終節・OZの魔法使い
「ゲンエイさん…!」
上気した顔で見上げる、逆光の中の兄弟子。その影に覆われた顔に、ヤクモは懇願する。
「もっと…」
裸で交わりながら、願う。
自分の奥深くまで、もっと…。
隙間がないほど、もっと…。
離れないよう、もっと…。
一つになりたかった。繋がってもなお足りなかった。いくらでも深く、いつまでも繋がる、離れない関係をヤクモは望んだ。
「もっと…!」
太い脚を兄弟子の手がグッと左右に広げて、肉棒がより深く侵入してくる。
圧迫感、快楽、苦しさ、刺激、満足感、切なさ、押し寄せる波のような情感と熱に、頭の芯が蕩けそうになりながら、ヤクモ
は手を伸ばす。仰向けで犯されたまま、その両手を逆光の影に伸ばす。
手でも繋がりたい。
唇でも繋がりたい。
全身で繋がりたい。
心まで繋がりたい。
満たされても満たされても飽くことのない、ただ相手を求める欲求。
特別だから…。
このひとは、自分の特別だから…。
深く突いてくる。贅肉過多の体が揺れる。快感が繰り返し脳髄を撃つ。
汗を流し、消耗し、精魂尽きて、疲れ果てて折り重なったまま眠り…。
「おはよう、ヤクモ」
目覚めれば、いつでも兄弟子が先に起きていた。
寄り添って寝顔を見つめ、起きたら額に口付けしてくれた。
頭を抱えられて胸に鼻を押し付け、匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
自分を何より大事に思ってくれる、その嘘偽りない愛を盲目的に信じた。
信じて、いた。
「………」
目を開けると、壁と卓上のランプが目に入った。
椅子に座ったまま少し休憩しようと思ったはずだが、背もたれに体を預けて居眠りしてしまったらしい。
目の前には書類の山。書きかけの報告書。どれも既にインクが乾いていた。
学長室でたったひとり机に向かい、ヤクモは眠気が覚めてゆく頭で、思う。
何度繰り返し見るのだろう、兄弟子との夢を。
幾度繰り返せば忘れられるだろう、この夢を。
椅子を軋ませて腰を上げたヤクモ、まだ風景に慣れていない学長室の窓へ歩み寄った。
何もかもが慣れない部屋の中、自室から持ち込んで机の正面にあたる壁に飾った「八雲立つ」と書かれた掛け軸だけが、見慣
れたピースになっている。
体が重く、頭の芯に鉛でも流し込まれたような不快な鈍痛が消えないが、やるべき事は山ほどある。頭をしゃっきりさせよう
と、上半身を左右に無理矢理捻り、強張っている体を痛いほど捩った。
「…あと四時間、か…」
予定されている禁域の視察まで少し時間がある。それまで、事件の報告書を少しでも進めておきたかった。
事件から四日が経った。
OZに浮遊する無数の島。その中の一つ、航路が一本しか繋げられておらず、立ち入りが制限されている島へ、グランドメイ
ガス三名、調査員六名と共に、秋田犬は上陸した。
かつてグランドメイガスのひとりが住まい、かつて存在した学派が本拠地としていた島…。今では、その学派の長が行なった
禁忌を隔離する孤島。そこに聳える中世の貴族の館を思わせる巨大な屋敷は、高い防壁で囲まれている。元々あった壁ではなく、
立ち入りを禁ずるための物である事は、OZの術士ならばみな知っている。
島唯一の船着き場で一行を迎えた見張り達は、一様に硬い表情だった。常時六名が見張りにつき、通行をチェックしていたに
も関わらず、本館には侵入の形跡があった…。落ち度などというレベルではないと、皆が責任を感じていた。
しかし、一団は彼らの責を問うために赴いたのではない。
「こちらへ…」
船着き場から館へと案内する二名の見張りに従い、ヤクモは館を見上げ、出発前の師とのやり取りを思い出した。
「ベザレル師が同行を申し出てくれた」
老人は寝台の上から、脇の椅子にかけている秋田犬の顔を見ている。
事件からまだ数日。事態が事態なので襲名式典は見送りにしたものの、既に老人は当代アグリッパの座を退き、本名であるコ
ルネリウス…その愛称である「コルネ」を名乗っている。一門が壊滅状態なのでまともに機能できる状態ではないが、形式的に
はヤクモが一門の長という事になる。
腹の刺し傷自体は内臓に達しておらず、肉と血管を傷つけただけに留まったが、コルネの傷の治りはよくない。
ヤクモとトカゲの女性を除いて高弟が全員ファントムの手にかかっており、襲名したばかりのヤクモでは手に負えない事務や
折衝を老人がこなさなければならなかった。さらに弟子達の世話や他学派との情報共有なども行なおうとするため、老体に疲労
が溜まり、治療の成果も台無しになっている。
そのコルネも、口惜しそうではあるが今日は大人しく寝台についていた。ヤクモが薬草学が得意な弟弟子に頼んで調合した鎮
静薬を紅茶に混ぜて一服盛ったせいで、昼過ぎからフラついて足腰が立たなくなっており、休養を余儀なくされている。
「おそらく、酷い物を見る事になるじゃろう」
調査に同行できないコルネは、気構えはしておくようにと告げ、ヤクモはその忠告をしっかり受け止める。
人格の転送に関する術の詳細を知らなくとも、歴代アグリッパが残した叡智の集積体である書物から、おおよそどのような研
究や研鑽をもって術として確立したかは察している。覚悟はできているつもりだった。
ティースプーンで紅茶をかき混ぜて砂糖を溶かしたヤクモは、師にティーカップを差し出す。片腕を伸ばしたコルネは、自分
の上半身を支える格好で持ち上がっているベッドを有り難く感じると共に、寂しさも覚えた。
リクライニングベッドという概念は、先日亡くなった高弟のひとりが、外の世界から持ち込んだものだった。
「エスメラルダの容体は、どうじゃな?」
「安定しています。「母子ともに」命に別状はありません」
師に答えるヤクモの声が、一瞬震えを帯びた。
治療の途中で判った事だが、ジョバンニが命を懸けて延命したエメラルドグリーンのトカゲは、妊娠していた。
恋仲であった事は知っていたが、子供ができていた事はコルネもヤクモも初めて知った。
親友を祝福する機会は永遠に失われた。恋人と一粒種を残して逝ってしまったジョバンニに、おめでとうと言う事はもうでき
ない。
ジョバンニの親族は兄だけだという話だったが、これまでに本人がそうしていたように、風水組合へ宛名の無い手紙という形
式でヤクモが訃報を送った。
憧れているにも関わらずジョバンニが一度も名前を口にしなかった事や、仕事内容を伏せていた事などから、名前や居場所が
知られるのはまずい仕事をしているのだろうと察していたので、ヤクモはあえて探し出そうとは考えない。コルネも同様で、向
こうからアポイントを取って来るならば当然迎え入れるが、身元を探るような真似はしないと決めている。
暗く濁った弟子の瞳を見ながら、コルネは紅茶を啜る。砂糖程度では誤魔化しようもない酷い味の薬草茶だが、文句を言って
はいられない。穏やかなヤクモが強硬手段に出るほどなのだから、客観的に見ても無理が過ぎているのだろうと自戒する。
「ヤクモや」
一度には飲み下せず、一息入れたコルネは跡継ぎの目をじっと見つめた。
「何を見ても、何を知っても、情報として受け止めるんじゃ。キミ自身に責はない。よいね?」
「………」
ヤクモは無言のまま頷いた。
それは違うと思っていても、師の気遣いを無下にするほど、余裕がない訳でもなかったから…。
(何を見ても、何を知っても、か…)
館を目指して皆と歩きながら、ヤクモは胸中で自嘲した。もうこれ以下の気分になる事も、これより悪い状況になる事も無い
だろうと、この時はまだ思っていた。
案内によって館のエントランスまで導かれた一行は、予め定めていた通りの持ち場に向かった。特に重要視されている研究棟
にはグランドメイガスが二名、同じく注視すべきかつての学長室と秘匿された研究室にはヤクモとベザレルが向かう。
様々な学派の術による多重セキュリティには荒らされた形跡が一切無く、本当にファントムが立ち入ったのかも疑わしいほど
だったが…。
「こちらが「当たり」らしいですね」
ヤクモの呟きに猫が頷く。
覚えがある、淀んだ思念波の気配…。残留思念波となりながらも悪寒を覚える異質なソレは、ファントムと相対した時に感じ
た物と同様だった。
ベザレルが仕掛けを操作し、隠し通路が現れると、その気配がより濃くなる。
「私が先に」
念のために先行を申し出たヤクモは、袖から術具を取り出した。
ファントムが捨てて行った、彼にとっては特別ではなかった、剣牙虎の短刀を。
師から託されたそれを握り締め、石積みの壁に囲まれた階段を降りてゆく。隠し通路から先にはセキュリティも無く、突き当
たりの扉まではすんなりと降りられた。目くばせし合い、ヤクモが扉を押し開けると…。
「………」
秋田犬は入り口で硬直した。
ベザレルはその広い背中を訝しげに見つめ、少し背伸びして部屋の中を覗き込み…。
「!!!」
目を見開き、ヤクモと同じく凍り付く。
石積みの壁に四方を護られた密室。殺風景な広い部屋の中央に、角ばった巨大な水晶体が鎮座しているのは昔からだが、そこ
には「作業台」だったのだろう寝台が、屋敷内の別の場所から運び込まれていた。
清潔に保たれたソレは、別にいい。
手術用の器具も、別にいい。
解体具も、別にいい。
ここに痕跡を探しに来たのだから、おぞましい何かが残されている事は想定していた。
だが、全く予想もしていなかったモノが、そこには残されていた。
のろのろと、ヤクモは奥の壁に近付く。そこには、干からびた人間の死体があった。
背中を壁に預けて座り込む格好のミイラは、顔の肉などを削がれ、頬骨や顎骨の一部を摘出されており、人相は見る影もなく、
死後何年も経っている事が一目で判る干からび具合。
それでもヤクモは一瞥で理解した。胸に「a」の意匠が入ったローブを被せられ、放置されていたそのミイラこそが、他でも
ない「ゲンエイ」だと。
「…研究過程で肉体を捨てた…?いや、肉体に重点を置いた存在ではなくなる事を、早期に想定して…、自分の肉体だった物を
術具の材料にしたという事か…」
呟くベザレルは、ヤクモの横からミイラを見下ろし、顔に限らずあちこちから骨が摘出されている事を確認する。おそらく、
自分の思念波に最も馴染む素材…自らの骨を、キューブや疑似仙骨の材料にしたのだろうと察しがついた。
「最初から「本体」などなかった…。アレは、「器」を渡り歩く思念波で己の存在を形作っていた」
もはや特定の肉体に捕らわれない存在になっていると理解し、呻いたベザレルの横で、ヤクモは口元を押さえて踵を返した。
「う…、うぉえっ!おげぇっ!おぼぇっ!」
隠し通路に戻り、体を折って、ヤクモは嘔吐した。
あのミイラは何年も経った物だった。
では、自分を抱いたのは?
身を重ねた兄弟子は?
「はぁ…はぁ…!ゲンエイ…さんは…!うっ…!い…、いつからっ…!おぶぇっ!えぼぉっ!」
自分は一体いつから、誰かも判らない体と、何人もの体と、まぐわっていたのだろうか?
胃の内容物を、胸に溜まった物を、何もかも吐き出すように、ヤクモは嘔吐し続けた。
調査の後に行われた審議会において、アグリッパ一門はファントムを追って処分するよう求められた。
一門の取り潰しを求める民意が皆無だった訳ではないが、結局裁定は責任を指摘し、責務を果たす事を求めるに留まった。大
多数の声が同情的ですらあったのは、コルネの人となりをOZの民がよく知っており、高弟の殆どを失うという他の何処よりも
大きい被害に同情があったせい。
加えて言うならば、ベザレルが客観的な範囲を逸脱しない程度で弁護を行なった成果もある。
まず、自分ですら相対してなお見抜けなかったファントムの「中身」の転移術の精度を、事細かに解説した。
また、被害から見ても、少なくとも一門がファントムと通じて芝居を打っている可能性はないと断言した。
そして、彼が真っ先に同門である高弟達を皆殺しにしようとしたのは、思念波に精通しているアグリッパ一門の術がファント
ムにとっての脅威だという裏付けと言えるのではないかとも進言した。
グランドメイガス全員が理性的な判断を下したのは、彼女の言葉に納得に足りるだけの物があったからこそ。何より、ヤクモ
がファントムを退けたという事実は無視できる物ではなかった。
こうして全ては、ファントムが思い描いた通りの流れとなった。
アグリッパ一門は壊滅的な被害を受けており、高弟はほぼ全滅。ファントムを追えるのは新たなアグリッパであるヤクモのみ。
ヤクモの留守中は前任学長であるコルネが責任者となり、学派の長としての職務も代行する事になる。長が不在となるため一
門としての学術探求は滞るが、それがペナルティであるという裁定が、罰の軽減理由でもあった。
「こんな形で報告に上がる事、まことに心苦しく思います」
傅いた老人に、寝台の上から「そうね。残念に思うわ」と、幼子の声が応じる。
薄いヴェールを一枚残しただけなので、天蓋付きベッドの上で身を起こしている眠り姫の姿ははっきり見えた。
ヤクモが放った「烈日」が、イマジナリーストラクチャーOZの外殻である空間境界を一時的に破損させ、その修復に力を割
いたため、眠り姫の目覚めは予定のサイクルから一週間遅れた。
本来なら継承の儀式を行った翌日には眠り姫が目を覚ますはずで、式典も盛大に行われて、コルネとヤクモは今頃学長室で引
継ぎに大忙しだったはず。
それを思えば、今でもこの状況が悪い夢だったらよいのにと考えたくなる。
「そんなに縮こまって屈んでいたら、お腹の傷に障るわ。楽な恰好にして。どうせここには二人だけなんだから」
無限の夜空の中心に寝台が浮かぶそこには、眠り姫とコルネの二人だけ。眠り姫はあえて他の者は入れずに、人払いをしてコ
ルネだけを入室させている。
「落ち度というなら、こっちもなのよ…」
眠り姫は目を伏せてため息を零す。
「あのひとの夢はそう…、よく手入れされていつも整えられている庭園のようで、「居心地が良い反面、どうにも落ち着かない」
夢だったわ」
察するところがあり、コルネは頷いた。朗らかに明るく過ごしていた愛弟子が、外面とはまるで異なる歪みを内に抱えていた
事と、眠り姫が語った夢の質には共通点がある。
どちらも、表層は整っていた。内面に目が向かないほどに…。
「草木全部が造り物の庭園みたいな、穏やかに整って、平坦で冷たい夢…。けれど、そういうひとも居るかと思ってあまり問題
視はしていなかったの。異質さと個性を履き違えたのは、結局ひとという存在にまだまだ理解が及んでいないからなのね…」
眠り姫はしばし黙ってから、「新しいアグリッパはどうしているの?」と尋ねた。それを自分に訊くあたりヤクモの夢を覗き
見ていないのだろうと、コルネは気遣いに黙礼する。
「忙しくしております。するべき事を済ませたら、すぐにも「追う」と申しておりますので…」
「やあヤクモ!相変わらず忙しくしてる?」
病室を訪れた秋田犬を、病床のトカゲは朗らかに笑って迎えた。
「エスメラルダさん、あまり大きな声は出さない方が…」
苦笑いしているヤクモの方が気を使って、声を抑えながらベッドに歩み寄る。
多くの高弟の中で、生き残ったのはヤクモと彼女のふたりだけ。財産と言える様々な叡智が、あの日纏めて失われてしまった。
「生まれるのは半年先なんだ、まだ聞こえないよ。たぶんね」
右腕が付け根から無くなったトカゲの女性は、しかし負傷度合いから考えれば元気だった。腕だけでなく、爆発の衝撃で体中
あちこちで骨折していたのだが、無意識かつ咄嗟の事だったのだろう、自分の胎内に思念波防壁を張り巡らせて宿った命を守り
抜いており、ジョバンニとの子は生き延びていた。
二日ほど昏睡状態で生死の縁を彷徨ったものの、意識が戻ってからは見る間に回復している。彼女自身も優れた術士であり、
ジョバンニから風水術のアレンジ形を教わっている。人体を大地や空間に見立てた風水術の応用により、各種循環を含めて体内
環境を整えるのはお手の物。OZの医療に加えた自己治癒力の増強で、死にかけたのが嘘のように元気である。
ベッドサイドの椅子に腰かけたヤクモは、「しかしマメだねぇ」というトカゲの言葉に耳を倒す。
報告書の山にアグリッパとしての各種引継ぎ手続き…。やる事が山積して忙しくはあるのだが、ちょくちょくエスメラルダを
見舞いに来てしまう。
「こうも頻繁だと、「ヨハン」が声を覚えて君をお父さんだと認識するかもしれないよ?」
「まだ聞こえないんじゃなかったんですか?」
「可能性は、ゼロじゃない」
以前と全く変わらない、軽妙で心地良いトカゲの調子に、ヤクモの顔が僅かに笑み崩れた。
いずれ生まれて来るジョバンニとエスメラルダの子は、もう「ヨハン」という名がついている。名付け親には、未亡人の希望
でヤクモがなった。
ヨハンが生まれて、言葉が判る歳になったら、話をしようと思う。
息子を救い、妻を救い、友を救って、OZを護った、勇敢な父親の話を…。
事件から一ヶ月。
OZの物損的被害は復旧が完了し、アグリッパ一門は新体制に移行した。
コルネは引退せず理事職に腰を据え、形ばかりの義手を着けて復帰したエスメラルダは学長補佐となった。このふたりを据え
なければ、一門の長が外へ出てゆくアグリッパ派は、学派として機能できないのである。
未熟な弟子や若い学徒を抱えて世話する、これからの多忙な日々を前に、自分は外へ戻るのだなと、ヤクモは学長室の窓から
夜空を見上げた。
「浮かぬ顔じゃな、学長」
希少なアイスワインを二つのグラスに注ぎながら、コルネは弟子の背中も見ず声をかける。
「これでも一応「アグリッパ」ですから。不在中の一門の事が心配です。年に一度くらいは帰ってくるように心がけますが…」
振り返らずに応じるヤクモは、永遠の夜空をじっと見ていた。
出立前夜。明日OZを出たらしばらく帰ってこないヤクモを、コルネは秘蔵の酒で送り出す。
グラスを手に歩み寄ったコルネから一つ受け取り、チン…と小さく音を立てて合わせ、甘いワインを口の中へ滑り込ませたヤ
クモは、軽く頭を下げた。
「不在中、ご苦労をおかけします。先生」
「前とあまり変わらんよ。あまり、ね」
「エスメラルダさんの義手用に、良い素材を探してきます」
「うむ。こればかりはONCに輸入して貰えるものでもないしのぉ。何せ彼らには品の見立てができん。OZの医術にはOZの
視点…、キミが見立てるのが確実じゃ」
「あと、年少組の事ですが…。夜更かしが過ぎないように見回りしていたものの、そも…、ちょっと癖があって…」
「夜間の間食じゃったな?まぁ多少は大目に見るわい。夜更かしして仲間と喋るのは楽しいからのぉ」
思えば「彼」だけは、皆と違ってそんな事をしていなかったなと、コルネは思い返す。学童達がこっそり集まって夜更かしし
ても、知っていながら加わらなかった。
しばし黙って、グラスを片手に夜景を眺めていたコルネは…。
「のぉ、ヤクモや。キミはアヤツを…」
「殺しますよ」
答えは即座に帰ってきた。
ゲンエイ…ファントムを討てるか?そう問いたかった師に、黒く濁った目を偽りの夜空に向けながら、ヤクモは応じる。
殺せるかどうかではなく、殺すのだ、と。
「必ず、殺します」
その手が、袖から取り出した剣牙虎の短刀の峰を指でなぞる。
兄弟子が使っていた術具。師が友から譲られた仙骨。ファントムにとっては特別ではなくとも、ヤクモにとっては特別な思い
入れがある品。兄弟子の術具だったソレは、今は、彼を討つアグリッパの手に託されている。
「陸吾(ルーウー)がいま何処におるのかはワタシにも判らぬ。が、ソレは彼自身の牙じゃ、気配を察すればおのずと姿を見せ
てくれるはず。「桃源郷」へ入園するには彼の助力を求めるのが一番手っ取り早いが…、ルーウーも出奔した身じゃ。協力して
くれるかどうかはまた別の話になる」
この短刀の素材になった牙の提供者…桃源郷出身の仙人である剣牙虎の獣人は、コルネが若い頃、外の世界を旅した際に知り
合った友人である。彼に宛てたコルネの手紙も預かっているので、面識がないヤクモも話を聞いて貰えるはずだった。
「「雷帝の書庫」については、現状一切の手掛かりがない。最悪の場合はラスプーチンに訊いてみるしかないが…。アヤツの事
じゃ、正確な場所や中身まで知っておったならワタシにも喋っておったじゃろうし、望みは若干薄じゃな」
「今になっては、弟子にされたら困りますしね…」
「そうなると、我ら一門全員が彼の弟子という事になってしまうかの?」
苦笑いを交わすふたり。
生身の肉体に縛られなくなったファントムを殺すためには、有効な手段を講じる必要がある。何せ体を壊しても何かに転移し
てしまうらしく、その有効な条件やルール等も不明なのだから。
OZの、そして歴代アグリッパの叡智をもってしても確実ではないと判断したヤクモは、別系統の手段について考えた。それ
が、他の知識系統から対策になりそうな物を探すというもの。
心当たりの一つは「桃源郷」。仙人が住まうそこで、OZどころか外の世界の術とも完全に別系統となる術理…「仙術」には
該当する物があるかもしれない。
もう一つは、「雷帝の書庫」。外の世界のどこかにあるとされる、多くの書物が集められた知識の宝庫でならば、求める物が
見つかるかもしれない。
ファントムの足跡を追いつつ、現状の手段が通じないならば、それらを探って新たな手段を講じる必要がある。
「旅の無事を、祈っておる」
「必ず帰ると、約束します」
師に応じながらヤクモはかつての夢を思う。
兄弟子と共に赴く懐かしい故郷の村。
立派になって再会したかったユウヒ。
いつまでも続く、満たされた日々…。
その全てが、今では遠い幻になった。
自分はもうアグリッパなのだ。
OZのグランドメイガスなのだ。
兄弟子を追って殺す、刺客なのだ。
だからもう、夢など見ていられない。
「なるほどなるほど、ここはそう、弱小組織、かな?」
タキシード姿の男は、大仰に肩を竦めた。徒労だったと仕草で表現するも、しかしそれを見ている者は居ない。
ホテルのように豪勢なシーサイドのビル。その中に居た者達は、輸送船に乗ってきたファントムによって皆殺しにされ、また
材料にもされた。
ファントムも調べて把握したばかりだが、ここは、OZに物品運搬で出入りする事で食い繋いできた、非合法なのは取り扱う
品だけという、割と健全で害があまりない…裏を返せば戦力も財力も知れている組織だった。
「しかし「外の人類」の体は扱い難いものだな…。術士ではないといっても、こうまでスペックが合わないとは…」
たった二体だけ、木偶人形のようにした人間をファントムは見遣る。
無表情でファントムの後ろに突っ立っている彼らは、もはや生きているとは言えない。頭の中身をフォーマットされ、受信機
を埋め込まれるのを待つ、ただの器になっている。転送に耐え得る条件を満たせるのは、四十数名中このふたりだけ。「予備」
の確保はファントムの予定通りには行かなかった。
「おや?これはどうやら要注意組織と思しきリスト。ふむ?ふむふむ。好戦的な組織や、強大な組織、広い版図を持つ組織と…」
くり抜くように大穴を空けた金庫から取り出した書類の束を眺め、ファントムは数度頷いた。
「よし、この中から探すとしよう!片っ端から当たって、これはという組織を見つけよう!ついでに騒ぎを起こせば、アグリッ
パのモチベーションも上がって一石二鳥!」
さしあたっての目的は、自分を追ってくるはずの秋田犬の動向を掴めるよう、それなりの規模と情報網を有する組織との接触
し、上手く利用する事。
売り込みについては問題ない。実力を示すのは勿論だが、手早くできて質も悪い、偽の仙骨をちらつかせてやれば、ヨダレを
垂らして飛びついて来るだろうと確信している。
中身を暗記した書類をバッと宙に放り投げ、降り注ぐ紙の中でファントムは笑う。
「ああ楽しみだ!楽しみだなアグリッパ!久しぶりの船旅も楽しんで、僕を追いかけて楽しんで、殺し合いを楽しもう!ははは
ははは!待ち遠しいな、僕にとってただ一人の「特別」!我が愛しのアグリッパ!」
そのしなやかな指が、パチンと鳴らされる。
三十分後、駆け付けた消防隊と、遠巻きに見守る野次馬達の目の前で、そのビルは内側からゴウゴウと噴き出す原因不明の炎
によって、骨組みだけを残して燃え尽きた。
いくつもの店が天幕の端をくっつけて並び、人々が行き交う雑踏の中、燃えるように赤い髪と顎髭が目を引く人間の男は、低
い樽に腰掛けて手紙を読んでいた。
非合法の薬の材料になる植物粉末を商う、闇市の一角に軒を連ねた店。その店先で用心棒を務める男は、精悍な顔つきで、均
整がとれて筋肉質な体つき。マントのように肩からかけた布で首から下をすっぽり覆い、隙間から手を出して手紙を広げている。
にわかに、怒声が男の耳に飛び込んできた。
店頭で価格交渉を持ち掛けた狼が、応じられない決まりだと答えた売り子の男を脅し始めた。
煩そうに左手を上げ、手首を返す赤い髪の男。すると、店先で値段に文句をつけ、売人の胸倉を掴んでいた狼は、糸が切れた
操り人形のようにクタンと崩れ落ちる。
ぞんざいに見える手振りによって放たれた、グリモアに仕込んである術式。障害物も避けて対象にのみ影響する振動波が、痕
跡も余波も残さずに、狼だけを気絶させていた。
「この闇市では、軒先での価格交渉は御法度だ」
冷たく言い放ったヤノシュは、ペコペコと頭を下げる痩せ細った若者の売り子を見もしない。体が悪い妹の薬代を稼ぐために、
ひとをダメにする薬を売る店で働く…。ひとなどこんなもの、良くも悪くもない、欲して生きるその素行をいちいち咎める気は
ヤノシュにはない。
軽い、空気を介した振動による脳震盪で意識を失った狼は、闇市の巡回役に運び出されるが、一瞥もしないまま術士は手紙を
読み返し続ける。
OZの情報は具体的に出さない、弟からの手紙。
仲のいい友人と一緒に過ごす生活。一緒に食事をする頻度や、共同研究の話などから、本当に仲が良かったのだと察せられた。
上手くやっていると、幸せに暮らしていると、手紙が届くたびに安堵していた。なのに…。
ヤノシュは数枚の手紙を遡る。友人の名などは一度も明言されていなかったが、訃報をよこした相手…新たなアグリッパが、
ジョバンニとは同期で友人だったと手紙で述べていた。手紙の内容から見ても親しかった事も深い悲しみも伝わってくるので、
彼こそが、おそらく弟がずっと言っていた友人なのだろうと察した。
ジョバンニが同門の女性との間に子を成していた事も手紙に記されていた。男でも女でも「ヨハン」と名付ける事にしたが、
問題があれば名をつけ直してくれ、とも…。
手紙の内容から一門が壊滅的被害を受けた事は判った。新たなアグリッパが多忙な事は理解できている。にも拘わらず、血縁
者とはいえOZの外の者である自分に一報を飛ばしてくれた事から、ヤノシュは弟の友人に感謝すると共に、義理と筋を通す人
柄なのだろうと推測した。
(術士、「ファントム」…)
訃報に添えられていた、弟を殺害した男の名。
アグリッパが責任もって追討すると手紙に記してあったが、任せておくつもりはない。
この仕事の契約が満了し次第、あらゆる手を尽くして行方を追う。
(ジョバンニの仇は討つ。何もしてやれなかった兄として、せめて…!)
「ほうほう!ほうほうほう!ヤクモ氏が新たなアグリッパに!拙僧、意外と見る目があるのでは?いや、相当見る目があるので
は?あー!やはりあの時弟子にしておけば!あーーーーーーっ!今頃はめくるめく修行の旅を…」
「うるさいですよラスプーチン師!」
次のアグリッパにはヤクモが就任するというコルネの第一報…継承式前夜に送られた手紙を読みながら、髭面の大男が嘆く。
開拓時代のアメリカ西武の酒場を思わせる、拘った内装のバーで、バーテンの雌兎が苦言する。
「いや失礼した女将。でも、あーっ!」
「他のお客さんが引きますから止めて下さい。出禁にしますよ!」
「ピタリ」
フリーの術士が情報交換などで利用する、米国に一軒だけの術士専用のバー。自分宛ての連絡が届くのでラスプーチンが割と
顔を出すそこは、フリーでやっていけるだけの実力を備えた一流の術士達が利用しているのだが、それでもラスプーチンはその
奇行で周囲の客に引かれていた。
その一報に続く、起こった事件とその顛末に触れる続報はまだ店に届いていないため、ラスプーチンはまだ知らない。OZの
被害も、一門の不運も、ファントムの誕生も、アグリッパの旅立ちも…。
「しかし拙僧、そのうちに、割と、意外と、案外早くにヤクモ氏と再会できそうな気が!」
「レディスノウの天啓ですか?」
「いや、勘です。なので我ながらあてにはできません」
キリリとした顔になって適当な事を抜かすラスプーチン。
「めんどくさっ…」
店主の兎は言葉通りに面倒くさそうに顔を顰めながら、スコッチウィスキーのお代わりをカウンターにトンと置く。
「さて、しばらく見ぬ間にさらに立派になられたはず!他の高弟の面々の成長も楽しみというもの!より取り見取り、弟子選び
放題、なのでは!?」
「知りませんってば静かにしてください」
ゆるやかに風が霧を吹き流してゆく山道で、白の中に霞んだ影が立ち止まる。
柱のように切り立った、円筒状の奇岩がいくつも並び、霧の中に浮かび上がって見えるそこは、中国深山、大陸奥地。住まう
人々も少なく往来も殆ど無い、水墨画のような奇岩風景の中、板も朽ちかけた吊り橋の中央。人影はおもむろに首を巡らせ、鼻
先を少し上げて、霧に混じった風の香りをスンと嗅ぐ。
霧が濃すぎて容姿がはっきりしないが、ずんぐりと、丸みを帯びた体型である事は判る。次いで、ボロボロで色褪せた大きな
袋を担いでいる事も。
風に乗って霧が移動し、その濃淡の中に見えたのは虎の獣人。それも普通の虎ではなく、サーベルタイガーの獣人である。
ただし顎下まで伸びる牙は左側のみで、右は折れたのか抜けたのか失われている。
姿が見え辛かったのは、霧に紛れるその衣装のせいもある。袖も裾もゆったりした着物…古い時代の文官が身に着けていたよ
うな、漢服様式の衣装。白地で襟は淡い青のため、霧に紛れると見え辛くなる。
その、ゆったりした衣装を通してなお、特徴的な体型ははっきり判った。
歩くたびに緩んだ肉がタプンと揺れるほど、デップリと肥えた体つきである。肉付きが良すぎて首が埋まり、緩んだ腹肉は目
立つほどせり出して、頬肉のせいで押し上げられた目は瞑っているように細い。
体格その物は大きく、肩幅もあり、身長は190センチを超えているだろうが、逞しいという印象は無く、縁起物の置物のよ
うな緩くて穏やかな雰囲気がある。
かなりの老齢のようで、元は黄色かったのだろう毛色は随分淡い色になり、黒い縞模様を除くとクリーム色が顎下や腹側で白
くなるグラデーションとなっていた。
軽々と背負っているが、ボロボロの袋の中身は約120㎏の米。本人の体重は体格と体形からみて200キロはありそうだが、
朽ちかけたつり橋の板は軋みもしない。
年老いた剣牙虎はしばし風の匂いを桃色の鼻で嗅いでいたが、やがて小さく顎を引いた。
懐かしさを感じた。遥か彼方、何処とも知れぬ海の上から旅する風が届けたそれは、紛れもなく友に託した己の牙の気配。
術具となった自分の仙骨がOZの外に出るのは、かなり久しい事だった。が、どうにもそれだけではないらしいと老いた剣牙
虎は察する。
自らの牙にかけた呪詛に等しい強力な術。友の命を決して奪えないよう仕込んだ禁圧転換が、少なくとも一度は作動し、死と
いう結果に結びつかないよう事象を歪めた形跡が感じられた。
しばし立ち止まって考えていた剣牙虎は、やがてゆっくりと橋を渡り切り、立ち入りを禁じるために張られた綱を跨ぎ越す。
そして崖伝いに伸びている幅1メートルもない絶壁の道を、臆する様子もなくのんびり歩いた。
そして、やがて見えてきた切り立った崖の間の狭い平地に、へばりつくように七軒の民家と共同倉庫や作業場がいくつか建っ
た集落へと、重い荷物を苦にもせず近付いてゆく。
その姿を、いち早く見つけたのは十歳ほどの狐の少女だった。
「あ!おじ様ー!お爺ちゃんが帰ってきましたよー!」
家の前で小さな犬の男の子と遊んでやっていた狐の少女が上げた声に、雨漏りを直していた犬の成人が屋根の上から「え!?」
と反応した。
「忘れ物でもしたのか?それとも何か問題が…」
言葉を切った犬の成人は、狐の女の子が歩いてゆく先の、大荷物を担いだ剣牙虎を見て絶句した。
その片牙の剣牙虎が、狐の少女と共に深山の集落を訪れたのは、五日に渡る長雨の初日だった。寝場所に困った旅の者との話
で、老人と子供という無害そうなふたりだった事もあり、犬の成人男性は快く泊めてやったのだが…。
長雨の間泊めて貰った礼に、ツテで米を調達して来る。そう言って、狐の娘を残して老人が出て行ったのは今朝がたの事。そ
れがもう戻ってきたかと思えば、大荷物を担いでいる。
それは、かなりおかしな事だった。
「麓まででも往復丸一日かかるんだぞ!?どんな道を通って米が手に入るところまで行ったんだ!?」
驚いている犬の成人や、駆け寄ってきた子供達に軽く上げた手を振って、老虎は米の袋を下ろす。
「おかえりお爺ちゃん!」
ばふっと腹に腕を回して抱き付いてきた連れの狐に目を細め、剣牙虎は厚い手で頭を軽く撫でてやる。
「どこでお米を貰ってきたの!?」
目をキラキラさせている犬の子に、老人は、口元に立てた人差し指を寄せながら微笑んだ。
「ひ、み、つ。だって!」
そう言っておかしそうに笑う狐の子。
(でもしょうがないじゃない?仙人だから山の二つや三つ飛び越えるぐらいはお茶の子さいさいとか、言えるはずないし、ね!)
奥羽の山中に構える大きな屋敷の縁側に、巨熊が座している。
まだ若いのだが、若輩とは言い難い貫禄と威厳を伺わせるその男は、涼やかな浅葱色の甚平を纏い、庭木と、その手入れをす
るふたりの背中を眺めていた。
「うむ。これもなかなかの手際…」
そう呟いた巨漢の目は、背伸びして庭木を手入れしている柴犬の少年を見遣る。まだまだ幼さが残り、手足も短く背も低く、
それでも一生懸命に手入れする後ろ姿は、見ていて微笑ましい。
「シバユキ、切りのよい所で一息入れよ。茶の一杯も付き合って貰おうぞ」
休憩を促す頭首を振り返り、少年は「はい!」と嬉しそうに耳を倒し、巻き上がった尻尾を激しく振る。
神代家に引き取られた一人っ子は、ユウヒを主君と仰いでいる。が、実際には尊敬する兄であり敬愛する父でもある、「家長」
という接し方。少年本人は恐れ多いとして口には出さないが、慕われる側や他の使用人から見れば、本心は一目瞭然である。
本当に、よく育ってくれたと心から思う。引き取ってしばらくは元気が無く、思いつめた様子でじっと宙を睨んだりしていた
が、今では素直で元気で真面目で…ただし時々棘がある…そんな、おおまかには良い子に育ってくれた。
やんちゃが過ぎて褒める所より叱る事の方が多い困り者の我が妹とは大違いだと、ちょっと自嘲気味に思う若当主。
「先生も、そろそろ今日の所は切り上げた方がよろしかろう」
ユウヒが目を向けた先には、枝切ばさみを手に、選定の手本を示して指導しているガッシリした虎の老人。
「年寄りの冷や水と申されるか?若頭首」
ニヤリと笑って切り返したウンジロウに、ユウヒは「申したいところではあるが、先生は中身がちっとも年寄りではない」と
苦笑い。
御庭番を引退し、御役目を受ける事はもうなくなったウンジロウは、現在は若手の育成に尽力している。一種の御庭番指南役
といったところだが、厳密には役職ではないので帝から給料は出ておらず、神代家が単独で手当てを出す格好の雇い人という身
分である。
つまり、河祖上の重役だった頃と比べるとえらく身軽な身の上になっているのだが、それも短い間の事で、本人はシバユキの
仕込みが終わったら本格的に隠居するつもり。その後は山奥に引っ込んで悠々自適の一人暮らしをしようか、それともユウゼン
の所に転がり込んで子供の世話を手伝おうか、などと言っている。
古友達のヤギ爺は、隠居は勿体ないので警視庁か特別自衛隊辺りの生涯指導員に推挙すると言った。が、ウンジロウの腕を惜
しむ余り死ぬまで有効活用させるというこの暴論には満場一致で「鬼か」という反対意見が出された。
思うところがあったのだろう、神代家付きの指導役になったウンジロウは、家柄と血筋から選別されていた御庭番を、一存で
もう一度独自の篩にかけて、さらに減らしてしまうようになった。
戦えぬ者…、戦う力が不足する者、あるいは心が戦いに不向きな者を、ウンジロウは御役目に就かせようとぜず、勝手に落第
にしてしまう。
これに対してユウヒは何も言わない。
少なくとも、もうヤクモのように生き方を強いられる者は、己の在り方に悩む者は、奥羽領には生じないのだと、そう思って
ウンジロウの遣り方に任せている。
犠牲は少ない方が良い。敵の犠牲も、世を護る犠牲たる御庭番も…。
手が足りぬというならこの手で埋め、補おう。何人分でも、何十人分でも、摘みし命に染まったこの手で…。それがユウヒの
当主としての決意であり、神将としての覚悟である。
「シバユキ、ユウヒ様のお言葉だ。片付けは後にして、お気遣い頂いたのだからまず休憩にするぞ?」
「はい、先生!」
ハキハキと受け答えする柴犬の子を、好々爺の眼差しで眺めるウンジロウ。庭仕事に精を出すふたりの後ろ姿を眺めながら、
ユウヒは目を細める。
きっと自分は、幼馴染が御庭番として活躍する姿を見たかったのではない。こんな風に穏やかに、屋敷を手入れして守ってく
れるならそれでよかったのだと、最近になって判ってきた。
(今頃なじょしてんだべな…、ヤクモは…)
潮風を甲板で浴びながら、秋田犬は霧を抜けて出た大海を見渡した。
何処までも広がる海。叢雲の空。帰ってきた外の世界…。きっと感慨深くなると思っていたのだが、心は思っていたより平坦
だった。
「二日の航海を経て中継船…まぁ移動港のような海上建造物ですが、そこへ入ります。そこからは最良の船をご用意しておりま
すので、こんな貨物用運搬船とは段違いの、快適な船旅を約束しましょう」
そう述べたのは鷲鼻の白人男性。
移動の足を用意したのは、一門が物品の輸入を依頼している非合法組織…ONC。ここの幹部候補生であるフェスターは、今
回直々に同行を買って出ており、OZまでの迎えの船に乗船してきている。
ボディーガードであるアジア系の若者…リスキーも一緒で、船前方の甲板に出ている秋田犬と主人をガードできる距離に控え
ていた。
「ささやかながら、船室には軽食と酒を用意させます。船酔いなどのご心配がなければ、どうぞ遠慮なく。支度ができ次第、お
呼びに参ります」
「有り難うございます。フェスターさん」
これから耳になり目になり足になる組織の幹部候補生に一礼した秋田犬は、叢雲を裂いて遥か洋上へと斜めに注ぐ烈日の帯を、
遠く望む。
眺めているのは、今ではない、過ぎ去った景色。
来る時は師に導かれて故郷を発った。
来る時は兄弟子に親切にされていた。
来る時にジョバンニと仲良くなった。
今、自分の傍らにはその誰もが居ない。
ふと、思い出した景色があった。あれは、いずれ頭領と仰ぐ事になるはずだった少年と、離別するなど考えもしなかった頃の
出来事で…。
「ヤクモは、殺してぐねがったら無理に殺さねっていい」
御役目を終えて屋敷に戻った、未明の空の下の事。肉付きが良く、十六歳の少年の物とは思えないほど広く逞しい赤銅色の背
を、ヘチマのスポンジで擦っていた秋田犬は、唐突な言葉に戸惑った。
「…え…!?」
露天風呂に漂う湯煙に、消え入るような声。自分でもどうかと思うほど声が震えて、動揺が表れていたのは、自分はついにユ
ウヒからも見放されたのかと思ってしまったからだった。役に立たないと、御役目に連れていけないと、自分の傍に置けないと。
しかし、厳格な一方、朴訥で粗野だった巨熊は、秋田犬の動揺には気付かずに「いい気分しねぇんだべ?見ででわがっから、
無理すっこどねぇ。介錯は得手なモンに任す」と続けて…、
(あ…、そ、そういう事…)
秋田犬はホッとし、次いで情けない気分になった。
「いえ。御役目ですから、私の気持ちなどはお気になさらずお願いします。きっと、きっと次は滞りなく…」
声がだんだん小さくなって、自信の無さを悟られそうだった。
「………そが」
少し間をあけたものの、ユウヒはそう応じて顎を引いた。
「…あ、そご。そごんどご、つえぐ…」
痒いところがあったのか、要求された部位を少し力を込めて擦って…。
「ヤクモ」
「はい?」
「でぎねぇ事は、無理しねぇで俺に任せんだど」
「…はい…」
あの時は…、と秋田犬は、船べりから雲に陰った海を眺めながら思う。
頼りなく、信頼性に欠けるから、ああ言われたのだと思った。
だが今なら判る。
あれは、優しさだったのだ。気遣いだったのだ。
精神性も、纏う威も、宿した力も、誰からも遠過ぎて、何者からも離れ過ぎて、おそらくは誰よりもその孤独を自覚していた
のだろう少年が、たった一人だけ「特別」身近に想っていた友への、掛値のない親愛の情から出た言葉だったのだ。
御役目より、使命より、為すべきと定められた事柄より、友の心を優先しようとした。何とも思わない者が、「いい気分がし
ないだろう」などと他者を気遣えるはずがなかった。そんなユウヒが、キリグモを討って何とも思わなかったはずなどなかった。
なのに自分は…。
「ユウヒ様は、上手くなさった…」
誰にも聞かれない小さな声で、秋田犬は呟く。
「私はしくじった…。そのせいで、これから世界に損害が生じる。ユウヒ様に…、皆に…、あわせる顔が無い…」
温かな潮風と心地良い波音に包まれ、
「清算しなければいけない。私自身の手で…」
穏やかに流れる叢雲を見上げて、
「ゲンエイさんを殺すんだ…。他の誰にも、殺させない…」
漆黒の決意で、想いも、思い出も、一緒くたに塗り潰す。
かくして、アグリッパは発った。
世界を巡り、兄弟子を討つ、長い長い旅路に。
その間に、自分が外の世界で「OZの魔法使い」の代名詞として語られる存在になる事など、アグリッパ自身もまだ想像すら
していない。