幕間 「手紙」

 倅に肩を借りて歩く、顔の半面…目を失った左側をサラシで固めるように覆った熊親父の前を、車を運転してきたカワウソ

のお庭番がセカセカと小走りにゆく。

「開門!開門!御当主のお帰りです!」

 庭に停めた車から玄関口までの距離すらまどろっこしく、カワウソは甲高く声を飛ばす。

 足腰に来ている上に視界の半分を失ったユウキは、息子の肩を借りて歩きながら嘆息した。玄関の何と遠い事か。視界が減っ

て距離感も狂い、足もおぼつかないとなれば仕方ない。虚勢を張って元気に帰りたかったが…。

(老いては子に従え、か…。従うに値する息子に育ってくれるなら、目ん玉一つ程度惜しくないわい)

 口の端を上げて笑ったら、頬から左目にかけてドクドクと脈打つように痛んだが、ユウキは声も漏らさない。

 今日行なわれる事を聞いていた御庭番達が、ヤギを先頭に玄関口からまろび出る。

「ユウキ様!」

 歩み寄った山羊爺が、肩を貸す役をお庭番に変えようと目配せしたが、

「構わん。倅の肩を借りるというのも、存外具合が良いもんじゃ」

 熊親父はそう言って、肩を支える息子を見遣る。

 ユウヒは無言で顎を引き、玄関を見遣った。御庭番達の後から出てきたトナミは、歩み寄る夫と息子を迎えると、半面をサ

ラシで応急処置した亭主の顔をじっくりと見つめた。

「また男前が上がってしまいますね」

 開口一番、母が発した言葉でユウヒは面食らった。「ふたりで赴く御役目」という話だった以上、父の左目を潰したのは自

分だという事は、説明がなくても察しただろうに、最初の言葉がそれだった。そして…。

「うわはははっ!こりゃ照れるのぉ!」

 それに応じて、頭を掻きつつ本心から照れ笑いする父にも面食らった。

「ふたりとも疲れたでしょう?ユウキ様、傷の手当てをして貰って下さい。ユウヒは、食事の支度ができていますから、先に

食べてからゆっくり休みなさい」

 続いた言葉でユウヒはさらに度肝を抜かれた。母は肝が据わっていると知っていたはずだが、ここまでとは思っていなかっ

た。
しかしそもそも、トナミの覚悟はユウヒが想像している数段上を行っている。今日などは、夫か息子のどちらかを喪うか

もしれないと腹を括って待っていた。

 御庭番がほぼ皆集まっているが、ユウトの姿は無い。「最悪のケース」も考えて引っ込められているのだろう。

「という訳でじゃ。ユウヒ、おめぇは飯食って休め」

 ユウキは急に元気になってトナミの腰を抱くと、息子にはシッシッと追い払うように手を払って見せた。

 そうして当主と妻が屋敷内に入り、立ち尽くしたまま息子が取り残されると…。

「ユウヒ様、お手当てを」

 山羊の御庭番頭が進み出て、案内しようとする。

「いや。俺は何てもねぇがら、いい」

 ヤギの言葉に首を横に振ったユウヒは、まだ玄関に入ろうとしない。家の敷居が高く感じられて。そんな若い主君の気持ち

を察したのだろう、ヤギは「ではお食事を」と話を変えた。

「おふたりが空腹で戻るだろうからと、奥方様が鶏の炊き込み飯を用意しておられました。身を清めましたら松の間まで」

「わがった…」

 応じたユウヒは息を吸い直して玄関を越えた。



 丼に山盛りにされた鶏飯を、ガツガツと一心不乱に掻き込む若熊。

 食事をあてがわれた部屋にはユウヒの他にひとり、御庭番頭の山羊が居た。

 普段にも増して勢いがある若熊の食事を、湯飲みに茶を注ぎ足しながら傍で見守りながら、ヤギは無言である。直々に食事

の付き添いを買って出た事から、余人を交えないでするべき話があるのだろうとユウヒも察している。

「…ごちそうさまでした」

 手を合わせ、まだ不慣れな標準語を吐いたユウヒに、熱い茶をもう一杯注いでからヤギは口を開いた。

「此度の手合わせの事、ヤクモの事、お察しの事とは存じますが、この爺も把握しての振る舞いでございました」

 深々と頭を垂れる山羊。

 主の命だったとはいえ、まず口にすべきは黙っていた事への詫び。そういう性根の男だと知っているので、ユウヒは「いい」

と短く応じた。

「先に教えらいだら事が進まねがった。親父殿も爺も正しい。顔上げでけろ」

 既に承知し、必要だったと自分も理解に至ったと、若熊は落ち着き払って言った。無感動に何でも受け入れていた、以前の

落ち着きとは違う。把握し、受け止め、納得した上での落ち着きである。顔を上げたヤギは、雰囲気が変わって来た若熊の顔

を見つめた。

「御当主は、ひょっとしたら命を落とすやもしれないともおっしゃいました」

「…そが…」

 それだけ、自分を染め上げた獣は危険だったのだろうとユウヒは理解する。

「目玉一つは僥倖と言って良いとおっしゃいましたが、本心でございましょう」

 ユウヒは視線を下げて黙する。

 罪悪感はある。父の片目を自分が潰したのだから、当然である。だが、それと同時に責任を覚えている。

 奥羽の鬼神から片目を奪った自分には、支え、そして代わりとなる責務があるのだと…。いつかは当主を継ぐという、当た

り前に、しかし感じるところも無く考えていたこれまでとは違う。手で触れるような確かさをもって、ユウヒはこれを見据え

ている。

「ヤクモについてですが…、アレはしばし前から、ここを離れる道について御当主と相談しておりました」

「フレイア殿も一枚噛んでんだな?」

 ユウヒの声は責める調子ではなかった。むしろ、行き先について予想しており、これを肯定されるならば安心できるといっ

た具合の、一種の期待が宿っている。

「はい。以前フレイア様が持ち込まれました、術士の門下生募集に乗るという形になっております」

 護衛を依頼したフレイアから、ヤクモが無事に目的地に着いたという報を受け次第、ヤクモの名は御庭番の名簿から抜かれ

る。配置換えや休養ではなく、正式に籍を抜く格好で。

「どいなどごだがは知らねぇが…、ヤクモが暮らし易そうなどごが?」

「過ごし易いかどうかはともかく、アヤツから見れば興味と学びの宝庫でございましょう。術具造りの腕も存分に活かせるだ

けでなく、様々な他流の刺激も受けられますので」

「そが…」

 顎を引いたユウヒは、

「なら、安心だ…」

 ほんの少し目尻を下げて微笑んだ。

 ヤクモが嫌々行かされた訳でないならば、向かった先で充実した日々が送れるならば、不満に思う事は一つもない。ただ…。

「若。この爺めに、ヤクモが預けて行った物がございます」

「!」

 眉を上げたユウヒに、ヤギは作務衣の懐に手を入れて取り出した物を、両手で捧げ持ち恭しく差し出した。

「封書…」

 受け取ったユヒが太い指で茶封筒を裏返すと、ヤクモの筆跡で封の上から記された「雲」の一文字が目に入った。

「ヤクモより、ユウヒ様へ直接お渡しして欲しいと頼まれました。ユウキ様にもトナミ様にも、まだお教えしておりません」

 ヤクモ個人からユウヒ個人への手紙と認識し、ヤギはそのように処置した。この気遣いを有り難く感じ、ユウヒは軽く目を

閉じて「済まねぇ」と呟く。

「さて、食事の片付けはやらせます故、ユウヒ様はどうぞ自室へお戻りを。お怪我がないとはいえ、それはユウヒ様基準のお

話です。全身至る所に負った重度の打撲や関節と筋肉の酷使は、世間一般で言う所の「そこそこ重傷」に当たります。十分に

体を休めねばなりませんよ?」

「大袈裟な…。てぇしたごってねぇ」

 軽く顔を顰めたユウヒだったが…、

「ヤクモには、その体調で働けとは言いますまい?」

 ヤギにそう切り返されると流石に口をつぐんだ。

「ユウヒ様は神卸しの経験がまだ少のうございます、未だ副作用については把握しかねていらっしゃる所もございましょう。

爺の経験から申しますと、長時間使用の反動は短時間のソレとは別物にございます。ユウキ様の場合は、一晩の内に繰り返し

使用した裏帝の隠れ里の折、半日後に呼吸もままならないほどの激痛が全身を苛みました」

「…聞いだな、そいづは…」

「先代様は、牛鬼と一騎打ちした翌日から三日後まで、膝が笑って立てなかった上に、両手が震えて茶碗も箸も持てない有様

でございました」

「…そいづも聞いだな…」

「対策としましては、体を脱力して休ませ、回復に務めさせる事です。柚子と蜂蜜の薬湯を部屋にお持ちしておきますので、

なるべくゆっくりとお休み下さ御父上は明日の夕刻まで起きないつもりでいる、とおっしゃっておりましたので、それを目安

にするのもよろしいでしょう」

「判った。そうする」

 素直に助言を受け入れたユウヒは、

「それと、最後に一つ…」

 腰を上げようとしたところでヤギの声を受け、老人の顔を見遣る。

「ヤクモの事、大切にして頂きまして有り難うございました」

「………」

 返答に詰まったユウヒに、ヤギは目尻を下げて続ける。

「御庭番として、なすべき事も戦い方も仕事も我々が教えられますが、家族や友人としての時間を与えられるのは、貴方だけ

でした。結果的に村を離れる事にはなりましたが、少なくとも、両親を失った後もアヤツが孤独でなかったのは、ユウヒ様の

お陰です」

「…だったら…、良いな…」

 ぼそりと応じるユウヒは思い返していた。「こちらこそ」というヤツなのだろうなと。

 ヤクモが居たから、自分は真の孤立を知らなかった。ヤクモが居たから、自分は本当の意味でひとから外れなかった。ヤク

モが居たから、喪失によって物の大切さを悟る機会を得た。

 ヤクモが、居たから…。



 しばし経って、自室に戻り、卓の中央に空になった封筒をそっと置いた若熊は、取り出した手紙を眼前に持ち上げた。

 墨の匂い。ヤクモの普段着から香っていた匂い…。

 畳まれた手紙を広げる前に、ユウヒはその白い表面を親指の腹でそっと撫でる。

 恨み事や文句が書いてあったとしても受け止める。例えそうだったとしても、残された手紙が愛おしい事は変わらない。

 畳んだままの手紙をしばし見つめた後で、ユウヒは若干の緊張を感じながらそっと広げてみる。

 目に飛び込んだのは、筆で書かれた見慣れた文字。間違いないヤクモの文字…。

 ユウヒ自身は皆から力強いと褒められる筆跡をしているが、ヤクモのそれには文化人の流麗さが滲む。この筆跡がユウヒは

好きだった。本人には言った事がなかったかもしれないと、今更になって悔やんだ。

 内容を読み取る前に全体を眺めた後、ユウヒは手紙の書き出しに目を向けた。


 直接お話できなかった私の非礼と度胸の無さを、どうかお許し下さい。

 最後にお詫びを申し上げたく、いま筆を取っています。

 まずは、喉の件。言えませんでしたが、勇羆様を恨んでなどおりません。あれは事故で、勇羆様のせいではありません。

 霧雲兄さんの事についても、止むを得ない事情と状況だったのだと今では理解できました。

 私が村を出るのは、決して、勇羆様に落ち度があったからではありません。私自身が御庭番としても不適格で、屋敷に置い

て頂いてもためにならないと判断したからなのです。

 私は過ちを犯しました。

 自分の事を想ってくださっていた、気遣ってくださっていた、主家を疑いました。

 私は考えてしまいました。職務に殉じたと聞いていた霧雲兄さんが、実際には処断されていたのなら、同じように立派に殉

じたと聞いていた私の両親はどうだったのか?と…。

 考えた私は勇羆様を疑いました。そして、熊鬼様までも、御庭番の皆も、同じように疑ったのです。私の両親は誰に殺され

たのだ?と…。

 恥ずべき疑心です。私は、私自身を気遣っての嘘を見誤り、疑ってはならないものを疑ってしまいました。

 私にはもう、勇羆様のお傍に仕える資格はありません。神代家に、直轄領に、殉じる資格がありません。私自身が、それを

許せません。

 此度、熊鬼様にお願いして、長いお暇を頂く事になりました。御庭番からも除籍させて頂きます。いつかこの国に戻る事が

あったとしても、御庭番として河祖下に戻る事はないでしょう。

 けれど私は、いつまでも変わらずに河祖郡を故郷と思い、いつまでも変わらずに勇羆様を主君と仰いでおります。


 最後に一つだけ、お願いがございます。

 奥方様には申し上げましたが、ヘチマの花壇をそのままユウト様にお譲りする事にしました。できれば、ユウト様がおひと

りで世話をできるようになるまでは、見守ってその手を取ってあげて下さい。


「………」

 カサリと、手紙が鳴いた。

「最後の…、最後まで…!」

 ユウヒの声が掠れる。手が震えて手紙が揺れる。

 落ち度は無いと、自分のせいだと、ヤクモは最後の言葉を残して行った。それを彼の本心だと感じたからこそ、ユウヒの手

は震えていた。

 自分は赦して貰えた。手紙で赦してくれた。

 だがヤクモは…、赦しの言葉を聞かずに去った少年は…、罪の意識を抱えたまま…。

 目に馴染んだ文字の上に、ポタリと滴が落ちる。

 歯を食い縛り、きつく目を瞑り、声を漏らさず、ユウヒは泣いた。

 主従でなくてよかったのだ。友として傍に居てくれるだけでよかったのだ。言えなかったが、本当はずっとそう思っていた。

 そして自分は最後の最後も告げられなかった。伝えたかった言葉を手元に残してしまった。

 たったひとりの大切な親友に、かけるべき言葉をかけられなかった事が、悔しくて、悔しくて、悔しくて…、哀しかった。

 それでなお、ヤクモはユウトと上手く接する事ができないユウヒを慮って、あんな事まで書き記していた。本当に、最後の

最後まで…。

 ヤギから話を聞かされた時に思った。ヤクモが嫌々行かされた訳でないならば、向かった先で充実した日々が送れるならば、

不満に思う事は一つもない、と。ただ…。

「………っ!」

 ただ、寂しくはある。哀しくはある。泣きたくもある。

 その感情を素直に受け止められるようになった事に、ユウヒは少しばかり驚いてもいる。

 思えば意地っ張りだった自分。何も考えずに状況を受け入れていた自分。本当は立派でなどなかった自分…。

 ヤクモが居なくなって、ユウヒはやっと自分を見つめられた。




「いや、死ぬかと思ったわい。「あんびりいばぶる」じゃ」

 傷の手当てを受けて包帯を巻き直されたユウキは、顔の左側を手で軽く擦った。

 既に半面が腫れ上がって、包帯の上からでも左右で輪郭が違うのがはっきり判る有様だった。

「強ぇのぉ、ウチの倅は」

「そうですか」

 床を敷いた寝室の中央。胡坐をかいたユウキと正対して座るトナミは、腫れた夫の頬にそっと触れる。

「しかしアレじゃな、傷口を晒しては客が不快に思うやもしれんし、見栄えが悪いとユウヒも気にするじゃろう。洒落た眼帯

でも拵えるとするか」

「刀の鍔のようなアレですか?」

「それも伊達じゃのぉ。しかしアレじゃ、「ばいきんぐ」?あんな眼帯もクドさが無くて洒落とる」

「何にしても、貴方ならきっとお似合いでしょうねぇ。うふふ」

「そうじゃろうな、ぬふふ」

 口では前向きな事を言いながら、しかし本心では当然堪えている。そんな気丈な妻に付き合って、ユウキも極力明るい口調

で応じる。そうしてひとしきり話した後…。

「…正解とは、言えん…」

 自嘲を込めた苦笑いを浮かべ、低めた声でユウキは零した。

「他にもっと手はあったんじゃろう。…正解を選ぶどころか、思いつく事もできんかったが…」

 正しい道は他にあった。ヤクモが残る道もきっとあった。そう、ユウキは思いたい。

 結果的にこうなってしまいはしたが、ユウヒとヤクモが「こうなるしかなかった」とは思いたくない。環境が、あるいは自

分達大人が、そうしてやる事ができなかっただけなのだと思わなければ、ふたりが不憫過ぎるというのがユウキの本心だった。

「そうかもしれません。ですが…」

 パンパンに腫れ上がった夫の左頬を撫で、残った右眼を覗き込みながら、婦人は目を細めた。

「貴方はやれる事をやったのだと、妻は思っていますよ?」

「………」

 返す言葉もなく、ユウキは目を細くする。誰からの慰めも受けたくはないが、妻からならばまぁ仕方がないか、と…。



 結局ユウキは顔どころか首の付け根まで腫れ上がり、一週間はまともに物を噛めない有様になった。

 治療の甲斐あって他は何ともなかったが、左目はやはり薬師神でも修復不可能。片目を失明した事で距離感も視界も変わる

ので、しばらくはリハビリに専念する必要がある。
その間の御役目については、当主代理としてユウヒを据える事とし、補佐

としてヤギと、河祖中のシバイを当てる体制にした。

 ヤクモが抜けた戦力の穴は、実際のところ少年自身が感じていたように問題なかった。問題になったのはユウトの世話だっ

たが、前線に出られない間はユウキが引き受けられる。

 そうして、殆ど滞りなく日常は回り出す。少年が居ても居なくとも変わらず。ただ、そこに生きる者達の心にだけ、ぽっか

りと控えめな空白を残して…。



 湿った手すりを握りながら、秋田犬の少年は霧が立ち込める海上を眺める。

 ミルクのような霧は、船の舳先や手すりを避けるように流れているのが見えるほどの濃さ。ヤクモの被毛もしっとり湿り気

を帯びている。

 霧中の海に入ってから一日半、島影も無ければ他の船も見えない。ウミネコのような鳥の声が聞こえているのだが、一度も

姿を見ていない。太陽と月が霧の向こうに輪郭を晒すので、方角と昼夜だけは判るのだが、どうにも違和感がある。

 潮の匂いが無い。いつからか並飛沫が海水ではなくなっている。

「不思議だよね…」

 大柄な秋田犬の隣で、同じく手すりを握る赤髪の少年が呟いた。

「気脈の流れも無いんだ…。海の真ん中でも、丸一日近くどんな気脈も跨がないなんて…」

 風水を学んだジョバンニは、星を巡るエネルギーの流れを読み取る事ができる。

 生物や殆どの物は「気」を帯びており、星もまた例外ではない。帯びた気が循環する道筋は何にでもあり、星のソレは大地

や大海をも巡っている。…というのが風水組合の学説。事実、この星には毛細血管のように細かな気の道が張り巡らされてお

り、風水組合はこの気脈を活用する事で様々な益を得て分配する。

「気脈が無いのは、空とか…という話でしたっけ?」

 気脈は皮下血管のようなもので、地下や水面下は通っているが空中には通っていない。という説明を聞いていたヤクモは、

ジョバンニに確認する。

「そう。「仙人」だったら、遠くの気脈を感知してこの空白の理由を推察したり、あるいは空白そのものを把握もできるんだ

ろうけど…」

 そう応じて、ジョバンニは眉を八の字にした。

「未熟だから無理…」

「判るだけ凄いです。私は全然感知できませんから」

 日本を発って今日で二週間余り。歳が同じという事もあり、ヤクモとジョバンニはそれなりに打ち解けて態度も軟化してい

る。故郷を出た経緯もあって塞ぎこみがちだったヤクモは、繊細なジョバンニの気遣いと押し付けがましくない程度のコミュ

ニケーションで、少し元気を取り戻していた。

 臆病で小心、しかし寂しがりなジョバンニは、ヤクモと気が合った。相性が良かったとも言える。

 ヤクモにとっては、ジョバンニは良い意味で緊張を解いてくれた存在である。同門生は腕利きの術士ばかりだろうと身構え

ていたところ、自分と同じように実戦能力よりも知識や技術を買われて候補者になった同い年の少年と出会えたので、扱える

術の強力さばかりが重要視されている訳ではないのだと実感できた。

 とはいえ、アグリッパと兄弟子に馴染み難いという事もない。

 「オズの魔法使い」代表格であるはずのアグリッパは、研究者にありがちな気難しい性格でもなく、権力者にありがちな偉

ぶったところもなく、むしろノンビリした気質の好々爺。やや浮世離れした部分はあるのだが、それも経歴を考えれば当たり

前の事で、むしろ総合的に見て常識人寄りと言える。

 兄弟子にあたるゲンエイは、一門の若手の中で最有力の期待株であり、若くしてアグリッパの助手まで務める才人らしいの

だが、こちらもそういった所を鼻にかけるでも自慢するでもない。やや空気が読めなくて芝居がかったお喋りに困惑させられ

たりもするが…。

 そして、ヤクモがこの旅を不安なく送れた最大の理由は、見知った相手がずっと同行してきてくれたからである。

 カツンカツンと甲板に響く足音が聞こえて、少年達は振り向く。目に入ったのは金色の髪が目を引く女性。

「やあ。おふたりさん、やっぱりここに居たね?」

 歩み寄ったフレイアは、「ランチの時間終わっちゃうから、話が済んだら食べてくるように」とウインクする。『え?』と

声を揃えたふたりは、揃って時間の感覚がおかしくなっていた。

「調子狂うのも無理ないか。私も初めてだよこんなレベルの「秘境」。磁界が存在しない海。位置情報と一致しない座標。物

質の食料を必要としない生き物…。船乗りの伝承にあるような帰らずの海って、こういう所に迷い込んだ結果だったのかもね」

 フレイアは霧の向こうに目を凝らす。一瞬だけ鳥の影にも似た物が見えた。ヤクモ達にははっきり視認できなかったが…。

(ニブルとも違う、普通の霧なんだろうけど…、中に住んでる生き物は普通じゃない。…っていうか、アレが普通に居る場所

なんて…。あ~…、普通の定義がおかしくなるわコレ…)

「北原よりも、ですか?」

 そんなジョバンニの問いに、フレイアは「それはもう」と応じる。

「結局の所、北原は「物理的に地続き」だからね。存在座標が違う秘境とはまた別だよ。…だから性質が悪いとも言えるんだ

けどねぇ…。ヤバいモノとかが簡単に越境できちゃう」

 そういえばフレイアは最初、日本まで「そういうもの」を追って来たのだったと、ヤクモは思い出す。

「そうそう。あと六時間程度で到着らしいよ。私もOZは初めてだからちょっと楽しみ!もっとも、中には入れないけど…」



 それから六時間後、フレイアの言葉通りに船は霧の海を抜けた。

「………」

「??????」

 絶句するヤクモと顔中疑問符だらけのジョバンニは、船の行く手を呆然と見ていた。

 夜が、そこにあった。

 星々が瞬き、月が輝く夜空。それを背にして宙に浮いているのは、無数の巨大な岩。夜空を漂う三百は下らない数の岩は大

小様々で、5メートル四方の物から、直径1キロメートルはあろうかというテーブル状の物まである。

 数え切れないほどあるその一つ一つの上には、それぞれに建造物などが見えた。中世の城などにも似た巨大な洋館が建つ岩。

屋根が尖った無数の塔が生えた岩。やはり中世の物に近い家屋の類が身を寄せ合うトレイのような広い岩。

 岩によってはその上に緑と湖を乗せている物もある。端から滝となって水が落ちて行く様は、遠近感とスケール感がおかし

くなってミニチュアのように見えるものの、幅30メートルを超えて大瀑布と呼べる規模。

 近い岩同士は吊り橋などで結ばれているが、離れた岩と岩の間には行き来する小船が見える。舳先にランタンを掲げた小船

類は、何もない空を静々と進んでいる。物によっては水平を保ったまま、垂直に近い角度で岩と岩の間をエレベーターのよう

に運行していた。

 光源は月と星々、建物の窓明かりや街路灯だけなのだが、暗くはない。光に頼らず視線がよく通り、昼間と変わらず物が見

え、日向のように陰影がある。

 一行が乗る船もまた、海の上をゆくように虚空を進む。大地がない常夜の世界を、海が消えた宙を、船の上から眺める少年

達。その後ろではフレイアも「話に聞いて想像してた以上だよ、これ…。何?異次元?」と唸っていた。

「ど、どうなってるんですかこれ…?」

 ヤクモが掠れ声を漏らして船の手すりごしに下を見る。海どころか底が無い。何も無い。晴れた夜空を見上げるのと同じよ

うに、どこまでも星空が広がっている。

「永遠の広がりに見えるがの、実際には「閉じて」おるから心配無用じゃ」

 少年達の反応を面白がっている様子で、アグリッパが顎鬚をしごく。

「前後左右上下で空間が繋がり、ループしておる。万が一落っこちたとしても、水の中を沈むようにゆ~ったり落下するだけ、

そして見えなくなるほど落ちた下は「上に繋がっとる」。延々とゆ~っくり落下を繰り返す事になるからのぉ、その内に、自

律運行しとる渡し船のどれかが拾いに来てくれるわい」

「まあそもそも浮遊岩の周辺にはそれぞれの重力圏がありますから、だいたいの場合は足を踏み外しても側面にくっつきます。

何にしても見た目ほど危なくはありません。移動には橋か船を使いますが、コツについては後でお話しましょう」

 大気が通常の性質を持ち、重力がまともな強さで働いているのは、岩や船の周辺などだけ。その他は水のように粘度が高い

大気と、通常の十分の一以下で重力が働く領域、「星の海」となる。

「面食らったじゃろう?そうそう、来訪者のその顔を見るのが楽しみなんじゃ」

「御伽噺の国か、神話の光景にも思えるでしょうが、ここが今日から暮らす場所になりますからね。ようこそ常夜の国、「研

究都市OZ」へ!」

 ニンマリ笑ったアグリッパに続いて補足したゲンエイは、「おや?」と少し離れた位置の手すりを見遣った。

「珍しい。一匹ついてきていますね」

 少年達は兄弟子の視線を追ってソレを見た。先に霧の中でフレイアだけは確認していた、ミャウミャウ鳴いていた声の主を。

「ひっ!?」

 驚いたジョバンニが反射的に飛び退き、ムギュッとヤクモの太い体に抱き着く。

「ああ心配いりませんよ、生き物は襲いません。霧中の微粒子を食べる連中なので無害です無害。ま、特に益ももたらしませ

んがね」

 ゲンエイがそう評したのは、手すりに乗っている小さな生き物。

「…翼猫(よくびょう)…、ですか?」

 ジョバンニを受け止める格好になったヤクモは、何度も瞬きした。視線の先で手すりにチョコンと座っているのは、翼が生

えた真珠色の猫だった。

「おや、こやつらの事を知っておったかね?」

「実際に見るのは初めてです。「そういう生き物も居る」と、教わっただけで…」

「翼猫…?これが…?」

 ジョバンニも名前は知っていたようで、恐る恐る様子を窺う。フレイアは何処かで見た事があるようで、やっぱり、という

ような顔をしていた。

「…本当だ。スケッチで見たままの格好…」

 翼を畳んだ翼猫は、背中に蓑でも背負った猫に見える。が、小ぶりなその翼の機能は本物で、自身に限定した重力制御で軽

やかに宙を飛ぶ。道中の霧の中、好奇心から船を遠巻きにして飛び周り、ミャウミャウ鳴いていたのはこの猫達である。

 ミャウ~ン、と鳴いて暢気に翼の毛繕いを始めた翼猫の様子を見て、驚いたのが馬鹿馬鹿しくなって思わず笑ってしまった

ジョバンニは…、

「あ!ご、ごめん!」

 その時点で自分が秋田犬のふくよかな腹に抱き着いている事に気付き、慌てて離れて謝った。遅ればせながらヤクモも少し

恥ずかしく感じて「う、ううん…」と曖昧に首を振る。

「何処のイマジナリーストラクチャーもそうですが、生態系が「外」とは違いますからね。OZから滅多に出ない術士などに

とっては、むしろ外界の生き物の方が物珍しいぐらいなんですよ。牛とか豚が居ませんからねここ。牛肉も豚肉も非常に貴重

なんですよ?ああ、山羊や羊には外と同じ種類のヤツも居ますので、肉食の場合でも心配要りません。鳥は…結構違う感じが

しますが、まぁ食べてさほどの差は感じません」

 兄弟子の話の内容は、これまでと同様に少年達には少しばかり難しかった。そもそもヤクモは度々聞くイマジナリーストラ

クチャーという物が何なのかもまだ知らないのだから、まずは用語を覚えるのが先決である。

「ところでヤクモ、体つきを見るに、君は食べる事が好きそうじゃと感じたが…、どうじゃ?」

「え?」

 急にアグリッパから話を振られたヤクモは「それは、嫌いではないです。勿論…」と、確認の意図を読めないまま頷く。

「それは結構。実はここ十数年、OZでは栄養が簡単に摂取できる錠剤や薬品が流行っておってのぉ…。外界で言うサプリメ

ントのような物じゃが、アレに頼りきりになる術士が増えておる。まぁ時間を取らず手間暇かけず栄養補給というのは、忙し

い時には便利じゃろうが…。しかしこれが問題じゃ。完璧ではないが「本当に完全に栄養を賄えてしまう」品々じゃから、頼

り切っても害がなく、本当に普通の食事をしなくなってしまう者までおり、嘆かわしい事に、食事は研究中に空いた片手で済

ますのが主流になりつつある。ワタシの門下生らにはなるべく普通に食事を摂る事を奨めておるんじゃが…」

「え?「完全に栄養を賄うのに完璧じゃない」…ですか?」

 思わず聞き返したヤクモに、アグリッパは「全くもってソコなんじゃ」と頷いた。

「栄養は問題なく賄える。が、どれもこれもほぼ無味無臭なんじゃ。あえて言うなら水より味がせんポーションや、澱粉の塊

より味気ない錠剤とかじゃな」

 なるほどそれは完璧ではないな、とヤクモもジョバンニも納得する。

「手間はかからんが、あれでは食事が「栄養補給作業」になってしまう。楽しいはずの食事が、死なぬために摂るだけの物に

なってしまうのは嘆かわしい。食事は糧であると同時に癒しであり刺激でもあるんじゃ」

 真っ白な顎髭を撫でながらふるわれる熱弁でヤクモは納得した。ひとの事をどうこう言えた物ではないが、老人の丸く出っ

張った腹を改めて見ながら。

「ともかく、君らが募集に応じた最後の門下生。他はもう到着しておるから、着いて挨拶が終わったら早速新門下生の歓迎会

じゃ。遠慮せずジャンジャン食べてくれい。…ゲンエイや、確認しておらんかったが、店の予約は大丈夫じゃったかのう?」

「心配には及びません先生。先ほどメイディ先輩に予定通りの到着になる事をお伝えした時、星詠みの気紛れ亭の最上層を貸

し切り予約したそうです」

「ふんむ!喜べヤクモ!羊料理が絶品の店じゃ!特にスジ肉の壷煮込みがエール酒とよく合う!」

「いえ、あの、私はお酒はまだ…」

「僕も…」

 未成年の少年達に、ゲンエイは「ジュースやティー類も充実していますから心配要りませんとも」と補足し、そのまま浮遊

する岩を指さして説明に入った。

「食事処や酒場も、外界とは食材からメニューから色々違いますけどね。ちなみに食事できる店が集まっているのは行く手や

や右側の大きな浮遊岩…あの赤い煉瓦の街並みの辺りです。そしてあそこの奥、青屋根の高い塔がそびえる城壁つきの浮遊岩

が我々アグリッパ一門の研究棟兼大工房、その隣のテーブルのような岩に建物が密集しているところが、術具や素材を取り扱

う楡の木商店街。青い屋根の城はブルーマークアカデメイア。ブルーマーク…つまりまだどの門下にも入っていない子供達が

基礎を学ぶ学校です。滝が見える岩は公園で…」

 ヤクモは不思議な猫から夜空に浮かぶ都市に目を戻し、ゲンエイの説明を聞きながら唾を飲み込む。

(本当に、「違う」場所なんだ…)

 イマジナリーストラクチャー、研究都市「OZ」。太古から受け継がれた真祖の術が息衝く秘境。存在しないはずの座標。

 砦のような城壁を備えた、大岩に設けられたドッグへと、一行を乗せた船はゆっくり入って行った。




 同日。ある国のあるホテルの一室で、ローブのフードを目深に下ろしている、燃えるように赤い髪の男は、備え付けのチェ

アに腰を下ろして手紙に目を通していた。

 白紙に見えるが、そこには特殊な処理が施されたインクで報告が綴ってある。

 差出人は風水組合…ホンコンに本部を持つ、地質学者のような術士集団の組合。表向きにも風水で生計を立てる体を装う彼

らは、表の世界に最も密着した術士の一派と言えた。

 それだけに、彼らの後ろ盾は信用される。

(だいぶ貢がされたが、契約通り、ジョバンニの身元保証をしてくれたか)

 手紙にはこう記してあった。「ジョバンニ・バルファーは、アグリッパへの師事を認められて門下生となり、引き取られて

OZへ向かった。身元については他界した術士の両親から引き取られた孤児であるとした」と。

 頭から数度読み返した手紙を畳むと、ヤノシュはそれを大事そうに懐へ仕舞う。

(お前は真っ当な術士になれ。むしろ、お前は無道の士に向かない。くれぐれも、俺のようにはなるなよ…)

 両親が他界してから十五年。赤子だった弟を育てるため、非合法の仕事を請け負ってきた。

 ヤノシュ達の高祖父母はOZを出奔した真祖の術士だった。素性を知れば利用しようとする者も多い。無力な子供など格好

の餌食になる。だからヤノシュは、守護者たる両親が死んだ時に決めた。受け継がれた真祖由来の術を用い、道を踏み外して

でも弟を護り、羽ばたかせると。

 術士として、術の行使能力はヤノシュの方が格段に上である。だが、弟には術への探究心があった。学者肌で探究心旺盛…、

それならば、自分達のルーツである研究都市へ帰って生きるべきだろうと、兄は弟の未来を夢見た。

 その夢はやっと叶い、弟は先祖が暮らしたOZへ向かうことができた。だから、弟とはもう関わらない。潔白の術士として

生きてゆく弟に、穢れた兄など要らない。連絡を断ち、関係を断ち、二度と会わない。

 だが、弟が巣立って、風水組合に多額の寄付をする必要がなくなっても、ヤノシュには足を洗うつもりはない。自分にはも

うこの生き方しかできないのだと知っている。

(さて、特にするべき事もなくなったか…。厄介になった借りもある、しばらくはエルダーバスティオンに義理立てするとし

て、その後はどうするか…)

 弟が安全な場所へ移ると決まり、安堵しながら今後の身の振り方を考え始めるヤノシュだったが、しかし知らない事は当然

ある。

 契約満了に至らなかった相手…キリグモとの契約に挙げられていた少年が、まさか自分の弟と同期の同門生になり、親しく

なっていようとは、さすがのヤノシュも想像すらしていなかった。




 そして、年が暮れ、明ける。




 こんもりと雪が積もり、山々の輪郭も丸みを帯びた一月半ば。

 小さな火鉢の上に乗せられた網の上で、炙られたスルメが、チリチリと音を立てる。肴の具合を目でも楽しみながら、熊親

父は熱燗をチビリと啜った。

「だいぶ慣れたのぉ」

 左目に装着した黒革の眼帯を、太い指でコツコツ叩いたユウキに、「結局図案はまだ決まらないんですか」と、酌をするト

ナミが応じる。

「う~ん、このままでもええか…。これはこれで悪くないわい」

 後からでも黒革に焼印で紋などを入れられるという事だったのだが、決めかねている内に年を越してしまった。無地もまぁ

悪くはないなと、ユウキは手鏡を取って左目を確認する。

 最初は異物感があって、特に紐が随分気になったのだが、最近やっと慣れてきた。

「雪は止んだかのぉ?」

「ずいぶん小降りになったようです。もう止むだろうと、ユウヒも言っていましたねぇ」

 焼けたスルメを小さなまな板に上げ、包丁で切れ目を入れながら応じた妻は、「ユウトを行き遊びさせると言っていました」

と付け加えた。

「あっちも、だいぶ慣れたのぉ」

「ええ。ユウヒ、あれから少し変わりましたからねぇ…。張り詰めた感がある静かさじゃなく、落ち着きのある静かさと、穏

やかさを感じます」

「孫は祖父に似易いと聞くが、あいつもいつかあんな風に…。おっとそういえばじゃ。「親父殿」から連絡来てねぇかのぉ?」

 夫が思い出した様子で話題を変えると、婦人は「お義父様からですか?いいえ、来ていませんよぉ」と小首を傾げる。

「連絡を取ってらっしゃったんですか?」

「うむ。はて、そろそろ手紙が届く頃と思うんじゃが…」

 そんな話を両親が交わしているその頃、屋敷の庭では…。


「ゆぎー」

 幼い金色の熊は、逞しい腕に抱かれたまま、垣根の上にこんもり積もった雪に手を伸ばしていた。

「んだ、雪」

 雪を掬い取ろうとする妹を垣根に寄せてやるユウヒの足元で、厚く積もった深雪がギュギュッと音を立てた。

 手袋を嵌めたぽってりした手が柔らかい雪を掬い、握ろうとして端から逃げられる。ムー、と唸った小熊に、巨熊は「ゆっ

くりだど。ゆっくり握ってみろ」と優しく教える。

「ゆっくぃ?」

「ああ。こいなぐしてな…」

 自ら手を伸ばし、そっと掬ってゆっくりと、軽く握る。その手の上にできた雪の塊を見て、モッ!と声を発したユウトは、

兄を真似てそっと雪を握ってみた。

「あにちゃ!ゆぎ!」

 やはり手の端からかなり零れ落ちたが、一握りの塊ができた手を兄に見せて、ユウトは嬉しそうに笑う。雪の塊をもてあそ

ぶ妹を抱えたユウヒは目を細めて笑い返し、そのまま庭の散歩を続ける。

 庭木の支えにしている竹に乗った丸い雪。牡丹の葉に積もった小さな塊。妹が凍えない程度に冬景色を見せてやりながら、

ユウヒはやがて庭の一角で足を止めた。

 真っ白に綿帽子を被った離れ。かつて術士用の工房だった建物。いつもヤクモが居た場所…。

 結局、ユウキは術士の人員補充はしないと決めた。工房の中に保管されていた品のうち、重要な物は他家の御庭番に属する

術士達へ分配して処分し、ヤクモ個人の財にしてよい物については、放出しても問題ない品はそのまま送り、それ以外の物は

換金して彼の口座に入れた。

 研究都市に居る間は外界の通貨など必要ないだろうが、いつかまた外に出た時には充分役立つ額である。ヤクモが術士とし

ての立身を望まないのなら、外界に戻っても一生働かずに暮らせるだけの金額…。これにはユウキが色をつけた退職金も含ま

れている。

 私物を含めて、ヤクモは殆どの品をユウキに託した。その手で持ち出した術具は両親が作った巻物二巻と、キリグモの手に

よる一巻、そして術具制作用の固形墨などが鞄一つに収まる程度だけ。自らの手で作った巻物も、使ってきた道具類も、全て

熊親父に処理方法を任せた。

 ただ、生活用品すら持たなかったヤクモも、自室に飾っていた掛け軸だけは持って行った。

 「八雲立つ」。自分が生まれた折にユウキが書いて贈った、あの掛け軸だけは…。

 佇んだまま、赤銅色の巨熊はしばらく工房を見つめていた。

 元気にやっているだろうかと、そろそろ新しい環境にも慣れて落ち着いただろうかと、居なくなった友を思う。抱かれてい

るユウトは中に入った事がないので、ここが何なのかは判らない。少し不思議そうに、佇むユウヒの顔と雪が積もった工房を

見比べている。

 ヤクモが村を出てしばらくの間、ユウトは秋田犬の姿を求めた。だが、次第に探し回る事がなくなり、いつからか名も呼ば

なくなった。

 大きくなる頃には、妹はヤクモの事を覚えていないのだろう。そう思うとユウヒは無性に寂しくなって、胸が苦しくなる。

 ユウトに話をしようと思う。妹に教えておこうと思う。

 自分が幼い頃の写真を見たユウトは、兄と一緒に写った秋田犬が誰なのか、きっと気になるだろう。覚えていなくとも無理

はない。だが知っておいて欲しい。兄に大切な友が居た事を、自分をあやしてくれた秋田犬が居た事を。

「ユウト。表門の方さも行ぐが」

「いぐ!」

 幼い妹を抱いて、巨熊は雪を踏み締めて工房を後にする。

 こうして、神代勇羆の少年期は終わった。

 友からの最後の手紙とともに、そっと文机にしまって…。



















































 ゴヅン…。ゴヅン…。

 雪雲が分厚く溜まった、夕刻近付く曇天の空。雪が掃き出されて剥き出しになった、凍り付く石段に音が反響する。

 交通の便で言えば首都からほど近い、しかし山野渓谷がそのまま残された、栃樹の山間。丸一昼夜降った粉雪は、深山幽谷

に薄化粧を強いた。

 そんな景色の中、山肌を覆った白にはジグザグに一本の線が走っている。それは、急峻な斜面を折り返しながら這う、長い

長い石段。反響する音の出どころはその上だった。

 石段の先で山頂に建つのは、瓦に雪を被った立派な屋敷。知らずに見れば寺のようにも感じられるが、仏門とは関係のない

個人所有の民家である。その敷地正面口にあたる山門の下で、竹箒を手にした巨大な影が動いていた。

 身の丈七尺三寸。紺色の作務衣の上に鶯色のドテラを羽織った大男は、老齢の熊獣人。

 明るく淡い茶色…というよりは、色が褪せ過ぎ、白い物がだいぶ混じったせいで、蜂蜜色になった被毛。小山のような体躯

はでっぷりとした肥り肉で、加齢による緩みが見られるが、それでもなお肩の張りや四肢の太さに逞しさが残る。仏像のよう

に穏やかな、優し気な細い目が印象的な老熊だった。

 刻まれた歳月が白い毛となって蜂蜜色に混じるものの、七十一歳という実年齢からすれば、老いの衰えは少ないと言える。

背筋は伸び、足取りはしっかりしており、堂々たる体躯は未だ生命力に満ち溢れている。

 丁寧に雪を掻いた上で、箒で掃いて道を奇麗にしている老熊が、その巨体を移動させる度、ゴヅン…と音が響く。

 それは、熊が右足をつく度に鳴る音。老いた熊の右足は、膝のすぐ下から一本の太い棒を生やしている。

 生来の足を失った代用のソレは、義足と呼ぶにはあまりにも簡素な作り。先端には半分に切ったような草鞋が括りつけてあ

る。その巨躯の重みを受けた棒のような義足が、薄い草鞋を通して凍った地面を鳴らし、歩く度にゴヅン…と響かせていた。

 二百段を超える石段をすっかり奇麗にした隻脚の熊は、山門周辺を掃き清めたところで手を止め、石段の下を見遣る。

「ジイちゃんただいまー!」

 元気な最初の声が石段を駆け上がってきたのに続き、ランドセルを背負った子供達の一団が、折り返す石段の下から姿を見

せた。帰宅に備えて雪掻きしていた老熊は、細い目をなお細めて笑みを浮かべる。

「うむ。おかえりハイメ、アキタカ、ソウタロウ」

 先頭の狐の子が石段を一気に駆け上る。小学一年生とは思えない敏捷性と登坂力で。

「イエーイ!」

「いえい」

 伸びをしながら手を上げた狐の子に応え、腹の高さで手を出してハイタッチする老熊。続いて駆けてきた小太りで丸っこい

白黒ブチ猫は…。

「ただいまジイちゃん!」

「おかえり」

 ボフンと大きな腹に顔から突っ込んで来て、そのまま抱き着いたブチ猫の頭を、穏やかに微笑した老熊は優しく撫でてやる。

 そして最後に、三人の中で最も体が大きい、最後尾を歩いてきた白馬の子は、ペコリと会釈して帰宅の挨拶をする。

「ただいま帰りました」

「おかえり。…うむ?」

 大人しそうで礼儀正しい白馬は、「下で、郵便屋さんから預かりました」と、一枚の封書を老熊に差し出した。

「…ふむ。あ奴がわざわざ手紙とは珍しい。さて何用か?」

 差出人名を確認した老熊は、良く知る相手からの封筒をその場で開け、さっと目を通した。

「ダレからだジイちゃん?」

 狐の子が手紙の中身を見ようと、熊の周囲でピョンピョン跳ねる。ブチ猫も興味深そうに背伸びして、年長の白馬がふたり

を「こら、行儀悪いよ」と注意した。

「ふぅむ…」

 老熊は手紙を畳んで封筒に戻すと、何事か考えている様子で空を見上げた。

「コマったテガミかジイちゃん?」

「まさか、フコウのテガミ!?」

 狐とブチ猫に問われ、老熊は「いいや」と首を横に振った。

「ひとまず中に入ろう。今日は随分冷えた、道中も寒い思いをしたであろう。居間は暖めてあるし、御汁粉も用意してある。

ゆっくり茶を飲んで体を温めよう」

 ゴツン、と足音を響かせて玄関に向かう老熊の隣に並んで、白馬が竹箒を預かる。

「ありがとう、ソウタロウ」

「いいえ。あの、お爺様。それで手紙は…?もしかして、僕達の事でまた、何か困った事が…」

 白馬も、先ほど老熊が見せた考え込むような表情が気になっていた。しかし老熊は「いいや。心配には及ばぬ」と笑って、

幼子の頭を大きな手で軽く撫でる。

「この手紙は、某の倅からだ」

「…セガレって、ナンだ…?」

「…ナラってないからワカんない…」

 狐とブチ猫がコソコソ言い交すと、老熊は「子供という意味の言葉だ」と説明した。

「ジイちゃんコドモいたのか!」

「コドモ何年生!?」

「そうか、ハイメとアキタカは会うた事がなかった…。残念ながら大人だ。皆とは歳がかなり違う」

 興味を持ったらしい狐と猫に老熊が笑い掛けた。

 この三人の子供達と、まだ帰って来ていない二人の中学生は、老熊に育てられてはいるが血縁関係にない。いずれも「ワケ

アリ」の子供達である。

 この屋敷で暮らす子供達全員が、分類不明、あるいは例が少なく対応が難しい類の力を身に宿す、厄介な能力者。

 政府が存在を確認しながら、優遇するほどの研究材料にならず、しかし放置もできない…。そんな、一昔前ならば隔離施設

へ囚人のように放り込まれるか、念のために事故死という名の殺処分で手間をかけずに片付けられてきたような子供達を、老

熊は引き取って育てている。「タグ付き」だとしても、社会に出て普通の生活が送れるようにと…。実際のところ、これまで

に老熊が育ててここから巣立った十余名は、立派に社会に適応して普通のひととしての生活を送っている。

 現在ここで暮らしている子供達は五名居るが、自分に行き場が無かったのだという事を、程度の差はあっても全員が理解し

ている。だから、自分達を引き取って、生かしてくれた老熊を、実の肉親同様に慕っている。

「近いというなら、やはり孫達の方が歳も近いが…」

 男孫はしかし、子供達とは少し年が離れる。一度息子の妻が連れてきた女孫はまだ小さい。

(そうか、来年でもう十八になるか…。某も歳を取るわけだ)

 老熊は流れた月日に思いを馳せる。初孫が生まれた年に、老熊は引退してこの地に移り、子供達を引き取って育てる生活を

始めた。孫の年齢とここで暮らした年月は一緒である。

 子供達の世話があって軽々と動けないため、老熊は長いこと故郷に帰っていない。世話している子供達の素性と、老熊の家

系の特殊性にも兼ね合いの問題があるため、なるべく家人と子供らに関係を作らせないよう接触にも気を配っている。何せ老

熊が育てた子供らの中には、御役目の対象として親を奪われた者もあったのだから。

(元服の知らせに来た折に会って以来か。さて、どのような男児に育ったか…)

 ユウキから送られてきた手紙には、要約するとこう記してあった。

 闘法において、もはやユウヒに伝授する物なし。折を見て向かわせる故、親父殿の方でひとつ精神の鍛練など指導して貰い

たい。忙しいとか言わんでそこを何とか都合作ってくれんか土産どっさり持たせるからどうか…。と…。

(相変わらず唐突な倅だ。つくづくアレは「親父殿」に似たな。孫は祖父に似るという話も聞くが…)

 老熊は子供らを伴って屋敷に入りながら、息子と同じような事を考えていた。

 そこは存在しないはずの場所。存在しないはずの安全地帯。存在を許されなかった子らを引き取る屋敷。

 「断って良い命などない」。その理念を曲げなかった男が、全ての戦果と引き換えに、帝の許しを得て作った場所。

 一線を退いてしばらく経つ隻脚の老熊の名は、「神代熊禅(くましろゆうぜん)」。ユウキの父親であり、ユウヒとユウト

の祖父である。