OZの祭日
「エリユース派の高弟、またひとり居なくなったって」
図書室の長テーブルに並んでかけた人間の少年達が、声を潜めて囁き交わす。
「え?誰?」
「ボーデリーさん。「風使い」の」
「有名人じゃない。どうしたんだろう?」
「さあ…。でも」
少年の一方が、開いている分厚い本のページを捲りつつ、記憶を手繰るように一時言い淀み…。
「増えたよな、「居なくなる人」」
「そうだね。ウチからは居なくならないけれども」
言葉を引き取るように続けられて、少年達はハッと背後を振り向く。その視界には、デンと横幅も広く張り出したローブの
生地。丸みを帯びたそれを腹と認識するなり視線を上げた少年達は、
「あ!おはようございます、房主!」
「おはようございます!」
と笑顔で挨拶した。
恰幅が良い秋田犬の巨漢は目を細めて微笑み、「おはよう」と挨拶を返す。
「朝早くから頑張るね。課題の期限が近いのかな?」
「はい!だいたいできたんですけど」
「提出物につける根拠資料が、ちょっと足りないかなって…」
「そうだね。論拠の補強は評価される、頑張っておいて損はないよ」
少し身を乗り出して開かれている図書類とメモ、レポートを覗き込む秋田犬。少年達の間でふたりの視線を遮るほど丸く出
た腹が、ユーモラスにユサッと揺れた。
「…ああ、なるほど。思念波結晶化の条件についての…。この課題には私達も手こずったから、よく覚えているよ」
「え!?房主もですか!?」
少年達が意外そうな顔を見せると、大きな秋田犬は穏やかに微苦笑を浮かべる。
「私も「君達くらいの頃は君達くらいだった」んだから、驚くような事じゃないよ。むしろ、才能の面でも知識の面でも後れ
を取っていたからね。兄弟子や友人に恵まれて、何とか乗り切った口なのさ」
今でこそアグリッパの二番弟子と評されるようになり、各種研究や術式構築、術具の開発での多大な成果と貢献を認められ
ている術士は、しかしここへ来た時は特段優れた物も持っておらず、知らない事ばかりの、頼りない半人前だった。
尊敬する兄弟子からそう言われて、少年達はまた少し親しみを深めた。
板前八雲は、多くの門下生から慕われている。
劣っていても、遅れていても、取り柄がなくても、秋田犬は全ての弟弟子を分け隔てなく可愛がり、大切にするため、親し
みを抱かれる。
自分に才能がなかったから、努力で実績を残してきたから、悩む者にも落ち込む者にも親身になれる。この性質を、師であ
るアグリッパは「持たざる者であるが故に持ち得た才」と評した。
「アドバイスになると良いけれど…」
ヤクモは弟弟子達へ、かつて自分とジョバンニが参考にしたいくつかの文献名と、許可を得て閲覧できる範囲にある書物で
ある事を告げると、「頑張って」とふたりの肩を叩いて踵を返した。
「エスメラルダさん。彼らが参考文献の相談を持ってくるかもしれないので、よろしくお願いします」
図書室のカウンターで漫画を読み耽っていたエメラルドグリーンの雌トカゲは、もう古なじみと言えるレベルになった弟弟
子に「はいよ」と軽い調子で手を上げた。
「それより、随分余裕だねヤクモ?」
「え?」と戸惑った秋田犬に、トカゲはニヤニヤしながら本を閉じ、カウンターに頬杖をつく。
「明日はいよいよ叙勲式だっていうのに、いつも通りだね?緊張はしてないのかな?それとも弟弟子達の目があるから押し隠
してる?」
「そ、それは…、あまり考えないようにしているのと…」
ヤクモは困ったような顔になってボソボソと囁く。周囲の学徒達の目を気にしながら。
「…実感があまり沸かないんです…。私なんかが受勲するなんて…」
「「私なんか」じゃないよ」
トカゲは手を伸ばして、ローブ越しにヤクモの出っ張った腹を指でツンツンつつく。
「このお腹のお肉と同じぐらい自信つけなさい?君は私ら自慢の弟弟子だ。それに、受勲したらもう私らと対等なのさ。いつ
までも「大した事ない自分」と思っていちゃあ、いけない…よっと」
平手でポンッと少し強めに、念を押すようにかれた腹を撫でて、ヤクモは耳を倒しつつ困り笑い。
OZに移住して十年。ヤクモは二十七歳になり、アグリッパ派の高弟の一人として、OZの工房主の一人として、着実に成
果を上げ積み重ねて来た。右も左も判らなかった無知な少年はもうおらず、アグリッパ派の学道を深く理解し、実践し、様々
な技術開発や理論の開拓に勤しんできた。
ヤクモはそれについて、自分は積み重ねられてきた叡智を元に少し手を加えただけで、新しい事は何も編み出していないと
言うが、周囲の見解は違う。
積み重なったそれを、前へ進められるのは今を生きる者だけ。知識を継承し次代へ託し続けるアグリッパ派の在り方をヤク
モは体現しているのだと、師も兄弟子達も評価している。
だからこそ、受勲する事になったのだから。
グランドメイガスや各機関の責任者になるには、この受勲が条件になる。
つまり、後継者候補は数多く居たものの、次のアグリッパに選ばれるのは、高弟であり叙勲が済んだ者達の中からという事
になる。現在三名しか居ないそこに、明日をもってヤクモも加わる。
書庫を出たヤクモは、前から来る車輪付き運搬台の列を目にして脇に退く。
搬入される書物類の運び込みで陣頭指揮を執っているのは、赤い髪の青年だった。
「四つ目までは正面口から入れて下さい。そっちのコンテナは二階側の搬入口に。今ルートを開封します」
滑車には一応ひともついているが、押す必要は無い。風水の地脈理論を利用して、かなり長大に設定できるルート間で自走
できる上に、連結も思いのまま。これはヤクモと学友が共同開発した簡易トロッコである。
今日は外界から船が入る日。司書の一人として図書管理の責任者になっているジョバンニは、取り寄せた書物の収納指示で
大忙しである。が…。
「あ、ヤクモ!ちょうどよかった!」
友人の姿を見つけて軽く手を上げ、歩み寄る。
「フェスターさんからアポ入ってるよ。今日の船の責任者なんだって。マメに顔見せに足を運ぶよねあのひと。とても熱心だ」
「ありがとう。船着き場?それとも…」
「港の外来者宿泊棟。部屋は、暖冬の柊室だって」
「わかった。今から訪ねてみる」
ジョバンニと別れて外へ向かうヤクモは、鷲鼻の男の顔を思い浮かべた。
フェスターという男は、一度ヤクモがここの港で窮地から救った、非合法組織の幹部候補生である。
ONCという彼らの組織は海運業を手掛けており、アグリッパ一門が外界での活動援助や物資の調達を依頼している相手。
そしてONC側は、入手したレリックや秘匿事項関連知識の調整や鑑定をアグリッパ一門に依頼している。一門の長であるア
グリッパはONCにとって特別待遇の賓客であり、外部の御意見番という立場で敬われている。
そんなONCで将来幹部になる事が確実視されているフェスターの狙いは、ずばり、次の「アグリッパ」が決まった後でフ
リーになる候補生。殆どはOZで研究を続けるのだろうが、「アグリッパ」になる事を目標として来て、選ばれなかった事で
OZでの研究に見切りをつける者も居る。そんな術士であればONCに迎え入れられる可能性があるだろう…というのがフェ
スターの考えである。
個人的に話し易いと思われているのもあるのだろうが、ヤクモもその候補である。元々OZの外で暮らしていたヤクモなら、
話に乗ってくれる可能性も高いとフェスターは見込んでいた。
逆に言えば、それはヤクモが次のアグリッパにならない可能性が高いと踏んでの事なのだが、ヤクモ自身も、次期アグリッ
パになるのは自分ではないと思っている。
兄弟子のゲンエイ。彼が次のアグリッパであると誰もが確実視しているし、ヤクモ自身もそうである。
港湾に向かい、渡し船に乗る間も、ヤクモは様々な人物から挨拶された。
このOZで、もはやヤクモやジョバンニ等を「外から入った異物」と見なす者は少数である。
持ち込んだ現代社会の慣習や便利なシステム、それらを応用してヤクモ達が手掛けたインフラ整備は、OZの暮らしにおけ
る利便性を上昇させた。
必要ではなかったがあれば便利な物を、数多く作り出して普及させた。
現代社会とは異なるOZに適応する形で、彼らの発想や持ち込んだ知識が応用、融和され、今では十年前には無かった思念
波による各種設備のリモート式操作が当たり前になっている。
浮島間の中継点でブイを目印にして止まり、交差する浮船もその一つ。ジョバンニが発案した気脈の結び付けを利用し、乗
り換えなしにダイレクトに目的地へ移動できるように改良されている。
景色は全く変わっていない。中世の街並みそのままに、不可思議な品々もそのままに、その利便性だけが改良されて、OZ
は少し発展した。
その仕事を、ヤクモは自分の物とは思っていない。仲間の発想があり、友人の知識があり、積み重ねられた叡智があって初
めて実現されたこれらは、自分の力によるとは言えない、と…。
ただ、満足感はある。やり遂げた事、成し遂げた事が、目に見える形で反映されている。
何より、兄弟子が褒めてくれる。だから遣り甲斐がある。役に立っていると実感できる。
ほどなくして、ジョバンニから聞いた港湾の宿泊施設に到着したヤクモは、酒場になっている一階ロビー奥で宿主に話を通
し、客が居る部屋へ案内して貰った。
「ごぶさたしております房主。お変わりないようで」
部屋に入るなり、鷲鼻の白人男性が両手を大きく広げた。
「フェスターさんも、お元気そうで何よりです」
歩み寄った男の挨拶のハグに応じると、小柄なわけでもないフェスターの腕が背中に回りきらなかった事に気付き、ヤクモ
は微妙な気持ちになる。背の伸びはとっくに止まっているのに、胴回りの成長はなおも目を見張る…とは兄弟子のジャガーの
言である。
外からの来訪者用に用意された、北欧の館を思わせる白と木の色の内装が施された、広く品が良い部屋。いつもフェスター
が利用するこの客室には、しかし今回、彼以外の人物が同伴している。
ハグを解きながらヤクモが目を向けたのは、二人から五歩ほど離れた位置に立つ男。
アジア系の、どこかネコ科の獣を思わせる若い男だが、ヤクモは一目で気付く。自分より若いこの青年は、間違いなく「堅
気」の人間ではない、と。
御庭番を務めていた頃には、要人の警護や暗殺者の迎撃なども行なった。だからこそ判る。一見すれば距離を置き、武装も
していないように見えるその男は、しかし一瞬で対象との間に割って入れる距離にあり、ターゲットの命を奪える立ち位置に
あり、それを可能にする何かを「持って」いる、と…。
「今日はボディガードを紹介させて頂きます。「この仕事」に就かせる訳ではありませんが、何も知らないままでは、私の仕
事を手伝わせるには支障がありますので」
フェスターが若い男を振り向いて、ヤクモに紹介する。
「リスキー・ウォンです。お噂は上司よりかねがね伺っておりました」
黒いスーツ姿の男は流麗な動作で深くお辞儀する。
ヤクモは男の目に興味の光を見て取った。ここへ来る者はだいたいそうだが、外界から見れば、OZの術士達は生きる神秘
という印象を持たれる。外で生まれたヤクモですらそう見られる事が多い。
「初めましてリスキーさん。フェスターさんにはとても良くして貰っています」
にこやかに挨拶するヤクモの態度を確認して、若い男は感じた。予想と違う、と。
(場数を踏んでいる…。間違いなく修羅場を潜った経験がある。机の前でお勉強をするばかりではない、という事か…)
自分が厳戒態勢を崩していない事を見抜いていると、リスキーは感付いている。その上で余裕の態度なのは、備えがあるか
らか、襲われる理由が理性的に考えて存在しないからか…。
「部外者である我々は明日の叙勲式に参列できませんので、お忙しいと承知でお呼び立てさせて頂きました。実は…」
フェスターが目くばせすると、リスキーは一礼して踵を返し、テーブルの上に置いてあったずっしり重い包みを持ってくる。
「我々にとっていくら貴重な遺物でもOZでは珍しくもありませんし、外の通貨なども無価値です。どうか、と自分でも思っ
たのですが…、結局こういった品が良いかもしれないという結論に至りました。皆さんで召し上がって下さい」
受勲祝いにフェスターが持ち込んだのは、これだけあれば車を買える金額に達する最高級ブルーチーズ5キロ。兄弟子達に
は何より嬉しい外の食べ物である。
「ありがとうございますっ!皆喜びますっ!」
予想以上の食いつきに一瞬面くらったフェスターだったが、ホッとした様子で目を細めた。
「それから、アグリッパ翁より仰せつかいました調べ物について、こちらに纏めてあります」
フェスターがスーツの内ポケットから取り出したのは一枚の封書。外で存在が確認された「OZで消えた術士」の調査リス
トである。しかし…。
「該当は0件でした」
答えを聞いたヤクモの顔が曇る。
OZから術士が居なくなる行方不明事件は七十件を超えた。出てゆく者自体はこれまでもあったのだが、この数年は頻度が
異常に増しており、1~2ヶ月に一人程度のペースで術士が消えてゆく。
変わり映えしない閉鎖的な環境に嫌気がさしたり、目標を追い続けられなくなったりして、外へ出て行ったのだろうという
のが通説になっている。ただ、罪を犯して逃げた訳でもなく、貴重な何かを持ち出した訳でもないので、咎めもないし、行方
を追われる事もない。本人の意思で出奔したなら、本人が戻る気にならない限り放っておくのがOZの遣り方である。
だがこの事件で、アグリッパ一門からはひとりも行方不明者が出ていない。これは元々、彼らが外の世界と比較的交流を行
なっているせいで、外の世界よりOZの方が研究に適している事が他の派閥より理解できているからだろうと考えられている。
もっとも、姿を消した理由を聞けた者が一人もいないので、この推測どころか、前提が正しいのかどうかすらも判ってはい
ないのだが…。
「判りました。先生に届けます」
活動範囲が広いONCの情報網にひとりも引っかからない…。理由は判らないが嫌な予感がした。
そして翌日。
「よしよし、立派に見える。胸を張るといい」
自室の姿見の前で紫色の式典用ローブを羽織らされたヤクモは、背後で帯周りの皺を整えてくれている兄弟子を、鏡越しに
見遣る。
「本当ですか…?」
「懐疑的じゃないか。ヤクモはもう、名実ともにアグリッパ派が誇る高弟だ。そろそろ、この肉付きぐらいには自信をつけた
方がいい」
パンッと厚い背中を叩かれて、ヤクモは苦笑い。
「皆から似たような事を言われます…」
「ははは!つまり皆が同じように感じているという事だ」
ゲンエイはヤクモの脇に移動し、着衣の乱れがないか確認すると、仕上げに蔦を意匠化した柄の白いストールを首にかける。
ビロードのように艶やかな紫のローブに、蔦を意匠化した帯とストール。今日の為に誂えられた式典用の衣装は、厚いロー
ブの重さが肩に感じられる。それが受勲の責任にも思えて、ヤクモは小さく息を吐いた。
「…やっぱり、緊張してきました」
「いよいよとなればそうだろう、とは思っていたとも。ヤクモはそういう性格だ」
苦笑いしたゲンエイは、緊張を解すようにヤクモの背中をさする。
「しかし、あっという間に終わるものだ。心配しなくていい」
「はい…」
鏡に映る自分の装いを改めて確認すると、ヤクモは兄弟子に向き直る。式典には学派の長であるアグリッパが付き添うだけ
で、他の門下生は参列できない。ゲンエイはここで見送りになる。
「行ってきます」
「待っているよ」
軽く口付けを交わして、ゲンエイに送り出されたヤクモは、師が待つ学長室へ向かった。
窓の外からは音楽が流れ込み、時折笑い声が聞こえる。
今日はOZの祭日。眠り姫の目覚めに合わせた祭。前回の目覚めからの間に叙勲に相応しい術士が現れれば、眠り姫とOZ
全体からの祝福とともに勲章が授与される習わしになっている。
幾度か経験し、兄弟子達を見送ったヤクモだったが、自分がその主役になる日が来るとは思ってもみなかった。
兄弟子が自分を誇れるように成果を上げたかったが、ここまで働きが認められるとは思っていなかった。
夢のよう。それが正直な感想である。
「失礼します」
ノックして扉を潜ったヤクモを、既に支度を終えて待っていた恰幅が良い白髭の老人は、一度目を丸くし、次いで嬉しそう
に細めて迎えた。
「ふんむ!実に立派で、よく似合っておる!仕立て屋選びはゲンエイに任せて正解じゃったのぉ」
近付いて正面に立ち、下から上まで愛弟子の姿をじっくりと眺め、たっぷりした顎髭をしごいたアグリッパは、感慨深そう
に漏らす。
「ゲンエイの見立て通り、か…」
「はい?」
疑問の表情を浮かべたヤクモに、アグリッパは微笑して頷きかける。
「ゲンエイが自分の時に言っておったんじゃよ。何度目か後にヤクモも受勲する、と。その時はそう、きっと紫色の式典衣が
似合う、と」
「…五年以上も前から…!?」
「気が早い、と皆は笑っておったが…。目は確かじゃったのぉ。さて」
アグリッパは手を差し伸べて、おずおずと上がった弟子の手をそっと取る。
「弟子の受勲は師の誉れ…。一門の長として、眠り姫に弟子を引き合わせられるのは無上の喜びじゃ。有り難うヤクモ、自慢
の弟子よ…」
そしてヤクモは、師にエスコートされて向かった。
OZの中枢へ。研究都市の心臓へ。
OZのグランドメイガスや役職者が並び、跪いた中で、ヤクモは小さく喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
夜空が広がる空間…イマジナリーストラクチャー、研究都市OZの核。OZを創造し、今も維持し続ける存在が身を置く、
この都市の中枢である寝所。
壁も床も存在せず、無限の星空がどこまでも続いている。虚空に見えるそこには、しかし不可視の足場がある。透明な床が
ある訳でも、大気を固めて作った足場がある訳でもない。空間がその面だけを不可侵にする事で生じる厚みゼロの界面が床替
わりで、一同はそこに立つ事も跪く事もできる。
皆が揃って頭を垂れる先に、天蓋付きの寝台が、無限の夜空を背景にして浮かんでいる。
象牙色の瀟洒な寝台。白いヴェールが何重にも天蓋から下がって覆い隠したベッドの内側から、微かな衣擦れがヤクモの耳
に届いた。
白いヴェールを通して影が動くのが見えるが、誰もまだ顔を上げない。
「御苦労」
寝台の中から幼い声が聞こえ、一同は一層深く頭を下げ…、
(…え?)
ヤクモは違和感を覚える。
聞いた事がある気がした。その幼くて耳に心地よい声を、どこかで…。
一同が顔を上げると、天蓋から垂れたヴェールがカーテンを開けるように滑って退き、薄くなった帳の向こうに寝台の内側
が透けて見えた。
広い寝台には、巨大な枕と大量のクッション。どれほどの厚みなのか判らないフカフカの布団。その中に埋もれるようにし
て、小さな小さな幼女の姿が見えた。
(???)
ヤクモは困惑する。違和感はますます強まった。ここに来るのは初めてで、謁見が許されるのは初めてで、だから姿を目に
するのは初めてのはずで…。
寝台で身を起こした幼子が、居並ぶ者達の中央…叙勲対象となった秋田犬に視線を向けた。
薄桃色を帯びた銀の髪。磁器のように白い肌。発光しているような薄桃色の瞳…。身に纏うのはフリルが煌びやかな純白の
ネグリジェ。
整った顔立ちをした美しい女の子に見えるが、彼女こそが、OZを造り、維持し続けているワールドセーバー。
「常夜を統べる髪」、「上がらぬ帳に隠れるもの」、「なべて明日を夢に見る方」、「七人のオールドミスの一人」、そし
て、「かつて星を救ったひと」…。
彼女を指す表現は数多くあるが、OZの民は敬愛をもって「眠り姫」と呼び、外の人々は畏怖をもって「夜の女王」と呼ぶ。
「ヤクモ・イタマエ」
鈴が遠くで鳴るような、よく通り耳に心地良い声で名を呼ばれ、ヤクモは上ずった声で「はい!」と返事をする。
「ご機嫌よう。何か月ぶりかしら…」
幼女が記憶を手繰るように目を細めると、ヤクモの頭の中を、稲妻のように一つの光景が過ぎった。
深い森の中で、秋田犬は枝葉の隙間から空を見上げていた。
小鳥のさえずり、ブナの木立を抜ける気持ち良い風。晩夏の昼下がり、夕暮れまで間がある穏やかなひと時…。
「これがあなたの原風景なのね」
ヤクモが振り向いたそこに、白いネグリジェを纏う幼女が佇んでいる。
「あれ?えぇと…」
キョロキョロと周囲を見回したヤクモは、そこが河祖下村から歩いて三十分もかからない近場の森である事に気付き、眉根
を寄せた。
(私は、先週OZに移って…)
OZの学徒となったはずなのに、どうして故郷に帰っているのかと、疑問に思った少年は、
「だって夢だもの」
幼女の声を聞いて、なるほどそうかと目を丸くした。
「夢、か…」
「そうよ、夢」
「君は?」
「夢の住人」
「そうなんだ…」
「そうよ」
ヤクモは再び頭上を見やる。決意して故郷を発ったというのに、こんな夢を見ているという事は…。
「未練が強いのかな…」
「そうとも限らないの」
すぐさま言葉を返されて、ヤクモは幼女を見下ろす。
「夢に見るのは執着対象だからとは限らないのよ。自分の根幹を成す大事な物だったり、何より大切にすべきだと思っている
物だったり、まぁ、色々。これは、そうね…。今のあなたを形作った要素の中でも、大きなウエイトを占めているんでしょう
ね。こういった風景が」
幼女が話している間に、景色は変わっていった。春の芽吹きを迎えた別の場所の景色になって、風が少し強くなっている。
「私を作った要素…。そうだ。ずっと山の景色の中で暮らしていたから、こういう景色が…」
周囲を見回し、振り返ると、幼女の姿は消えていた。
「…あれ?」
ひとり残されたヤクモは、周囲をきょろきょろと見回して…。
「熱心なのね」
ハッと顔を上げる。書きかけの設計図から離した目を横に向ければ、白いネグリジェを着た幼女の姿。
「あれ?…私は…」
見慣れた工房の一室。師に助言を貰って改良を始めたスクロール型の巻物が卓上に転がっている。
「疲れて眠ってしまったのね」
いつか見たことがあるような気がする幼女の言葉で、ヤクモはため息をついた。
「急いで仕上げなきゃいけないのに…」
「あら、どうして?期限があるの?」
「無いけれど、早く完成させて、先生に見てほしくて…」
「そう。熱心なのね」
幼女は空いていた椅子に腰かけると、高過ぎるテーブルに腕を乗せ、顎を乗せ、ヤクモに問う。
「でも、眠ったなら、それは休まなければいけないという事よ。疲れているの。判る?」
「そうなんだろうね…。元気、あったんだけど…」
ふぅ、とため息をついたヤクモに、幼女は微笑みかけた。
「「また」少し、あなたの話を聞かせてくれる?」
「お酒を飲むようになったのね」
グラスで歪んだ向こうの景色に白い幼女を見つけ、ヤクモは眉を上げた。
塔の私室で貰い物の蜂蜜酒を飲んでいたはずだが、グラスは空で、ツマミが乗った皿も消えている。
「…酔っぱらって寝ちゃった…!?」
「そうね。まだ慣れていないんでしょ?」
「うん。まぁ、そうだね…」
気恥ずかしくなってグラスを下ろすと、テーブルの向こうに居た幼女は、キョロキョロしてからヤクモに目を戻す。
「椅子が一つしかないのね?」
「え?あ、うん。そうだった」
「なら仕方ないわ」
言うが早いか、幼女はテーブルを回り込んで、ヤクモの太ももに飛び乗る格好で座った。
「まぁ、良い具合!お腹のクッション、上質ね!」
楽しげな幼子の言葉に、「はは…、どうも…」と、恥ずかしくなって照れ笑いしながら応じるヤクモ。
「でも、今日も疲れているのね。頑張り屋さんなのはあなたの良い所だけれど、それで皆を心配させてはダメよ?」
「うん、その通りだと思うよ。夢中になるとついつい色々な事を忘れたり、後回しにしたりするのは、本当に悪い癖だ…」
素直に認めたヤクモが、「ジョバンニも疲れてたのかな…」と、酒場で潰れた同僚の事を思い出していると…、
「いいえ、彼は普通にお酒に弱いの」
幼女が断言。
「…あとであっちの様子も見てきましょうか…」
そう小さく呟いた幼女は、感触が気に入ったのか、ヤクモの腹で背中を軽く弾ませながら、真上を向いて秋田犬の顔を見上
げ、微笑む。
「あなたの事、また聞かせてくれる?」
「あ、あなたは…。いや、あなた「が」…!」
ヤクモは声を震わせて目を見開き、寝台の上の幼女を見つめる。
電光のように頭の中を駆け抜けた、いくつもの夢の記憶。目覚めた時には忘れ去っていたそれらが、今になって全て蘇った。
OZの創造主たるワールドセーバー。話にしか聞いていなかったはずの存在。「常夜を統べる髪」、「上がらぬ帳に隠れる
もの」、「なべて明日を夢に見る方」、「七人のオールドミスの一人」、「かつて星を救ったひと」。OZの民が敬愛をもっ
て「眠り姫」と呼び、外の人々が畏怖をもって「夜の女王」と呼ぶ彼女の、「本当の名前」をヤクモは知っていた。
もうずっと前に、夢の中で教えて貰っていたから。
「「ニュクス」…!」
OZに来てからずっと、自分の夢を見守っていた。
夢の中に現れて、様々な話を繰り返ししてきた。
目覚めれば存在すら忘れてしまっていたが…。
文字通り「夢」のような心地で、呆然としながらも喜びを感じるヤクモに、
「そう。あなたの脚に座らせて貰って、あなたのお腹をクッションにして、あなたに外のお話をせがんだ、ニュクスよ」
幼女は微笑む。悪戯っぽく、やっと思い出せた?とでもいうように。
このやり取りに、周囲のグランドメイガス達は驚かない。
ニュクスはかつてワールドセーバーとしての力を消費し尽くしており、回復の為に長い眠りを必要としている。その「省エ
ネモード」で彼女に許された楽しみは、「夢の散策」だった。
OZの中…つまり彼女のテリトリー内という条件つきだが、ニュクスは眠りについた者の夢に侵入できる。
そうして彼女はOZの全ての住民と会い続けている。夢の記憶は封じられるので、多くの者は彼女の顔すら知らないが、皆
が思っているよりもずっと身近な存在だった。
「では、叙勲の儀を」
ニュクスの声に頷き、立ち上がったアグリッパが弟子を立たせ、低くまじないを唱えて祝福し、寝台を示す。
深く一礼したヤクモは、ニュクスの待つベッドに歩み寄り、その横で跪く。
幼女が差し伸べた手を取り、頭を垂れて、その白い手の甲に口付けしたヤクモは…。
「?」
幼女の手を取った自分の手に、何かが手渡された事に気付いた。
「それが勲章よ。…と言っても、変に重たく考える事なんてないの。それはあなたを縛る物でも、あなたを何かにしてしまう
物でもない。単にあなたが、OZの数ある術士の中でも「よりたくさん褒められるべき者」だという証」
幼女の手が引っ込み、ヤクモの掌があらわになる。そこには、何らかの金属でできているらしい、長方形に近く角が丸いプ
レートが乗っていた。
ヤクモはそれを見つめ、既視感を覚える。
似ていた。ハンターや調停者が持つ認識票と、それは何処か似ていた。
自分の名と、NYXの三文字が彫り込んである勲章を握り込み、ヤクモは深くお辞儀する。
「よりたくさん褒められるべき者」の証…。ニュクスはこれをそう称した。
それは、どんな大仰な肩書きより、名誉よりも…。
(くすぐったくて…、嬉しい…)
自分の体温に染まってゆく勲章を、ヤクモはそっと握りしめる。
「近いうちに、また夢で会いましょう」
ニュクスは目を細くして、感極まって背を震わせる秋田犬を見つめていた。
塔を結ぶ空中回廊の窓から姿を見せたヤクモへ、OZの民達が喝采を浴びせる。
眼下に見下ろす町並みは色とりどりの幟に彩られ、永遠の夜空を花火が飾る。
(褒められて、良いんだ…)
正直、兄弟子に褒められたくて頑張れた所は大きい。他に何もないから打ち込むのではなく、褒められたくて頑張った十年
は充実していた。
(私は、褒められるような事ができたんだ…)
じわりと胸が温まる。
当たり前の「報われる喜び」を、若き術士は噛み締めた。
「ヤクモ、本当にすごいひとになっちゃったなぁ…」
群衆の中から見上げるジョバンニの肩を、ゲンエイがポンと叩く。
「ええ、自慢の弟弟子です。…おや?何だか他人事のような物言いですが、君もですよジョバンニ?」
「え?」
顔を向けた弟弟子に、兄弟子は真顔で言う。
「君もああして皆に評価されるようになるんです。お兄様とエスメラルダが自慢できる、立派な男になるのでしょう?」
「え!?」
飛び上がって驚いた弟弟子に背を向けて、「はっはっはっ!」と笑いながらゲンエイは肩越しに片手を振った。
「先に引き上げます。祭日ですから、何処かで逢引きも良いんじゃないですか?」
(いつ、気付かれたんだろう…!)
底知れない兄弟子の背中を見送りながら、ジョバンニは顔を真っ赤にしていた。
喧噪遠く、皆が去り、ひとり寝所に残ったニュクスは考える。
住民が姿を消している事は聞いたが、その消えた者達の消息は、彼女にも判らない。
彼女が出入りできるのは、「OZの中」で「眠った者の夢」だけ。つまり彼女がその所在を掴めないのは、OZの中に居な
いか、眠っていないかのどちらか。
さらに言えば、夢を渡り歩ける彼女でも、その時に相手が見ている夢を覗き見るだけで、本人の意図を無視して記憶や知識
を覗き見るような真似はできない。無理に手を入れればひとの精神など壊れてしまうため、ヤクモとそうしてきたように、相
手の事を知るには相手に話して貰わなければならない。
全盛期であれば打てる手はいくらでもあったのだが、今や衰えて回復に努めるニュクスには、居なくなった者達の真意や理
由は確かめられない。ただ…。
(あの術士は…)
夢を渡り歩く中、ひとりだけ、不自然さがない夢に違和感を覚える対象が居た。
出て行くというなら、彼こそOZを去ってしまいそうな物なのだがと、ニュクスは大きな枕に背中をポフンと下ろしながら
考える。
(OZに、執着も愛着もないひとだから…)