ブリキの木こり
「………」
目の前の、弟子だった男を、老人は見つめる。
(ぬかった…)
腹を刺されたアグリッパは、至近距離で相対したその時、初めて気付いた。
仕留めたはずのファントムが無事だった、この状況。
先にホールの惨状の中から確認した弟子の思念波の痕跡と、行方不明になっていたはずの他学派の高弟の死体。
(ゲンエイ…、お前は、禁術を…)
微笑むファントムの顔を間近で見ながら、アグリッパは秋田犬が自分の名を呼ぶ声を聞き…。
「先生!」
ヤクモは叫ぶなり巻物を展開し、自分を砲弾のように打ち出した。突風で周囲の人々がなぎ倒されたが、配慮している余裕す
らなかった。
パキンと、澄んだ音を立ててアグリッパの足場になっていた赤い思念波結晶が砕け散り、老人が落下する。
飛翔制御でその落下コースに入り、一瞬だけ防風障壁を解除し、抱き留めて、術の制御をし直して着陸する。が…。
「先生!先生!?」
腕の中のアグリッパは動かない。呼吸も、鼓動も、止まっていた。
「苦しくはなかったはずだ。内臓を停止させたから、たぶん」
「!」
ヤクモの身が強張った。
すぐ後ろから聞こえた声は、馴染んだ、兄弟子の物…。
「ゲンエイさん…!」
「「どうして」、と聞かれても君だけには教えないよヤクモ。今はまだ」
老人を抱いたまま、屈んだ姿勢で首を巡らせ、振り返ったヤクモは、そこに「今までと同じ」兄弟子の笑顔を見る。
「さあ、どうしたい?」
ファントムは問う。
「僕は仲間達を殺し、師を手にかけ、OZの住人達を殺した。さあヤクモ、どうしたい?」
「………」
無言のヤクモの頬を涙が伝い落ちた。
それを見たファントムは、「ふむ…。まだ足りないか…」とひとりごちて…。
その頭部が、真っ白になってから砕け散った。
手にしていたタクトのような術具を手放し、棒のように倒れた。
ハッと視線を巡らせたヤクモは、そこに漆黒のローブをはためかせる、妙齢の黒猫の姿を認める。
「ベザレル師!」
グリーンの瞳を静かにヤクモへ向け直し、次いでその腕の中のアグリッパを見遣ったのは、グレートメイガスのひとり、ベザ
レル派の学長を務める黒猫の女性。小柄で細身ながら、その存在感は圧倒的だった。
「気を抜くな、房主」
対象の頭部を冷却の矢で射貫き、瞬時に凍結させて破壊したベザレルは、術の起動によって指輪が輝いたままの手で死体を示
した。
「いましがた届いた師の念話によれば、「ゲンエイに見えるモノ」は数多くいる」
ヤクモは息を飲む。
言われて気付いた。頭部を粉砕されて死亡したソレは、兄弟子とは背格好からして違う。尻尾がある犬系の獣人の死体だった。
「幻術!?…いや、違う!思念波の残滓…、これは…!」
感知した物を分析するまでもなく、直感したヤクモは、少し離れた所で上がった爆発音で耳を伏せた。
そこにも、ファントムが居た。石板型のグリモアを手に、火球を放物線軌道で発射し、広場の群衆を吹き飛ばしている。
しかし、それを真っ白に光り輝く槍を投射し、上空から舞い降りた熊の獣人が仕留める。
次いで、そこからまた少し離れた場所にファントムが姿を見せ、図書館を大規模振動波で倒壊させようとしたが、これをロマ
ンスグレーの髭を綺麗に整えた痩身の老人が、空から雷を呼び落として打ち倒す。
非常事態と判断し、各学派の長は一斉に鎮圧に動き出していた。
が、殺しても、殺しても、ファントムは居る。各学派の長が何度仕留めても、ファントムはその都度現れる。
(全部「実体」だ…。でも、ゲンエイさんじゃない。話した相手はゲンエイさんだったけど「ガワ」が違うんだ…!他人を操っ
てる?…媒介は思念波?でもそんな事が…)
ヤクモはアグリッパに視線を落とす。目を閉じてなお無念を語るその顔を見つめ、ギリリと歯を食いしばった。
グランドメイガスの鎮圧を受けてなお、破壊活動は鎮静化しなかった。
そして次第に、無数のファントムが倒された後に晒す死体によって、その異様さが浮き彫りになっていった。
仕留めた後に残された死体は全て、行方不明になった術士の物。そしてその体からは、ひとの骨で作られた握り拳大のキュー
ブが見つかった。
思念波受信装置。胴に埋め込まれたそれが、死体になった術士達を操っていた。
OZ中のあらゆる地区が安全ではなくなり、破壊音が響き渡る中、ヤクモは弟弟子達の所に一度戻り、アグリッパを預け、自
分が戻るまで居住塔内に籠って門を閉ざすように指示した。
元々この塔は空間を折り畳んで居住スペースを確保した、不連続空間の密集体。外壁がいかに破壊されようと、個別の空間は
影響を受けない。一度内から閉ざせば非常に強固な隔離シェルターと化す。
「房主…」
心配そうな顔を向ける少年の頭を軽く撫でて、ヤクモは囁く。
「私が帰るまで、皆で塔の中に隠れているように…。出て来てはいけないよ?いいね?」
踵を返したヤクモは、待っていた黒猫と並び、巻物を取り出す。
「…つまり、奴が使う禁術というのは…」
「はい。人格転移…かつてのグランドメイガス、「魔人ロキ」が実用化した禁術…その係累に属するものだと思います。ただ、
単純に同じという訳ではなく…」
人格転移術が禁忌とされたのは、これを行なうことによって精神、魂、ひととしての自我などが損なわれるから。おそらくだ
が、兄弟子はこれを「憑依術」のように、自分の思念や人格を「器」に送信する術に組み直した。この術においてファントムが
飛ばした意識を「器」側で受信する装置が、死体に残っていたキューブ…その質に特化されたグリモアである。
ヤクモがそれに思い至れたのは、師から伝承されたアグリッパの叡智のおかげ。あの本には意識の転送にかかわる術の詳細こ
そ入っていなかったが、二代前のアグリッパが当時の事件と術式の推測を記録していた。これを情報検索し、記述を引き出して
推測したのである。
「ただ、それだけ転移を繰り返せば…」
ヤクモが黙り込み、ベザメルが顎を引く。
「精神は既に、ひとのものではあるまいよ」
術で飛翔したヤクモを見送り、黒猫は視線を巡らせた。OZ中が混乱している。無数のファントムを排除するため、グランド
メイガスはローブを翻して歩き去る。
「さて、何人殺せば打ち止めになるのだろうな…」
四時間が経過した。
尽きないファントムは幾度も現れ、グランドメイガス達にも疲弊が見えた。
港の前で、タキシードの男は呟く。
「そろそろ十分か…」
小型の船舶を背後に呟いたファントムは、頭上に視線を向けた。
風を切る音。接近して来る影。
心配したが、大丈夫だったらしい。姿を見なくなったので、ショックが強すぎて何処かに籠ったのかもしれないと思ったが…。
「それでこそ、だ」
バフゥッと強風が地面を駆け抜ける。降下してきたヤクモは、巻物を収納して袖に入れ、ゲンエイを見据えた。
「ゲンエイさん…」
泣き腫らして赤くなったヤクモの顔を見つめ、ファントムは笑う。
「覚悟は決まったかな?アグリッパとしての責務を果たす、覚悟は」
ヤクモは取り出した巻物を握り締め、確認した。
(あの術具…)
ゲンエイの手には、剣牙虎の短刀が握られている。
ヤクモは気付いていた。アグリッパを刺した時に使用していたが、ゲンエイが本来使っている術具は、あの仙骨の短刀。
(討たれたゲンエイさんは全員、あの術具を使っていなかった。本体は…)
ヤクモは無数のファントムではなく、アグリッパ派の宝であるこの術具の反応を、時間をかけて追跡した。ジョバンニが構築
した精神波伝達用のネットを使い、反応があった区域を絞り込むことで移動ルートを突き止めた。
(もう、ゲンエイさんじゃない…)
思念波が変質している。先に会った時とも既に異なる。
(全部の術士の死体が一斉に動く訳じゃない。中身は常に一人…。つまり、本体からその都度人格を転移させ、やられたら戻し
ている…。たくさん居るように見えるのは錯覚…。おそらくそういう術だ)
あの術は、結局禁忌にはなったが、死者の蘇生を目指した研究の副産物だった。死者の意思を、魂を、器に移し替える事で蘇
生させようという研究の…。今ファントムが用いているそれは、蘇生ではなく延命…「何度でも死ねる術」となっている。何と
も皮肉な歪み方と言えた。
どちらにせよ、その術を編み出した「魔人ロキ」と同じく、ゲンエイはOZに牙を剥き、甚大な被害を与えた。
どう扱おうと倫理観は無事ではない。それがこの術の根底にある。
ファントムの秘密を看破したヤクモは、袖に手を入れつつ体の震えを自覚した。
(私はっ…!!!)
今になって判った。ようやく理解した。こんな時になって…。
(ユウヒ様…!貴方は、こんな…!)
かつてユウヒがどんな気持ちでキリグモを討ったのか。
そんな彼の心情を理解しようともせず、自分はただ怯えた。
己への失望と、状況への絶望。それらが、ヤクモの瞳を真っ黒に濁らせる。
「おや」
ファントムは、ヤクモが袖から取り出して放った、白い石のチップを見つめる。
地面に落ち、乾いた音を立てて転がったそのチップは、緊急隔離術式は展開していないが…。
見上げるヤクモ。見下ろすファントム。
それは、OZの術士達の作法による一対一の術比べ…「決闘」の申し込み。
「ほう…!素晴らしい!」
ファントムが喜色を浮かべて顔を笑み崩した。
体の震えがおさまった弟弟子の目にあるのは、殺意。
明確な、堅固な、使命感に支えられた、殺意。
はじめて見せた、とびっきりの、殺意。
「よろしい!では改めて名乗るとしよう。君がアグリッパとなるように、僕もまた今日より名を変える。「ファントム」と!」
喝采を求めるマジシャンのように、左右に大きく手を広げたファントムは、高らかに笑い声を上げた。
「ははははははははは!さあ殺し合おう、我が愛しの「アグリッパ」!」
秋田犬の手が水平に弧を描いた。その指先が展開された巻物の面をなぞり、即座に火球が10発、ヤクモの全面へ扇状に配置
される。
「十重ね扇鳳仙花(とがさねおうぎほうせんか)!」
自分の家の術をOZの技術で焼き直した物。発生した火球は四方八方へでたらめに飛んだように見えたが、それらが一定距離
飛翔後に停止、ファントムめがけて急激に角度を変え、加速して突っ込んだ。
全方位からの同時攻撃。それも、バレーボール大の火球は着弾と同時に爆発し、半径10メートルの限定空間で燃焼する術。
いわば、命中した地点を中心に溶鉱炉を作り出す術なのだが、これは様々な金属を加工するためにヤクモが追求した、工業用の
術を戦闘用に転化した物。貴金属も溶解させるソレは、生物が浴びればひとたまりもない。
「ははははは!正確!的確!よろしい!よろしいよろしいよろしい!」
声は、熱で風が唸った上空。ひとの身でそんな移動に耐えられるのかと、疑わしくなる高速移動で、ファントムは爆炎の範囲
から脱出している。
「では…、それ!」
腕を振るうファントムの、握り締められた短刀が、ヤクモめがけて固形化した風の棘…大きな氷柱のような円錐状のニードル
を放つ。しかし…。
「追加起動!」
ヤクモが手翳しすると、球体状に制御されていた燃焼範囲が、柱状に変化する。高熱と紅い炎が躍り上がって、ニードルと接
触し、その圧縮された空気を燃料にして爆発を起こした。
「素晴らしい!さあもっと!もっと見せなさいアグリッパ!君が積み重ねた力を!君が磨き上げた技を!君が手に入れた智を!
さあ今ここで!」
「…出なくなったな」
黒猫は周囲を見回していた目を、足元に向ける。
そこには中年の人間男性が、下半身の無い死体となって倒れ伏していた。
(本体、あるいは発信元、とにかくヤクモ房主は首尾よく見つけたらしい。あとは加勢して…)
ピクリと耳を動かし、ベザレルは港の方向へ目を向けた。
「何だと…!?」
天を衝き、垂直に伸びる光柱。荒れ狂った高圧電流が龍のように昇天する。
グランドメイガスの奥義に匹敵する規模の大魔術である。
「急がねば!」
何が起きているのか判らない。あれがどちらの術なのか判らない。ただ、嫌な予感を覚える稲妻の印象から、ヤクモの術では
ないと感じただけ。
袖から小型の絨毯を出し、空へ躍り上がったベザレルは港を目指す。
(遠い!よりによってあんな位置とは!)
パチッ。バチチッ。と地面を細い電流が走る。
膝に手をついて項垂れたヤクモの鼻先から、ポタポタと汗が滴るが、防御フィールドを出た瞬間に蒸発して消え去る。
港は壊滅状態になっていた。石畳は砕け、所により融解し、赤くなってグツグツ煮えている部分すらある。
秋田犬の周囲には、過剰駆動によって芯だけ残して燃え尽きた巻物が何本も転がっている。
善戦はした。だが、戦闘という点においては、ファントムが数段上を行く。
思念波の強度、術の冴え、殺傷力、そして防御反応…。単純な出力のみならず、直接戦闘への適応力でヤクモはファントムに
及ばない。
さらに、ヤクモが高弟認可を受けた時に希望して得た術具は、作業に便利な術が多数詰め込まれた石のネックレスで、高性能
ではあるが殺傷力は皆無。ファントムが持つ術具とは比較にもならない。
「素晴らしい!ここまで食らいつけるとは!」
拍手しているファントムは、そこだけ無事な街路灯の上に立っていた。
見渡す限り破壊し尽くされた港。その半分はファントムの仕業だが、あと半分はヤクモの術によるもの。自身でも把握してい
なかったが、秋田犬は体得した術の数々によって、その気になれば大都市を瞬時に崩壊させるほどになっていた。
ヤクモは顔を上げる。真っ黒に濁った眼で兄弟子だった男を見上げる。滂沱の涙を流しながら、しかしその顔は無表情だった。
湧き上がる、無数の思い出。脳裏をよぎるその一つ一つを、ヤクモは殺してゆく。
仕方がないのだと、己が為さねばならないのだと、自分に言い聞かせて心を殺してゆく。
あたかも、かつてのユウヒに近付いてゆくように、その心は石のように固くなり、冷たくなり…。
(思念波が…枯渇する…)
冷静に考える。押し切るにはスタミナが足りない。既に頭の芯に蕩けるような痺れが生じ、脳が休息を求めている。
様々な高弟の体に精神を移動させてきたファントムは、各派の強力な術をいくつも習得していた。元々実力では上だった兄弟
子に、ヤクモが勝てるのは…。
(知識なら、借り物でなんとか…)
袖の中で分厚い本…アグリッパの証であり一門の宝、フィロソフィアを握る。
既にフィロソフィアはヤクモの預かり物。視線を通さずとも触れてさえいれば知識は読み出せる。目ではなく感覚で情報を受
領し、即座に方法を模索する。有効な術は無いか、打開策は無いかと。しかし、名案が見つかったとしても「先立つ物」がない。
(思念波蓄積器も全部使い切った…。私自身の思念波では話にならない…!)
フィロソフィアに貯め込まれた歴代の知識のお陰で、手は思いついた。だが、思念波が足りないので実行できない。
―ヤクモ―
ピクンと、耳が立った。馴染みの声がすぐ傍で聞こえて。
(ジョバンニ!?)
―動かないで―
顔を動かそうとした瞬間に制止され、ヤクモは傍らに立つ友人を目だけでそっと伺う。
(ジョバンニ!それ、どうなって!?まさか…)
口元で指を立てるジョバンニは、薄っすらと紅い半透明。いつもの制服姿のまま、服も体もまとめて透けている。
―ヤクモにしか見えないようにしてる。気取られないように振舞って―
(「思念体」!?いつの間に体得したの!?)
驚きを隠せないヤクモ。これは思念波を放出し、肉体から離れて幽体離脱のように行動する、アグリッパ派の奥義。全てのア
グリッパが使えたわけでもない、秘儀の中の秘儀と言える奇跡の御業である。
―ギリギリね。とにかく生身じゃ来れないから…。詳しくは後で―
ジョバンニは今、実体を持たないものの、物を見聞きして、接触した相手には念話で意思疎通できる状態。今はジョバンニが
そう望んでいるため、ヤクモには見えているが、ファントムとは波長をずらして存在を隠している。
―打開策、何か思いついたんでしょ?―
(思念波が足りないからどうしようもないけど)
―何だ、そんな事―
(そんな事って…)
軽く言ってくれる友人に、ヤクモは文句を言いたくなり…。
―それを何とかすれば、行けるんだね?―
(まぁ、ね…)
―判った。任せたよ―
(任せたって…)
―設備に回してるライン、備蓄思念波、メンテナンス用の経路でOZ中から全部かき集めるから―
(!!!)
ヤクモはハッとした。ジョバンニはメンテナンスキーを持つ。OZのインフラを支えた彼は、そのラインを風水における地脈
の要領で操作できる。つまり、OZ中の様々な品や設備を自動で稼働させている備蓄思念波を、緊急徴収する事も可能。
―よし、確保はいけそう。大丈夫?―
(大丈夫じゃなくても…、やるしか…!)
膝を叱咤して立ち上がり、ヤクモはゲンエイを見据えた。
思念波が集まって来る。OZ中で街路灯が瞬き、消える。
かき集められたそれを、秋田犬は巻物を展開しながら練り上げる。
真っ白な、何もない、即興で術を構築するための裸の巻物へ、人差し指をきつく噛んだヤクモは、己の血その物を組み込んだ
術式として、指で綴って構築する。
「まだ見せてくれるのか!それでこそだ!」
高らかに笑うファントムは、しかし判らない。無表情で涙を流す弟弟子だった秋田犬が、どんな気持ちで自分と相対している
のかが、さっきからずっと判っていない。
どこまでも離れてゆく、誰よりも親しかった、ふたりの決別。
秋田犬は流れるように短時間で式を書き上げ、間に合わせの補助術具とした巻物の表面に手を添えた。
「八雲断つ…」
枕詞は決めていた。
ボッと、音を立てて巻物が一瞬の内に燃え尽きた。ヤクモが翳した手の先に、ドーム状に障壁が展開されている。秋田犬得意
の防御術の応用だが、しかしそれは、今回は主とする目的が異なる。
「射抜きて照らし、穿ちて注ぐ、重ねの陽…」
前へ翳した左手でその障壁を保持し、ヤクモは右手を手首の近くに添える。何かを掴むように軽く握って。
その間にも、透明だった障壁は、その表面に阿弥陀クジのような、幾何学的で不規則な赤い光の線を、キンッ…、キンッ…と
音を立てながら浮き上がらせてゆく。
それは術式。外の世界では魔法陣などとも呼ぶ、陣形が成す術式。大規模な術の行使などを支えるその形式を、ただし今のヤ
クモは、複数重ねて使用した。
線が無数に障壁に刻まれ、陣が無数に重なり、障壁全体がどんどん赤くなる。
先の巻物は障壁をキャンバスにしてこの陣を組み上げるための物…術式を組み上げるための術だった。ヤクモの狙いは圧縮積
層型魔法陣とでも呼ぶべきこの術式を用い、口頭で組み上げた音声術式を併用して、これから放つ術にある。
「………」
ファントムの笑みが消えた。一閃した短刀が、距離を無視して障壁に切りつけたが、破壊するには至らない。
その理論は、七万五千年前に発案された。
その推測は、六万二千年前に立てられた。
その検証は、二万九千年前に行われた。
その理屈は、二万千年前に凍結された。
その秘術は、四千二百年前に掘り起こされた。
その仮説は、二十九年前に確認された。
そしてこの術は、今日この時に完成した。
障壁は、陣を構築し術を打ち出す、加速器であり圧縮レンズ。
秋田犬が受け継いだ、叡智という名の弓に番える事を選んだのは、主家筋で奥義とされる御業を思い描き、術理だけは組み上
げていた物…。
だが、即興で構築した術である。洗練されておらず、完璧には程遠い。
その危ういバランスを見抜いて、ファントムは剣牙虎の短刀を真っすぐ障壁に向ける。
ガィンッと音が響き、ヤクモの眼前で火花のように白く光が散る。
―頑張ってヤクモ!―
歯を食いしばって踏ん張るヤクモの背を、ジョバンニが支える。思念波をかき集めての供給は一度きり。ここで崩されたらも
はや打つ手がない。
「想定外の強度だが…」
ファントムが短刀を振り上げる。一点集中で破壊は可能。崩しさえすれば不発に終わる。
しかしその時…。
「セグメンツコラプス…」
アグリッパ派の塔、その窓から身を乗り出した老人が、深紅の板を二枚、眼前に浮遊させていた。
「ロータリーボルツシングルセクション!」
「先生!無理しないで死んじゃいます!」
弟子達がその太い腰にしがみつき、乗り出しているアグリッパを支えている。
「何の!弟子の後始末を見届けねば、ゆっくり死んでなどおれんよ!」
ローブの上から雑に締め付けて圧迫止血した腹からは、包帯に血が滲んでいるものの、腹を短刀で刺されたにしては出血量は
少ない。
ファントムだけが知らなかったが、アグリッパは生きていた。それどころか生命を脅かすような深手にすらなっていなかった。
心停止していたのは確かなのだが、アグリッパを刺した術具そのもの…剣牙虎の短刀側に原因があった。
かつて、アグリッパにあの短刀の素材となった牙を譲った者…剣牙虎の仙人は、自らの牙が友人の命を奪う事のないよう、自
らの牙に、上書きも消去も不可能なマスターコードとも言える術を刻んでいた。
それは、自らの体の一部という特性を利用した自己呪縛。「我が牙は決してアグリッパの命を奪わない」という物。因果すら
無視して結果をはじき出す強力な仙術であるが故に、あの牙でだけは何があろうと絶対にこの老人を殺せない。
「照準よろし!ていっ!」
弟子達に体を支えられながらアグリッパが放った電磁加速砲は、その一瞬で港に到達し、ファントムの右腕を付け根付近から
手首まで吹き飛ばした。
剣牙虎の短刀を握った手だけが、クルクルと回りながら飛んで行く。
「…我が師…、生きていましたか…」
ファントムが失われた右腕をまじまじと見ている間に…、
「其は日輪の化身足れ。解き放ちたるは我が号令、蒼穹染める呪詞(のりと)なり」
秋田犬の術は準備を完了した。
ヤクモが何かを掴むように握った右手を、顔の横まで大きく引く。その動作に連動し、陣を真っ赤に染め上げた光が中心へ集
中し、爆縮により生成された高密度純エネルギーが中心の一点で眩く輝く。
その様はまるで、弓に矢を番えて引き絞る、射手にも似て…。
それこそは、ヤクモが術理で再現した神代家の奥義「轟雷砲」。術式としての名、及び開言は…。
「「烈日(れつじつ)」…」
涙が、一陣の風に乗って散った。
秋田犬は、顔の脇まで引いた右手を開いた。掴んでいた物を放つように。
光が金色に変じて障壁型レンズの全面に広がって満ち、そこから2メートル半に及ぶレンズの直径そのままの太さで、光の奔
流が迸り、彼方まで道を繋ぐ。
「………」
一瞬驚いたような顔をしたファントムは、次いで満足げに微笑んで…。
これは、数年前の事。
「そう。ヤクモが死んだら困ります。たぶん悲しい。いや滅茶苦茶悲しい。流石の僕も塞ぎ込むでしょう。皆だってそうですよ
きっと。ですから、万が一に備えるこれは、まぁかなりアレではありますがとりあえず正しい方法だという事にします」
封印された屋敷の実験室。ゲンエイはひとり呟きながら、掌に乗せた小さな正四面体を見つめていた。
ベッドの上にベザレル派の高弟の姿。既に事切れている彼は、かつてヤクモとジョバンニに文句を言い、決闘でゲンエイに負
かされた狼である。
「暗殺とか物凄く嫌らしい事を考えてきますからね。いくら僕が人でなしで嫌な事を考えるのが得意な外道でも、限度がありま
す。どこで裏をかかれてヤクモを傷付けられてしまうか、判った物じゃありませんからね、困った困った」
眉一つ動かさずナイフで狼を開腹手術し、手製のグリモアを埋め込む。
「ヤクモの危険を減らし、もしもヤクモに何かあった時のための備えをする…。一石二鳥とはまさにこれです。おや?意外と素
晴らしいのでは?この思い付き」
歌うように独り言を漏らしつつ作業するゲンエイ。
天才だった彼は、残された物から人格転移の秘術を、不完全ながら再現した。
そして自らでそれを実験した。いざとなって使う時に、大切なヤクモに何かがあっては困るから。
そうして実験を繰り返すうちに、ゲンエイは転移先の肉体から記憶を得られて、術が勉強できるという、副次的効果の利点も
活用し始めた。
様々な記憶。知識。思考形態。思想。価値観。
そういった物を蓄積してゆく中で、「かつてゲンエイだった集積精神体」は考えた。
ヤクモ自身が立派になれば襲われないのではないか?実力者になれば危険もなくなるのではないか?何か手柄を立てれば一目
置かれるのではないか?
そして、いつからかそちらを最優先の目標とした。
転移術の研鑽はやめた。もしも彼に使ったらヤクモがヤクモでなくなってしまう事は、身をもって理解できたので。
年月を重ねて術を洗練させ、幾多の知恵と記憶にゲンエイという個が飲まれて薄れ、それでもなお、残ったのは…。
ヤクモだけが、特別だった。
空っぽの胸にハートをくれた。
会ったあの日に自分は生まれた。
それは愛なのだろう。自分がどうなっても良い、自分がどう思われても良い、自己犠牲すら厭わない愛。
ただ、その愛は一方的で、ファントムには考える事ができなかった。相手がどう思うか、どう苦しむか、理解する以前に考え
る事ができなかった。
だからそれは、愛と呼ばれるものの一種だったとしても、到底ひとの身では理解も共感もされないものだった。
術の乱用で異常をきたしたのは、きっかけではあっても原因ではない。元々「そう」なのだから。
もしも演技を続け、装う事をやめなければ、ふたりの関係は穏やかに続いたのだろう。虚偽の平穏に彩られ、いつまでも変わ
らず、平和に…。
「……………」
称賛と歓喜と共に、ファントムは光に飲まれて消える。粒子レベルまで分解されて、瞬き一つの間に、跡形もなく。
駆け抜けた閃光は、OZの無限の星空に穴を穿ち、丸く、区切られた青空を覗かせる。
イマジナリーストラクチャーは空間レベルで区切ることによって構築される異空間。ワールドセーバーが作り出したその外壁
に、空間をひずませる程の飽和エネルギーが一瞬だけ風穴を開けていた。
闇夜の中にできた青空の窓から注ぐ光を浴びて、障壁レンズが崩壊し、ヤクモは膝から崩れ落ちた。
ファントムが立っていた街路灯は、掘り返したように抉れて消失した地面ごと消えている。
もう何も、残っていない。
―ヤクモ…―
寄り添うジョバンニが囁く。滂沱の涙を流し、表情もなく、ペタンと座り込んでいるヤクモに。
―ゴメン、そろそろ保たないみたい―
「…………え?」
少し間をおいて、ヤクモはジョバンニを振り返る。
赤い半透明な姿は、先ほどよりも色が薄くなり、見る間に透明度が上がってゆく。
「ジョバンニ!?君は…」
手を伸ばしたヤクモの指先が、ジョバンニをすり抜けた。
―もう死んでるんだよね、本当は…。戻る体がなくてさ…。別に高次存在になれたわけでもなくて、魂を残留思念波で覆った一
時しのぎに過ぎないんだ…。伝達ラインを使ってここまで飛んだけど、もう限界みたい―
ジョバンニは、生物的にはもう死んでいる。今わの際の思念波で魂を覆い、OZに張り巡らせたラインに潜伏させ、ここまで
移動してきたものの、もうその思念波で作った「殻」も尽きかけている。
ヤクモの烈日を起動させるため、かき集めた思念波と共に、自分自身をも燃料として彼の術式にくべたから。
やがて拡散して希薄になって、周囲の思念波に混じり込み、繋ぎとめる殻を失った魂はここを去る。次の旅へと自分は一足早
く、皆を残して出てゆく。ジョバンニはその事を理解している。
―お別れを言う時間があっただけでも儲けものなんだ。まして、君を手助けできたんだから―
秋田犬は黙って首を横に振った。
それは拒絶。言葉にも声にも出せないまま、ヤクモは懇願した。
行かないで。
その声にならない意図を察しながら、消えかけているジョバンニは申し訳なさそうに目を細める。
―楽しかった。…うん。ヤクモと、皆と、一緒に学んだ年月は、楽しかったんだ。いろいろあったし、お別れはこんな形になっ
たけど…。楽しかったっていう感想だけはね、確かだよ―
秋田犬が両手を広げ、捕まえるように閉じて、しかし寸前にジョバンニは完全に消えてしまって…。
―ありがとう。さようなら。最高の友だ…ち…―
赤い光の残滓が、乱舞する蛍のように舞い踊る中、ヤクモは空っぽの掌を眼前に上げて…。
「あ…、あっ…!あああああああああああああああああああああああっ!!!」
天を仰いで絶叫した。
「…終わった、のか…?」
ひらりと、浮き島としての原型が損なわれている港に降り立った黒猫は、叫ぶ秋田犬と、惨状を見回し、ため息をついた。
(酷い状況だ…。高弟がしでかしたとなれば、アグリッパ派の落ち度を追求する声も上がるだろう…)
ツカツカと、あちこちが隆起し、あるいは亀裂が走っている地面を歩き、ベザレルは落ちていた物…剣牙虎の短刀と、それを
握っていたのだろう近くの手首に近付き…。
「!」
足を止め、目を見開いた。
その手首は人間のものではない。彼女の弟子だった狼…姿を消した高弟の手首だった。
(馬鹿な!?あの宝を手放していただと!?)
ヤクモの読みは外れていた。この短刀を持つ者もまたゲンエイ本体などではない。執着せずあっさりと、他の術具と同じよう
に手放していた。
「ヤクモ房主!」
警戒を促す鋭い声を発したベザレルの横顔を、明るく、光が照らした。
黒猫が、叫びを止めたヤクモが、「沖」を見遣る。
外の世界の海へ繋がる港の先に、離岸して遥か彼方へ遠ざかった船が見えた。そこから、花火が何発も打ち上げられていた。
「素晴らしい素晴らしい素晴らしい!オープニングイベントとしては最高の盛り上がりになった!はははははははははは!」
外の世界の組織の物資輸送船の甲板で、タキシードの男はひとり、並べた打ち上げ花火を真下から鑑賞していた。
そうと知らされずに爆薬や花火を運び込まされた船員達は、用済みになって皆殺しにされており、船は血臭に包まれている。
「だが!しかし!まだ足りない!まだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだ不足!世界中に見せつけてやろう!
君を!僕を!我々を!」
二十代でアグリッパを襲名できたものは、少数ではあるが皆無ではない。その名声を絶対に、特別をさらなる特別にするため
には、まだ何もかも不足している。もとよりこのOZの中だけで終わらせるつもりは無い。
これは、オープニングセレモニーであり下準備。
ヤクモを残して他の高弟を全て排除したのは、否応なく「追手になるのはヤクモしか居ない」という状況を作り出すため。
OZ全体に危害を加えたのは、責任を取るために追えと周囲から圧力がかかり、追手にならざるを得ない状態に持ち込むため。
全ては、ここから始まる世界を股にかけた鬼ごっこのため…。
「ははははははは!さあ、次の舞台は「世界」だ!用意が出来たら追ってきたまえ、我が愛しのアグリッパ!」
高らかな笑い声と共に船はゆく。
外の世界へとファントムはゆく。
「…生きてた…」
へたり込んだまま、ヤクモはポツリと呟いた。
既に追える距離ではなく、船は異様な加速を見せて遠ざかっている。
あれは追撃不能だと、ため息をついて漏らしたベザレルは…。
「生きてたんだ…。まだ…」
秋田犬を見遣る。殺すつもりが生き残っていた。兄弟子への感情は複雑だろうが…。
(あれは既にOZが逆賊と認定するに足る行動に及んでいる。辛いだろうがもう…。…?)
ヤクモの肩が震えている事に、ベザレルは気付く。
すすり泣いて…はいない。不調や疲労で震えているのでもない。
笑っていた。
真っ黒に濁った目で、口の両端を僅かに緩め、ヤクモは、笑っていた。
その静かでありながら鬼気迫る、ヤクモの劇的な変容に、ベザレルですら悪寒と恐怖を覚えた。
「貴方を追って殺します…。どこまでも追って殺します…」
ゆっくりと立ち上がる。
もう、手を差し伸べてくれる兄弟子は居ない。
もう、傍らに居てくれる親友も居ない。
ここからは、独りで立って、進まなければならない。
「必ず殺します…。確実に殺します…。絶対に殺します…。生きている限り殺します…。私がこの手で…」
そして、笑みは消える。鋼鉄の無表情に覆われて。
「殺します」
ヤクモはゲンエイを愛していた。
だから、殺す。
義務で、復讐で、使命で、憎悪で、愛で、「アグリッパ」は「ファントム」を殺す。
穏やかにまどろみ、寄り添って夜を越えた、あの日のふたりはもう居ない。
この日、後に外の世界で最も有名になるOZの術士が誕生した。
「OZの魔法使い」の代名詞、「八雲断ちのアグリッパ」が。