カカシ
「指名を辞退する、と…」
揺り椅子を軋ませ、老人は僅かに身を乗り出した。
「はい。客観的に見ても、学派の指針に照らし合わせても、歴代アグリッパの前例に照らしても、僕よりも適任な候補者が居
ますからね」
黒髪の若者は師と向き合い、軽く肩をすくめる。
暖炉の火が沈黙を埋めるように小さくはぜる。アグリッパの執務室…学長室とも面接室とも言えるその部屋で、アグリッパ
とゲンエイはふたりだけで向き合っていた。
「我らが一門の目的は、技術の発展と知識の継承。それを率いる長に個の術士としての強度は求められなくていい。…違いま
すか?我が師アグリッパ」
ゲンエイの言葉を受け、アグリッパはたっぷりした顎髭をしごきながら、思案する様子で半眼になる。
そろそろ継承者を選ぶ頃合いだと、老術士は見定めた。結局のところ、前々から頭一つ抜けていたゲンエイが相応しいと思
えて、本人に打診したのだが…。
基本的に、指名を断る際には師を納得させるだけの理由が必要になる。ゲンエイは辞退を申し出ながら、淡々と自分が不適
格である事を告げた。
ゲンエイには術士としての才がある。そう調整されて、少なからず先天的な資質を持って生まれたというのもあるが、適宜
必要な術を選択する判断力と、完璧にコントロールする安定した精神力、応用を利かせる閃きも持つ。グランドメイガスを名
乗るに恥ずかしくない資質を有している。
しかしアグリッパは思う。弟子に指摘されながら、前々から自分にも迷いがあったのだと。
ゲンエイの言う通り、アグリッパ派が長に求めるのは、一代限りの強力な術士ではない。技術を拡張発展させ得る資質と、
異文化より取り入れる外の術形態に理解を示し、受け入れる柔軟性こそが肝心。いつか到達点へ手が触れるよう、成熟させて
次へ受け渡せる術士…、違う誰かへ継承してゆける者こそが適任である。
「お判りなのでしょう?我が師アグリッパ」
ゲンエイが目を細めて微笑する。誰が相応しいのか、もう答えは出ているはずだと…。
「しかしまぁ、何じゃ…」
老人ははっきり判る苦笑いで髭面を緩ませた。
「断られるとは思わんかったよ。栄誉にも立場にも興味なし、か…。思えば、お前は昔からそうじゃったのぉゲンエイや」
「はっはっは!三つ子の魂なんとやらですね。興味が無ければ手を付ける気にもなりませんので…」
ゲンエイは言葉を切り、椅子から立ち上がった師を目で追う。重厚な机の前で太った体を窮屈そうに屈め、下の引き出しか
らアグリッパが取り出したのは、掌に乗るサイズの小さなウイスキーの瓶。外の世界の高級酒である。
グラスを二つ取り出し、指をパチンと鳴らせば、大気中から生成されたボールアイスが中に転げ落ちる。そこへ封を切った
瓶から薄茶色の酒を注ぎつつ、アグリッパは口を開く。
「それで、その後はどうするつもりじゃ?他の高弟達は選に漏れたら何をするか決めておるようじゃが…」
「もちろん決めていますとも。これまでと変わらず、弟弟子にちょっかいを出し続けます」
この返答を聞いてアグリッパは笑みを深める。どうやら今後も学派の一員として過ごすつもりらしいと、安堵と共に考えて。
「では」
「はい」
グラスを合わせ、ふたりは乾杯する。新たなアグリッパ誕生の前祝いに。
「来週だってね。発表」
向き合って座る赤髪の若者が漏らした声で、秋田犬は口元へ運ぶ途中のスプーンを止めた。
無限の星空を眺める高台のカフェテラス。工房仕事の息抜きにと強制的な休憩に誘われたヤクモは、ジョバンニの言葉で思
い出した。ああそうだった、と。
ミルクジェラートを口に運び、冷たく甘い感触を楽しみながらヤクモは思う。次のアグリッパは確実にゲンエイだろう、と。
(襲名してからしばらくの間は忙しいだろうけれど…)
ゲンエイがアグリッパを襲名したあとの事を思う。引継ぎなどで多忙な日々が続くだろうが、それが落ち着いたら、一度自
分の故郷へ挨拶にゆきたい、と。
どちらも選に漏れたら一緒に河祖下村へ移住する事も考えたが、もうゲンエイ以上の高弟は居ないのだから、その目は無い
と考えた。だからせめて、落ち着いた頃に一度帰郷に付き合って貰えないかと…。
(私も、これからもずっとOZで過ごす事になるのだから…)
ゲンエイがアグリッパになったら、自分もその傍で術の研究を続ける。かつては胸を張れる成果を出して河祖下へ帰る事を
夢見ていたが、大切な相手がOZを離れないなら、自分もこちらで過ごすつもりになっていた。
だからせめて、一度帰って挨拶ぐらいはしなければ、と…。
「…ジョバンニは、次期アグリッパが決まったらどうするの?」
「う~ん…。一度OZを出て、お世話になった所に挨拶回りしてこようかなって…。候補者としてここに来たんだし、結果ぐ
らいは伝えなきゃ。その後はここに戻るよ。研究途中の物もたくさんあるし…」
言葉を濁したジョバンニの真意を、ヤクモは知っている。ジョバンニは候補者の最終選考に残らなかったが、エメラルドグ
リーンのトカゲとは良い仲になっているし、ここ以上の研究環境はない。OZを離れる理由はないはずだった。
「ヤクモは色々考えなきゃいけないよね。選ばれる可能性あるんだし」
ジョバンニは嬉しそうに笑った。最終選考5名に、ヤクモは含まれている。ずっと一緒に学んできた親友として、OZ生れ
でない彼が選考に残ったのは誇らしい。
「ちょっと他人事みたいな気楽さを感じる…」
「プレッシャーがかかっているのは判るよ?でも…」
口を尖らせるヤクモと、苦笑いするジョバンニ。
「どっちにしても、目的は果たせたんじゃない?」
そう言われた秋田犬は、「そうかな?」と耳を倒した。
OZに来たヤクモが最初に知ったのは、自分の無知だった。
自分で思っていた以上に何も知らなかった。兄弟子たちはレベルが違い、一緒に入門したジョバンニも術大系に関する知識
が豊富で、物知りだった。自分だけが何も知らなかった。
ヤクモは知恵と知識を求めた。動機の根底には無力な自分と決別したいという想いがあったのだが、秘められていた探求心
その物を刺激したのは、ここOZの環境だろう。
しかし今では、ヤクモは学派有数の知恵者である。次期アグリッパの最終選考に残っているという事実が、師と周囲の評価
を何より物語っている。
「だったら、嬉しいな…」
「控え目だなぁ。ヤクモはもっと威張って良いと思うけど…」
もう自分とは随分差がついたのに、自慢もしないし威張りもしない友人に、ジョバンニは言う。
「もしヤクモが次の学長に選ばれたら、威厳の準備が必要だね!獣人にも先生みたいに長い髭とか生えればいいのにね?」
「それは…、似合わなそうだから却下かな」
数時間後、作業が片付いて私室に戻ったヤクモは、テーブルの前に居た兄弟子に笑いかけた。
「どうしたんですか?花なんて飾って…」
「気まぐれという物だよ。たまにはね」
テーブルに花瓶を飾り付けていたゲンエイは、ヤクモに歩み寄り、両手を広げる。抱擁に応じた秋田犬は、合わせた唇を割っ
て入ってきた兄弟子の下から、ほんのりスモーキーな酒の味を感じた。
(先生と会ってきたのかな…)
ゲンエイはひとりではあまり酒を飲まない。誰かと一緒の時には付き合う事と、店ではまず出ない貴重品…ウイスキーと思
しき外の国の酒を飲んでいた事から考えて、師の所に居たのではないかとヤクモは推測する。
「今日は気分が良い。元気があるなら少し付き合ってくれるかな?」
「は、はい、それは…」
勿論、と言いかけたヤクモの唇を、再びゲンエイが奪う。ローブ越しに脇腹の肉を掴まれ、反対の手で背中を撫でられなが
ら、ヤクモは思った。
(時期アグリッパ、決まったんだ…!)
師と話していたらしい兄弟子の機嫌がいいのは、きっと指名があったから。
兄弟子を誇らしく感じながら、ヤクモは愛しい相手とダンスでもするように、互いの腰に手を回したまま寝室へ向かった。
「ヤクモや。キミを後継者にする事にした」
白髭を蓄えた老人が窓の外を眺めながら口を開く。
講義の間に突然執務室に呼び出され、五歩ほどおいた後方で立ち尽くすヤクモは…、
「え?」
十秒ほどおいて瞬きした。師に言われた事がすぐには理解できなくて。
呼び出された理由は、ゲンエイへの継承式について、段取りを命じられるからだと思っていたのだが…。
「ワタシだけの意見ではないんじゃ。他の候補者とも話をしたが、キミが最も適していると、全員の意見が一致した」
ゆっくりと振り向いたアグリッパの目に映るのは、途方に暮れたような顔の秋田犬。
ひどく困惑している様子だった。そんなはずないでしょう?と、驚きよりも疑問が大きい顔だった。
「キミがOZに来てから十余年。その働きぶりを見てきたが、弟子達の中で最も成長し、最も多くの研究を手掛け、最も多く
の物を生み出し、最も学派の発展に貢献したのは、キミじゃった」
「ですが先生」
ヤクモが口を開く。自分でも意外なほど落ち着いていたが、それは現実味が薄い話で気持ちが動揺する以前に、やや麻痺し
ているせい。
「私は未熟で、思念波強度も外の世界の並みの術士レベルです。OZ生まれの皆や、才能ある学徒には及びません」
「今は未熟でも、時が経てばどうかな?キミが持つ成長力も加味しての事だとも。それに、個の術士としての良し悪しは二の
次じゃ。我らが学派は受け継ぎ、引き渡し、先へ繋げてゆく物。キミのように発展させ、多角化させる発想と才覚によって研
究範囲が広がれば、それこそゆくゆくは、多角的なアプローチで様々な道が拓ける可能性が高い」
「先生」
ヤクモが発した声を、アグリッパは手を上げて制した。続く言葉が「私には無理です」だと判っていたから。
「何も、キミの代で完成させろとも、到達しろとも言っておらんよ。キミの次、あるいはその次、さらにその先…、いつかの
アグリッパが数多の道筋から悲願へ至れるよう、キミにはそう…、今ある畑を広く開墾し、より多くの種の作物を実らせるノ
ウハウを磨いて、先の誰かに託して欲しい」
「それならゲンエイさんの方が適任です。誰より広く開墾して、珍しい作物を作り出せます」
「そう。ゲンエイであれば、珍しい花を咲かせる事もできるじゃろう。しかしそれはアヤツ個人の才覚による物じゃ、次の者
が方法だけ聞いて真似られる物ではない。一代限りの天才の、再現性がない仕事では、後に残せる物は少ない」
秋田犬は黙り込む。
師が言っている意味は理解できた。ゲンエイは優れた術士だが、その技術も理論もそのレベルの土台があってこそ。彼が手
ほどきした所で、同じ術は高弟の一部しか再現できない。
「しかしヤクモや、キミは他者に教えて引き継がせられる形で、仕事を残す事ができる」
ゆっくりと進み出て、アグリッパはヤクモと向き合った。
「判るかね?キミはワタシから受け取ったバトンを、誰かによりよい形で渡せる適任者なんじゃ」
次第に、ヤクモの体が火照り始めた。緊張が今になって体の隅々まで浸透し、肌に汗が滲んだ。
「これは、前もって言っておくべき事じゃろうが…」
弟子を信用し、これを告げても腐ったりしないと考えて、アグリッパは打ち明けた。
「ワタシも当初、次をゲンエイにするつもりじゃった。しかしそのゲンエイ自身が、指名を辞退した上で、自分よりも適任が
居る事は判っているんじゃろう?と、言外に指摘してよこしたんじゃよ」
「!」
ヤクモの眉が上がる。
先日、部屋に花を飾っていたゲンエイ。あの日は特に機嫌が良かったが…。
(あの日、私を後継者に推したんだ…)
それから、師の宣言を受けたアグリッパ一門は、慌ただしくパーティーの準備に入った。
継承が終われば、OZ中に襲名の報告を行なう披露式。その後は一門で祝賀パーティーとなる。新たなアグリッパの誕生を
祝い、退く先代を労う交代式は、一門最大のイベントである。
「ジョバンニ、料理どこの店に頼むんだったっけ?」
「ホーデンスさんのお店です。発注済みましたから大丈夫ですよ」
「先輩!飾り付けの帯なんですけど、これですか?」
「それ。祝典用の刺繍がしてある白と紫のを使って」
「エール酒は何処に…」
「注文伝票飛ばしたから、そっちも大丈夫」
ガヤガヤと支度が進む中、ジョバンニは会場設営を取り仕切り、料理の注文などもせっせと済ませた。元々マメな性分でよ
く気が付くので、こういった時には皆から頼りにされる。本人もそれで張り切るのだが、今回はまた特別だった。
何せ、同時期に入門し、同じくOZの外からやってきた友人が、次のアグリッパに選ばれたのだから、もちろん嬉しいし誇
らしい。
(あれ?ゲンエイさんは…)
兄弟子の姿をしばらく前から見ていない事に気付いたジョバンニだったが、
「ジョバンニさん!シルバーの燭台が見つからないんです!」
弟弟子に声をかけられると、忙しさにかまけてそのまま忘れてしまった。
叙勲式の時にも着用したローブに、ヤクモは袖を通す。
鏡の中の自分はぼんやりした顔で、これもあの時と同じだった。
違うのは、今回はゲンエイが居ない事。あの日は着付けを手伝ってくれた兄弟子が、今日は一緒に居ない。
次のアグリッパに選ばれた事を告げに行ったおり、抱きしめて、背中を叩いて、口付けしてくれたゲンエイは、「なら僕も
急いで支度しなければ」と、悪戯っぽくウインクしていた。
(きっと、この後の準備をしてくれているんだな…)
ヤクモだけでなく、誰もが忙しくなる。OZ全体にお祭り騒ぎが訪れる。
(私が、一門の長に…)
ローブ越しに胸へ手を当てて、鼓動を聞いた。学派の長がどういう物か、このOZで暮らしている間に理解できている。
一都市を差配するような立場。自分の判断一つで学派の方針が決まり、数年後の行方を変えてしまう。いかに先代が補佐し
てくれると言えども重責である。
(でも、ゲンエイさんが私を推薦したなら…)
正直なところ、辞退できるものなら辞退したかった。明確な辞退理由も無いので叶わなかったが、そもそもゲンエイが推し
たのなら無下に断る事はできないというのもある。
(河祖下に帰って暮らす事は、引退するまでできないけれど…)
落ち着いたら報告に帰ろう。
立派になっているだろうユウヒに、送り出してくれたユウキとトナミに、胸を張って会いに行ける。
(お嬢様もすっかり大きくなったろう…)
急に里心が頭をもたげて、ヤクモは軽く首を振ってそれを追い出す。
「さあ、行こう」
自分を力付けるよう声に出して、秋田犬はローブを靡かせ身を翻した。
無知を嘆いて立ち尽くしたかつての少年は、もう何処にも居ない。
そこには、恰幅よく大柄で貫禄のある、堂々とした若い術士の姿があった。
「ここに入るのは、先代から継承した日以来じゃ」
コツコツと石畳を踏んで、老術士は狭い通路を歩む。
高さ3メートル、幅2メートルほどのそこは、継承の儀式を行う部屋へ通じる唯一の道。アグリッパの執務室から、当代の
みが開けられる扉を潜った先、消えない灯が壁に掲げられ、不朽の煉瓦で拵えられた通路を歩みながら、ヤクモは師の背中に
尋ねる。
「先生は、襲名する時に断ろうとは考えなかったんですか?」
「考えたとも」
意外な返事、それも即答だった。
「しかしね、結局は断る理由が無かった。立場としてはまぁ責任重大なんじゃが、やる事は結局それまでと同じ。師匠に見守
られ、仲間と一緒に研究の日々を送るだけ。そう考えると…、「なんだ、そんな事か」と思えてのぉ」
アグリッパが笑い、つられてヤクモも笑う。
(なんだ、そんな事か!)
これからも今までと何も変わらない。毎日同じように、皆で研究に打ち込み、知識を求め、いつか辿り着く誰かに向けて、
渡すべき物を高めてゆく生活が待っている。
気が楽になると同時に、すっかり頭から抜けていたある事に気付いた。
学派の長になれば、これまで閲覧できなかった書物なども読む事ができる。また新しい事を沢山学べる。
俄然元気が出てきたヤクモは、足を止めた師の向こうに、蔓草をモチーフにした鉄の縁で補強された、樫の扉を認めた。
「ここがアグリッパ派の継承の間じゃ。まぁ本当に無駄な造りなんじゃが、この為だけに存在しておる。しかもじゃ」
アグリッパはドアノブを掴んで引き開けた。鍵どころか何らかの術による封印もない事に、ヤクモは逆に面食らった。
「何も特別な事がない、フッツ~…の部屋なんじゃこれが」
振り返った老人が肩をすくめると、「え?」と、ヤクモは目を丸くした。
「正直に言うと、そういう舞台でも無いとちょっと継承に格好がつかん…、という理由で二十代前のアグリッパが作った部屋
でのぉ…。ま、セレモニー用以外の何物でもない部屋じゃな。ああ、ここに来る扉を当代しか開けられんようにしてあるのは、
せめて少し特別感を出そうと、十二代前がやった事じゃ」
「えぇと、つまり…」
師に続いて扉を潜り、直径15メートルほど、天井がドーム状になっている石造りの部屋に踏み入ったヤクモは、
「もしかして、ここでなければ継承ができない訳じゃない、という事ですか…?」
「その通り。前は学長室でやっておった。表彰状を渡すような感じで、かる~く」
「えええええええ…」
あまりの事に言葉を失うヤクモ。しかし考えてもみれば、儀式の格式や特別感に頓着しないのは、実践と探求を旨とするア
グリッパ派らしいザックリ加減だとも思えた。
「さて継承を…。おっと、一応ドアは閉めておくかの。面倒じゃが、せっかく作られたんじゃから伝統は大事にせんと…」
アグリッパがユルい空気のまま継承式を始めようとし、思い直してドアを閉じる。口ぶりからも行動からも、あまり継承式
の伝統を大事にしているように見えない。本当に形式だけのようである。もっとも…。
「緊張はまだしなくていいからの?本番はお披露目式じゃから、それまで取っておいて思い切り緊張しなさい」
「緊張はしないといけないんですね…」
「それはそうじゃ。体格のおかげで貫禄はあるが、君は顔がまだまだ可愛らしい。緊張気味の固い顔の方が威厳がある」
そう言って笑うと、アグリッパは小さくため息を吐いた。
それは、安堵のため息であり、万感こもった吐息でもある。
ついにこの時がやってきた。自分が師から受け継いだように、弟子に先を託す時が…。
「では、継承を始めよう。ヤクモや、ここへ」
「はい」
背筋を伸ばし、促されたヤクモは部屋の中心で師と向き合う。一歩ほどの距離をあけて。
そして、アグリッパはローブの前合わせの隙間に手を入れた。
そこから引き出されたのは、ローブの懐に入るサイズでは到底ない、古びた分厚い書物。
高さは30センチほど、幅は20センチ強、厚みは8センチ程。大判の百科事典を思わせるサイズの、赤茶けた革で装丁さ
れたそれには、外から見える範囲にはタイトルどころか一切の文字が記されていない。
老人の手から離れ、浮き上がって空中に留まったそれを、ヤクモは唾を飲み込んで乾いた喉を湿らせつつ、じっと見つめる。
「手に取るんじゃヤクモ。今からそれは、君の預かりとなる」
ゆっくりと顎を引き、ヤクモは大きな書物に手を伸ばす。
そして、両手でそっと受け取った。代々のアグリッパに受け継がれてきた、いつか悲願へ至るためのバトンを。
浮いている書物はヤクモが触れるなり次第に重さを増し、やがてその手はずっしりと、書物本来の重さを感じて支える。触
れた瞬間に何かが通ったような感覚が生じ、重さをしっかりと感じ取ったその時には、秋田犬はその書物の本質を感覚で理解
していた。
(これが、「フィロソフィア」…。代々のアグリッパが受け継ぐ秘宝…!)
この書物こそがアグリッパである証。現存する世界最高峰の宝の一つ。名をフィロソフィア。
「智を愛する」と冠されたそれは、しかし術具ではない。グリモアのように術が仕込んであるわけでも奇跡を起こす太古の
レリックでもない。
その真価は、「持ち主が得られる膨大な知識」である。
フィロソフィアには歴代のアグリッパと一門の研究で得られたあらゆる技術や知識、データが記録されている。いかに大き
く厚かろうと、とても一冊になどまとまるはずがないその叡智を、フィロソフィアは内包し、持ち主が望む物をその都度ペー
ジとして出現させる。
ただし、「アグリッパ」の手になければ白紙の本でしかない。正当な持ち主の手の上でのみ、正当な後継者の手の中でのみ、
フィロソフィアは蓄積されたその叡智を開示する。
「以上、継承終了じゃ」
ずっしりと重たい書物をしっかりと両手で持ち、頷いたヤクモは…。
「え?」
師の顔を見る。「終わり!?」と驚きながら。
「終わりじゃよ?ワタシのパスを解除して、キミが受け取った事で再設定されたんじゃ。もうキミでなければフィロソフィア
の情報の引き出しはできん」
正直、肩透かしを食らった気分のヤクモ。
「もっと、パーッと光ったり、電撃が走ったり、謎の風でローブが激しくはためいたりする物だと思ってました…」
「ふんむ?そういう演出も盛り上がるか…。よし、キミが弟子に渡す時はちょっと工夫してみなさい」
何となく、ヤクモはこの部屋や継承式の決まり事を作った歴代アグリッパの気持ちを察する。継承手順その物があまりにも
あっさりしていて拍子抜けするので、せっかくだからちょっと演出に拘ってみたくなったのだろうなぁ…、と。
「では、少し休憩したらお披露目に向かおう。緊張の貯金はできとるかな?」
「何だか抜けてきてしまいました」
「ははは!それは困ったのぉ!せっかく…、む?」
アグリッパが視線を上げる。ヤクモもまた視線を周囲に巡らせる。
振動を感じた。くぐもった鈍い爆発音と共に。
「実験の失敗?いや、今日はウチの学派全体が…」
「うんむ。何もしておらぬはず。…となれば」
何かの事故が起きた。それも、この執務室の奥に隔離された部屋へ振動が届く規模で。
ヤクモは受け取ったばかりのフィロソフィアを、袖の中のマイクロイマジナリーストラクチャーに収納し、アグリッパは急
いでドアを開け通路を引き返す。
この時、既に始まっていて、そして手遅れになっていた。アグリッパ一門の崩壊は。
時刻は二十分ほど遡る。
パーティーに備え、テーブルが並んだホールの飾り付けが終わりに近付いた頃、タキシードを着込んだ黒髪の若者が一抱え
ほどの箱を携えて会場に入った。
「あ!ゲンエイ、お前どこ行ってたんだよ!」
高弟のジャガーが同僚の姿を認めて声を上げた。同時に他の面々も、そういえば姿を見ていなかったなと気が付いて、口々
にゲンエイを非難する。
「はっはっは!出遅れましたが、何とか間に合いました!」
「間に合ってないっての!もう準備終わるっての!」
詰め寄るジャガーを「まぁまぁ」と宥めて、ゲンエイはテーブルに箱を置き、蓋を開けて中身を見せた。
「記念日です!せめて高弟はオシャレをと、人数分の胸飾りを作ってきました。格好はつくでしょう?」
「お?装飾か…、うん。ちょっとめかしこんだ方が良いかもだ。ありがたく着けさせて貰うか!」
一つ受け取ったジャガーが胸に着け、他の高弟達も次々に手に取る。その様を満足げな笑みを浮かべ、頷きながら見届けた
ゲンエイは、行き渡った所で一同を見回す。
共に学問に励んだ仲間達。長い時を過ごした友人達。皆がかけがえのない存在で、皆が価値ある存在で…。
「あれ?ちょっと斜めになってるかな…」
「あ、着け直しましょうか?」
「いや、自分でできるとも」
エメラルドグリーンのトカゲが、胸から外して着け直そうとして、ジョバンニの申し出を笑いながら断る。
「足りましたね?」
「ああ。ん?お前の分が無いんじゃないのか?」
ジャガーの問いに、ゲンエイは微笑を浮かべたまま「ええ」と頷いた。
「僕には不要です。何せ…」
その手がポケットから取り出したのは、握りこめば隠れるほどのサイズの、プラスチックと金属でできた塊。
しげしげとソレを見つめるジャガーの目の前で、ゲンエイの親指がスイッチを押す。
「今から、アグリッパ一門ではなくなりますから」
直後、轟音と共にホールのあちこちで爆発が生じた。
「ーーーーーーーっ!」
爆音で耳をやられたジョバンニが、声にならない叫びを上げながら床を転がる。トカゲの胸飾りを見て、自分の飾りも曲がっ
ているのではないかと気になり、一度外して上着の乱れを直すためテーブルに置いた、その直後の事だった。皆に配られた胸
飾りが同時に爆発したのは。
テーブルが吹き飛び飾りも燃え上がり、多くの死傷者が転がったホールで、爆風を風の障壁で受け流したゲンエイは、手に
していた起爆スイッチを放り出した。
その顔には、先ほどまでと変わらない、いつも浮かべてきた笑み。
その足元には、鳩尾から上が木っ端みじんになったジャガーの半身。
「さようなら。さようなら。さようなら我が学友、我が同胞、我が後輩、我が先輩!伝説の幕開けはあなた方と共に!」
胸飾りには爆弾が仕込んであった。思念波を一切介さない、純然たる、外の世界の現代文明由来となる爆弾だからこそ、誰
も察知できなかった。
飾りを受け取っていなかった高弟以外の門下生達も、爆風を浴びたり、飛んできた破片を受けるなどして重軽傷を負ってい
る。苦痛の声と悲鳴の中、動ける者は出入り口に逃げてゆくが、ゲンエイはそちらに見向きもしない。その目が向いたのは…。
「おや?エスメラルダ、無残ですね」
右腕を丸々、付け根どころか右胸まで持っていかれて仰向けに倒れ、瀕死の状態でヒュウヒュウと息をしている黒焦げのト
カゲ。たまたま飾りを着け直そうとして手に取っていたせいで即死は免れたが…。
「大丈夫、楽にしてあげますよ」
火がついているテーブルの破片を踏み、近付くゲンエイは…。
「おや?」
煤だらけの人影がよろよろと前を横切る。
「え、エスメラルダさん…!」
木片が突き刺さった左の二の腕を押さえ、足を引きずってトカゲに近付くジョバンニは、ゲンエイに気付いて煤だらけの顔
を向けた。
「ゲンエイさん!無事ですか!?皆が…、何て事に…!どうしたら…!どうすればいいですか!?」
誰がこの事態を起こしたのか判っていなかったので、トカゲの傍らに跪いて、指示を仰いだジョバンニは…。
「!?」
兄弟子の、普段と変わらない微笑に気付いて硬直した。
「生きていたんですかジョバンニ。やれやれ…」
ゲンエイは声をかける。その手の中に、弟弟子も見たことが無いステッキ型の術具が、袖の中から滑り落ちて握られる。
全長90センチほどの、グリップが直角に折れたL字型のステッキは、くすんだ白色の何かを継ぎ接ぎして形を整えたよう
で、よく見れば滑らかな表面には継ぎ目があった。
赤毛の青年は気付いた。その、禍々しいと一言で表現するのも憚られるような、吐き気をもよおす嫌悪感で。
「仙骨の杖…。いや、人工…仙骨…!?」
OZに来る前、大陸に潜むある術師一派が造っていると聞いた物。
仙人の骨を用いた術具は極めて高い性能を持つが、仙骨は滅多にお目にかかれない希少品である。これを人工的に再現した
代替え素材が「人工仙骨」。
本物には及ばないが、素材としては非常に優れているこれは、しかし禁忌の品とされる。
「人工仙骨」と言えば聞こえは良いが、その正体は、拷問などで気が狂うほどの苦痛を与え続け、発狂した者の強烈な断末
魔の思念波が焼き付いた骨…。呪詛にまみれた遺骸、何百年にも渡り瘴気が減衰しない汚染物質である。
「君も高弟ですからね。後々の為にも、皆と一緒にここでこの世から去って貰わなければ」
ゲンエイがステッキの先でコンと床を軽く打つと、その周囲で風が渦巻き始めた。
「何を…。ゲンエイさん、何を言って…?」
震え始めたジョバンニは、しかし脳では理解し始めている。この惨劇はゲンエイが起こしたもので、兄弟子は次いで自分を
も殺そうとしているのだという事を。
「どうして…こんな事を…!」
ジョバンニの右手が負傷した左腕から離れ、腰の後ろに回り、ベルトの後ろで固定している湾曲した短刀を取った。
刃が潰れて紙も切れない、金銀宝石で飾られた儀礼用の短刀。しかしそれは、高弟認可を受けた時にジョバンニがアグリッ
パから授かった、秘宝級の術具である。
「どうして?」
ゲンエイは肩をすくめた。
「勿論、必要だからですよ」
その声には、その顔には、一片の曇りも陰りも存在していない。
いつもどおりに親しげに、いつもどおりに軽い調子で、いつものままのゲンエイは、可愛い弟弟子に笑いかけていた。