止んだ潮騒(後編)

 聳えるビルの屋上や電波塔の先端に灯る航空障害灯が夜気に滲んでいた。それなりに栄えた地方都市。交通の便と物流に支

えられて発展した街並みに、今夜は湿気が溢れている。

 金曜夕刻、日没直後。飲食店街は早くも賑わい、居酒屋チェーン店の自動ドアの開閉に合わせ、酔客の声がどっと歩道に溢

れ出る。

 その前を、かろうじて二十代あたりかと見える若いキジトラ猫が、ドアに張り付けられた写真入りメニューに目を向けつつ

通り過ぎた。

 魚油や樹木精油の灯りに頼っていた隠れ里育ちから見れば、浪費とも取れるほど明るい街。通りを歩けば漂う食べ物の匂い

に、店頭に並んだ様々な電化製品…。物が溢れた豊かな国、隠れ里からは遠かった街並み、しかしそれを羨ましいと、自分達

は不自由していたと、思ったりはしない。いつもふてぶてしい顔の大狸がよく言っている。豊かな生活が多くの民に行き渡っ

ている事だけは、今の治世の最大の美点である、と…。

「トライチ、本当にここらかい?」

 キジトラ猫の後ろからそう尋ねたのは、濃藍の胴着に袴という格好の、薄赤い目をした恰幅の良い大狸。こちらは猫よりも

少し年上で、遠目に見ると熊のように大きい。

「ええ、そのはずです」

 と応じる猫は、引き締まったしなやかな肢体に濃紺の作務衣を纏っている。ふたりの後方を歩くのは、作務衣姿の鹿と、浴

衣姿の牛。いずれも紺色や濃藍の夜に溶け込む衣装である。

 スーツ姿の勤め人が多い市道沿いの大通りでは、この四人は少々目を引く格好のはずだが、すれ違う者は彼らの姿を誰一人

として気に留めない。それどころか、彼らの「腰の物」にも気付いていない。

 キジトラ猫が腰に帯びているのは、鍔も柄も鞘も黒一色で統一された小太刀。派手さはないものの、取り回し易い全長一尺

七寸に匠の業が凝縮された誂えで、艶が消された厚塗り漆から鮫革の柄に至るまで、実用的でありながら見事な細工が施して

ある。

 牛と鹿が差しているのはそれより大きい、通常の長さの打ち刀。いずれも黒染めだが、キジトラの物同様に鍔も柄も鞘も気

品のある仕立てになっている。

 中でも一際目を引くのは、狸の大男が無造作に佩いた鍔が無い刀…黒染めの鞘に二尺八寸余りの刀身を収めた大太刀である。

並の力では持て余すだろうそれは、しかし大柄な狸の体格と刀の扱いに合わせた物で、はた目にも持ち主によく馴染んでいる

ように見えた。

 キジトラ猫の名は申田虎一(しんでんとらいち)。隠神の遠い筋。ギョウブの近侍にして斥候、今では文字通りの「片腕」

となっている若者。里に居た頃よりも背が少し伸び、頼りなかった頃の面影は薄れている。体つきも少し逞しくなったが、何

より変わったのはその雰囲気…、身に纏う、落ち着き払った静謐な空気である。

 後ろを歩く大狸の名は士田太助(しだたすけ)、隠神の眷属である。裏帝の隠れ里において、ギョウブ配下で二番隊と呼称

されていた精鋭揃いの工作部隊…あの戦の中で生き延びたひとり。隠神本家筋から体格と身体能力が色濃く血に出たようで、

その大柄で力強い体躯はギョウブと並んでも見劣りしない威風を備える。

 隠神の眷属としては、タスケの幻術の力は主に思念波強度の都合上で弱い部類に入り、相当な前準備をしてもなお扱える大

規模な術は限られている。しかし個人や少人数を対象とする術の制御は完璧で、単独行動及び少数精鋭での任務に向いている。

事実いまも使用している隠遁術は綻びを一切出さず、ふたりの後ろに続く屈強な牛と細身の鹿も含め、いずれも周囲の通行人

から注意を向けられていないのは、タスケの隠形幻術が作用しているおかげである。

「こういうの見てると、腹減ってくるよなぁ…」

 居酒屋店頭のメニューを見遣って暢気に呟くタスケ。その声を後頭部で聞きながら、「すぐ済みますから、辛抱ですよ」と

トライチが応じる。

「そろそろ大将の方でも始めてる頃かぁ」

「予定では…、でも、どうでしょう?」

 トライチが軽く肩を竦める。

「もうとっくにだいぶ進めている可能性も…」

「ふふっ!大将の場合はソレもあるか、ワシらが遅れる訳にはいかないなぁ!」

 笑ったタスケの言葉を聞きながら、トライチも微かに微笑んだ。「仕事」前でも雰囲気が柔らかいまま、素朴で陽気なこの

男と一緒だと、同行する者も体が堅くなり辛いのでやり易い。

 やがてトライチが足を止めたのは、パブやカクテルバーが入った小さな商業ビル。周辺に建つ雑居ビルと何ら変わった所は

ないが、キジトラ猫は入っている店の名が並んだ入り口壁面の蛍光パネルを見遣ると、「この中です」と小さく囁く。

「考えたものだな。アレだろう?いわゆる隠れ賭博部屋の類の…」

 鹿が軽く顔を顰めながら囁き、トライチは「ですね…」と顎を引く。蛍光パネルの店名表示が並んだそこに、知っている者

が見れば判る印がある。非合法賭博場のサインが。

「ここからあそこかぁ…」

 唸ったタスケは背後を振り仰ぎ、まばらに灯りがついた高いオフィスビルを見遣った。距離はかなりあるが…。

「いざという時の隠し通路の出口が、配下の隠れ賭場…。らしいと言えば、らしい」

 牛が腰の物の位置を確かめながら口の端を上げる。「だなぁ」と頷いた狸は、トライチの脇を抜けて前へ。

「さぁて、こっからはワシが先頭だぁ。努々、油断は無しで頼むぞぉ?」

 大太刀に手を添えたタスケが、鯉口に親指を当てる。その顔から表情が消え、瞳が赤味をじわりと強めた。



 ダンッと大きな音を立ててドアが開く。

 薄暗い室内にモニターの灯りが白く蟠ったそこへ踏み入るなり、タスケは目前のカウンターを踏み越えて跳んだ。

 大男が胸高のカウンターを足場に軽やかに跳躍する様を、受付兼見張りだった男は呆然と見上げる。ドアが開いたか否かの

一瞬の出来事、状況が飲み込めていない男はしかし、この時点で職務の続行が不可能になっていた。
すれ違い様に側頭部を太

刀の鞘で殴られており、タスケが賭場の真ん中へ踊り込むその瞬間には、意識が飛んでしまっている。

 驚いて「わっ!」と声を上げたのは、仕立ての良いスーツ姿の中年。これは一般客だろうと判断したタスケは、着地しなが

ら視線を走らせて「物色」する。そしてすぐに見つけた。ゲーム台に屈んで身を隠そうとしながら、懐に手を入れる男の姿を。

腰の後ろに手を回している手近な男の姿を。

 ひょいっと、大太刀が先端付近の峰で椅子を引っ掛ける。いつ抜いたのか誰にも判らなかった早業で抜刀を終えたタスケは、

手首のスナップだけで引っ掛けた椅子を浮かせるなり大太刀を一閃する。

 そして、傍の男の左肩がひしゃげた。

 遠い男の顔を、飛んだ椅子が潰した。

 引っ掛けて浮かせた椅子を大太刀の一振りで飛ばすや否や、返す一刀による峰打ち。ドアを潜ってからたった四秒後の出来

事である。

 そうしてタスケが三人無力化したその時には、鹿は入り口を封鎖しており、牛はスタッフルームに飛び込んでいる。

 ホールにはもう戦力が無いと、狭い部屋を見渡して確認したタスケは、賭場客を牽制するように見回しつつ、大太刀を一振

りしてから肩に担いだ。
隠神の眷属とはいえ、これが当たり前という訳ではない。その鮮やかな手並みと制圧力、的確な見定

めは見事な物。何せ部屋の間取りも知らず、飛び込んだ瞬間の一瞥で状況を把握し、制圧手順を組み立てての仕事である。

 左肩を砕かれて悶絶した男を見下ろしながら、タスケは担いだ太刀でポンポンと肩を叩く。ずっしりと重い、刀身に厚みが

あるソレによる峰打ちはひとの骨など容易く砕く。その気になれば肉も骨も一太刀に抉り飛ばして即死させる事もできる。

「タスケさん!ありました!」

「おお、こっちも片付いてる。そっちに行くぞぉ」

 スタッフルームから聞こえたトライチの声に応じると、狸はその場を鹿に任せた。すぐさま賭博場内の者達は鹿に縛り上げ

られるが、その術も不可思議である。何せ、鹿が使った大量の縄は、直前まで持ち歩いてはいなかったのだから。

「何だっけ?ほらぁ」

 スタッフルームに入ったタスケは、牛が引っぺがした床板の下にあった空洞を見下ろしてから、昏倒させたスタッフを縛り

上げているトライチに目を遣る。

「何かあったろぉ?大当たりって感じのさぁ、西洋賭博の表現…」

 トライチと牛は少し考えて『ああ!』と声を揃えた。

『ビンゴ!?』

「それだ、ビンゴ!ふふっ!」

 予想以上に遣り易かったので、トライチの牛もタスケの軽口に乗っかる余裕がある。そもそも、彼らは今の突入で身の危険

を感じていない。拳銃を持った相手であっても。

 ぬるかった。ただひたすらに容易い相手だった。神将と御庭番を相手に何百年も暗闘を繰り広げながら、勝てはせずとも尻

尾も掴ませなかった武装集団の末裔達にとっては、「鴉」ことオブシダンクロウと抗争をするほどの大組織の構成員達ですら

も、歯応えのある敵とは言えなかった。

「じゃあ、ワシとトライチは予定通りに進めるから、後は頼んだぞぉ?」

「お任せあれ!」

 右腕に力瘤を作ってポンと叩いて見せた牛に頷き、タスケは床下の穴を覗き込む。

「トライチ、背中は任したぁ」

「はい!」

「一応急いだ方が良いんだろうなぁ」

「けれど慎重に注意深く、です。大将から念を押されましたけど、今回は…」

「う~ん…。できれば「救出」も、とはなぁ…」

 ぼやきながらも壁面のタラップに捕まって、落下するように素早く降りてゆくタスケ。

 その後ろに続いたトライチは、地下通路に降りながら自分達の任務について考えていた。




 数時間前。ギョウブに与えられた仮の執務室には、実行役全員が集められていた。

「タスケ、トライチ、ヌシらは脱出路の封鎖隊に同行。裏手からの奇襲戦力として退路を断ちながら拠点に入れ」

 卓上にビルの見取り図と並べて広げてある周辺地図を示しながら、隻腕の大狸は両者の顔を見遣る。

「抜け道の出入り口は、そうそう指揮の中心から離れちゃおらんだろう。油断できん役目だが、期待しとるぜ?」

「は!」

「お任せ下さい!」

 狸とキジトラ猫が口々に応じると、ギョウブは拠点外周各方向から侵攻する人員の割り当てに移った。そのキビキビした指

示と眼光鋭い眼差しに、トライチは一時見惚れてしまう。

(一時はどうなる事かと思ったけど、里に居た頃のヒコザさんに戻ったみたいだ…)

 腕を失い友を失い主君を失い、葛藤しながらも生き永らえて落ち延びた先で、ギョウブは以前と変わらない指導力を発揮し

た。
隠れ里の護り手であると同時に斥候でもあったギョウブは、奇襲から潜入、防衛戦までこなす。烏丸側が擁する戦力も相

当で、質が高いのは勿論、規模も私設軍と呼べる程の物なのだが、それでもなお落人達には及ばない。

 烏丸財閥の本来の顔、「鴉」ことオブシダンクロウは、古くから大小様々な組織を傘下に迎えて大型化してきた組織である。

そのため、盟主本家筋の下に複数の有力な子分筋がつくという、旧いヤクザ者のような体制になっている。故に一枚岩とは言

えず、戦力レベルの統合や共同訓練、役割分担や力の均一化なども行われていない。
それでも問題は無かった。本拠地や正体

を掴まれていない、これまで通りの状況であったならば…。

 今回の抗争相手は名前も規模も判明していない。戦闘員の特徴として、だんだら模様と顔写真だけが入った身分証を所持し

ているので、「だんだら」という仮称で呼んでいる。
烏丸側で正体を掴めていない反面、だんだらは鴉が烏丸コンツェルンと

深い関係にあるという所まで突き止めている。総帥が狙われたのは「烏丸コンツェルン側のトップだから」という理由による

物だったようだが、このままいけば標的となる大将首の正体と居場所は勿論、戦力を隠していると推測できる関連組織も把握

されてしまう。こうなってしまうと烏丸本家の施設部隊だけでは手が回らず、統一されていない傘下組織の戦力は個別に撃破

されかねない。早々に手を打たなければ状況は加速度的に悪化してゆくだろう。

 それに対して、烏丸側が押さえているのは前線拠点とも言えるアジト一つだけ。ここを押さえて情報を得るなどの足掛かり

にしない事には、満足な反撃もできない。

 全員に役目を割り振り、準備のために送り出した後で、ギョウブは部屋の隅を見遣った。

 そこには白木の鞘に収められた長ドスが立てかけられている。烏丸の総帥から与えられた、ギョウブのための一振り。早速

実戦で使う事になるのだが…。

「…トライチ」

「はい!」

 内線電話のコールが響き、ギョウブは目を動かして卓上の内線電話に目を遣った。キジトラ猫はワイヤレスホンを取り上げ、

応答し…。

「大将。烏丸の頭からです。急用だとおっしゃっておられます」

 こうして、出陣のたった一時間前になって、身内…リトクが勝手に突撃してしまった上に連絡が取れなくなったという烏丸

総帥からの情報が届いた。




 作戦内容は寸前で大きく変更された。襲撃計画をそのまま実行しては、安否不明の人員が人質にされる可能性が高かった。

抜け道を塞ぐ班はそのままだが、他の人員は襲撃方法と経路を変えて当たる事になった。

 総帥も私兵を出すと言ったのだが、そこは堪えて貰った。打ち合わせもなく、連携も取れていないのに頭数が増えても、迅

速な作戦行動の妨げになるだけである。出番は襲撃が成った後…救助者の搬出や、拠点の現場責任者の引き渡しの段階まで待

つよう説得した。

 最初の仕事の段階から難易度が跳ね上がったが…。

(まぁ、予定通りに行かず、現地で作戦を練り直すのも、臨機応変に対応するのも慣れとる)

 往来の中を大股に歩きながら、隻腕の狸は着心地の良い作務衣の感触を確かめる。愛用していた鵺の毛を織り込んだ作務衣

を、解体して仕立て直した品。最先端の特殊繊維をベースに鵺の毛が編み込まれた一張羅は、かつての愛用品よりも軽く、そ

れでいて丈夫になっている。

 腰には白木鞘の長ドス。総帥が用意してくれた、烏丸縁の刀工による業物。まだ切れ味を試してもいないが、相当な物であ

る事は判っている。

 長ドスの美しい刃紋を赤い瞳で一目確認して、ギョウブは悟った。「練り込まれた魂」が半端ではない。おそらくこれは、

一度に十人斬った所で切れ味は落ちず、刃が零れる事もないだろう、と。

 精魂込める、という表現がある。魂を込めるとも言う。だがそれは、単なる比喩に留まらない場合がある。特に、名のある

刀工や腕利きの刀鍛冶が拵えた剣や刀の場合は。手間をかけられ技を凝らされ、できあがる刀。そこには刀鍛冶の「魂」が宿

る。有体に言えば、刀を造るその過程で鋼が「思念波」を磁力のように帯びる。故に、良い刀は素材と構造による理屈上の性

能を優に超え得る。

 与えられた業物に見合う働きはしなければと、気を引き締めて歩むギョウブは、ビルの正面口から堂々と中に入った。

 誰も、長ドスを腰に差した隻腕の大狸を見咎めない。往来の中を歩いてきた時同様に、警備員も、受付カウンターの女性も、

一般社員らしいスーツの中年も、ギョウブが目の前を横切ってもすれ違っても、全く気付いていない。

 極々普通にエレベーターに乗り、乗り合わせた事務員の女性にも全く気付かれないままボタンを押し、一般フロアの一番上

の階まで到達すると、組織の関係者だけが出入り可能な上層フロアへのエスカレーターに向かう。

 IDカードによる身分確認を行なうゲートがあったが、出入りする者の姿がちらほらある。ギョウブは丁度通過しようとし

ていた若い男に文字通りくっついた。紛れて通過するギョウブの太鼓腹が背中に押し付けられても、男は全く気付かない。

 狭苦しいゲートを超えてエスカレーターに乗り、隻腕の狸は組織の拠点となっている特別フロアに至る。

 ルートだけを見れば、馬鹿馬鹿しいほど単純な侵入路だった。カメラもセンサーもひとの目もその他の五感も、番犬の類が

居ても役に立たない。まともな電子戦などになれば近代機器に疎い落人達は何もできないが、そもそも電子戦になりはしない。

得意の土俵でやるだけの事なので、どんなに高度なセキュリティーシステムだろうと無視するだけである。
国内どころか世界

最高峰の幻術使いだからこそ可能な正面からの侵入を果たしたギョウブは、上層フロアに入った所で一度足を止めた。

 スンッと鼻を鳴らす。血臭と硝煙の残り香を嗅ぎ付けて。

(ここでドンパチしやがったらしいな…)

 壁を見遣る。弾痕がある。床には拭った生乾きの跡。点在するそれらを歩きながら確認し、分析し、ギョウブは押し入った

烏丸の部隊がどう侵攻し、そして鎮圧され、どこへ行ったのかを突き止めた。

 上層フロア二階、間取りの図面によれば大型ホールになっている区画。鎮圧された部隊はそこへ搬入されたと推測がつく。

死体も怪我人も無傷な者も、だいたい固められている。一箇所に集めた方が管理し易いからである。ただし、情報を引き出す

ために少人数は別にされている。尋問し易いように。

 上層フロア三階まで歩き回って確認したギョウブは、鋭い嗅覚が捉える血臭の残り香の大元が先ほどのホールだと確認した

後で、手近な窓に近付いた。そして、窓枠に身を寄せて下を向き…。

(所在を確認した。虜囚は拠点中枢二層目の大部屋。各自予定通り、機を見て任意に仕掛け、外側から制圧しろ。大部屋の奪

還は土台を固めた後だ)

 素早く指で暗号を示した相手は、窓のすぐ外、ビルの壁面に張り付いている背が低い狸。これまた単純で馬鹿げているが、

襲撃部隊は隠神の眷属達の幻術で姿を隠しつつ外壁に取り付いている。

 やがてギョウブの通達がビル壁面の部隊を一周し、窓ガラスが切られて侵入路が確保され、四方から襲撃部隊がなだれ込ん

だ。音もなく、影のように。



「で?話す気になったか?」

 椅子に縛り付けられ、項垂れた男の顔からポタポタと血が垂れる。無言のままペッと血が混じる唾を吐き出した男の頬を、

問いかけに答えない罰として、眼前に立った男が警棒で殴りつけた。

 殴られた男の口から折れた歯が飛び、転がった先には、長机の上に縛り付けられ、指の爪をペンチでギリギリと引き剥がさ

れている女の姿。蒼白になった顔を苦悶に歪ませながら、しかし声を押し殺して呻き一つ漏らさない。

 その会議室を思わせる部屋は、椅子や机が壁際に寄せられ、簡易尋問室にされていた。

 尋問されているのはその男女だけではない。まだ無傷だが、オールバックの若い男も椅子に縛り付けられて、拷問の様子を

見せ付けられている。

「我慢強い部下をお持ちのようで。羨ましい限りですよ」

 痩せぎすな壮年の男がリトクに囁く。スーツ姿で、何処にでも居る中間管理職といった風貌だが、眼光が冷たく、纏う気配

がカタギのそれではない。普段はカモフラージュしている手合いの組織の人間である。

 リトクはギリギリと歯を食い縛る。

 項垂れていた男の目が静かに訴える。喋らないで下さい。

 手足の爪を十四枚剥がされた女が目で告げる。大丈夫ですから。

 リトクは後悔した。相手を舐めていた。IDカードの複製情報を入手した時点で勝ったと思い込んだ。招き入れる罠だった

のだと気付けずに、流れが来たと勘違いして襲撃をかけた。客などという信用ならない連中に任せず、自分が存在感を示せる

と喜んだ。功を焦ってまんまと引っかかった迂闊さに腹が立つ。忠実な部下を何人も失い、手負いの部下も今はどうなってい

るか判らない。

 交渉材料になると踏んだのだろう、リトク自身は傷一つつけられていないが、安全が保証されている訳ではない。「人質と

しての正しい運用」が始まるまでの五体満足である。

 絶望と後悔と目の前の光景への憤怒。わなわなと震えるリトクの横で…。

「さて、間に合ったと言って良いのかどうか…」

 その場に居る全員が一瞬呆けて、次いで弾かれたように声の主を見遣った。

 椅子に縛り付けられたリトク。その脇に、抜き身の長ドスを右手にぶら下げ、隻腕の狸が立っている。

 足元には今まさに広がってゆく血溜まり。リトクの脇で倒れ伏したスーツの男は、背中から胸まで肋骨の隙間を抜けて貫通

する一刺しによって、既に絶命している。

 長ドスを一振りして返り血を刃から落とすなり、ギョウブは返す刀でリトクの両腕を椅子の後ろで縛っていた縄を断ち切る。

「後は自分で解け。できるな?」

 リトクを一瞥して声を発したギョウブに、残った尋問係ふたりが、それぞれ拳銃を抜いて向けた。が…。

「そこにはもうおらんぜ」

 幻像の狸がそう声を発した一瞬後、椅子もリトクもギョウブもそこから消えていた。

 まだ椅子と繋がっているリトクが壁際まで吹っ飛んで長机を引っくり返しながら埋もれる。

 蹴り飛ばすという乱暴な手段でリトクを射線から離脱させたギョウブは、女が縛られている机の脇に、高速移動に制動をか

けた直後の屈伸するような姿勢で出現している。禁圧の緩和は問題なく行なえたと、自らの体を試運転で確認するギョウブ。

 そして、一閃。続いて舞う赤い飛沫。余りにも切れ味が良過ぎる業物の、掬い上げるような一刀。男は軽い衝撃を感じると

同時に両手首から先を失った。痛みを感じる事もない、軽く下から叩かれたような衝撃だけが印象に残った。

 振り上げた長ドスをクルリと回転させて逆手に持ち変えたギョウブは、テーブルに縛られている女の手首を戒めるロープに

突き立てて切断しつつ、早口で低く「主を守ってやりな」と告げる。

「キサマ何処から!?」

「当然そこの戸からに決まっとるだろうが、ええ?」

 返答に期待していない言葉からの銃声。律儀に…というよりは余裕の嫌味を込めて返答したギョウブは、切断された両手を

抱えるように背を丸めた男の背中で服をムンズと掴んで前に引き寄せ、自分と背後の女の盾にする。

 被弾した男が絶叫して喀血するも、構う事なく撃って来る仲間の方へ、ギョウブは「盾」を構えながら突進した。

 そして、ぶつかりそうになって横へ跳んだ男は、自分の喉に向かって伸びる、隻腕のはずだった狸の「左手」を見た。自分

の首など簡単にへし折ってしまいそうな、「左手」を…。

「フン…」

 喉が潰れて絶命し、ゴトリと床に転がった男を見下ろして、作務衣の袖から覗かせた幻術の腕を消したギョウブは、椅子に

縛られている男の脇で屈むと、作務衣の懐に右手を潜り込ませ、彫刻刀のような小刀を抜き、縄を切ってやる。

「意識はあるな?ワシは、ヌシらの救助を烏丸の頭に頼まれた者だ」

「…助…かった…」

 歯が折れて顔中腫れ上がった男は、かろうじて細く開いている目をギョウブに向けた。

「ここにはヌシら三人だけだな?」

「ああ、それだけ…」

「他は下の階の広間に全て居るな?」

「?ああ、おそらく…は…」

「よし。これでだいぶやり易くなっ…」

 言葉を切ったギョウブは、緊張が切れて気絶した男の顔を覗き込むと、フンと鼻を鳴らす。

(腕はともかく心根はまずまず。烏丸の兵は、質そのものは悪くないと見た)

 ウズッと、ギョウブは自分の悪い虫が騒いだのを感じた。どうにもこうにも、未熟な者を見ると鍛え直したくなるのはなか

なか抜けない悪い癖だと、軽く首を振る。

「さて、ワシはまだ仕事の残りがある。ここで立て籠もる程度の事はできるな?」

 爪のほとんどをはがされて、なお気丈に主を解放して付き添う女性に向かって、ギョウブは訊く。ダメだと言うなら仕方な

いので連れて行き、誰かに護衛を命じるつもりだったが…。

「俺らに構うな…!」

 オールバックの若い男は、憎々しげにギョウブを睨んだ。

「これ以上恩ができたら、返し難くなる…!」

 リトクの苦々しい声を聞き、一拍の沈黙を挟んで、ギョウブは顔をやや伏せながらクックッと含み笑いを漏らした。

「何がおかしい!」

 怒鳴ったリトクを「いや…」と見返して、大狸はふてぶてしく笑って見せる。

「ヌシはまだ若い。若い内は過信も驕りも功名心もあって然りってぇもんだ。ただし、それらで犯した過ちは忘れるな。それ

で成長できるなら、恩など返して貰わんで結構だぜ」

 ギョウブは基本的に厳しいが、同時に失敗に対して寛容でもある。失敗を取り返せる相手なら、口煩く嗜めはしても「責任」

を取らせはしない。処分して先を摘んでは成長が無いというのが基本理念である。それは身内に限らず、敵でさえなければ誰

に対しても同じだった。

「では、この場は任せたぜ。えぇ?」

 今度こそリトクは神妙に黙った。

 「隠れていろ」でも「動くな」でもない。気に食わなかった客分が、あえて口に出した言葉は「任せた」だった。それが、

この隻腕の狸の器を如実に物語っている。

 部屋を出てゆくギョウブを、リトクはじっと見つめていた。総帥が客分として扱うに相応しい男だったのだと、認識を改め

ながら。



「今、何か聞こえたか?」

「ん?何がだ?」

 特別フロア最上階、屋上ヘリポートに続く階段の前に立つふたりの男は、外部から見られる心配がない深部だからだろう、

自動小銃をベルトで肩からかけ、両手で体の前に保持している。

 その背後、階段を二段ほど上がった所に、狸と兎と猿が居た。

「銃声が…」

「え?気のせいじゃないのか?」

 言葉を交わすふたりは背後の三匹に全く気付いていない。兎と猿が自動小銃からマガジンを抜き、縄を体に回して縛り上げ

始めても「聞こえなかった」「警報が鳴らないから空耳か」「銃撃戦で耳に染み付いたのでは…」などと会話を続けていた。

そして…。

「烏丸の連中、まんまと引っかかったが…」

「鉄砲玉にしては人数居た方だったからな。処理も大変だ」

 縛られて転がされてなお、変わらずに話が続いている。

「鍵のカードがあった」

 猿が男の片方の懐からカードキーを抜き出して放ると、受け取ったウサギは階段を上がって屋上に繋がるドアのカードリー

ダーに遠し、「このカードで間違い無さそうだ」と反応を確認する。

「空路の押さえは完了だな。では粛々と次にかかろう」

 大柄な割に気配が希薄で静かな狸は、のっそりと階段を下ると、猿轡を噛まされてなお会話を続けていた男達を見下ろし、

指二本を立てた右手を眼前に上げ、そこから払うように下げる。その双眸はギョウブ同様、赤光に染まっていた。

 次の瞬間、術を解かれた男達はハッと目を見開き、我に返るなり混乱し、もがき始めた。

「転がしておく。一応見ておいてくれ」

 そう兎に言い残して、猿を伴った狸は

 杉林寒月(すぎばやしかんげつ)。目が細く、全体的に色が淡い、やや長毛のモコモコした狸。隠神の幻術の内、精神を夢

幻に捕らえる術を得意としており、この通り「何事も起きていない」と錯覚させながら事を運べる程の腕前。集中するために

補助員は必要になるが、術の精度と効き目は出来栄えに厳しいギョウブも太鼓判を押すほどである。幻術への警戒も対策も無

い相手は、このとおり赤子の手を捻るように簡単に無力化できる。

「遅れると大将が気を揉まれる。次も手早くかかろうか」

「おう!」

 猿と狸は堂々と廊下を歩いて行き、曲がり角でばったり出くわした巡回兵を、気付かれないまま一緒に歩きつつ、周囲をぐ

るぐる回って縛り上げ、転がしてから立ち去った。そして次の巡回と出会って…。



 同時刻、監視カメラの映像を並んで映し出しているモニターを前にして、また別の狸が「むむ…」と唸っていた。

「大広間の虜囚達にあてられている人数は、予想以上に多い。これは骨が折れるぞ」

 狸と並んでいる狼が発したその声を耳にするなり、監視部屋の人員達はガタタッと腰を浮かせた。

 いつからそこに居たのか、いつのまに侵入したのか、甚平を思わせる薄手の軽装に身を包んだ狸と、忍者のような黒装束に

身を包んだスラリとした狼が、モニターがよく見える位置に並んで立っていた。

 ドア脇には守衛の男がふたり倒れており、片や顔面が陥没し、片や腹に風穴が空いている。

 気付いた監視員達が懐に飲んでいた銃を抜くが早いか、背が低い狸がトンと床を蹴る。一瞬の内に最も近い男に接近するな

り、その顔面に、鼻を潰して踵がズックリとめり込んだ。

 ひとりめの顔面を蹴り潰した狸は跳ね返るように宙を舞うと、着地もせず次の男の首に腕を絡め、遠心力と加重を乗せてバ

ランスを崩させつつ、ゴキリと捻り折っている。その手足には、鋼鉄が仕込まれた手甲と脚絆。

 一方狼は、別の男に接近するなり懐に掌で一撃を加え、一瞬の発光と共に爆破。神無式古流闘法の一つ。掌を土台に多重展

開した力場を密着状態から起爆するという、指向性地雷にも似た攻撃である。

 徒手空拳で暴れ回るふたりに銃弾は当たらない。速くて当たらない…どころの騒ぎではない。照準が全く合わないのである。

 伸川三郎太(のびかわさぶろうた)。隠神の眷属としてはだいぶ小柄な方で、ギョウブをそのまま小さくしたような背格好

の狸。得意とする術は空間認識をズラす幻の類である。狙う者達の目には、狸と狼の姿は1メートル近くズレて映り、ふたり

が間合いを取ったまま攻撃して来るように見える。

 おまけに、サブロウタは暗殺に特化した体術の使い手。神無の眷属と並んでなお見劣りしない戦速で、一呼吸毎に一人を仕

留める。

 あっという間に七名を葬って部屋の制圧を終えた二名は、コンソールパネルの前に立ち…。

「…ここも光る画面に触れる類の品か…。面妖なっ…!」

 タッチパネル式のモニターを睨んで狼が呻く。梨畑立依(なしばたたつより)、神無の遠縁にあたる眷属。直接戦闘は得意

だが、こういった機材は不慣れで苦手なので、助けを求めるように傍らの狸へ目を向ける。

 里での部隊編成は異なり、元々は神無の単独強襲兵として動いていたタツヨリだが、様々に補助を行ってくれる隠神の眷族

達とは合同で事に当たる事が多かったため、落人として再編された部隊内でも順応している。特にギョウブ配下の独立少数兵

だった二番隊とは御役目で一緒になる事が多かったので、サブロウタやカンゲツ、タスケとは親しい間柄。ぶっつけ本番のペ

アだったが息もピッタリだった。

「判るかサブロウタ?」

「大体はな。弄ってる間は後ろ見張っててくれ、少しかかる」

 応じたサブロウタがセキュリティロックの解除に取り掛かり、「承知した」と答えたタツヨリは一足一撃の間合いを保って

ドアの手前に立った。



 特別フロアの各所で、連絡を取り合わせずに各個無力化が進む。

 敵対組織を招き入れて罠にかけるほどの組織も、隠れ里の落人達の侵攻に対しては無力だった。

 ひとりあたりの戦力差が違い過ぎる。しかも真っ当な侵入防止手段を完全に無視してくる。近代技術による拠点防衛機能も、

銃で武装した私兵も、彼らの侵入に対して意味を為さない。

 そして…。



『「ビンゴ」…』

 同時に呟いてから、大柄な狸とキジトラ猫は顔を見合わせる。

 賭博場から繋がった細く長い隠し通路を抜け、ダストシュートのような垂直穴を延々と登った先、壁に切れ込みが入った部

分を力任せに押し開けると、そこは拠点責任者と思しき五名の重役達が集まっている会議室だった。

 罠に嵌めて虜囚にした烏丸の私兵をどうするか、本部への連絡内容を含めて重役達が話し合っている最中に、緊急脱出路と

なっている壁のタペストリーを押し開けて入室してきたのは、胴着袴の剣道家のような格好をした大兵肥満の狸と、作務衣を

着込んだキジトラ猫。

 困惑による一拍の静寂。次いで重役達それぞれの後ろに複数ずつ付いていたボディーガード達と、本来の出入り口の内側を

固めていた守衛が、銃を構えてふたりに向ける。

「ここは右から崩す!少ぉし、禁圧緩めてくぞぉ!」

「はい!続きます!」

 即座に突進したタスケにトライチが続く。矢面に立って間合いを詰めるタスケの大きな体は、拳銃の良い的になるが…。

 連続する発砲音、そして、同数の金属音。

 男達は目を見張る。大狸への発砲は、一発たりともその体に着弾しない。

 集中するタスケの瞳は先ほどまでとは色が違い、赤々と変色して発光していた。

 隠神の血を引く証、「破幻の瞳」。しかしタスケは銃弾を防ぐために何らかの幻術を使用している訳ではなく、高まった集

中力に引きずり出されて瞳に赤がさしているだけ。その眼力で自分に向く銃口それぞれの角度を捉え、その射線に大太刀をあ

らかじめ「置いておく」事で塞ぎ、銃弾を全て弾いてのける…、つまり術に頼った物ではなく、完全に剣の腕前と視力と反応

速度による防御技術である。

「せぇっ!」

 気合一閃、間合いを詰めたタスケが大上段から振り落とした太刀が、男の手を文字通り粉砕して挽肉に変え、拳銃を叩き落

とす。返す刀が低い位置から弧を描いて、傍に居た重役の腿を打って大腿骨をへし折り逃亡不能にする。さらに素早く正眼の

構えに戻って、最小限の太刀の角度変更で銃弾を再び三発弾き、大きく踏み込んで一気に2メートル詰めつつ三人目を刀にか

ける。ここまでが動き出してからたった四秒の出来事、その一挙手一投足はコマ落としのように過程が飛んで見える。

 タスケがかつて二番隊の副隊長に任命されていたのは、大結界術から拷問まであらゆる術をこなす必要がある、総合力重視

の一番隊には不適格だったから。しかしその一方で、少人数での作戦行動に際してはこれ以上の適任は居ないと、ギョウブか

ら太鼓判を押されての副隊長への推挙でもあった。

 幻術の射程や範囲が狭いタスケだが、その持ち味は、行使可能範囲であれば完璧な幻術の仕上がりと、剣術である。単純な

話、タスケは剣さえ握らせれば滅法強かい。好きこそ物の上手なれとは言うが、一対一、かつ剣術のみでの真っ向勝負であれ

ば、両腕があった頃のギョウブですら敵わない程の剣豪。

 剣筋そのものは正統派な剣法…里に伝わっていたのが戦国時代末期に興った剣術なので現代の物とは少々異なるが、それで

も剣道にも通じる物である。相対し、構え、斬り合う。それが隠神の眷属達が担っていた隠密任務や、ルールのない暗闘と相

性が良かったのかというと…、結論から言えば「タスケの場合においてのみ相性が良かった」と言わざるを得ない。どんな乱

戦の最中だろうと、どんな搦め手を仕掛けられようと、タスケはその一刀を相手に叩き込むのみ。お膳立ての手段には幻術が

あるので、いかな混戦の最中でもその剛剣を入れる機会は作れる。事実タスケは、不意打ち幻術なんでもありだった隠れ里で

の野外模擬戦では、飛び道具やら槍やら術やらを得意とする猛者共を抑えて、いつも最終局面まで勝ち残っていた。このよう

に信頼できる腕前の猛者だからこそ、今回の任務では花形ともいえる重要な役目…隠し通路を逆行しての本陣奇襲を任された。

 そんなタスケは、剣豪ではあるが刀に切れ味を求めない。というよりも得物を選ばない。一太刀入れば斬れても斬れなくと

も死ぬ…、そんな弱点や急所に一刀を叩き込むのが得意な男なので、得物に求めるのは切れ味よりも、折れず曲がらず何人で

も葬れる頑丈さ。隠れ里に居た頃はよく刀が折れてしまっていたため、現地で木の棒なり鉄パイプなりを拾って代用する事も

あった。加えて言うなら、刀が傷むからと皆が嫌がる銃弾の弾き返しも躊躇しない。

 烏丸がそういったタスケの特性を聞いて用意した新しい大太刀は、切れ味よりも耐久性を重視した業物である。斬れれば良

いが、そうでなくとも撲殺するので問題なし。それがタスケに与えられた専用の得物…無銘の黒塗り合戦太刀。無論最低限の

切れ味は有しているが、刃の切れ味だけで奇麗に斬る事など目指してはいない。肉厚で頑強であるが故に、例え剛力をもって

甲冑の上からぶっ叩いたとしても背が伸びたりはしない。

 そしてタスケの背中に隠れる格好で追走して来たトライチは、その神がかった防御の庇護を充分に受けながら、落ち着いて

部屋の中を確認できた。

「装置を確認しました!行きます!」

「ほいよぉ、任しとけぇ!」

 宣言するなり大狸の背後から飛び出したトライチを、しかし部屋の誰もが「見ていない」。タスケの幻術は小規模狭範囲だ

が、正確で精密。男達にはタスケの背後に隠れるキジトラ猫の幻覚が見えており、射線に注意しながら壁のコンソールに向か

うトライチには気付けない。

 そして非常用パネルに触れたトライチは、窓と入り口を封鎖する金属シャッターを強制降下させた。流石にこの時点でハッ

とした、すぐ傍の男達が反応したが…。

「っ!!!」

 ひとりは、銃を向けようとした右手の上にパンッと左手を乗せられた。スライドを固定する格好で拳銃を掴まれて発砲でき

なくなった男の喉は、飛び蹴りの格好で腕と交差した猫の左足…その爪先で、正確に喉仏と気管を蹴り潰されて、首の骨がう

なじ側に押し出されるように外れる。断末魔もなく。

 そしてもうひとりは、トライチの右手が翻る様を視認した瞬間に、視界が左右に分断された。キジトラ猫が見もせずに右手

で振るったのは、与えられたばかりの黒小太刀。ひとりを蹴り殺すと同時に伸ばされたこれの切っ先を両目の間に受けて仰け

反った男は、自分に何が起きたのかも判らないまま即死している。

(禁圧…、総解除!)

 自分に気付いた周囲から集中して銃口が向けられるその直前、蹴り殺した男の体を足場に、キジトラ猫の体が跳んで消える。

 ドンと音がしたのは壁、ゴンと響いたのは天井、ダンと鳴ったのは床、そしてグシャリと潰れたのは膝蹴りを貰った男の後

頭部。

 喉を蹴り潰して殺した男の体を蹴って壁に跳び、反射するように天井へ、そして男のひとりの頭上を越えて背後に回り、こ

れを殺害したその高速機動は、一度は銃を向けかけた複数人が、揃って1テンポずつ遅れて目で追い、かつ姿を捉えられない

ほどの物。タスケの動きと比べても見劣りしない速度である。

 小柄で細身な体を駆動するには充分な量の、引き締まった筋肉。総重量に対して出力が大幅に上回っているトライチの肉体

は、持久を考えず瞬間的な駆動を追及した場合、このような芸当が可能になるバランスを有している。そして過剰な負荷につ

いては、柔軟な筋肉と関節が吸収していなすため、損傷し難い。

 体格も才と言ってよいならば、トライチが持つ数少ない才に、これを加えても良いのだろう。小さい体に恵まれた、と。

(よぉし上々!トライチの禁圧解除もだいぶ様になったなぁ、ふふっ!)

 里で仕込まれても体得できなかった物なのに、逃避行の強行軍の最中、コツを掴んでからたった三週間足らずで無理なく扱

えるまでになった。追い詰められた環境下でこそ強く咲く、まるで野生の百合のようだと、タスケはニンマリ笑う。

 なにはともあれ、トライチが防壁を強制作動させた今、目当ての重役達に逃げられる心配は無い。ここからはあまり手荒に

せず、ゆっくり穏当に主要人物を捕縛できる。



 落人達が拠点へ侵入してから十二分後。ギョウブは手が空いた配下達と共にホールを包囲した。

 逃げ道を塞ぎ、戦力を削ぎ、残るは捕虜が集められたここのみ。短時間での制圧だったが流石に外部の異常に気付いたよう

で、捕虜を見張っていた相当人数が立て篭もっている。監視カメラは内側から破壊されてしまったのでサブロウタ達が押さえ

た監視ルームからも様子が判らなくなったが、その前に人数は把握済みである。

「押し入って仕留めるのも良いが…。ここは少しばかり、戦果に箔をつけるとするか」

「え」

 大太刀を肩に担いだタスケが頭領を見遣る。サブロウタも不服そうな顔で、カンゲツは物言いたげに薄目を開けているが、

「この程度は許せ。どの程度力が戻ったか試しておく」

 言うが早いか、隻腕の狸は何か言いかけたトライチに目配せして黙らせ、ホールの大扉を押し開けた。

 一斉に向けられた銃口を前に、怯みもせずに仁王立ちしたギョウブは、縛られている捕虜と、既に事切れている者達と、彼

らを監視していた敵兵を全て把握しつつ口を開いた。

「降る気がある者は武器を捨てて外へ出ろ。交戦する気がある者は…、まぁ、好きにするがいいぜ。ワシが二十数える内に判

断と行動を済ませろ」

 それは最後の降伏勧告。しかし従う者はない。そうだろうとは思っていた。兵は勝手に降れない物だから。

 ギョウブの双眸が強い赤光を湛える。破幻の瞳はこの場に居る者の中から、正確に対象を選定する。

「夢幻に沈め…」

 隻腕の狸が呟いたその瞬間に、このホールの無血開城が決定した。

 ギョウブが腹を膨らませ、そっと上げられた右手が帯の少し上に振り下ろされて、ボンッと低い腹鼓を響かせる。

「奥義、千ン本鳥居(せんぼんとりい)」



「え?」

 銃を構えた男は、光景の変化に驚き、戸惑った。

 ホールの景色が消え去って、目に映るのは前方遥か彼方まで続く石畳の地面と、大きな赤い鳥居の荘厳な列。 振り返って

も、緩くカーブしながら延々と大鳥居が続く。

「え!?」

 見上げる鳥居は一つ一つが5メートル以上の高さで、太く、重々しく、立派だった。

 鳥居の隙間から見上げる夜空は、満月が浮かぶ晴れ渡った星空。遠く聞こえるのは潮騒にも似た、梢を風が揺らす音。

「どうなってるんだ…?」

 幻だろうと思う。夢だろうと思う。おそらく自分は意識を失っていると思うのだが、男は不可思議なその空間に現実味を見

い出している。空気が生々しい。風の香りも響く音も現実の物としか思えない。

 男は警戒しながら歩き出すが、鳥居の列には果てがない。脇に出ようとしたが、気付けば鳥居の列の真ん中に居る。

「ど、どうなって…」

 途方に暮れる男の前にも後ろにも、どこまでも続く鳥居だけがある。

 控え柱も備わった立派な鳥居全てには、神額の位置に名が入っているが、男はそれを読めない。名前らしいと判るのに内容

が頭に入らない。

 鳥居一つ一つに入っているのは、歴代の「刑部」と轡を並べ、あるいは縁を結んだ者達の名。何十年何百年という歳月に散っ

て行った多くの命の名残。

 これが隠神家の深層意識にして心象風景。大幻術にして精神隔離結界、奥義「千ン本鳥居」。

 隠神と共にあった者の名は、ここの鳥居に残される。誰もが忘れてしまっても、何の記録にも残されなくとも、見る者が居

なくとも、名だけは永劫に残される。

 そしてこの鳥居に記された中には、隠れ里で消えた者達も含まれている。



「よし、縛れ」

 ギョウブの号令以下、ホールにぞろぞろと配下が入り込む。

 突然昏倒した男達を、捕虜になっていた烏丸の兵達は訳が判らないまま見つめていた。

 目を見開いたまま動かない、しかし生命反応は正常なままの皆が皆、どこまでも鳥居が続く風景の中に精神を放り出されて

いる。被術者が見ているのは夢幻だが、精神が隔離された状態であり、ギョウブは術を継続している間は、通常の手段では目

覚められない。

 ギョウブ自身も限界を試した事は無いが、無理のない範囲で同時に術をかけられる相手は一度に五十名以上、射程距離はお

よそ視認範囲そのまま。思念波の消耗が大きいので気軽に使えず、他の術と併用できないのは難点だが、この通り生け捕りに

はもってこいの幻術である。

 そして、ギョウブは今回単なる無力化策としてこの術を使用しているが、その気になれば「もっと別の使い方」がいくつか

ある。精神のまま隔離されたそこでは、実際の経過時間よりもずっと速く体感時間が流れてゆく。五体の感覚も餓えも渇きも

現実と同様に味わうため、長時間放り込んでおけば精神が衰弱死に至り、肉体もそれを追う。

 この千ン本鳥居は相手を無傷のまま無力化させる事が可能な超高等幻術であると同時に、相手を無傷で衰弱死させる事もで

きる恐ろしい幻術の側面も持ち合わせていた。

 作業が終わるのを見越してギョウブが術を解くと同時に、意識が戻った男達が一斉に呻き始める。術の発動から経過した時

間はたった十数分だが、隔離された精神はその間に飲まず食わずの一日半を体感させられ、衰弱を強いられていた。

(あとは、烏丸の頭に連絡、撤収だな…。十日休めば随分違う。ワシもまだまだ頑張れるぜ、えぇ?)

 軽い披露を覚え、溜息をつきながらも、ギョウブはふてぶてしい笑みを浮かべる。

 復帰戦はまずまず。気力体力共に充実し、隻腕でも問題なく立ち回れる。

「う、お、お前…!お前ら…!一体何者…!」

 一際胆力があったと見える男が、縛り倒された状態でギョウブを見上げた。

 烏丸の私兵にしてはおかしい。情報が無い。何者なのだと問う男の目を見下ろしたギョウブは、敵に一体何を問うのかと言

いたげに片眉を上げて、

「………」

 それから表情を消し、

「………?」

 顔を顰めて考え込む。隻腕の狸は困っていた。普通に。

(素性がバレちゃあ困る。前のようには名乗れんぜ…。とはいえ「烏丸の者だ」とも言えん。善意で軒を借して貰っとる間柄、

借りて名乗っちゃあ図々しいってモンだろう。傭兵…とも違うか?義理の助太刀で対価なんぞ貰う訳にはいかん。では…)

 しばし悩んだ後で、ギョウブはキジトラ猫に呼びかけた。

「おいトライチ」

「は!何でしょうか大将!」

「今のワシらは…、何だ?」

「はい?大将、一体何を言って…」

 トライチの顔が、ギョウブと全く同じ順番で表情を変化させた。隠れ里の一派…ではない。主の復権を担う兵ではなくなっ

ている。

「…サブロウタさん。ごめんなさい、ちょっと…」

「おう。何だトライチ?」

「ワタシ達って、いま部隊的な意味では…、何なんでしょう?」

「は?そんなの決まってんじゃないか、そりゃ………」

 縛って転がした敵兵に妙な動きが無いか見張っていた背が低い狸も、トライチと全く同じ順序で表情を変えた。

「…悪いカンゲツ、ちょっと来て貰っていいか…」

「うん。何だサブロウタ?薬が必要か?貴殿が怪我とは珍しい事もあったものだ」

「いやそうじゃない大丈夫。我らが部隊の話だがな?今って、どういう部隊だと思う?名称とかは?」

「それは勿論………。あれ?」

 負傷していた虜囚の応急手当てのために、拠点からちゃっかり拝借した医療品類を配って回っていた淡い色の狸も、同じ反

応をして細い目を開いた。

「…タスケ、意見を聞きたい事が一点…」

「おー、なにぃ~?」

 大太刀を担いだままどすどす歩み寄った狸は、同じように意見を求められると…、

「そんなの、「訳あって烏丸の敵を葬(はぶ)る部隊」だろ?でなきゃあ、「訳あって烏丸の敵専門に殺し屋してる集団」と

か、かなぁ?」

 そのまま過ぎるあんまりな表現で自分達の現状を言い表した。

「殺し屋は違うだろ?」

「清々しいほど酷いな…」

「なんだよぉ!?」

 配下達の会話を聞いていて、いよいよ考えるのが面倒臭くなったギョウブは、投げやりな調子で眼下の男に名乗った。

「ワシらは「葬り屋(はぶりや)」、ヌシらの与り知らぬ無頼の輩よ」

 これが、「葬り屋」の名が裏社会に初めて出た瞬間であった。まさかここから先長々と語られる名になるとは、この時は誰

も思っていなかったが…。




 烏丸から後始末を含めて派遣された部隊は、総帥の信頼も厚い大柄なゴリラに指揮されていた。負傷者や死亡者含めて部隊

員を収容し、諸々事後処理も行なうよう命じられている。

 リトクは収容後に総帥に呼び出され、お叱りを受けている。

 分家の邸宅では、長男が無事だったという知らせを受けて次男がホッとしていたが…。

「ふぅん…。海外の組織の犬だったかぁ…」

 ミノリが不在の部屋でパソコンのモニターを覗き込みながら、エミは報告書を盗み見ていた。

 手短にリトクの無事と部隊の被害状況が纏められた報告書には、勿論抗争相手の事も載っている。元々は国内の組織だった

事、近年になって海外の大組織の傘下に入った事、上部組織についての詳しい情報は抜き出せなかったが、正体だけは判明し

た事…。

「「エルダーバスティオン」…、ね…」

 興味深そうに呟いてパソコンを落とし、部屋を出て廊下を地下階段方面へ進む。

 洋式の長い廊下。生態認証のあるゲート。ナンバーロックの扉。流れるようにそれらを抜けて、エミは屋敷地下の一角、秘

匿事項関連物を取り扱う場所へと足を運んだ。

 常駐している研究員が様々な品の解析を進めているラボを窓越しに眺めながら、区切られた区画を歩き抜ける。

 研究員が昼夜問わずに忙しい理由はエミも知っている。落人達が総帥に献上した品の一部の解析と保管がこちらに任せられ

たからだと。

 ラボを過ぎて保管庫に入ったエミは、厳重なセキュリティに守られて強化ガラスのケースに収まっている遺物類を見回す。

解析が終わっていない品も多いそこで、少女は胸程の高さの柱に向かい、脚を止めた。

 円柱の上部がケースになったそこには、柔らかな絹の布の上に、指輪が一つ置いてある。

 レディ・スノウの指輪。神話の存在の名が関された、強力ではあるだろうが使用方法が判らない遺物。伝承によれば、それ

は四つの指輪と一つの腕輪からなる1セットの遺物であり、それぞれに神話の存在「そのもの」が直々に力を込めた品だとも

されているが…。

 少女は薄っすら笑う。「自分だけは」使用方法を知っている指輪を見つめながら。

 ギョウブの勘は正しかった。エミは特殊なレリックと相性が良い特異性質の持ち主であり、指輪の使い方も、効力も、自分

が使用できる事も、直感的に理解していた。

 眠り続ける遺物を、少女は微笑しながら見つめ続ける。

(海外の大組織…。そこだったら、この指輪の同類にも詳しいかもね…)



 そして、報告も終えて仕事が全て済んだ葬り屋達は…。

「お!酒に揚げ物かぁ!」

 大柄な狸が喜んで声を上げるその眼前には、実働部隊へ総帥からの労いとして運び込まれた酒と料理。撤収して身を清めて

いる間に豪勢な酒宴の支度が整えられており、タスケは嬉しそうに舌なめずりする。

「嬉しいけど、こんな贅沢なのばっかり食ってたらまた腹が出ちまうなぁ」

 そんなタスケの言葉に「腹が出る程度気にするな」と応じたのは狼だった。

(そうだよね!大きなお腹は魅力的!ヒコザさんのお腹なんてボンッて弾力があって、なのに表面はムチッと柔らかくて、抱

き付かせて貰って寝ると凄く気持ちいいし!もしかしてタツヨリさんワタシと似た好み?同好の士?話せるクチ?)

 時々バカ、とギョウブから評されるトライチは無言でウンウンと深く頷いていた。が…。

「今更多少出た所で,傍目には変化がさっぱり判らんだろう」

(あ…。違うんだ…。そっか…)

 時々アホ、とギョウブから評されるトライチは無言で残念がった。

 頭領の許しもあったので、今夜は全員飲酒できる。広めにとった部屋で慰労の宴が始まったその頃…。



(蟹…、クリーム…、コロッケ…、か…。フン)

 居住スペースとしてあてがわれている大きな倉庫の屋根の上、どっかと胡座をかいた隻腕の狸は、胡座を掻いた上に皿を乗

せ、蟹の爪が覗いているコロッケを齧る。傍から見れば気に食わないことがあったような顰め面に感じられるが…。

(………………………美味ぇじゃねぇか!?ええ!?)

 サクサクの衣に濃厚なクリームたっぷりのコロッケは相当気に入ったらしく、太い尾がやや世話しなく左右に往復する。

 酒は飲まない。今夜は労いとして見張りも残さず飲酒を許可したので、ギョウブ自身は万が一に備えて茶で済ます。頭領が

酒を飲まずに同席しては気を遣って遠慮する者も居るので、こうして屋根の上を今宵の宴席とした。

 飲酒しなくとも物足りなさは感じない。蟹クリームコロッケもそうだが、辛めのソースが添えられた烏賊のフリッターも、

タルタルソースつきの海老フライも、胡椒で味を調えられたオニオンフライも、茶と実によく合う味わいだった。

(欲を言えば、酒はともかく、どんぶりで飯が食いたくなるぜ…)

 屋根の上から見上げる月は半分まであと少し。夜風が心地良い緩さで吹き、ギョウブの頬毛を撫でている。

 気分が良い。成果は上々と言える。隻腕となった自分の調子を含め、生き残りの寄せ集めでもまだまだ戦えると確認できた

事も大きな収穫だった。

 白木鞘の長ドスを脇に置き、孤影を連れて月を見上げ、手応えを噛み締めていたギョウブは…。

「今夜は飲んで構わんと言ったろうが、ええ?」

 屋根に昇って来たキジトラ猫は、振り向きもせずにかけられた声で苦笑いした。

「明日にします。今夜は大将にお付き合いしますよ」

「フン…」

 鼻を鳴らしたギョウブは揚げ物が乗った皿を足から降ろすと、長ドスを背中側に置き直し、右手側を空けた。

 腕が無い左側を固めさせるのではなく、腕が残っている方に座るよう促す…。その態度で、おや?と感じたトライチは、

「…今は、「ヒコザ」で構わんぜ」

「!」

 告げられた言葉で弾かれたようにギョウブを見遣った。

 本当に、本当に久しぶりの言葉だった。

 隠れ里から落ち延びて以降、ずっと皆を護って導き、余裕が無かったギョウブが、ポンポンと平手で隣を叩く仕草を見て、

トライチは泣いてしまいそうになる。誘われて嬉しいだけではない。ギョウブが、己自身に少々の緩みを許す程度の余裕を取

り戻せた事が嬉しかった。

 腰を下ろして並ぶと、逞しい右腕が肩を抱いた。少し乱暴に引き寄せられて、しなだれかかるような格好になった。

「今日は、よくやってくれた」

 ギョウブの声が、触れ合った体に直接聞こえた。

「しかしまだ始まったばかりだぜ。やる事はこれから次々出て来る。頼りにはしとるが、途中でくたばって貰っちゃあ困るぜ、

ええ?ヌシにはまだまだ長生きして、働いて貰わにゃならんからな」

「…はい…!」

 グッと、力を込めてより強く抱き寄せられる。分厚くも皮下脂肪で柔らかさがある胸に頬を寄せ、トライチは感極まって目

を閉じる。

 月明かりが照らす、屋根の上で一塊なった影は、やがて少しだけ身を離し、そっと顔を寄せ合い…。

『…?』

 顔を近付けていたふたりは同時に首を起こし、耳を立て、風の声を聞く。何処か懐かしい音が、倉庫の屋根の上に流れ込ん

でくる。

 屋敷の敷地に風が吹き込んでいた。広大な庭に植えられた木々が、葉擦れの音を立てていた。

 それは、故郷で聞いていた樹海の潮騒を思い出させて…。

「…ここでも、木々は富士の裾野と同じように歌うんですね…」

 トライチの言葉を聞いて、ギョウブは目を大きくした。少し引っかかったと同時に、その疑問はそのまま答えらしきものを

引き連れて頭の中を駆け巡り、我知らず呟きが漏れる。

「…何故、暗号は「潮騒」だった…?」

 潮騒。

 里を捨てて逃げる際の暗号。駆け比べの童歌にまでされていて、幼少の頃から叩き込まれる物…。

 考えた事も無かったが、何故「潮騒」だったのか?他の言葉ではなく、どうして海の無いあそこで、先祖達は潮騒を暗号に

選んだのか?速く駆ける風や獣、飛び立つ鳥でも良かったはずなのに、あえてあの音を選んだのは何故だったのか?。

「何処でも…。そうだ…、何処ででも…、里を捨てて遠く離れても…、潮騒は聞ける…。海では波が歌うもんだぜ…。山では

木々が歌うもんだぜ…」

 呟いたギョウブの声は微かに震えていた。片腕で抱かれるトライチは、ギョウブの顔を見ようとして…、止めた。

「勝つために潜んだ。勝つために忍んだ。勝つために耐えた。だが…、ワシらの先祖は絶対に勝てるとは思っちゃおらんかっ

た…。あるいは里が落とされる事もあろうと、ともすれば捨てて逃げねばならん事もあろうと、もしかすれば我らが敗れ去る

事もあろうと、そう考えたからこそ…」

 だからこその潮騒。富士の裾野に無かった海を忍ばせて、何処でも聞こえる木々の歌を、里を捨てて落ち延びる為の暗号に

していた。

 どこにでも潮騒はある。変わらずある。落ち延びた先でも潮騒は絶えず…。

「ワシらは…、託されとったのか…」

 黒い毛を透明な雫が伝う。黒々とした作務衣の胸に落ち、目立たぬ染みを残して消える。

 トライチは何も言わない。ギョウブの顔を見ようとしない。ただじっと、力んで小刻みに震えるその身に寄り添い、主の言

葉を噛み締め、反芻する。

 皆を生かす。その為に生き恥を晒す。自分の判断で、ともすれば落ち武者となった先祖達の決意と誇りを傷つける選択をし

たかもしれない。そう考え続けて、正解だったのか過ちだったのか判らないまま進んで来たギョウブは、暗号に込められた先

祖の意図を知った今、やっと、やっと…。

「「そこで生きよ」と…、ワシらの先祖は、絶えぬ潮騒に願いを込めて残してくれとったのかよ…!ええ…!?」

 やっと、許された気がした。