絶えぬ潮騒(前編)
山深い、茂った木々が視界を著しく制限する、山稜の一角。人目を避けるように窪地へ並べられた墓石群の前に、大柄な影
が一つ立っている。
薄い生地の甚平を身につけた男は、熊と見紛うような大柄な狸。眉間に深い皺を刻む、厳しい顔つきの大狸は、右手の指を
伸ばし、眼前で垂直に立てて瞑目している。
男は合掌ができない。甚平の左袖からは腕が出ていない。隻腕であるが故に右手で拝む。
線香の煙が漂う、野の花を添えられた一基の墓石。その下には彼の妻が眠っている。
「…あっという間の一周忌だったな…」
瞑目したまま呟いた大狸は、墓石に語りかける。
「アレは、里子に出した先で上手く馴染んできとるらしいぜ。烏丸の頭も信頼する、腕の良い呪い士だ。体質の事も含めて上
手くやって貰える。心配はいらん…」
眼前の手をゆっくり降ろして、目をあけた大狸は墓石を見下ろした。添えられた野の花は、トライチが見繕って捧げた物。
法名も刻まれていない、一抱え程の自然石を割って立てただけの簡素な墓だった。それは狸の目の前のそれだけでなく、並
んでいる二十数基全てに同じ事が言える。
部下が、友人が、その妻が、あるいは親が、並んで眠る墓地。そこを見下ろす位置には、木々の隙間にひっそりと建てられ
た小屋が点在している。
世間の目を逃れて秘された里。自分達の「仕事」の成果とも言える、未だ完成に至らない隠れ里を墓地から見上げ、大狸は
鋭い目を少しだけ柔らかく細めた。
(随分時間をかけたが、ようやく形になってきたか…)
隠神刑部。裏帝の隠れ里から落ち延びた一団を、大将として率い、世話してきた大狸は、近付く節目を前に感慨深くなった。
烏丸に客分として匿われ、頭から譲られたのがこの土地である。見渡す限りが烏丸の土地。山野を貫く長距離高架道の計画
があったため、わざわざ隣接する山々を買い取って頓挫させるほどの手間と大金がかかった広大な土地…。隠れ潜めればそれ
で良かった。注意深く生きれば良いだけの事だと考えていた。なのに総帥はそこに「安心」という添え物をしてくれた。
烏丸に身を寄せて一年半ほど。この間に、事はだいぶ進められた。
当時烏丸を脅かしていた敵対組織との抗争は一ヵ月弱で終結させたが、ギョウブ達はその後も食客として居座りながら、大
小様々なトラブルを解決し続けている。
里が襲撃された日に出払っていた外回り組は、巡回偵察に出した眷属が根気よく探して合流を果たせた。「生き残りが居る」
と感付かれる事が危険な状況下、メッセージなどを残し合う事も避けた、直接接触以外の手段が無い状況での再会は、根気と
執念の賜物である。
もっとも、同時に探らせていたラン達の行方だけは、未だに判っていないが…。
そうして実行部隊の戦力が八名増え、総勢二十名の兵を率いたギョウブは、入植する土地の選定や準備を総帥が進めてくれ
る間に、抗争の助太刀に入りながらも、自分達が辿ってきた道筋に少数名を派遣し続けた。
道中で命を落として簡素な埋葬を済ませただけの同胞達。その亡骸の回収は仕事に差し障りが無い程度の人員派遣で進めた
ため、全てが済むまで随分時間を要してしまった。
若い世代を中心に、烏丸の手配で社会に紛れ込めた者もあった。逆神の血を色濃く継いでいないという条件付きだが、特に
能力を持たず、戦闘訓練を受けていない女性中心に、烏丸が住居と職を用意してくれた。
幼い子の幾人かは、まだ何も知らないまま、烏丸が信用できると判断した世話人を里親にして預けられた。
幼かったギョウブの娘も、親の手を離れた。
やや特殊な環境下におく事にはなるが、育ての親を見つけて貰えた。隠神の血がかなり濃く出ているので心配ではあるが、
一般社会と殆ど接点が無い環境なので比較的安全だろうと思っている。
とはいえ、これら移民策も隠れ里への移住も、吟味しながらじっくりと進めているので時間はどうしてもかかってしまう。
今日をもって非戦闘員の入植は完了したが、後回しにしていた実行部隊の住居となる小屋はこれから建造される。何せ目立た
ないように重機なども入れず、物資搬入もなるべく少なくして進める作業なので、これも少々時間がかかる。
(しかしまぁ、やる事は随分あったはずだが…)
よくもまぁやってきた物だと、ギョウブは少しばかり自分と皆を褒める気になった。
柿や栗、桃などの食料になる木も植えた。沢水を引き込んで木立の中に池を作り、岩魚や山女の養殖を始めた。田畑は目立
たないよう、木の隙間を縫って狭く小さく拵えた。準備が進む隠れ里に墓を建て、仲間の遺骨を納めた。行き場が見つかる者
は里子や奉公に出した。烏丸の抗争を手助けした。楽ではなかったはずだが、進捗に手応えを感じ、張り合いのある毎日だっ
た。全て失ったと思ったあの日から、ともすれば折れて腐ってしまいそうだった皆の心が前に向き続けていたのは、一重に新
たな「夢」があったからこそ…。
ギョウブ達が身を寄せた頃から、相手が代わりながら頻発してきた抗争は、もうじき終わる。そして、烏丸による後ろ盾を
得て社会に紛れ込む「移民」も、もうじき終わる。小屋の建造はだいぶ進んでおり、後回しにしていた実行部隊の残りが移り
住む家屋ができれば、里もとりあえず完成と言える。
かつて落武者となった先祖達と似たような事をしていると思うと、不思議に苦笑が込み上げてくる。そこに自嘲は無い。卑
下は無い。やるべき事をやれるだけ進めたという充実感だけがある。
「刑部」としての勤めが終われば、残った皆とともにここで暮らした末に、ギョウブ自身もここに骨を埋めるつもりである。
しかし今は…。
「…まだ、そっちには行けん。済まんな…」
墓石に向かって呟いたギョウブは、珍しい事に眉を下げて、情けない気分をそのまま出した表情になった。語りかけた相手
は、この世を去った妻である。
トライチと肉体関係をもっている事については承知していた。そう妻から聞いたのは、加減が悪くなった彼女が病床から起
き上がれなくなった後の事だった。
自分が「後から」だったのだと妻は言って、ギョウブを責めなかった。「相手が女だったら流石にちょっと考えました」と
述べた時は、これは本音だなと一目で判る真顔だったが。
ご自分では斜に構えているつもりでしょうが根が真面目過ぎる。…とは病床の妻からの言葉。そんな事は無いと反射的に答
えようとして、一度考え、そうかもしれないと思い直したら、グゥの音も出なくなった。
本当に、大した女だったと思う。
言う時は自分から言うからとトライチに口止めしておいて、彼とは同じ相手に惚れた男女として情報交換し、貴方の話題で
お茶を楽しみましたとくれば、流石のギョウブも俯いて頭をガリガリ掻くしかなかった。
他でもない、化かしの名手「隠神刑部」を騙してやったと、大層得意げにやつれた顔を輝かせていた妻の顔を思い出す。童
女のような、本当に楽しそうな顔だった。
そんな妻の遺言は、面白い事や嬉しい事があったら墓前に報告する事と、不自由させた分だけトライチを大事にする事、そ
して責務を負うのも程ほどに、ギョウブ自身も自由に生きる事…。
本当に、本当に、大した女だったと思う。良い妻だったとつくづく思う。自分で選べない伴侶が彼女になったのは、幸運な
事だったのだと心底思う。
「かたがついて、小屋が建ったらこっちに移って、毎日話をしに来れるようになる。それまでもう少し待っとれ…」
最後にもう一度黙祷を捧げ、踵を返したギョウブは、里の入り口で待つキジトラ猫の方へと歩いて行った。
「ほらそこぉ!踏み込みが遅ぉい!戦の最中じゃあ疲れてダレたって加減して貰えねぇぞぉ!そぉら気合の声だぁ!腹から声
と息を出してぇ!」
板張りの剣道場に張りのある声が響く。稽古着袴姿の大狸の指導の下、烏丸の私兵達は剣の稽古に打ち込んでいた。これは
この一年余りですっかり定着した風景である。素振り用のゴツい木剣を軽々と振ってみせながら、タスケは振りが鈍っている
者や姿勢が崩れている者を的確に余さず注意する。
隠れ里の落人達から指導を受け、烏丸配下の戦力はこの一年の内に、個々の実力を飛躍的に伸ばされた。
剣術、徒手空拳、隠密、その他諸々…。帝勢を打倒する事だけを何百年も追及してきた落武者の末裔達は、烏丸の総帥曰く
「戦技と戦術の生きたオーパーツ」。時代遅れのはずのそれらは、実用性では近代の戦闘技術を大きく引き離していた。合戦
の術をそのまま継承しており、太平の世では失伝して久しい戦国時代の槍術まで基本技能として修得しているため、特にサス
マタや薙刀などの長得物については取り扱いの基礎から技術革新が生じる程。
さらに、主力武装が銃に変わろうとも、実戦経験豊富な落人達から学べる身の運びや危機対処などは生存率の上昇にも任務
の成功率上昇にも一役買っており、何よりも「化け物相手の稽古」が日常になると兵達の肝も据わる。稽古で培われた、多少
の窮地では動じない精神性もまた、得難い財産と言えた。
木剣を持たせての素振りの指導から、竹刀に持ち替えさせての模擬訓練に移る前に、タスケは一度長めの休憩を入れさせて、
自らは剣道場の端へ向かった。
「トモエちゃん、フウ、そろそろ休憩にしなよぉ」
そこには、子供用の短い竹刀で素振りに勤しむ泣き黒子の女の子と、ムクムクした白い熊の子の姿。総帥の孫と、常に一緒
に居るフウは、護身術の勉強…というよりは体力作りの一環で剣道場へ遊びに来る。可愛らしい子供用道着姿で。
「はい、せんせい!」
「………」
背筋を伸ばして返事をするトモエと、無言でこっくり頷くフウ。そんなふたりをニィッと笑って手招きしたタスケは、稽古
場隅の畳を敷いた休憩スペースに案内すると、ざる籠に入った饅頭を勧める。
「素振りの稽古はもう終わりだからなぁ、そろそろ母屋に行って着替えて、今度は他の事で体動かすんだぞぉ?書を読むのも
いい、腕っ節だけじゃ偏っちまうからなぁ。ワシなんかがそうだ。ふふっ!」
自らも饅頭を齧りながらタスケがそう言っていると、開け放たれていた稽古場の出入口にひょこっと、女性が顔を覗かせた。
「あ!ハルナさんだ!」
トモエの声で首を巡らせたタスケは、化粧気の薄い二十代後半と見える女性に気付くと、その手が持つ風呂敷包みに目を向
け、ドスンドスンと大股に歩み寄った。
「稽古、お疲れ様です。差し入れをお持ちしましたので、よろしければ…」
堅苦しい態度と表情の女性が包みを差し出すと、タスケは後頭部を掻きながら「いやぁ~、毎度ご馳走さんです!」と嬉し
そうに笑って太い尻尾を振る。
外界で過ごすようになって以降、多くの食料でカルチャーショックを受けた落人達が、とりわけ驚かされたのがおにぎりの
バリエーション。馴染み深い品だっただけに、初めて食す異国の料理よりも違いと発展具合が判り易かったのである。そもそ
も隠れ里の握り飯は、任務中の保存期間も考慮して具がほぼ確実に梅干しだった。
そそくさと女性が立ち去ると、手を振って見送ったタスケは畳の所に戻り、さっそく包みを広げてラップに包まれた握り飯
をガブリと齧る。鶏五目飯のおにぎりは程よい加減の炊き込みで、甘醤油が効いた疲労に効きそうな味。
稽古中とはいえ、タスケにとっては水を一口飲むような物。握り飯を休憩で頬張るのは当人にとってはおかしな事ではない。
「ふふっ!今日のも美味い!フウも食ってみろ」
勧められた白い熊の子は、おずおずと一つ取って、トモエをチラリと見て、一口分だけ割って分ける。晩御飯が食べられな
くならないようにと。
トモエが自分達ほど物を食べられない事は、この一年でフウも学んだ。自分と同じペースで食べさせてはいけないが、同じ
ものを味わって欲しい、そんな気持ちが見えるフウの行動で、タスケは米粒がついた口元を綻ばせる。
新たな隠れ里が完成しても、フウは連れて行かない。その方針にタスケは真っ先に賛成した中のひとりである。
落人の中には、隠れ里において武の象徴でもあった神壊本家が、自分達から離れる事に難色を示す者も居た。そうでなくと
も神壊と神無は帰らず、健在なのは隠神のみというこの状況は、三柱の存在が当たり前だった皆にとって不安がある。しかも、
ランが見つからない今となっては、フウだけが神壊直系最後の生き残りなのだから。
その不安と惜しむ声を理解しながらも、タスケら数名の実行部隊はギョウブの案を推した。ギョウブ直属の近しい眷属達だ
けでなく、気難しい堅物であったはずの神無の眷族までこれに賛同した。自分たちの戦いは既に、今の朝廷を倒す事ではなく
なった。必要なのは武力ではなく生きる力、残す力である、と。
皆が口々に意見を述べる中で、タスケは口にこそしなかったが感じていた。それぞれ得意な事や向き不向きがあり、かつて
自分がギョウブの推挙で二番隊の斬り込み役に抜擢されたように、フウにもきっと、フウが他の誰よりも適任と言える事があ
るはずだと。
(きっとなぁ、フウはトモエちゃんとこうやってるような過ごし方に、向いてるんだろうなぁ)
殺しの達人でありながら、平時のタスケはのんびりしていて穏やかな気質。見方によっては異常者なのだろう戦国の世の精
神性で、殺す殺されたでいちいち動じない。躊躇いなく殺すのと同じように屈託なく笑い、仲間の幸せを当たり前に願い、美
味い物が食える明日を普通に望む。その性質があるからこそ、自分達はともかくフウには穏やかな生き方が合っていると心か
ら思える。
身に宿す力に価値はあるだろう。流れている血は希少な物だろう。だが、それらとは無関係に、フウという個人に向いた生
き方はあると、タスケは考えている。ギョウブや同僚の狸達と同じように…。
同時刻、屋敷の母屋では…。
「隠神のオジキ!」
後方から呼ぶ声に足を止め、ギョウブは振り返る。総帥の所へ帰着の挨拶に向かう途中だった隻腕の狸を呼び止めたのは、
オールバックに髪を整えた、白いスーツ姿の若い男。
歩み寄ってギョウブと向き合うなり軽く会釈して、男は声を少し潜めて要件を告げる。
「少々お話が…。五分かそこら、お時間を頂けますか?」
「ああ、構わんぜ」
応じたギョウブは軽く右手を上げ、ポンッと軽く腹鼓を打った。たちどころに隠形の術が展開され、ふたりの会話は他者か
ら認識され難くなる。比較的軽い性質の物なので、そこに人が居る事は判っても、何をしているのかまでは注意を向け辛い、
といったところ。
「で、用向きは何だ若頭?」
隻腕の狸に問われ、男は「お手間を取らせて済みません」と深く頭を下げる。
ギョウブとの初対面の席では敵意塗れだったリトクだが、今では態度を改め、しっかり目上として敬っている。
ダンダラへの攻勢における最初の段階で大失敗を犯した後で、挽回の機会を求めるリトクの声に、身内が皆反対する中で肯
定的な態度を示したのがギョウブだった。
替えの戦力が少ない隠れ里で指揮を執ってきたギョウブは、信賞必罰を心掛けながらも合理的である。ケジメだメンツだと
言っていられるのは余裕がある場合だけ。あの当時は敵側に本拠地も正体も知られた状況で、橋頭保となる拠点落としが成っ
た直後は向こうも大きく動きたがる状態だった。故に、反撃の機会を与えずに迅速な連続侵攻が効果的だと、戦術上の意義を
説いた上で、隻腕の狸はリトクの更迭を一時見合わせる提案をし、現場の陣頭指揮官に推挙した。
失敗の責任を取って謹慎させるのも正しいと言えるだろうが、そのまま一生使わないという事でないのならば、早めに次の
仕事に当てた方が良い。喉元過ぎれば熱さも忘れる。失敗の苦さを知っている内に、今度はしっかりフォローして手柄を立て
させれば、多少は良い方に変わるだろう。加えて個人的な意見を述べるなら、若い内に酷い失敗を経験した者は、思い直して
克服さえすれば良い指揮官になり易い…。
総帥はギョウブのそんな意見を聞き、リトクに次の作戦への参加を許した。ギョウブの意見や忠告に従うよう厳命した上で、
葬り屋との共同任務という格好にして。
長期謹慎も当然の失態を犯した自分に、挽回の機会が与えられるよう口添えして貰え、恩義を感じたのもあった。葬り屋と
共同で事に当たる機会を経てゆく内に助言や指導もされ、その指導力の確かさを身をもって知ったのもあった。何より、無頼
の徒を装うその言動の下に潜んだ、仁義に厚い侠客の質を知った。その結果、リトクはギョウブを目上の賓客として敬って、
「オジキ」とまで慕うようになった。
リトクだけではない。彼が率いる烏丸の私兵もまた、腕利きの葬り屋達と接し、交流を通してその技能や精神性を知り、個
人的に親交を持つようになった者もある。
そんな良好な関係になったからこそ、「こんな話」も出て来たのだが…。
「実は、話ってのはハルナの事だったんですが…」
「ヌシの近衛の肝っ玉娘か。アイツがどうした?」
仕事で行動を共にする事が多い、リトクの側近と言える男女の片方…最初に会った時は爪を剥がす拷問に耐えていた女の顔
を、ギョウブは思い浮かべる。
「どうも、タスケ先生に惚れてるようで…」
「………」
無言になるギョウブ。一度黙るリトク。会話に妙な間があいた。
「…時々、握り飯を差し入れに来とるらしい話は聞いとったがな…」
「それが、何をプレゼントしたらタスケ先生が喜ぶか、サブロウタ先生から聞き出そうとして、そうなったとか…」
「タスケの食い気を考えて喜ぶ物を教えたか…。贈り物としてどうかはともかく、まぁ、喜ぶ品としちゃあ合っとるが…」
「どうしますか?ご迷惑なら下がらせますが…」
ギョウブは難しい顔で考える。タスケは色気より食い気、恋文より木刀、という判り易い朴念仁。隠神の眷族としては珍し
いほど晩生で、惚れた腫れたの話題とは完全に無縁だった。腕も立つし働きぶりも十人前なので、浮いた話の一つもあれば喜
んでやりたい所なのだが…。
「これがタスケ…「ワシらの赤眼」が出とる者でさえなけりゃあ、な…」
ギョウブはため息をつく。
問題になるのは、タスケの性質と隠神の血である。
あの大男は素朴な田舎者で武辺者。戦う事を除けば畑仕事や狩猟しかできないような在り方をしている。加えて、幻術には
多くの制限があるものの、タスケにも隠神の特徴である「破幻の瞳」が出ている。精神集中や感情の昂ぶりで赤く発光するそ
の瞳は目立ってしまうため、ギョウブ同様に当世の社会生活には馴染み辛い。
タスケ自身もその辺りはよく判っているらしく、烏丸総帥が手配してくれる「別人としての人生」は辞退し、いずれできる
隠れ里に移って、そこに骨を埋めると言っている。嫁は要らない、とも…。
「そうだな…。タスケはいずれワシらと共に隠れ里に移る。好ましく思ってくれるのは有り難いが、後々の事を考えれば今の
内に話をして、納得させた上で身を引いて貰った方が良いだろう。ただし、くれぐれも頭ごなしに命令はするんじゃねぇぜ?
こういう理由だからよく考えろと、自分で気持ちの整理をつけさせるべきだ。判っとるな?」
「はい。勿論昔みてぇに乱暴な話はしません」
素直に頷いたリトクは、「それはそうと」と話題を変える。
「来週はオジキも行かれるんでしょう?」
「ん?来週、何処へだ?」
仕事の話ではない。葬り屋とリトク配下の烏丸本隊は共に任務にあたるのが通例なので、行くのだろうと訊かれる事自体が
無い。他に何があっただろうかと記憶を手繰って予定を思い出すギョウブは…。
「………聞いとらんぜ、ええ!?」
リトクの話を聞くなり目を剥いて唸った。
「いや、サプライズになればと思っていたんだがね…。そうか、リトクが先に言っちゃったか…」
青味がかったロマンスグレーの髪が美しい老紳士は、愕然とするギョウブの珍しい顔を見ながら、言葉はともかく満足げで
あった。
「…サプライズ…」
「ああ、驚かせるとかそういう、びっくり行事、的なものかな?」
実年齢はともかく若々しい茶目っ気を覗かせるこの老紳士には、ギョウブも時々振り回される。本当に困るような悪戯など
は仕掛けられないのだが、とにかく隙あらば意表をついて来るので油断ならない。
総帥が企画していたのは、葬り屋達を労うための、烏丸の私有地である孤島の別荘へ招いてのパーティーだった。外部の目
に一切触れることなく、のんびり自由に過ごせる島と別荘なので、皆も気がねなく過ごせるだろう、と。
先ほどリトクが確認しようとしたのは、ギョウブも自分達も出かけて不在になるのだから、防衛戦力と警備の拡充はしっか
りしておきたいという点についてだった。
「私的な客をもてなすための別荘がある島でね、葬り屋全員とリトクの所の兵隊の一部は十分に宿泊可能だ。快適な個室を全
員に用意できるよ。食事は勿論、自慢じゃないが風光明媚で心休まる環境の…」
呆気にとられているギョウブは、途中からもう殆ど話を聞いていなかった。
(島…?烏丸私有の…?しかも私的な別荘…?もしもの時には最後の砦にできる条件じゃねぇか!外様のワシらなんかを入れ
て良いような場所じゃねぇぜ?ええ!?)
「島の別荘…、隠れ家のような物でしょうか?ああ!今後警備をしないとも限らないから下見をかねて、という事ですか!」
理解した、と頷くキジトラ猫。しかし…。
「だったら話が単純だったんだがな…」
ギョウブはムスッと膨れっ面である。
執務室にはふたりだけ。デスクについた隻腕の狸は、沢庵をつまみにトライチが淹れた番茶を啜りつつ、総帥が企画してい
た別荘への招待について説明する。
「ワシらと烏丸私兵の顔見知りだけだ。人目を気にせんでいい島で、のびのびと過ごさせる慰労って話だが…」
かく言うギョウブは、行きたい連中だけ参加させ、自身は屋敷で待機しようという腹積もりだった。大規模な抗争は終結し、
ここ半年以上は特に大事も起こらず、組織同士の散発的な小競り合いしか起きていない状況…つまり日常レベルにまで危険度
は下がっている。自分は念の為に残るが、戦力はそう必要ないというのがギョウブの判断。厚意に甘えて配下を慰労してやろ
うという考えである。
「四方が海に囲まれた島だ。目を気にしねぇで過ごせるってのは、確かにそうだろう」
「海!?」
「島だからな。勿論周りは海…、………っ!」
トライチの弾んだ声を聞き、ギョウブは一度普通に応じてから、口を閉じて軽く目を見開く。キジトラ猫は興味深そうに耳
と尻尾をピンと立てていた。
(…そうか。里の御役目の最中に行ったきり、トライチは海を見とらんかったな…)
思えばトライチは自分に付き従って働きづめだったので、他の者よりも休息が少ない一年半を過ごしていた。労いと言うな
らこのキジトラ猫にこそ必要だろうと思う。それに、楽しい思い出としてあの事を記憶に留め、トライチが海を好いているな
ら、ギョウブも少し嬉しい。
(「楽しんで来い」…と言いそうになる、頭の程度が悪ぃワシが居やがったぜ…。いい加減そろそろ改めなきゃいけねぇぜヒ
コザ、ええ?)
軽く顔を顰める隻腕の狸。トライチを休ませてやるのは当然の事だが、楽しませてやるとなれば自分も同行しなければなら
ない。勝手に休んで来いと放り出してしまうのは、配慮も足りなければ不義理に過ぎる。
ふぅ…、と軽くため息をつき、ギョウブは背もたれに体重を預けた。
(仕方ねぇ…。ここはワシも混ざるのが得策か…)
そして、次の週…。
ミャウミャウとウミネコが鳴く海岸線。トライチは目を丸くして、中型遊覧船のデッキから船の後ろに続く波跡と、遠ざか
る港を眺めていた。
別荘がある島への渡航は、陸路のバスから引き続き烏丸所有の船。烏丸は古くから企業とヤクザ者の複合形態でやってきた
組織。堺の海運業を武器に力を蓄えた古い歴史があるため、リゾート産業が主体となった今でも海運に強い。フェリーから遊
覧船、私的なクルーズ船など様々な船舶を多数所持しており、その気になればそのまま一流の海運サービスが出きるほど。
念のために眷属複数名による結界レベルの隠形の術を張っているが、並走する船もなく、近付く船影も無い。とりあえずは
危険な何かに監視されてはいないらしいとギョウブは判断する。
「つまりこれは…、運搬のためだけでも、移動のためだけでもない、景色を楽しみながら運航する…、贅沢な船…?」
戸惑うトライチ。知識では様々な船の形態について知っているものの、自身がそれを利用するとなると戸惑いがある。電車
やバスは判る。便利で快適な移動力としての在り方を主目的にした構造だと。しかし遊覧船は何と言うか、スペースや作りが
贅沢で勿体ないと感じる。
「そういう事になる。まぁ、屋形船っていう料亭お座敷と船が一緒になった物もある、この程度の贅沢は、もう当世じゃあ贅
沢の内に数えんのだろうが…。…こらタスケ!サブロウタ!ノブハル!烏丸の頭の船で釣りはやめろ!」
組み立て式の簡易竿を準備し、時間に余裕があれば何処でも資材を確保しようとする眷属達に苦言するギョウブ。
「ガラス張り…。装甲は無い…。船体強度はさほどでもない…。面妖な…!せっかくの鉄の船を、強度もほどほどにして眺め
を最優先に造るとは…!」
構造を解析しながら狼が唸る。その横で、目が細い大柄な長毛狸は「しかし雅ではあるな」と理解を示す。
「一国とは言わぬまでも、烏丸の頭は一城の主…。この程度の酔狂や贅沢ができんでは他に示しがつくまい?」
「むぅ、そういう考えもあるか…。いや、学ばされる物だ…」
マイペースな面々や考え過ぎな面々、同行する烏丸の私兵達に話を聞く者や、海上移動自体が珍しいので海に見入る者、思
い思いに過ごす船上をゆるやかな潮風が洗ってゆく。
珍しさと新鮮さを噛み締めて、少々戸惑いながらも喜ぶトライチの様子を隣から窺いながら、ギョウブは生真面目に日程を
頭の中で再確認する。
日没までは自由行動。島も別荘内も自由に散策して良い事になっており、思い思いにくつろげる。部屋は個別にあてがわれ
るので、いつ休んでも良い。
夜は別荘の食堂で、シェフが手掛ける豪勢な料理と、各国各地の酒を楽しめる。落人達が珍しがるような料理と、素材その
ままの方が馴染み深いだろうからと、ステーキ類を中心にした料理が主な物となるらしい。
纏まった休息と精がつく食い物。落人達にはそれだけで何よりの褒美。そもそもこの一年半の間匿い続けて貰って、三食と
寝床を提供され、仕事用の装備一式をあてがって貰った上に小まめに修繕と手入れもして貰い、新たな隠れ里の開拓にまで手
を貸して貰っているのだから、それ以上の多くを望むのは行き過ぎた贅沢だという意識がある。
またしっかり働いて返さねば…、という落人達の意識と、匿う以上の恩返しをされているのだから…、という総帥の認識は、
ひたすらにすれ違い続ける永久機関。ある意味で理想的な持ちつ持たれつ返し返されの間柄と言える。
(フウにも船を経験させてやりたかったが…)
ギョウブは置いてきた小熊の事を考えた。本当はフウも連れてきてやりたかった。しかし、トモエは学業や習い事もあるた
め別荘に呼ばないという事だったので、傍に残してきた。この一年余りできょうだいのように親しくなっているし、大人と居
るよりも子供同士でいつも通りに過ごした方が良いだろうと思う。ギョウブ達が不在の間も屋敷の者に世話をして貰えるので
心配はないし、むしろトモエはフウを部屋に招いてのお泊り会になる事を喜んでいた。
(歳が歳なら、間違いがねぇように部屋を分ける所だが…。あの歳じゃあ間違いの起き様もねぇ)
クックッと小さく笑うギョウブ。訝し気なトライチの視線には気付ていない。
烏丸の庇護下で生きる事になるフウには、これからいくらでも、私的な船などに乗せて貰える機会があるだろう。自由な人
生とは言い難いが、烏丸の総帥はよくしてくれるし、海外に出ているトモエの両親も娘に遊び相手ができた事を喜んでくれて
いるらしい。外目につかないよう、使用人でも何でも構わないので屋敷に置き続けて貰えれば助かる。
(何せフウもまんざらじゃねぇ様子だ。ランを除けば里の他の子ともろくにじゃれ合わなかったが、お嬢ちゃんには随分と気
を許していやがる。…こいつも総帥と同じか…)
同年代の子供にもあまり馴れなかったフウが、トモエには懐く。やはり総帥同様に魅力的なのだろうとギョウブはつくづく
感じた。
「隠神の大将?」
「ん?」
かけられた声で我に返ったギョウブは、左側のトライチを見遣る。
「やっぱり、楽しみですか?」
少し嬉しそうなトライチの問いに、小さく咳払いしたギョウブは「まぁな」とすげない返事。
(いかんいかん…!他所事で喜んでたとあっちゃあ、トライチが気付いたら残念がるってモンだ…!今回は気持ちを入れ替え
んといかんぜヒコザ、ええ?)
遊覧も兼ねる船旅を経て一行が到着したのは、瀬戸内海に浮かぶ島の一つ。外周をぐるりと岩肌の崖地と松林で囲まれた島
が、丸々一つ烏丸の所有地である。
私有の遊覧船が入っただけで埋まってしまうほどの小さな船着場と、深く切り込んだ形の入り江にプライベートビーチを備
えた島は、外界の目が届かないと同時に上陸路が制限されており、いざという時は護り易い環境になっている。
島の中心には拘りが感じられる洋風建築の別荘。完全な洋館ではなく、この国で昔建てられていた西洋建築に倣った洋式、
「擬洋風建築」。白を基調にされた洋館はこまめに手入れされて外観を維持しながら、内部設備の近代化だけが進められてき
たため、築百年を越えてなお見た目にはほぼ変化が無い。その洋館と、日用品から非常物品まで保管する大きな倉庫、そして
浜辺の物見小屋の三つだけが、島にある建造物の全てだった。
個人所有の島とはいえ敷地面積はかなり広く、宿泊する事になる別荘もゲストルームを20室備える。初めて訪れる落人達
は説明だけでは戸惑いかねないので、見知った同士であるリトク配下の私兵達が案内を買って出た。勿論、不要な者は気まま
な散策に出て貰うが…。
「トライチ、散策に付き合え」
それぞれが宿泊する部屋を案内された後で、ギョウブはさっさと出かける事にした。自分が留まっていては他が動き出し辛
いだろうと考え、率先して。
「はい!御供します隠神の大将!」
威勢よく応じて従ったトライチは、嬉しそうに尻尾をピンと立てていた。
頭領が出かけたので、他の面々も気がねなく、思い思いに島の散策に向かう。
大柄な狸は、案内を申し出た女性兵の言葉に甘え…、
「じゃあ魚が釣れそうなトコ教えて貰うかぁ!ふふっ!何が釣れるかなぁ!」
携帯式の釣竿を組み立てて釣りに出る。これを見る狼と背が低い狸はげんなりした顔。
「あの女兵士、タスケに気があると見ている」
「奇遇だな、オレもだよ」
「里の狸共は皆お盛んだが、タスケは何故ああも違うのだ?」
「知るかよ。棒切れ振り回すのは得意でも、下の棒はからっきしと来たもんだ」
女性がタスケに気がある事をこの二匹は察しているのだが、当のタスケは全く気付いていない様子。煮え切らない狼と背の
低い狸は、移動するふたりをこっそり尾行した。
一方で、島の外周を囲んでいる林の中では、フワフワした淡い色の被毛を潮風で揺らし、カンゲツが周囲の海を眺めて展望
を楽しんでいる。牛と鹿と猿がそこに合流し、のんびり談笑しながら散策し始めた一行は…。
「しかし自分が嫌になる」
牛が顔を顰めてぼやいた。
「こんな素晴らしい景色と心落ち着けられる環境で、だ…。まず手始めに、攻められた場合の対処を考えてしまうぞ…」
「ああ!実は私もだ!」
鹿が頷いて苦笑い。「護りに適した地形だと、何よりそこに感心していた」と。
「仕方がない、そういう在り方でこれまでやってきたのだから」
目が細い狸はそう言って笑い、「しかし、できれば」と付け足す。
「これからは、当世における風流な在り方にも多少は馴染んで行きたいと思う。戦の術の使い道がなくなっても、生き甲斐は
何か見つけなければ」
猿が「言えている」と同意を示し、「難しそうだがな」と牛が困り顔になる。
「時間ができたら、句でも嗜んで四季と景観に心を委ねる訓練でもしてみるか」
「ははは!やはり訓練からになるか!だがまぁ良いだろう」
狸の言葉で鹿が笑う。さっそくやろうか?と乗り気になった一行は…。
「…いや場所が悪いか」
「そうだな。反対側の海岸線に出るか?」
「ああそうしよう」
声を潜めて言い合って、そっとその場を後にした。
気を使った一行が、踵を返すまで脚を向けていた先には、隻腕の大柄な狸と、寄り沿って右側に立つキジトラ猫の姿が、木
立の向こうに小さく見えていた。
「ハルナはどうした?」
別荘の中の一室、念の為に島周辺を航行する船などを監視しているモニタリングルームで、リトクは側近兼用心棒に尋ねた。
「葬り屋の方の案内をすると、早々に離れましたが」
平時と変わらず白いスーツ姿のリトクは、片腕である男の返答を聞いて顔を顰める。口頭で注意を促しても諦めないなど、
今回が初めてだった。
「若大将、ハルナはおそらく本気です」
秘書でありボディガードでもある男は、顰め面で困っている若い主人に述べる。生き方が違う、居場所が違う、そんな事は
承知の上で好いてしまったのだろうと。
「葬り屋が、いずれ出来上がる里に引っ込む時、何もかも捨てて一緒に行けるかと聞けば、ハルナは頷くでしょう」
「そこまでか…。何故そうまで惚れたと思う?」
ちょっと浮ついた程度の恋心なら、ギョウブ達に迷惑をかけないよう諦めさせる。しかし拘りがそれどころではないとなれ
ば、リトクも少し考えなければならない。
「報告に詳細は上がっておりません。が…」
一年近く前、敵対組織「だんだら」の本拠を落とす際に、ハルナというその女性は、作戦中に一度音信不通になっていた。
その後、葬り屋の二番隊と合流したので、予定とは異なるが同時侵攻に当たるという報告が入った。滞りなく作戦は遂行され、
問題なく攻め落とせて、事後処理が忙しくなった中で詳細確認もされずに流されたが…。
「二番隊…」
「記録を見る限り、陣頭指揮官は当日もタスケ先生でした。タスケ先生個人からも葬り屋側からも別段話はありませんでした
が、案外、危機を救われたのかもしれません。葬り屋は我々の落ち度を責めませんし、結果的に問題にならないような不備に
ついては黙っていますから」
「…恩人だから、惚れたと…」
以前ならば鼻で笑っていた所だが、短絡的と言い切る事は今のリトクにはできない。ギョウブへの態度が変化したのは、彼
自身も恩義を感じての事だったから。
「…隠神のオジキに、もう一度訊いてみるべきか…?」
「ハルナ自身の覚悟次第でしょうが、共に生きる気があるのなら、葬り屋の頭も容認して下さるかもしれません」
別荘内でそんな会話が行なわれている頃、話題に上っている二番隊頭を尾行していた二名は…。
「煮え切らなくて苛々してきたぜ…」
「同感だ…」
背が低い狸と狼は、遊覧船が停泊している岸壁を望む木立の中で、かなり不機嫌そうな顔をしていた。
岸壁には、釣り竿を立てながら握り飯を食っている大柄な狸と、案内を買って出たは良いが会話が続かず、気詰まりになっ
て黙り込んでいる人間女性の姿。
「どういう事だあれは?片や意中の相手とふたりきり、逢引としてこの上ない状況下、にも関わらずタスケのヤツは…」
狼が眉間を揉む。頭痛を堪えるような顔で。
「女性に餌付けされている獣…としか見えぬ!」
「朴念仁もあそこまで行くと天晴れだぜ…」
「ええい、歯痒い…。何とかできぬ物か…!あれでは相手側が不憫でいたたまれぬ!」
唸る狼の横で、「よし任せろ…」と小柄な狸が足元を見回し、落ちていたクルミの実を拾い上げた。
「おお?何か策があるのかサブロウタ?」
「まぁ見てろよ…」
タツヨリに応じながらおもむろに身を捻ったサブロウタは、小さな体をなお縮め、握り込んだクルミの実を…、
「シッ!」
禁圧解除、十字手裏剣を敵の頸動脈目掛けて遠距離投擲する要領と力の入れ具合で放った。
大気を切り裂き分身魔球よろしく小刻みにブレながら飛翔したクルミは、ベゴォッ!と、およそ植物の実にあるまじき速度
と威力と音で、タスケの後頭部に命中した。
いかな剣豪とはいえ、釣りをしながら握り飯を食っているところを背後から味方に全力クルミ投擲で狙撃されてはひとたま
りもない。つんのめるような格好で岩場から眼前の海面へ落下する大狸は、あんぐり口を開けて完全に白目を剥いていた。
ドボォンと音を立て、盛大な水柱が立つ。
「タスケさん!?」
慌てて海に飛び込む女性。その様を見て青くなるタツヨリ。「どんなもんだ」と得意げなサブロウタ。
「落水からの救助となれば、濡れた衣に触れ合う肌!口実にはもってこいよ!助けられた気恥ずかしさはあろうとも、見方変
われば…」
「ときにサブロウタ。タスケが動いていない」
「んんっ?当たり所が悪かったか?まぁこんな事でどうにかなるタマじゃなし、救助されれば…」
「ときにサブロウタ。あの女性が落水した上に気を失っているタスケの体をひとりで引き上げられるだろうか?」
「………」
黙り込む狸。沈黙を返答として受け取り駆け出す狼。岸壁は潮の音以外の物で一時騒がしくなり…。
数分後、溺れてたらふく水を飲んだタスケは腹を圧されて鯨のように潮を吹き、サブロウタとタツヨリは、後で報告を受け
た隻腕の狸からこっぴどく説教される事となる。
その頃、配下の一部がはめを外し過ぎている事など今はまだ知らず、ギョウブは木立の中の岩に座して、崖を隔てた海を見
下ろしていた。
その右腕は、傍らの若い猫の肩に回っている。
岸壁に波が寄せ、飛沫を散らして砕ける音に耳を澄ませながら、ギョウブは抱き寄せたトライチの耳元で今夜の話をしてい
る。美味い食事、各員に割り振られた部屋、トライチはこれからの事を考えるだけで楽しみになって、尻尾を立てて震わせた。
「今夜は水入らずだ。寝かされねぇ覚悟はしとくんだぜ?」
肩を抱くギョウブの腕が肘を曲げ、手が喉元に入って顎下を撫でると、トライチは気持ち良さそうに目を閉じる。
「はい…。ヒコザさんも、早く寝てしまわないようにお酒は程ほどに…」
「フン。ヌシも言うようになったもんだな、ええ?」
顎を下から軽く掴む格好でトライチの顔を上げさせると、ギョウブはそっと唇を重ねる。侵入した肉厚な舌に口内をまさぐ
られるキジトラ猫は、鼻の奥を鳴らしながら、立てた尻尾を小刻みに痙攣させた。
繰り返し岩場に打ち付ける波の音。
樹海の梢が歌う声にも似る水の音。
(ここも、潮騒がよく聞こえるぜ…)
舌を絡ませて互いを味わいながら、ふたりは日没までずっと、そこで寄り添い続けていた。