第十二話 「彼岸の帰郷」

「来週は土肥ゲートまで縦走するんだって?」

「うっス!初挑戦っス!」

 潜霧上がり、皆で夕食に来た酒場で、置かれたビーフシチューの皿を凝視して唾を飲み込んだシロクマは、養母の問いに胸を

張って答えた。やや得意げである。

「ははぁん。気難しい熊親父もようやく認めたって事かい」

 丸テーブルを囲む三人の中で、唯一ジョッキビールをオーダーしている金熊をダリアが見遣る。

 四等試験に通ったとはいえ、全ての四等潜霧士が同じ実力ではない。ユージンが土肥までの踏破を計画したとなれば、タケミ

とアルが四等として不足ない潜霧士だと判断したのは間違いない。

「なし崩しになだれ込む格好になったし、後半は俵一家が護衛についた。…とは言っても一度は行ったゲートだ。そう難しい潜

霧じゃあないだろう。ねぇ?」

 鉄板の上でまだジュウジュウしているチキンステーキを前に置きながらダリアが話しかけると、タケミは「は、はい…!」と

やや緊張気味な様子で頷いた。とはいえ少し慣れてきたのか、ダリアの姿を間近で見ても過剰にドギマギしたり目を逸らしたり

はしなくなっている。

「油断大敵だぜ。ええ?潜霧士が死ぬ確率が最も高い場所は、初めて行く所じゃねぇ。だいたいは何度か行ってる場所で命を落

とすモンだ」

「出発前から辛気臭い話をすんじゃないよ」

「引き締めるためならいくらでもするぜ。それで長生きできるなら安いモンだ」

 顔を顰めるダリアにしれっと応じて、届いたばかりのジョッキを煽ったユージンは、「だがまぁ、その前にだ」と虎の女将の

顔を見上げた。

「四等合格の墓前報告で、白神山地に行く。アルも連れてくが構わねぇか?」

「いいっスよね母ちゃん!?」

 ユージンとアルの問いに、「秋の彼岸だしねぇ」とダリアはしみじみ頷く。

「良い機会だ、よろしく頼むよ。アタシも正月には挨拶に行くからさ」

「うっス!行ってきまっス!」

 そんなやり取りを眺めて、タケミはふと気になった。

(ダリアさんの所と、ウチと…。アル君には実家が二つある感じ?でも…)

 彼が生まれた元々の家については、実家と見なしているのかどうか、訊いた事はない。三つ目の実家扱いなのか、それとも…。

 

 

 

 9月も後半。暗い内に走り出したランドクルーザーは9時間かけて北上し、太陽が中天に差し掛かる頃に秋田県に入った。

「クカス~…。クカス~…」

 後部座席を広々と使って真ん中に座り、天井を仰ぎ、半開きの口からヨダレを零しそうになって寝ているアルをバックミラー

で確認したユージンは、「もう少ししたら起こさねぇとな」と呟いた。

 助手席のタケミは黙って頷くと、窓から望む絶景に注意を戻す。

 山々を切り拓いて走る自動車道は、奥羽の高みを抜けてゆくので眺めも良い。活き活きと緑が濃い木々に、山の稜線とくっき

り分かれた青空。雲の輪郭ははっきりしていて、手が触れそうなほど近く感じる。

 訪日中のアメリカ大統領の同行を伝えるカーラジオは音量を抑えられ、ランドクルーザーの低いエンジン振動が心地良い、絶

好のドライブ環境。

 春と秋の彼岸、お盆と正月などは、ユージンがこうして帰省の為に故郷の町まで乗せて来てくれる。窓の外の流れる景色が次

第に北国のそれに変わってくると、タケミは帰って来たのだなぁと、毎回実感を深める。

 ランドクルーザーは自動車道を降りて、低く穏やかなエンジン音を響かせながら、民家が点在する山中の里を走る。

 今泉大堤沿いに差し掛かれば、前世紀からそのままの、小さな石の祠が向こう岸に見えた。

 砂利敷の退避所は相変わらず雑草が茂り、コイン精米所脇の自動販売機の顔ぶれにも変化はない。

 中学の頃に工事中だった山間部は、今もダンプが出入りして道路建設作業が続いている。

 主要道沿いに肩を寄せ合う家々は、空き家も含めて変わりがない。

 田畑の中に立つスギやブナも、欠けず、折れず、顔触れはそのままで…。

 まるで時が止まっているように、タケミの記憶の中にあるままの景色が通り過ぎてゆく。

 ハンドルを左手で握り、窓枠に右肘を乗せて運転しているユージンは、「盆の入り以来だ。屋敷も墓もそんなに汚れとらんだ

ろうぜ」と呟き、タケミも同意して「念のためお布団だけ干します」と応じた。

 懐かしむ間もなく、最寄りのスーパー、母校である中学、研究所前を通り、真ん中に屋根付きの土俵がある公園を過ぎれば実

家はすぐ。

「粕毛川だ…」

 行く手に川を跨ぐ橋が見え、タケミが呟く。秋の彼岸、美しい空の下。また故郷の白神山地に帰って来た。

 粕毛川を渡った所で、タケミは後部座席のアルに声をかけて起こした。

 

 車のドアを開けると、だいぶ秋の香りが濃くなった奥羽の空気が一同を包み込んで迎えた。

「春のお彼岸以来っス」

 寺の駐車場に車を停めたユージンが住職に挨拶に行っている間、敷地内の水くみ場に備え付けられているバケツと柄杓を持っ

て墓地に向かいながら、シロクマが空を見上げる。

「秋っスねぇ~」

「だよねぇ」

「でも、ここで暮らしてた頃と全然変わんないっスね~」

「それも同感かも…」

 隣を歩くタケミも同意。地殻変動が頻繁に起こって変化が目まぐるしい伊豆で仕事をしていると、この辺りは時の流れが特に

穏やかに感じる。

 間をおいて帰って来ても変わらない故郷があるのは、幸せな事かもしれないなと、少年は感じた。

 祖父に連れられてアルと三人でよく歩いた、寺裏手の墓地への道。敷地内に点在する彼岸花が、進むほどに数を増やしてゆく。

 墓前に到着し、あまり汚れていない事にホッとしつつ、サッと拭いて綺麗にしている所へ、住職との挨拶を終えたユージンが

合流した。

「線香つけるぜ。手は拭いとけよ」

 持参した線香束を取り出し、屈んで自分の大きな体を風除けにして、ターボライターで着火するユージンの背をタケミは見つ

める。

 いつも思っていたが、今でも変わらない。小さい頃から何度も感じていた。

 この巨漢は墓参りをする時、背中がひどく寂しそうに見える、と…。

「おし、分けるぜ。まずタケミ。アル、受け取れ」

 三等分した線香を順番に渡し、墓前に供え、三人並んで手を合わせる。

 目を閉じ、ただいまの挨拶を頭の中で呟いて、目を開けたタケミは墓石を見つめた。

 ツヤツヤと光るその墓石は、父と同じ名の御影石でできている。だが、ここには父の遺骨だけが無い。ジオフロントの何処か

に今も眠っているはずの、ユージンも見つけ出せなかった父の骨を、いつかここに連れて来るのがタケミの願いである。

 自分の望みを再確認しているタケミの横顔を、アルはそっと窺った。

 少年にも判っているはずだった。骨も食い荒らされたりして、判別不能になっている可能性については。それでも目標として

掲げるのは…。

(自分のためじゃないんスよね。自分が恋しいから父ちゃんを探したいんじゃなく、母ちゃんと一緒にしてやりたいからなんス。

タケミの場合…)

 記憶にもない父母の為に、きっとその方が喜ぶだろうからという理由で、真剣に目標を見つめられる。優しい子なのだと心底

思う。
結果的にではあるが、伊豆に腰を据えて頑張ると決めた以上は、自分も全力でそれに付き合おうとアルは思っている。

 まずはジオフロントへの進入許可。三等になって降下が許されない事には、遺骨探しもスタートできない。そのためには、コ

ツコツと潜霧を繰り返して昇級が認められるだけの成果を上げなければならない。

(急いでも焦ってもどうしようもないんス。苦手だけど着実にっスね)

 そしてシロクマは、育ててくれたタケミの祖父に誓う。

(爺ちゃん、オレちゃんとタケミ支えるっスよ。大丈夫!おっちゃんも一緒っスから!)

 長々と手を合わせた後で、三人は墓前から去る。墓の周囲に咲く彼岸花が、手を振るように揺れていた。

 

 生垣に囲まれた広い敷地にランドクルーザーが入り、砂利敷きの一角に停車する。

 タケミの実家は広々とした純和風建築で、黒い瓦が美しい平屋建ての屋敷である。祖父の生家で、1900年代に建てられた

年代物の家だが、大工が良かったようで今でもガタ一つない。タケミがユージンの元に行き、ひとが住まなくなってからは、隣

町に住む祖父の従兄弟が時々見回りに来るなどして管理してくれていた。

「帰って来たって感じするっス~!」

 ヘソが出るほど体を反らして伸びをし、胸いっぱいに空気を吸い込んだアルは満面の笑み。タケミもここに来るとホッとする

というのが正直な気持ちである。

「今回も少しだけ枝切りしてくか…」

 ユージンは庭に植えられている様々な四季の低木を見遣って唸った。盆に手入れをしたのにもう枝葉が好き勝手に伸びている。

タケミの祖父の従兄弟も高齢で、そういった作業まではお願いできない。

 玉砂利が敷かれて飛び石が埋められた日本庭園は美しいが、手入れする祖父が亡くなって以降は勢い付いて、たまにユージン

が来た時に鋏を入れなければ、庭木達が育ち過ぎて無法地帯になってしまうのである。

 食材や飲料が詰まったクーラーボックスなどの荷物を車から降ろし、玄関に向かい、タケミが鍵をあける。ひとが暮らしてい

ない、掻き回されずに沈殿した空気が引き戸から外へと流れ出て…。

「ただいま帰りました…」

「ただいまっスー!」

 タケミとアルは数年前まで学校帰りにそうしていたように、屋敷の奥へ声を投げかけた。返答がない事に少し寂しさを感じつ

つも、これが馴染みの習慣である。

「邪魔するぜ爺さん、婆さん」

 ユージンがそう玄関から奥の居間へ声をかけると、まだ祖父が帰りを待っていたような気分になった。

「さて、爺さん達に帰省のあいさつだ」

「はい!」

「うっス!」

 玄関に靴を揃え、どやどやと上がったら、まずは奥の仏間に向かい、三人は仏壇前で揃って座る。

 見上げれば、天井付近の高さに飾られた遺影の列。タケミから見て五代前までの祖父母、そして父母の写真が飾られている。

 柔和そうな祖母の写真に寄り添うのは、角ばった顔と獅子鼻が厳めしい祖父の遺影。

 不破三厳(ふわみつよし)。ユージンにとってもタケミにとってもアルにとっても育ての親。土肥の大親分と並ぶ、最初の一

等潜霧士である。

 隣の遺影はタケミの父、不破御影(ふわみかげ)。整った顔立ちや切れ長の目がタケミと似ているが、少年とは違い釣り目気

味で顔つきもキリリとしている。整えられた口髭は英国紳士かバーテンダーのよう。

 その隣は母の不破陽子(ふわようこ)。こちらはきょとんとしたような顔の写真で、口元に微笑を湛えた遺影になっている。

美人というよりは愛嬌がある可愛らしい顔立ち。腕は確かだがすぐ取り乱す性格で、そんな所はタケミと似ているとユージンは

語った。

 ユージンが仏壇に土産の水羊羹セットを上げ、三人で順番に線香を上げて拝み、換気扇に吸い込まれてゆく煙と、薄れてゆく

鐘の残響を見送る。

「おし、淀んじゃいねぇが換気だ換気。ワシは布団やら座布団やら出して廊下に…」

「ザブトンっス!?…あ、普通の座布団っスか…」

「…肉じゃねぇ。とにかく干すモン広げとくぜ。ヌシらは窓開けて空気入れ替えてこい」

 ユージンに指示を出されたタケミとアルは、それぞれ屋敷の廊下を東西に移動し、庭に面した長い廊下の窓を開けてゆく。そ

うして歩きながら台所や風呂場も覗いて換気する。

 やがてアルはかつての自室…そのまま残してある中学卒業まで過ごした部屋に踏み入り、窓を開け、ビニールを被せてある棚

を見遣る。

 そこには趣味で作っていたプラモデルが並ぶ。猟師として世界中を転戦して回る生活では打ち込めない趣味で、しばらくご無

沙汰しているが、ここに残されているのはいずれも愛着のある作品達。ダリアの家と神代潜霧捜索所、そしてここと、アルには

三つの私室があるわけだが、最も趣味が濃く出ているのがこの部屋だった。

「居る間だけでも覆いは外しておくっスね」

 カバーを除けて中を覗き、目を細めるアル。色褪せない少年期の想い出は、ここでの暮らしと共に屋敷に保管されていた。

 一方タケミは自室に入ると、窓を開けるなりさっさと出て居間に向かう。こちらは熱海へ越す時に必要な物を全て移動したの

で、殺風景なほど広々とした部屋になっていた。

 唯一残るのは、アルバムや学校の資料などが詰まった小さな本棚。持っていける物でもあえてここに残したのは、見るとホー

ムシックにかかってしまいそうな自分の性格を考えての事である。

 一通り換気が済むと、ユージンが腕まくりしながらふたりに告げた。

「夕飯はワシが支度する。手伝いは要らんぜ。研究所にツラ出してから支度するが…、飯は六時半頃にするか。ヌシらはダチに

挨拶でもして来い。…ああ、それから帰りに長葱ときりたんぽ買って来てくれ」

 ユージンはタケミに札入れから五千円取り出して預けると、「釣りはいらねぇからふたりで駄賃にしろ」と、昔よく見せてい

た懐っこい表情でニッと笑った。

「六時頃には帰ってこい。今夜はきりたんぽ鍋だぜ。異論はねぇな、ええ?」

「はい!」

「イェア!」

 喜ぶふたりを玄関から見送ると、ユージンは「どれ…」と腕まくりして、器具を出しに台所に向かう。

 料理のレパートリーは多くないし、大雑把な性分が災いして丁寧でもないし上手でもないのだが、鍋物だけは例外的に得意分

野。育ての母であるタケミの祖母に幼少期からよく鍋料理を振舞われ、これが好物だったので、鍋料理や豚汁などだけは覚えて

作れるようになっている。特にきりたんぽ鍋はユージンにとっては母の味だった。

 鼻歌混じりに尻尾を揺らし、上機嫌で土鍋を出して来たユージンは、運び込んだ食材をクーラーボックスから冷蔵庫に移そう

として…。

「…アルの仕業か…。いつの間に…」

 クーラーボックスの中には、入れた覚えがないカップアイスが隙間を埋めるように詰め込まれていた。

 

「公園とか向かえば誰か居るっスかね」

「あとは河原とか…」

 見慣れた風景の中、歩き慣れた道を並んで歩くタケミとアル。地熱のせいで熱帯化している伊豆半島での暮らしに慣れると、

故郷の秋風もやや肌寒く感じられる物だなと、タケミは剥き出しの腕を軽くさすった。

 橋を渡ってすぐ見えるのは、来る時も前を通った公園。遊具に囲まれた中心に土俵があるのが目を引く。タケミやアルなど、

この近辺の子供らにとっては遊び場でありたまり場だった。

 その向こう側に距離をおいて見えるのは、一見すれば洒落た民家のように見える建物。しかしこの辺りの民家とは明らかにデ

ザインが違い、赤と白のビビッドな配色もあって風景から浮いて見える。

「所長、研究所に行くって言ってたっスけど、オレ達も顔出してた方が良いんスかね?」

「でも、ボク達だけだと立ち入り許可出ないよ?」

「あ。それもそうっスか」

「挨拶に行くなら所長が連れて行ってくれるだろうから…」

「そうなったらで良いっスね。…お?」

 シロクマは行く手に目を凝らした。彼岸花が道端のあちこちで赤を振りまく景色の中、公園内には人影が確認できた。

 花言葉がいくつもある彼岸花だが、その内の一つは…。

「お!タケミ!アル!」

 大声が響いて、ふたりは見知った姿に目を止め、顔を見合わせる。

「ただいまっスー!」

 アルが大声で返事をし、手を振った先には、公園でたむろしていた地元の友人達。アルと遜色ない巨体の熊獣人や、線が細い

浅黄色の猫獣人、狸やオコジョ、秋田犬の半獣人、人間など、バラエティに富んだ少年達が、皆笑顔を見せている。

 「再会」。いくつもある彼岸花の花言葉の一つである。

 

 この町には獣人が多い。

 畑にはトラクターを転がすホルスタインの農夫が居て、コンビニのカウンターにはカエルの店長がおり、炭焼き小屋ではマヌ

ル猫が火の番をし、保育所ではバーニーズマウンテンドッグが保育士一の人気者。半獣化状態の者も、獣化が進行しきった者も、

外を出歩いているとあちこちでちらほら見られる。ここの住民のだいたい三割が、程度の差はあれ因子汚染を経て生存した者で

ある。

 霧は特殊な例外…環境再現実験の事故や、持ち出された霧の成分の漏洩事故などを除けば大穴でしか発生していないため、基

本的に獣人は伊豆半島で発生する物だが、この町には伊豆半島から移住してきた獣人が集中していた。

 因子汚染への忌避感や蔑視から、獣化が始まった者は仕事や暮らせる場所が制限されてしまうのが実情。しかしここは、地元

に顔が利く名家の血筋であるタケミの祖父が大隆起直後から尽力したおかげで、因子汚染された者達を受け入れる風土が出来上

がっている。今では、あたかもずっと昔からそうであったかのように獣人という存在が普通の物となっていた。

 ここで暮らすに至った獣人達の経緯や事情は様々である。長城を越えて出た霧に中てられて獣化してしまった者や、引退した

が働き口が見つからない元潜霧士、中には、伊豆半島で暮らしていた一般人が、家族に獣化の兆候が現れ、慌てて脱出してきた

ケースもある。

 他は駄目でもこの町になら受け入れられる。この町でなら第二の人生をスタートできる。

 元々過疎化が問題になっていた上に、冬は雪かきに雪おろしが必要で、農業林業が地域の収入基盤となれば、体力が桁外れな

獣人達は、働き手としても頼りになる隣人としても重宝された。

 しかし、この地域で最も特殊と言えるのは、子供の獣人が見られる事である。

 基本的に、獣化が進行した者は人間との間に子供を作れなくなる。これは因子汚染によって人間との遺伝子交配がほぼ成立し

なくなるせいで、天文学的な低確率でしか子供が生まれない。

 さらに、獣人同士でも個体ごとに別種と言えるほど遺伝子が違うため、子供ができる確率はおそろしく低い。獣人の状態で生

を受けた者は、大隆起後の四十年でたった数例しか存在しないレアケースである。

 この町で見られる獣人の子供達も生まれながらの獣人ではなく、アルと同じように何らかの事故などで霧に中てられ、重度の

因子汚染を受けながらも生き延びられた者達である。

 そうして、四十年に渡り獣人の移住者を受け入れ続けて来た町だからこそ、獣人達はもう当たり前に居る存在となっている。

 姿形や体力体質の違いなどは、肌の色が濃い、目が良い、画が上手い、走るのが早い、癖っ毛といった、長所や特色程度の物

という捉え方が定着しており、獣の姿や基礎体力などを羨む事はあっても蔑む事はない。

 むしろ自分も獣人になれたら良いのにと純粋に感じる住民も多い程で、他の地域とは比較できないほど獣人、獣化、因子汚染

という物にオープンな土地柄なのである。

 そんな場所で暮らす事ができたから、幼少期に獣人となったアルも屈折する事なく、伸び伸びと朗らかに、獣化後の自分を受

け入れて成長できた。この点については、狙った物ではないが夜型に育ててしまう事を心配してここへ送り出したダリアの判断

の勝利と言える。

 

「っしゃー!」

「どぉすこいっス!」

 公園中央の土俵で、シロクマとヒグマが上半身裸でぶつかり合う。

 ベルトを掴んで四つに組み、素足が土を蹴り乱す。

「挨拶から流れるように相撲取ってる事に一抹の疑問はあるっスけど!パワフルさが前にも増してるっス!」

 上手投げを繰り出すアルに、対戦相手のガタイがいい熊少年が「鍛えてっからな!ぬはは!」と堪えながら応じた。

「のこったのこった!」

「それハッキヨーイ!」

 土俵近辺に集まった子供らが、取っ組み合う熊達を応援する。人間も獣人も、「なりかけ」も一緒になって。

 娯楽施設が少ないので、田舎の子供らの遊びは、家でゲームか公園で戯れるか山に探検に入るか川で泳ぐか釣りをするか。相

撲など支度も無しに遊べる娯楽の代表例なので、付近の少年達は嗜みとして取り方を身に付けている。

 そんな中で、単純に身体能力に優れる獣人は羨望の眼差しで見られた。異形である事を疎まれる事もなく、力が強いと皆が手

放しに称賛した。ここでは、アルは珍しい獣人の子ではなく、因子汚染された可哀そうな異形の子などでもなく、腕っぷしの強

いヒーローだったのである。

「ぬぅりゃあああああっ!」

「なんのぉおおおおっス!」

 互いのズボンが股に食い込むほど引き付け合う熱戦を繰り広げる両者。猟師として訓練と経験を積んでいるアルと、互角に力

比べできる熊の少年は、何を隠そう特殊な戦闘訓練を受けた逸材…という事は全くなく、ごく普通の一般人。強いて特徴を上げ

るなら大工の息子である。

 このように獣人には個体差があるものの、アルと同水準のポテンシャルを持つ者もある。瞬発力だけならアル以上の者や、反

応速度や視力と言った部分で人間の基準から大きく逸脱した性能を持つ者も居る。

 そんな彼らだからこそ普通の地域の普通の学校に馴染むのは大変だが、この町では気兼ねが要らない。

 思い切りその単純性能を発揮して相撲を楽しむ両者に、皆が声援を送る中、タケミはそっと輪の中から外れたが、誰もそれに

気付かなかった。

 

「あらクマシロさん。しばらく」

「おう。邪魔するぜ園長」

 ファンシーな外見の研究所入り口で、金の大熊は果物籠を抱えた豊満な牛…ホルスタイン獣人の婦人に会釈した。

「お彼岸ですもんねぇ」

 牛婦人が笑いかけると、ユージンもニマッと顔を緩めて笑う。

「一応保護者なモンでな。節目には連れて来てやらにゃあいかんぜ」

「板についてきました?保護者」

「赤点は何とかまぬがれてると自負しとるが、どうかなぁ」

 おどけて肩を竦めたユージンは、居合わせたスタッフや関係者にも目を向け、軽い挨拶を交わした。

 この研究所は農作物の品種改良や、育成方法の研究を行なっている。野菜、果物、穀物の栽培研究は勿論、ここ十年ほどは地

ビールに地ワインのブランド化も行ない、各地にアンテナショップを出店するほどの大当たりを出してのけた。

 ダリアにも比肩する体格と豊満さの牛の婦人は、この研究所の果物部門の責任者であると同時に、地元果樹園の経営者であり、

ワイナリーのトップでもある。

 優しい笑顔が印象的で、性格もおっとり穏やかなのでとてもそうは見えないが、かつては伊豆半島で、霧の中で育った植物の

安全性について研究していた人物。霧に自ら潜って生態系の研究を行なっていた、二等の潜霧資格持ち。ユージンとは昔からの

顔馴染みである。

「今回は白星(しろぼし)君も一緒の帰郷なんです?」

「耳が早いな。帰国しとった事…、いや、ウチで雇った事ももう知っとるのか?」

「さっきお聞きしました」

「さっき?」

 ユージンの疑問に答えず、婦人はスタッフルームをチラリと見遣る。

「寄って行かれるんでしょう?」

「ああ、そのつもりだぜ」

 頷いた金熊は婦人に先導されて関係者専用エリアに入ると、エレベーターに乗り込む。

「ごゆっくり」

 牛婦人の言葉にドアが閉まる微かな音が重なり、密封されたエレベーターは四方から赤い走査線をユージンの巨体に走らせた。

『認証。「雷電」』

 壁面のスキャナーが個体特定の完了を電子音声で告げるなり、エレベーターは下降を始める。見取り図上は存在しない、地下

80メートルのフロアへと。

 表向きは農作物の研究所という事になっているこの研究所は、同時に獣人についての研究を行なっている場所でもある。政府

管理下、直属の研究機関の出張支部とも言えるこの研究所がこの町にある理由は、当然、獣人のサンプルデータが手に入り易い

からに他ならない。

 やがて、止まったエレベーターから一歩踏み出したユージンは、目前に立つふたりに片眉を上げて見せた。

 万が一に備えて、堅牢なジオフロント由来の特殊金属材…ステンレスのような光沢のある耐火耐衝撃壁とドアに四方を覆われ

た、5メートル四方のエントランス。そこに立つ二人の片方は、毛髪の一部が白くなっている人間男性である。

「来る事が判ってたような出迎えじゃねぇか。ええ?」

 政府の潜霧探索管理室の室長、種島和真は、「判っていたならドラマティックではありますが、今しがた織姫(おりひめ)さ

んから連絡を頂いて来訪を知りました」と肩をすくめる。

「カズマちゃんが冗談とは珍しいな。なんぞあったか?アンタが冗談を言うのは、絶体絶命の危機が目に見えてる時か、徹夜が

続いて連日元気丸飲んどる時ぐらいのモンだが…」

 なお、ユージンが言及した元気丸とは、無水カフェイン800mg錠剤の事である。服用し過ぎなくとも普通に体に毒という

レベル。

「警報装置のように言わないでください。他にも、立てた計画が全部おじゃんになった時や、長城の風車が何基か同時に停止し

た時、観賞予定だったピアノコンサート当日に事件が起きた時などにも冗談が口から滑り出ますよ」

「結局ピンチの時じゃねぇか」

 カズマと軽口を叩き合ったユージンは、「で」ともう一人…探索管理室長と一緒に居た人物に目を向ける。そちらは、たっぷ

りした白い髭と丸い体がサンタクロースを思わせる、恰幅の良い老人だった。

「ご隠居。今日はゴルフじゃなかったか?ええ」

「問題ない。代役を立てた」

 目を細めた老人は、顎髭を弄りながら応じる。

「二人してこっちに来たって事は…、何ぞあったか?」

 ユージンの目が僅かに鋭さを増したが、カズマは「確認すべき事柄でしたが、悪い話ではありません」と軽く肩を竦めた。

「先月こちらから異動になった人材が、早くも成果を上げてくれまして…」

 ほう、と眉を上げた金熊は、カズマの案内に従って老人と共にドアを抜け通路を進む。エレベーター内の厳重なセキュリティ

さえ抜ければ、関門となるチェックドアごとに区切られたエリアはカードや認識票の読み取りで行なえるため、移動はスムーズ

である。
所々にアサルトライフルを携帯した、特殊部隊のようなフル装備の衛兵が立っているが、彼らは三人に敬礼し、顔パス

で通す。

「タケミ君の様子はどうだね」

 歩きながら老人が問うと、「相変わらず距離を取りがちだぜ。人間に対しても獣人に対してもな」とユージンが応じる。

「無理もない。この世に同種が存在しないと思っているあの子が、本当に心を許せるのは一握りの相手だろう」

 顎を引いた老人は、憂いの光を皺に覆われた目に浮かべる。

「会う相手全てが別種ならば、距離の詰め方も慎重にならざるを得ない。距離を縮めなければ見えてこない交流の糸口を、あの

子はそもそも掴み辛い訳だ。まして、自分を怪物と卑下する価値観が消えなければ、相手にどう思われるかを恐れる気持ちも薄

れはしない」

「………」

 黙り込むユージン。この老人は直接の面識もないのにタケミの内心をよく理解している。もしかしたら自分よりもよほど詳し

くタケミの心情を汲んでやれるのではないかと考えると、胸の内ではやるせなさが疼く。

 自分は結局、タケミの理解者兼保護者としてはまだまだ未熟なのだと…。

「ユー。かつてはミツナリが、そしてアルビレオ君が、今は君が傍に居る事で、あの子も安定しているはずだ」

「ふん。フォローされるとはな…」

「そう自分を下げる物ではない。タケミ君にしてもそうだ。万人と交友を深める事ができる人間など、そもそも居ない。あの子

は、ただ少しばかり他者との距離を詰めるのが苦手なだけ。それを見守る君達は、褒められるべきではあっても非難されるいわ

れは無い」

「………」

 ユージンが再び黙ると、老人は話題を変える。

「カスヤ君の娘さんの件では迷惑をかけた」

「詫びは不要だぜ。カズマちゃんに充分頭を下げて貰ったからな。むしろ、力が及ばなかったこっちの方が申し訳ねぇ件だった」

「だが、無駄ではなかった。冷たい言い方になるがね」

 老人が小声でそう漏らし、ユージンは顔を横に向ける。

「…まさか…」

 老人は「さすがは二代目熱海の大将。勘が良いな」と目つきを鋭くし、表情を引き締めた。

「霧を吸入した事による急性中毒…。因子汚染による死因第一号だ。例えジークフリート線を越えられる体質であろうと、急激

な変化で肉体が崩壊しショック死に至る。しかし…、タネジマ室長?」

 話を振られたカズマは、先導しながら「はい」と頷き、後を請け負う。

「ミキさんはジークフリート線を越え得る獣化適合者でした。急激な変化その物で多臓器不全を起こすなどの致命傷を負いはし

ましたが、顔中から牙が生えたり、全身を骨が突き破るなどの無軌道な変化は一切生じていません。遺体からは「正統な獣化現

象」が確認されました」

 ユージンは、虎の顔に変じたミキの死に顔を思い出す。異常な変形は見られず、綺麗と言っていい虎の顔だった。そこまで思

い出し…、

「彼の父親が被験に臨んだ」

 老人の言葉で息を飲んだ。

「…粕谷大臣が…?」

 あの事件の少し後から、大臣を公的な場では見ていなかった。その理由にユージンは思い至る。

「慎重にステージを進行させた結果、彼は虎の獣人への獣化を完了した。ステージ7…、完全獣化だ。私に断りもなく無茶な実

験を強行した事は勿論責めた。が、結果としては…」

「父娘…、近い血統での適合率確認ケース…。急性中毒のサンプルと、生存のサンプル…。比較するのにもってこいの、貴重な

ケースだった訳だ」

「うむ。彼らのおかげで、かねてからの研究の一つが一つ進んだ。ここで揃えている住民達が提供してくれた因子データと照合

する事でね」

「それを確認に来てたって訳か」

 老人は頷き、突き当りの重々しい鉄門扉の前で立ち止まったカズマが振り返る。

 そこから先は、獣人の体…因子汚染を経て変化した遺伝子を、人間のそれと比較対照しながら研究している、管理制限トップ

クラスの研究エリア。

「ジークフリート線を越えられるかどうか、これを確認できるパッチテストの精度が上がった。まだまだテストケースは不足し

ているが、適性の有無を8割以上の確率で当てている。何より…」

 鉄扉が開く。その向こうにはまるで骨のように白い壁と天井、床が広がり、所狭しとデスクやモニターが並んでいる。

「タイキく~ん、こっちの資料も一応機密だから、纏めて融解処置お願~い」

「はいはーい!」

 二十代前半と思しき太った大柄な猪がスタッフに頼まれ、ダンボール詰めされたキロ単位の資料を軽々と重ね上げ、デスクの

隙間を縫ってドタドタと隣室に運んでゆく。白衣ばかりの研究室だが、猪は主に力仕事担当の庶務スタッフなので半袖ポロシャ

ツに綿パンのラフな格好である。

「ナッチ、グラフどうよ?」

「安定していますよ。つまらないくらいです」

 脇からデスクのモニターを覗き込んだ研究者に応じたのは、何らかの数値の変化を監視していたレッサーパンダ。

「まぁまぁ、何も起きないのを確認する実験だからしゃーないって」

「刺激的な実験の方が好きなんですけれどね。爆発しろとまでは言いませんけれど、謎の細胞が発生する事故とか起こるぐらい

だと面白いな」

「そういうエキセントリックな発言のせいでこっちに追い出されたんだぞー」

「望む所ですよ」

「望むなってば」

 飛ばしているジョークは不穏だが、同僚と笑い合うレッサーパンダの顔は整っている上に愛くるしい。こちらも二十代前半と

思える若い青年である。

 靴音を鳴らして書類を抱え、せわしなく行き来する研究員たちは、軽く見ても40人以上だが、獣化が進んでいる者も数名混

じっていた。

 フランクな会話が飛び交うこのラボは、獣化現象研究分野において、世界でも一二を争う研究の最前線。政府の研究機関から

出向している者も居れば、伊豆で霧を体験してきた経験者も居る、この研究所で最も重要な機密を扱う最高レベルの秘匿ラボ。

「あれ?タネジマ室長、そ…ご隠居!忘れ物ですか?って、ユーさん!」

 荷運びから戻ったタイミングで気付いた猪が声を上げると、室内の面々が一斉に入り口を向いた。

「あー!ユージン君!そういえばチェックに来るって言ってたっけ!今日かー」

 五十を過ぎてもボディビルダーのような体型を維持している馬の研究者が、乱れた鬣をガリガリ掻く。

「主任ー!また日付感覚おかしくなってますー!?」

「しっかりして下さいよー!」

 メンバーから口々に文句が上がり、ついで歓迎の挨拶がユージンに浴びせられる。

「元気そう…ってか大変そうだな相変わらず。ちゃんと食って休んでんのか?ええ?」

 日付が判らなくなるほどここに籠っていた馬に苦言したユージンは、スタッフ一人一人に労いの言葉をかけて回りながら、カ

ズマが移動した先のデスクに向かった。

「これです。「テスター03」、最新式パッチテストキットの仕様…」

「ま、完璧じゃないですけれど」

 デスクで数値を監視していたレッサーパンダが、カズマの声を遮るように発言する。

「今は時間経過や温度変化での変質と、それによる検知精度の低下などについて調査中です」

「耐久テストか。伊豆で使うならせめて常温プラス10℃までが使用可能範囲であって欲しいが…。いつこっちに異動させられ

たんだナッちゃん、ええ?」

 画面を一瞥したユージンが問うと、レッサーパンダが肩を竦める。

「もうすぐ一ヶ月になります」

「主任と折り合い悪かったしな、無理もねぇか。で、タイちゃんも引っ張ってこっちに来たと」

「御明察です。環境はまぁ、気に入ってますよ。どうりでアルビレオ君やタケミ君が良い子に育つ訳です」

 このレッサーパンダ、元は伊豆半島の大穴内でサンプル採取をしていた政府機関の職員なので、ユージンとも知った中である。

「この表…、気になる点が一つあるぜ。新しいテスターには葉酸が使われてんのか?」

「何で気付けるんだしキモッ!専門家でもないのに」

 レッサーパンダが顔を顰める。

「部分的にちぃと詳しいんでな、分子配合表から当てずっぽうに言ってみただけだ。大方、グルタミン酸の結合構造が有効…っ

て所か」

「そういう所まで察せるんですか本当にキモいですね。でも正解です。主任の直感でしたが成分が安定しました。反応を示す成

分は極論すればナマモノですから、乳酸菌と同じ原理で行けないかと思ったそうで…」

 少し込み入った専門的な話をユージンとレッサーパンダが交わす間、カズマは質問に答える以外は黙っていた。こういった話

の詳しさや知識において、ユージンは政府直轄の研究機関の職員顔負けである。噛み砕いた説明なども無しに、専門用語だらけ

のレッサーパンダの説明をすんなり咀嚼してゆく。下手なフォローや補足はかえって邪魔になりかねない。

「ご隠居ー、どうぞ椅子におかけになってお待ちを…」

 厳めしい顔と図体に似合わず気が利く猪が、甲斐甲斐しく飲み物を持ってきて老人を休ませていると…。

「タイキ君、ユージン君を2番検査室に案内してくれる?あと採血セットもよろしくー」

 馬がそう声をかけ、猪は「はいただいまー!」とキビキビ動き出した。

「タイちゃん、採血セット多めに準備してくれるか」

 猪について行きながら、ユージンはそう言って太い腕に力こぶを作って見せる。

「しばらく来られねぇだろうし、抜けるだけ抜いてくれ」

「え?それはまぁ、たくさんサンプルあるなら皆が助かりますけど、仕事とか大丈夫ですか?貧血とかになったら困るんじゃ…」

 心配そうな顔になった猪に、「ワシの体なら一日もありゃ戻る」と熊は応じる。

「こうも頑張ってるトコ見せられちゃ、協力しねぇ訳に行かねぇだろう。ワシの血がたっぷりあれば、実験も進むしナッちゃん

も助かる、…ヌシと一緒の時間も作れる…、良い事ずくめじゃねぇか。ええ?」

 途中の一言だけ小声で耳打ちし、ユージンがニヤリと笑うと、猪は何も言えなくなって顔を真っ赤にした。

 

 一方、公園では…。

「タッケ、また一段とプクプクしてきたんじゃない?」

 シーソーの真ん中に腰掛けている黄色っぽい猫の少年の言葉に、向き合って立つシロクマは、アイスバーを齧りながら頷いていた。

「よく食べてよく休んでよく働いてるっスからね。…身長伸びてないの気にしてるみたいっスけど…」

「仕方ないですよ、身長なんて成長期だから伸びるとは限らないですし…」

 ぽっちゃりした狸が、自分の物足りない身長を言い訳するようにフォロー。

「ま、図体デケェならデケェで困る事もあんだよ。服とか靴とかサイズなくて…、俺とかアルみてぇによ」

 アルと遜色ないほど大柄な熊少年が、太い眉を上げながら言う。

 日本に帰化しているので一応日本国籍で日本人名もあるものの、慣れている本人がそう望むので、友人教師含めて馴染みの皆

は「アル」と呼ぶ。友人達の大半もアルの日本人名など、「ああそんなのもあったっけ」と言われて思い出すレベルで忘れてし

まっているほどである。

「てかタッケさー、変わんねーのなー」

 精悍な顔の紀州犬少年が不満げに言った。これにスポーツ刈りの人間の少年も「そうそう」と同意する。

「せっかく帰って来たのに、気が付いたらすぐ居なくなってる」

「距離感あるよな、相変わらず」

 ここで生まれ育ったタケミだが、友人達とは後から越してきたアルの方がよほど親しい関係。少年は生まれ育ったこの町の同

年代の子供ら相手にすら、昔から距離を置きがちだった。

「そう言うなって」

 熊が豪快にアイスバーをゴリゴリ齧り取りながら言う。

「結局居なくなっても一回は混じってんだ。アイツはアイツで気を回してる。別に俺らの事嫌ってる訳じゃあねぇし、避けても

ねぇ。迷惑になんねぇ程度にフラッと居なくなる…、そういう性格なんだよ」

 リーダー格の熊がそう言うと、他の少年達もそれ以上は何も言わなかった。

「さすが、未来の大工の棟梁は言う事が違うっスねぇ」

「おう。いつか南エリア戻ってマンション建てまくるから、期待しとけよ!」

 グッと逞しい腕を曲げてアピールするこの熊は、以前伊豆の南エリアで暮らしていた。仕事が長期に及ぶ建設者の父と共に、

一家で住んでいたのである。長城を越えて来た霧に何度も中てられている内に一家全員に大なり小なり獣化の兆候が現れ、伊豆

を離れたのだが、結局一家全員が熊の姿になってしまった。一人も命を落とさなかったのは幸いだったが…。

「熱海には建てないんス?」

「なんだよ、お前も家建てんのか?なら注文ウチにしろよ?」

「タダで建ててやれよー」

「未来の社長だろー?」

「金取んなよー」

 横からちゃちゃが入り、そのまま弄り雑談で盛り上がる一同。

「潜霧士って儲かんだろ?」

「アルとタッケももう金持ち?」

「オレもタケミも小遣い制だから、たぶん普通っスよ?給与とか報酬は貯金されてて、成人するまでは勝手に使ってダメな事に

なってるっス」

「まじでかー!」

「あとオレ特殊性癖の塊だから色々小銭が出てっていつも金欠っス」

「お前そういう言葉何処で覚えてくんの?外国?」

 そんな具合で和気藹々と話が弾む中、ひとり、そっとその場を離れる影があって…。

「あれ?」

 しばらくしてから、アルが居なくなった人物に気付くと…。

「行ったよ」

 小声で囁き、訳知り顔で猫が笑う。

「フラッと居なくなるのは、タッケもさっちゃんも一緒だね」

「え?ドコ行ったんス!?」

「ナイショ」

「いけズ!」

「良いじゃないたまになんだから。水入らず」

「水入らず!?水は入らなくてもオレは間に入りたいんス!」

「…そういうトコだと思うよ?アル君の」

「え?何がっス?」

 

 せせらぎの音が耳に心地よい。とめどなく流れる川の面を、土手の斜面に座って少年は眺めている。

「よう」

 突然の声に顔を上げたが、タケミは驚いてはいない。近づいて来る相手の事は、気配や足音で把握していたから。

 見上げた先にはどっしり肥えた逞しい熊の少年。斜面をのっしのっしと降りて来ると、熊は「隣いいか?」とタケミに訊ねた。

「うん」

 膝を抱える少年の隣に、どっかと胡坐をかきながら、熊は「しばらく」と呟く。

「うん。久しぶり…」

 タケミも視線を川に戻しながら応じる。

 霧の中を駆け抜けるタケミの感覚は鋭い。近付いてくる者が居る事も、それが同級生の熊である事も、しばし前から判ってい

た。判っていたのに去らなかったのは、そうする事で相手に不快な思いをさせるかもしれないから。熊が言い当てた通り、タケ

ミは気を使う性分なのである。話す事に困ると判っていても立ち去れないほどに。

「親父から聞いたぜ。試験上手く行ったんだって?おめっとさん」

「うん、ありがとう…」

「仕事、頑張ってんだろ」

「…頑張っては…、うん…、いるけど…。上手く行かない事も、多いかな…」

「そうか。そういうモンかもな。働くってのは大変だ。大人は偉いぜ」

「…そっか…。そうだよね、大人って、やっぱり凄いね…」

「おっかねぇだろ?潜霧士の仕事って」

「…うん、おっかない事、多いかも…」

「でも頑張ってんだ。お前も偉いぜ」

「そうかな…」

「そうだろ」

 大丈夫か?と訊けば、大丈夫と答える。平気か?と訊けば、平気だと答える。それがタケミという少年である。自分の欲求を

埋める事より、不満を晴らす事より、相手の手を煩わせるのが嫌だから。そうして嫌われるのが怖いから。

 そんな、自己表現が苦手で、頷くだけでいいならそれで済ませてしまうタケミの性格を把握しているから、熊はそういった話

の振り方をしない。

 タケミは確かに、昔から皆と距離をおきがちだった。

 その態度が気になったりして、タケミと接点を持つ気にならない者もあった。

 だが、熊や数人の友人達は気付いていた。

 タケミは自分達が嫌いで距離を置いている訳ではない。単に苦手意識があるというのも少し違う。上手く説明できないし、理

由も心当たりが全く無いが、タケミの様子から窺えたのは怖がっているという事。それも、相手がおっかないだとか、嫌な事を

されそうで怖いとか、そういった物ではない。

 「迷惑をかけるのが怖い」。色々な物を怖がるタケミが自分達に対して感じている怖さは、ソレだというような気がしている。

 だから、この熊や数名の子供達はタケミを嫌いではない。こっちに対して妙に気を遣っている少年を、理由も問わず、距離を

詰めもせず、タケミの居たい距離に居させてやっていた。

 タケミにとって親友といえる相手はアルぐらいしか居ない。だが、少年は昔から孤独ではなかった。熊が隣で話している今の

状況のように…。

「今はアル一緒なんだろ?良かったじゃねぇか」

「うん…。良かった」

「危ねぇ時とかおっかねぇ時はアイツ盾にしろよ?」

「そんな酷い…」

「し易い大きさだろ?アイツの図体は」

「それは…。大きい、けど…。………でも…ボクも…」

「何だよ。何か不満か?」

「………ボクも、もっと背が欲しいな、って…」

「…そうかよ」

 熊の口の端がほんの少し上がった。タケミがちゃんと自分の要望を口にする事ができたから。

「身長もほどほどが良いぜ。服買うのに困るからよ。これ体験談だからな?」

 そんな軽口で、タケミの表情が少し和らいだ。

 それからも、「いつまで休めんだ?」「何か変わったか、伊豆?」などと、熊の方から話題を振る。求められる返事は簡単で、

悩むような事も困るような事も無く、タケミはすんなりと引っかかる事無く会話を続ける。

 それから熊は、町の事を話す。友の事を話す。知り合いの事を話す。

 求めるのが苦手で、気にはなっても相手に時間と労力を使わせるのが申し訳なくてあまり尋ねられないタケミは、知りたかっ

た事を熊の口から一通り聞く事ができた。

「次は正月とかか?こっち帰ってくんの」

「うん。たぶん…」

「そうか。じゃ、それまで怪我とかねぇように気を付けろよ」

「うん…」

 熊が腰を上げ、大きな尻をパンパンと叩いて土埃を落とす。

「じゃ、またな」

「うん。また…」

 見送るタケミは、数歩進んだ熊に「あ、あの…」と声をかけた。

「色々教えてくれて、ありがとう…」

「おう」

 振り返らずに肩越しに手を振り、熊の少年は歩き去る。

 陽が少し傾いた空を見上げ、タケミは再び呟いた。

「…昔からずっと、ありがとう、皐月(さつき)君…」