八重の潮騒(前編)
「今日は変な天気だな…」
民家も店もしばらく無い山中の道で、貨物トラックの運転手はフロントガラス越しに空を見遣った。
黒雲が帯のように長く伸び、時折半月を覆い隠す夜。たたでさえ灯りがろくに無くて暗い峠の道は、生い茂る枝葉が左右か
ら好き放題に侵食しており、視界の悪さが不安を煽る。
ドライバーは若く、不慣れな道をひとりで行くのは心細かった。見ればホッとする自動販売機の灯りや信号機すら無い事を
嘆きながら、山頂付近でチェーン着脱用の広い待避所を見つけ、休憩の為にハンドルを切る。
滲んだような色の古い白線が無機質に引かれた、所々入った亀裂から背の高い雑草が伸びる待避所は、トイレや公衆電話な
どの建物や観測機器類も無く、やけに広く感じられた。ガードレールなどの仕切りも無く、枯れ葉で埋まった山際の細い側溝
の向こうに、融雪剤が収められた暗緑色の樽型ボックスが二つ設置してあるだけ。銀色のホイールカバーが一つだけ寂しく側
溝の枯れ葉に半分埋没し、土埃で汚れてヘッドライトを鈍く反射している。
寂しさが募るだけの風景だが、それでも外の空気を吸って気分転換できればと、エンジンをかけたまま運転席から降りたド
ライバーは、湿り気を帯びた生暖かい風に身震いしつつ独りごちる。
「薄気味悪い…」
ザワザワと鳴る枝葉の音は水音にも似て、波の高い夜の海辺にひとりで立つような不安があった。見上げれば黄色く濁った
月が、足の早い黒雲から出たり入ったりしている。
気分転換になるどころか怖さが増してしまったドライバーだったが、夜風にあたったせいか尿意を覚え、先より大きく身震
いした。
人目も無い事だし、と待避所の端に寄り、ズボンのチャックに手をかけて…。
「ふぅ~…。ん?」
ジョボジョボと小便を夜風の中に放ち、一息ついたそこで初めて気が付いた。
引っ張って伸ばした半月のような待避所の、出口側にあたる場所。そこに、雲間の月が投げ落とした光が反射している。
目を凝らしながらチャックを閉めるドライバーは、暗さに少し慣れてきた目で、それが黒いワゴンだと確認した。エンジン
も切ってあり、車内灯もついておらず、山の夜闇に溶け込んでいた上にトラックのヘッドライトの範囲から外れていたので、
これまで全く気付かなかった。
(こんなトコに駐車させっぱなしって、何で?)
気味が悪いし、怖いとも思ったが…。
「…病気…、とかじゃないよな?」
ゴクリと唾を飲むドライバー。会社の先輩からも常々、体調不良や過労、居眠りには気をつけろと注意されているので、す
ぐさまそこへ意識が向いた。
もしかして、運転手が体調不良でここへ車を寄せたのでは?
もしかして、発作か急病か何かで倒れたのでは?
取り越し苦労なら良いが、こんな車通りの無い場所では、万が一そうだったとしたら大変な事になる。自分が通り過ぎてし
まったから手遅れになった、などという結果になったら悲し過ぎる。だいたい会社の制服で会社の名前が入ったトラックで来
ているのだから、会社の看板に泥を塗るような事はしたくない。
極々普通の若者で、善人とも言えるドライバーは、おっかなびっくりそろそろと車へ近付いていった。
「…あの~…、大丈夫…ですか?あ。怪しい者じゃないです~…、仕事中の通りすがりで…」
無言で近付けば怪しい男と思われるかもと、声をかけながら近付いたドライバーは、やはりエンジンがかかっていないと確
認した。そして直後に気が付く。ワゴンの陰になっていて近付くまで見えなかったが、その向こう側にもう一台…、高そうな
黒い外車が停まっていた事に。
「えぇと…。これって…?」
ドライバーは戸惑う。二台停まっていて、両方の運転手が急病…とは考え難かった。人目を忍んだカーセックス…であれば
そもそも二台で来る必要は無い。衝突するか何かしてトラブルになった…にしては電話などで連絡を取っている様子も無く、
灯りもつけないのは不自然過ぎる。
何やらきな臭いぞと感じはじめたドライバーは、善人ではあったが、しかし鈍かった。
「あ!」
突然、顔面に照射されるマグライトの強烈な光。眩い光で目を焼かれたドライバーは見る事ができなかったが、ワゴンの向
こうに身を潜めていた男達が一斉に姿を現わし、迅速にドライバーを取り囲む。
「え?え?あ、あれ!?な、何だ!?」
目は眩んでいても、複数の足音が自分を囲んだのは判る。判るが、見えないせいで余計に恐怖をかきたてられる。
ドライバーが不運にも立ち寄り、目撃してしまったのは、違法組織の取引現場だった。
威嚇も警告も無く、九名の男達はロープと放電警棒…スタンロッドを手にしてドライバーに接近する。
たったひとりの目撃者。その容易な排除は、痕跡を残さないよう銃器も刃物も使わず済ませる心積もりだった。
何が起きたのか把握できないまま、恐怖によるパニックに駆られ、眩んだ目を押さえながら「うわ!うわ!」と、よろめき
ながら後ずさったドライバーは…。
「わっ?」
その背中をボフンと何かにぶつけた。
重々しくも少し柔らかく、弾力のある何か…。壁にしてはおかしな感触だった。勿論車でもない。そもそもトラックは遥か
後方で、数歩下がっただけの位置には何も無かったはずだった。
ふと鼻をくすぐったのは、洗って干した道着と、草の香りが混じったような匂い。
溺れる者は藁をも掴む。目が眩んでいる状態のドライバーは、それが何なのか判らないまま反射的に縋りついた。
掴んだのは、ややコワめの感触がある厚手の布。そしてその向こうにはムニュッと、思いのほか柔らかい感触。ドライバー
は混乱しながらも驚く。それはまるで、生き物の体の感触のようでもあって…。
手をついていたソレが動いた。呼吸するように。
「おい、若ぇ運転士」
野太い声が頭より高い位置から落ちてきた。同時に、ドライバーの手には、発された声と同期する振動が伝わる。
「ひとが良いのも結構だがな、ソイツも過ぎると長生きできんぜ?ええ?」
ドライバーを取り囲んだ男達は、声を発さないまま動揺した。
完全に包囲していた。間違いなく囲んでいた。にも拘らず、ソレはドライバーの背後に突如として現れた。
闇に溶け込む作務衣を纏った、熊と見紛う巨躯の狸が。
隠神刑部。裏帝に仕える逆神の一柱。今宵はこの取り引きを嗅ぎ付けた眷属からの報告により、品物を掻っ攫いに参上して
いる。
「ふん…」
顎下にあるドライバーの頭を見下ろしたまま顔を顰めるギョウブ。恐怖に加え、転ばないように縋った物が喋ったので、混
乱が極まっている。ガチガチと歯を鳴らし、膝も笑っている。助けも呼べないような状況で目くらましされ、取り囲まれ、平
静でいろというのも難しい話だろうが…。
(ひとの良さが寿命を縮める事もある。皮肉なもんだぜ)
やおらギョウブは腕を上げ、自分にひしっと抱きつく格好のまま動けなくなっている若いドライバーの口元を、その大きな
手でがしっと掴んだ。
香袋を押し付けられる格好で薬を嗅がされたその直後、ドライバーは「ひゅっ!?」とビックリしたような声を漏らし、ガ
クンと膝を折って昏倒する。
(…トライチ。まさかこの薬、調合を間違えちゃあおらんだろうな?ええ?)
普段使用している物より効きが強烈だったので、念のため香袋に触れた左手は鼻先に近づけない事にして、ギョウブは気絶
したドライバーを左肩へ担ぎ上げた。
(まったく、ついとるのか、ついとらんのか…)
担ぎ上げたドライバーを横目で見遣り、舌打ちする大狸。
ギョウブはこのドライバーが入ってくる前からこの待避所に居た。目的の一団を捕捉し、取引を確認し、いよいよ接近しよ
うとした丁度その時に貨物トラックが乗りつけたので、ドライバーが何者なのか判らずにしばし様子を見ていたのだが、結局
は一般人に間違いないと判断できた。
他の里の者と同様…否、むしろそれ以上に帝と神将、そしてその一族縁者係累に対して深い憎悪と恨み、怒りを抱いている
ギョウブだが、しかし帝の世に人生を謳歌する一般人に対しては、恨みも憎しみも全く無い。
何も知らない民に罪は無い。民あっての国であり、善良なる国民(くにたみ)は犠牲にしてはならないというのが隠れ里の、
そして裏帝の思想。
加えて言えば、貴き主君が本来おわすべき場所へ返り咲いた暁には、国民全てがその平等な臣下となるため、自分達から見
れば未来の同胞(はらから)であるというのがギョウブの考えである。
ただし、相手が犯罪者等の悪人…つまり善良な国民でなければ話は別。葬り去る事に一切躊躇は無い。
「さて、品を頂く前にゴミ掃除か…」
ギョウブの瞳が妖しく光る。じりじりと間合いを詰め、呼吸を揃えて一斉に殴りかかった男達は…、
「そこに「何」を見てやがる。ええ?」
姿が掻き消えた狸の声を、包囲の外側から聞いた。
バッと振り向けば、そこにはドライバーを担いだ狸の姿。
悪意満面、剣呑に嗤う大狸の嘲笑を目にした瞬間、男達がドッと冷や汗をかく。包囲を脱されたのも、そこに移動したのも、
全く判らなかった。
再び取り囲む男達をま眺め回すギョウブは、挑発するように右手を襟から突っ込んでボリボリと胸を掻いている。
また、男達が詰め寄った。そして先と同じようにギョウブが消えて…、
『そこに「何」を見てやがる。ええ?』
今度は、男達一人一人、各々の背後に、ひとりずつギョウブが立っている。
逆に包囲される形になった男達は、驚愕し、脂汗を流しながらも背中を寄せ合い、円陣を組んで身構えた。
その様子を…。
「まったく、余計な仕事が増えよったぜ…」
トラックの脇から、気絶しているドライバーを運転席に座らせながら、ギョウブ本体が眺めている。
実はギョウブ、ドライバーを担ぎ上げた後はまっすぐここまで歩いて来ており、男達をあしらっているのは片手間に行使し
ている幻術である。
ガソリンが勿体無かろうとエンジンを切ってやりながら、口を尖らせたギョウブは、
「さて、葬(はぶ)るか」
のっそりと、男達の方へ歩き出す。
この山は、領土的には隠神とちょっとした縁がある「鴉」の膝元に当たる。無論その配下であれば手出しはできないが、こ
の一団は鴉と無関係の小規模密輸グループとその取引相手。品物を強奪しても鴉への不義理には当たらない。
逆に、若いドライバーが乗ってきたトラックのロゴなどから確認できる彼の勤め先は、鴉の「表の商い」で傘下となってい
る優良かつ善良な会社である。鴉への義理立てで、こちらに害が及ぶのは見過ごせない。
無造作に歩むギョウブがだらりと垂らしたその両手から、滴るように光が伸びて幻術の刀が形成された。実体の無い幻では
あるが、極めて高度な思念波同調を伴うソレは本当に肉体が斬れる。幻と判っていてなお、認識してしまったら実際に肉体が
傷を生じる致死性の幻である。物体を斬るための刀も達人の域で扱えるギョウブだが、持ち運びの必要もなく手入れも要らな
いこの幻刀を使う事が多い。
不意に前触れもなく、男達を包囲していた幻のギョウブ達が消え失せた。
男達は混乱と驚きの中、巨躯の狸を視認して身構えた。両手に刀をぶら下げて無造作な足取りで歩み寄る狸は一見すると隙
だらけに見えたが…。
「この間合いで悠長に構えとるようじゃあ話にならんぜ?ええ?」
背後からの声にハッとひとりが振り向けば、そこには既に刀を振り上げた狸の姿。
歩む自分の幻を投影している間に、ギョウブは50メートルの間合いを、禁圧を解く事で瞬時に移動していた。
よく切れそうな刃だ。
見上げた男が抱いたそんな印象そのままに、幻の刀が入った肩口がヅグンと痛み、パックリと大口を開ける。斬られたと感
じた男の印象を、そのまま現実に投影して。
噴水のように血飛沫が上がる中、大狸は斬り殺した男の手首を蹴り上げ、マグライトを夜風の中に打ち上げる。その蹴り足
を下ろす要領で素早い踏み込みに変え、右の一刀で二人目の喉を、左の一刀で三人目の顔面を、返す一刀で四人目の腹を切り
裂き、演舞するような滑らかな動作で振り抜きつつ、身を翻して後ろ蹴りで五人目の胸を蹴り、大きく陥没させる。
流石に黙ってはいられなくなった男達の口から、混乱の声と怒号、悲鳴が上がる。闇雲に殴り掛かる男も居たが、当てやす
いはずの巨体の狸に、得物は一切当たらない。
ギョウブが幻術で像をずらして見せている…訳ではない。戦速が違い過ぎるので、男達が考え、見て、反応する間に狸が三
手四手と先に動いてしまう。
隠神の血筋最大の特色はその強力な幻術なのだが、ギョウブは一族でも随一の肉体派。真っ向勝負の肉弾戦でも一流の武芸
者である。
彼自身が好み、最も得意とするのは隠神流古式刀撃術…つまり剣術に組打ちを加えて成る戦闘スタイルだが、実際にはその
ほかに槍術弓術杖術に徒手空拳と、武芸百般と言って差し支えないほど多数の武術に精通している。多少訓練を受けた程度の
鈍器の腕では、その衣にかすらせる事すら叶わない。
ギョウブが本気であれば、この正攻法の武力を幻惑に搦めて行使し、「真正面から暗殺」しにかかるのだから、いかな猛者
でも堪ったものではない。
程なく、待避所は静寂に包まれた。
一の太刀が浴びせられてから六秒足らず。九名悉く秒殺され、立っている者は返り血すら浴びていない大狸のみとなった。
「…思いのほか早かったな」
ポツリと漏らしたギョウブの傍らに、何処から舞い降りたのか、タタタンッと黒装束の狸達が着地し、跪く。
「お早いのは大将にござる…」
現れた五名の内、最も歳がいっている四十を越えた狸が不満げに零した。
ずんぐり丸くも逞しい体躯が特徴的な狸達は、いずれも隠神の血が濃い眷属で、隠れ里屈指の精鋭工作部隊。早駆け遠駆け
には定評があるのだが、ギョウブの仕事が早過ぎて締めに出遅れた格好である。
「首尾は?」
「問題なく。…と言いたい所にございましたが…」
狸達がトラックを見遣る。邪魔が入らないよう幻術による封鎖…そこを通りたくなくなったり、道を見失ったりする術の仕
込みを行なって回っていたのだが、どうやら封鎖直前に山中へ入っていたトラックを一台見逃していたらしい。
「面目次第もございませぬ…」
「そう気にするな。こっちも問題なく片付いた。ご苦労だったな」
自分達の落ち度だと悔いる配下達に労いの言葉をかけたギョウブは…、
「…さて、トライチは上手くやれたか…」
「は。他でもないあ奴の事、抜かるはずもございませぬ」
確信がこもる狸の言葉で、ギョウブは満足げに顎を引いた。
ギョウブが名を口にした若い猫は、一匹単独で山中を回り、一般人の紛れ込みを警戒している。戦闘能力と言う点では一歩
劣る若者だが、機動力では隠神の眷属達でも敵わない。今回、守備範囲は他の二倍も割り当てられているのだが…。
「では、品改めが済んだら迎えに…」
言葉を切るギョウブ。その耳が、枝から枝へ飛び移る何かが発する、微かな風切り音を感知している。
「申し訳ございません!遅れました!」
ザッと、風を纏い月影を引き連れて木立から飛び出し、ギョウブの前へ参じたのは、細くしなやかな体躯の若いキジトラ猫。
臣下の礼を取って跪き、肩で息をする猫に対し、しかしギョウブは…。
「…トライチ」
「は!」
「遅れも何もねぇ。ワシは迎えに行くまで現地で休んで構わんと言ったはずだぜ。ええ?」
「あっ!?も、申し訳ございません!」
ブスッと不機嫌な顔を見せる大狸と、慌てて深々と頭と尾を垂れるキジトラ猫。
この若猫が張り切り過ぎる事は度々ある。迎えにゆくまで休んでおいて構わないと言われても、頭が拾いに出向く手間を省
こうとして本隊へ合流しにくるので、今日もすっかり疲れてしまっていた。
命令違反とも少し違うのできつく咎めたりはしないが、ギョウブの目には不満の色が浮かんでいる。
申田虎壱(しんでんとらいち)は十九歳になった。隠神彦左(いぬがみひこざ)が「刑部」を襲名してから一年半。妻を娶っ
てから半年が経った。
端午の節句も過ぎた今、真面目で熱心なトライチは着実に腕を上げ、ギョウブ直属の実働隊のサポート役として働いている。
眷属としての特色はあまり強く現れず、肉体的には頑丈と言えず、ようやく行使できるようになってきた能力は使い所を選
ぶ上にまだまだ不安定で、直接戦闘では他の者に敵わない。だが、身軽さと技能により、伝令や隠密行動、特殊工作の面で、
皆から重宝される腕利きの支援要員となっていた。特に遠駆け早駆けについては身軽さと持久力が味方し、神無の眷属である
狼達も「里で五本指に入ろう韋駄天ぶり」と太鼓判を押している。
昔から目をかけていたギョウブも、トライチの働きぶりそのものには文句など全く無く、周囲の評価も含めてその仕事に満
足しているのだが…。
「…まあいい。品物を検めるぜ」
話を切り上げ、話題を変えて本筋へ戻す事で、ギョウブは苛立ちを鎮めた。
トライチは熱心過ぎて体に鞭打つ。注意してもなかなか治らないのだが、命じた場合はきちんと従う。言う事を聞かせたけ
れば厳命すれば良い。そうしなかったのは、自分の命令の仕方の問題だと、ギョウブは軽く眉間を揉む。
(そう。トライチは何もやらかしちゃあおらんぜ…。まったく、こんな事にも気がささくれ立つのは、ただの八つ当たりって
モンだ…)
配下を率いて、品物があるはずの車へ歩み寄りながら、ギョウブは胸の内で自戒する。当主になったとはいえまだまだ青臭
い、と。
実は、ちょっとした事が過度に気になってしまうほど神経が尖っている原因には、ギョウブ自身も心当たりがあった。
祝言から半年。「はよう跡継ぎを…」と気の早い年寄り連中に急かされる事が増えて来たからである。
主君はギョウブの若さもあって急かしたりしないのだが、しかし重臣の一角たる隠神の跡継ぎ誕生を心待ちにしているのは
間違いない。
先達である神壊の当主も同じく急かさないが、この件ばかりは味方してくれずいつもの無表情…とも少し違う涼しい顔で、
援護を求めるギョウブの視線を無視してしまう。
大先輩である神無の翁に至っては面白がっている様子すらある。しかも他の年寄り連中と茶飲み話にギョウブの子作りの話
題を出し、他の老人衆を間接的に煽動しているので腹立たしい。
(それはともかく…、御役目は滞りなく)
車両に積まれていたアタッシュケースとジュラルミンケースが配下の手で運び出され、腕組みしたギョウブは顎をしゃくっ
て開けるように命じる。
男達の死体から失敬したキーでそれぞれが開けられると、片方には紙幣の束が、もう片方には銀色に輝くインゴットが五本、
それぞれ収められていた。純銀にも似た美しいインドットだが、角度によっては時折表面に薄い虹色が走って見えた。
「無垢の精霊銀、一貫二斤といったところか。なかなかの大漁だぜ」
ギョウブの目利きでは、インゴッドは純度100パーセントの精霊銀。これだけあれば合金に加工し、強靱な刀や鎖帷子が
多数作れる。
「…御館様にも御満足頂けるだろう…」
主の喜ぶ顔が目に浮かび、僅かに瞼を下ろすギョウブ。
「さて、ご苦労だった。ひとり先行して里へ届けろ。残りは後片付けだ」
ギョウブが指示を出すと、配下は自分達の中でもっとも腕が立つ眷属を一名選び、戦利品二つを預けて送り出す。死体の処
理に車の片付けなど、証拠隠滅を陣頭指揮したギョウブは、先に命を助けてやったドライバーがまだ目を覚ましていない事を
確認し、皆を集める。
「では、最終確認が済んだら撤…」
言葉を切り、ギョウブは空を見上げる。
夜明けまでまだ時間があり、暗いままの空の下で、湿った夜風に木々がざわついた。
「…降りやがるか」
湿った鼻をひくつかせ、風を嗅いだ大狸が呟くと、トライチは不思議そうな顔になって小さく鼻を鳴らした。
「…異臭がします。何か処分し忘れが…?」
血溜まりなどを残していただろうかと、さっと視線を走らせた若猫を、ギョウブ達は一瞬きょとんと見つめ…。
「…ああ、そうか」
大狸はある事に気が付いて、顔を顰めつつポリッと頬を掻いた。
「トライチ。こいつは磯の香だぜ」
「「いそのか」…でございますか?」
はて、何だっただろうか?と耳を倒して考える若者に、ギョウブは「海から湿った風が吹いて、匂いが届いとるって事だ」
と説明する。
「…海…」
ポツリと呟いたトライチの顔を、数秒見つめたギョウブは…。
「とにかくこの場は撤収だ」
気を取り直して皆に告げてから、「ワシはちょいと調べ物がある。皆は先に帰れ。御館様には二日ほど遅れると申し上げろ」
と付け加えた。
何も聞いていなかった眷属達は、「大将直々に?」「お独りで?」「お供は?」と訝って訊ねたが、
「何かあった時の伝令用に、一応トライチを連れて行く」
ギョウブが若い猫を見遣ってそう応じたので、ならば問題ないと頷き合った。
(疲れてんのかな…?)
首に手を当てて軽く左右に捻り、ドライバーはアクセルを踏み込む。
(変な夢見ちゃったよ…)
気分を紛らわせようとカーステレオの音量を上げ、深夜ラジオに慰めて貰い、減速しつつ待避所を出て、ちらりと窓越しに
振り返る。
車の一台も止まっていない、空っぽの待避所を。
(山降りたら休憩しよう…)
全て夢だと思い込んだドライバーは、慎重に山道を下ってゆく。その後方、貨物トラックのコンテナの上には…。
「潮風…、でございますか?」
若い猫が正座して、考え込むように耳を寝せている。
「そうだ。海から吹く、海の匂いが乗る風。つまり海の水気を含んだ大気が陸地に吹き込んで来とるって事だぜ。…判るか?」
向き合っているのは胡坐をかいた大狸。カーブが続く下り坂を走るトラックの上だが、二匹とも畳の上に座しているかのよ
うな安定具合である。
「は、はい…。海の上に、水が蒸発して溜まった湿気が、陸に吹き込んで冷えると雨が降る…んでした…っけ…?」
口頭で教えられただけの知識なので、イメージし辛くてやや自信が無さげなトライチだったが、「そこまで判っとればいい」
と頷かれてホッとした。トライチにとってのギョウブは護るべき主君であり、遣えるべき頭領であり、そして師匠のようなも
のでもある。
「それで、イヌガミの大将。調べ物というのは…」
改まって、用事の詳しい内容を教えて貰おうとしたトライチは…、
「今は「ヒコザ」で構わんぜ」
「え?」
ニィッと相好を崩して悪戯っぽく笑った大狸の返答で、目を真ん丸にする。
彦左と…つまり刑部を襲名する前の名で呼べと彼が言う時は、つまり…。
「御役目に関わる事では無いのですか?」
「調べたい事は多少ある。ヌシの社会見学も兼ねるが…、私用混じりだ、里に帰るまでは「ヒコザ」でいい」
「…は、はい!」
立てた尻尾をフルフルさせ、顔を輝かせて喜ぶトライチを見て、腕組みを片方解いて頬を掻きながらギョウブは思う。
(ま、人一倍頑張って励んどる訳だ。たまにゃあ褒美に喜ばせてやらんとな…)
街の灯りが木々の隙間に見えた。
朝が来るまで夜通し輝く電気の灯りを、物珍しそうに眺めるトライチ。その顔をギョウブは物憂げに眺める。
妻には勿論、この関係の事は話していない。
衆道が武士の嗜みであった頃に世俗から切り離された隠れ里では、男色はそうおかしな事でもない。小姓と戯れる程度は特
に問題視もされないし、位が高い者同士でもそんな付き合いを公然の秘密として黙認されている者達もある。
だがギョウブは、隠神一派を率いる頭であるという自分の立場と、妻の気持ちを考え、トライチとの関係を誰にも漏らして
いない。
隠神若当主の立場としては、まだ嫡男も生まれていないのに男色にうつつを抜かしている…などと軽んじられてはかなわな
い。故に秘密にしている。
妻については、自分と同じくヤヤコの誕生を期待され、話も色々と耳に入って来るだろう状況で、部下と熱を上げている話
などすれば苦しんでしまう。そもそも、血縁維持のために当人同士の意思とは無関係に決められていた婚姻とはいえ、誇りと
覚悟を胸に嫁いできた妻を、ギョウブ個人は憎からず思っている。
その内に子を授かって、重圧から解放され、気持ちに余裕ができたなら、妻にだけはこっそりトライチの事を白状しようと
考えているのだが…。
(それでも、示しがつかんから他の皆…特に配下共には黙っておこう。士気に関わるようじゃあコトだぜ…)
実際には、里でも稼ぎ頭と言える働き者の当主が、若いの一匹に熱を上げたからといって、部下も眷属もその程度の事は気
にも留めないのだが、根が生真面目なギョウブはどうしても拘ってしまう。
しばしそんな事を考えた後、何か悩み事だろうか?と心配しているようなトライチの視線に気づいたギョウブは、軽くかぶ
りを振った。
(いや!今は余計な事まで考えるな。トライチの労いだけ考えろ…)
トラックが山の麓に近付いた頃、荷台から二つ影が跳んだ。
巨体の重さを感じさせない動きで、道の脇に立つ立派な木の太い枝へ飛び移ったギョウブは、続いたトライチを迎えるよう
に手を引き、抱き止める。
軽い抱擁を兼ねたソレに、胸へ顔を埋めて耳を伏せ、体で喜びを物語るトライチ。
「少し歩くぜ。こっちだ」
トンと地面に降り立って、ギョウブはトライチを伴って木々の中を抜けてゆく。舗装道路を無視した最短ルートで目指した
先は…。
「ここが、駅…」
固く整った石造りの床の上、若い猫は目を真ん丸にしていた。
電気仕掛けの表示板には数字と文字が浮かび上がり、朝早くだというのに駅の中の店は珍しい品々を並べ、しかもそれを買
う客が居る。
「トライチ。余所見に夢中になって離れ過ぎたらいかんぜ?」
キョロキョロと落ち着きなく視線を飛ばし、パンフレットの棚やツアー旅行のポスターにフラフラと吸い寄せられるように
歩き回っているトライチに注意するギョウブは、しかし反応が面白いのでまんざらでも無さそうな顔。ふたりが居る切符売り
場付近は、早朝とはいえ人通りもあり、監視カメラもあるのだが、全く気にしていない。
隠神の幻術…つまり世界最強の幻術師一族と称される神ン野の血族による幻術は、間接的にビデオや写真、録音機器をも欺
く。記録するフィルムや電子機器などの記録媒体が「術まで丸ごと」記録してしまうため、映像そのものは正確にギョウブ達
の姿を記録しているにも関わらず、ソレを見た者が映像や写真、録音に幻を見聞きしてしまう。
術の素である思念波が粒子と波動の二重性を持つが故の作用らしいが、この手の機械に明るくないギョウブにはどんな仕組
みでそうなるのかは判らない。ただ経験則として知っているので積極的に利活用している。
そして、おそらく心霊写真だの映像だのと呼ばれる物は、同じように何者かの思念波…例えば死した際に残された念や、強
力な想いが記録されたものなのではないか?というのがギョウブの見解。…実は宿敵である神ン野家の嫡男と同じ意見だった
りする事は知るよしもないが。
「ヒコザさん!先月先輩からお土産に頂いた「ちいづ・ぶりと」があんな所にも!何という事でしょう!?似たような別種の
品まで、あれあの通り!」
「おお、良かったな」
「ヒコザさん!ちゃ、茶が!茶の筒があんなにたくさん!見た事の無い筒も山ほど並んでおりますよ!?」
「おお、珍しいな」
「ヒコザさん!書物まで置いてあります!しかも多種多様に!こ、これは一体!?」
「あまりはしゃいで迷子になるなよトライチ?」
興奮気味のトライチを見守り、しばしその行動を微笑ましく眺めていたギョウブは、従者が落ち着いてきたのを見計らって
店から離れ、懐から財布を取り出し、表示板を見て駅名を確認し、ふたり分の切符をきちんと買う。…姿を認識されていない
のでこっそりタダ乗りする事など容易いのだが、意外とマメである。
しばし後、立っている駅員から離れた位置で無人改札が二度開閉したが、それには誰も気付かなかった。
ココンココンと規則正しく揺れる電車の中、トライチは座席に膝立ちになり、窓に顔を押し付けて、横に滑ってゆく景色を
じっと眺める。
空が曇り、降り出した霧雨も加わって薄くけぶった空気の向こうに見える、ありふれた民家や工場、自動車道の立体交差や
鉄橋さえも、若い猫には珍しい。
存在が確認されている敵勢力の陣容偵察や追跡、実働隊の支援が任務となるトライチの仕事は、主に山野での活動となる。
街へ降りる事も稀にあるが、幻術師ではないので単独で入る事は勿論、実行部隊でもないので踏み込む事も殆どなかった。
駅も電車も生まれて初めて利用するので、気になる物や珍しい物ばかり。二時間ほど経っても飽きずに窓にくっついたまま
である。
「トライチ、疲れちゃあおらんか?帰りも乗るんだ、見物はまたできる。寝とっても構わんぜ?」
ギョウブとして振舞う普段は厳しく、態度もそっけなく、説教臭くて苦言も多いが、ふたりきりの時のギョウブはトライチ
に甘い。興奮しているのだろうが、疲れていないかと身を案じる。
「はい!」
トライチの返事はかなり元気である。心配は不要だったかと、ギョウブは腕を組み、軽く目を閉じた。
半自動で持続する幻術は隠神の十八番。もしギョウブが居眠りしても簡単に正体が露見する事はない。…とはいえ、帝の治
世たるこの時代、この国全てが敵地とも言える中で堂々と居眠りできる肝っ玉は、もはや異常と言える。
幻術により姿は認識されないが、乗り降りする他の乗客はそこに座れないと無意識下で判断するため、ギョウブとトライチ
にぶつかったりはしない。ただ…。
欠伸を噛み殺して電車に乗り、空いている席に腰を下ろした大学生が、イヤホンを摘んで耳穴にフィットさせ…、ふと鼻を
鳴らす。
(…ん?何だろう、古い布みたいな…、あと、草の匂い?)
術がやや緩かったのか、腕組みして目を閉じている大狸の横に座った大学生は、しきりに不思議がっていた。
ふたりが忍び込んだ電車は目的地へ、半島の先へと近付いてゆき…。