第一話 「潜霧士」

 日暮れが近付き風は凪いだ。

 霧が濃くなる日没を控え、隆起した縁の影がかかった「大穴」は、中心部から薄黒く変じてゆく。

 まるで、瞳孔が開きつつある瞳のように。

 伊豆半島中心からその大部分を抉り取ったような、最大直径35キロにも及ぶ大穴。そのクレーターにも似た綺麗な円形の内

側…その外周から三分の二ほどには、半ば残骸化した家屋、ビル、マンションなどが立ち並ぶ。

 「大隆起」を経て廃墟と化したかつての居住区は、しかし人間が住まなくなった今日もまだ、往年の活気を偲ばせる。何十万

人が寝起きし、働き、学び、遊び、暮らしていた、40年前当時の活気を。

 ところによっては都心にも匹敵する密度でビルが並び、視線が通る所でも500メートル程度が見渡す限界となる霧の濃さに

加え、長年の地殻変動の影響で幅数メートルから数十メートルにも及ぶ底が見えない亀裂があちこちに走っており、倒壊して飲

み込まれた家屋の跡が無惨に残る。縦横無尽に巡らされた道以外は見通しが悪く、酷い所はミルクのように濃く霧が溜まって、

自分の足元すら見えなくなる。

 その、発展した地方都市レベルに整備された街が、丸ごと廃墟と化している区域内の一角で…。

「所長…。報告にあった対象を見つけました…」

 濃い霧の中、斜陽が作る暗がりに身を潜め、膝を抱えるような格好で小さくなっている人影が、くぐもった声を発した。

 行き止まりの路地のような、かつての民家が傾いて屋根をぶつけ合い、寄り添うようにくっついた隙間。切れた引き込み線が

電柱からぶら下がり、所在なさげに微風で揺れるその下に、その男は蹲っている。

 低く抑えられた声は周囲の霧中へ響く事なくマイクに吸い込まれる。若い、少年から大人へ移り変わる途上のような、まだ高

めの声の主は、丸い体をなお丸め、体育座りのような恰好で霧が溜まった隅に身を潜めていた。

 身長は170に少し足りない程度、おそらくまだ少年と呼べる年頃だろう。「もしもし…?」と不安そうに、繰り返し声を発

している。

 肌を外気に晒している箇所は一つもない。

 身に着けているのは体にフィットするディープブルーのスーツ。ムチッと肉がついた小太りのボディラインがくっきり分かる

それは、潜水に利用される物にも似ているが、胸部と腰、前腕外側や手の甲、肘や膝などには、陶器のような質感の象牙色のプ

ロテクターが装着されている。

 履いているのは、脛下までを覆うプロテクターつきのゴツいブーツ。左腕には前腕を手首まで覆う金属製の腕輪…通信サポー

トや各種測定機能、情報検索ツールを包括する多目的デバイスの、モニター兼コンソールが見られる。

 首から銀色のチェーンでスーツの胸元に下げているのは、ドッグタグに似た銀の金属プレート…潜霧士としての身分や等級を

証明し、ダイビングコード…個人識別呼称も刻まれた、鎖つきの認識票。

 それらは「この界隈」ではよく目にする一般的な潜霧装備で、装着者も多く、よほど財力が無いダイバーでもなければ、それ

ぞれに合った仕様にカスタムされる。だが、少年が着用しているスーツは手を加えられていないプレーン仕様。出荷されている

そのままの基本状態である。

 腰の後ろには基本装備にして必需品、「トーチ」がベルトで固定されている。こちらも市場によく出回っているタイプで、グ

リップ内にバッテリーが収納されたハンディ電動ドリルのような形状。

 潜霧士が装備する一般的な品で身を固めている少年だが、目を引くのは、左腰にアタッチメントで装着している武装。

 拳銃…ではない。ライフル…でもない。電磁武装…でもない。前時代的と言うのも憚られる、緩く反った一振りの刀剣…日本

刀と思しき形状の刀である。

 そして特筆すべきは被り物。呼吸器系を保護し、視界情報をサポートするバイザーと通信機能を備えるフルフェイスメットは

潜霧士の命綱とも言える必須の装備だが、素顔を晒せない状況下での活動における個人識別のため、だいたいが個性的なデザイ

ンとなる。この少年のソレは、割と目を引く特徴的な形状をしていた。

 前方に伸びる吸気及び排気ポートは、まるで動物のマズルのよう。

 頭部上方にある収音センサー兼通信アンテナは尖った三角形で、これも動物の耳のように見える。

 目の位置で面体にはめ込まれたレンズは細く、内部の目を僅かに覗ける程度。鋭く細いそれは獣の目のようでもある。

 マズルの両側に円筒形の吸収缶が装着されたその形状は、イヌ科の獣…巻物を咥えた黒狼のように見えた。

「あの…、所長…!?聞こえませんか、所長…!?…え?通信障害?そんなに霧は濃くないのに…!」

 不安げなのは声だけではない。マスクのレンズから窺える、まだあどけなさが残る目は、動揺で小刻みに動いている。

「ど、ど、どうしよう…!見失っちゃうかも…!」

 呼び掛けに応答がないまま、少年は顔を上げた。

 その視線の30メートルほど先…元は住宅地内のバスロータリーだったのだろう広場。植え込みから溢れかえった低木や、ア

スファルトの割れ目を広げて茂った草がに覆われたそこに、シャカシャカと蠢く影が見える。

 それは、サワガニにも似ていた。しかし顔は蟹のものとはだいぶ違い、蜘蛛のように複数の目が備わっており、上部に大きな

目が二つ、その下部に小さな目が四つ一列に並んでいた。

 目立つのはその前腕。蟹のハサミの形状をしておらず、鎌を備えた腕が折り畳まれ、シャコエビのソレにも似た形状。

 体高は成人男性の腰ほどの高さで、胴体は幅1.5メートル、長さ1メートルほどの楕円形。ハサミを除く6本の脚は毛ガニ

のような形状で、先端が棘のように鋭く、長い物は伸ばして1メートル強、短い物は80センチほど。

 その体重200キロにもなる怪生物は、広場を行き来しながら地面をつつき、何かを口元に運んでいる。

 よく見れば、地面に溜まった霧の中では、茄子のような色をしたナマコに似た軟体生物が、粘液の跡をつけながら這っており、

蟹達はそれを捕食していた。

(土蜘蛛3匹…。全部が成体…。ボクだけじゃあんなの…)

 蟹達に気付かれないかドキドキしながら、恐々と身を縮めている少年は…。

『おう、悪ぃ。取り込んどって通信に気付くのが遅れちまった。なんぞあったか?ええ?』

 マスクの内側に流れた、野太い声を耳にするなりビクリと震え、次いでホッと安堵の吐息を漏らす。

「所長、土蜘蛛を捕捉してます。見た感じ変種じゃないです。目撃報告があった通り3匹ですけど、全部成体です…」

『3匹…?』

「え?何かおかしいですか?」

 野太い声が訝るように低まったので、少年はビクビクしながら聞き返したが…。

『いや、大事無い。…おし』

 声の主はボヤいているようにも呆れているようにも聞こえる口調から、気を取り直したように声に力を込めた。

『ヌシの座標は押さえとるが、急行しても五分はかかる』

「はい。待機、監視を続行します…!」

『それだけじゃねぇ。ワシが行く前にやっこさん達が立ち去りそうなら、足止めまでがヌシの仕事だぜ?』

「はい。…え?」

 一度は返事をした少年の声が、動揺で震えた。

『急ぎで向かう。後でな』

「え、ちょ、ちょ~っ!?所長!?しょちょ~~~~う!?」

 悲痛とも言える声で少年は呼び掛けるが、どうやらもう相手に声は届いていないらしい。

「3匹ですよぉっ!?赤ちゃんとか子供じゃなくて!大人の土蜘蛛が3匹っ!ボク独りで足止めとかムリ…、所長ぉっ!返事し

て下さいぃ~!」

 泣きそうな声で訴える少年。しかし相手は依然として無反応。

「ううううう…!所長が来るまで動かないでよぉ…?」

 少年はフルフルと小刻みに震えながら蟹達を見つめていたが…。

「言う事きいてぇっ!」

 3匹が一斉に、食事を終えたのか移動を始めた。

 このままでは広場を出てしまい、廃墟の街並みに紛れるか、地面の亀裂に潜ってしまう。

「ううう、うううう…!」

 少年は唸りながら立ち上がる。泣きそうな唸り声で、実際に涙目。しかしその右手はいつの間にか左腰に伸び、刀の柄を握っ

ていた。

 ゆらりと立ち上がった少年は、泣きそうな声を漏らしながらスッと足を進める。アスファルトの破片や倒壊した家屋のコンク

リ片が散乱し、風化してできた砂も所々に溜まった悪路にも関わらず、その歩みは音を立てず、足の置き場は計算され尽くして

いる。

 刀の柄に手をかけ、足を進める少年は、不安と悲哀が混じった唸り声を発し続けていて今にも泣き出しそうだが、見る者がそ

の姿を見れば息を飲むだろう。

 完璧だった。構えも、歩法も、剣の達人が見れば感嘆の声を漏らすだろうレベルで。

 やがて、霧の中から現れた少年の姿に気付いて、蟹の一匹が脚を止めた。

 人間。一体。

 思考というより、反射で生きている蟹達は、少年を瞬時に食料と認識する。

 シャッと、蟹が鎌を展開した。その鋭い多脚がアスファルトを突き刺しながら小刻みに動き、200キロの体躯がアクセルを

全開にしたスクーターのように、急激な初動を見せる。

 一気に時速60キロにも達し、脚の先で抉ったアスファルト片と粉塵を霧と共に巻き上げ、少年に迫った蟹は、その前腕を左

右に広げ、鋭利な鎌で挟み込むように交差させ…。

「ううううううっ!ううう…!」

 鎌で断たれて首が飛んだかと見えたその瞬間、しかし少年の姿は震え声を残して掻き消え、そこに無い。

 一瞬の内に蟹と交差し、その後方に移動。その時には抜刀を終え、伸び切った右腕の先では、抜き放たれた黒い刀身が夕陽の

残照を浴び、霧の中に浮かび上がる。

 ボジュ…と微かに湿った音がしたのはその時だった。少年とすれ違い、姿を見失った蟹は、そのまま崩れるように右側に傾い

て、慣性のまま腹をアスファルトに擦りつけながら滑走、民家の壁に激突して大穴を開ける。

 転倒しつつ廃墟に突っ込んだ蟹、その右側の脚は三本とも関節で切断され、綺麗な断面を晒していた。先程の湿った音は、切

断された脚部が、斬られてから一瞬遅れてずれ、もげた音である。

 一瞬の事だった。低姿勢で潜る格好で蟹の鎌を回避した少年は、即座に抜刀。居合いの要領でまず横薙ぎ一閃。これで一本目

の脚を切断すると、踏み込むそのままの勢いで時計回りに一回転し、軌道上にあった残り二本の脚を、大回転しながらの斬撃で

纏めて切断していた。それも、切断し易い上に、売り物となる甲殻には傷をつけずに済む、関節部を正確に狙って。

 蟹が壁に突っ込んで、経年劣化していた家屋は構造材やモルタルを派手に吐き出しながら砂細工のように崩れる。瓦礫と土埃

が蟹を飲み込む間に、少年は続いて迫った二体目の蟹に視線を固定した。

 ガツガツガツガツと地面を荒々しく突き刺し、踏み壊し、迫る蟹に対して少年は、黒い狼そのものになったように、極端に低

い姿勢で迎え撃つように近付く。

 そして、一閃。

 ズシャアッと砂塵を巻き上げ、つむじ風のように旋回しながら離れてゆく少年と、鎌の一本と脚の二本を切断されて勢いのま

ま突っ伏す蟹。

 瞬き一つの間に三太刀…、斬り上げ、袈裟斬り、薙ぎ払いを見舞いながら回転回避。一気に離脱した少年の速度も動きも人間

離れしており、大きさの割に俊敏な蟹達も反応らしい反応ができていない。が…。

(ああああああああああ!動いてるぅ~!まだ動いてるぅ~!)

 脚を片側全て斬り落とした最初の蟹が、瓦礫の下から這い出して来る様を確認し、少年は涙目になる。ただし正眼に刀を構え

た姿には隙が全く無い。

(所長~!所長まだですか~!?)

 そんな心の声が聞こえたかのように…。

「待たした!」

 野太い声が響いた。頭上から。

 少年が確認している三体目の蟹が、風切り音と声に反応して頭上を仰ぐ。

 西日のグラデーションの端、藍色にそまりつつある空を背後に、キラリと輝く金色。

 直後、花火が咲くようなドンという爆音と共に、放物線を描いて飛んできて頭上に至ったソレが、角度を変えて急加速、高速

落下に移る。

 蟹は反応できなかった。回避や反撃を含め、あらゆる動作が間に合わなかった。上空40メートルからの垂直降下、蟹よりも

大きなソレは流れ星のように光の尾を引いて落ち、「ぬんっ!」と声を上げつつ、その右拳を蟹の頭部に落としつつ踏み潰す。

 ズドォンと地響きを伴う轟音が響き渡り、蟹が突っ伏したアスファルトが割れ砕け、破片が飛び散る。一撃で頭部を潰された

蟹を、埋め込まれるように地面が陥没。周囲の地面が花弁のように尖って隆起し、「着弾」の衝撃を物語る。

 パリッ…、バチチッ…と、細く蒼い放電が、粉塵と霧の中を幾度か走った。

 轟音と共に「着陸」、蟹を殴り倒しつつ踏み潰したソレは、もうもうと土埃が舞う中でゆっくりと上体を起こす。その体表を

不規則に、パチッ、パリッ、と青白く電気の筋が走っていたが、それもすぐに収まる。

 ソレは、見る者を圧倒する巨体であった。

 2メートル50センチはあるだろう巨躯を、電柱のような太い脚が、蟹を踏みつけたまま支えている。蟹を打ち据えて頭部を

砕きながら陥没させた拳はメロンのようなサイズで、手首も異様に太く、腕全体が丸太のよう。

 前をはだけてディープブルーのアサルトジャケットを羽織り、分厚い胸とせり出した腹は霧に晒されている。下半身にはカー

ゴパンツのようなゆったりしたズボンを着用し、脛下までを覆うプロテクターつきのゴツいブーツを履いていた。ジャケットの

下にはシャツ類なども身につけておらず、裸の上に直接羽織る格好で、首からは潜霧士の身分証明である銀の認識票をぶら下げ

ている。

 装備は潜霧士の基本的な物から逸脱しており、だいぶ大きなサイズのザックを背負っているだけで、服装自体は極めて軽装。

共通している装備は腰のベルトに装着したトーチと、少年と同じデザインのブーツ、そして認識票だけ。潜霧士用のスーツは着

ていない。

 筋肉質…と見えるがかなり腹が出ており、太い腰の締めたベルトの上に太鼓腹が乗っている。とはいえ脂肪ばかりの緩んだ肥

満体ではなく張りがある。どこもかしこも骨太で造り自体が大きい体に、分厚い筋肉が搭載され、その上に脂が乗った固太り。

 容貌魁偉の巨漢…と言うべきだが、その威容は何も、体躯のサイズと体型のみではない。その全身には獣毛が密生している。

やや赤みがある暖かな黄金色の、色鮮やかな眩い毛は、着込んでいるのではなく自前の被毛である。

 そして人間離れしているのはその毛深さと巨体ぶりだけではなく…。

「おうタケミ。足止めご苦労」

 蟹を踏みつけたまま少年に視線を向けるその顔は、獣…熊のそれに他ならない。コバルトブルーの瞳はしかし、猛獣の物とは

違って理性的で、声を発するその口元は不敵な笑みを浮かべている。

 ただし顔自体は単純に怖い。ただただ怖い。獣の顔という点を差し引いても怖い。右眉を縦に跨いだ傷や、マズルの真ん中あ

たりを水平に横断する傷、左頬の刀傷を思わせる長い裂傷など、傷跡だらけの強面である。

 しかも傷痕は顔だけでなく全身にあり、はだけて羽織ったジャケットの間にも、左鎖骨付近から鳩尾を通って右脇腹に抜ける、

刀傷を思わせる大きな傷跡が顔を出している。

 ただし、その身に負った向こう傷は無数にあっても、後ろ傷は一つとして無い。

「所長~!助かったぁ~!」

 ホッと、安堵と歓喜の声を上げる少年。それに対し、「な~にが「助かった」だ」と、金色の熊は一転して顰めっ面になった。

「ほぼ仕留めとろうが?ヌシがその気なら3匹纏めてやれとるぜ」

「無理言わないで下さいよ~!」

 少年が反論している間に、熊は腰に手を遣った。その両腰にはホルスターが吊るされ、右腰には潜霧士の必需品であるトーチ

が、左腰にはリボルバー式の拳銃がおさめられていた。

 瞬き一つの間に左腰から銃…44口径のリボルバーマグナムを抜き、流れるような手付きでシリンダーをスイングアウトさせ

る熊。左手で扱うためにスイングアウト方向を通常とは逆にカスタムしてあるが、蓮根状のシリンダー内には銃弾が一発も込め

られていないどころか、空薬莢も残っていない。

「ちぃと喧しいぜ」

 そう言った熊の右手…親指、人差し指、中指の間で、バチチッと蒼くスパークが生じ、円柱形の光の塊…太陽のように眩しい

円柱が形成された。

 表面を電気がパチパチと細く走っている手が摘まむそれは、光を固めて造ったような二発の弾丸。素早くシリンダーに装填し

て外側に銃を振り、ガシンと音を立てて発砲可能な状態に戻すなり、熊の手元で閃光が弾けた。

 ガンガンッ。そんな、金属の板をゴツい金槌で力任せに叩いたような二度の轟音と同時に、瓦礫から這い出てきた最初の蟹と、

少年に切られて派手に転倒していた2匹目の蟹が、一瞬だけ描かれた、太陽のような色の線に射貫かれる。

 急所を正確に閃光で撃ち抜かれ、指の太さ程の穴が頭部付け根を貫通した蟹達は即死。動きが完全に止まって脱力した。

「お見事です~!」

 刀を鞘に戻した少年が拍手すると、熊の巨漢は仏頂面で、拳銃をストンとホルスターに落とし込んだ。

「こいつらが報告にあった群れで間違いねぇな。…となると。ワシの方は人違い…いや蟹違いか」

「はい?」

 腕組みし、思案する顔で顎下を撫でる熊が蟹の上から降りながら呟くと、狼メットを被っている少年は首を傾げた。

「ついさっき、蟹を見つけて潰しといたが…。あっちは2匹。連絡があった対象とは別口か」

「え?という事は…」

 少年がメットに手をかけ、外す。

 斜陽で赤く染まる霧の中、黒絹のような髪がさらりと落ちた。

 狼のマスクを外した下から現れ、外気に晒されたのは、プックリした頬、あどけない表情の、色白の丸顔。そして、残照を照

り返して輝く神秘的な紫紺の瞳。

 ぽっちゃりした少年の顔はどこか中性的にも見え、スベスベした肌と色から大福餅を思わせる。ショートボブに整えられた髪

の黒さと色白な肌は、コントラストが鮮烈だった。

 痩せれば相当な美少年だろう整った目鼻立ちだが、丸々した顔でも愛嬌がある。

「5匹!5匹ですか!?凄い収入ですね!」

 顔を輝かせる少年に、熊は厳めしい顔を崩さないまま「おう」と応じた。

「しかし、ふたりじゃあ運び出すのも一苦労だぜ。近場の同業者に声をかけるか。一部を分け前にやると交渉すりゃあ乗ってく

れるだろう。…タケミ。ワシが1匹担いで行くとして、4匹分の運搬を頼むなら、どの程度が妥当だと思う?」

「え?えぇと…」

 少年は突然問題を出されて、蟹の死骸を見ながら少し考え…。

「斬り落とした脚五本と鎌一本、そのまま差し上げるというのは…」

 それは運搬労働の手数料としては相当高めの報酬。運搬中の危険度などを考えても、かなり色がついた分け前である。が…。

「ん…、まぁそれなら妥当だな」

 一瞬笑みを見せかけた熊は、瞬時に強面を引き締める。

「気前良く礼を弾んでおけば、また何かあった時にも手を貸して貰える…。潜霧士の手助けはお互い様の精神。獲物を分けても

損なんぞしねぇ、むしろ投資ってモンだぜ。ヌシもだいぶ判って来たな、ええ?」

「はい!ありがとうございます!」

 厳しい熊に褒められて、嬉しそうに笑顔を見せる少年は…、

「それじゃあ近場に誰か…、お?ヤベちゃん達が近くにおるか、僥倖僥倖。やっこさん達ならダイビングコードで会話する必要

もねぇ。…タケミ、助っ人呼ぶからマスクは被っとけ」

「は、はい!すぐに…!」

 わたわたとメットを被り直す少年を横目に、熊はポケットから取り出した無線機で、馴染みの同業者に助っ人を頼んだ。

 この蟹のような異形の生物は、霧がたまった大穴の中に生息している。

 「危険生物」と総称されるそれらは、その強固な外骨格や筋繊維、眼や爪など、あらゆる部分が重宝される素材となる上に、

調査研究対象として政府も状態が良い死骸を買い取っている。

 ふたりが難なく5匹仕留めたこの蟹達は、まるごと売り払えば1匹だけで新車が買えるだけの金額になる。少年のスーツに装

着されている白色のプロテクター部分も、この蟹の甲殻を素材にしてあり、この仕事をしている者は狩った対象の恩恵に預かっ

ている。

「済まんヤベちゃん、ユージンだ。取り込み中か?…おう。物は相談なんだが、運搬の手を貸しちゃあ貰えねぇか?」

 熊が同業者に連絡している間に、少年は空を見上げた。

(もう日没だ…)

 穴の外周に光が灯る。無数の監視灯台が投光器を作動させ、今夜も寝ずの番をする。

 

 十数分後、熊の知り合いである同業者達が到着した。

 チーム全員がペストマスク型のヘルメットと、スーツの上から断熱マントを羽織っている一団は、外見こそそっくりだが、マ

ントやマスクの額に記された名前の頭文字とナンバーでそれぞれを識別できる。

 経験豊富な潜霧士八名と、可変式アームに大きな車輪がついた、瓦礫も物ともしない局地用運搬車が二台。熊達にとっては有

り難い援軍である。

「悪ぃなぁヤベちゃん」

 二機の荷台に蟹を2匹ずつ固定する作業が終わると、最後の一匹を軽々とおぶった熊は、一団のリーダーに軽く頭を下げた。

「何の何の、こっちは空振りに終わるところだった。おこぼれに預かれるなら大歓迎さ」

 熊と少年とは異なる潜霧捜索所の責任者であるペストマスクは、人相は全く判らないが、声の調子からすると壮年と思える。

もっとも、この場で顔を直接見られる…というよりも肌の露出部位があるのは熊だけ。他は全員フル装備である。

「5匹か…。見つけるのも上手いが、よくもまぁこう簡単に仕留めるものだ」

「大したことじゃねぇぜ、不意打ちだ。で、運賃についてだが、タケミの提案でな…」

 熊が分け前を提案すると、ペストマスク達は判り易く声を上げて笑った。

「フワ君、気前が良いのは結構だが、そんなんじゃ損をしてしまうぞ?」

 困った様子で「え、そ、そうですか…?」とオドオドする少年だったが、熊は「投資だ投資」と口添えした。

「この仕事を続けて行くなら、持ちつ持たれつできる同業者とは懇意にしとくのが一番。おたくらみてぇな信用できる同業者と

は特にな。いずれタケミが独り立ちしても、周りとのパイプがありゃあやってけるってモンだぜ」

「相変わらず期待が大きいな。そんな風だとフワ君もプレッシャーだろう?」

「ん?プレッシャーか、タケミ?」

「い、いえ…!」

 熊が視線を下げ、眼光を浴びせられた少年はフルフルと首を横に振った。熊には別に圧をかけているつもりも無いのだが、高

い位置の強面からギロッと向く目線は、何をしていなくとも迫力がある。

「では、運搬作業に入る。そちらも撤収だろう?」

「おう。せっかくだ、帰ったら一緒に打ち上げに行くか?」

「それは良い。フワ君は疲れたろうから、荷台に乗って行っていいぞ」

 ペストマスクが少年にそう言ったが…、

「甘やかすなヤベちゃん。タケミ、先行してスカウトポジションを手伝え」

「は、はい!」

 熊は少年に、先行してルートの安全確認をする係への合流を命じる。

 霧に潜っている間は全てが仕事、全てが勉強。

 熊の巨漢は少年を、厳しく、そして傍目には判り難いが大事に、教え導き育てている。

 

 

 

 沿岸沿いの長城のような長い壁の上に、等間隔で配置された大灯台が、霧を湛えた大穴を照らす。

 それらは寝ずの番たる監視灯台。大穴から出て来るものが無いか監視し、飛び立つ物があればレーザーが撃ち落とす。

 灯台同士の間には巨大な風車が立ち並ぶが、風力発電用の物にも似ているそれは、しかし逆に電力を消費して風を起こす設備。

大穴から湧く霧が外へ漏れ出さないよう、吹き戻すための物。

 夜が訪れ、全体が黒く染まった列島に、人類の生活圏を誇示するように光が灯る中、この伊豆半島の中央から外周付近までは、

40年前から一転して欠けたように生活の光が灯らない。

 そこは、この地表上で唯一人類の支配域ではなくなった箇所。伊豆半島は今や大部分がひとが住めない環境になっていた。

 半島付け根のくびれ部分はそのままに、全体が隆起して一割ほど輪郭を膨らませている。夜に光が灯るのは、半島外周の僅か

に残った安全圏のみ。こんな状況が40年続いている。

 事の発端は、この半島で行なわれた政府主導の研究、そしてそれを行なっていた施設だった。

 二十一世紀初頭、伊豆半島の中央に大規模な研究施設が造られた。

 その名は、「伊豆生命進化研究所」。

 地熱発電。気候。まとまって確保できる広大な土地の値段。そして地元政治家の熱心な誘致活動…。その他諸々の条件に合致

したから伊豆が選ばれたと言われている。

 テーマはその名前からも判る通り、生命…その進化の研究。動植物は勿論、細菌やウイルス、様々な物を対象に、その構造と

特色を一から洗い直し、人類に有意義な遺伝子情報をリストアップ、応用する研究だと、当時の説明概要には記されている
。大

がかりかつ範囲が広過ぎる研究テーマには非難も多く、夢ばかり見る役人学者が税金で道楽を始めたと、揶揄する声も多かった。

 だが研究施設で開発された人工頭脳「チエイズ」は、立案者達の計画通りに、そして期待以上に、その性能を発揮して成果を

出した。

 あらゆる実験の管理、演算、シミュレートを行ない、高度に研究をリード、人員をサポートするAIは、当時最高の物だった。

あまりにも高度過ぎるため、よくあるSFパニック映画のように、人類に反逆するのではないかと心配されるほどに。

 当然ながら、スタッフも設備も研究を主導する者達も優秀だったようで、施設はその稼働から半年余り経った頃から、実用化

レベルで新技術や新薬を発表し始めた。

 最初は、既存の物と同等の効果が期待できる薬を、より安価に大量に作れるようになったというような、ささやかな進歩をも

たらす程度に過ぎなかった。

 それが、2年経った頃には細胞組織を高速培養する技術が確立し、火傷などの治療は勿論、美容目的での人工皮膚の移植が可

能になった。

 そしてそれから4年経った頃には医療用の人工デザイン細胞が実用化され、移植者の体質に合わせた拒絶反応が無いオーダー

メイド臓器の製造と、安全な移植が可能になった。

 さらにその6年後には、遺伝子レベルでの体質改善を可能とする技術が生まれ、同時期に骨や歯、眼球の再生治療も実用レベ

ルに達した。

 そうして2020年代には、この国は健康と生命を商品に、医療大国として裕福になった。

 もはや国の心臓とも言える重要設備となり、最大の国家産業の肝となった研究施設は、規模拡大を繰り返した。

 最終的には、山を慣らして造られた人工台地が半島の大半を覆い、研究者とその家族、主要産業となった医療ビジネス関係者、

各種運搬業者と二次三次産業の担い手達が暮らす大都市が出来上がった。

 元々の研究施設はその下に、広大な地下空間…ジオフロントとして再構築され、伊豆半島は一つの特別区として再編され、研

究都市伊豆と呼ばれるようになった。

 そうして人類は医療面から裕福になり、世界が平和に…なる事はなかった。

 医療技術も薬も、結局は国益…ビジネスである。

 世界各国にはびこる臓器の密売御者は、新人工臓器移植の違法なマッチングを生業とする事で、新時代に対応した。

 軍需産業は、生存率が高くなった兵士を確実に殺せる武器を競って開発している。

 結局のところ、富の保管場所と流通経路が変わっただけで、世界平和には程遠い。

 そして、この国の繁栄も、やはり永遠ではなかった。

 研究所の設立から22年後、2032年の事だった。チエイズが突如として緊急警報を発し、研究都市伊豆に一般人退去命令

が出されたのは。

 チエイズ最後の通信によれば、「甚大な被害が発生した」との事だが、今日に至るまでその原因は勿論、詳細も判っていない。

地殻変動を伴う直下型地震が原因とされているが、推測の域を出ていない。

 しかしその日、実際に揺れが来る直前にチエイズが警告したものの、住民の退去は完全には終わらなかった。

 突然の直下型地震に見舞われ、半島各地で災害が発生した。退避途中で交通機関が麻痺し、研究都市と直上居住区…人工台地

と、ジオフロントの住民の八割にあたる計92万人以上と、仕事の為に伊豆入りしていた者、あるいは短期滞在していた関係者

19万人が逃げ遅れた。

 瞬く間に半島がその高度と形状を変えるほどの大規模地殻変動…後に「大隆起」と呼ばれる災害である。

 だが、それで終わりではなかった。

 人工台地はクレーターのように陥没し、大規模崩落に見舞われたジオフロントからは正体不明の霧が発生した。

 それを吸った者は毒ガスを吸わされたように昏倒し、多くは劇的なショック症状により、体中から血を噴き出して短時間で死

亡した。

 即死を免れた者もあったが、こちらはさらに悲惨だった。

 ある者は、顔中から獣の犬歯のような物を生じさせ、全身を掻き毟りながら死んでいった。

 ある者は、顔の中心が隆起し、顔の皮膚が伸長した骨に引き裂かれ、元の顔も判らない状態になって死んでいった。

 ある者は、背骨が生き物のように蠢き、体幹の形状を急激に変化させられる苦痛にのたうち回りながら死んでいった。

 いずれも、体が物理的に変態していた。その数分単位で進行する急激な変化に耐えきれず、体が勝手に裂けて壊れて崩れてゆ

く、外傷性のショックで死亡した。

 救助隊が、自衛隊が、原因究明チームが、家族を探しに踏み入った民間人が、霧に、次々殺された。

 因子汚染。

 人類史上最悪の公害。

 人間を死に至らせるのみならず、人間ではない何かへ変質させてしまう霧が、この日はじめて人類に牙を剥いた。

 そして、この公害の影響を受けたのは人類だけではない。

 あの霧に晒された様々な生物が、生物史から外れた新たな種へと「新化」させられた。少年と熊が仕留めた土蜘蛛も、元を辿

ればサワガニの一種が因子汚染された結果として誕生した物。

 それらは危険生物と呼称され、霧と二重の障害となり、大穴の探索を困難にしている。

 当時の内閣は、大隆起当日に視察に訪れており、訪問していた閣僚が総理含めて全員死亡した。主導していた閣僚も、事情を

知る者も、まとめてである。

 その大事故が発生したのが今から40年前。以来、埋もれた研究施設の底に辿り着いた者も、事故の原因究明に至った者もお

らず、事態は収束の見通しもないまま今日に至る。

 そして研究都市と呼ばれていた伊豆は、「人外地区」と呼ばれるようになった。

 

 

 

「それでは、無事な帰還を祝して!」

「次のダイブにも実りがある事を祈念して」

『かんぱ~い!』

 髭にも白い物が混じり始めている壮年男性が笑顔で、巨漢の熊が仏頂面にしか見えない顔で、それぞれ号令の一言を発して音

頭を取ると、高々と掲げられた無数のジョッキが音を立ててぶつかる。

 大穴に隣接する都市…東の玄関口とされる熱海。そこに聳えるいくつかの高層タワーの一つ。その最上階の酒場は、帰還した

潜霧士達で溢れかえっていた。

 大小いくつもの丸テーブルを椅子が囲むホールと、ロフトのような半二階の席、そしてカウンター席と、最大100人まで収

容できる酒場は、南側と西側の壁一面が大窓になっており、灯台がサーチライトを投げかける大穴を一望できる。

 時折大穴の縁で光が瞬き、そこから伸びる光の線は、穴から飛び立った飛行能力を持つ危険生物を、レーザーが焼き落とす閃

光。その駆除兼防衛機構すら、外から訪れる者には観光対象である。

 ラウドネスガーデン。それがこの酒場の名前。潜霧士達にとっては喧騒が逆に落ち着く、憩いの場である。

 潜霧士にとっては酒と飯を楽しむ場であり情報交換の場。観光客にも人気の絶景スポットだが、外から来た者が利用するのは

難しい。というのも、だいたいの場合は席が埋まっている上に、最長で二ヶ月前からできる予約枠も、潜霧士の予約が優先され

るからである。これは、ここを切り盛りするマダムが元潜霧士であり、慰労の場として始めたからという創業理由に因んだ物。

「よう大将。また通報されてない蟹見つけたって?」

 少年と二人で丸テーブルを挟み、大ジョッキを煽ってグビグビと一気飲みする熊に、三十代になったかならないかという年頃

の男が声をかける。獲物の運搬を請け負って一緒に席を取った潜霧捜索所とは別の、たまたま居合わせた同業者のひとりだった。

「おう。運が良かったぜ」

「すげぇなぁ、俺も大将みたいな嗅覚が欲しいよ」

 羨ましそうに述べるその男は、熊の黒い鼻を見つめた。その間にもわらわらと、居合わせた連中が熊がついているテーブルに

寄って来る。

「遺品は無かったって?」

「犠牲者の遺体は未発見か」

「離れた場所までは逃げていたって事かな…」

 潜霧士は大穴の霧に潜り、危険生物を駆除したり、その死骸を素材として持ち帰ったりする。

 同時に、かつて研究所で使われていた機材や情報…物によっては40年経った今の技術をも超えているオーバーテクノロジー

の産物…「レリック(遺物)」の探索も行なう。

 霧に潜らねば得られない、危険だが貴重な物を持ち帰る…、潜霧士とはそういった事を生業とする職業である。

 そしてその「持ち帰る物」には、霧の中で命を落とした同業者や、立ち入り制限や警告板や防壁などを無視して入り込んで死

んだ一般人、無認可で潜霧する非合法の「潜り屋」などの遺留品も含まれる。

 ユージン達が仕留めた蟹の発見報告を出した一団は、まだメンバーひとりの行方が不明となっているらしいので、遺留品がど

こかにあるはずだった。

 次の仕事や獲物を決めようと、男達が熊に情報をせびっていると…。

「はいはい、仕事の話は落ち着いてからにしときな。ユージンもタケミも仕事上がりで腹が減ってんだ、まずはゆっくり飯を食

わせてやるのが筋ってモンだろう?」

 脇からかけられたのは女性の声。男達が首を巡らせると、チキンステーキセットのトレイと寿司盛りを両手に乗せた、恰幅が

良い大柄な女性が立っていた。

『イエス、マム!』

 チャッと敬礼して背筋を伸ばす男達。その改まった瞳が映すのは、雌の虎の顔。

「野暮な話は腹も気持ちも人心地ついた後だ。アンタ達も詰め込む物を詰め込んで、それから話をせびりに来な。酒の一杯でも

奢りながらね」

 そう諭す恰幅が良い女性は、熊の巨漢ほどではないが相当な巨体。身長2メートルを軽く超えており、エプロン兼ウェイトレ

ス制服でもある白フリルつきの深紅のドレスからは、明るい黄色と黒い縞模様に覆われた手足と頭が出ている。肥満体だが肩幅

広く骨太で、現役時代の逞しさが緩んだ体になっても垣間見える。

 獣の顔をしているのは熊とこの雌虎だけではない。この店のウェイターやウェイトレス、そして客の中にもちらほら、変わっ

た外見の者が居た。

 尖った耳が頭頂部に寄って、頭髪の中から出ている者。

 袖から覗く手首から指先が獣毛に覆われている者。

 頬の一部を緑色の鱗のような物が覆っている者。

 瞳孔が猫のように縦に長い者や、虹彩がやけに明るく反射して見える者。

 程度の差はあるが、明らかに人間とは異なる特徴が部分的に現れている者が客の三割にも及び、店の従業員はだいたい全員が

動物その物の顔。これら全てが、穴から漏れ出る霧に侵された結果…因子汚染を原因とする「獣化」である。

「さて…、特製チキンステーキセット、三種のソースつき!そして日替わり気まぐれ寿司盛り五人前、お待ちどうさん!たーん

と食いな!」

 雌虎はニッと牙を覗かせて笑みを見せると、大きな体を揺すり、熊と少年の前にボリュームたっぷりの料理を置く。前屈みに

なった拍子に大胆に開いている胸元から、豊満な胸の上部とクリーム色の柔らかな被毛が覗き、少年はタプンと揺れる乳房から

困ったように視線を逃がした。

「あ、ありがとう、ございます…。ダリアさん…」

 少年が赤面している事に気付くと、雌虎は一度キョトンとし、次いでカラカラと軽快に笑った。

「なんだいタケミ、アタシみたいなのでもまだ女はダメかい?デブの胸なんてユージンと暮らしてりゃ見慣れたモンだろうに」

 返答もできない少年の向かいで、熊が微かに笑った。

「タケミは、婆さんでも赤子でも、おなごの素肌が苦手らしい」

「毛が生えてるけどねぇ?」

「毛も含めて素肌なんだろうぜ」

「アルがスッポンポンでも平気じゃなかったかい?」

「やっこさんはそもそも男だろうが」

「男手一つとはいえ、フワ先生は一体、孫をどう育ててきたんだろうねぇ?」

「ワシのように育てたんだろうよ」

「つまりゆくゆくは仏頂面の堅物親父って訳かい?」

 雌虎は少し黙ってから、少年に顔を向けた。物凄く真面目な表情である。

「タケミ。悪い事は言わない、ユージンを見習うのは潜霧の腕だけにしときな」

「え…」

 熊の手前、はいともいいえとも言えなくて困ってしまう少年だったが、巨漢は気にもせず雌虎に訊ねた。

「それはそうとダリア、今週から新しい販路で日本酒が入っとるらしいな」

「おっと耳が早いね。飲みたがると思ったから、アンタ用に二本押さえてあるよ。気に入ったら一本は買って帰りな」

「流石美人女将だ。気が回るぜ」

「マダムって呼んどくれよ、マダムって。あと美人なんて見え透いた世辞はやめな、ケツが痒くならぁ」

「よくは知らんが、世で言うマダム的な婦人はそんな言葉遣いはしねぇだろうぜ?」

「おっと失言。上品にってのは何とも難しいねぇ…」

 そんな会話を交わして、追加の酒を注文された雌虎が厨房の方へ戻り、「グレイ!ユージンのテーブルに明鏡止水一本と、ぐ

い飲み一つ頼むよ!」と若い灰色の雌猫に声をかけ…。

「じゃ、食うか」

「はい!」

 熊と少年はそれぞれが頼んだ夕食に取り掛かる。

 少年がオーダーしたのは、軍鶏肉をドカッと切り分けて、皮が鮮やかな飴色になるよう焼いたチキンステーキがメインの定食

セット。適度な焦げ目もついて香ばしく、脂の照りが食欲を誘う。オニオン、レモン、ガーリックと三種のソースを、好みで浸

かったりブレンドして楽しんだりできる上に、鉄板の上には太いアスパラも三本乗っており、ライスにあたるのは皿に大盛りの

ピラフ。ボリューム満点である。

 熊が頼んだのは寿司の盛り合わせ。その日の入荷状況でネタが変わるが、値段は一定しており何より新鮮。十貫セットだが、

お代わりすると全てのネタが被らないように店の方で変えて来るサービスつき。レパートリーを楽しむには最適で飽きが来ない

メニューである。

 少年は未成年なのでアップルジュースだが、熊は乾杯用の最初の一杯だけ生ビールで、そこからは日本酒の予定。

 たらふく食って思い切り働け、とは熊の弁。潜霧は体力勝負、食わない者と休めない者は役に立たないというのが彼の持論で

ある。なので少年はとにかく頑張ってたくさん食べる。

 少年は去年の春、故郷の白神山地を出て伊豆に移住した。

 祖父の死去をきっかけに、その遺言に従って、義務教育が終わるなり、後見人となった金熊の所に身を寄せている。

 そうして彼の元で一人前の潜霧士を目指し、本格的に働き始めて一年になるのだが…、実はこの少年、元々は均整が取れた体

つきで、太ってはいなかった。

 今の体型になったのは、大食漢の熊の食事量に引っ張られるせいと、ここの雌虎が「早く大きくなりなよ」と、やたら飯を食

わせてくるせい、そして師匠の言い分を律儀に聞いて、頑張ってたくさん食べるせいである。

 ふたりは食事を楽しみながら、今回の収入で行なう傷んだ道具類の補修や、支払いの計画について話している。より正確には、

熊が主体になって話し、少年が勉強もかねて要不要の判断を振られている格好。その様子を…。

「あの金色の熊の大男が「神代勇仁(くましろゆうじん)」だ」

 酒場の端のテーブル席、観光客と思しき、こざっぱしりた格好の若い一団が、チラチラと窺っていた。

「東エリアの名物ダイバーで、通称「熱海の大将」。ダイビングコードは「雷電」。歴代で10人しか居ない一等潜霧士の、現

役5人のひとりだ」

「本当に熊の顔をしてるんだ…」

 訳知り風の若い男の説明に、若い女がそんな感想を漏らす。

「あそこまで動物寄りになるのは全体の一割程度と、かなり少ないんだよ。個人の体質もあるが、だいたいは獣化が全身に及ぶ

前に死んでしまうから。体調不良か、潜霧中の事故で…」

 別の男が関心を攫うように口を挟む。

「この酒場の女将のマダム・グラハルト…「ダリア・グラハルト」さんも元は潜霧士で、彼とは元同僚。一等認定まで受けた優

秀なミストダイバーだったんだぜ?潜霧士時代に稼いだ金で、引退してこの店を始めたんだ」

「お店のひと、動物みたいな部分がお客さん達より目立つね…」

 別の女が声を潜めると、男二人は我先にと身を乗り出して説明を始めた。

「因子汚染の耐性には個人差がある」

「あの神代勇仁やマダム・グラハルトのように、行き着く所まで行っても死なないケースは稀で…」

「だいたいは軽微な変質化が重なって、いつかは限界が来る…。つまり個人ごとに異なる致死ラインに達してしまう」

「そうなる前に、多くの潜霧士は自分で辞め時を決めるんだが…」

「ああいう外見になると、伊豆以外じゃまず雇って貰えないだろう?」

 男が顎をしゃくった先には、両肘から先と両膝から先、そして首元から上が灰色の猫の姿になっている若いウェイトレス。

「マダム・グラハルトは、働き口に苦労する引退後の潜霧士を、自分の店で雇ってるんだ」

「ところで、あの熊のおじさんと同じテーブルの男の子は?」

 この問いに対しては…、

「さあ…」

「事務員とかかな?」

 マニアの男達も答えられなかった。

「…美味いか、タケミ?」

「はい!」

「よく噛んで食うんだぜ」

「はい!」

 酒が少し回ってきて、それと同量だけ態度が柔らかくなってきた熊親父に、嬉しそうに返事をする少年。

 常々眼差しが厳しい強面の熊は、気が緩んだ時だけ本来の優しい眼差しを見せる。タケミはその目が好きだった。

 先程同行している男達に、あの少年は誰なのかと訊いていた若い女は、その和やかな食卓を眺めながら、親子のようだという

感想を抱いた。

 少年は「不破武実(ふわたけみ)」、十七歳。四十七歳のユージンとは実際に親子ほど歳が離れている。

 神代潜霧捜索所はユージンが長年個人経営してきたが、昨年五等試験を突破したこの新人潜霧士を正式に迎え、今はツーマン

セルで霧に潜っている。

 一等潜霧士であるユージンだが、ここ一年は派手な活躍も無く、引退も視野に入れ始めたのではないかと囁かれている。しか

し彼と交流がある同業者達は、何故ユージンが最近目立った動きを見せていないのか判っている。

 それは、新人であるタケミの指導を兼ねる仕事を主体にし、浅い潜霧を数多くこなし、経験を積ませて対応力を養う活動がメ

インになっているから。

 だから、知る者は知っている。

 ひとを雇う事が無かったユージンが受け入れた、タケミという少年。彼が所長のお墨付きを貰い次第、神代潜霧捜索所は、ま

た大きな仕事をするようになるのだろう、と…。

「帰り、またアイスクリーム食ってくか」

「はい!」

 眼差しが柔らかく、表情が柔和になってきた巨熊に、少年は笑顔で大きく頷いた。