止んだ潮騒(前編)
今夜の酒は妙に辛い。
ぐい飲みを見下ろし、映り込んだ行燈の光に目を細め、大狸は顔を顰めた。
「いかがした?」
向かいに座した老狼からの問いに、「いや…」と口を濁したギョウブは、再び酒盃を煽る。
静かな夜だった。里の皆が寝静まった深夜、酒宴が終わった後で、ギョウブは鈍色の狼に招かれてサシ飲みに興じていた。
長期任務に派遣していた一団が戻り、主君の労いで催された酒宴…だったと思う。
(いかん、多少酔ったか?)
と数度瞬きしたギョウブは、徳利を掴んで狼に口を向けた。
神無の当主であるシモツキはギョウブの父よりも年上で、里では最年長の戦士。経験の面でも精神の面でも現主君の支えに
なっており、相談役としても重宝されている。
ギョウブ自身も幼い頃から面倒を見て貰い、技術から作法に至るまで様々な指南を受けた。若くして「刑部」を襲名してか
らも、相談に乗って貰ったり、経験不足をフォローして貰ったりするなど、だいぶ世話になっている。
シモツキ殿もお年を召したと、ギョウブはしんみり思う。背筋も伸びたままで立ち振る舞いもしっかりしており、眼光にも
力があるのだが、体は随分痩せた。あばらが浮くような痩せ方ではないが、逞しかった筋肉が落ちたせいで細く見える。
軒下の濡れ縁に座し、キュウリの浅漬けを肴に酒を楽しんで、どれほど時が経っただろうか。シモツキがおもむろに口を開
いて、しんみりと言葉を発した。
「…ヒコザが酒を酌み交わせる歳か…。私が老いるのも無理はない」
当主襲名前の名で呼ばれ、「昨日今日からの話でもなし、今更何をおっしゃるか」と、ギョウブは思わず口の端を緩ませな
がら応じた。
ぐい飲みを見下ろす。減っていない辛い酒。映り込む行燈の灯。樹木の精油が燃える匂い。
酒の巡りが少々おかしいのか、それとも風のない夜気の湿度が高いのか、妙に息苦しくて暑苦しい。
甚平の胸元に指をかけ、胸襟を軽く広げて胸を少し晒しながら、ふと、ギョウブは庭を見遣った。庭と言っても雅な物では
なく、垣根の内側に食料になる柿と栗の木などを植えただけの簡素な物。そこに小熊が二頭、追いかけっこするように姿をち
らちら見せていた。
「ラン、フウ?」
こんな夜中にどうしたのかと、訝ったギョウブだったが、咎める前にシモツキが口を開いて注意を奪われる。
「思うに。何も知らずに生きられれば、それが幸せなのだろう」
ぐい飲みを口元に寄せて言葉を切ったシモツキの顔を見つめる。目元を影が覆い隠し、視線は読めない。
「それは、ランとフウの事で?」
ギョウブの問いに、答えはない。視界の隅で、赤銅色の影が庭木の間をくるくる回る。暑苦しくなり、ギョウブは再び襟元
に指をかけた。
「子供ら皆の事ですか?」
ギョウブの問いに、答えはない。正面に座した狼翁の表情が読めない。汗が頬を伝って息が苦しい。
「シモツキ殿?」
ギョウブの問いに、答えはない。シモツキは無言。吐息すら聞こえず、庭で遊ぶ子らは…。
(声が…ねぇ…?足音も…)
視界が揺れる。見えている物の輪郭があやふやになる。行燈の光が遠退き、濡れ縁の板目が踊って見える。
「何も」
狼の声が遠くから反響するように聞こえた。
「知らずに」
眩暈がする。頭痛がする。吐き気がする。だが、これは酔いのせいではない。
「生きられれば」
熱い。なのに寒い。悪寒のせいか背骨がキリキリ痛み、歯の根が合わなくなる。
酷い眩暈を堪え、眉間を押さえて目を閉じ、そして開く。
「!?」
一面の火の海に、ギョウブは立っていた。
燃え落ちる屋根。潰れて火の粉を撒き散らす家屋。炙られた柿の木がペキペキと割れるような悲鳴を上げている。
「ラン!?フウ!?シモツキ殿!?」
炎の舌が伸びた先で黒煙が上がる。揺れる空気の向こうは赤、赤、赤…。神無の館は既に燃え崩れ、潰されて崩れた濡れ縁
が、溶けた雪のように庭先へ伸びている。
「誰ぞおらんか!?お館様は無事か!?誰か…」
背後で小屋が焼け落ちる。熱風と煙を浴び、左腕を上げて顔を庇いながら、ギョウブは妻子の名を、同僚の名を、親類の名
を、部下の名を呼ぶ。
誰の姿も見えない。誰の声も聞こえない。無人の里を炎が呑み、あらゆる物を消してゆく。
里中を駆け回り、主君の屋敷前で立ち尽くしたギョウブは、燃え上がる炎を愕然と見上げる。
これが「終わり」か。
喪失感がギリギリと胸を締める中で、ギョウブは踵を返した。
「トライチ…」
小さな小さな呟きが、口の中で転がされる。
先に一度確認した。トライチと育ての親が住む家は、屋根が落ちてぺしゃんこになっていた。
居なかったはずだ。居ないはず。居ない…。
戻り歩んだ足が、残骸となった家屋の前で止まる。
居ない。そう思うのに、自分から反論される。
中まで見ていないのに、何故居ないと言える?
頭を振る。額に手を当てる。頭痛が酷い。
居るわけがない。居てはならない。無人だ。無人なのだ。燃え落ちた屋根の下になど誰も…。
「…居ねぇ…!誰も…」
断言する。なのに疑念がある。息が乱れる。胸が苦しい。
「…誰も…」
瞳が小刻みに震える。玄関口の小さな庇。雨漏りを直してやった跡があったはずだが、もう焼けてしまって判らない。
後悔に胸が締め付けられる。
本当に居なかったか?
戻って助けられる者はなかったか?
本当にあれ以上出来る事はなかったのか?
一体何の事なのだと疑問に思うも、里が焼けてゆくパチパチという音が、思考を妨げる。
落ち武者となった先祖達が身を寄せ合い、雌伏の時を過ごして機会を待ち、次の世代へ悲願を預け続けて来た隠れ里が、火
に巻かれて灰になってゆく。
樹海の潮騒が聞こえない。何もかもが燃え落ちて行く音に、空気が焼けて唸る音に掻き消されて。
「ワシは…」
不快な熱に身を蝕まれ、喉からヒュウヒュウと掠れ声が漏れる。
「里を…、皆を…、護らんと…」
「げほっ!」
酷い喉の渇きを覚え、咳き込む。
「…!」
咳をしたと同時に激痛が左半身を駆け抜け、反射的に息を殺して声が出ないよう力んだ。その直後…。
「大将!」
「イヌガミの大将!」
「ギョウブ様!」
野太い声がいくつも重なって耳鳴りを貫き、脳に届いた。
目を開ける。横になっているのだと気付く。折り重なる木々の枝と、自分を覗き込む狸達やキジトラ猫の顔を見て、ギョウ
ブは軽く困惑した。
自分は今、何処でどうしていたのだろうか?と。
「イヌガミの大将…!」
「…タスケ…?サブロウタ…、それにカンゲツ…。トライチも…。一体何が…」
覗き込んでくる顔の一つに目を止め、状況を訊こうとするも、汗が左目に入ってしまう。それを拭おうとして…。
「…?」
左手が「来ない」。その事実をもってギョウブは思い出した。自分達がおかれている状況を。
「…ワシは、どうしていた?」
仰向けのまま右腕を上げ、顔の汗を拭う。起き上がるなと頭の隅で命じたのは、危機的状況を把握している本能。おそらく
自分は立ち上がれる状態ではないと察し、ギョウブは感覚の命令に従った。
何処の山中か、大木の根元には茣蓙が敷かれ、ギョウブはその上に寝かされていた。
「は!先行偵察中にお倒れなすったんでぇ、至急この場で看病をば」
ギョウブと似た背格好の大柄な狸…眷属の生き残りの一匹が報告する。明瞭になってくる感覚の中、ギョウブは左肩付近か
ら胸元、脇腹、首筋に至るまでの違和感を把握した。鏡を覗いて確認するまでもない。酷く腫れ上がっているのが判る。
解熱の膏薬を塗り込んだ葉があちこちに貼られているが、まだ熱は下がりきっていない。我が息ながら違和感があるほど呼
気が臭っており、体内に入り込んだ雑菌の類との戦いがまだ続いている事が判る。
体調不良などと表現するのも生ぬるい、激痛と悪寒と吐き気が一斉に攻め立ててくる酷い気分だったが、熱で茹だるような
頭を必死に回転させ、ギョウブは状況把握に努める。
隠れ里が攻め落とされ、主君を失ったあの日、ギョウブは生き残りを率いて脱出した。帝側の追手を警戒しつつ急ぎ樹海を
離れ、昼夜休まず六日は移動した。いかなる痕跡も残せば危険なので車などの足を調達するのは見合わせた。動けない者は動
ける者がおぶった。幻術の目くらましも絶えず張り続けていた。
神ン野の当主は仕留め損ねたが、すぐに動ける状況ではない。まんまとはめられたが、神ン前桜の不自然な消失は奥義の継
続行使が不可能になった物と、後から推測した。逆神を出す事を恐れて血統の分岐を制限した神ン野には、当主筋以外に強力
な幻術を扱える者は少数。しかも隠神と眷属達は、隠れ里を守る観点からも、そういった者を優先的に排除してきたのだから、
有力者の数は知れている。追撃や探索に満遍なく配置するには、そういった強力な幻術使いは少な過ぎる。上手くやりさえす
れば逃げ切れる目は十分にあった。
連れてきた大半は戦闘要員ではない。怪我人も女子供も老人も多い。薬も殆どなく、ろくな治療もできない状況で、深手を
負っていた者から容態を急変させて死んでゆく。六十余名居た生き残りは、一週間経った時点で四十九名まで減った。墓碑も
作れず、亡骸は目立たぬように埋葬された。
そんな状況での焦慮に背中を押されての事もあった。ギョウブはそれなりの距離を稼いだ所で本隊を休息させ、今後の事を
考えつつ進行方向の安全確認をするために、自ら少数の人員を指揮して本隊から離れたのだが…。どうやら気を張り詰めて誤
魔化しても、体は限界に至ったらしい。
「どれほど寝とった?」
「丸二昼夜です。本隊には、安全が確認できて、進む方角が決まるまでは休息だと伝えています。大将が倒れた事は伝えてお
りませんが…」
「いい判断だ。助かった…」
大将が倒れたと伝えてしまったら混乱をきたす。そう考えて容態を伝えなかった部下の配慮に、ギョウブは安堵を覚えた。
部下の報告を元に逆算すると、今日で隠れ里を出て十日目。さてはこの腕のせいだろうと、大狸は失った左を意識した。
里を出て生き残りを連れた逃避行。その手始めにギョウブが行なったのは、切断された左腕の傷を、焼き鏝で焼いて塞ぐ事
だった。縫合などをしている時間も手間も惜しかったのだが、その後が悪かった。追っ手の警戒、進行方向の安全確認、動け
ない者は背負って運ぶ、昼夜を問わない強行軍…。その休み無い行軍で、指揮を執り方針を固め、自らもひと一倍働いたギョ
ウブは、腕を失った際の失血も補われないまま、傷口も塞がりきらないまま、押し通した無理が祟って昏倒してしまった。
(情けねぇ…)
歯を噛み締める。倒れた事がではなく、限界を見誤った自身の焦りと余裕の無さが情けない。
里が落ちた。主君も他の将も皆逝った。生き残りの生死は自分にかかっている。倒れて動けなくなるまで無理をしてはいけ
なかった。
「…済まんが、朝まで休む…」
無理は通せないと理解した大狸の自発的な発言で、囲んでいた面々は一様にホッとした。
「朝になれば歩ける。誰か本隊まで合流予定の連絡を…。タスケ、伝令を」
「は!」
名指しされ、ギョウブと似たような体格の大狸が力強く頷く。
「ヌシだから任せる。休み無しになるが、晩には飯を二食分くれてやる。明日の晩の見回りからも外す」
「ふふっ!褒美がそう来るなら、やる気もドンと湧いて来るってもんでぇ!」
嬉しそうに笑った狸は、傍らの木の根元に立てかけていた、刃毀れだらけになった抜身の大太刀を掴んで立ち上がる。そし
てその巨体は夜風を切って闇の中に踊り込み、すぐ彼方に霞んで見えなくなった。
「他は日の出直前まで休め。ワシと同じ轍を踏んじゃならんぜ?」
自戒と自嘲をこめたギョウブの命で、皆の顔に微かな笑みが浮いた。最後の大将は生き残った全員を護る大黒柱、今ギョウ
ブを失っては纏めて路頭に迷う事になる。
「ワシはここでこのまま休む。皆は下がっていい。…トライチ、悪いがヌシは念のため傍に控えて貰う」
「はい、大将!」
キジトラ猫が返事をすると、他の面々はギョウブに断りを入れ、各々が休憩と見回りに入る。そして…。
「トライチ。水はあるか?」
「はい」
声を潜めたギョウブに応じ、トライチは水が入った竹筒の栓を抜いた。
「…済まんが、飲ませてくれ。無事なはずの右腕どころか、体そのものがままならねぇ…」
「はい。では失礼して…」
首を起こすだけで左半身が痛み、呻いたギョウブの頭を、トライチはそっと膝枕する。そうして顔を少し起こした状態にさ
せ、口元に竹筒をあてがった。
喉を鳴らすギョウブの口元から、飲み損ねた水が零れる。首の左半分が腫れているせいで、嚥下に伴い痛みが走り、顎骨ま
で痛む。
水を飲む事すらままならないほど弱ったギョウブの姿を痛々しいと感じながら、しかしトライチは顔を逸らさない。皆が居
る前では無様を晒すまい…。そんな意地を張りながら、ギョウブはトライチの前でだけ弱った自分を曝け出した。それは確か
な信頼の証拠でもある。
「…トライチ。衣を脱がせてくれ」
ギョウブが纏うボロボロの作務衣は、脂汗を吸ってすっかり濡れそぼっている。熱も引いてきているので、このままではむ
しろ体が冷えてしまう。力が入らないせいで重たいギョウブの体を、トライチは苦労して起こして支え、まず上衣を、それか
ら下穿きを脱がせて褌一丁にした。
衣は広げて枝に干す。戦から十日着た切り雀。汗に土、返り血に草露、衣にも体にも染み付いているが、鼻に馴染んで臭い
も気にならない。
干した衣から目を外し、半裸で横たわるギョウブの体を見下ろして、トライチは視線を固定した。
(ヒコザさん…)
神原の当主に斬り落とされた左腕。焼いて処置した傷に無理が祟ったせいで、そこから広範囲が腫れ上がっている。二の腕
などは右との差がはっきり見て取れて、首の左側も左肩も右側とは輪郭が変わっていた。胸の厚さも左側だけ違って見える。
昏倒したとはいえ、薬もろくに持ち合わせていない中、ここまで持ち直したのは本人の生命力あっての事だろう。
「無理はなりませんよ?大将…」
横たわるギョウブのすぐ脇に腰を下ろし、トライチは少し口調をきつくする。
「いまイヌガミの大将に倒れられたら、皆が路頭に迷います」
「判っとるつもりだった。が、この体たらくでは言い訳もできんぜ…」
耳を倒したギョウブは、左腕を動かそうとして痛みに息を止め、改めて右腕を上げて額の汗を拭った。
「大将。身を清めれば少しは気分もよくなるでしょう、お体を拭きます」
トライチはそう申し出て、比較的綺麗な手拭を水筒の水で濯ぎ、しっかり絞ってからギョウブの体を拭い始めた。
痩せたと感じる。皆それどころではなく、毎日見ているので変化に気付き難いのだろうが、この十日程度でギョウブはやつ
れ始めていた。多忙かつ重労働なので体に堪えているのもあるだろうが、負傷を押しての無理や心労も、衰弱に拍車をかけて
いる。
(おいたわしい…)
里から落ち延びた皆を護る。その重責と重圧がどれほどの物かは想像に難くない。判断一つ誤れば全滅にも繋がりかねず、
フォローする年長者も居ない。妻子に友に部下、皆の命運が三十になったばかりの当主の両肩にかかっている。
「…っ!」
無言だったが、ギョウブは左胸の鎖骨付近を拭われると身を固くした。腫れている部位は相当痛むらしいと気付き、トライ
チはそっと触れる程度の力加減で左側を拭ってゆく。
行水する余裕もなかったギョウブの体を拭っている内に、トライチの手拭はすぐ赤茶色になってしまった。肉付きの良い胸
を、特に腫れている左側は気を使って撫でるように拭く。痛みが激しいのは腫れが確認できる範囲だけだったので、他は垢も
土埃も皮脂も可能な限り拭い取る。
(湯浴みさせてあげたいけど、行水できるような場所は近くに無いし、夜に火を起こすのは目について危険だし…)
傷のことを考えれば身を清潔に保たせるべきなのだが、はっきり言って余裕が無かった。せめてここからはと、トライチは
心を込めて労わりながら、主の身を清めてゆく。
胸の下も、丸く出た腹も、拭う傍から手拭を茶色くする。臍もほじるようにして綺麗にすると、流石のギョウブも「ふぬ!」
と妙な声を上げた。
数度漱いで上半身を拭き、繰り返し繰り返し手拭を洗って絞って、いよいよ下半身に取り掛かろうとしたトライチは…。
「………」
手を止め、太鼓腹の下でそそり立ち、褌の布地を押し上げている男根を見つめる。
「ただの疲れマラだ、気は使わんで良いぜ?溜まっとらん訳じゃないが、今は精の一滴も惜しい。…何にしても、ワシも思っ
た以上に元気らしいな」
そう言って鼻で笑ったギョウブは、体を拭うのもままならないほど力が篭らない右手を眼前に翳した。
「まずは、残った右手に左手の仕事を覚えさせにゃならん」
「けれど大将、右利きですよね?」
利き手ではない左手の仕事とはどんな物だったのだろうかと、トライチは考え込んだが…。
「だが手淫は左だったぜ」
「………」
流石にこれにはすぐ返事ができなかった。だが、下品な冗談を言える程度に意識も気力もしっかりしてきていると感じ、口
元を綻ばせる。
「少なくとも、左手で鯉口を切らずにドスを抜く…、こいつには慣れとく必要があるぜ。これからは右一本が頼みだ」
抜刀もそうだが、ギョウブは元々左手をよく使う性質だった。利き手を自由にしておくために、ちょっとした用事を左手で
こなす…そんな癖がついていたのである。
まずはここから修正しなければならないのだが、ギョウブは少々困っていた。
幻肢痛という症状の一種なのだろう。ギョウブは時折、失った左腕が今も存在しているような錯覚を覚える。草が触れたよ
うな感触や、肌の痒み、体の下に敷いて長時間寝てしまった時のような痺れや疼きなど、とてもただの勘違いとは思えないよ
うな感覚を。このせいで、左手を使おうとしてしまう癖がなかなか抜けない。
それに加えて、左腕を失った事で体の重心も変わっていた。バランスが取り難くなっている所もおいおい何とかする必要が
ある。そもそもバランスの変化が歩行時の疲労を深めているのだから。
「…左は、お傍に控えている時はお任せ下さい」
トライチの声が控えめに小さくなったのは、自分如きが片腕の名乗りなど図に乗ってはいないだろうかと考えてしまったせ
い。しかし…。
「ああ。これからは今まで以上に頼りにさせて貰う。抜かるんじゃねぇぜ、ええ?」
ニヤリと笑ったギョウブにそう声をかけられると、嬉しいと同時に気が引き締まり、背筋が伸びた。
やがて、足まで拭いて手拭を絞ったところで、もういいとギョウブに言われたトライチは、招かれて枕元に座り直す。
「本隊は大人しく待っとるんだな?」
「はい。一気に進めるように広い範囲を確認しているので時間がかかっていると、伝えてあります」
「結構。皆が不安になっても困る、ワシも急いで戻った方が良いだろう。人手が足りんとはいえ、若手を駆り出したままじゃ
あ年寄り達に負担もかける。見回りに回す分も配置を変える頃合いだな。それに…、そうだ。本隊の食料確保は大丈夫か?」
目覚めたばかりでまだ眠気が無いのだろう。体は休めながらも今後の事を考えるギョウブに求められるまま、トライチはな
るべく細かな情報をつけて現状を伝える。
そうして一時間あまり、当面の予定を練り直したところで、ギョウブは一度黙った。
昏睡から目覚める直前に見た夢の事を思う。
―思うに。何も知らずに生きられれば、それが幸せなのだろう―
夢の中で老狼が言った言葉。あれは夢の中だけの物だっただろうか。それとも実際に聞いた覚えがあった物だろうか。
(何も知らずに…)
思うのは、まだ幼い子供らの事。
死なぬために逃げ延びはしたが、それからどうするかはまだ決めていない。今は死なぬようにするのが精一杯で、先を望む
余裕が無いとはいえ、何の目的も目標も願いも望みもないまま、辛いだけの日々を生きられるほど、ひとは強くない。
目的と考え、最初に思い浮かぶのは「仇討ち」だが、ギョウブはこれを既に選択肢から捨てている。主君を追って華々しく
討ち死にするのは魅力的だが、その誘惑に従って得られるのはただの自己満足に過ぎないと。自分達は総力戦でも敗れたのだ。
生き残りが総掛かりで一矢報いたとしても、それで終わりになる。その後の結末は反撃による全滅しかない。
掲げる旗もなく、担ぐ頭領もなく、寄る辺もない落人達が選ぶべき道は…。
「あては、ねぇとも言い切れん…」
ボソリと呟いたギョウブに、トライチが「はい?」と顔を寄せる。
「とりあえず身を隠せる場所の事だ。むしろ、頼れる相手なんぞそれしか思い浮かばんが…」
「本当ですか!?」
「本州南端。大財閥、烏丸コンツェルン…」
ギョウブが口にした単語を反芻して、トライチは眉根を寄せた。五大財閥に数えられる大物なので名前は知っているが、隠
神が縁を持っていたとは知らなかった。
「あれは表向きの顔…。本当の顔は、前に何度かヌシにも名を聞かせた「鴉」って組織だ」
「鴉!?」
トライチが目を大きくする。ギョウブが御役目中に時折気にしていた存在、「オブシダンクロウ」。ちょっとした縁がある
とだけ聞いていたが…。
「ワシらの事も少しは理解しとるだろうぜ。細い縁だが、あそこの頭とは先代の時分にちょいと縁ができた」
「どんな繋がりなんですか?」
「本当にか細い縁…。先代が交わした口約束の話が根拠の細い繋がりだ。向こうが知らんと言ったらそれまでの、な」
「え?それは…」
頼って良いのだろうかと考え込むトライチだが、そもそもあてにならないならギョウブは口にしなかっただろうとも思う。
結局トライチは、それなりに可能性はあるが確信はできないといった所なのだろう、と察しをつけた。
「ダメなら他の道を探す事になるが、まずそこを頼る。しかしだ」
ギョウブは軽く瞼を降ろして、考え込むような、そして逡巡するような半眼になった。
「どう見てもワシらは厄ネタだ。関りを避けられるどころか、捕えられる可能性もある。…様子見と交渉は必須だが…」
自分達を匿うという事は、帝と神将を敵に回す火種を懐に入れる事。烏丸がそれを良しとする保証は無い。珍しく言い難そ
うに口ごもったギョウブに、トライチは「判りました」と顎を引いた。
「同行いたします」
縋りたいのは山々だが、手放しで無防備に飛び込む訳には行かない。期待はしたいが、相手方が信用できなかった場合の事
は考えねばならない。そんな危険な交渉への同行者になれと、命じる事ができなかったギョウブに、トライチは笑顔で応じる。
「いざという時、本隊への伝令は必要ですからね」
真っ先に逃げて皆へ知らせる。ギョウブの意を汲んでそう口にし、満足させて頷かせながらも、トライチは「その後」の事
まで決めている。
もしも交渉が上手く行かず、害されそうになったなら、ギョウブは自分を逃がすのだろう。そうなったら命に従い、確実に
本隊へ情報を持ち帰らなければならない。
だが「その後」は、ギョウブの元へ戻る。独り生き永らえるつもりは無い。亡骸に寄り添い果てるなら本望。独りで逝かせ
るつもりはない。
殉死など要らぬ、と怒られるのは目に見えているが、こればかりは譲るつもりがない。ギョウブが畳の上で穏やかに果てる
なら見送りもするが、刃の下で戦って果てるなら、同じ刃にかかって殉じる気構えである。
「…トライチ…。少し休む…」
やがてギョウブは重くなってきた瞼を閉じて、傍仕えに囁いた。
「…済まねぇな…。感謝しとるぜ…」
返事はせず、眠りに落ちる主君を無言で見送ると、トライチは音も無く立ち上がる。そして軽く一礼して立ち去った。
里を出てから、トライチは常に考えてきた。そして変わりつつあった。
ギョウブの片腕を補う。そして手が足りぬ全てをも補う。偵察、警戒、雑用、戦闘、手が足りないならば何でも…。
周辺で休んでいる狸達にも気付かれず、トライチは野営地を離れて木々の中の息遣いを窺った。そして音も立てずにするす
ると木に登り、眠っていた山鳥に気付かれずに接近し、素早く首を取って声も上げさせずに絞め殺す。
(大将は目が覚めたらすぐに動こうとするはず…。せめて朝餉の支度ができていれば、慌しく発つ事はないだろうし、皆の負
担も減る)
自分にできる事は何でもする。事に貴賎なく、必要であれば進んで何でも。
未熟さが、頼りなさが、削ぎ落とされて研ぎ澄まされる。たった十日で顔つきまで変わりつつある。
トライチは短時間で山鳥を人数分捕らえ、羽毛を取り除いて血抜きをし、解体などの下処理を済ませてからギョウブの元へ
戻り、容態を確認して傍で蹲り、目を閉じた。
夢も見ない深い眠りに落ちるトライチの上で、梢はピクリとも揺れない。
故郷のような、木々が揺れる潮騒は、一度も耳に届かなかった。
祉城電吉(しじょうでんきち)は胡坐をかき、腕を組み、じっと一点を見つめていた。
左耳が半ばから欠損した厳めしい風貌の、赤黒い被毛を纏う、熊の偉丈夫である。骨太な全身が岩のような筋肉に鎧われて
おり、座した姿は大岩のよう。
逃避行に疲れ果て、僅かな見回りと見張りを残して泥のように眠る落人達の中、デンキチはじっと、本家の忘れ形見となっ
た双子を見ている。
ムシロにくるまり、寄り添って眠る小熊達。どちらもまだ五歳の子供だが、十日前に親を亡くした。
父は、神将達と渡り合って討ち死にを遂げた。
母は、里や家と同じように炎が持って行った。
片方は気が強く、片方は気が弱い双子。どちらも口数が少ないという共通点があったのだが、気が弱い方は里を出て以降放
心気味で、殆ど喋らなくなっていた。
双方赤銅色の被毛を纏っているのだが、弟の方は毛色が薄くなっている。助けようとした母が目の前で焼け死んだのが堪え
たのだろうと皆は囁いている。
不幸な事に、傷心の小熊を満足に慰められる者は居ない。誰も彼も手一杯で、世話を焼く余裕が無い。目付け役としてデン
キチが気を配ってはいるが、それだけである。
(これで、良いのか…?)
里を出て以降、幾度もそうしてきたようにデンキチは自問する。
デンキチは当年とって二十七歳。神壊の眷属としては若手の部類に入るが、他の眷属の例に漏れず、元服を経て最初の御役
目を賜って以来、戦果を上げ続けての十二年。
その最初に経験した負け戦が、里の陥落だった。
(これで良いのか…?)
フウはずっと放心しているような状態。移動する時に手を引くランも無口だが、兄弟の寡黙さは少しばかり違う。
兄は、ランは、暗い熾火のような物を瞳の奥にちらつかせていた。
怒っていた。恨んでいた。憎んでいた。嚇怒怨恨憎悪、諸々の暗く燃える感情を抱えているが故の無口さだった。
(これで良いのか?)
デンキチも同様である。崇拝してきた御館様を殺された。尊敬してきた本家の当主を殺された。親しかった仲間を殺された。
老いた母も焼かれて死んだ。子を産んでくれるはずだった許婚も一緒に…。
帝が憎い。神将が憎い。彼らに与する者達が憎い。
(これで…)
落ち延びて、それからどうする?デンキチの中で疑問が膨れる。
のうのうと仇をのさばらせて良いのかと、敵わぬまでも撃って出るべきではないのかと、隠神の当主に直談判もした。
気持ちは判るが、一旦落ち着いて考えろ。と、大狸は答えた。
その時はデンキチも素直に顎を引いた。落ち延びた者達は疲弊しており、すぐに戦える状態ではない。まずは体勢を整える
べきだと。
だが、自分はその言葉を誤って受け取っていたと、やがてデンキチは気付いた。
ギョウブにはもう帝勢と闘う気はなかった。他の者もその意思に従った。デンキチだけが、いずれ仇討ちに出るために一旦
身を隠すのだと勘違いしていた。
皆が疲弊して戦の事も考えなくなった中で、デンキチは雰囲気を読んで何も言わずに堪えてきた。だが、ギョウブが本隊を
離れて偵察に出かけ、二晩も休息した間に、溜め込んでいた物は激しく燻り出した。
この逃避行の結末はどうなる?逃げ続けて隠れ続けてどうなる?老いた者も子供も怪我人も居る、戦えない者を多く抱えた
大所帯、いずれ見つかり殲滅されるのが関の山ではないか?何も成せず、何処にも行けず、消されて終わるだけではないか?
(これで良い、はずがない…)
生き延びながら何も出来ずに終わるならば、あの晩みんなと一緒に死にたかった。
(フウ様はもう駄目だ。しかし…)
甘美な殉死の誘惑がデンキチの手を動かした。双子の小熊の一方に向かって。
そっと、赤銅色の小熊の肩に触れ、揺すった。眠りが浅かったのか、ランは寝ぼける様子もなく目を開ける。
「ラン様。御父上の事で、お話がございます…」
二十分後、デンキチは見張りをしていた隠神の眷属達を避けて、本隊からだいぶ離れた位置に至ると、ランを抱え上げて駆
け出した。丁度、伝令を申し付けられたタスケという狸が接近してくる方向とは真逆の方へ。
若熊に抱かれ、作務衣を胸の所で握り締めながら、ランは舌を噛まないように口を噤んでいる。
胸の中で、先ほど言われた言葉が反響していた。
「御父上の仇を討ちたくはありませんか?」
デンキチのそんな問いかけに、ランは二秒ほど間をあけて大きく頷いた。
ゆるせない。
ゆるさない。
しかえしをしてやる。
おっとうの、おっかあの、おやかたさまの、しゃもんさまの、しかえしをしてやる。
ぜったいに、ぜったいに、あいつらをゆるさない。
幼くも、それだけに一途な憤怒が、その時ランの顎を引かせていた。
主家の嫡子を抱いて、デンキチは真っ直ぐに駆けた。目指す先は修練に向いた場所。復讐を遂げる準備をするために必要な
拠点。心当たりはある。相応しい場所がある。…否、あそこでなければならない。思い浮かべる風景は、かつて一度だけライ
ゾウに連れて行って貰った場所の物。
デンキチは腕が立つとはいっても、それは普通の者と比べての事。神壊の眷属としては並の強さで、神将には到底敵わない。
ライゾウのような武力も才覚も無い。
しかし、自分では無理でも、志半ばで返り討ちに遭うとしても、ランならば、ライゾウの息子であるランならば…。
ライゾウは陣中に秘を作らなかった。学ぶ気がある眷属には体術や操光術を含めて全て教えた。デンキチも他の眷属同様に、
修得できなかった物も含めて神壊の古式闘法を全て学んでいる。扱うのは無理だと感じたが、奥義の子細もライゾウから直接
教えられた。
そしてデンキチは、ライゾウが「あの域」に至った、結果として「精神性がひとから乖離せざるを得なかった」過酷な修練
の中身さえも把握している。それを行なうための場所を知っている。
己が知る全てをランに託す。ランを「ライゾウと同じ」にする。そして復讐を遂げる。
(見ていて下さい御館様…!御当主…!必ずや仇を…!)
それを忠義だと、デンキチは信じた。
ギョウブ達が本隊に戻った頃には、デンキチとランの姿が消えた事で騒ぎになっていた。
しかし探そうにも、派手に動いては追っ手に見つかる可能性があるし、既に数日留まっているので時間もかけられない。
ギョウブは本隊を移動させつつ、身の軽い者を中心に選んで捜索のための別働隊を組み、指定した位置で一週間後に落ち合
うと決めて送り出した。
(節穴!迂闊!そして軽率!シジョウがそこまで思い詰めている事を見抜けなかった上に、ワシは二昼夜も寝こけていた…!)
無いはずの左腕が責めるように鈍痛を訴えた。寝込んでいた時間を心底悔やんだ。無理を押して倒れるまで働いた代償は、
余りにも報われない結果だった。
父母を亡くした上にランまで居なくなり、残されたフウはさらに沈み込んだ。
そして、追い討ちをかけるように、ギョウブに新たな事実が突きつけられた。
フウは失語症になっていた。
話さないのではなく、話せなくなっていた事に気付いたのは、独りきりになったフウを預けられたギョウブの妻だった。
デンキチは気づいていたのかいなかったのか、その時点ではもう、知る術も無かった。
結局、別働隊による数日間の捜索でもデンキチとランの行方は判らず、合流地点でしょげた様子の眷属達から報告を受けた
ギョウブは、皆を労うと共に捜索の打ち切りを宣言した。
ふたりの行方を探っていて本隊の皆を危険に晒す訳には行かない。ギョウブにとっては苦渋の決断である。
久しぶりに別働隊と合流し、纏まった休息を取ると決めた山中のそこには、細いながらも小川があった。少し登った先の沢
には川魚の姿もあり、周辺の山菜なども含めると久しぶりに潤沢な食料を確保できた。
一通りの指示を出し終え、左腕の傷の手入れも済んだギョウブは、見回りがてら、皆が小川を利用して身を清めたり水分を
補給したりする様子を眺めていたが、ふと、川原から少し離れた藪の前で立ち尽くす熊の子に気付く。
(フウ…、ひとりか?)
ぼんやりと立つ熊の子は、薄汚れた体を洗おうともしない。その姿を眺めながらギョウブは難しい顔になった。
妻から言われた。預けられたフウが自分にはあまり懐かないのだと。もっとも妻の話によれば、正確には…。
「フウ」
声をかけられると、小熊はびくりと振り向く。
その顔は、目の周辺や口の周りなど元々毛色が薄かった部分を中心に、淡い色に変わっていた。ストレスもあるのだろう、
抜け毛が多く、換毛が妙に早く、元は鮮やかな赤銅色だった体から、日に日に色が失せている。
「次はいつ行水できるか判らんぜ。こっちに来い」
促して先に立ったギョウブに、小熊はおずおずと従った。
皆から少し離れた位置まで歩いて、フウに服を脱ぐよう促すと、ギョウブ自身も褌一丁になる。自身の行水は後でするつも
りだが、衣類が濡れては不自由するので。
「そっちを向いて座れ。背中から流してやる。手足や前は自分でできるな?」
子供の世話が得手という訳でもないのだが、ギョウブはあえてフウの面倒を自ら見る事にした。というのも、妻の話が印象
に残っていたからである。
懐かない。否、懐っこく振舞おうとしない。より正確に言えば遠慮している。おそらくは、幼い娘が居る母親に、他所の子
である自分が甘えてはいけないと、気を遣って…。
(フウは…、まだ五つだぜ…)
川水で汚れを落とすと、色が薄くなっていたのがさらによく判る小熊の背中を見つめ、ギョウブは沈痛な面持ちになる。
両親を失い兄も居なくなり、独りぼっちになった五つの子が、預けられた先で甘えようとしない。元々の子に遠慮して…。
幼いながらも「まさか」とは感じなかった。本当にそうなのだろうと思えた。気が弱いフウは、その分だけ優しい子だった
から。
日毎に色が失せてゆくフウの、のろのろと手足を洗う緩慢な動作を目の端に止めながら、ギョウブは夢の中で聞いた言葉を
また思い出す。
―思うに。何も知らずに生きられれば、それが幸せなのだろう―
(フウは、何もかも忘れて、大人共の事情など知らずに生きた方が幸せだろうが…)
しかしそれは難しい。フウには神壊の血が濃く出ている。何せ、修練を受けていないにも関わらず、フウは力場を纏うのみ
ならず放出までできる。もしも神代の類縁と出くわしたら、素性を悟られる恐れがあった。
(どうするのが正解だ…?)
迷い、苦悩し、しかし考える事は辞めない。
自身にできる事がある。自身がすべき事がある。生き延びたその先の事を見ようと、ギョウブは眼を凝らし続ける。
霞のように朧で不確かで曖昧で、しかし見えそうな物は確かにある。それが何なのか気付ければ、あるいは今後の指標に…。
「…ん?どうしたフウ?痛いか?」
小熊が首を巡らせて肩越しに振り向き、力を入れすぎたかとギョウブは目を細める。
だが、物言えぬ小熊はただじっと、気遣わしげに狸を見るだけ…。
(五つの子だぜ…。ええ…?)
胸を刺されるようだった。妻の話で思うところはあったが、やはりフウは歳不相応に気遣いをする。
不憫という一言ではとても足りない複雑な感情が、ギョウブの心を乱した。
ライゾウの、歴代最強の神壊の子。気持ちはともかくその血を継いだ素養のある子。御役目においては邪魔になっただろう
気弱さと、表裏一体の優しさ。欠点と美点が同居する小熊…。あるいは、もしも御役目に出るまで里が無事だったなら、長生
きは出来なかったかもしれない。しかし今は、壊す力よりも生き延びる力が必要な状況となった。
(生き延びるだけなら…。生かすだけなら…。…!?いや待て。それはつまり…)
霞がかかったような未来に何かが見えた気がして、ギョウブは逃すまいとその思考を掴む。
ランの行方は知れない。とはいえ、フウはここに居る。生存を知られさえしなければ生き延びられる。そして生き延び続け
る限り、神壊は完全に滅びた事にはならない。もしもライゾウが生き延びて一緒に居たとしても、少なくともフウに討ち死に
せよとは命じないだろう。
そしてそれはフウに限らず、落ち延びて来た自分達全員にも言える事で…。
「…そう…か…」
案ずるような小熊の顔をじっと見返しながら、しかし確信を込めて呟いたギョウブが見ているのはその向こう。子らが生き
る先の光景。
生き永らえた理由を、これから生きる理由を、ギョウブは考え続けていた。だが、「理由」に拘るからこそ、簡単な事にな
かなか思い至れなかった。
死なぬように生きる事。それが生きる理由にならないなどという理屈はない。
気付いた途端に、失った左腕が疼いた。残った右腕が熱くなった。まるで、それが正解だという印のように…。
生きる。
確かに自分達は敗れた。最初から居なかったように、歴史の闇に存在を埋められて消える事になるだろう。だが…。
「フウ。いいか?」
気付けばギョウブは口を開いていた。
「ワシらは生きるぜ。ヌシもだ。死なぬ事…。それ以上の勝ちはない。判るか?ええ?」
言い聞かせる。幼い熊と共に、自分に対しても。
「死なない以上の勝ちはない」。それが、ギョウブが辿り着いた答えだった。
何を思うのか、フウはしばらく物を言いたそうに口をモゴモゴさせたが、やがて声を出すのを諦め、こっくりと頷く。
「…そうか…。判ったか…」
目を細めて微笑みかけ、ギョウブは左腕を動かしかけ、思い直して右手で小熊の頭を撫でる。
頭を撫でてやる事に慣れてはいなかったが、幸いにも、残った腕は利き腕だった。
そして、隠れ里を出てから一ヶ月ほど経ったその日…。
「いきなり本拠地に乗り込むよりはマシだろうぜ」
山を蛇行して走る県道の脇、ちょっとした待避所のようになっている砂利敷きの一画で、ギョウブはカーブの向こうに消え
た道の先を見遣る。
欠けた月が照らす山中の峠、歩いて一日ほどの位置に本隊を留まらせたギョウブは、トライチのみを連れて一台の車を待っ
ている。
烏丸のトップが外出した先を首尾よく突き止められた。その帰り道を狙ってコンタクトを取るのがギョウブの狙い。本拠地
に足を踏み入れて、交渉が決裂した場合を考えれば、まだ安全な方だろうと思える。
もっとも、走行中の車を止めさせる時点で武力行使を受ける可能性は高い。故に自分とトライチのふたりだけで事に当たる。
いよいよ勝負どころだが、体調はほぼ万全。無理を我慢した甲斐があって傷はほぼ塞がり、腫れはすっかり引いた。隻腕に
も慣れ始め、重心バランスもだいたい修正できた。
そして、失った左腕を補う手段も考案した。
それは幻術の腕。
ギョウブが得意とする幻術の一つ、幻刀。その相手を殺傷せしめる致死性幻術を応用し、「腕を再現する」という物。なか
なか消えない幻肢痛に悩まされた末、いっそ幻でもいいから生えていれば混乱せずに済むだろうかと考え始めたのが、この術
を発案するに至ったきっかけである。
何せつい一ヶ月前まであった自分の腕である。いざ取り掛かってみれば正確な再現は想像以上に簡単だった。
無論、物は掴めず物理的な仕事はできないが、この手で触れられた側は確かな感触がある。そして幻術と相互作用するよう
になった幻肢痛が、一種のフィードバックとして幻の腕にも多少の触覚を与える。
ギョウブはこれを「茨木の腕(いばらきのかいな)」と名付けた。この国に伝わる、斬り落とされた腕を取り戻したという
鬼の、有名な逸話に因んで。
「大将。交渉が上手く行ったら…」
「ああ。やっとヌシらを休ませてやる事ができ…」
「奥方を医師に診て貰えるよう、すぐに手配を」
声を遮られたギョウブは、反論せず、一拍おいて顎を引いた。
幼子を連れての逃避行に加え、主君を失った絶望も人一倍強かったギョウブの妻は、気を張って見せていたが、いよいよ衰
弱が激しくなっている。落人を率いる者として、皆の命を預かった者として、身内優先で振舞う事は避けてきたが…。
「上手く行けば多少の贅沢を言う程度は許されるでしょう?姫子(ひめこ)様の事もあるんです。奥方にはお体を大切にして
頂かなければ…」
「言われずとも判っとるぜ」
口調その物はぶっきらぼうながらも、本当に良い「片腕」になってくれたと、ギョウブが軽く口の端を緩めた直後…。
「イヌガミの大将?何か音が…」
「音?」
トライチが三角の耳をピンと立て、遅れてギョウブも顎を上げて顔を起こし、風の音を聞く。注意を促されて初めて気付い
たが、トライチが言うとおり確かに聞こえた。車のエンジン音…、だけではない。タイヤが激しく擦れている高い音も。
「こっちです!」
先に立ってトライチが走り、ガードレールに寄ってその向こう側、急斜面の遥か下を通る車道を見下ろす。覗き込むように
そこを窺ったギョウブの目に映ったのは、猛スピードで走る黒塗りの高級外車と、追走するジープだった。
「あれは…、まさか…」
呻くトライチの目が2セットのヘッドライトを追う。前を走る高級外車は目当ての車だが、後ろのジープは…。
「追われているんですかアレ!?」
「そう見た方が良いだろうが…、一体どうなっとるんだ?ええ?」
天下の大財閥で大組織、「鴉」ことオブシダンクロウにちょっかいをかけているのは何者なのか?しかしギョウブはその疑
念を一旦腹に呑み、キジトラ猫に命じた。
「交渉前に機会すら失っちゃあ困る。トライチ、先回りして後ろの車を排除するぜ?」
「はい!大将!」
かくしてふたつの影が山中の闇を駆ける。
懐かしい潮騒は遥か、風の無い夜の事だった。