幕間 「寄処」

 広大な敷地を抱えた高い壁の遥か向こうに、遠いせいで姿もおぼろげな屋敷が聳え立つ。

 外からでは大きさもなかなか実感できない洋館は、豪奢な造りでありながら目にうるさいほど派手ではない。

 木々が生き生きと茂り、手入れが行き届きながらも自然の姿を留める敷地内には、ここに人の手が入る前から存在する池が

あり、小川まで流れている。

 それらの主は、著名な大財閥である。

 黒須、黒伏、榊原、鼓谷と並び称される五大財閥の一つ、烏丸(からすま)。その総帥の邸宅がこの屋敷だった。

 烏丸の現総帥である老紳士は、国内屈指の富豪であるのみならず、地域振興にも骨を砕いて貢献している、地元民の信頼厚

い名士でもある。

 だが、烏丸コンツェルンの総帥という老紳士の表の顔を知る者は多くとも、裏の顔を知る者は少ない。

 オブシダンクロウ。

 古くは「鴉」と称された非合法組織の頭目というのが、老紳士が持つもう一つの顔…。

 むしろ、烏丸コンツェルンの元となった物が、元々は表立った資金運用などの為に立ち上げられた、活動の隠れ蓑としての

薬売りだったという成り立ちを鑑みれば、裏の顔こそが真の顔で、財閥の総帥という立場は世をしのぶ仮面とも言える。

 その、暗がりに舞う鴉の塒には、昨夜から車の出入りが耐えなかった。

 バンにワゴン、黒塗りの高級車など、入れ替わり立ち代わり門の内外をせわしく行き交う車の中には、烏丸財閥の関係者、

傘下企業の重役、果ては医者の姿まであった。

 総帥が倒れた。

 大々的に公表された訳ではないが、しかし隠されるような事もなくそんな知らせが信用筋から広まったのは、今朝がたの事。

 普段は静かな邸宅の周辺は、朝から騒然となっている。

 そんな屋敷の一室では…、

「進捗状況は?」

 倒れたはずの総帥が、ふぅふぅと緑茶を吹いて冷ましながら、十時のワイドショーを眺めていた。

 品の良さそうな初老の男は、一応格好だけは病人らしくしようというのか、ナイトガウンを羽織っている。

 歳もあって髪には白い物がだいぶ混じっているが、白髪も、まだ黒い毛も、光の当たり具合によっては微かに青みを帯びて

見えた。

「先ほど最終便が到着。収容完了致しました。衰弱している方もおられますが、医師によれば命に別状はないそうです」

 報告に上がったばかりの、逞しい体躯を黒いスーツで窮屈そうに包んだ中年のゴリラは、恭しく、そして淀みなく答える。

「情報操作の効果は?」

「仰せの通りに流しました総帥の体調不良という情報は、疑われている気配がありません」

「ご苦労」

「ただ…」

「何だね?」

 言い淀んだゴリラは、総帥に促されて低い声でボソボソと告げる。

「株価が急落しました…」

「それは問題ない。そちらの方は、な…」

 余裕の態度で口元を緩める老紳士。その程度は織り込み済みなので、驚くには当たらない。

 むしろ、目ざとい者を欺くために、あえて損まで被った大芝居を演じているのだから、目に見えて判り易い形でマイナス勘

定が出るのは望むところだった。

 そこまで用心し、細心の注意を払い、わざわざ騒ぎを大きくしたのは、それで誤魔化したい事があったから。

 控え目にドアがノックされ、老紳士と向き合っていたゴリラが背筋を伸ばして壁に背を向け、主人とドアの両方を視界に入

れる。

 部屋の主が応じると、返事を待ってドアを開けた女中頭は、案内してきた客人を部屋に通す。

「いくらかは休めたかな?」

 柔和に微笑んで声をかけた老紳士の目に映り込んだのは、熊と見紛うほど大柄な狸だった。

 年の頃で言えば三十路前後に見える。汚れを落としたとはいえ、纏う作務衣はボロボロで毛艶も悪い。しかも左腕は二の腕

の真ん中から先が無くなり、空っぽの袖が垂れている。

 だが、一見すればひどくくたびれているその外見に反し、隻腕の大狸は眼光鋭く、佇まいには生気が漲り、力強い。肥り肉

で体は分厚く腹も出ているが、足運びや身のこなしは重さを感じさせず、まるで実体が無いかのよう。

 大柄で恰幅が良い狸だが、かつての彼を知る者が見れば、そのやつれぶりに驚くだろう。

「お陰様で、ひとの食う飯と冷たくない寝床を久方ぶりに味わえた。皆深く感謝している。勿論ワシもな」

 頭を垂れた大狸は、腹の底から絞り出すような声は、抑えきれない震えを微かに帯びている。

「恩に着るぜ、烏丸の頭…!」

 対する老紳士は「そう改まらんでも…」と、気さくな態度と意外に若い仕草を見せ、はたはたと手を振った。

「なになに、先代に二度も世話になった事を考えれば、礼を言われるには及ばん事…。加えて昨夜は危うい所で力添えを貰え

た。こちらこそ感謝しとるよヒコザ君」

 そこで老紳士は「おっと」と目を丸くし、苦笑いした。

「いかんいかん…。今は「刑部殿」だった」

 隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)。それが隻腕の大狸の名。

 戦に敗れ、主君を喪い、隠れ里を追われ、数少ない生き残りを率いて落ち延びた彼は、一縷の望みを抱いて烏丸を頼りに来

た。「鴉」とは浅からぬ縁があり、接触さえできれば力になって貰える可能性があったので。

 その奇妙な縁は、先代刑部の時代まで遡る。

 当時、御役目によりある品の奪取を仰せつかった隠神とその眷属達は、偶然にも烏丸と利害関係が一致した。

 さらには、結果的に共闘となったその出会いに続いて、年をおいてもう一度似たような事があった。

 日の下で生きられない逆神と、闇に羽ばたく鴉。互いに邪魔になる存在でもなく、むしろ共感すらできる身の上。たまたま

頭同士の気が合ったという事も手伝い、烏丸と隠神は短い期間ながらも親交を暖めた。

 その折に、口約束ではあったが両者は盟約を交わしていた。

 互いに助勢が必要であれば、力を貸し合うという盟約を…。

 先代の逝去でこれもふいになった可能性もあるとギョウブは踏んでいたのだが、義理堅い老紳士はこれに応え、命からがら

逃げ隠れ、山中をひた歩いてたどり着いた落人達を快く受け入れ、かくまってくれた。

 老紳士が自分の不調という嘘をだしにして誤魔化したかったのは、この落人達を受け入れるための大量の車の出入り。

 そうして関係のない物まで含めた多数の車に紛れて搬送する上に、ギョウブや隠神の眷属達が幻術で皆の姿形を偽る、二段

構えの念の入れようである。

 帝と神将達に嗅ぎつけられないよう、他にも打てる手は全て打った。

 そして、打った数多の手は外れず、隠れ里の生き残り達は存在を気取られずに済んだ。

「疲れただろう。挨拶も礼もまた今度で良いから、今日は揃った皆を労って、一緒に休みたまえ」

 老紳士に促され、ギョウブは「では後ほど改めて」と深々頭を下げて退室する。

 扉の外で待っていた女中頭は、みすぼらしい身なりの狸にも恭しく会釈し、胡散臭がる事もなく先に立つ。

 そうして先導され、歩き出す巨漢の脇に、廊下の壁際に控えていた若いキジトラ猫がスッと並んだ。

 付き従うというより、脇に控えたとでもいうべき付き添い方。ギョウブがちらりと若い猫に視線を向ける。

 ギョウブと同様に毛艶が悪く、細くやつれた猫だった。

 この若者の名は、申田虎一(しんでんとらいち)。隠れ里が攻め滅ぼされる前からギョウブの配下だった、今では少ない実

働要員のひとり。

 かつては色濃かった未熟さも、頼りなさも、あどけなさもすっかりなりを潜めて、幼さを無理矢理そぎ落としたような精悍

さがその顔を彩っていた。

 失った左腕を補うように付き添うトライチは、今では側小姓のように控えていたあの頃よりも近しい存在となり、文字通り

ギョウブの片腕となっている。

 程なく、外の窓に面していない廊下と階段を通って一階へ降りた一行は、そこでばったりと、待ち構えていたように立って

いた小さな女の子と顔をあわせた。

 そこは家人と、裏家業を知る者、そして一部の使用人しか出入りしない屋敷の深部。場所柄的に似つかわしくない子供の姿

を、その乳母でもある女中頭は困り顔で見つめた。

「あら、お嬢様…」

 女の子は見慣れない狸と猫を見上げ、「こんにちは」と笑顔を見せた。

 ギョウブも、トライチも、この女の子が何者なのか知っている。

 愛らしい顔立ちは、瀟洒な洋服とあいまって人形のよう。首元には直径1センチ、長さ5センチちょっとの細長い銀色の筒

が、ペンダントのように吊るされている。長く伸ばされた黒髪は、少し青みがかって光沢があった。

 その毛髪の青みは、烏丸の血族に時折現れる特徴…。見る者が見れば、この女の子が祖父同様に古い血を色濃く継いでいる

事が一目で判る。

 烏丸巴(からすまともえ)。それが、現総帥の孫娘であるこの女の子の名前。

「はじめましておじちゃま。トモエです」

 愛くるしい笑みを向けられ、トライチは胸の内で微苦笑した。

 それなりに成長した青少年相手ならば、ふてぶてしい笑みと堂々とした態度で臨むギョウブだが、小さな子供や女性相手に

は、触れ方が判らないように戸惑いがち。厳しく、あるいは乱暴に接する事には慣れているのだが…。

(大将、こういうの苦手なんだよね…)

 トライチはともかくとして、子供の扱いがあまり得意ではないギョウブは、こんな具合に笑いかけられても、いつも対応が

下手だった。

 どんな顔をすればいいか迷っているだろうなと、主の顔を盗み見たトライチは、しかし意外そうに眉を上げる。

 ギョウブは笑みを浮かべていた。少々硬かったが、トモエの笑顔に誘われるようにして。

「おじちゃまのおなまえは?」

「…ワシは、ギョウブだ」

 一瞬逡巡したが、結局ギョウブは名を明かす。

「ギョウブおじちゃまは、おじいちゃまのおともだち?」

 続けざまに投げかけられた問いに、大狸は少し考えてから、

「ああ。ともだち、だな…」

 と、躊躇いがちに応じた。

「それなら!」

 女の子は顔を輝かせた。

「トモエとギョウブおじちゃまも、おともだちだね!」

 差し出されたのは小さな手。

 見下ろすのは戸惑いの目。

 やがて大狸は、腰を曲げて身を屈め、女の子の手をキュッと小さく握った。

「おともだち!」

 笑顔のトモエが、大きな狸の手を上下に振る。

 その小さな手が自分から離れ、トライチと同じように握手を交わしても、大狸は不思議そうに、物珍しい何かを戸惑いなが

ら見つめるように、幼い温もりが残る分厚い手のひらを見つめていた。



 この時交わされた握手の感触を、ギョウブは生涯忘れなかった。

 そして、紆余曲折はあっても、自分を「ともだち」と呼んだ女の子の側に立ち続けた。

 月日が流れ、美しい女性に成長したトモエが、およそ一般人が生きている内に体験できる物を遥かに超えた、世界そのもの

に挑むに等しい困難と対峙するその時も…。



 朝からにわかに気配が増えた屋敷を出て、トモエは庭を歩く。

 トモエもまたその幼さから真実は告げられず、大芝居の客側に据えられていたのだが、実は大人達の思惑を他所に、祖父が

倒れたというのは嘘だと薄々感づいていた。

 それでも、嘘だと知りながらそれに付き合い、大人の手を煩わせなかった。そのぐらい利発な子供だったので。

 メロディしか覚えていない流行歌を口ずさみながら、トモエは花を愛で、頭上を飛び交う小鳥を、そして自分を護るように

空を舞う二羽のカラスを目で追い、空の広さを瞳に映す。

 何故かは判らないが、これから良い事がありそうな気がしていた。



 敷地内にある大型倉庫として利用されていた建物は、急遽中を整理され、落人一行を受け入れるための施設になった。

 ひとまずは学校の体育館のようにだだっぴろい地下スペースが提供され、そこに寝具を敷いて雑魚寝する形になる。

 元々が居住の為に作られた物ではないため、床は硬く空調も良くない。老紳士は、順次上の階を改築して個室を用意し、暮

らしやすいように中を整えると言ってくれた。

 だが、雨露を浴び、風に叩かれて眠りながらここまでやってきた者達にとっては、外敵を警戒せず、物音に怯えず眠れる環

境が与えられただけでも嬉しかった。

 飯を食い、湯浴みをし、体を休め、久方ぶりに人心地ついた仲間達の様子をしばし見守った後、ギョウブは自分の妻と娘と、

短い水入らずの時間を過ごした。

 ギョウブの妻は、逃避行と心労がたたって衰弱していた。

 主君の奥方や娘とも近しく、世話役も務めていた彼女は、里の壊滅により生命力を根こそぎ持っていかれたような有様。ま

だ赤子同然の娘も居るので何とか気を持たせてはいるが…。

 離れて待つトライチの心配をよそに、ギョウブはほんの三十分ほどで家族と共に過ごす時間を切り上げた。

 そして、数少ない生き残りの戦闘要員と、自分と歳が近いしっかり者の雌牛、雌犬、雌猪を伴い、諸々の打ち合わせ用にと

提供された狭い別室へ足を運んだ。

「「鴉」は、現在敵対勢力と抗争中らしい」

 ギョウブは一同の顔を見回して重々しく告げる。

「ご厄介になるだけの恩は返さんといかん。…加勢する」

 頷く一同。ギョウブはあえて詳しく語らなかったが、帝側には自分達は既に死んだものとして扱われている。正体を気取ら

れないよう細心の注意を払って動かなければいけない事は、全員が理解していた。

 老紳士と細かなやりとりはこれから行う事になるが、しくじれない事だけは確実だった。

 なにせ、ギョウブが昨夜遭遇したのは組織の構成員同士の戦闘などではない。「烏丸コンツェルン総帥」が襲撃されていた

現場である。

 敵に正体を掴まれている。これはおそらく烏丸にとって初めての経験だろうと察しはついた。同時に、敵の捜査能力が侮れ

ないレベルである事も覗える。

 尻尾を掴まれる事無く、敵対勢力を排除する。これをしくじれば、その身を烏丸に預ける事になった自分達は、あてどなく

野に彷徨い出るしかない。

「明日、話してみる。烏丸の頭も手は欲しいだろう、断りはすまい。それと…」

 ギョウブは一度言葉を切ると、改めて一同の顔を見回した。

「持ち出せた遺物から使えそうな物を見繕い、我らに絶対必要な物を除いて、烏丸の頭達が役立てられそうな物を献上する。

ショバ代としてな」

 異議も無く全員が頷いた事を確認したギョウブは、数名を名指しして早速今夜から品の仕分けを始めるように指示を出す。

 さらに、一緒に部屋へ呼んだ女達に、自分が不在となる間は皆の世話をしながら変化に気を配り、特に子供等については少

しでも異常があれば報告するようにと念を押し、話を締めくくった。

 立ち上がり、皆の様子を見に行こうとする主の脇に控えながら、トライチはその横顔をこそっと盗み見る。

 ギョウブは変わった。変わらざるを得なかった。

 主君の仇討ちとして帝に牙を剥く事は、一時は考えたものの結局諦めた。

 帝との敵対を放棄する…。それは誇りと意地を深く傷つける結論だったが、大狸は「納得いかない」というその気持ちさえ

個人的感情と斬り捨て、飲み下した。

 担ぐ旗も無い上に、いかに精神的、心情的な理由を持ち出そうとも、神将十二家に護られたままの帝と再戦しては、勝ち目

は万に一つも無い。何も残せず全滅するのが目に見えている。

 それでも、後を追ってことごとく討ち死にしての忠義ではないのかと、死の誘惑と己の衝動が囁く中、亡き主君が今の自分

達を見たら何と言うか?と考えて導き出した答えがこれだった。

 血を残す事。

 それが、落人達の総大将となったギョウブが一ヶ月に及ぶ道程の中で辿り着いた答えにして、今後挑む事になる新たな闘い。

 自分達の世代は乾き、枯れて、干上がっていずれ消える。歴史の闇の中に蹲ったまま…。

 だが、生き残った幼子達や、これから生まれてくる赤子達には、遠くまで見通せる未来を用意してやる…。

 実現不可能な夢物語などではない。実現可能な現実の夢がそこにある。烏丸の力を借りれば、戸籍の偽造などで一般人の中

に子供らを紛れ込ませる事は十分可能だった。

 帝に牙を剥いた者達の子孫が、帝の世に紛れて生を謳歌する…。

 これはそれなりに痛快な反撃に思えたし、何よりも、表の社会へ出てゆく子供らが、自分達や帝、神将達との確執も思惑も

関係なく、自分の為の命を生きる事は、想像するだけで痛快だった。

 思い描いていた形とはかけ離れた物になってしまったが、それでもギョウブの、ライゾウの、主君の、そして里に生きた仲

間達の夢は消え去っていない。

 陽の光の射す場所へ、広い世界の中へ、子供らを送り出す事ができるかもしれないのだ。

 勝者が生き延びる。それは世界の摂理であろうが…。

 敗者が生きられないとは、言わせない。認めない。

 ギョウブの瞳がその覚悟を表面化するように、赤く光を帯びて輝く。

 これ以上知った顔を減らしたくない。何より、先立っていった者達を失望させたくない。

 そんな想いこそが、隻腕となり、掲げるべき旗を失ってなおギョウブを突き動かす原動力。

(お供致します。この身が土に還るまで…)

 主に寄り添いながら、トライチは胸の奥で低く呟いた。

 死ぬまで傍を離れないと、とうの昔に決めている。

 皆を護るのが隠神刑部。

 そして、隠神刑部を護るのは…。

 光量を落とした隠れ家の中、大きな影と細い影は、何処へ行くにも寄り添っている。



 そしてその夜。ギョウブは烏丸の母屋へ赴いたまま、朝まで戻らなかった。

 その長い話し合いで何がどれだけ決められたのかは、烏丸側、落人側の殆どの者が知らない。

 夜が明けた後には、総帥が回復したという噂が早速意図的に流され、それからまた一日が、表面上は何事もないように流れ

て…。



 ギョウブ達が屋敷に匿われてから丸二日が過ぎた朝。トライチは屋敷二階の広い廊下で、直立不動の姿勢を取っていた。

 大きなドアの脇で彫像のように動かない若者を、周囲に控える黒服達は怪訝そうな顔をしながら、ちらちらと窺っている。

 最初こそ、何処の誰とも判らないみすぼらしい身なりの大狸達を胡散臭いと感じていた黒服達だが、今では少しばかり認識

を改めていた。

 背筋を伸ばして主を待ち、その傍に控えるトライチを、最初こそ緊張でしゃちほこばる若造と見て内心軽く見ていた物だが、

少しずつ理解し始めた。

 その若者は、常に気配を殺している。止まっていても、歩いていても、目を閉じれば居るか居ないか判らない程のレベルで、

目を離せば存在が掴めなくなってしまうレベルで、その気配を空気に馴染ませ同化している。

 烏丸の精鋭…プロですら間近で気配を掴めない。そんな異質さもあって、トライチはもう誰にも軽く見られず、むしろ少し

ばかり薄気味悪く見られていた。

 一方、トライチが外に控えるドアの向こうでは、ギョウブが老紳士と向き合っていた。

 だが、部屋の中に居るのはふたりだけではない。

 老紳士の脇には、まだ小さな人間の女の子の姿。

 ギョウブの隣には、体が大きい熊の男の子の姿。

 祖父に呼ばれてこの部屋で一緒に客人を待っていたトモエは、興味津々といった様子で熊の子を見つめている。

 一方、ギョウブに連れて来られた熊の子は、不安げに首を縮めて隻腕の大狸に寄り添い、肉付きの良いその臀部に半ば身を

隠している。

 ギョウブに連れられてきたのは、フワフワした毛の、白い熊の子供だった。

 慣れない環境に不安を覚えているのか、体は大きいがおどおどしており、視線は終始動き回っていて落ち着きが見られない。

 高さもあるが、幅も厚みもある太った子供だった。体重はどれほどになるのか、ムックリした毛の分も含めてトモエの四倍

ほども体積がある。

 トモエはこの熊の子にいたく興味を引かれた。

 離れの「客人達」には許可なく会いに行ってはいけないと釘を刺されており、ギョウブとトライチを除けばどんな顔ぶれな

のかも判らない。

 客人達の責任者といえるギョウブを、改めて紹介するためにこうして呼ばれたらしい事は判るのだが…。

(だれなのかしら?)

 その席に招かれたこの熊の子は何なのだろうか?この大狸の子供なのだろうか?自分と同じくらいの歳だろうか?

 浮かんでは解決されないまま溜まる疑問。答えを求めて祖父を見上げるトモエ。

 老紳士はそれに微笑で応じ、ギョウブと熊の子に目を戻す。

「その子が…、「そう」なのかね?」

 ギョウブはこの問いに頷くと、「フウ」と熊の子に声をかけ、その背を押して前へ送り出す。

 おどおどしながら上目使いに見つめて来る男の子を見下ろし、老紳士は、「この子が「クマガイ」か…」と、感嘆を滲ませ

た声で呟く。

「代々白い毛並みなのかね?」

「いや、それが…」

 興味深そうに尋ねた老紳士に、しかしギョウブは返答に詰まり、すぐには言葉を返せない。

 一方で、女の子の方はついに我慢できなくなって、ととっと数歩前に出て、熊の子に話しかける。

「わたしトモエ。あなたのおなまえは?」

 しかし、熊の子はすっかりギョウブの後ろに隠れてしまい、狸特有の太い尻尾を抱きしめて顔を隠し、女の子と目を合わせ

ようともしない。

「フウ。この子は挨拶しとるんだぜ?」

 そう言ってギョウブが促すも、熊の子は顔を見せようとせず、大狸の背に隠れたまま動かない。

 それでも女の子はめげずに、ギョウブの上着の裾を握って震えている、熊の子のぽってりした手に触れた。

 熊の子がビクンと大きく震えた事にも構わず、トモエは「ねえ、あなたなんさい?」と話しかけ続ける。

 それでも反応を見せない熊の子をみやり、ギョウブはため息をついた。

「前々から気が弱い子供だったが、母親を目の前で喪って以降、このとおり…」

 ギョウブは声を潜めて老紳士に語る。その喪失感が潜む疲れ切ったような声に、老紳士は眉根を寄せた。

 だがここで、変化が見られなかった熊の子が、嫌がって腕を振り、女の子の手を乱暴に払う。

 気が弱いとはいえ体は大きく力も強い。「いたっ!」と声を上げて跳ね除けられた手を押さえた女の子は、思いのほか強く

払い過ぎてしまって驚き、ビクビクと反応を覗う熊の子と目をあわせて…、

「なにするの!よわむしのくせにらんぼうね!」

 一転して目を吊り上げて怒り、声を大きくした。

 これにビックリした熊の子が身を強張らせ、ギョウブの背中に顔を埋める形で隠れる。

「ごめんなさいもできないの!?おおきいくせに!なさけない!よわむし!」

 親が子を叱るような口調だが、これも所詮は真似事。女の子の言葉はそれほどボキャブラリーが多い訳でもなく、叱る言葉

は尽きてしまい、ただの悪口になった。

 不慣れで不安な場所に加え、見知らぬ女の子に怒鳴られ、熊の子はカタカタと震え出す。

 それを睨みつけていた女の子は…、

「くひゅっ…!」

 小さな、鼻を鳴らすような音に気付いて目を丸くする。

「ふっく…、きひゅっ…!」

 肩を震わせてすすり泣く熊の子。

 背中で泣かれるギョウブは困り顔である。

 自分が知る限り最も強く、最も立派だった男の息子がこの有様…。胸に抱く感情は情けないなどという単純な物ではない。

 女の子はこれに慌てる。優しくしたのに突っぱねられ、オドオドした態度が急に苛立ちの対象となって声を荒らげてしまっ

たが、まさか泣かせてしまうとは思わなかったので。

 ただ一人、老紳士だけが静かに微笑んで、成り行きを面白がっているように眺めている。

 やがてトモエは、しおらしく頭を下げた。

「…ごめんなさい。わたし、わるいこといったわ」

 トモエに謝られ、ギョウブの背から顔を浮かせて恐る恐る窺う熊の子。

 その臆病な様子に「しかたがないなぁ」というような気分になって、トモエは怒る気持ちも失せてしまう。

「でもあなたもわるいのよ?おあいこだから、ゆるしてね?」

 仲直りしよう、と手を差し伸べて握手を求めるトモエ。熊の子はその手と顔を何度も交互に見た末、おずおずと小さな手を

握った。

 大きな、しかし弱々しく遠慮がちな手に自分の手を包まれたトモエは、にっこり笑って握手したまま手を上下に振り、軽く

引いた。

 こっちへおいで、と促されている事を察した熊の子は、オドオドしながらも女の子に導かれるままギョウブの背から離れる。

 そうして、こちらを気にしながらもトモエに連れられ、菓子が用意してあるソファーセットへ向かう熊の子の視線に、頷く

事で応じたギョウブは、

「おやおや、占領されてしまったかな?」

 とおどけた様子で言った老紳士を見遣り、「済まないがこっちへ」と促される。

 そうしてついたのは小さな丸テーブルと椅子の二脚セット。主賓用の席は子供達に譲る形になった。

 もっとも、老紳士はギョウブに確認したい事ができたので、今は少し子供達と離れている方が何かとやりやすかった。

「勝手なイメージではあるが、あんなに大人しい子だとは思わなかったな…」

 椅子が小さくて尻が左右にはみ出るギョウブは、しばし身じろぎしていたが、結局正面向きで具合のいい座り方を模索する

のは諦め、尻の半分だけ乗せて斜に構え、太い尻尾を横から垂らして逃がす格好に落ち着くと、ようやく口を開いた。

「フウはあれでも濃い血を引いているぜ。赤銅色の毛は間違いなく先祖返りの賜物だったんだが…」

「赤銅色?」

 老紳士は視線をめぐらせ、体を硬くしてソファーに座ったまま、トモエにあれこれ話しかけられている熊の子を見遣る。

 その被毛は温かみに欠けた白。どこにも赤銅色と表現されるような色は見られなかった。

 正体を隠すために染めるか脱色するかしたのだろうか?と老紳士は考えたが、雪中行軍でもあるまいし、ここまでの逃避行

でわざわざ目立つ白色に偽装するのは不自然に思えた。何より、ギョウブの言葉が過去形だったのも気になる。

 目で促す老紳士に、大狸は声を潜めてポツリ、ポツリと、事の顛末を語り始める。

 里が滅ぼされた日、熊の子は火中で母親を助けようとしたが力及ばず、目の前で焼け焦げて行く様を目の当たりにした事。

 その折に、友人も含めて子供達の多くが犠牲になってしまい、これも熊の子の絶望を深めて、追い詰める結果となった事。

 その後、酷いショックから失語症となり、新たに生えてくる被毛からも色が失せ、生え変わった今では総白髪になった事。

 小さい頃から気が弱くて大人しい子供だったが、今では気が小さいという表現が生易しく感じるほど、病的なまで臆病になっ

てしまった事…。

「なるほど、それで…」

 老紳士は孫と熊の子を見遣る。

 最初こそ無口なだけだと思っていたトモエも、おかしいと思い始めたのか、熊の子をしげしげと見つめながら、名前を教え

てくれと繰り返し話しかけている。

「頼みというのはあの子の事だ、烏丸の頭…。ワシらでは手に負えん。努力はしたが一言も話しやせん…。今時分の医学は心

も直すって聞く。フウを何とかしちゃあ貰えんか?」

 ギョウブはそう述べてから、さらに言い難そうに続けた。

 フウには、神壊として生きる事はできない。

 しかし血が濃過ぎるので、万が一にも神代と出会ってしまったなら、正体を看破されてしまう恐れがある。

 もしもそうなったなら危険なのはフウだけではない。里の生き残りが居ると間違いなく確信されるだろう。

 他の子供達を日の下へ送り出せても、フウだけは難しい。そんな苦悩の中、ギョウブが出した結論は…。

「フウだけは、ここで匿い続けて貰えん物かと…」

 枯れてゆく逆神にもなれず、新時代の若葉にもなれない。ギョウブにとってのフウは、身の振り方が最も危うく心配な子供

だった。

 烏丸の総帥は一時黙り、

「まぁ、構わんかなそれは。そう大変なことでもなかろう」

 実に軽い調子で、悩む様子も考える様子も殆ど見せずにそう答えた。

 予想以上にあっさり快諾されて逆に鼻白むギョウブ。

「トモエも、父母が忙しくてなかなか帰って来られん上に、普通の子供のようにはいかん所があるからな…。遊び相手が屋敷

内にできるのは喜ばしい」

 老紳士は目を細め、柔和に微笑みながら子供達を眺め遣った。

「…恩に着るぜ…」

 肩の荷がひとつ降り、頭を下げたギョウブは、感謝の心を噛み締めて、しばらく黙り込んでいた。

(ライゾウ殿…。ご子息はちゃんと生き延びさせて見せる。富士の少し上から見守っててやってくれ…)



 そして一週間が過ぎ、落人達が腰を落ち着けてから十日目の夜…。

 控えめに調節された明かりの下、大狸は普段着にしている薄手の作務衣を脱ぎ、椅子の背もたれにばさりとかける。

 烏丸から与えられた新しい清潔な衣類は十日経たずに体に馴染んだが、居室にはまだ慣れられない。

 改築により倉庫内の空間は小分けにされ、増設された部屋は家族単位で与えられた。ギョウブもまた妻と娘と共に過ごす寝

室を与えられているが、それとは別に「仕事」などの打ち合わせに使う執務室として、この別室があてがわれている。

 なかなか慣れないのは、これまで縁がなかった洋室だったせい。ベッドもテーブルセットも応接用のソファーセットも不慣

れで、与えられた最新型のノートパソコンなどは、試しに電源を入れ、マニュアルを数ページ捲っただけで使うのを諦めた。

 だが、気に入っている部分もある。

 高い背もたれを持つ椅子などは、脱いだ衣類を乱雑にかけておくのに具合が良く、軋み音も立てないので。

 この部屋には今、ギョウブの他にトライチが音もなく控えていた。

 その手には、宵闇に溶け込む深い色の黒装束。

 上着を持つトライチの前で逞しく肥えた裸体を晒したギョウブは、烏丸の総帥に頼んで仕立て直して貰った、新たな戦装束

に袖を通す。

 着衣を手伝う若猫は、主の太い腰に帯を回し、右腕を上げた大狸の脇の下を身を屈めながら潜って前へ回り、太鼓腹の脇で

結ってしっかり締め上げた。

「いかがでしょう?」

「良い塩梅だぜ。軽さも、肌触りもな」

 問うトライチに、帯の辺りをポンと叩いて太鼓腹を揺らし、感触を確かめながら応じるギョウブ。

 この戦装束は、ボロボロになった以前の物を解体し、その素材を活かして作られた物。

 遺漏思念波吸着機能によるサーチジャマーを備え、編み込まれていた鵺の毛もそのまま流用されているのでアンチエナジー

コート能力も損なわれていない。

 烏丸の総帥が手配した仕立物は上々で、ギョウブに相応しい仕上がりになっていた。

 そしてトライチは、鍔を持たない白鞘の長ドスを恭しく両手に寝せて差し上げ、それを掴んだギョウブは無造作に左腰へ、

帯に挟む形で差し入れる。

 銘も無く、質の良い下駄の歯などに使用される朴の木材で柄と鞘を拵え、目釘を打って止めただけのそれは、しかし烏丸お

抱えの代々の刀工が一本一本丹念に仕上げた品の一振り。腕の良いヤクザ者でもやや手に余る長さと重さだが、ギョウブには

体格的にも腕力的にも丁度良い塩梅だった。

 銃の時代の訪れと共に出番を減らしていたものの、数多く現存し、今もなお作り続けられているそれらは、ギョウブをはじ

めとする落人達の戦闘要員に、総帥の厚意で一振りずつ、各々に合う品が与えられている。

 ギョウブが帯びる一刀は、大狸の好みと慣れた仕様に合わせてある。鞘と柄を手軽に取り替えられるよう白木のままで仕上

げられているのは、ギョウブ個人の思念波の質が木材と相性が良く、革や糸などよりも馴染ませ易いから。トライチが与えら

れた物は、ギョウブのあつらえに手を掛けられなかった分まで職人が気合を入れており、黒漆を塗った鮫皮を張った上に、黒

色の織紐をきつく巻いた柄と、黒く塗を厚塗りした上で艶を抑えた木鞘の組み合わせ。派手さはなく夜間戦闘で実用的だが、

見る者が見れば仕上げの出来に嘆息を禁じ得ない見事な細工だった。他の者もそれぞれのスタイルや好みに合わせて仕上げて

貰っているが、トライチ同様、いずれも美術品としても通用する、素朴さと雅さが同居する拵えになっている。

「初仕事だ。気を抜かんでかからんとな…」

 ドスの白木柄を軽く撫で、戦の支度を整えて呟いたギョウブに、トライチは軽く眉を上げる。

「本格的に動くのは久しぶりです。くれぐれも…」

「トライチ」

 若猫の言葉を遮り、ギョウブが口を開く。しかしその声は、トライチの前に居る大狸の口からではなく、別の方向から聞こ

えていた。

「ヌシは「誰に向かって」話しとる?えぇ?」

 ハッとするトライチと、すぅっと透けて消え去るギョウブの幻。

 若猫が振り返ったドアの前では、諧謔味を覗かせた笑みを口の端に乗せ、大狸がドアノブに手をかけていた。

 一体いつ入れ替わったのか、自分がいつから幻を見て話していたのか見当もつかない。ブランクを窺わせない主の、相変わ

らずの底知れなさ。

「失礼致しました」

 苦笑して慇懃に頭を下げたトライチは、しかし嬉しさと安堵から軽く立てた尾を振り、主の後ろについて部屋を出る。

 死ぬまでついてゆくと誓ったものの、その実、背中を追うのも一苦労だと、内心舌を巻きながら。



 かくして、ギョウブ達は動き始める。

 烏丸への恩義に報いるために。自分達のよすがを得るために。

 そうして暗躍し始めた、姿も見せず、正体も判らず、何人居るのか、あるいは単独なのかも判断がつかないこの殺し屋の事

を、この後短期間で壊滅する事になった敵対組織は、畏怖の念を抱いてこう呼んだ。

 「葬り屋」(はぶりや)と…。