第十話 「昇級祝いBBQ」

「イェア!一位っス!」

 操作するカートがゴールラインを越え、コントローラー片手にシロクマが両手を上げてガッツポーズ。

 続けてもう一台がゴールラインを抜け、「二着だ…」と黒髪の少年がホッと息をする。

「ワンツーフィニッシュっス!イェア!」

 少年とパンと手を合わせてハイタッチしたシロクマは、首を捩じって二人掛けソファーを占領している巨漢を見遣った。

「おっちゃ…じゃない、所長どこら辺っス?」

「あと半周だぜ…!」

 ソファーに並んで腰かけた少年達の向かい側で、首を曲げながら大型モニターを横向きに凝視している熊親父が唸る。

 操作されるカートは頻繁に壁に擦れて火花を上げ、その手には操作し難いほど小さなコントローラーを握り、一生懸命操作す

るユージンは、コーナーリングに合わせるように巨体をユッサユッサ揺らしていた。

(所長…。ゲームする時体も動くタイプなんスね…)

(ちょっと可愛い…)

 驚くほど操作が下手糞なユージンは、CPUの操作マシンから大きく遅れてビリでゴールする。

「…実際の車の運転より難しくねぇか?ええ…?」

「そんな事ないんじゃないっスか?」

「まあいい。今日は止めだ、止め」

 プシュッと缶ビールのタブを起こしたユージンは、リタイヤを告げて一気飲み。

 新入りとして就職したアルが住み込みで働き出し、神代潜霧捜索所のリビングには娯楽品がいくつか持ち込まれた。その一つ

がゲーム機…ダリアのプレゼントである。

 アルも当初は実家であるダリアの所に落ち着く予定だったのだが、そうなるとまた昼夜逆転が心配だという養母の懸念により、

平日五日間はこちらで過ごし、土日で仕事が入っていない時だけは実家で過ごすという体制となった。

 まずは慣らし運転と言うべきか、神代潜霧捜索所は現在、依頼を伴わない自主潜霧捜索…つまり物資収集を中心にした活動で

アルを大穴の環境に慣れさせている。危険生物の駆除においてはスペシャリストでも、「仕事場」自体に不慣れでは仕事もおぼ

つかないので。

 そんな状況なので今のところは忙しくないが、落ち着き次第、依頼を取っての潜霧捜索と、タケミ達が新たに立ち入りできる

ようになったポイントへのダイブ、そして伊豆半島横断での土肥ゲート到達など、やる事はユージンが色々と予定している。し

かし…。

(まずは約束通り、明日は昇級祝いのバーベキューだ)

 タケミとアルの昇級を、プライベートビーチ貸し切りのバーベキューパーティーで祝うという話については、既に予約も入れ

てある。ダリアの店も明日は休業で、従業員達も参加して大人数のパーティーになる。ユージンの仕事は手配と出資までで、現

場での調理等についてはプロであるダリア達に任せる。

「あまり夜更かしするんじゃねぇぜ。ええ?」

 少年二人が『はーい』と返事をしつつゲームに興じる姿を眺め、二本目の缶ビールに手をかけながらユージンは思った。懐か

しい、と。

 タケミとアルが白神山地の祖父の実家で暮らしていた頃は、顔を見に行く度に一緒にボードゲームをしたり、バラエティ番組

を見たりと、時間を惜しまず付き合った。タケミの祖父と話し込んでいる時などに、遊んでくれと駄々をこねられたあの頃が懐

かしい。

(それに、ちぃと似てもいるんだよな…)

 一緒に育ったタケミとアルの関係性に、ユージンは少し思う所がある。

 ユージンはタケミの父と一緒に、タケミの祖父に育てられた。兄弟のように一緒に過ごし、暮らし、育ち…、今のタケミとア

ルのように親しい間柄だった。

 もっともタケミの父は肝が据わっていて落ち着き払っていたし、自分はアルと比較にならないほどガサツなヤンチャ坊主だっ

たがと、微苦笑を浮かべるユージン。

「このレースで終わりにしようね」

「えー?」

「明日はバーベキューだし…」

「うー…」

 タケミに諭されて渋々頷くアル。こういった所もかつての自分達のようだと、今度は若干複雑な気分になるユージン。

「あ。明日の夕方の分、録画予約しとかなきゃいけないっスね」

 お気に入り番組の見逃しを心配するアルは、他所事を考えながらも鋭いコーナーリングでタケミと競っている。熊親父から見

れば信じ難い器用さだが…、

「もう操作覚えた?やってあげる?」

 割と普通にタケミもそんな真似をしている。

「念のため手伝って欲しいっスね~」

「うん。判った」

「アルはどんな番組を観とるんだ?」

 何気なく訊いたユージンに、タケミとトップ争いをしながらアルが述べたのは、国民的ロボットアニメの最新シリーズのタイ

トルであった。

「ロボ物か…」

「所長は子供の時とか観なかったんスか?ロボットアニメ」

「観とったぜ」

『え?』

 タケミとアルが思わず、同時にユージンを振り返る。コントロールを失った二台のマシンは、仲良くコースアウトして後続に

抜き去られた。

「何だヌシら、そのツラぁ?」

「いえ…。その…」

「っス…」

 口ごもるタケミとアル。時々、20世紀の生き物なのではないかと思うほど時代遅れ…古風なこの男は、生まれた時からこう

なのではないかという印象があった。なので、少年だった頃の姿を想像するのは非常に難しい。ロボットアニメを観ている光景

など全く思い浮かべられない。

「どんなの観てたんスか?」

「「銀河岡っ引きダンザイガー」とかな」

「…聞いた事ないっスね…」

「1クールで打ち切りになった」

「何でっス!?」

「さあなぁ…」

 銀河岡っ引きダンザイガーとは、三十年ほど前に放映されていた、時代劇要素を盛り込んだロボットアニメである。容赦のな

い徹底した勧善懲悪がテーマで、クライマックスでは主役機であるダンザイガーが、必殺フルムーン唐竹割りで悪役を搭乗ロボ

のコックピットごと真っ二つにして断罪を完遂するのだが…。そのあまりにも詳細なコックピットとパイロットの両断描写や、

生々しい断末魔などが問題になり、放送打ち切りになるほどの抗議を各方面から受けたのである。

 どんなアニメだったのか興味をそそられるアル。一方タケミは神妙な顔で黙り込んでいるが…。

「ダンザイガー…、ダンザイガー…、あったっス」

 散々な順位でゴールするなり、アルは携帯通信機を端末モードで操作し、情報を読み出した。

「えーと?…「伝説のハイクオリティ打ち切りアニメ」「驚異のロボット殺陣」「制作陣が豪華過ぎる事でも有名」…。打ち切

りなのに伝説のアニメ扱いっス…!?」

 現在活躍している大手アニメーターや有名監督などが集って手掛けていたという事実に仰天するアル。「アンビリーバボー!

今で言ったらレジェンド総がかりで作ってるようなもんじゃないっスか!っていうかこれがデビュー作の人も居るっス!レジェ

ンズ!」と大興奮。

「ほぉ~、出世したのか。あのアニメ作っとった連中」

 やたら詳しいアルとは違い、そこまでは知らなかったユージンが感心する。

「とりあえず、ゲームが終わったなら風呂済ませて寝ろ。ワシは後にする」

「うっス」

「はい」

 小さい頃におもちゃをそうやって片付けていたように、二人掛かりでテキパキとゲーム機を片付けて、アルがドスドスと着替

えを取りに部屋へ向かうと…。

「あの…、所長?」

 タケミは出入り口で足を止め、振り返った。

「ん?」

 ソファー越しに首を巡らせたユージンは、

「さっき言ってたアニメって…、その…。お父さんも、一緒に観てたんですか?」

「ああ」

 タケミの質問に頷き、缶ビールを煽った。返事はそれだけで、どんな反応だったとか、楽しんでいたかどうかとか、そういっ

たタケミが期待したような話は熊親父の口からは出なかった。

 「そうですか…」と呟いて、タケミはリビングを出る。

 父の功績や、立派な潜霧士であった事が判る様々な話などは、祖父やユージンからたくさん聞いている。

 だが、タケミはそれでも父を知らない。どんな人物だったのか、その日常を、何気ない仕草を、人間らしい生きたエピソード

を、全くと言っていいほど知らない。

 どんな人だったのかと訊けば、祖父は「手先は器用で生き方が不器用だった」と答え、ユージンは「骨がある男だった」と答

えた。
しかしそこに、人格や性格を想像させる情報はなく、ふたりが父をどう思っているのかも判り難い。だからタケミは、授

業で教科書越しに知る歴史上の人物のような距離感を自分の父に抱いている。
ただ、ユージンは「親友であり兄弟のような物」

とも述べている。その言葉に偽りが無い事は、空っぽの墓に手を合わせる横顔からも察せられた。

(どうして、あまり教えてくれないのかな…)

 思い出すのが辛いというのもある気がする。時間が経っても喪失の傷跡が埋まらないほど、ユージンにとって大きな存在だっ

たのかもしれないとも思う。祖父にしても、言葉少なく語っただけだが自慢の息子だったのではないかと感じている。

 タケミ自身も、無理に話をせがむのは良くない気がして父母の事はあまり訊かなかったが…。

「わぷ」

 考え事をしながら階段に差し掛かったタケミは、曲がった途端にボミュンと柔らかい物に顔が埋まった。

「キャーッチ!隙だらけっス~!」

 死角からボディアタック&ハグという悪戯を仕掛けてケラケラ笑うアルは、タケミを高い高いするように軽々と抱き上げて、

「風呂っスよ、風呂風呂!ハリーハリー!」と急かすが…。

「ん?何か気になってる顔っス?」

 両手で吊るしてぶらさげた幼馴染の、何事か悩んでいるような表情に気付いて怪訝な顔になった。

 

「なら、母ちゃんに聞いてみるとかどうっスかね?」

 湯船の縁に腕を組んで顎を乗せ、体の隅々まで泡だらけにして洗っているタケミを眺めながら、アルはそう提案した。

 なお、別々に入っても良いと言うタケミを、悩みがありそうだからという理由で体よく入浴に誘っている。

「え?ダリアさんに…?」

「そうっス」

 女性に苦手意識がある少年は、提案を聞いただけで丸い体をキュッと縮こまらせた。

「所長と爺ちゃんが、タケミの父ちゃんと母ちゃんの事あんまり話さなかったのは、オレに気を使ってかも?ってずっと思って

たんスけど…」

「あ。それもあったのかも…」

 アルも実の両親との関係性はだいぶ複雑である。ふたりがシロクマに気を使ってあまり話題にしなかったという事も十分に考

えられた。

「でも、タケミが言うように寂しかったり哀しかったりして話し難いのはあるかもっス。だって、おっちゃん…所長とタケミの

父ちゃんは、オレとタケミみたいな関係だったらしいっスから」

「そう…だよね…。所長から見れば、本当の家族と同じなんだろうし…」

 ユージンはタケミの父母だけでなく、自分の両親や家族についても語らない。タケミの祖父に引き取られる前の事は「もう忘

れた」と言うだけ。未練があったり、トラウマを引き摺っているようには見えないが、あれはもしかしたら父と仰ぐ自分の祖父

に義理立てして、幼い頃の事を忘れたと言い張っていたのかもしれないとも少年は思う。

 面識が無いタケミ。話題に出しもしないアル。忘れたと述べるユージン。実の両親が居ない者同士でも三者三様である。

「それでっスよ?母ちゃんならタケミの父ちゃんと母ちゃんに詳しいはずっス。所長と一緒の時期に爺ちゃんの潜霧捜索所で働

いてた同僚だったんスから」

「それは…、そうかもだけど…」

 少年は口ごもる。スポンジで柔肌を丁寧に擦っていた手は、もう完全に止まっていた。

 ダリアの事は幼い頃から知っている。アルの養母であり、馴染んでいて当たり前のような関係なのだが…。

「何でそんなに女の人が苦手なんスかねぇ?」

 眉根を寄せるシロクマ。基本的に人見知りで引っ込み思案で怖がりで、人間関係の構築が上手くない少年ではあるのだが、女

性は別格。子供の頃からそうだったが、タケミは学校の女性教諭なども真っすぐ見られないほど苦手にしていた。

 つい先日、たった一人だけ例外ができたものの、彼女は…。

「克服しなきゃって…、思うんだけど…」

 不可能ではないと少年も思う。共感から声をかけて、距離を縮められたあの時のように…。

「あ、そうっス!」

 アルが顔を輝かせた。

「「ついてる」と思えば良いんスよ!母ちゃんも!」

「ついて…?え?」

 顔を向けたタケミは、アルが下向きに湯船の中…自らの股の方を指さしているのを見て…。

「アル君」

「うス?」

「どうかと思うよ」

「視線が冷たいっスよ!?」

 

 

 そして、夜が明けて陽が昇り…。

 

 

 伊豆半島は大隆起以降、その海岸線の様相を一変させた。

 海底隆起によって岩礁が増え、遠浅になった部分も多く、大型船の乗り入れには多くの海域で制限がつき、大隆起以前の海路

の多くが使用不能になっている。

 その一方で、それまで岸壁や岩礁に過ぎなかった浅瀬の一部は、砂浜として利用できるようにもなった。

 特に入江や海流の溜まり場だったスポットはポケットビーチとなり、これらを貸別荘つきで丸々レンタルする事業は、大隆起

以降大当たりの観光資材となった。伊豆半島全域が敬遠される昨今でも、気にしない観光客層は常に一定数存在する。特に裕福

な顧客にとっては穴場のスポットとして利用され、四季を通して盛況である。

 そのポケットビーチの一つを借り切って、タケミとアルの四等昇級祝いは催された。

 参加者は神代潜霧捜索所のメンバーと、ダリア、そして店のスタッフ達。日没で引き上げるので宿泊用のコテージは使わず、

砂浜にグリルセットを並べての歓談がメイン。さほど大きくないビーチは、総勢30名強が集まるとだいぶ賑やかだった。

「ボールで遊ぶっス!ハリーハリー!」

 「支度できるまで泳いできな」というダリアの言葉に従い、アルはタケミの手を掴んで、貸し切りの波打ち際へ走る。

 タケミの水着は普段の素潜りでも使っているトランクス型の濃紺で、一見すると色もデザインも地味だが流行りのメーカーの

品。アルは虎縞模様の派手なビキニパンツだが、肉付きの良い腰回りに食い込み過ぎて、角度によっては履いていないように見

えてしまう。

「おーい!水に入る前に準備運動忘れんじゃねぇぜ、ええ?」

「はい!」

 熊親父の呼びかけに反応して、素直に立ち止まってアキレス腱を伸ばしにかかるタケミ。

 ふたりに声を送ったユージンは出資者として労働を免除され、ブルーシートに胡坐をかいて、一足早く焼いて貰ったスルメを

肴にグラスビールを楽しんでいた。

 こちらは泳ぐ気が最初からないので、膝丈までのカーゴパンツを穿いている。普段のズボンと同じメーカー、同じ色なので、

単に膝まで捲っただけにも見えてしまう。そして上は…。

(着てるー…!)

 目を剥くタケミ。ユージンはいつの間にかアルの土産…「You人」ティーシャツを着用していた。思った通り丈が足りなくて

ヘソが出てしまっており、その半端な露出がある格好にドキドキしてしまう少年。

「何年かしたらオレも所長みたいになるっスからね?楽しみにしてくっスよ、むふふ…!」

 タケミの視線を察しながら、隣で柔軟するアルが囁くが…。

「え?なんで?」

 幼馴染には意味が通じていなかった。

「それにしても…。ウブ過ぎるタケミ君はともかく、アルも全然目を向けませんね?」

 オコジョ顔のスタッフが、大胆なビキニの胸紐を摘まみ、たわわな胸を震わせながらボヤく。

「一応、身内とはいえ上客接待だと思って気合い入れて来てるんですけど?」

「そーそー」

 思い思いの水着姿で華やいだ姿を見せている他のスタッフも、拍子抜けしたと言わんばかりの顔。

「タケミには刺激が強過ぎるって事だろうねぇ。正視したら正気が失われるとか、そういう…」

「私ら名状し難い何かの一種ですか姐さん?」

「アルは…、う~ん…」

 スタッフの抗議を無視した雌虎は、太い腕を組んで少し首を傾げた。

「案外あの子、ホモセクシャルかもしれないしねぇ」

『マジですか』

 一斉にダリアを注目するスタッフ。

「あの子も獣人なんだ。別におかしかぁないだろう?」

「それはまぁ…」

「そうですけど…」

「さ、雑談はこれぐらいにして作業作業!」

 ダリアがパンパンと分厚い手を叩くと、スタッフ達はすぐさま食材と器具の支度にかかった。

「姐さん、どれから焼きます?」

「照り焼きソース準備できましたー」

「誰かー、ソフトドリンクのクーラーボックス見てないー?」

 一応出資者も居るので仕事の体ではあるものの、「一緒になって楽しむのも仕事の内だぜ」という依頼をユージンから受けて

いるので、店のスタッフ達も気兼ねの無い解放感で表情が明るく、和気藹々とバーベキューの支度にかかる。予算に糸目をつけ

ずにダリアが手配した食材は、一級品ばかり取り扱っているラウドネスカーデンでも、毎度在庫があるとは限らないような物ま

で準備されていた。

「鶏モモはすぐに火が通るし、焼き上がりが一番美味いから後にしな。タケミもしばらく遊んでるだろうしね。芋とニンニクの

下拵えとアスパラから行こうか。ああ、それから出資者の酒のツマミも随時ね」

 指示を出しつつ、先に点火した一基に続いて炭火を起こしている雌虎は、セパレートタイプの水着の上からエプロンを着用し

ている。他のスタッフも似たような格好で、くつろぎはするが仕事もこなすという精神が見て取れた。

 このビーチで完全に人間の姿なのはタケミだけ。ダリアの店のスタッフは獣化がだいぶ進行している者ばかりで、潜霧士引退

後に再就職先を探すのにも苦労したが、ここには不自由も格差も存在しない。

「大将。お代わり、お持ちしました」

 灰色猫の半獣人がビール瓶を手に歩み寄ると、遊ぶ少年二人を眺めていたユージンは、彼女を見上げて相好を崩した。

「おう、悪ぃなグレイちゃん」

 グラスに赤味がかったクラフトビールを注いで貰うと、きめ細かな泡を理想的な配分で生じさせる灰色猫の手つきに、ユージ

ンは目を細めた。

「…だいぶ慣れたか?」

「は。お陰様で」

 応じる灰色猫は眼で会釈するように軽く視線を上下させた。表情が殆ど変化しないのは前のままだが、だいぶ「人間味」が出

たとユージンは感じている。

「今の生活は…店の仕事はどうだ?気に入っとるか?」

「は。毎日が楽しく感じられます」

「………」

 無言になる熊親父。その顔は意表を突かれ、驚きの表情を浮かべていた。

「どうかしましたか?」

 瓶の口を上げる灰色猫に、ユージンは「いや、なぁ…」と頬を掻きながら応じた。

「ダリアは大したもんだぜ。ヌシにそんな感想を言わせるんだからよ…」

 このグレイという雌の灰色猫半獣人も、かつては潜霧士であった。

 ただし、ユージンやダリアのように自らその道を選んだ訳ではない。以前の彼女は事務的を通り越して機械的で、感情らしき

物が傍からは覗えないほどロボット染みていたのだが…。

「大将にも姐さんにも感謝しています。勿論、大親分にも…」

 グラスを口元に運ぶユージンに、グレイは言う。

「生きて死ぬだけが人生ではないと、自分に教えてくれた事を」

「…そりゃあ、理由があったって事に、なるだろうな…」

 満足げにユージンは笑った。

 死は時に理由も無く訪れる。だが、生き延びる事にはきっと理由があるというのがユージンの考え。彼女が毎日を楽しいと感

じられているなら、それは生き残った理由として充分だとユージンは思う。

「大親分と言えば、時期を見計らって土肥まで大穴横断しながら挨拶に行くつもりだ。この間はバタバタしてじっくり話もでき

なかったからな。改めて話をする時間も欲しい。ヌシの事も話しておくぜ?元気にやってるってよ」

「は。よろしくお伝え願います」

 そんなふたりを海から眺めて…。

「おっちゃ…所長、またグレイ姉ちゃんと喋ってるっス。グレイ姉ちゃん客ともあんまり喋んないって聞くんスけど、所長とは

結構喋るんスよねぇ」

 波間に腰まで浸かった状態でザブザブ移動し、ビーチボールを器用に胸でトラップ、そしてキャッチしたアルが物珍しそうに

言うと、タケミもつられてそちらを向く。そして…。

「………!」

 露出が多めの女性陣から慌てて目を逸らした。一般的な年頃の少年にとっては目の保養…あるいは刺激が強めの景色だが、相

変わらず女性の肌が苦手なタケミは、喜ぶどころか目のやり場に困る光景である。

「グ、グレイさんって…、五年くらい…前まで…、潜霧士だったって…」

「らしいっスね。辞めた後で母ちゃんトコに再就職したんス。…あ。母ちゃんが呼んでるっス」

 ダリアが手を上げて大きく振っているのに気付いたアルとタケミは、海から上がり、砂に濡れた足跡をつけながら雌虎達に歩

み寄る。

「タケミ。鶏モモは照り焼きとガーリックソルトで良いかい?」

「は、はい…!」

 網に上げる前の骨付き鶏モモ肉を凝視するタケミ。動いて小腹も空いてきたので、先んじて網で焼かれている野菜の香りに鼻

が反応してしまう。

「アルはバーベキューソースで良いのかい?」

「イエス!オレのは何処肉っス?」

「ザブトン」

「…ホワイ?座布団?」

 ダリアの短い返答に、アルは首を捻る。

「肩ロースの肋骨側だよ」

「美味いんス?」

「見りゃ判るさ」

 ダリアが顎をしゃくった先には、ステーキ用にカットされて皿に乗った牛肉。

「うま…そ…!」

 口から溢れそうになったヨダレをジュルリと啜るアル。白いサシが縦横無尽に走った肉は生き生きした桜色。ダリアが特別に

取り寄せた、店でも通常メニューに入れていない上物のザブトンである。

「肩ロースの中でも特にサシが入った部分さ。考えてみりゃあアンタに食わせた事は無かったと思ってね。焼き肉用にカットし

た分や、ビーフハンバーグ用の挽肉もあるけど、まずはドカッと鉄板ステーキ!だろ?」

 グッと太い腕を曲げて力瘤を作った雌虎に、「イエス!ミディアムレアで!」と同じポーズで応じるシロクマ。

 こうして、主役達が少し動いて腹も減ったタイミングを見定めて、食材の主役である肉類が火にかけられた。

 網焼きだけではなく、その上に乗せる鉄板や、店での焼き物にも使用する溶岩板プレートなど、焼き方に変化をつけるために

用具も豊富。勿論、バーベキューの醍醐味である串焼きの準備もバッチリで、調味料香辛料も多様な品揃え。スタッフも総出で

参加しているので、実質「ラウドネスガーデン海の家出張版」である。

 タケミを喜ばせようとブランド地鶏の腿肉がたっぷり用意されたほか、オーソドックスなネギマの焼き鳥も仕込まれている。

 アルには高級ブランド牛のザブトンの他、好物のビーフ100%ハンバーグもあるが…。

「よし、飯の前にもうちょっと腹減らそうじゃないか。手伝いなアル」

「イエス、マム!」

 チャッと敬礼したアルはボール状の袋を手にしたダリアと共にグリルが並べられた所から少し離れ、距離を置いて向き合った。

双方とも片手に耐熱ミトンを嵌めているが…。

「いくよ~…。そら!」

 水着エプロン姿のダリアが、大きく膝を上げ、あられもない格好で振り被り、ドヒュンッと手にした物を投擲。

「ナイスピーッチ!」

 アルがバシンとミトンでキャッチしたのは、グレープフルーツ大の袋に詰められた挽肉。今度はアルが堂に入ったフォームで

投げ返し、「良い肩だね!流石アタシの倅!」と、ダリアが良い音をさせてキャッチ。

 これは焼き上がりの際に亀裂が入らないよう、大きな気泡を潰して挽肉を均等にする工程を、ダイナミックにキャッチボール

調でやるという作業。単に手ごねするのとは違い、捕球の衝撃で一気に水気と気泡が分離されるためギュッと締まったハンバー

グになる。

 息の合ったふたりのキャッチボールは、調理の工程とはいえ、タケミには楽しそうに見えた。

「………」

 無言で母子のキャッチボールを眺める少年。両親の記憶が無いタケミにとって、親子のキャッチボールはテレビや漫画で見る

だけの縁遠い物であると同時に、仲の良さの象徴のような物。
羨ましいのか、それとも寂しいと感じているのか、少年は自分が

抱く感情を何とも定義できない。

「ユージン!アンタもハンバーグ食うかい?」

「んぁ?」

 ブルーシートで独り酒を楽しんでいた熊親父は、唐突にダリアに呼びかけられて顔を上げ…。

「………おし。やるかぁ」

 少し何事か考えてから腰を上げる。

「タケミ、少し手伝え」

 呼ばれた少年は「え?」と振り返り…、

「ハンバーグ作りのキャッチボールだ」

 ユージンがニッと笑って見せると、コクコク勢いよく頷いた。

 

 肉汁滴るハンバーグに、テラテラと飴色に光る鶏腿。皿に盛られた焼き鳥に、香ばしく焼けたBBQ串。そして牛肉各種の鉄

板焼きに、ザブトンステーキ…。

「今回は出資者が太っ腹だったからねぇ。奮発して野菜類もたっぷりあるよ!」

 大隆起後の伊豆半島では耕作に費やせる土地が無い上に、作ったとしても売れないので、農業を専門に行う者は居なくなった。

野菜も果物も穀物も、畜産品と同様に高値で「本土」から仕入れる他ない。特に鮮度が高いブランド物は、高級牛肉に匹敵する

貴重品かつ高級品である。

「ふぁ…!」

 今朝フェリーで輸送されて来たばかりとダリアが言った、北海道産の極太アスパラを、タケミは目をパチクリさせながら見つ

める。こんな新鮮な上物野菜は、流通のツテでもなければなかなか食卓に並べられない。

「凄いよ見てアル君。こんなアスパラ熱海に来てから初めて…」

 視線を巡らせた少年は口を閉じる。ステーキを前にしたシロクマは、ナイフで切り分けるどころか、フォークで突き刺したザ

ブトンステーキに凄まじい形相でかぶりついていた。強火で軽く焦げ目がつけられた表面にはサクッと歯が入り、閉じ込められ

た甘いサラサラした脂が、旨味と共に口内に溢れて来る。食感も旨味も抜群の肉に夢中になっているシロクマは、滴った脂と肉

汁で口元から胸元までベッタベタである。

「アル、ステーキは逃げやしないよ。落ち着きな」

 雌虎がナプキンを手に、養子の顎周りを横から拭ってやる。体が大きくなっても手がかかる所は変わらない。

「おうタケミ、ハンバーグどうだ?」

 少年は金熊に声をかけられて振り向く。その手に乗せられた皿には、切った所から肉汁が溢れる分厚いハンバーグ。大根おろ

しと甘口醤油ベースの和風ソースがかけられたそれを、一口分切り分けてフォークで刺したユージンが差し出し…。

「ほれ、アーンしろ。アーン…」

「え?えと…。あ、アーン…」

 戸惑い、そして照れながらも口を開け、食べさせて貰ったタケミは、顔が真っ赤である。

「鶏腿も美味そうじゃねぇか?」

「あ、あの。所長もどうですか?」

 まだまだあるから、と言おうとしたタケミの前で、ぐっと顔を近付けたユージンは、その手に握られたガーリクソルトの鶏腿

肉をガブリと大きく一口噛み千切った。

「んぉ。ひおひいほるふぁ…。ハフハフ…!あふっ!(お。塩利いとるな…。ハフハフ…!熱っ!)」

 自分が食べた跡ごとゴッソリ噛み千切られた腿肉を見つめ、タケミの顔がますます赤くなる。

 酔いが回っているのもあるが、祝いの日だからユージンは朝から機嫌が良かった。それが嬉しい。

(キャッチボール?まで、しちゃった…)

 不慣れなので危なっかしくもあったが、ハンバーグ作りの一環で放られる肉玉を、キャッチしていた時の感触が蘇る。

 取り易いように山なりで投げるユージンも、楽しんでいるように口の端を少し上げていて…。昔、白神山地の実家に訪問して

来ていた時の、陽気で楽しいオジサンの顔をしていて…。

(幸せ…かも…)

 頬を赤らめるタケミは、「芋のスライスも美味かったぜ。貰いに行くか」と、ユージンに促されて、単に美味しい食事で嬉し

いのとは別の、温かい満足感に胸を満たされて…。

 

「ぷひー…!ぷひーっ…!ソー、タイト…!も…、もうダメっス…!うぷっ…!少しも入んないっス…!ぐぇぷ!ナデテ…!」

 シートの上にひっくり返ったシロクマが、膨れた腹を押さえながらウンウン唸り、目を白黒させながら滝のような汗を流す。

 ザブトンザブトンビーフハンバーグ鶏腿ザブトン串焼きザブトン合挽ハンバーグザブトン鶏つくねザブトンetc…。よほど気に

入ったのか、慌てて食べなくても良いという養母の忠告そっちのけで、掻き込むようにバーベキューを堪能したアルは、執拗に

ザブトンステーキを所望した結果、調子に乗り過ぎて胃が限界を迎えノックダウン。

「だからほどほどにしろって言ったじゃないのさ…。別に今日でなきゃ食えない訳じゃないってのに。ちょいと誰か、胃薬持っ

てきてくんな」

 呆れ顔のダリアは食べ過ぎたアルの胃の辺りを撫でてやりながら、スタッフに声をかける。

 一方で途中から越後の有名な日本酒に代えたユージンもだいぶ深酒しており、立ち上がるのが億劫な様子で、腰を据えたまま

くつろいでいる。気持ちが良いのか、時折コクンッと頭を揺らして舟をこいでいた。

「こりゃデザートは不要だったかね…。タケミ、アンタはまだ食えるかい?かき氷機もシロップも用意してきたんだよ」

「あ、は…はい…。少しなら…」

 食事は美味かったが、腹よりも胸がいっぱいで満腹するまで食べていなかったタケミが頷くと、ダリアは目を細めて「そりゃ

あ良かった」と大きく頷いた。

「宇治金時もあるんだ。フワ先生もアンタの親父も好きだったし、嫌いじゃないだろ?」

「!」

 タケミの眉が上がる。

「おや?どうしたんだい?」

「え、えっと…。あの…」

 父の話題が出た。訊くチャンスだと思った。だが内気で引っ込み思案な少年は、どう切り出せば良いか判らず…。

「………ふ~ん…」

 雌虎は軽く眉を下げた。何か話したい事や聞きたい事がある…、いつものように視線を逃がしているタケミが、今日はそんな

様子に見えた。

「アタシも立ちっ放しで腰が疲れたねぇ…。ちょいと休憩するから、グリル頼むよ」

 スタッフにそう声がけしたダリアは、「肉がつくと腰に来てねぇ」と、これ見よがしに尻尾の上を拳でトントン叩きながら、

タケミに目を向ける。

「ああそうだ。悪いけどタケミ、ちょいと手伝ってくれるかい?なぁに、簡単な事さ」

 そう言ったダリアは、視線を逸らしがちな少年にウインクした。

 

「さて、ここらで良いか」

 皆が居る辺りから50歩ほど離れた所で、ダリアは持って来たシートを砂上に広げた。

 そのシートを敷く手伝いをしつつ、タケミは雌虎から意識して視線を外す。

 本格的な調理も終わってエプロンを脱いだダリアの体を覆うのは、キャミソールタイプの水着だけ。上は大きな胸をふんわり

覆ったフリルつきの物で、下はスカートつきのビキニ。黒い水着は大人の色香を醸し出す上に、店の衣装よりも露出が大きく、

巨体の肉感がタケミには目の毒。前屈みになってシートを敷く作業だけで、たわわな胸や豊満な腹が弾んで揺れ、少年は目のや

り場に困りまくる。

「じゃ、座ろうか。麦茶で良いかい?」

 先に腰を下ろしたダリアは、ペットボトルを置きつつ、自分の隣をポンポンと叩く。大胆に足を広げ胡坐をかいて座る雌虎は

海の方を向く格好である。

 ユージンよりは小柄とはいえ、ダリアはアルより背が高く、2メートルを超える。正面から向き合うとタケミの目線は雌虎の

鳩尾から胸の高さになってしまい、豊満な胸が気になって前を向けなくなる。その事を考えて、隣り合って座った方が良いと判

断した。

「あの…。お、お、お邪魔します…!」

 おずおずと隣に座ったタケミに、「で」とダリアは水を向けた。

「何か話したい事があるんだろう?それか、訊きたい事かねぇ?」

「え?…あ、あの…。そう…です…」

 小さくなって膝を抱えるタケミ。

「ユージンについて?…じゃないねぇ。さっきの話だと…、かき氷…?あれに関して何か…」

 話すまで待っても良いのだが、何かしら言ってやらないと、この内気な少年はなかなか口を開けない。そのぐらいの事は心得

ているので、ダリアも考えながら何について気になっているのか、質問形式で促す。

「先生…アンタの爺さんと、親父も宇治金時が好きだった。…爺さんはともかく、親父かい?初耳だったとか?」

「は、はい…。あの…、お父さんの事…、ボク、あまり知らなくて…」

 つっかえながら苦労して、タケミは自分の父のについて、ユージンも祖父もどういう人物だったのかあまり話さないから、今

でもよく判らないのだと、ダリアに説明した。

「性格…とか…、好きな物…とか…。全然…。髪とか、目が似てるって…、所長は時々…。でも、それだけで…」

 雌虎は隣で膝を抱えているタケミがポショポショ話すのを、耳を立てて相槌を打ちながら、なるほどねぇと理解した。

 タケミに父親の話があまりできていない。その事は、タケミの祖父からも、ユージンからも聞いていた。

 タケミの祖父があまり話せなかった理由については納得している。

 彼は、あまりにも優秀過ぎた。面識のない偉大な父親の事を聞かされながら育つのは、タケミのためにならないのではないか

というのが祖父の懸念。そうでなくとも両親ともに居ない少年を、恋しがらせてしまうのではないかと祖父は案じていた。

 ユージンの方は、それに加えてタケミには少々説明し難い複雑な心境もあるのだが、そっちの方も理解できなくはない。

「…ま、勘弁してやんな。先生にもユージンにも話し難い事ってのはあるモンさね…。ユージンにとっちゃアンタから見たアル

みたいなモンで、兄弟同然の相手だったし、思う所もあるんだよ」

「…はい…」

 タケミは顎を小さく引いた。ユージンと父親の関係については何となくだが判っている。亡くした相手が大き過ぎて、あまり

話せないのはおかしくも何ともない。

「少なくとも、ふたりはアンタの事を考えて話し難くなっちまってただけで、何か不味い事があって教えられない訳じゃないの

さ。…ところで、陽子(ようこ)の事はどうなんだい?」

「え?お母さんの話も、お爺さんからは、あまり…。でも所長は…。こっちに来てからは、よく、話してくれるようになって…」

 ユージンにとってタケミの父は公私にわたって相棒だった。同時に、ダリアの相棒はタケミの母で、親友と呼べる間柄だった。

「アンタ、他の子供達を見てて、「親」についてどう思うんだい?」

「…え?お、親…ですか?」

「そう。自分には居ない。けれど普通の子供らには居る。やっぱり、羨ましかったかい?」

「ええと…」

 問われた少年は考える。親が居たら違う生活だったろうなとは思う。だが、自分の生活を振り返ってみても、親が居ないから

やり直したいとは思わない。親抜きで育てられても、自分は幸せだったという感触がある。

 厳しい祖父は、しかし自分を愛してくれていた。厳しくも大事に育ててくれたと確信している。アルもずっと一緒に居たし、

寂しい思いをした記憶はない。だからなのだろうか、他者の家庭を、親が居る生活を、羨んだ事はなかったと思う。

「羨ましいとは、あんまり…思わなかった、かもです…」

「じゃあ、恨んだ事はどうだい?」

 ダリアの問いに、少年は思わず首を巡らせ、雌虎と目を合わせた。何で?という疑問の表情を見つめて、ダリアは言う。

「自分と一緒に居てくれない両親を、生きていてくれなかった両親を、恨んだ事はないかい?」

「…恨み………」

 タケミは膝を抱えた体を丸め、そんな考え方もあったのだなと、自分の内面を見つめた。

 自分の父母への想いは、もしかしたら恨みが混じっている物なのか?と。だが…。

「恨みとかは…、無いっぽい…です…」

 それはどうやら無いようだと、少年は確認した。

「そうかい?」

「えぇと…。羨ましい…とかも、そうなんですけれど…。最初から…居なくて…、それが普通だった…から…」

 もしも、と考えた事はあるが、両親が居る生活という想像が、自分が経験した実際の生活よりも素晴らしいかというと、そう

でもなかった。

「た、例えば…。小さい頃に、居なくなったとか、だったら…、辛かったかも、なんですけど…。ボクは、最初からお爺さんと

一緒で…。それで…、お父さんも、お母さんも、居ないのが当たり前で…、だから恨みとか、羨ましいとか…、そういうの無く

て…。むしろ…」

「むしろ?」

「…アル君の方が…辛かったかな…って…」

「………」

 ダリアの目がスッと細まった。

 そこにあるのは怒りであり、憐憫であり、哀しみ。

 アルにも両親は居ない。が、居なくなった訳では無い。死別した訳ではない。タケミはその点を指して、物心がつく前に両親

が死亡している自分よりも、アルの方が辛かったはずだと述べていた。

「あ!で、でもダリアさんが居たから!だだっダリアさんが居るのとは別の話でっ!お、お母さんが居ても本当の親…、あ!ち、

違っ!ダリアさんが本当の親みたいなひとですけど!あの…!」

 アルの実の両親に、ダリアは劣る物ではなく、アルにとって本当の母親同然…だと言いたい。なのに上手く言えなくて慌てる

タケミ。こういう、気を使いながら取り乱す所は、母親そっくりだとダリアは感じた。

 切れ長な目や絹のような黒髪などの外見的特徴は父親譲りだが、テンパった時は母親を思い出させる。祖父や父ほど長身では

ないのも、きっと母親に似たのだろう。

 養母のダリアについて文句がある訳では無いと、ワタワタしながら弁解するタケミは、

「解ってるよ」

 そんな、押し殺した、しかし優しい声を耳元で聞き、同時に首周りからムギュッと、柔らかな感触に包まれる。

「は…、はへ…?」

 一瞬、何が起きたか判らなかったタケミは、自分がダリアに抱き寄せられ、ギュッと抱き締められている事を遅れて理解し、

ボッと顔を真っ赤にして頭から湯気を上げる。

「アンタは、本当に良い子に育ったねぇ!」

 最初から両親が居ない自分よりも、アルの方が辛かったと言える観念と思考。それは単純に親を知らないという無知から出た

言葉ではないという事が、ダリアにはちゃんと判る。タケミは臆病だが、それ以上に優しい子なのだと理解している。

 そしてダリアは、タケミをギュッと力を込めて抱き締め、後頭部を撫でてやりながら思う。

 自分の選択は正しかったのか?と。

 自分は、目先の掴める手を、救える者を、無視できずに潜霧士を引退し、今の生き方を選んだ。店を構え、食うに困る半獣人

達に仕事を用意し、住む場所と帰る場所と生きられる場所を提供した。

 だが、不破潜霧捜索所の皆は、その後も霧に挑み続け、ユージンは独りになった後も潜り続けた。

 今はタケミが居るから大人しくしているが、あの巨漢は今も、前人未到の「霧の底」を諦めていない。おそらくその人生をか

けて霧に潜り続ける。

 彼が霧に潜るのを辞めるのは、死ぬ時か、霧が晴れた時なのだろう。

 もしも、と思う。

 もしも自分が残っていたら。

 タケミの両親があんな事にならなかったら。

 タケミの祖父が元気な内に体勢が整っていたら。

 自分達は、霧の底に辿り着けただろうか?霧を晴らす手段か、霧の原因を見つける事ができただろうか?伊豆は安全で平和な

土地になっていただろうか?

 考えた所で仕方がないのに、一線を退いた雌虎は、時折自嘲混じりに夢想する。

 もしもそうなっていたら、タケミは普通の子供として両親と暮らし、自分もアルを養子に迎える事はなかっただろう、と…。

「タケミ。御影(みかげ)はね…」

 ダリアは抱き締めた少年に囁く。昔の仲間達の子であり、所々彼らを思い出させる可愛い少年に、かつて共にダイブした仲間

の話を聞かせる。

「とびっきり良い男だったよ?アンタが誇って良い父親さ…。ユージンが話し難いってんならアタシの所に聞きに来な。思い出

話ならいくらでもしてやらぁ」

 ユージンは、タケミが伊豆に移住してからは母親の話をしている。それならば、まだ子供だからと話していなかった以前とは

状況が変わって、もう話して良いと判断しているという事だろう。

 少なくとも、タケミは親の話を聞いても恋しさで悲しむような子供ではなくなっている。恨みも羨みも無く、真っすぐに話を

受け止められるだろう。

 単にユージンが話し難いだけなら、自分が思い出語りをしても良いはずだ。何せ…。

「仲間だったからねぇ。思い出話は山ほどあるってモンさ」

 ダリアの腕の中で、次第にタケミの強張っていた体から力が抜けてきて、顎がコクリと頷く形に引かれた。カッカと熱っぽく

なって朱色に染まった頬はそのままだが、体の拒否反応じみた強張りはほぐれて、大きく柔らかい雌虎の抱擁に身を任せる。怖

さも恐れももうない。安心するような柔らかさと体温に、力みが溶かされて消えてゆく。

「そうだねぇ。まずどんな男かっていうと…」

 ダリアは小さく笑う。

「できる男だったけどねぇ、気真面目さが一周して、ちょいと天然気味で面白い所もあったよ。だから笑い話も色々ある。それ

からアイツは、アンタと同じで鶏肉が好きだった。食べ物の好みはそう、かなり似てるねぇ」

 穏やかな潮騒に混じって、ダリアは笑いを含んだ囁きを少年に少し聞かせた。

 それは、タケミが知らなかった、立派だったとしか聞いていなかった、父親の人間味が窺える話で…。