ライオン
「先生!通路が!」
ヤクモが声を上げる。走るふたりの前方、学長室を出た直線通路が途中で崩落していた。
空中で塔を結ぶ通路は途切れ、遥か下に地面が見えるが…。
「煙が…!」
息を飲む秋田犬。塔、そして隣接する建物、そのあちこちの窓から煙が昇っていた。
「降下した方が早いのぉ!」
「はい!」
師に応じたヤクモは袖から巻物を一本抜くと、素早く広げて手を押し当てる。
「乗って下さい!」
空気の綱を編み上げた籠のような足場。これに師と共に乗り込むなりゴンドラのように降下させ、ショートカットするヤクモ。
(何が起きたんだ…!皆は無事なのか…!?)
焦りで集中が乱れないよう注意しつつ、落下するよりほんの少しだけ遅い速度で、ふたりは降下してゆき…。
その、少し前。
砕けて飛び散った机や椅子の破片が、そこらじゅうで火を上げている会食場。
腰から下しか残っていないなど、いずれも原型を留めないほど凄惨な、門下生の死体が無数に転がる。
祝いの場となるはずだったのが、一変して惨劇の舞台となったホールで、赤髪の若者は黒い男と向き合って、わなわなと口元
を震わせていた。
「必要…だから…?」
どうしてこんな事を?その問いへのゲンエイの答えは、ジョバンニにとって理解不能な物だった。
「ええ。大切な仲間、大切な学友、大切な後輩、それに、理由も無くこんな事ができるはずもないでしょう?」
仕方がなかった、というゲンエイの悲しげな顔。
ジョバンニは困惑する。いつも通りの声、いつも通りの表情、いつも通りの態度で、ゲンエイはこう言っている。大切だが理
由があるから殺した、と。
「それは、どんな理由があって…」
ジョバンニは自分の後ろで倒れているトカゲを意識する。一刻を争う瀕死の重傷である。すぐにも何らかの手を打たなければ
死んでしまう。
(とにかくエスメラルダさんを…!)
「ジョバンニ」
ゲンエイはステッキの先端を床から軽く浮かせた。
「説明している時間は無いので殺します。さようなら、楽しい思い出をありがとう」
ゾクリとジョバンニは悪寒を覚え、咄嗟に短刀を前へ突き出した。片手で柄を握り、片手で峰を支え、刃を前に向けて構えな
がら、短く口の中で呟く。
ガィンッと硬質な音が響き、ジョバンニの前方で、弧を描く無数の真空刃が砕け散った。巨大な鋭い爪で掻かれたように床が
切り刻まれるが、淡い赤色に発光する、卵の殻のようにゆるく湾曲した壁がジョバンニの正面に展開されており、後ろのトカゲ
共々防御されている。
淡く光る半透明の赤い壁は、手のひらサイズの六角形のパネルが集合して形成されていた。
これは、ジョバンニが高弟認可を受けた際に受領した煌びやかな短刀に仕込まれた、空気を静止させて結果的に固形化し、作
業台や足場、緊急時の盾として使える術を、彼なりに使い易く改修した防御術。赤く発光するほど多量の思念波を通した六角パ
ネルは、細かく小分けにして生成する事で、組み替えによる防御範囲のカバーと、欠けた部分の個別補充による継続性を獲得し
ている。さらには、起動コード…有体に言えば外の世界で呪文や詠唱と表現される物を、極々短縮してそのまま術式としており、
面倒な手順を一切必要としない。
「ゲンエイさん!やめて…!」
ジョバンニの声が激突音にかき消される。ゲンエイがステッキを指揮棒のように振るうたびに、四条から五条の真空刃が、獣
の爪による攻撃のように、弧を描いて襲い掛かる。
手かざしに追従するパネルを素早く移動させて、壊れて脱落したパネルは再生産して穴を埋めさせ、間断なく注がれる斬撃の
術を防ぎ止めながらジョバンニは叫んだ。
「必要だったって、どうしてですか!?何のためなんですか!ぼくらより大切な理由なんですか!」
ゲンエイが生み出す真空刃は、省エネとは決して言えない出力にも関わらず、途切れない。防ぎきれなくなると確信し、ジョ
バンニは身を固くした。
(だ、誰か…!誰か来て…!先生…!ヤクモ…!このままじゃ…)
このままではいずれ防げなくなる。そこまで考え、ジョバンニは目を見開いた。
(助けを待ってたら…、間に合わない…!)
トカゲの呼吸が不規則になっている。もう猶予が無い。助けに望みをかけて粘っていたら死んでしまう。
(ぼくが…、ぼくが何とかしなきゃ…!でも、ゲンエイさんを…?本気で殺そうとしてくるゲンエイさんを、ぼくが何とかでき
るはずなんて…)
パネルが砕ける。生産して埋める速度が破壊ペースに上回られ、穴をふさぐ為に外周側から中心寄りに無事なパネルを組み替
え続ける。次第に壁は小さくなり、ジョバンニの右足のすぐ傍で床が深く切れ、ローブの袖に切れ込みが入った。
「流石は我が自慢の弟弟子です。素晴らしい術を組み上げましたね、ジョバンニ」
兄弟子が発する心からの称賛。嘘偽りのない感嘆。いつも嬉しかったはずのそれが、この状況で、同じように、本心で投げか
けられた事に、ジョバンニは眩暈を覚えた。
まともではない。なのにゲンエイはいたって普段通り。混乱のあまり気が狂いそうだった。
「狂ってしまったんですか、ゲンエイさん…!」
ジョバンニは短刀の峰に添えた手で、軽くツツッと、刀身の背を反りに沿って撫でた。
「狂ってしまった…、というのはそう、違いますね」
ゲンエイは手首のスナップを利かせ、ステッキを上から下へ、右から左へ、十字に振る。交差する合計十本の真空刃が、ジョ
バンニのパネルを菱形にカットし、一気に数十枚破壊した。
(冷静になれ。冷静になれ。冷静になれ。勇気を出せ…!)
ジョバンニは自分に言い聞かせる。
勇気が欲しかった。昔から、勇敢な自分になりたかった。何も恐れない、憧れの兄のような…。
(知らない術具だけど、式は理解できる…!動作がそのまま術のコントロールを行なうタイプ…。対処方法は…)
ゲンエイの術の制御方式を見切ったジョバンニは、短刀に仕込んである別の術を起動する。気付かれないように、防御パネル
を集中して色濃く重ね、口元を隠して。
怖い。失敗しそう。逃げ出したい。敵うはずがないから止めろと、臆病な自分が警鐘を鳴らす。
実力が違う。ジョバンニは戦闘のための術、他者を殺傷するための術といった物を殆ど知らない。アグリッパ一門の理念通り
に研究に打ち込み、研鑽を積んだ。進歩のための術を学んだ。その他には、事故防止や緊急防御のための物ばかり覚えてきた。
外に出て実践するタイプではなかったし、危険な所へも出向かなかったので、殺傷力を備える術より研究の進歩に心血を注いだ。
何より、ジョバンニはゲンエイが今使っている術具も、術も知らない。一方ゲンエイはジョバンニの術具も得意分野の術も熟
知している。術士同士の闘いの大前提からして、アドバンテージが大違いだった。
それでも、ジョバンニは退けない。いま退く訳にはいかない理由がある。
ゲンエイが指揮棒のようにステッキを振る。
(ここだ!)
ジョバンニはゲンエイの動作にタイミングを合わせてパネルを発生させた。ただし、真空刃を防ぐために自分の前方へ追加す
るのではなく、ゲンエイの手元…ステッキで指揮する動きを阻害するよう、手首をぶつける位置と角度で。
「!」
ゲンエイが眉を上げた。ジョバンニが使用している術は、自分の手元付近に投射するタイプ。離れた位置に出せる物ではない
はず。完全に予想外の事で、意表を突かれた。
これは、ジョバンニが異なる術を行使し、作用を組み合わせた事による術形態の変質。
ジョバンニはOZの生活水準に影響を与える、ちょっとした術具の遠隔操作やインフラに携わってきた。閉じた空間であり、
構造物の殆どがそのまま思念波伝達ラインとして利用できるOZの性質を活用し、外の世界で言えばリモコン操作にあたる機能
を様々な術具、機構、設備に搭載した。
その、遠隔操作の応用を、ジョバンニは使用中の防御術と組み合わせた。この部屋のランプを遠隔操作するための、床から壁、
天井を走るラインに思念波を通し、自分の腕の延長のように扱い、ゲンエイの足元を介して術を発動させたのである。これは風
水を学び、地脈を活用する術を修め、人体も地脈も循環するラインに支えられているという概念を把握しているジョバンニなら
ではの、地脈を自分とシンクロさせて身体の延長部と認識、そこから術を発動させるという大胆な発想。ゲンエイも思いつかな
い、風水師ジョバンニ・バルファー故に発案して実践できた物。
本人は知らなかったが、これはイマジナリーストラクチャー桃源郷に住まう仙人達の御業に近い、OZには術の仕組みが断片
的に伝わるだけの、新機軸の技術である。
「これは…」
ゲンエイが疑問の声を発したが、それもすぐさま遮られる。カンッと、次いで出現した六角形のパネルが隣接する。カンカン
カンッとさらに音は続く。
同時に、ジョバンニの前からパネルが一枚ずつ消失してゆく。新たに生成するコストを捻出するよりも、手元のパネルを解除
し、確保したそのコストで作る方が速い。当たれば即死する術を前に、たった数歩分の距離で防御を捨てる…。スピード勝負で
保身を捨てた、臆病な若者がここぞの場面で見せた胆力が、ゲンエイに対処する隙を与えなかった。
カンッ、カンッ、カンッ、カカカカカカカ…と音が連続して、一瞬の内に、ゲンエイを包囲する格好でパネルが展開、閉じ込
める。ただし、ジョバンニが展開した方とは防御面が逆、湾曲した内側が強固な、閉じ込める事に特化した反転版。
「素晴らしい…!」
そのゲンエイの声と共に、発動しかけていた真空刃は、寸前で構築された閉鎖空間内で解放された。
バリンとけたたましい音を立てて、パネルが砕けて吹き飛ぶ。それ自体が大気を凝縮して思念波補強を施されたパネルは、破
壊されて結合が解け、周囲を強烈な風圧で蹂躙した。
「く…!うわぁっ!?」
真空刃の消滅反動も、狭い空間内で炸裂したせいで余波まで強力になっており、ジョバンニはトカゲもろとも衝撃波に近い叩
きつけるような風で吹き飛ばされた。
先の爆発であちこちガタが来ていたホールは、天井の一部が落下し、柱が倒壊し、出入り口も半ば塞がった。強風で煽られた
粉塵が通路に押し出され、爆風のような勢いで外へ向かう。
破片だらけの床を転がり、あちこち激しく打ち付けながらも、ジョバンニは咄嗟に風圧のヴェールを展開して、自身とトカゲ
を防御する。先程の術とは違いさほど強固ではないが、幸いにも落ちた天井などの下敷きにはならずに済んだ。
ややあって崩落が収まり、激痛の中で何とか身を起こしたジョバンニは…。
「…!ゲンエイさん…!」
そこに、既にひとの形を留めていない、ズタズタになって飛び散った肉片を認めた。
術具も粉々で、四肢もバラバラ。頭部の右半分が無くなったゲンエイの首が、断面を床につけ、千切れた首の方を斜め上に向
けて、ぼんやりした顔でこちらを見ている。胴体部分は落ちてきたシャンデリアに押しつぶされ、噴出したように周囲に広く血
痕を広げている。
「………!」
思わず顔を伏せたジョバンニの膝に、ポタポタと涙が落ちた。
こうなる事を見越した訳ではない。だが結果的に兄弟子を手にかけた。
優しくして貰ったし、良くして貰った。楽しい思い出は沢山あった。今でも、何故ゲンエイがこんな凶行に及んだのか全く判
らない。
「…エスメラルダさん…」
ジョバンニは痛む腕を、瀕死のトカゲに伸ばす。急いで処置をしなければ。命にかかわるような重傷すら元通りに癒せるOZ
の高い治療技術をもってしても、死者の復活は不可能。死んでしまったらそこで終わりという事は、外の世界と何も変わらない。
「頑張って…。すぐに手当てして貰っ…」
ズブ。
そんな音を耳元で聞いて、ジョバンニはきょとんとする。
見れば、後ろから伸びた手が、湾曲した白い牙のような刀身を持つ短刀を握り、その先端を自分の左肩…鎖骨の少し手前に突
き立てていた。
「いやいや、驚きました。君は本当に天才ですよ、ジョバンニ」
聞き慣れた声。見慣れた術具。剣牙虎の獣人の長大な牙…。
「ゲンエイ…さん…?」
混乱の余り驚くことすらできなかった。後ろに、無傷のゲンエイが立っているという、その状況に。
「狂ってしまったんですか、と先程訊きましたねジョバンニ?少し違うと言いましたが…」
ゲンエイは弟弟子の耳元で告げる。笑いながら内緒話や、くだらない冗談を言っていた時と同じに。
「僕は元々こうですよ。狂ったのではなく、狂っているんです。最初から」
バヅンと、爆ぜるような音が響いた。
突き立てられた牙の術具が、螺旋状に目標を抉り取る圧縮大気のドリルを放ち、ジョバンニの半身を内から崩して挽肉状にな
るまで分解した。
「―――!」
悲鳴も出なかった。
頭部と右腕、それを繋ぐ胸の上部を少しだけ残して吹き飛んだジョバンニは、残骸だらけの床にボトリと落ちた。
その目が最期に見たのは、先ほどズタズタになったはずのゲンエイだったモノ。
(あ…。そうか…)
理解した。一歩遅かったが。
(ゲンエイさんじゃなかったんだ…)
そこに転がっている残骸はゲンエイの遺体ではなかった。それは茶色い毛皮に全身を覆われたテナガザルで…。
(エリユース一門の…、ボーデリーさん…)
数年前に姿を消した、他の学派の高弟。風使いと称された術士。
(居なくなった人達は、OZを出たんじゃない。…ずっとOZに居…………)
瞳孔が開き、光を失い、濁る。最期の吐息すら、肺を失ったので無かった。
ゲンエイはジョバンニからトカゲに目を向け、
「おや。もう死んでいましたか、エスメラルダ」
もう息もしておらず呼吸も止まっている事を確認すると、ジョバンニに歩み寄る。そして残っていた右腕を掴み、ズルズルと
引き摺って行き、トカゲの横に並べると、ぞんざいに放り出した。
「ではご機嫌よう!末永くお幸せに!」
陽気な声で別れを告げ、タキシードの優男はホールの外に向かう。
胸から上の一部だけになったジョバンニに残された右手は、尊敬する先輩であり恋人であるトカゲから流れ出た、血溜まりの
中に浸って…。
「やあやあ、今日もせいが出ますね!」
果物を籠に纏め、陳列棚に並べていた初老の店主は、よく知った術士の顔を見て笑い返す。
「なんだいゲンエイ!今日は随分めかしこんでるね!ん!?もしや…」
アグリッパ一門の拠点である島からほど近い、いつも人通りが多い、店が軒を並べた太い通り。ゲンエイの格好を見た店主は、
声を潜めて探りを入れた。このタキシード姿はもしや…と。
「ええ!祝福してください。新たなアグリッパの誕生を!」
笑顔で疑問に応じたゲンエイが、小ぶりな水晶を乗せた手を前に伸ばす。
「そうか!次の学長はアンタ…」
店主は一瞬遅れて水晶に気付き、その表面を走る電流に目を止め、そして聞いた。「いいえ」という声を。
バリバリッと激しい放電の音が、稲光と共に通りを蹂躙した。
至近距離で浴びた店主はひっくり返る前に完全に炭化し、倒れると同時にボロボロに崩れ去った。通りを歩いていた者達は、
近くの者は黒焦げになり、離れた位置の者も無軌道に駆け巡った稲妻によって心臓を止められていた。
死屍累々…ではあるが、被害を免れた者も、かろうじて息がある者もある。混乱の声。悲鳴。怒号。呻き。しかし逃げる者を
追うでもなく、ゲンエイは天に向かって胸を反らし、両腕を広げて、高らかに声を張り上げる。
「新たなアグリッパはヤクモ!ヤクモ・イタマエ!祝福を!我ら自慢の高弟に祝福を!あはははははははははははははははは!」
次いで、そこから離れた位置で火柱が上がった。
術士達が普段意識しない、思念波の流れを一切生じさせないため察知できない、外の世界由来の時限爆弾が、OZの主要区画
を中心に、無数にセットされていた。
「ホールが崩れておる…!」
もうもうと立ち込める埃を、手にした杖の先端で気流操作し、左右に分けて流しながら、アグリッパは瓦礫で半分埋まった出
入り口に近付いた。
空気のゴンドラで着陸した所で、逃げ出していた弟子達に会い、報告を受けて事態の半分は察せられた。が、耳にした内容自
体はまだ信じられない。
だが、ヤクモは連れてこなかった。重傷者も多かったので緊急処置を命じ、ひとりで確認に来た。
(ゲンエイが…、そんなはずは…)
老人は自らの眼で確かめるべく、瓦礫を越える。術によって足を地面から十センチほど浮かせ、浮遊しながら、扉が吹き飛ん
で埋まった、出入り口だった穴へ…。
可能性はいくつも考えた。
何者かがゲンエイに成りすまして凶行に及んだ。
弟子達が見間違えただけで不幸な事故だった。
いくらでも思いつく。違うと否定する理由は。
それでもなお、杖を握る手に力が籠るのは何故なのか。意図的に緊張感をもってホールに入るのは何故なのか。臨戦態勢になっ
ているのは、何故なのか…。
瓦礫を越えて、照明も無くなったホールに降り立ったアグリッパは、杖を水平に素早く振った。その動作と念じるという行為
だけで術が成立し、ホールの天井付近に、裸電球にも似た無数の発光体が出現する。
そこで、老人は見た。
見る影もなく崩れた団欒のホールを。無残な死体となった愛弟子達を。
「………」
老人に表情は無い。言葉もない。ただ、変わり果てた姿になってなお見分けは容易につく弟子達の中に、ひとりだけ、場にそ
ぐわない者が混じっている事に気付き、真っすぐに歩み寄った。
「ボーデリー君…」
自然実践派、地水火風の四代元素と自然界の現象の研究により真理を目指す、エリユース一門の高弟。数年前に姿を消し、出
奔したとされた人物が、無残な死体となってここに居る。
そして老人は、その手で使用したと思しき術具…人骨を加工して作られた禍々しいステッキの残骸に気付く。
禁忌の品。忌々しい呪いの集積体、疑似仙骨。ボーデリーが属していたエリユース派に限らず、OZでこの方向に術具を発展
させている学派は無い。遥か昔に軽く触れられた事はあったが、今は存在していない学派がかつて少し研究した程度である。摩
耗による機能劣化が激しいそれは、外の世界ならば持て囃されもするだろうが、希少な術具を数多く有するOZでは珍重される
ような物ではなかった。何より、その忌まわしい品の「本当の危険性」を、OZの術士は理解できていたから扱わなかった。な
のに、今ここにはそれがあって…。
アグリッパは目を閉じ、意識を集中させる。
激しい衝突が起こり、ズタズタになっている思念波の痕跡。微かなそれを老人は掴み、そして確信する。
「…ゲンエイ…」
目を開いたアグリッパは、口元を豊かな髭ごとわななかせた。
「何故じゃ…!」
ステッキに、そして他学派の高弟の死体に残る思念波の名残は、一番弟子のそれに間違いない。
他の高弟達も、ゲンエイにならば隙を突かれる。いかに優れていようと、身内に奇襲されてはひとたまりもない。
そして老人は視線を巡らせる。
そこに、片腕を胸の一部ごと失ったトカゲに寄り添い、転がっている、赤髪の若者の姿を認め、歩み寄り、屈みこんだ。
微かな痕跡から察した。臆病で気弱だったこの弟子が、最後まで兄弟子に抵抗した事を。
「…エスメラルダを、守りたかったんじゃな…」
濁った瞳に崩落した天井を映すジョバンニ。その瞼を閉じてやりながら、アグリッパは囁きかける。
「キミは、有能で、知恵があり、熱心じゃった…。度胸が無いと自分を卑下しておったが、とんでもない…。ジョバンニや…。
キミは十分に、勇敢じゃったとも…。最期の、最期まで…」
アグリッパは、「一度血溜まりに落ちてから伸ばしたのだろう」、トカゲの胸に乗った青年の、血まみれの手を見遣った。
トカゲは呼吸も心拍も止まっている。ただし、死亡による停止ではなく、正確には限りなく停止に近い緩慢な状態まで、生命
活動が抑えられている。
停滞術。
本人の意思が無く、地脈と同様に扱える状態。ジョバンニは風水師ならではの見地に立った術により、瀕死のトカゲの生体活
動を、地脈を滞らせる要領で緩慢にしていた。
おそらくはその術を途切れさせないために、その手をトカゲの胸に置いて、地脈封じの要石に置き換える事で、停滞術を長時
間継続させる術式の代用にした。
「キミは、勇敢じゃったとも…。勇気を出す時べき時を誤らない、雄々しく凛々しき獅子のようにのぉ…」
アグリッパは生命維持されていたトカゲの体に術をかけて抱き上げると、一度ここへ残してゆく事を、ジョバンニ達に心で詫
び、身を翻した。
「房主!ヤクモ房主!」
肋骨が肺に刺さって喀血している弟弟子の背中に手を当て、術により衣類を固着、ギプス代わりにして保護していたヤクモの
背に、人間の少年が叫んだ。
振り向いた秋田犬の瞳に映ったのは、友人をおぶるようにして両腕を肩に乗せ、それを掴んで運んでくる人間の少年。運ばれ
ている方の少年は足をずるずると引き摺られているが、動きが無い。呼吸も含めて。
「ペーターが!ペーターがっ!」
少年は泣きながら、ヤクモの傍に友人を下ろす。自身も顔の半分に酷い火傷を負っている少年が、
「診てやって下さい!さっきから息っ…、してなっ…!げほっ!げふっ!」
急いで状態を知らせなければと焦り過ぎ、咳込んだ少年の前で、ヤクモは確認した。
もう、死んでいた。折れた椅子の脚が、その鋭く尖った断面で、不幸にもあばら骨の隙間を抜け、少年の胸を貫通している。
さながらパンクした野戦病院のように、地面に負傷者が並べて寝かせられたそこには、ヤクモの他に高弟がひとりも居ない。
ジョバンニ含めて。
手当てする。励ます。指示を出す。その自らの口の動きを、発した声を、ヤクモは他人の物のように聞いている。
ヤクモは、嫌になった。
手当し、措置しながら、選んでゆく自分に。
ああ、これは助からないなと、処置を中断し、あるいは先送りにし、助かる見込みがある者を優先する。口で励ましながら見
切りをつけ、機械的に選別してダメな者を諦める。
命を選ぶ権利が、助かるかどうか判断する権限が、どうして自分にあると言えるだろう。
知り合いの中から助けられる者を判別してゆく、命の取捨選択を、越権と感じて気分が悪くなる。
(ゲンエイさんのはずがない。ゲンエイさんのはずがない。ゲンエイさんのはずがない。ゲンエイさんのはずがない。ゲンエイ
さんのはずがない。ゲンエイさんのはずがない…)
兄弟子がやったという惨事の報告を、ヤクモは信じない。報告に誤りがあるか、見間違いか、とにかくゲンエイがこんな事を
するはずがないと…。
「先生!」
弟弟子が上げた声で、ヤクモはハッと顔を上げた。
「先生…エスメラルダさん!?」
屋外に出てきたアグリッパが抱えているトカゲを目にし、ヤクモは顔から血の気が失せてゆくのを感じた。
「…ゲンエイさんは…?ジョバンニ…」
そっとトカゲを寝かせたアグリッパを前に、ヤクモは言葉を飲み込む。
爆音が聞こえた。いくつも、連続して。
自衛防御機構を狙い撃つように爆発が起こり、OZ中が混乱する中で、ゲンエイは尖塔の先に立って市場を見下ろす。
噴水を中心とした円形に並ぶ店。ヤクモはあそこのパイを好きだったなと、あそこの店主はヤクモを贔屓してくれたなと、思
い出しながら水晶を握る手を眼下に向ける。
エリユース派で構築された雷撃術の一つ。自然現象の雷に匹敵する電光を連続で落とすそれを、解き放とうとした次の瞬間。
「ゲンエイや」
男は眉を上げ、首を巡らせた。
そこに、老人が立っていた。恰幅のいい体を覆うローブを風に波打たせ、蓄えた白髭を横にたなびかせ、宙に設置した、赤い
半透明な1平方メートルほどのパネルに立って。
「何故じゃ…」
深い溜息に悲哀が滲む。凶行に及んだ愛弟子を、それでもアグリッパは信じたかった。
「引継ぎは終わったんですね?ああ良かった!もしも延期にでもなってしまっていたら、タイミングがずれて今一つ締まらない
ところでした!」
ゲンエイの笑顔はいつもと同じ。アグリッパは思い出す。引き取った頃とは違う笑顔だと感じていたのに、と…。
中身のない笑顔。子供の頃のゲンエイを引き取った時、そう感じた。意味も分からず、楽しい訳でもなく、皆がそうしている
のを見て形を真似ている…。そんな印象があった。
望まぬままに術士としてのポテンシャルを秘めて生み出され、しかし不要と判断され、行き場も生き場も、失う以前に与えら
れもしない子供。その才を活かしたいと、術士として、指導者として、感じたのは間違いない。だが、アグリッパがゲンエイを
引き取り、弟子にした理由は…。
「ああ、理由ですね?僕が何故こんな事をしているのか…。単純な事ですよ」
ゲンエイは軽く首を縮めて肩を竦めた。
「僕はヤクモを愛しています。彼を次のアグリッパにし、不必要とした故郷を彼が見返せるようにする…。ええ、ここまでは完
了です。ヤクモ自身の努力と実力で成し得た成果です。素晴らしいですよヤクモは!」
やおら拍手を始めたゲンエイは、しかし始めた時と同じく唐突にやめる。「ですが」と。
「それだけでは足りません。ヤクモを認めようとしなかった不届き者。外の世界の術者と軽んじた者。追い出そうとした見る目
のない者。このOZにはそんな輩が満ち満ちている。ええ、ええ、勿論全ての住民がそうではないと知っていますが、軽く評価
する連中はゼロではありません。それが、我慢なりません」
「皆も、そうかなのかね?我が門下生達、お前の仲間達を手にかけたのも、それが理由なのかね…?」
アグリッパの問いに、ゲンエイは「いえ」と、パタパタ軽く手を振って応じた。何を言っているんですか?というような表情
と仕草で。
「皆は単に障害になるからです。一般門下生の皆はそうでもないのでいいんですが、高弟クラスの実力者は少々邪魔になるので」
とはいえ、巻き添えが出ないようにするような配慮はしなかった。まぁ仕方ない、という判断で、息があって逃げた者は特段
追わなかったものの、それはわざわざ追ってまで殺す必要がなかったからというだけの事。
両手をバッと、勢いよく左右に広げ、ゲンエイは叫んだ。
「だからです!皆の尊い犠牲を無駄にせず!焼きつけなければ!刻みこまなければ!アグリッパとなったヤクモの素晴らしさを!
OZにも!世界にも!知らしめなければ!」
自身の演説に酔う先導者のような熱を持ち、ゲンエイは恍惚とした表情を浮かべ…、一転して表情を消す。
「誰一人としてヤクモを馬鹿にする事は許さない誰一人としてヤクモを軽んじる事は許さない誰一人としてヤクモをコケにする
事は許さない誰一人としてヤクモを追い出す事は許さない誰一人としてヤクモを傷つける事は許さない誰一人としてヤクモを殺
す事は許さない誰一人としてヤクモを所有する事は許さない誰一人としてヤクモを愛する事は許さない」
「まさか…」
アグリッパが呻く。ゲンエイの目的に察しがついた。
彼の目的は、たったひとりの「特別」を、誰にとっても「特別」にする事。この惨劇はそのために…。
「ヤクモは僕の物です。皆がヤクモを見つめる事は認めましょう。しかしヤクモは僕だけを見つめるのです。ヤクモは僕のもの。
僕だけのもの。名だたるお歴々の中でなお輝く、偉大なるアグリッパ!それが僕のヤクモ!だから!」
だから世界に刻み込む。消えない焦げ跡のように、消せない傷跡のように、深く、深く、くっきりと。
「ヤクモに晴れ舞台を、活躍の場を与えなければ…。そのためにも悲劇は必要です。被害は必要です。判りますよね先生?」
熱に浮かされたように朗々と謳い上げるゲンエイを、アグリッパは哀しげな眼で見つめている。
かつて、幼い頃にゲンエイを引き取った理由は、哀れに思えたからだった。
楽しみを、幸せを、喜びを、愛を、不要とされた子供に教えてやりたかった。
あの中身のない笑顔が、普通の笑顔になるように、アグリッパは面倒を見てきた。
そして、ゲンエイの笑顔は変わっていった。少しズレた所はあっても、皆と笑い合い、学び合い、ゲンエイはよく喋るムード
メーカーになって行った。
だから勘違いしてしまった。笑顔の質が変わったのではなく、笑顔を上手に作れるようになっただけ。その真実に気付けず。
(ただの勘じゃったが、ヤクモを残して来て正解じゃった…)
「私が話を聞いてきます!」
数分前。ゲンエイらしき人物が住民を無差別攻撃していると、他の学派から連絡が入った時、ヤクモは負傷者の手当てを中断
してアグリッパに直訴した。
「ヤクモや…」
「きっと何かの間違いです!誰かがゲンエイさんに成りすましているとか…」
「ヤクモ…」
「ゲンエイさんはあんなに皆を可愛がっていたじゃないですか!皆と仲が良くて、いつも中心に居て…」
「ヤクモ」
「せめて話を聞きに」
「ヤクモ!」
一喝され、秋田犬は気付いた。いつの間にか師に詰め寄って、その両肩をキツく掴んでいた事に。
「よいかね、ヤクモ」
肩を掴んでいた弟子の手を取り、そっと下ろしながら、老人は真っすぐにその目を覗く。
「キミはここで皆の処置を続けなさい。絶対に、ついて来てはならんよ。判ったね?」
ゲンエイはもう「違う」のだと、アグリッパは嫌でも悟らされた。
思考は論理的で、しかし非人道的で、精神性はひとから乖離し、何より…。
(思念波が濁っておる…。生きているヒトの物では、既にない…)
何が原因でそうなったのかは判らないが、ゲンエイのそれはもう、ひとが放つ思念波とは質が異なる。アグリッパだからこそ
判る違いだが、些細なようで、もう不可逆の変質を遂げている。
彼を強く慕っていたヤクモが知ったら、どれほどの衝撃を受ける事になったか推し量れない。
塔の先端に立つゲンエイと、対峙するアグリッパを見上げ、住民達が騒ぎ始める。
状況把握と事態鎮静化のため、各学派の長が各々の島の上空に姿を見せる。
OZの眼という眼が集まる中…。
「ゲンエイや…」
アグリッパは、これを自分が果たすべき最後の責務とし、腹を括った。好々爺の顔は、決意と沈痛さで無表情に変わっている。
「ワタシはお前を、息子のように想っておったよ」
ゲンエイは微笑む。
「ええ、はい。僕も慕っています。我が師、我が父、コルネリウス」
それは本音である。本心からの言葉である。父を知らぬまま、しかしきっとこういう物であろうと、ゲンエイはアグリッパを
師であり家族であり父であると、大切な人物であると認識している。
多くの弟子の中で、師が自分に対してだけ「お前」と呼びかける事にも気付いている。
数多の門下生の中で、自分にだけ助手のような近しい事を任せる事にも気付いている。
その上で、現在の目的と比較して、アグリッパは大切さでヤクモを下回ると判断した。
「しかし我が師。僕は名を変えます。ゲンエイではなくなる一報は、改めてお送りするつもりでしたが…。まぁこれもいいタイ
ミングですので…」
コホンと、ゲンエイは咳払いした。
「僕は「ファントム」。今日よりそう名乗りますので。ええ」
名を捨て、名を付け替え、決別の意を示す男に対し、アグリッパは手にした杖を、そっと掲げた。
「これは…。そうですかそうですか!」
ファントムの顔が喜色に染まる。期待、そして歓迎、そんな感情で。
樹齢九千年の古木から枝を分けて貰って作ったその杖は、生きているその状態では、親元である巨木その物の強大さを繋がり
によって保つ、逆説転換術が施してある。先端に埋め込まれたゴルフボール大の真っ赤な宝玉は、アグリッパ自身の思念波を蓄
積した電池。現行人類十数万人分の不朽の祈りにも匹敵する量をため込んだ、バベルすら単独で起動して余りあるほどのエネル
ギーの結晶。
世界最高峰の術具。しかしそれ自体には何の術も仕込まれていない。
「西の赤金、東の黄金。北に金冠、南に銀靴…。茜に染めよ六つの塔。赫々たる幕を引け。我が名はコルネリウス・アグリッパ。
ここに盟約の履行を求めん」
その静かな囁きは、外の世界などでは詠唱、呪文などと称される、音声化された術式。しかし単に唱えればよいという訳では
ない。アグリッパが用いるのはひとの言葉ではなく、ワールドセーバーが用いた圧縮言語。それ自体が膨大な情報量を持つ力あ
る言葉。それらが形容し、表現し、表出させる現象を、アグリッパは思念で操作する。
「ああ、やはり美しい…!」
ファントムの顔は赤々とした光を浴びて、強く照らされている。
アグリッパの頭上、右肩上方、右下方、下方、左下方、左上方に、赤い、赤い、輝く結晶体が出現している。
それぞれは、2メートルほどの長さで、幅20センチ厚み5センチ程の、半透明な深紅の板が、二つ上下に面を向き合わせた
形状。鉄骨の中心から接合部を取り除き、向き合う板だけにしたような姿にも似ている。
正面から見て、線で結べば六芒星になる配置で静止している合計6組の板は、純粋な思念の結晶。
思念波の純エネルギー化を経た先、物質化現象。例えばラグナロクなどが、ヴァルキュリアという一種の合成レリックヒュー
マンを産み出し、専用の脳と能力を備えさせてようやく実現させたその現象を、アグリッパは生身の体で引き起こし、行使する。
OZに住まう、真祖の術士達の頂点。生きる伝説グランドメイガスの一人。…その肩書きは大げさであるどころか、質素に過
ぎる過小な物。いかなる言葉を尽くそうと、奇跡の体現者たる彼を正確に語る事はできない。
アグリッパが杖を前へ差し伸べ、先端でファントムを示すと、赤々と輝く結晶体の、平行に向き合うその間に、より濃い、重
い、眩い結晶が生じた。
それは、周囲の景色が歪んで見えるほどの重力場を伴う、超高密度の圧縮結晶体。
向き合う板は砲身。間に浮遊する結晶は弾。これは、構築した超構造たる思念波結晶体を用い、それに電磁加速を施す事で放
つ、いわゆる六連装ハイパーベロシティ。
「セグメンツコラプス…ロータリーボルツフルセクション。各砲加電圧臨界。砲撃準備、並びに照準よろし」
アグリッパを中心に、ファントムに狙いを定めたまま旋回する六基の砲身が、赤く放電しながら一周して円を描く。用意した
砲身をもってさらに陣を構築し、円筒状のフィールドで射線を空間隔離。その余波でOZを傷つけないよう、ファントムを中心
にした直線軌道だけを破壊対象に捉える。
「…ってい!」
砲撃命令を下したアグリッパの声は、苦汁で満ち満ちていた。
開放型電磁加速砲による、六発の礫の同時発射。赤い閃光が直線で伸び、ファントムを飲み込み…。
「素晴ら…」
ヂッ…。そんな短い音と共に、赤光に飲まれた影は塵と消える。防御用の術、その三重の守りを抵抗なく突き破られて。
無限の星空の彼方まで伸びた赤光は、発射時と同様にすぐさま消え失せた。この砲撃では、ダイヤモンドすら上回る硬度に圧
縮された思念波結晶の弾丸すら、摩擦熱で瞬時に燃え尽きるため、刹那の、瞬きにも満たない時間で、その工程全てが完了する。
「…ゲンエイや…。こんな…!」
呟いたアグリッパが、足場にしていた思念波パネルの上で項垂れる。
前方には、もう何もない。そこに居た存在は影も形も残らず、塵に変わっている。
愛した弟子の死の瞬間など見たくなかった。愛した息子の死体など見たくなかった。だからこそ、いかなる守りも貫いて消し
飛ばす術を、アグリッパは選んだ。
強烈な疲労に襲われ、肩で息をする老人の、伏せて影が落ちた顔は、誰からも見えない。
ざわめきが聞こえる。どよめきが聞こえる。その全てが遠く…。
「お見事です!最高峰の術、その対象となるのは得難い経験でした!」
「!?」
顔を上げ、振り向く。その驚愕した目が映したのは…。
「ゲン…エイ…?」
ブヅリ。
「どいて下さい!道を…、道を譲って…!」
石畳を走り、逃げる人々に逆行し、ヤクモは広場に至る。
言いつけを破ってしまったが、居てもたってもいられなくなった。
人ごみに阻まれ、見上げた先には師の姿。
赤い光の筋が一瞬夜空を横切り、そして消える。
何かの影が、赤い閃光の中に消え去ったのが見えた。
「………」
立ち尽くすヤクモ。師が誰を討ったのか、考えるまでもなく判った。が…。
「…え?」
誰かの疑問の声。同時にヤクモも気付き、混乱した。
項垂れているアグリッパの後ろに誰かが立っている。
否、彼はそこにずっと立っていた。なのに今まで意識が向かなかった。
まるで、それまでは何でもない無機物に見えていた物が、命を得て動き出したように、見上げる全員が、その瞬間にソレが何
なのか気付いた。
「先生!ゲンエ…」
ヤクモの声が終わらぬ間に、振り向いたアグリッパは、ファントムが手にした剣牙虎の短刀で、腹を刺されていた。