止んだ潮騒(中編)

 床の間に鬼百合が活けてあり、幽谷を描いた水墨画の掛け軸が飾られた、派手ではないが品のある、畳の目も青々とした八

畳の和室。

 その和やかで落ち着いた空気を破り、怒声が響き渡った。

「正気ですかオジキ!?」

 髪をオールバックに固めた白いスーツ姿の、これみよがしなヤクザ者といった風貌の若い人間の男は、肩をいからせて顎を

突き出し、青みがかったロマンスグレーの髪が美しい老人を睨んだ。

 烏丸の総帥である老紳士が邸宅内の奥の間として作らせた、八畳間の私的な茶室。部屋の主である老紳士は、招かれざる客

を一瞥する。

「何をもって正気を問うのかね?リトク」

「判ってんでしょう!?コイツの事です!」

 顔を真っ赤にした男が指さしたのは、和装に身を包んだ老紳士と向き合って座っている、「本来の客」。

 正座して湯飲みを両手で包んだ老人の向かいには、作務衣を纏った大柄な狸の姿。左脚を横に倒し、右脚は膝を立てた、い

わゆる立て膝で座した大狸は、立てた膝の上に右腕を乗せ、手を被せるようにして湯飲みをぶら下げ、家主よりくつろいだ格

好に見える。

 大狸は若い男が部屋に入った時にジロリと一瞥したが、興味も無い様子ですぐ視線を外したきりである。指さされても何の

反応もなく、手前に置かれた皿に手を伸ばし、饅頭をムンズと掴んで口元に運ぶ。

「ギョウブ君がどうかしたかな?」

「「ダンダラ」との抗争の件です!」

 顔も態度もふてぶてしい狸は、男が上げる怒鳴り声にも無反応で、饅頭をガブリと一口で頬張る。癪に障った男はますます

声を大きくした。

「何処の馬の骨とも知れねぇ連中に、大事な先陣を任せられるはずがねぇでしょうが!?」

 男は狸の横手から歩み寄ると、腰を折って至近距離から睨みつけた。

「図体がデカいだけの、不恰好に肥えた、しかも片腕の狸に何ができるってんです?」

 腰を折って顔を突き出し、顎をしゃくりつつ睨んでくる男を前に、無言だった狸は饅頭を飲み込み、ようやく横目を向ける。

「何処で拾ったか知りませんがね、こんな田舎者より俺と舎弟達に話を…」

「ヌシの言うとおり、なにぶん田舎育ちの田舎者よ」

 狸は低い声を発して男の話を遮ると、面倒臭そうな顔で続けた。

「自覚はしてもなかなか治りはしねぇもんだ。粗相があったらすまねぇな坊主。…ああ悪ぃ。よくよく見れば大人だったか。

子供みてぇに甲高く喚いてたもんだからつい、な」

 軽口レベルの言い返しで、男の頭に血が昇った。

「テメェ!」

 懐に手を入れる。匕首を握って抜く。刃がギラつき狸の顔を映す。はずだったのだが…。

「?」

 突き出したはずが、匕首は手の中から消えていて、男は目を皿のようにして開いた手をまじまじ見つめた。

「探してんのはコイツか?」

 大狸が膝に乗せて肘を伸ばした右腕の先で、柄を摘んで刃を下に向けた匕首をプラプラ揺すった。直前まで右手で持ってい

たはずの湯飲みはいつの間にか畳の上に置かれており、波一つ立てていない。

「なかなか綺麗な刃だぜ。ひとを突いた事がねぇドスだな」

 宙に匕首を放って回転させた狸は、刃先を摘んで止め、持ち替える格好で柄を男に差し出した。

「茶請けになるような良い品を見せて貰ったが、素人が慣れねぇ手つきで刃物を弄るもんじゃねぇぜ。ええ?」

 わなわなと震える男は、ひったくるように匕首を取り返す。刃先で指が切られないよう、狸は男が柄を取るか否かの内に手

を引き、湯飲みを取っていた。

「下がりなさいリトク。話はまた改めてしよう。そちらの言い分もきちんと聞く。それで良いね?」

 老紳士が静かに退室を促すと、男は真っ赤な顔のまま、返事もせずに荒々しい足取りで出て行った。

「済まないねギョウブ君」

「いや、ワシも大人げねぇ対応だったぜ。こっちこそ済まねぇ、烏丸の頭」

 老紳士がため息をつき、 狸が涼しい顔で茶を啜る。

「分家の子なのだがね。うちの家系では珍しく血の気が多くて、それも個性だからとそのままにしたが…、どうにも甘やかし

過ぎたかな…」

「いや、吼えさせて発散させてやるのも一つの「処方」って事なんだろう。ああいう輩は周りの反面教師になる。とはいえ、

少々舐められてやしねぇかい?いざという時に手綱を食い千切るような性質じゃ使うに使えんだろうに」

 辛辣な物言いの裏に、御しきれずに事故を起こされては堪らないだろうという忠告が潜む。そんな狸の言葉を、老人は苦笑

混じりに有り難く受け取った。

「しかし、ワシもこうなる事を考えなかったわけじゃねぇが…」

 ふてぶてしい顔を面倒臭そうに歪めて、隠神刑部は呟いた。

「協力をよく思わねぇ連中は、やっぱり出るかよ」

 隠れ里が落とされてから一ヵ月余り。紆余曲折があった逃避行の末、ギョウブが率いてきた落人達と共に、首尾よく烏丸総

帥の屋敷に匿われて、五日が経った。

 接触を試みようとした所で総帥が敵対組織に追われているという状況での再会…。予定とは少々異なったが、一つ貸しを作

る格好での接触になったのはまずまずだったと言える。

 皆を匿って貰う恩を働きで返すとして、ギョウブは他組織と抗争中の烏丸に協力する旨を申し出た。総帥はこれを快諾し、

有り難いと喜んだのだが…。

「いや~、困ったな。皆は信用してくれないか…」

 老紳士の言葉で、流石のギョウブも笑ってしまいそうになった。

 先代隠神刑部…つまり自分の父とどんな盟約を結んだのかはギョウブも詳しくは知らないが、老紳士は訳ありの落人であり

厄ネタである自分達をすんなり受け入れて手厚くもてなしてくれた上に、全面的に信用してくれている。確かに、追われてい

た所に助勢ができたのは僥倖だったが、それだけでここまでして貰えるとは流石に思ってもいなかった。匿って貰う対価とし

て協力を申し出た際も下心などを疑う事なく、では頼もうかなと、かなり軽い調子だった。

 加えて言うなら、老紳士はギョウブを「匿ってやった相手」ではなく、「上等な客分」として扱う。そして時にはもっと親

しい接し方もする。それこそ友人や親戚など、近しい者とでも接するような調子で。

 とは言っても、不用心な事だと咎める気にはなれない。ギョウブ自身も、この数日以前は数度の面識しかなかった総帥を信

じる気になっている。まるで隠れ里で長年共に過ごしたように、信頼に値する相手だと感じて。

 とにもかくにも、ギョウブにとって烏丸の抗争への助太刀は他意のない恩返しであり義理立てといったところ。故に、それ

で総帥に迷惑がかかるのは心苦しいし、そもそも「鴉」の中での不和など望まない。

 さてどうした物かと、ギョウブも少々悩み始めた。長くなればなるほど、不和という亀裂は広がる物だから。



 総帥との歓談を終えたギョウブは、邸宅内をひとりで歩いていた。屋敷内を好きに歩き回れる自由を与えられたのも驚きな

のだが、無防備とは感じない。誰にでもこんな扱いという訳ではないのだろうと、あの老紳士を見ていると感じられる。

 ひとが好いとは思うがマヌケではない。あれは油断ではなく、ひとを見る目への自信と相手への信頼から来る余裕。大組織

の総帥だけあって、相応に大きな器を持っているとギョウブも認めている。

 屋敷内を抜けて向かう先は、母屋を出てすぐの敷地内倉庫。そこは急ピッチで改築されて、隠れ里の落人達を匿う臨時居住

区画に当てられている。

 歩きながら、ギョウブは作務衣の胸元を軽くつまみ、指先で生地の感触を確かめる。着心地が良い上等な作務衣は総帥が用

意してくれた物である。

 ギョウブが愛用していた作務衣は傷みが激しかったので、そのまま修繕するのは不可能だった。とはいえ、あれは伝説の妖

獣由来の素材…「鵺の毛」を編み込んだ逸品。処分するなどとんでもない、この国に同様の衣が十着と現存していない貴重品

である。そこを踏まえて、総帥はギョウブにこう提案した。素材を流用して仕立て直させてみようか、と。

 五大財閥の一つ、鼓谷財閥の研究で確立された、秘匿事項に類する製法で生み出される強靭な合成繊維がある。これをベー

スに鵺の毛を編み込む事で、元の物より強靭な衣に仕立て直せるかもしれないと老紳士は言った。

(衣のバージョ…ラップ…とか言ったか?英語ってヤツにはどうにも慣れられんモンだぜ。覚えられん…)

 仕事着もだが、新たな長ドスか刀など、得物を含めた他の武具の仕上がりまで時間もかかるので、とりあえずはギョウブも

数日の支度待ち。力添えするにも金をかけさせてしまう事は心苦しいが、その倍は働きで返そうと心に誓う。

 …とはいえ、まさか総帥が自分の武具だけでなく、配下の実働部隊全員の分まで新調の用意をしているとは、ギョウブも流

石に想像もしていなかったが。

 間取りにも迷わなくなった通路を歩いていると、女の子の笑い声が耳に届き、ギョウブは歩調を緩める。

「そうよ!じょうずじょうず!」

 出入り口のドアを開け放った中庭を覗いてみると、そこには青みがかった髪の可愛らしい女の子と、白い毛に覆われた大き

な熊の子の姿があった。

 でしんっ、でしんっ、と太った体を揺らして不恰好に跳ねる熊の子の手には、跳び縄が握られている。人生初の縄跳びで、

勝手が判らず苦労していたフウは、しかしようやく跳べるようになってきていた。

 手で回す。縄が来る。それを跨ぐ。…という動作から離れるまでしばしかかったが、女の子が根気良く教えてくれたので、

ようやく手足を一緒に動かす物なのだと判ってきた。

 女の子はトモエ。烏丸総帥の孫娘である。歳が近いフウに興味津々なようで、会わせて以降は遊び友達になっている。最初

は単に断りきれなくて付き合っている様子だったフウの方でも、徐々にだがトモエに気を許してきており、日中は屋敷に招か

れて一緒に遊んでいる。

 正直なところ、ギョウブ達にとってこれは有り難い事だった。フウの事は気がかりであっても、遊び相手になる余裕はとて

もなかったが、トモエと一緒に屋敷に居るならとりあえず安全。あわよくば心の傷も癒えて話せるようになるのではないかと

期待もしている。

「あ!おじさま!」

 入り口に立っているギョウブに気付き、トモエが駆けて来る。縄跳びに集中していたフウも遅れて気付き、縄を丸めて持っ

てから後を追って来た。

 大狸は屈んで子供達と目線を近付け、ぎこちないながらも笑みを見せる。

「今日もフウと遊んでくれとったんだな。フウ?迷惑にならんよう、日暮れの頃には戻るんだぜ?」

「ええ!きょうもばんごはんまでね!」

 女の子が手を握って振ると、フウはほんの少しだけ目を細めた。ここしばらく無表情か脅えの顔ばかり見せていた小熊は、

判り易い笑顔とは言えないまでも、表情を緩めるようになってきている。

(嬢ちゃんのお陰か…)

 目を細くして微笑するギョウブ。

 不思議な娘だと思った。青味がかってみえる美しい髪も、左目の下の小さな泣き黒子も、人間の女の子としてはチャームポ

イントなのだろうが、ただ姿形や顔が良いというだけではない魅力がある。種が違うギョウブですら掛け値なしに愛らしいと

感じていた。

 総帥もそうだが、ろくに人柄を理解する前から魅力的に思える不思議な雰囲気を少女も持っている。少なくとも魅了の術の

類による影響ではない。幻惑術の類であれば破幻の瞳が無反応なはずもないのだから、やはり彼らの魅力は別の要因で感じさ

せられる物なのだろうとも思う。

 ギョウブはこれについて、そういう血筋なのだろう、と考える。自分達の主君もそういう魅力を持っていたので。そうして

彼らの雰囲気から主君を思い出すからなのだろうか、ギョウブは恩義に報いたいと、困り事を何とかしてやりたいと、純粋に

感じている。

 特に、この少女にはフウの事でも借りができて…。

「………」

 気配を捉えて、ギョウブは身を起こした。

 緊張はせず、しかし油断もせず、振り向いて視線を投げかけたのは横手の通路の先。そちらから、学生なのだろう制服姿の

少年と少女が歩いて来る。

 屋敷内の勤め人などを含めて全員の顔を知っている訳ではないが、どうにもこの屋敷の者ではないようだと、初めて見るふ

たりを眺めながらギョウブは感じ取る。

 片方は、十代半ばになったかどうかという年頃の少年。均整の取れた体と長い脚、整った顔立ちに総帥の面影がある。

 もう片方は、十代前半と見える少女。吊り上がり気味の猫のような目を除けば、トモエと少し似ているとも感じられる。

 どちらも髪の毛が僅かに青みがかっており、烏丸直系の血を濃く継いでいる事が窺えた。

「ミノリおにいさま!エミおねえさま!」

 ギョウブの目線を追う形で、並んで歩み寄るふたりに気付いたトモエは、廊下に上がってパタパタと駆け寄った。

「やあトモエ。今日は随分楽しそうだね」

 腰を折って目線を低くした少年は、にこやかに笑ってトモエを抱き上げる。一方少女の方は…。

「ふぅん…」

 ギョウブの姿を無遠慮な視線でジロジロと確認している。

 大狸は気付いていた。少女のそれが値踏みの視線だという事に。だからこそ軽く警戒した。その値踏みは、十代の小娘にし

てはいささか…。

(「慣れて」いやがるな…。ええ…?)

 無思慮に眺めるのとは訳が違う、見るべき場所を踏まえた視線…。こんな少女が値踏みする事に慣れているのはどういう事

だと、ギョウブは多少の気味悪さを覚えた。

「なるほど。こんなのが相手なら、ボンクラ兄貴じゃ分が悪いわ。納得納得」

 軽く肩を竦めた少女は、次いで狸の後ろに視線を向ける。フウは少年少女から隠れるように、ギョウブの背中にくっついて

顔を覗かせていた。

「…子供…じゃないわよね?似てないにも程があるし…」

 軽く眉根を寄せながら小さく呟いた後で、少女は少年に抱き上げられたトモエを見遣りながら尋ねる。

「アンタの友達?初めて見るけど…」

「うん!ヒミツのトモダチ!」

 嬉しそうに答えたトモエに、「そっか」と少し口元を緩めて応じた少女は、ギョウブに目を戻した。

「おじさん。アンタがお爺ちゃんの「客人」だよね?」

 この時点で、少年と少女が総帥と近しい親族だと目星をつけていたギョウブは、名乗りはしないが顎を引いて応じた。「そ

ういう事になっとるぜ」と。

「ああ、やっぱり。という事は…」

 口を開いたのは少年。トモエを床に降ろすと、その場で軽く会釈した。

「僕達はトモエから見れば親類…、分家の者です。たぶん、僕らの兄が先ほど貴方と会っていたと思いますが…」

「………」

 ギョウブは数秒沈黙する。はて、このふたりのような印象の誰かとは会っていないが、と。そして「まさか」と呟いた。全

然似ていないどころか僅かな共通点すら見当たらないのだが、総帥とトモエと見知った使用人達を除いて、今日会った相手と

いえば…。

「あの趣味が悪ぃ白装束で香水が鼻につくドスの扱いが下手糞なチンピラの小僧は…」

 驚きのあまり思わず本音が口を突いた途端、少女が吹き出し、次いで笑い声を上げた。

「一発でアイツって判る表現だわ、最高じゃない!」

「エミ、もう少しマイルドなリアクションをだね…」

 少年は横目で少女を責めつつ、呆れ顔で嗜める。

 少年は烏丸三徳(からすまみのり)と名乗り、少女は烏丸恵美(からすまえみ)と名乗った。先にギョウブに絡んだ男は烏

丸理説(からすまりとく)といい、自分達三人はきょうだいなのだと少年は説明する。

 兄のミノリは中学三年生、エミは中学一年生、長兄のリトクは大学を中退した二十二歳。少年と少女は近くに建つ有名私立

中学校の制服を着用しているが、そのあたりの情報について履修していないギョウブは「学徒」という一括りで認識する。

「兄は血気盛んで男らしい…と同時にその…少々短気で配慮に欠ける所がありまして…。きっと失礼な事をされたでしょう?

本当に済みません…」

 頭を下げて兄の非礼を詫びるミノリ。長兄が「噂の客の顔を拝んでくる」と喚いて本家に向かったと聞いて、嫌な予感しか

しなかったので様子を見に来たのだと少年は言った。なお、少女の方は退屈だったからついてきただけと述べた。

 しかし、玄関ホールで見たその兄が、「顔を真っ赤にして腹を立てながら悔しげな様子でいい気味だった」ので、その客人

に興味が湧いたのだと、少女は歯に衣着せぬ物言いで説明する。

「いやアレ本当に見物だったわ。マヌケ面と下品な服で、丁度良く縁起良い紅白になっててさ」

 ケラケラ笑うエミが遠慮なく長兄をこき下ろす。小気味が良いほど小馬鹿にした物言いである。

「エミ、もう少しマイルドに…。そしてエレガントに…」

 妹を嗜めたミノリは、「何も起こらなかったならよかった。御迷惑をおかけして本当に済みません」と、またギョウブに頭

を下げる。

「構わんぜ。疎まれる事もあるだろうと想定はしとった。ただ、誤解の無いように言っておくと、ワシらは烏丸内部の不和は

望んじゃあおらん。突っかかられれば、田舎武家とは言え面子の話…「手ぶら」では帰しゃあせんが、好んで衝突したいとは

思わん」

 あの長兄よりよほど話が判ると判断し、ギョウブは少年少女にそう告げる。

「勿論、そこは疑っていません」

 ミノリが深く頷くと、エミが軽く首を縮めた。

「っていうか兄貴を信じてるからね。問題が起きたとしたらまず間違いなくアイツの方が原因だって」

「信じ方がおかしいよエミ…」

 興味をそそられた客を一目見て満足したのか、少年少女はトモエとギョウブ達に別れを告げ、来た通路を引き返して行った。

(坊主の方は、大人しそうに見えて切れ者だな。烏丸の頭と似てるぜ…。娘の方は…、あれは…)

 隻腕の狸は残った右腕で顎下を撫でて考えた。軽薄で粗雑な跳ねっ返り…と見えてそれが全てではない。自分を値踏みした

あの眼差しといい、独特な空気感といい…。

(遺物と特別に相性が良い類…。しかも、術士かと勘違いするような気配だったぜ…、ええ…?)

 幻術の扱いに長けるギョウブは、その根源である思念波そのものにも敏感。少女の方は普通の人間とはだいぶ毛色が違う思

念波の質と強度を有する事を察知していた。何せ、里に数名居た「特殊な遺物」との親和性が高かった者達に通じる気配だっ

たので間違えようも無い。

(だが…)

 ギョウブはちらりと、少年少女を手を振って見送ってからテクテク戻って来たトモエに目を向ける。

(毛色がおかしいって話なら、嬢ちゃんの方が上か…)

 フウの手を取って縄跳びを再開しようと話しかけているトモエを眺めながら、ギョウブは半眼になった。

 読めないのである。思念波を感じ、その尋常ではない強度を把握しながら、トモエに宿る物が「何」なのかギョウブにも判

らない。

 至近距離まで近付かないと普通の思念波程度の気配しか感じない。なのに接近すると唐突に強度が増した思念波を肌に感じ

る。まるでコントロールして無駄な漏洩を抑えているかのように、トモエの極々傍でのみ本来の強さで思念波が感知される。

 烏丸の血筋は能力者になり易く、現総帥も能力を持つ。総帥本人の弁によれば「自分への殺意を持っているかどうかが発光

体のようなサインで視認できる」との事で、暗殺対策だけは万全だと笑っていた。もっとも、それはあくまでも「殺意」レベ

ルの意志を察せられるという物であり、半端な敵意や軽い悪意などは察知できない。面と向かって命を取りに来た相手にはそ

もそも殺意感知自体が無意味。殺される間合いに入らないよう予防する程度の事しかできないのだとも言っている。

 直系であり烏丸の血が濃いトモエもまた総帥同様に何らかの、しかも分類が難しい能力者である可能性は高いのだが、ギョ

ウブは詮索しない事にしている。総帥からも話が無い以上、好奇心であれこれ探るのも不調法だろうと考えて。

「フウ、ワシは先に帰っとる。迷惑にならん程度に遊んで貰ったら帰ってこい」

 小熊はギョウブの言葉にこっくり頷くと、少女と共に中庭に出て行った。見送ったギョウブは…。

(…嬢ちゃんには気に入られたらしい。総帥も話は受けてくれた。フウは、やはり引き取って貰うのが一番良いか…)

 そう、子供らの後姿を眺めながら、胸の内で呟いていた。

 落人の大半は人目を避け、何処かの山奥などで隠遁生活を送る事を決めた。居住場所は烏丸が提供してくれる。社会に溶け

込めるような物は烏丸の手配で家と職と身分を都合するという話も進んでいる。

 しかしフウは、そのどちらも難しい。歳が若過ぎて経験も少なく、隠遁生活は酷。かといって神壊の血が濃過ぎて一般社会

に出すのも危険である。

 困っていたギョウブに総帥が提案したのは、烏丸の内部で表に出さず暮らして貰うという物。烏丸はリゾート開発を表の主

要事業として手掛けているので、全国各地に豊富な私有地を有している。関係者以外の目に触れない生活ができる場所もいく

つかあった。

 トモエとも仲が良くなっている事だし、しばらく屋敷で暮らして、大きくなってきたら何処かで仕事をしながら暮らすのも

良いのではないか?と、総帥は落人達だけでは思いつきもしなかった話を出してくれた。望むのであれば同じような手段で他

の者にも居場所を提供できるとも…。

 下手に正体が露見しては烏丸が甚大な被害を受けるため、まだ返答しかねているが、フウの安全を考えればそれ以上の策は

無いとも思える。

(フウを頼むなら、それだけ気張ってかからなきゃならんぜ?ええ?)

 ギョウブはそう、自分に言い聞かせた。未来の恩義を働きで返さねばならない、と…。




「この苦無、何だったっけかぁ?」

 大小様々な品が所狭しと広げられた部屋の隅で、眉根を寄せた体格の良い狸が、黒光りする苦無を目の前でぶら下げて呟い

た。集中する狸の瞳が一時薄っすらと赤く発光し、やがて赤光を消す。

「ああ、「後付け」の類か。そんなに貴重でもねぇなぁ」

「何だった?」

「先代達が大蛇を討った話あったろ?その時のモンの一つだろなぁ。返り血を吸って変質して、鉄が「それ以上のモン」に変

わった品…。鴉の大将さんに献上して良さそうだ」

 隣の狼が問うと、狸は目を細めて苦無の側面を指の腹で撫でる。打ち直して別の武具にする事もできる有用な素材ではある

が、鍛冶職人を失った自分達にはもう活かせない。

「コイツは誰が使った術具だろうな?」

 逞しい牛が巻物を持ち上げ、「ああ、それはたぶん戦利品だった品」と鹿が答える。

 その向こうでは先ほどの狸とは別の二頭が異国の言語が記された羊皮紙のような物を広げて首を捻る。その脇には小刀類の

銘を目録の紙に書き写している狐。縄目が増えて伸びる不思議な紐を子細に確認する甲斐犬に、箱に収まっていた錆び付いた

鏃を首を傾げて睨むハチワレ猫…。さほど広くない正方形の部屋ではそんな調子で、十余名による様々な品の検分が行なわれ

ていた。

 落ち延びる際にギョウブの配下が手分けして回収したので、里から希少遺物の類をいくらか持ち出せている。中には役立つ

物もあるはずなので、改めて品を確認して目録を作る事が決まった。そうして調べ上げた後は、自分達に絶対に必要となる品

や、先祖伝来の手放せない特別な品を除き、厄介になる対価として烏丸に譲る方針が固められている。
目録を作るに際して品

の分別も同時進行しているのだが、時々彼ら若手には判らない品が出て来るので、年寄りに聞いてみたり、ギョウブの判断を

仰ぐべく保留にしたりする場合もある。

 ただしこの作業は、くれぐれも封は開けるなとギョウブから厳命された、一つの品を除いての事。掌に乗るほど小さな木箱

だけは、ギョウブ自身が一度中身を確認した上で厳封し直した。

 その箱の中身を、ギョウブは「バロール」と呼称した。皆も詳しく知らないが、ライゾウが複数名の神将達と直接戦闘を行

い、これを葬った上で持ち帰った貴重な品だという話だけは知っていた。活用方法が見つからないままだったため、ずっと保

管されていたとも…。

 分別作業に当たっているのは、体力もある戦闘要員達だった。

 生き延びた戦闘要員は少なく、この部屋に集まっているだけでほぼ全員である。非戦闘員ならばギョウブより年上も多く、

相談できる年寄りも居るのだが、戦闘に赴ける者は全員が年下。

 一応、里を襲撃された夜に出払っていて、戦に間に合わなかった者達も少数ながら居る。どうにか合流できないかと、ギョ

ウブの命令で幻術に長けたふたりの眷属が、各地に設けられた隠れ家や物資の隠し場所を巡る事になったが、上手く全員と出

会えたとしてもたったの六名だけである。もっとも、巡視に出されたふたりの役目はそれだけでなく、ラン達の行方も探るよ

うに言われているのだが…。

「皆さん!食事の時間です!」

 だいぶ時間が経った頃、オカモチを持ったキジトラ猫がドアを開けた。

「おお!トライチ待ってたぁ!」

 腰を上げた大柄な狸が我先にとオカモチに突撃し、次の品を運んで来ようと戻って行ったトライチの尻尾が部屋の中にまだ

ある内にシュカンッと蓋を開ける。

「やったぁパエリアだぁ!」

 名前を覚えたばかりの洋食を前に、嬉しそうに舌なめずりした狸は、他の品には目もくれずにパエリアの大皿を抜き取った。

「タスケはまた西洋の炊き込み飯か…。私は…、ああそうだサブロウタ。昨晩、蕎麦が美味いと言っていた気がするが?」

「ああ。…何だったか、パスタ?の、何種類もある中の何か…?だったな。食ったヤツは貝が乗ってた。辛いが美味い」

 狼は背が低い狸からそう返答され、「試してみる」と、刻んだ唐辛子とローストチキンが乗った麺…つまりペペロンチーノ

の皿を取る。

 屋敷で提供される食事は洋食中心なので、戸惑う者も多かった。汁のない、アサリとニンニク、あるいは鶏肉、または薄く

切った塩気の強い豚肉が和えられた蕎麦。あえて細かく刻んでから結局は他の食材と共に固めて焼いた肉。酢を利かせた魚の

切り身と野菜の盛り合わせ。魚介と米の炊き込み飯にも似た洋風の米料理…。食す多くの料理はここで初めて口にするものが

大半。調味料も貴重品だった隠れ里の薄味料理とは違うため、味付けが濃く感じられたり、経験した事がない味がしたりと、

戸惑いと初体験の連続である。

 老齢の者を中心に、もっと大人しい味付けの物が良いと言う声もあるので、比較的隠れ里の料理に近いだろう昔ながらの和

食も用意されるが、御役目で外に出て経験していた者や、柔軟な若い年代の者は洋食にもすぐに慣れた。特に実戦経験が豊富

な者達は、食える時に何でも食って体力を維持するのが常だったので、味に馴染みがあろうがなかろうが受け入れる。

「いや、毎食珍しいモンが食えて良いなぁ!」

「貴様は食えれば何でも良いではないか」

 パエリアをガツガツ掻き込む狸を横目に、青灰色の狼が顔を顰める。ペペロンチーノは想像した以上に辛かったらしい。

「何を言うかぁ。ワシにも好き嫌いはある。が、この炊き込み飯は美味い!ふふっ!」

 作業を中断して空いているスペースに移り、食事に取り掛かる者達へ、オカモチを持ったトライチが次々と料理を運んでく

る。
屋敷のコックは匂わされる程度に烏丸の裏事情を知らされている古参だが、事が事なので落人達との直接の接触はあまり

よろしくないと総帥は判断した。なので運搬役としてトライチと、非戦闘員の女性陣の一部だけが接触している。

 一通り単品料理を運んでから、トライチは最後に蓋をされた大皿を抱えてきた。

「料理長殿からの御好意です!田舎者なのでだいたい獲った獣や魚を焼いて塩で食べていましたと話したら、料理長殿の手腕

でそれらしく拵えて下さいました!」

 ドンと置かれた大皿から蓋がのけられると、敷かれた野菜類の上に乗る、香ばしく焼き上がった川魚と鳥肉のぶつ切り、猪

肉の炙り焼きなどが姿を現した。

 トライチからかつての主食…主に任務中の現地調達飯の話を聞いたコックは、食材その物を活かして味付けは最小限にした

料理と解釈して、アレンジも控えめに拵えたのだが、しかし落人達にとってはこの時点で謎の代物になっている。

「…何だこりゃあ…!?」

 最初に口を開いたのは体格が良い大狸。塩胡椒で軽く味付けされただけの鳥のブツ切り肉は、皮がパリッとしていて噛むと

肉汁が溢れる。

「これ…は…?面妖な…」

 狼が緊張でゴクリと喉を鳴らす。熱を通す時の加減で、肉の表面から肉汁が逃げないように焼いた…つまりは現代のコック

ならば食材の旨味を引き出す基本手段として用いる焼き方の工夫は、任務中に山野で獲物と獲って手早く食う事だけを重視し

ていた者達の想像の外にある。

「…美味い…」

 牛がボソリと呟く。驚きの余りどんな顔をして良いのか判らず、途方に暮れたような顔になっていた。

 味の追及など全くしない男料理のオンパレードで山の幸を食してきた者達にとって、これはあまりにも判り易いカルチャー

ショックだった。何せ知っている食材と知っている調理方法の料理のはずが、ここまで違うという現実を突きつけられた格好

になっているので。

「何だこれ…。おっかねぇなおい…」

「面妖な…。どんな術で焼いた?いや、どんな術で塩を作った?」

「本当は似ているようで違う生き物の肉なのでは…?」

 真顔で議論する落人達。だが、狸の一匹は無言のまま感涙で目を潤ませている。

(まぁ、気持ちは判ります…)

 トライチは複雑な顔。これこれこういった物を焼いて塩を振って食べていました、と告げた後でコックが作って、味見させ

られた直後、だいたい今の皆と似たような精神状態になったので。

 隠れ里の食事は、戦う力が出せなくては困るため、それなりに栄養価が高くなるよう工夫はされていたが、それも環境が許

す限りでの話である。
電気もない。石油もない。近代の器具には馴染みのない生活を三百年以上も続けていた隠れ里は、落ち

武者達が作った当初の姿と文化水準を濃く残したままだった。

 肉は良かった。隠れ里の性質上、鳴く生き物は飼えないので養鶏はできなかったが、戦士であると同時に優れた狩人である

里の者達は、山野の獣を過分に獲らない程度に抑えながらも必要数確保した。
獲物は山鳥の類と兎、鹿、猪など。今の世代は

狼が居た頃を知らないため、天敵を失った獣は、居る所には溢れるほど居た。

 元々は溶岩だった樹海の土で育てられる作物は限られており、苦労して作った水田で米は少量ながら育てていたが、主食と

なるのは雑穀だった。作れる野菜の種類も限られるので、樹海の外に小規模な隠し畑を作り、そこから搬入するという手間も

必須だった。

 調味料は醤油と味噌と唐辛子と山葵。嗜好品と言えば少量作れる茶と酒。甘未は豆から作る餡子が主な物。

 そんな環境でずっと過ごしてきたので、里の大半の者は近代の文化に詳しくない。外を駆け回る事が多い隠神の眷族達です

ら、目にする事はあっても手に取り触れる事はあまり無かった。

 贅沢はできず余裕もさほどなく、時が止まったような隠れ里の文化形態に慣れ親しんだ者達にとって、烏丸にかくまわれて

から振舞われた、豊かな外界で進歩を許された料理の数々、天上の美味と評せるほどの感動を与えてくれた。

「…これだったらワシ、腹が破けるまで食えるなぁ…」

 涙目で述べる大柄な狸。うんうん頷く鹿。しみじみと遠い目をする狼。大袈裟な、と嗤える者はこの場には居なかった。

(っと、そうだ!ヒコザさんはちゃんと食べたかな…)

 気になったトライチはササッとシーフードスープパスタを啜り込むと、皆が妙な空気になった部屋を後にして、倉庫兼居住

区画を移動する。目指す先はギョウブの個室。食事が済んだら作戦を練るために籠っているだろう、と。

 ギョウブは食事時には妻子の所へ顔を出して一緒に食事を摂る事になっている。…より正確に言えば、トライチがそうする

ようにと強く訴えたのである。

 家族水入らずを邪魔をするつもりはないが、もし主がまだ奥方の所へ行っていなければ、呼んで食事を促すつもりだった。

(身内を特別扱いするわけには行かないって、体裁の問題は判らないでもないけど…。でも、それでヒコザさんに文句を言う

ひとは絶対に居ない…)

 ギョウブは、生き残りの皆を束ねる事を己の役目とし、生き延びさせる事を己の使命としている。大変なのは皆一緒の状況

下、自分の家族を優遇しているのを見て良く思う者ばかりではないとギョウブは言った。何せ、家族も友人も何もかもを里と

一緒に焼かれた者が大半なのだから、と…。トライチにもその言い分は判る。自分も、そしてフウも、戦闘要員の半数以上も

そうだった。ギョウブのように複数の身内と一緒に逃げて来られた者はむしろ少数である。

 だがそれでもトライチは、今はなるべく奥方と一緒に居て欲しいとギョウブに願い、訴えた。こんな時だからこそ…。



 実は、自分がギョウブと肉体関係を持っている事を、トライチはしばらく前にギョウブの妻へ打ち明けていた。根が生真面

目過ぎるトライチは、主君の妻という立場にある貴人に対し、隠したままでいる事ができなかったのである。

 婦人が娘を身籠った頃の事。里のためにならないのであれば、ギョウブにとって悪い事になるのであれば、以降は身を引い

て肉体関係は持たないようにする必要がある。洗い浚い白状して、婚姻後も関係を続けてきた事を謝ろうと、トライチはギョ

ウブが御役目で里を離れた時を見計らい、隠神の邸宅の奥まった部屋で、一対一で婦人に話をした。

 ギョウブの妻は、吊り上がり気味の目と常々崩れない厳しい表情が印象的な、小松(おまつ)という雌狸だった。隠神本家

の血が濃いので、強い子を産めるだろうと考えられたのが推挙の理由である。

 常々表情を崩さないのが特徴だった婦人も、トライチの打ち明け話には当然驚いた。罵声を浴びせられる物と覚悟して平伏

したトライチだったが…。

「今の話を聞く限りではトライチ、わたくしがギョウブ様に輿入れするよりも前に、貴方の方が関係を持っていたという事で

しょう。であれば、横槍を入れたのはわたくしという事になります」

 予想に反して呆気なく許されたトライチが思わず顔を起こすと、雌狸は驚きの表情から元の鉄仮面に戻ってそう述べた。

「わたくしも殿方の衆道については存じているつもりです。シモツキ様もお若かった頃は、奥方様もほったらかしで傍小姓を

溺愛していたと聞いておりますし、ライゾウ様を除けばどこの頭領も大なり小なり経験があるのでしょう」

 定められた婚姻の相手がたまたま相思相愛の相手だったという壊神の当主を除けば、重要な血筋の者は自由な結婚ができな

くて当たり前。隠れ里では嫁ぐ方も嫁がれる方も取り決めによって決まっていた。

「ギョウブ様も、当主を継ぎ跡取りを作らねばならないというお立場でさえなければ、妻を娶らずあなたを傍小姓として手元

に置いたのでしょう」

 先に関係を持っていたのはトライチ。そして、立場と役目の事がなければ選んでいたのもトライチ。必要なものとして妻に

あてがわれた自分は確かに隠神当主の婦人ではあるが、ギョウブ本人が求めているのはトライチなのだろうと、婦人は落ち着

き払った様子で言った。

「あの方は不自由な方です。自由に振舞う贅沢が許される立場にありません。それをお可哀そうと思いはしても、口に出して

慰めてはあの方への侮辱になります。わたくしにできるのは、ささやかな自由を咎めずにおく事でしょう」

 嫁いだ身だからこそ判る。長く一緒に過ごすからこそ判る。夫は真面目で義理堅いから、好いた相手を捨てられはしない。

そして、尽くす相手も捨てられはしない。心を寄せた相手を遠ざける事はできず、契りを結ばされた相手をぞんざいにも扱え

ず、きっと板挟みのまま苦悩していたのだろう、と…。

 それを優柔不断とは、傍でギョウブを見てきた妻は思わなかった。愚かしいほど正直に自分へ話をしに来た、ずっと年下の

若い衆を見れば納得もできる。ふてぶてしく、厳しく、皆に対して振る舞いながらも、実際には面倒見が良くて情に厚い。そ

ういう夫だから、妻をあてがわれたからという理由で元の想い人を突き放す事はできなかったのだろうと、心苦しかっただろ

う心境も含めて想像はついた。

 加えて、単純に放っておけなかったのだろうとも思った。トライチの美点であると同時に欠点でもある、過ぎた生真面目さ

を知ってしまったから。

「一つ、言っておくことがあります」

 一通り話を終えた後で婦人がそう言った時、トライチは居住まいを正して背筋を伸ばした。

「ギョウブ様が喜ぶ事をこっそり教えなさい。あの方は、気を遣わせまいとする余り、わたくしに過分な事を求めようとなさ

いません。食事の好き嫌いすら教えては下さいません」

「え?」

 流石にこれにはトライチも眉根を寄せた。が、婦人が言うには…。

「何を召し上がっても「美味い」「これも美味い」「やはり美味い」しか言いません。明らかに失敗した物ですら美味い美味

いとおっしゃりながら召し上がります。わたくしがした事を咎めた事もなければ、述べた他愛のない話を否定した事もないの

です。確実に、間違いなく、相当気を遣っておられます」

(確かに…、ヒコザさんそういう所あるな…)

 仕事の出来に関しては厳しいが、そうでない事には比較的寛容で、何より我慢強いのがあの大狸。食事が不味かろうと受け

入れるし、自分が文句を言わなければそれで済むとなればなおの事、煙に巻こうともするのだろう。

「役目で嫁がされた身とはいえ、あの方を想っていない訳ではありません。せめて好きな物や美味と感じられる物を差し上げ

たいこの気持ち、理解してくれますね?」

 同じ男に惚れたのだから判るだろう?と、婦人は目を細めた。

「食事に限らず、わたくしにできそうな事なら何でも。家に戻られた時ぐらいは、少しでも良い思いをしてくつろいで頂きた

いのです」

「そういう事でございましたら…」

 トライチが最初に思い付いたのは、ギョウブが御役目に出る直前にしてやった事だった。

「「格好がつかんから他には言うなよ」と釘を刺されていた事がございます…。普段はご自分でほぐしておられますが、時々

肩や背中の凝りが気になってらっしゃるようです。最近は背中…特に肩甲骨の間の辺りを指圧すると喜ばれます。当主になっ

てから読み物や書き物の時間が増えて、凝るようになってしまったと…」

「…深夜に時々、寝苦しそうに身を捩じって腕を伸ばしたりしておられましたが、あれは…」

「きっと、凝りが気になってしまって、夢うつつのまま…」

 そうして情報交換を始めたトライチとギョウブの妻は、少しずつ距離を詰めて行った。

 出先でどんな活躍をしただの、どれほど鮮やかに仕事をこなしただのと、吹聴して回る事をよしとしない本人に変わってト

ライチが報告すれば、奥方はとても喜んだ。

 そこにあったのは、ふたりとも何と表現する事もできない関係性だったが、一種の友情のような物だった。



 倉庫上階にあてがわれた一室にギョウブは居た。仮設執務室とでも言うべき部屋に。

 背もたれ付きの椅子に深く腰掛け、片足は流して片足は胡坐をかくように曲げ、右肘をついて卓にもたれかかるような格好

で、大狸は図面を睨んでいる。

 総帥から預けられた仕事…抗争中の相手組織が有する拠点の一つとなっているビル。詳細な見取り図ではあるが、それは組

織が買収する前の状態…ビルが別の民間業者所有だった頃の物。今では多少変わっている物と考えて良いだろう。

 まずギョウブが考えたのは、拠点として運用する際の退路について。拠点周辺は真っ当な堅気達の物件揃いで、大通りも目

の前。非合法組織の拠点としては、目立たないよう逃げる道に乏しい。

(近場に傘下のアジトなんぞがあるかどうかは、予め確認する必要があるぜ…)

 退路を用意してあるとすれば、地下にトンネルを掘っているという線もある。建物が密集しているので出口は何処にでも用

意できるし、外からはバレ難い。

 コッ…と部屋のドアが音を立て、顔を上げたギョウブは腰を上げる。鍵を外してノブを掴んで押し開けると、そこには見慣

れたキジトラ猫の顔。

「お食事は済んだんですか?」

「妻子と済ませた」

 トライチが何を気にするか判っているので、ギョウブはちゃんと家族で食事した事を強調しつつ、踵を返して机に戻る。ド

アに鍵をかけたトライチはその後に従い、卓上の図面を見下ろした。

「かなり大きい建物ですね…。我々だけで落とす事に拘らなくても…」

「いいや、ここは拘っておいて損はねぇ」

 ギョウブは口角を吊り上げふてぶてしく笑う。

「助太刀であり恩返しだが、「ワシらは使える」と証明しておくのは、後々の為にも損にならん」

 なるほどそうかと頷いたトライチは手招きされて首を傾げる。

「こっちに来い。図面を見ながら意見があれば言え。そっち側からじゃあ逆さまで判り辛かろうが、ええ?」

「あ、はい…」

 ギョウブと同じ方向から図面を見るため、机を回り込んだトライチは…。

「わ…」

 腕を掴まれて引っ張り込まれ、器用に体の向きを変えられながら、座っているギョウブの懐へ背中側から落ちる。

 膝の上に乗せられて抱かれる格好になり、ギョウブの胸と腹の感触を背中で感じながら、トライチは小さく笑った。自分が

好きなのを知っていて、あえて大きな腹を膨らませ気味にして背中に密着させてくれているのが判る。もう少し「ノって」く

れば、下品な表現など交えながら股間の方も触れさせてくれるのだろうが…。

(余裕があまりない時は気を遣ってくれなくたっていいのに、まったくヒコザさんは…)

 飯を妻子と摂ったから、トライチにはその分の埋め合わせ。騙しと欺きのプロと言える幻術使いだが、こういう時のギョウ

ブの心境はすこぶる判り易い。

「………」

 無言のままのギョウブの手が、トライチの頭に乗せられて、軽く撫でた。うなじに吐息を感じながら、喜んだトライチは尻

尾を立てて震わせる。

「さて、「城落とし」だが…。例えばヌシなら、ここに立て籠もったとして、逃げ場を作るならどう用意しておく?」

「はい。この間取りで、地下が二階まである…。それなら…」

 そうして作戦を練るギョウブとトライチは、しかしこの作戦が単純な城落としでは済まなくなる事など、この時点では予想

もしていなかった。




 それから数日。部下の分まで装備を揃えて貰えたギョウブが「仕事」に出る日の、夕刻の事…。

「え?ボンクラどっか行ったの?」

「「どっか」なんて暢気な話じゃないよ…」

 長兄の姿を求めて屋敷内を歩き回っていたミノリは、使用人という名目のボディーガード達の半数以上が居なくなっている

事に気付き、自室のパソコンを起動して監視カメラの映像を確認した。

 その後ろから退屈そうにモニターを見ていたエミは…。

「あ~あ…」

 口元を笑みの形にして声を漏らす。

「やっちゃった」

「うん。やらかされた…」

 ミノリはきつく目を瞑って眉間をつまむ。パソコンのモニターには、地下ガレージに揃えた車に乗り込んでゆく武装した男

達の姿が映し出されていた。

 それは、一時間ほど前の映像記録。

 行き先は判っている。おそらく、「客分」に与えられた仕事を横取りしようという魂胆なのだろう。

「どうしてこう、「鴉」のためになるかどうかをよく考えてから行動しないんだ、兄さんは…」

「考える脳みそが無いからに決まってるわ。で、どうする?手遅れだけど親父に話しておく?」

「頼むよエミ。本家にも連絡しないと…」

 少年と少女は部屋を出る。電源を落とされたパソコンが、静かに駆動音を低めていった。