幕間 「初陣」
ゴコンゴコンとレールを鳴らし、人里離れた山間を、濃い茶色の貨物列車が抜けてゆく。
そこかしこに白くガスが生じ、深く垂れ込めた雲が山の上から半ばまでを、綿帽子のように覆い隠していた。
降り注ぐのは大粒の雨。バチバチと激しく車体を、木々を、地面を、そして貨物列車の天井に立つ者達を叩く。
冗談のような光景だが、そこに居る者達は大真面目だった。
特に、小山のような巨躯の熊と相対している、目出し帽で人相を隠している者達は…。
銀行強盗にでも押し入りそうな格好の男達は、貨物コンテナの上で片膝をついた中腰の姿勢で、握り締めた銃を熊に向けて
いる。
だが、走行中の列車の天井の上という不安定な足場を物ともせず、太い両足で踏み締めて立つ熊は、向けられた銃口にも怯
まない。
大きな男だった。
身の丈は軽く2メートルを越えている。腹が出た肥り肉だが、丸太のような四肢も、ドラム缶のような胴も、大量の筋肉を
内包し、分厚く重々しく逞しい。
袖を断ち落とした空手着のような黒い衣を纏うその巨躯は、奇妙な事に雨に濡れていない。うっすらと燐光に覆われた体に
触れる前に、雨粒は残らず蒸散している。
その足元もまた異様だった。熊の両足が接している近辺でのみ貨物コンテナの天井が乾き、水蒸気を上げている。
それは、国際基準に照らし合わせればエナジーコートと呼称される能力。この国では操光術、古くは後光の法などと称され
てきた。
生命力を変換し、指向性や斥力を与えて純エネルギーや力場を生み出すこの能力は、本来ならば瞬間的に展開して自身を守
る物。より正確に表現すれば、一瞬で消耗してしまうために継続使用が困難な代物である。
だがこの熊は、ずっと展開したままで消耗を見せない。それどころか、余剰エネルギーが熱となって発散されている。
常軌を逸した持久力だが、それでも熊本人にとっては不満が残る。
意図せず熱が生じるのは御し切れていないから。強大過ぎるその出力は、熊が少し気を緩めただけでこのとおり、周囲を焼
き始める。
もっとも、これほどの出力を得る事は勿論、それをこの程度にまで抑えられる者はそうそう居ない。齢十五というこの熊の
若さを鑑みれば驚嘆に値する力だった。
仁王立ちする熊の後ろには、コンテナの天井に四つんばいで張り付く秋田犬。
纏う衣は熊とおなじ黒装束だが、こちらは既に雨でぐっしょり濡れている。
どこか気弱そうな印象を受ける顔立ちで、雨風を避けて細めた目には怯えが見える。
そこそこ大柄ではちきれんばかりの脂肪過多。本来ならば明るい茶の毛色は、今は湿って濃さを増している。むちむちした
体は風で飛びそうに無いが、丸っこいフォルムは滑るとそのまま天井を転がって行きそうで、少々不安定だった。
腰には帯を巻き、そこに太い竹筒を左右二本ずつ帯びているが、刀や銃器、その他武具の類には見えない。
ふたりと向き合う男達は総勢七名だが、数の有利は無い。多勢にも関わらず男達は一様に緊張している。
というのも、男達は初め、十名居たのだから。
「…選べ」
巨漢の熊が低い声で告げる。
「降っか、悉ぐ討ぢ死にすっか、選べ」
その声音には、慈悲も無ければ容赦も無い。どこまでも不寛容で、硬質で、冷たかった。
気圧されながらも男の一人が引き金に指をかけたのは、恐怖からだった。
正体不明の巨漢に怯え、その指が引き金を絞る。
風と雨の音を引き裂く銃声。そして弾ける硬質な金属音。
巨漢は微動だにしなかった。その胸元に飛び込んだ鉛弾は、燐光に阻まれて弾頭がひしゃげ、あらぬ方向へ弾き飛ばされて
いる。
熊が纏う力場は瞬間的に硬化し、金属のソレをも越える硬度を発揮していた。
ゆっくりと、熊の目が細まる。物騒に。剣呑に。
今の銃撃を降伏勧告への返答と受け止め、ユウヒは重々しく一歩踏み出す。
直後、その動きに触発された男達の一斉射撃が始まったが、一発たりとも力場を貫通できない。
そうして、走行する貨物列車の上、一方的な殲滅が開始された。
一人めは、歩み寄ったユウヒにムンズと頭を鷲掴みにされ、吊るし上げられた。
半狂乱になった男は、至近距離でその胸へ、腹へ、顔面へ銃撃を浴びせるが、効果は無い。
笑い出したくなるような絶望と恐怖の中、温度を感じさせない巨熊の目が自分を至近距離から見つめている。
直後、ユウヒの目が横へ泳ぎ、その手に捕らえられた男が背に被弾して血反吐を吐く。
掴み上げられた仲間の事も考えず、恐怖に駆られて叫びながら発砲を繰り返す男が、二人めとなった。
仲間に撃たれた男を、ユウヒは腕一本で放り投げる。
首に無理な負荷がかかった男は頚骨が砕けて絶命しつつ、自分を撃った男にぶつかり、もろともに貨物コンテナの上から外
へ放り出された。
この路線は傾斜が強い山肌に敷かれている。落下したふたりは斜面に叩き付けられ、もつれ合って転げ落ちてゆくが、高低
差を考えれば助かりようもない。
ユウヒはそちらを一瞥もせず、三人めに歩み寄る。
銃が効かない。その事で混乱した男は、アーミーナイフを抜いて突きかかる。が、これは巨漢を刺す前に消失した。
無造作に払ったユウヒの手で、男の手首が九十度に折れ曲がって、ナイフは風雨の中へ飛び去っている。
悲鳴を上げる男の顔面に、ハンマーのような拳が飛び込み、即座に沈黙させつつ列車の上から弾き飛ばす。
それはまるで、死の具現。風雨の中濡れもしない巨漢は、人知の及ばぬ異界の住人のようだと、男達には思えた。
神に祈る、短い声。
思わず呟かれた、風に吹き散らされてしまうか細いその声に、しかし四人めに向かいかけていたユウヒの丸い耳が鋭く反応
する。
「…えーご…、だど…?」
巨漢の顔が顰められ、その太い首が後ろへ捻られる。
「ヤクモ」
「は、はいっ!」
風雨に負けないように声を張り上げた秋田犬は、
「こいづらさ、えーごで降伏勧告しろ」
ユウヒの不機嫌そうな言葉にきょとんとした後、慌てて声を張り上げ、武装の解除を英語で呼びかけた。
「日本さ来たら、日本語で喋れ…!」
苛立たしげに吐き捨てたユウヒの前で、四人にまで減った男達は一斉に銃を捨て、頭の後ろで腕を組んだ。
とりあえず当面の敵は大人しくなった。ほっと安心したヤクモは、改めてユウヒの背を見遣る。
今日この御役目が、ふたりにとっての初陣だった。にもかかわらずユウヒは堂々としており、頼もしい。自分とは大違いだ
と、ヤクモは恥じ入ってしまう。
しかし、ふたりには息をつく間も与えられなかった。
列車が急に減速し、ヤクモは慌てて伏せる。
レールが上げる甲高い耳障りな悲鳴が、静かな山脈の合間に響き渡る中、腰を落として素早く視線を巡らせたユウヒは、先
頭車両へ目を向けた。
「…乗っ取らいだが?」
「え、えぇっ!?」
厳しい顔付きで静かに呟くユウヒと、取り乱すヤクモ。そうこうしている間にも減速を続けた貨物列車は、ほどなく停車し
てしまう。
とりあえず捕縛しろとユウヒに命じられ、屋根から降りた男達を縛り上げたヤクモは、さっさと先頭車両へ向かう若き主の
後を慌てて追いかける。
(ご当主もお頭も、危険は無いっておっしゃっていたのに…)
胸中でぼやくヤクモ。耳は元気なく垂れて、尻尾は股座に巻き込まれている。
ふたりの初陣となった今回の御役目は、秘匿事項に関わる物品を輸送するこの貨物列車の護衛任務。
まず危険は無いというのが上からの話だったが、実際にはこの通り、どうやら外国人らしき武装グループに襲撃されている。
初の実戦に怯え、竦むヤクモだが、ユウヒは戸惑いも躊躇いも見せずに…。
(ユウヒ様は、ひとを殺める事に全く抵抗がない…?)
広く逞しい背を見つめ、異質な感覚を覚えたヤクモは身震いする。
ユウヒは男達を殺傷する際にも、そして今も、命を奪う事を忌避する様子を見せない。
勿論ヤクモも、御庭番として敵対者と渡り合い、捕縛、あるいは殺める訓練を受けている。それでも、いざとなればこの通
り…。普通はそうそう訓練通りに行かない物である。
だが、ユウヒは違っていた。
まるで場数を踏んだ猛者の如く、当たり前のように振舞っている。薄ら寒さを覚えるほど冷静に、厳格に、御役目に望んで
いる。
(ユウキ様の血…、かな…)
若き神代が、間違いなく当主の血を引いている事を改めて感じ、ヤクモはまた身震いした。
だが、似ていないと感じられる部分も多々ある。
元々自分にも他人にも厳しい少年で、気性が荒く排他的。情け深いとは言えない性格で、直情径行が強く、融通が利かず、
それゆえに畏怖はされても仲の良い者は少ない。
ユウキの「鬼神」としての冷徹な側面と通じる物がありながら、しかしユウヒには父親のような茶目っ気や、適当な寛容さ、
身内を除く弱者への配慮が欠けており、どこか危うかった。
運転士は殺害されていた。
ここの護りについていた者達の姿は無く、喉を掻き切られた死体が一つ転がっているだけ。
品の元に残した仲間達と合流しに動いたものと思われたが、殺害者の姿がない事から、ユウヒは警戒を強める。
仕留め損なった襲撃者の所在が解らないのはいただけない。何せ、神代の御庭番から逃れるほどの腕なのだから。
一方、無残な死体を前にヤクモはえずき、口元を押さえて涙を零す。
若いな。まだ子供じゃないか。
出発前にそんな事を言って子ども扱いし、笑いながら肩を叩いてガムをくれた運転士が、目の前で死んでいる…。
「ヤクモ、こごさ居ろ。オラぁ品の方ば見でくる」
低く次げたユウヒは、ヤクモを残して運転室を出る。
列車を止めるという目的を果たした今、襲撃者側はもうこの車両に用は無いはず。残す目的は品の方だけと目星をつけての
判断だった。
が、待機を命じられたヤクモからすれば心細くて仕方が無い。
さらに言えば、戦闘行為に及ぶだろう品物の防衛に、ユウヒがあえて連れて行かなかったのは、まともな働きができないヤ
クモの身を案じての事…。
ユウヒの思惑が察せられて情け無い気分になり、項垂れる秋田犬。手足となり、盾となり、補佐をするのが役目でありなが
ら、お荷物にしかなっていないのが実情。無力感が胸の中で重い塊に変わる。
(何てダメなヤツなんだろう、私は…)
泣きたい気分でかぶりを振り、うっかり周囲を見回して運転士の死体を目にし、慌てて体の向きを変え視線を逸らすヤクモ。
だが、怯えから来たその動作が、偶然にも少年の命を救った。
見開かれたヤクモの目に映ったのは、音もなくドアを開けて忍び寄ろうとしていた目出し帽。
「ひっ!」
気付かれた男が床を蹴るのと、ヤクモが悲鳴を上げたのは同時。
シュッと空気を裂いて水平に走ったナイフの切っ先が、顔を庇うように上げたヤクモの右手脇を浅く掠め、僅かに被毛を切
り飛ばす。
「わぁっ!」
足をもつれさせて仰向けに転ぶヤクモ。意図しなかったその動きのおかげで、戻って来たナイフに身を裂かれる事は避けら
れたが、無防備に背中から倒れてしまう。
痛みで一瞬目を閉じたヤクモは、チキッ…という音に反応して耳をピクつかせた。
ナイフを右手に携えた襲撃者は、左手で引き抜いたプラスチック製の拳銃を、少年に向けている。
奈落のように黒々としたその銃口が、自分の眉間にポイントされている事を悟り、ヤクモはゴクリと唾を飲む。
御庭番としての訓練を受けているとはいえ、ヤクモの身体性能は常人とさほど変わらず、体術レベルも及第点に達していな
い。歴戦の御庭番と渡り合って運転士を殺害し、一度は戦線離脱にも成功しているこの襲撃者が相手では勝負になるはずもな
かった。
だが逆に、その無力さでヤクモは命拾いした。
手も無く捻られる他愛の無い相手と認識した襲撃者は、扱い易い人質になると判断し、すぐに殺す事は止めにしたので。
「テヲ、アゲル」
たどたどしい日本語が、覆面越しにヤクモの耳を打つ。
仰向けに倒れたまま、おどおどと両手を頭の上に移動させるヤクモの態度で、男は少し気を緩めた。この少年はまだ駆け出
しで、素人同然なのだと判断して。
「コロス、シナイ」
なだめるように優しげな声音で嘘をつく襲撃者。
嘘と解っていながらもそれを信じたいヤクモは、無言のままコクコクとせわしなく頷いた。
「ブキ、ステル。ガン。ナイフ。オール…。ジャケット、ナカ、ミセル」
緊張で小刻みに震えながらも、ヤクモはアタッチメントホルダーの役目を持つ帯を解いて、吊るした竹筒ごと外す。そして
胴衣の前を開いて弛んだ裸体を晒した。
プッと、覆面の中から失笑が零れた。
脂肪が付き過ぎて垂れた胸に、みっともなく弛んで出っ張った腹…。言われたとおりに仰向けで腹を晒し、武器を持ってい
ない事を明かすヤクモの姿は、降参した負け犬そのものだった。
体こそ大きいが、戦士の体付きではない。ユウヒが目をかけて庇うので、ヤクモはいつまで経っても未熟なまま。精神的に
も、肉体的にも。
少年が怯えのあまり贅肉まで揺らして小刻みに震えるその様子は、襲撃者に余裕を抱かせる。
「スタンダップ。タツ」
襲撃者が促したが、ヤクモは膝が笑ってなかなか立ち上がれない。転びそうになって手をついた少年を嘲りの目で見据えな
がら、
「…?」
襲撃者は、先ほどヤクモが外した竹の筒に目を向けた。
直径8センチほどの竹筒は上部が空いており、中に収納した何かが飛び出さないよう、太さ2センチほどの革紐を渡して封
をしている。
「ワッツディス?」
ナイフで示し、それは何かと訊ねた襲撃者は、ヤクモがハッと顔色を変えた事で目つきを鋭くした。
水筒のようなサイズのソレの中が気になった。重要な物品を収納するケースとしては造りが雑なものの、行動指示書のよう
な物が入っている可能性はあるように思えた。
「ダス。ナウ。アケル」
急かす襲撃者の声音が恫喝の色を帯びる。
びくびくおどおどと竹筒を一本拾うヤクモ。
それは、元服の儀を終えたヤクモに正式に与えられた、彼の武器。
ただし誰にでも扱える物ではない。ある素養を必要とする、極めて特殊な武器…。
形状も性質もあまりにも特殊なので、知らない者はまずそれが何なのかが解らない。
だから、手に取るよう促された今、隙を突いて使えば…。
(できる…?できるの…?やれるのか私に?)
自問するヤクモ。しかし自信が持てない。震えて取り落としてしまう自信ならばあったが…。
(む、無理だ…!オラにゃ…、ぜってぇ無理だよぉ…!)
追い詰められて泣きそうになりながら、しかしヤクモは救いを見い出す。
空きっぱなしのドアの向こうに、小山のような巨漢が音も無く姿を見せていた。
ヤクモの視線で背後の異変に気付き、身を翻した襲撃者の目に映ったのは、憤怒の表情に歪んだ猛獣の如きユウヒの顔。
異常を察して舞い戻り、襲撃者がヤクモから視線を離せない一瞬を突いて入口まで接近した巨漢は、気配を完全に断ってい
た。その隠行の技が、襲撃者に巨漢の力量を知らしめる。
「フリーズ!」
素早く向けられる銃口。
「日本語で喋れ!」
委細構わず足を踏み出すユウヒ。
続く銃撃は力場に阻まれて巨体に傷一つ付けられず、経験からエナジーコートかそれに類する防御手段と判断した襲撃者は、
迷わずヤクモに銃口を向け直す。
「フリーズ!」
再びの叫び。言葉の意味は判らなくとも動作の意味するところは流石に判り、動きを止めるユウヒ。
通じないと悟って即座に人質に銃を向ける、咄嗟の判断と反応の良さ。それなりに場数を踏んだ相手だと理解し、ユウヒは
ギシリと歯噛みする。
「アナタ。ケス。エナジーコート」
襲撃者の言葉に、ユウヒは一瞬眉を潜めたが、この状況で要求される事は何なのか、すぐに思い至った。
巨体を覆う燐光が消える。力場を収めた熊へゆっくり銃を向け直す襲撃者。
(一発撃だして、一発見舞う。問題ねぇ…)
銃は45口径。当たり所が悪くなければ死にはしないだろうと、ユウヒは腹をくくる。
ヤクモが総毛立つ。また先ほどの薄ら寒さを感じて。
ユウヒ本人はまだ気付いていないが、御役目に臨むに際して切り替わったその思考形態は、あまりにも異様だった。
今のユウヒは自分の命を目的達成のための手段と割り切っている。敵対者の命については、状況を収める際に仕方の無い消
費と捉えている。
その人間性が大きく損なわれた危うい価値観こそが、ヤクモが垣間見て怯える、異質な感覚の正体だった。
だが、その種類が違う怯えが、敵への怯えと主導権を争って衝突し、ヤクモを冷静にさせる。
自分を護るために無防備になったユウヒ。
人質として自分をすぐには殺せない襲撃者。
先ほど促されて握り、今も手の中にある竹筒。
ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込み、ヤクモは竹筒の封を解く。
するすると静かに抜き出したのは、そこに収められていた一本の巻物。
ヤクモは素早く腕を振り、巻物を広げる。
バサリと伸びた巻物は、ヤクモの眼前で弧を描き、宙にピタリと静止した。
文字がびっしりと記された面の中央には、赤色に染まった、ぽってりした手形。
動きに気付いた襲撃者が振り返るのと、ヤクモが血の手形に手の平を押し当てたのは同時だった。
「火遁!紅蓮鳳仙花(ぐれんほうせんか)!」
契約者の声に反応し、巻物の外面…襲撃者側に向いた面が赤く発光する。
直後、巻物の外面に波紋が広がり、横に長く伸びたそこからソフトボール大の真っ赤な火球が一気に五つ飛び出した。
慌てた襲撃者が反射的に引き金を絞るが、銃弾はヤクモの足元やや横で跳ね、床に傷をつけただけ。
一方で五つの火球は、まるでそれ自体が意思を持つように軌道を変え、男に殺到してその身を焼く。
「オゴォアアアアアアアア!!!」
耳を覆いたくなる絶叫は、燃え盛る炎の音と混じりあう。
だが、それだけでは終わらない。
最初に五つ出現した火球は、さらにその後も続々と巻物から放たれ、男の体を連続着弾の反動で浮かせている。
壁に押し付けられる形で事切れながらも、男は雪崩のような無数の火球に打たれ、焼かれ、焦がされて、タンパク質が焼け
る脂っこい煙を運転室に充満させて炭になる。
距離の近いユウヒが力場を纏って耐えなければならないほどの熱量を伴う、苛烈で執拗な炎弾連撃は、列車の壁の鉄材が剥
き出しになり、チリチリと熱を発して半ば融解した赤身をさらけ出した頃にようやく止んだ。
後に残ったのはむせ返るほどの濃い煙と、元の姿を想像するのも難しい、襲撃者の無残な残骸だけ。
ブスブスと不快な臭いと煙を上げる襲撃者の成れの果てを一瞥したユウヒは、力を失って床に落ちた巻物と、へたり込んで
肩で息をするヤクモに目を向ける。
肥った犬の足下に落ちた巻物は広がったまま動きもせず、宙に浮いていた不可思議な現象の痕跡も見せない。
だがその巻物は、たった今その力を見せたように、特定の者が扱えば立派な兵器となる。
板前八雲は、術士の血統に連なる者。
基礎身体能力で大きく劣り、身のこなしも未熟でありながら正式な御庭番として御役目に加えられたのは、ユウヒやユウキ
の贔屓があったからではない。この制圧力と殺傷能力を持ちながら使い手を選ぶこの品を、そつなくいくつも扱える素養こそ
が、彼が御庭番として認められた理由である。
西洋では石版や玉石などに複数の術式を封じるスタイルとなっているが、この島国で発祥した術の派閥は、一本の巻物に一
つの術を収める形式を取っていた。西洋ではグリモアと呼ばれるソレは、この国では巻物の形状を取り、術書と呼ばれている。
複数術を一つに併せ持つのが長所の石版は、術の制御が使用者の微調整に委ねられ、集中が解ければ形態維持もできないと
いう使用難易度が短所。
一方スクロールタイプは一つの術にしか対応しないが、術の制御は巻物本体が行ない、使用者は注ぎ込む思念波の量で出力
調整をするだけという、比較的扱い易い仕様。
一長一短の差を持つこれらは、永い進化の道を辿った末、ほとんど別物と言える性質を持つに至った。
「ヤク…」
初陣で最初の戦果をあげた馴染みに声を掛けようとして、ユウヒは気付いた。
ヤクモは、失禁していた。
作務衣の下穿きは股間を色濃い染みで染め、脚を投げ出して開いた股の下には黄色い水溜りができ、尻までぐっしょり濡れ
ている。
ユウヒは焦げ臭さに混じる尿の臭いに、そして股間の変色に気付かないふりをしながら、手を取って立たせようとした。が、
咄嗟の事でありったけの思念波を巻物に突っ込んだ少年は、精神的疲労と恐怖の反動で腰が抜けており、足腰が立たない有様。
一時考えたユウヒは無造作に、力任せに古馴染みを引っ張り起こすと、肥えたその体を軽々とおぶった。
「あ!ゆ、ユウヒ様!」
失禁がバレる。それ以前に若き主の背を汚してしまう。そんな焦りで声を枯れさせたヤクモに、
「泥でも血でも汚れんべ。戦ってのはそいなモンだ。外面なんぞ気にすっ事でねぇ」
ユウヒは淡々とそう応じ、皆と合流するために車輌を出て、防ぎもせず全身に雨を浴びる。
「…皆さは、足ば挫いだって言っとげ。おぶっとげば見えねぇし、雨に濡れれば流れでぐ」
小声で囁かれたそんな言葉で、ヤクモは小便を漏らした事を気付かれていたのだと悟り、顔を熱くさせた。
「…申し訳ありません…」
「いい」
「本当に済みません…」
「いい」
「ごめんなさい…」
「いい」
しょぼくれて謝るヤクモと、ぶっきらぼうに応じるユウヒの声は、強い雨音に紛れて他の誰にも聞かれなかった。
「大戦果じゃ!」
機嫌良く大型の朱塗り盃を煽った壮年の熊は、プハーッと酒臭い息を吐きながら、隣に座っている息子の肩に腕を回し、体
重を預けた。
「重でぇ。あど酒臭ぇ」
「相変わらずつれねぇヤツじゃのぉお前。ホレ、もっとパーッと盛り上げんか!」
すっかり出来上がってゲラゲラ笑い、ゆさゆさと体を揺すってくる父親の顔に手の平を当て、不快げな顰めっ面でぐいーっ
と遠ざけるユウヒ。
この酒宴は、任務達成と初陣終了祝いを兼ねた物。関係者の息がかかった旅籠での簡易な打ち上げだが、酒も名品で、膳に
乗った料理も趣向を凝らした物になっている。
もっとも、ユウヒとヤクモは未成年なので飲み物は茶。破天荒なユウキは構わず飲ませようとしたが、奥方が怒りますよと
山羊の爺やが窘めて黙らせたので、少年達は難を逃れられた。
「いや〜、気分が良いのぉ!」
声が大きくなっているユウキは、しかし酒が入る前からテンションが高かった。
息子が初陣を無事に勤め終えた…事は実はさほど重要ではない。深い信用と強い期待から難なくこなすと確信していたので。
何よりも喜ばしかったのは、出来が良いとはいえないヤクモが、大した怪我も無く御役目を務めおおせた事…。
列車の到着点で受け入れ側に回っていたユウキは、ヤクモが敵と接触し、これを仕留めたという戦果を聞くなり跳び上がっ
て喜び、抱き上げて振り回すほどのはしゃぎ様だった。
元々は交戦が想定されていた任務ではなかったが、副次的に発生した戦果はかなりの物。
というのも、今回偶然にも貨物列車を襲撃したのは、入国が把握されていなかった海外のグループで、早期発見から繋がる
渡航ルートのあぶり出しにより、今後の被害を未然に防げる。もしも今回遭遇しなければ、すっかり巣食われてから気付くと
いう事態になりかねなかった。
おまけに、輸送スケジュールを流した内通者も捕縛でき、余罪追求から過去の情報流出原因もこの男だったのだと特定でき
た。これ以降は再発も防げるだろう。
「あんまり気分が良いから、久々に裸踊りでもやるか!」
ヒック、としゃっくりをしながらいそいそと脱ぎ出すユウキ。
え〜!と聞こえてきそうなほどに皆の顔が有り難くない表情を浮かべているが、周囲の顔色にはお構いなし…というよりも
全く気付いていない。
父親がすっぽんぽんになって醜態を晒す様を見たくないユウヒは、膳の上が片付いた事もあり、中座して広間を後にした。
しかしユウキのはっちゃけぶりを諌める事も無く、制止の一言を求める周囲の視線に気付きもしない
マイペースという意味では似た者親子である。
ユウヒが席を立った事に気付いたヤクモも、失礼して席を外そうと思ったが、しかしこれは周囲のお庭番に阻まれた。
何せ今日の主役は初陣を勤めおおせた少年達。
厳格で付き合いの悪いユウヒはともかくとして、弄り甲斐のあるヤクモは逃げられず、当然のように酒の肴にされてしまった。
喧騒が遠のくほど廊下を歩み、宴席から充分に離れたユウヒは、裏庭を望める大窓の前に置かれた長椅子に腰を沈め、一息
ついた。
思い返すのは今日の初陣。
ひとを殺めた光景と感触。
だが実は、ユウヒがひとを殺めたのは今日が初めてではない。
それを知らないヤクモは不思議がっていたが、既に経験し、腹が据わっていたからこそ、ユウヒには躊躇いも迷いも無かった。
殺める事に慣れたから平気なのではない。ただ、覚悟ができていただけ…。
ふぅ、と息を吐いたユウヒは、暗がりに弱い明かりで浮かぶ庭園を瞳に映す。
ヤクモが自分に怯えていた事には、気付いていた。
おそらく自分は…自分の精神状態は、一般人に近いヤクモのそれとは一線を画しているのだろうと察しがつく。
だが、その違いが何なのか、どうすれば溝が狭まるのかは、まだ解らない。
問題の全貌はおぼろげ過ぎて、十五の少年には難し過ぎて…。
「深遠を覗けば深遠に見返される…。努々忘れるな…。それその物になってしまわないように…」
たどたどしい標準語のイントネーションで呟いたそれは、ユウヒが初めてひとを殺めた日に聞き、胸に刻んだ言葉…。
「…オラは、深遠さなり掛がってんのが…?」
自問するその呟きは、本人だけが聞いていた。
夜も更けて流石に解放されたヤクモは、まだ続いている宴を後に、こそこそとあてがわれた部屋に向かった。
もう休んだのか、ユウヒの姿は廊下などにも見えず、声を掛けるのもはばかられたので、ひとりで支度をして風呂に向かう。
宿に着いてから一度湯を浴びたのだが、宴席の熱気に当てられて汗もかいたので、寝る前に身を清めておきたかった。
ひと気の無い大浴場に入り、まず豊満な体に湯をかけて軽く汗を流し去ったヤクモは、広い石造りの湯船に身を沈め、一息
ついた。
思い返すのは今日の初陣。
ひとを殺めた光景と感触。
初めて経験した、誰かの命を奪うという行為に、今更ながら恐れを抱く。
ひとりになってあの一連の出来事を思い出すと、なおさら怖さが増幅された。
そして何より、自分の意気地の無さが身に染みた。
主を護るどころか足を引っ張った。申し訳なくて悔しくて情けなくて涙が滲み、目尻から零れる。
だが、しんみりと思い返していられる時間は短かった。
がららっと勢い良く戸を開けて、鼻歌混じりに騒々しくユウキが浴室に入ってきたので。
「お?先客じゃ!」
何故か嬉しそうに破顔したユウキは、慌てて湯を顔にかけて涙の痕跡を消すヤクモの隣に、かけ湯もせずにいきなりザポン
と飛沫を立てて浸かる。
「よぉやったのぉヤクモぉ!鼻が高いわい!」
ガハガハと酒臭い息を吐きながら、大げさに褒めるユウキ。だが、本当は褒められた物では無いのだと、ヤクモはいたたま
れない気分になる。
「…でも…、結果的に上手く行っただけで…。ユウヒ様にもご迷惑をかけて…。足を引っ張って…。お荷物で…。私が居ない
方が、たぶん上手く行きました…」
そんな事をボソボソと、俯きながら漏らしたヤクモに、
「居らんと困る。お主はユウヒに必要じゃ」
壮年の大熊は悪戯っ子のように顔を笑み崩して応じた。
「え?」
「ま、灯火じゃ」
「へ?」
「「とぉち」じゃな、「とぉち」」
「へ…?」
「お主は判らんでもいい。アイツは何となく判っとったようじゃからな」
自分勝手に言葉を並べて一切説明らしい説明をしないユウキ。困惑するヤクモは、詳しく教えて欲しいと口にしようとして…、
「わひゃう!?」
問いの代わりに妙な高い声を漏らした。
「おうおうおう。発育がええとは思っとったが、こりゃまたなかなか…」
物凄く真面目な顔になったユウキの目が見ているのは、背中から回して脇を通した腕でしっかり捕まえたヤクモの、たわわ
な胸。
無骨で大きい熊の手が、指を深く埋めて、面白いように形を変える少年の乳房を弄ぶ。
「おっほ!こりゃ上物!並のおなごじゃ敵わんぞ!?いつの間にこんな逸品に仕上げよったんじゃ!」
仕上げたのではない。遺憾にも仕上がってしまったのである。
しかしそんなヤクモの抗議的内心が、例え聞こえたとしてもお構いなしなのが神代熊鬼という男。「やっ!あ!ひんっ!」
と官能的な声を上げる少年の乳を弄る手を止めはしない。
その顔は、奥羽の鬼神とまで称され、神代家を正式な神将家の地位に返り咲かせたやり手の当主とは思えないほどだらしな
く緩みまくっている。
だが、投げ上げた石は落ち、器に満たした酒は無くなるのが世の常。
「お、の、れ…!何しとるっ!」
怒声と共に飛んできたのは、赤銅色の巨大砲弾。
ハッとして振り向くユウキ。その顔面を、巨体に見合わぬ速度で駆け込んできた息子の跳び蹴りが捉えた。
「ぶべらっ!?」
水飛沫を上げ、縦回転しながら吹き飛び、上も下も無くざっぽんざっぽん湯船の中を転げて遠ざかる壮年の熊。
はらり…と腰に巻いていたタオルを湯気の中に舞わせつつ、湯の中に太い足でざぼしゃぁっと着地する若い熊。
「ぶはぁっ!」と身を起こした助平親父は、ダラダラ滴る鼻血を手の甲で拭い、
「ユウヒ!ぬしゃあ実の父に跳び蹴…」
怒りの声も半ばで途切れさせ、固まる。
しっかり残心を決めて着水、湯船の底を踏み締めた若熊は、呆気に取られている秋田犬の前で腰を落とし、前に突き出した
両腕に燐光を灯していた。
解けたタオルがふわりと湯船に落ちる様も、自分が局部をモロ出ししている事も意識の外。目が、完全に据わっている。
「ゆ、ユウヒ様!?」
「去ねいっ…、駄目親父…!」
「おおおおお落ち着けユウヒ!ぬしゃあ実の父に天こ…」
「天鼓雷音(てんこらいおん)!」
火を噴く高等操光術。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
慌てて飛び出して退避したヤクモの後ろで、余波を食らった湯船がグラグラッと煮立ち、放たれた光芒の直撃を受けたユウ
キは咄嗟に纏った力場ごと押し流され、壁を突き抜けて屋外へ。
なおも収まらないユウヒは、強い燐光を纏いながらも一糸纏わぬその姿で、父にさらなる制裁を加えるべく壁の穴から飛び
出してゆく。
煮立って入れなくなった湯船の脇に、ひとりポツンと取り残されたヤクモは、
「何事だ!?」
轟音に反応して飛び込んできた年配の山羊を先頭とする御庭番衆に説明する。
「…ユウヒ様が…、その…、ご当主を…、蹴飛ばして…、吹き飛ばして…」
『なんだ親子喧嘩か』
慣れている一同は声を揃えて片付けると、「修理費が…」「騒がしい…」「今回もたぶんご当主が悪い」などとぼやきなが
ら退散してゆく。
ヤクモはまたポツンとひとり取り残され、壁に空いた穴を見遣って、
「…くしゅっ!」
吹き込んだ風に豊満な裸体をくすぐられ、くしゃみをした。
睾丸を縮み上がらせて身震いし、とりあえずシャワーの湯を浴びてから皆に習って退散する辺り、この少年もだいぶ場慣れ
していると言える。
屋外で繰り広げられるのは、苛烈な親子喧嘩。…より正確には息子による父親への一方的な制裁。
この夜、岩手山の山麓には、拳骨の音とは思えない轟音が幾度も響いた。