが、不要な接触は極力控えるのが里の長であるヒコザの

方針。

 既に十分過ぎる援助を受けた。それに、下手に生存が知られれば火薬庫になりかねない自分達は、オブシダンクロウとも最

低限の連絡の取り合いに接触を限るべきだというのがその意見。特に、烏丸に預かって貰ったフウについては、知る者が勘ぐ

れば出自を怪しまれる事もあり得るので、落ち武者の末と気付かれかねない不用意な接触は控えるのが最良である。

「久しぶりに、夕餉と風呂の支度はワシがやっておく」

「そこまで遅くはなりませから、大丈夫ですよ?」

「ワシがやりてぇから言っとるんだぜ?ええ」

 付け根しかない左腕で肩を抱き寄せ、トライチの頬をベロリと舐め上げつつニヤリと笑うヒコザ。

「もう、朝っぱらから…!溜まってるんです?」

 困っているような顔を作りながらも、嬉しいトライチの尾はピンと立っていて、先端を小刻みに震わせている。軽くしなを

作ったキジトラ猫の手はお椀を置いて、胡坐をかいているヒコザの股座に触れていた。

「たまには風呂で…というのも悪くなかろうぜ。今日は風呂桶の裏まで洗って待っておくか」

「釣果に期待してて下さい、ヒコザさん」

 チュッと軽く口付けして、「その気」になってしまわないようじゃれあいを切り上げた二頭は、朝餉を片付けて…。

 

「あれ?新しい竿ですか、貴方?」

「おお、判るかハルナ殿」

 小屋入り口の土間上がりに腰かけた大狸は、腹の大きさが目立つようになってきた妻を振り返った。

 手には竹を加工した釣り竿。しなりが良く腰の強い一本を選んで仕立てた手作りである。

「どうにもあの子の得手不得手が判らん物でなぁ、使い易そうだった竿の質から、コイツはどうかと拵えた。…まあ、竿が変

われば釣れる訳でもないんだが…ふふっ!」

 もはや生きてはいないかもしれないと、半ば諦めかけていた神壊の忘れ形見を、こうして里に迎え入れられたのは、タスケ

達にとっては非常に喜ばしい事だった。

 来たばかりで何もかも判らない神壊の子には、トライチがついてあれこれ教えているものの、専門的な事は里の者それぞれ

が指導していた。中でもタスケは釣りの先生役である。

 ただし、まだ子供ではあっても、既に隠れ里の誰の教えも必要ない事も、いくつかあるのだが…。

「近頃家あけてばかりで悪いが、今日も頼む。体に変わりがあったらすぐキチエのオバチャンに言うんだぞ?」

「はい。貴方も気を付けて行ってらっしゃい」

 微笑む妻に笑顔で応え、釣り具一式を纏めて担いだタスケは小屋を後にした。

 

 赤銅色の被毛が冷えた風に揺れる。

 垣根や柵もなく山に溶け込んだ里の、判り辛い外縁の木陰に、その熊は立っている。

 もうじき十二歳という実年齢に反し、身長は190に迫り、体重は200キロに及び、その顔には幼さが無い。老けている、

あるいは早熟している、というのではなく、幼さ特有の表情や未熟さが抜け落ちてしまった無表情が、年齢よりも年上の顔

に見せている。

 朝日を浴びて活動を始めた小鳥達が、そのすぐ傍を飛び過ぎる。赤銅色の熊の存在には全く気付かないまま。

 目で見れば居るのが判るのに、木の影に入って動かないと、元々希薄な気配が完全に消える。自然そのものの気配と息遣い

の中に、その生命反応が溶けて混じって特定し辛くなる。なので…。

「うわ吃驚した!」

 まだ誰も来ていないと思って待ち合わせ地点にやってきたトライチは、目の前まで近付いた時点で赤銅色の熊に気付いて、

釣り竿を放り出しかねない勢いで驚いた。

 隠神の眷属が用いる幻術とは完全に別系統の隠形術を、熊の少年は高度に習得している。感覚が鋭敏なトライチでも気配が

掴み辛いほどの物なので、ランゾウは野生動物にも気付かれずに、触れられる位置まで接近できる。

「おはようございますランゾウ様。よくお休みになれましたか?」

 微笑んで話しかけたトライチに、ランゾウは無言でコックリ頷いた。

 完全にひとから逸脱する事こそなかったものの、ランゾウは極端に口数が少ない子供になっていた。元々饒舌な方ではなかっ

たのだが、かなり極端な寡黙さである。喋っても、相手の名を呼んだり、オウム返しに単語を一つ二つ呟いたりする程度。言

葉を発せられなくなりながらも筆談ではマメに話せる双子の弟とは対照的で、声は出るのに発しようとしない。

 嵐の一文字を取って「嵐(らん)」の幼名を授かっていた熊の少年は、ヒコザから神壊嵐爪(くまがいらんぞう)という成

人の名を貰った。これは、元服後に名乗るようにと、彼の父であるライゾウが生前考えていた名である。

 ランゾウが着ているのは毛皮と布の継ぎ接ぎだったボロではなく、作務衣に近い形の衣装。夜の闇と木の影に馴染む濃紺の

衣はタスケのお下がり。既にヒコザより大柄なランゾウにお下がりをやれるのは、一番体格が良いタスケだけだった。

 なお、予備を含む生活に足りない分は、針仕事が得意な里の壮年女性達が引き受けて、もう四着拵えてくれている。いずれ

もヒコザら里の男衆と同じ作務衣のようなデザインで、それとは別に冬用の半纏もたっぷり綿を詰めて作って貰えた。

「おお、来てるなふたりとも!」

 大声の挨拶が響き、トライチとランゾウは首を巡らせる。立ち話する二人の姿を、木立を歩き抜けながら認めたタスケは、

右腕で釣り具一式を抱え、上げた左手を大きく振りながら歩み寄った。

「ランゾウ用に新しい竿を拵えたぞ。これならイケる!ふふふっ!」

 大きな腹をゆすって笑い、タスケはランゾウに釣り竿を差し出した。太い竹から枝を落とし、節目もそのままに竿にしたそ

れは、ランゾウの大きな手にも馴染むサイズ。握りには滑り止めに鞣した獣革が巻いてあり、握り心地もしっくり来る。

「では行くか!今日の釣り場は少し上流にするぞ」

「はい、よろしくお願いしますタスケさん」

「…よろしく」

 先導して歩き出すタスケに、ランゾウが続き、最後尾にトライチが付く。

 トライチは臣下の礼をもってランゾウに接するが、タスケをはじめとする隠神の眷属主力の三匹などは、里で構っていた子

供という印象の延長にあるので扱いが昔のままである。例え離れていた間にランゾウの中身がどう変わろうと、彼らにとって

は「神壊家の子供」という事に変わりはないらしい。

「昼餉にはハルナ殿が拵えてくれた握り飯を持ってきた。魚が釣れんでも平気だから気楽に行くか。まぁ、ボウズで帰っちゃ

恰好がつかんが…」

「そこは心配していません。タスケさんの釣りの腕は、剣の腕と並んで里一番ですから」

「おやまぁ。おだてられるとその気になるぞ?ふふっ!」

 会話しながら歩く三名だが、ランゾウだけ無言である。とはいえ聞いていないのではなく、そうなのか…、というように耳

だけ前後の発言者に向け直している。

 そうして三頭が今日の釣り場へ向かっている頃…。

 

「まったく、風呂掃除もトライチほど手早くいかんとは…、かなわんぜ。ええ?」

 風呂桶の内側を覗き込む格好で擦り洗いしながら、ヒコザはブツブツと文句を垂れていた。

 基本的に家事も掃除もトライチ任せなのだが、たまに自分でやろうとすると、どうも出来栄えが見劣りしてしまう。隻腕と

いう事もあって仕方がない部分もあるのだが、これは慣れによるものだろうと、大狸は顔を顰める。

 風呂桶は木板を組んで隙間をニカワで埋めた物。湯をいっぱいに溜めても、ヒコザとトライチが一緒に入っても、壊れない

程度に丈夫な造りにはしてあるが、乱暴に洗ってはニカワもはがれるし傷むのも早い。大事に扱わねばならないのだが…。

「ええい、くそっ!腰に来る…!」

 悪態をつくヒコザ。何せ隻腕のため風呂の縁などに片手をついたまま洗うという事ができないので、常に風呂桶を覗き込む

ような前傾姿勢。後ろに尻を突き出してバランスを保ちながら、右腕には力を込めて洗わねばならないので、やたらと疲れる

姿勢を長時間強いられる。

 ややあって、腰を伸ばして背中を反らし、右手で拳を作ってトントンと腰後ろを叩いたヒコザは、こんな物かと風呂桶を見

下ろす。

 既に隠神の当主だの何だのという立場は捨てた。里の長ではあるがもう大将として皆を率いるものではない。だから雑事に

も自分の手を使う。…もっとも、トライチが居る時はやらせて貰えないが。

(過ぎた伴侶になったか…)

 キジトラ猫が居なければ生活が劇的に不自由になるのは目に見えているので、苦笑いがこみあげてしまう。

 おそらく死ぬまでトライチに身の回りの世話をして貰い、最後まで面倒を見て貰うのだろう。歳で言えば先に自分が老いて、

役立たずになってしまうだろうが、せいぜい愛想を尽かされないようにしたいと思う。
苦労ばかりの半生だったが、こうして、

ゆるゆると日々を送る生活に腰を落ち着けられたのは僥倖だと感じる。
きっと、これで良かったのだと…。

(とはいえ、だ)

 ヒコザは半眼になって考え込む。

 この隠れ里には子供が居ない。ランゾウを迎えたは良いが、将来の伴侶どころか遊び仲間も居ないのは不憫である。

 いずれ生まれて来るタスケとハルナの子も、よほど問題が無ければ何処かへ里子に出してやる事になるので、ランゾウがつ

るめる相手にはならない。

(眷属共が構っちゃいるが、あれでランゾウは満足かと言えば…)

 気持ちが表情と態度に出ないので、あの少年が満足しているかどうかは、はっきり言って全然判らない。トライチの話では、

まんざらでもなさそう、との事だが…。

「………」

 ヒコザは考える。

 いつか、もしも、ランゾウがこの里の外に出たいと言い出したなら、自分はそれにどう答えるのだろうか、と…。

 

「お?引いてるぞ」

 渓流脇のカーブにできた溜まり、流れが緩く水底まで深い岩場の水面で、糸がクイックイッと竿の先端を引く。自分の竿を

放り出してランゾウの脇についたタスケは、「少し待つんだ」と少年を抑える。望洋とした目で水面を見つめるランがコック

リと頷き、糸の先に動きを感じながら待つ。

「よし引け!」

 タスケの指示が入った瞬間、ランゾウは指導された通りにスナップを利かせて竿を上げた。

 しなった竹の先が水面下に続く糸をグンと引き上げ、手を合わせて祈りながらそれを見つめていたトライチは、「やった!

お見事!」と声を上げた。

 ムッチリ太い山女魚が一匹、水飛沫を上げて水面から跳ね上げられる。

 どうやら竿を操るコツを掴んだようで、ランゾウはぶら下げた山女魚を手前まで寄せると、左手で糸を握り、ビチビチ暴れ

るそれをまじまじと見つめた。

 記念すべき、生涯初の釣果である。

「上等だぞランゾウ。ふふっ」

 ニンマリ笑って褒めるタスケ。糧を得るだけでなく、釣りの楽しさを知って欲しいというのが大狸の願いでもある。

 何せランゾウには「遊び」がない。修行生活でそうしてきたからなのだろう、何事にも無駄を省いた判断が挟まれ、だいた

い身一つでそれを実行するようになっていた。

 何せ釣りに誘われた時も、竿の使い方…というよりも道具を活用した狩猟の意味を理解しておらず、身体能力に物を言わせ

て、水に入って手掴みしようとする有様だった。

 半分野生動物とはカンゲツの弁だが、これには皆も唸らされた。師であるデンキチとの修行に明け暮れた数年の間に、ラン

ゾウは生活に道具を用いるという概念を半分忘れてしまっていたのである。これは物資も道具もろくに無い中、身一つで狩猟

採取生活を続けてきた影響だった。

「どうだランゾウ?これが釣りだ。楽しいか?」

 タスケに問われた少年は、物珍しげに吊るした山女魚を見つめていたが、やがてコクリと、大きく顎を引いた。これにはト

ライチもタスケも喜んで、顔を見合わせ笑みを浮かべる。

「ようし、じゃんじゃん釣るぞぉ!皆をビックリさせてやろう、ふふっ!」

「ええ!時間はたっぷりありますから…」

 遊び場が無い隠れ里なので、ランゾウにも何か趣味があれば良い。それが里の皆が考える事。実益に結びつくので釣りが良

いのではないかという声が多かったのだが…。

(表情は変わらないけれど、興味深そうではあるよね…)

 トライチは、ビクの中に居る初めて釣った魚を時折覗いているランゾウの様子を見守りつつ、優しく微笑んだ。

 

 釣果は上々と言えた。

 タスケが見立てた場所も良かったが、日が出て水温が上がるこの日の天候にも味方された。

 魚を串焼きにしながら握り飯を頬張る昼食を挟んで、持参したビクは一杯になり、時間は早いが引き上げの頃合いとなる。

「皆に自慢できるぞぉ、ふふっ」

 竿を左手に、ビクを右手に持ったランゾウを先導して山道を戻りながら、タスケは満面の笑み。三つのビクはいずれも一杯

になっており、皆に配れるほどの釣果だった。

「アレだ。何と言うんだったかなトライチ。初心者に運が向くような事を…」

「確か、ビギナーズラック…でしたっけ?」

「ソレだ。ふふっ!おすそ分けされたかもなぁ」

 ランゾウの運にあやかってたくさん釣れたと、太い尾を振りながら言ったタスケは…。

「…何か?」

 トライチが声をひそめる。先頭のタスケは立ち止まり、ビクを足元に置いて水平に腕を伸ばし、ふたりを制止していた。

「あれは…、「蟻」か?」

 大狸のすぐ後ろに寄り、ランゾウと並んだトライチは、冬樹の隙間に目を凝らす。

 距離30メートル強、常緑樹の間に見えたのは、カブトムシのソレのように黒光りする甲殻。

 危険生物…アント型のインセクトフォーム。ソルジャーと呼ばれる低コストで量産可能なソレは、人間サイズの直立した昆

虫型で、蟻の特色を持つ。

「どこぞから逃げたか…」

「あるいは何かの目的で運用されている最中に、逃げ出したのか…」

 低く囁き交わすタスケとトライチのすぐ後ろで、ランゾウは無表情のままアントを眺めていた。

「何匹居るか判らないが、このままにはできんなぁ…」

 タスケが足元から枯れ枝を拾う。1メートルほどの長さで、太いところで直径5センチといったところ。

 野放しになっている危険生物が山中をうろつき、もしもそれが目撃されたり、被害が出たりするような事になれば、大々的

に山狩りなどが行われる可能性もある。いくら幻術による結界で隠されているとはいえ、人の立ち入りが増えるのは隠れ里に

とって危険な事。痕跡残さず処理する必要がある。

「トライチ」

「はい」

 タスケが声をかけた時点で、承知しているトライチは素早く動いた。

 右手側に居るアントに向かって、懐に突っ込むなり抜いた右手を振るう。陽光を受けて僅かに光った黒い線が、木々の隙間

を突き抜けて、アントのうなじ…頭部と背中の継ぎ目に吸い込まれるように伸びて、カッ…と微かな音を立てた。

 前のめりに倒れるアントの首には、2センチほど残して深々と埋まった鉄の杭。棒手裏剣の投擲で見事に神経節を破壊し、

アントを即死させたトライチは、異常に気付いて振り向くもう一体へと顔を向け直す。

 既にタスケが飛び出しており、右手には足元から拾い上げたやや太めの木の枝。しかし距離があり、逃走を試みるアントが

跳躍姿勢に入る。

 だが、後方への跳躍は行われなかった。膝を曲げたそこからガクンと、さらに低く屈んだ格好になったアントは、キジトラ

猫の能力によって、一瞬だけ動作を反転させられている。

「ふっ!」

 腹に溜めた息を鋭く吐いて、大きく踏み込む動作と共に、タスケが木の枝を振り下ろした。タスケの剛腕による剣圧に耐え

かねて、直径5センチを超える枝は木っ端微塵に砕け散ったが、それを受けたアントの頭頂部は、強度で大きく劣る木の枝の

一撃で、西瓜のように頭部を割られて絶命している。

「五匹だ!」

 視界の範囲内に黒影を五つ確認したタスケが、駆けながら足元から別の枝を拾う。が、今度の物は先ほどの枝より細い。里

一番の剣豪と称されるだけの、流石の腕前。こんな物でもアントを撲殺せしめるタスケだが、一匹ごとに得物を失うのはとに

かく面倒である。

 いざとなれば、巨体と腕力を活かして組み付き、絞め殺す心積りで突進する大狸と、木々の間を縫うように疾走し、回り込

んで逃走を阻もうとするキジトラ猫。

 二体は即座に行ける。残りが逃げに入ったら面倒くさいが…。

 ギッ!と威嚇の声を上げた蟻が、タスケの一刀で頭部を破砕される。枝の破片を撒き散らし、砕けた得物に代わる木切れを

爪先で蹴り上げて浮かせ、回転するそれをパシンと掴みつつ視線を素早く巡らせた大狸は…。

「!?」

 一方、坂道を流れ落ちる豪雨の濁流のごとく、低い姿勢で木々と草の中を突っ切り、最も遠い位置に居たアントに迫ったト

ライチは、接近に気付かれるなり跳躍し、木の幹を足場に高く上がって、枝に紛れて襲い掛かる。視認したアントが鉤爪を備

えた腕を振るうが、立てたのは風切り音のみ。交錯する格好ですれ違い、着地したキジトラ猫は、右で逆手に掴んだ刃物を振

り切った姿勢で静止する。

 直後、頸部を五分の一ほど残して切り裂かれたアントは、不自然な首の傾げ方をしながら横倒しになった。

 トライチが握っているのは、釣り上げた魚を解体するための片刃の短刀…ナガサである。既に何十もの修羅場を潜り抜け、

ヒコザの片腕と認められるに至ったトライチにかかれば、特段武装せずともこの程度は相手にならない。あり合わせで何とで

もできる。

(残り三…、っ!?)

 素早く視線を振って残りを確認しようとしたトライチは、絶句してその光景を見つめた。

 蟻が、頭を失っている。その少し上に、飛び蹴りの姿勢のランゾウが居る。

 ボッ…、と遅れて音が聞こえた。高密度の力場を纏った蹴りは、アントの頭部を跡形もなく塵に変えていた。

 さらに、そこから少し離れた位置では、胸に大穴を穿たれた蟻が、今まさに仰向けに倒れ行く途中だった。

 一瞬の出来事である。

 タスケとトライチの行動を確認し、倒すべきモノなのだとランゾウが判断し、自分が受け持つ必要がある対象に標的を絞っ

てから、ほんの一瞬の事。

 反応も許さない高速で接近し、背後から抜き手で胸を貫いて一体を葬り、そこから跳躍してもう一体を殺し、着地も待たず

にその右手は、人差し指と中指を揃えて突き出し、拳銃で狙うように最後の一体に照準を定める。

「雷音破…」

 ヂヂヂヂッ!と指先に光が収束し、光弾が放たれた。その光が最後のアントの複眼に映り込み、急激に大きくなり…。

 ヂボッ…と、火種を水に落としたような音を残して、アントの頭部が消失した。

 手慣れた…を通り越し、単純作業のように危険生物を蹂躙してのけるランゾウの様子を、呆然と眺めるトライチ。

「「鬼神」の如く、だなぁ」

 感心しきってタスケが呟く。

 直感していた。ランゾウは既に自分達よりも遥かに強いと。ヒコザが元服後の名を与えるのも当たり前の事だったのだと納

得できる。

 道具の使い方もおぼつかず、知らない事ばかりのランゾウだが、「この手の事」は里の誰にも教わる必要がない。

 殺しの手法。

 その方向性において、ランゾウは既に眷属の腕利き達をも凌駕する。さすがにまだヒコザには及ぶべくもないが、隠密に、

迅速に、確実に、対象を抹殺する腕は、現在の里の主力達を凌駕する冴えを見せる。

(けれど…)

 キジトラ猫は複雑な顔をする。

 トライチは、隠れ里から落ち延びる道中で、幼いランゾウを復讐の為に連れ出したデンキチの行動を、正しい物とは思って

いない。
しかし、簡単には命を落とさぬほど強く育てたその手腕と、身に着けさせた武力の確かさから、デンキチの本心を感

じ取っている。

 復讐を遂げさせるために育てたとはいえ、デンキチは心からランゾウを大事にしていた。当人がそれを自覚できていたかど

うかはさておいて。

 目的の為ではあっただろう。忠義からの行動ではあっただろう。悲願である復讐を、幼子を鍛え上げて託す、狂信とも呼べ

る忠節…。
だが結局、ランゾウはあちこち欠けて抜け落ちた、子供らしさの無い子供にこそなってしまったものの、根本は腐

りも狂いもしていない。
それは、歪むような育て方をデンキチにされなかったからである。

 だからこそ、その点においてトライチはデンキチを評価している。選んだ道や手段はどうあれ、紛れもなく神壊家の忠臣で

はあったのだと。

「ランゾウ様、お怪我はありませんか?」

 確認するトライチに顔を向け、ゆっくり頷いたランゾウが口を開いた。

「………りは?」

「はい?」

 大きくない上に、低くて聞こえ辛い声だったので、トライチは聞き返し…、

「ふたりは?………「おけが」」

 態度と表情からは判り難いが、こちらを案じたランゾウの言葉を耳にして、微苦笑しつつ頷き返した。

 

 数時間後、蟻が迷い込んでいたという報告を受け、ヒコザは里の腕利き達を率いて捜索を開始した。

 幸いと言うべきか、蟻はタスケ達が仕留めた分で全てだったらしく、侵入経路も移動ルートも簡単に割り出せた。

「烏丸と小競り合いしとる小組織の蟻だろう。送り込んだはいいが、指揮がお粗末だったという事だ」

 里に戻り、皆で囲炉裏を囲みながらヒコザがそう評したのは、アントのコントローラーと思しき数名の男達が、山に入る登

り口近辺で無残な死体となって発見されたからである。

 制御をしくじり、使うはずのアントに襲われて落命した…。その粗末な結果を見るに、此度の相手に烏丸への加勢は必要な

さそうだった。

「念のため、烏丸の頭には知らせておくべきだな。…誰ぞ行ってくれるか?」

 挙手した背の低い狸と狼に頷いたヒコザは、部屋の隅に座ったまま微動だにしないランゾウにチラリと目をやった。

(やはり、自分も行くとは言わねぇか…)

 ヒコザはランゾウに一度問うた。弟に会いたいか?と。

 それに応じたのは少ない言葉…。

 生きているなら、いい。

 ただそれだけ発し、ランゾウはそれ以降フウの話題を出さなかった。

 たぶん、ランゾウには解っているのだろうと、ヒコザは思う。自分がひとから逸脱しかかった、一般社会に馴染めない生き

物だという事が…。

 弟が生きているならそれでいい。会う事で危険に晒すなら会わなくていい。

 口数少なく表情乏しい少年の、そんな本音はしかし、保護者となった隻腕の狸には通じている。

(ひとであろう。まだランゾウは、ひとのままで居られた…)

 僅かに覗ける本心に、確かなひとの精神を窺いながら、ヒコザは思う。弟想いなところは昔と変わっていないのだと。

 そして、言葉を失い白くなった熊に思いを馳せる。

 フウは兄に会いたいだろう。たったふたりの血縁、当然である。

 だが教えていない。ランゾウの生存と素性を知るのは、オブシダンクロウ側では総帥と、奥羽への送り迎えを担当したリト

クのみ。実際に足を用意したリトク配下の者達も、ランゾウが何者なのかも、何を成してきたのかも知らない。

 ヒコザには正解が判らない。今はこうしておくべきだと思うのだが、それが何時までなのかは判らない。

 ただ、もしも…。

 いつかランゾウが「外」へ行く時が来たのなら…。運命が迎えに来たのなら…。

(そういう星の巡りと、腹を括るべきか…)

 

 

 

 夜も更けて、風が木々を揺する音が隠れ里を包む。

 寒くはあっても穏やかで静かな、夜闇の時間。囲炉裏の前に座ったランゾウは、天井から下がった鉤にかけられている鍋を

見つめている。

 与えられた小屋で一人暮らしを始めたランゾウは、正直、小屋での寝起きにまだ慣れていない。

 環境音が壁に阻まれて気配を捉え辛くなる。さらに風や夜露で小屋自体が音を立てる。野生動物のように巣穴を掘って暮ら

してきたランゾウにとって、土や草木以外の匂いに溢れ、自然の音を聞き分け難くなる小屋の中での生活は、なかなか落ち着

けない物だった。

 それでも、気に入った事がある。

 囲炉裏の中で木の枝が熱され、焼けてパチリとはぜる。

 火の上に吊るして木蓋を被せた鉄鍋が、クツクツと煮えて音を立てる。

 炎は嫌いだった。里を焼いて母を奪った炎が、ランゾウは嫌いだった。しかし、嫌いなだけではなかった事を、ここに来て

から思い出した。

 父と母と弟と、囲炉裏を囲んで過ごした夕餉の時刻…。家族の中心には、こんな風に火があった。

 デンキチと過ごした数年間、稀にだが一緒に焼いた肉を食う時も、間にはこんな風に火があった。

 ゴソゴソと懐を弄る。里の女衆が、小物を入れるためにと付けてくれた小さなポケットに、いつも収めている品を取り出す。

 それは、黒革の眼帯。首級代わりに持ってゆけと、鬼神と称された男から受け取った品。

 紐を掴み、眼前にぶら下げた眼帯を見つめて、ランゾウは考える。

 火の中に消えたあの男も、家族と火を囲んでいたのだろうか。

 あの庭で見た金色の熊と、一緒に火を囲んでいたのだろうか。

 自分はきっと、自分がされたのと同じ事を、あの子熊にした。

 今なら判る。繰り返していたら終わりがないから、自分で最後にしろと、あの熊親父は言ったのだと…。

 だからランゾウは思う。

 自分はきっと静かに暮らすべきなのだと。そうしなければ終わらないのだと。自分の願いは叶ったのだから、あの熊親父の

願いも叶うべきだと…。

 神将にはもう関わらない。帝にももう関わらない。

 自分達は、あの樹海で聞いていた潮騒の残響。成すべき事も、為さねばならない事も、もう何もない残響。

 鍋蓋を開け、味噌で煮込んだ川魚のあら汁をお椀によそいながら、ランゾウは静かに夜食を啜る。

 まだ慣れないが満足している。ここは良い所だと感じている。ずっとここで暮らしてゆく事に、疑問はない。

 

 

 

 高い塀に囲まれた、広い敷地の奥に建つ、見た目も瀟洒で立派な洋館。

 真の闇には程遠い光が滲んだ都市部の暗がりに、四角く切り取られた光を投射する、一階部分の窓。その中に、白くて大き

な熊が一頭見える。

 特注サイズのオーバーオールを着用した白い熊は、指先についたクリームをペロリと舐めると、丸顔を綻ばせた。

 高さがあるだけでなく、幅も厚みもある、丸々太って大きな白い熊は、バターとオーブンの熱が香る広いキッチンのテーブ

ル前に陣取り、パウンドケーキに自分の体毛とよく似た色の生クリームを盛り付けている。

 手慣れた様子で乗せられるクリームは、ケーキ屋の手による商品のように見栄えもいい。ついでに言うと、陳列する商品の

ような数である。

「あら?また何か作ってるの?」

 鈴を転がすような心地よい声が唐突に響くと、大きな白熊はビクンと巨体を震わせた。

 悪戯が見つかった子供のように、耳を倒して振り返れば、歩み寄って来る人間の少女の姿。

 光の当たり具合で青味が強くなる神秘的な黒髪と、白い肌に目立つ泣き黒子。十代前半ながらも、いずれ美しい大人の女に

なる事を誰もが確信する、見目麗しくも生命力に満ちた、魅力的な少女である。

 髪をポニーテールに纏め、デフォルメされた熊が水玉模様のように散りばめられた可愛いパジャマを着た少女は、「う~ん、

いい匂い!」と、香りを嗅ぎながら白い熊の横に並ぶ。

 ケーキ作りに熱中してドアが開いた事にも気付かなかった白い熊は、少女を見下ろしつつ、ナプキンで拭った手でオーバー

オールのポケットからメモ帳を取り出し、サラサラと一文を書き込んで見せる。

「「寝なくていいの」?それはお互い様でしょ。それに私、明日は休みだもの」

 少女は「だから」とメモ帳から顔を上げ、白い熊の顔を見遣った。歳は近いが少女は140センチほどで、熊は180セン

チほど。身長差が大きいので、接近していると顔を見上げるのも角度がきつい。

「一緒にテレビでも見ようかなって、探しに来たのよ。まさか夜中にケーキを作ってるとは思わなかったけど」

 少女はオーバーオールの厚い生地越しに、白い熊の豊満な腹をつつく。「また太るわよ~?」と。

 恥ずかしそうに口の端と眉尻と耳を一斉に下げた白熊は、それでも意見を述べるように業務用生クリームの袋を持ち、ラベ

ルを指さした。肉付きが良くて丸々太い指が示しているのは、「カロリー1/3カット」の文字。

「…あら健康的じゃない」

 夜中のケーキもカロリーカットなら良いという、評価がいささか怪しい少女。

「それで、もうできあがるのフウ?」

 少女の問いに、白い熊の少年はコックリと笑顔で頷いた。ケーキの出来栄えへの自信が伺える笑みを見せたフウは、メモ帳

にサラサラと記し…。

「ん?「トモエは何個食べる?」…。いえ私は…。…ま、たまにはいいか…」

 要らないと答えようとしたトモエは、フウが悲しげな表情を見せたので、苦笑いして撤回した。

「一つ…ううん、半分ちょうだい?残りは明日のおやつにするわ」

 笑顔でコクンと頷いたフウが、テキパキと仕上げを済ませにかかるその横で、トモエは思う。

 フウときょうだいのように過ごす生活が当たり前になって、ずっとこうして暮らしてゆく事に、疑問はない。

 

 

 

 そこまでの道が宿命ならば、この先の出会いは運命なのだろう。

 いつか巡り合うふたりは、しかしまだ互いの顔も知らない。

 いずれ、青く淡い光に、潮騒の残響が巡り合うその日まで、まだしばしの年月がかかる。

 それまでは、それぞれに、穏やかに時は流れて…。