第十三話 「いつか見た星」

 赤味を帯びた金色の巨体がベッドに横たわる。

 空気圧が調整されて人型の窪みを作り、合皮が貼られたベッドはユージンの背面に密着、体温や脈拍などのバイタルデータを

読み取り始めた。

 仰向けに寝たユージンは全裸で、セッティング役になったレッサーパンダが、股間を隠すように太い腰回りにタオルをかけて

やると…。

「休みは取れとるのか?ええ?」

「ボチボチ。休む時間が惜しいし、扱っているのがナマモノばかりだからノンビリもしていられないし、そもそも材料も何もか

も貴重だから実験のタイミング合わせとか何とかで色々ありますから」

 レッサーパンダは手にボードを持っているが、よく見れば筆記用のメモや資料ではない。液晶モニターを備えた薄いパネルの

ような端末で、温度検知されたユージンのシルエットがカラフルにリアルタイムで表示され、細かな文字で状態の説明が流れて

ゆく。

「…肉体年齢に変化なし…。本当に劣化や老化が起きないんですね。前回の検査結果どころか、15年前のデータとも同じです。

15年前から今ぐらいの老け方だったと考えるのか、実年齢より若いと考えるべきなのか、う~ん…」

「元々老け面だ、丁度良くなって来たって考えるか」

 そこへここの責任者である体格が良い馬が入室し、レッサーパンダは手元のモニターから視線を上げ、検査の状態を見せる。

「ハンニバル主任。前回とほぼ同じ、体調による数値差ぐらいしか検知できてませんよ。あんまり意味なかったです」

 ユージンが「秋には肥えるが」と応じると、「天高く熊肥ゆる秋、かい」と馬が合いの手を入れる。

「馬に言われるとはな」

「突っ込みを期待しての発言かと思ったんだけど…」

「スキャンかけますから、一分ぐらいあまりしゃべらないようにして下さいね」

 レッサーパンダがふたりのやり取りに割って入ると、天井から横長のレンズを備えた投射装置が下りてきて、ユージンの爪先

から頭の天辺までゆっくりとスキャンしてゆく。

「先にバイタルデータ送っておきますね。採血は…」

「あ、お願いしていい?ご隠居、ユージン君の顔見たから今度こそ帰るみたいなんで、見送りしてくるよ。じゃ、また後で…」

 忙しなく出て行った責任者を見送ると、ユージンは声を少し抑えてレッサーパンダに語り掛けた。

「ナッちゃん。忙しいのは仕方ねぇが、ちゃんとタイちゃんに構ってやっとるんだろうな?」

「ホドホド。もう子供じゃないんだし、タイキも判ってますよ」

「そう、もう子供じゃねぇんだ。時間作って一緒に居てやって、スケベもしてやれ。ヌシが相手してやらねぇってんなら、ワシ

がタイちゃんに春を商ってるお勧めの店紹介しちまうぜ?ええ?」

「そういう下世話なトコがキモいんですよ」

「下世話でも何でも言っとくぜ。居なくなっちゃあ何もできねぇ、ってな」

「………」

 レッサーパンダは表情を消して沈黙する。

「ヌシはタイちゃんを取り戻せた。タイちゃんには生きる理由があった…、そいつはヌシと再会する事だったとワシは思っとる

ぜ。だが、毎回、誰でも、そうって訳じゃねぇ。だいたいは「それっきり」だ。命ってのは何遍も拾えるもんじゃねぇ」

「…判っていますよ。それぐらい…」

 レッサーパンダは十年前の事を思い出す。長城が崩壊し、霧が人類の生活圏を脅かした、「沼津の大規模流出事故」の事を。

 霧は市街地を飲み込み、そこに住んでいた大勢を襲い、避難が間に合わなかった8万人を殺し、僅かな残りを獣人にした。

 レッサーパンダの幼馴染であるタイキという猪の青年は、その数少ない生き残りの一人である。

 しかも、単に生き延びただけではない。

 彼は、レッサーパンダの弟を庇って逃げ遅れ、諸共に霧に飲まれた被害者である。

 霧の吸引を少しでも防ぐため、マンションに立てこもって、霧が晴れるタイミングや救助を待っていた彼らだったが、送電設

備のトラブルにより一帯が停電した事で空調設備が死に、部屋に流入した霧を吸い込んでしまった。

 時間当たりに吸引する量が少なかったとはいえ、充分に急性汚染と言える速度。彼らはやがて昏倒し、救出された時には獣化

がかなり進行していた。

 幸いにもジークフリート線を越える体質だったために一命をとりとめたが、猪も、レッサーパンダの弟も、変質速度によって

もたらされた高次脳機能障害により昏睡状態となった。

 そして、猪が目覚めたのは二年前。レッサーパンダの弟はまだ目覚めてもいない。

「タイキは、八年眠り続けた…。目が覚めたら、家族含めて大勢死んでいて、通っていた学校が無くなっていて、自分は獣人に

なっていて、目の前には…獣人になって成人もしている幼馴染が居た」

 レッサーパンダは低く呟く。

 成績優秀、天才児ともてはやされていたレッサーパンダは、故郷がその災厄に見舞われた当時、海外留学中だった。

 普段から仕事で地元を離れていた父だけが無事で、外出中だった母は即死、弟は意識不明。日常はあっけなく崩壊した。

 帰って来たレッサーパンダは留学を中断し、この道へ進んだ。

 弟と、彼を庇った幼馴染を取り戻すため。そして霧に…、因子汚染という未曽有の大問題立ち向かうため。

 猪からの、連絡が途絶える前に入った最後のメールが、今も彼を突き動かしている。

―ウミは無事。一緒に部屋に引っ込んでる。危ないからしばらく帰って来ちゃダメだぞ?こっちは大丈夫だから―

 あの行為に報いるためなら、猪の八年を取り戻すためなら、弟を目覚めさせるためなら、何でもするとレッサーパンダは決め

ている。

 だから、躊躇は無かった。父共々、霧を用いての人為的な獣化に挑戦する事にも。

 つまりこのレッサーパンダは、自ら志願して獣人になった。その身を賭して実験台となり、脳の変質に関するデータを得て、

猪を目覚めさせる足掛かりにした。

 母は死に、弟は今も眠り続け、幼馴染は八年分の人生を吹き飛ばされ、自分と父は獣人になった…。

 このままにしておくものかという決意と、悲壮な覚悟と、果敢な行動力、そして危うい程の復讐心が、ひとりの天才児をこの

場に至らせている。

 磐梯波(ばんだいなみ)。その最終目標は「因子汚染の克服」。彼に限らず、このラボのメンバー全員が、潜霧士とは違うア

プローチで大穴に挑む者達である。

 

 一方、研究所裏手の駐車場では…。 

「付き合わせて済まなかった」

「何をおっしゃいます。御足労頂き、感謝の極みです」

 白い髭の老人は黒塗りの車に乗り込むと、隣に座ったカズマに礼を言い、恐縮させた。

 運転手が車を出し、研究所から離れる。過ぎてゆく景色を見送りながら、「御寄りになる場所はございますか?」とカズマに

訊ねられた老人は…。

「いや、良い。墓参りも挨拶も済ませた」

 鋭く目を細める老人。その改まった眼差しは生気漲る若々しい物となり、十数歳若返ったような印象を受ける。

「彼らだけに働かせていては沽券に関わるという物だ。仕事に戻る」

「御意」

 

 グツグツと音を立てる鍋が、食欲をそそる湯気を上げる。

 比内地鶏をふんだんに使うのがユージンのキリタンポ鍋。鶏ガラスープから作り、鶏の胸肉と腿肉、ごぼうをアクを丁寧に取

り除きながら煮込み、コンニャクやセリ、キノコ類、鶏団子を入れて一煮立ちさせれば完成。下準備含めて行程自体は比較的単

純だが、味加減と火加減が物を言う鍋料理である。

「おし、椀よこせ」

「ヤッホー!大盛りでよろしくっス!」

 我先に椀を突き出したアルから受け取り、鶏肉山盛りでよそってやったユージンは、

「これタケミの分っス!」

「え?あ、ありがとう…」

 最初の一杯を自分の空椀と交換する形でタケミに譲るシロクマの行動に、頬を少し緩めた。

「ヌシの分も大盛りだ」

 アルの方にも同じだけよそってやり、自分の椀にも盛ったら、冷める前に食事に取り掛かる。

「一年ぶりぐらいっス、キリタンポ鍋!」

「秋なんだなぁって感じ、するよね」

 タケミもアルも、この屋敷で暮らしていた頃も現在も、キリタンポ鍋を食べるのは秋から冬だけ。

 ふたりにとって、端境を過ぎて新米が出回ればキリタンポの季節。真新しい米で作られたタンポを味わうのは得も言われぬ贅

沢である。なお、古米でも問題なく作れるのだが、ユージンがそれを好まないので期間限定。

 鍋に舌鼓を打つふたりの反応に、まんざらでもない顔を見せるユージンは、地酒を冷やで引っかけながら鍋を楽しみ、お代わ

りの要求に応えてよそってやる。

 四人前の鍋はあっという間に減ってゆくが、その都度あらかじめ湯がいておいた鶏肉類を投入し、キノコを足してゆくユージ

ン。その動きは傍から見ていても忙しくはないのだが、やっている事は多い。食材足し、鍋を食う、少年達のお代わりをよそっ

てやる、自分は手酌で酒をやる…、と。しかし動作がゆったりしていながらも無駄がないので、忙しなさを全く感じさせずに全

てをこなしている。

 マルチタスクという表現では簡単に片付けられない、手慣れたバーテンダーのような落ち着いた動作には、何をやらせても独

りでつつがなく成し遂げてしまう、この巨漢の特徴の一端が現れていた。

「ツミレ山盛りで!」

「おう。たんと食え」

「あの…、糸コンニャク多めに…」

「おう。どんどん食え」

 少年達に鍋を振舞うユージンの顔は、次第に緩んできた。たっぷり採血した分アルコールが回り易くなっているので、普段よ

り酔いが回るのが早い。

 テレビが流す、アメリカ大統領と総理大臣の動向についてのニュースをBGMに三人は会話を弾ませる。酒が回ったのでユー

ジンも柔和になり、自然と全員の声が大きくなり、笑い声も増えた。

 団欒の夕食が進み、具材が一通り無くなり、少年達が満腹すると、目尻が下がって口角が緩んでいるほろ酔いのユージンが、

烏賊の塩辛でチビチビと酒を舐めながら満足げに鍋を見つめる。数少ない料理のレパートリーの一つ、美味い美味いと褒めなが

ら食べられるのはまんざらでもない気分である。

「明日の朝は、鍋の汁で「だまこ」食うか」

「イェア!大賛成っス!」

「はい!」

 だまことは、きりたんぽを小さく丸めたような物である。これを鍋の煮汁に入れてシメにする事も多い。このだまこを鍋の残

り汁で煮ながら崩し、卵を溶き入れて雑炊にするのがユージンの遣り方。前の晩にだまこを入れておけば汁をたっぷり吸い、ホ

ロホロと煮崩れるので、朝から時間をかけずに出来上がる。

「使った食器だけ台所に下げて桶にひたしとけ。片付けは良いから、風呂入るなりゴロゴロするなりしとけ」

 そう言って少年達を送り出すと、独り残ったユージンは、酒をチビリと口に含みつつ天井を見上げる。

 換気扇の音が大きい。古過ぎて快適とは言い難い屋敷である。だが、ユージンにとってここは落ち着く場所の一つ。

 ユージンはその人生の多くを伊豆で送ってきた。育ての親である不破三厳も、現役の間は伊豆に事務所を構えて腰を据えてい

たため、その妻が留守を守るこの屋敷で、暮らした時期はそう長くない。

 だが、ここで過ごす間だけは、危険を同伴者とする潜霧と闘争、命を切り売りするような生き方から、一時離れられる。

 風呂に行ったのだろう、はしゃぐアルと引っ張られてゆくタケミの声を聞きながら、口角を緩める。

 育ての親であるタケミの祖父も、こうして自分達の声を聞いていたのだろうか。こうして預かったアルと孫の声を、聴きなが

ら隠居生活を送っていたのだろうか。

 兄弟のように育ったタケミの父と、その妻にも、この声を聞かせてやりたかったと思う。

「ワシも歳をとったモンだぜ…」

 肉体はどうあれ、精神は成長し、成熟し、老いてゆく。今の状況を、若かった頃の自分は想像もできなかった。

「ま、悪くはねぇが…」

 そんな事を呟いて微苦笑した金熊は、クイッと御猪口を傾ける。ぬるくなってなお、秋田の地酒はピリリと喉に染みた。

 

 虫の声が微かに入って来る、草木も寝静まった深夜。

 軽く身震いしてからパンツを上げたタケミは、トイレを出て手を洗う。水音がやけに大きく聞こえ、半覚醒だった脳が眠気を

薄れさせた。

(お茶飲み過ぎたかな…)

 寝る前にトイレに行ったのに、半端な時間に尿意を覚えてしまったタケミは、下っ腹を両手で押さえながら廊下に戻った。

 熱帯気候になってしまった伊豆では9月になっても全然涼しくならないが、ここ白神山地では空気がスッキリして涼しく、寝

汗で軽く湿った肌に心地良い。夜気にすらも、帰って来たのだという実感を抱かされる。

 喉の渇きが耐え難くて、止めた方が良いかもしれないと感じながらも、タケミはアルが寝ている自室には向かわず、水を飲み

に台所へ足を進めた。そこで…。

「あ、所長…」

 長い廊下の真ん中、庭を望む大窓の前に、胡坐をかいている巨体を見つけた。

「おう。便所か?」

 お盆に冷酒入りの徳利と、蕪の漬物や鶏ハムなどが乗った皿を並べて、ユージンは月見酒を楽しんでいた。

「は、はい。目が覚めちゃって…」

「ま、もう一日ゆっくりする予定だ、今夜は起きようが夜更かししようが徹夜しようが構わんぜ」

 クイッと御猪口を傾けたユージンは、通り過ぎないタケミに再び目を向けると、「なんならヌシも少し摘まんで行くか?」と、

自分の脇を平手でポンポン叩いた。

「は、はい!」

 喜んでユージンの隣に腰を下ろし、並んで窓の外を向いたタケミは、薄い月明りに照らされた庭と夜空、故郷の山々を眺める。

「懐かしいモンだぜ。ここでよく、爺さんと並んで酒を飲んだ。ヌシも一緒だったな」

 声音が柔らかいユージンが昔を懐かしんで微笑む。

 この庭はタケミの祖父の自慢だった。自分の腕も戦果も偉業も誇らない朴訥な老人は、しかしこの、先祖代々管理し、妻が面

倒を見た庭園だけは自慢した。

「はい。昔はよくここでお月見して…」

「十五夜で飾り付けた酒を、アル坊が飲んだ事あったってなぁ?」

「そういう事もありました!」

 言われて思い出すタケミと、声を押し殺しつつ肩を揺すって笑うユージン。

「タケ坊は一緒にいたずらしなかったのか?」

「え?…あ、はい…。アル君がお団子をこっそりつまみ食いしながら、独りで手を付けたから…」

「そういやぁアル坊は、何でもヌシと一緒にやるベッタリな子だった割りに、いたずらには巻き込まねぇ子だったな」

 タケミがとばっちりを食らった話はついぞ聞いた事が無いと、記憶を手繰るユージンの横で…、

(所長…、気付いてない…?)

 タケミはそっと巨漢の様子を伺った。

 先程から自分達の呼び方が、タケ坊にアル坊と、幼かった時の物になっている。意識している様子はなく、どうも深酒の酔い

と環境のせいで呼び方が戻ってしまっているらしい。

(懐かしい…)

 少年は思い出す。この屋敷で暮らし、たまに訪れるユージンに遊んで貰っていた時の事を。

 雪が積もったこの庭で、雪だるまを作って貰った。

 柿が実る季節には、肩車で実を取らせて貰った。

 夏の盛りにはビニールプールで遊んで貰った。

 春には一緒に桜の花びらを拾い集めたり…。

 物心がついた頃には、ユージンの来訪を心待ちにするようになっていた。次はいつ来るのかと、よく祖父に訊ねていた。

 母は勘当されたらしいので、そちらの親族と交流が無いタケミにとって、ユージンは数少ない大人の身内。普通の子供が親戚

のおじさんを慕うのと少し似ており、お盆や正月が楽しみで仕方なかった。特に、アルがこの屋敷に来るまでは…。

「昔はここに座らせてな。ワシが爺さんと話してる間に、タケ坊はよく退屈して寝ちまった」

 笑って太腿を叩くユージン。幼い頃はユージンが胡坐をかいた上に座り、すっぽり抱かれて庭を眺めていた事をタケミも「そ

うでした…!」と恥ずかしがりながら思い出す。祖父とユージンの話は難しくて、背中も尻も金熊の体温で暖かくて、気持ち良

くなって眠ってしまったものだった。

 そういえば、ここから星を見上げて話を聞く事も多かったと、少年は思う。

 アルと一緒に纏めて抱っこされ、指さす金色の手と、示される星を目で追った。

「あれがデネブ、その少し下がサディル、一番下…離れて光るのが北天の宝石こと、二つ星のアルビレオ。アル坊の名前の由来

だぜ。で、この三つを繋げた縦軸に、あそことあそこの星を横軸で結んで交差させると…白鳥座、別名ノーザンクロスだ。爺さ

んは十文字様って呼ぶな」

 そう、星座の話をしてくれて、それにまつわる神話なども教えてくれた。

 今も昔もユージンはよく夜空を見上げている。星々を望むその横顔が、空と自分の間に響く声が、タケミは昔から好きだった。

「あの頃は、こ~んな小せぇ坊主だったが、でかくなったモンだぜ」

 釣れた魚のサイズを示すように、両手を向き合わせて当時のタケミのサイズを表現したユージンに、

「いえ、まだ全然…」

 タケミは一度口ごもり、ユージンをそっと窺って…。

「おんちゃど比べだらまだまだちゃっけス…」

 訛りのある、幼い頃の口調で言った。今なら「所長」と呼ばなくとも叱られないかな、と…。

「わはははは!そりゃあワシと比べりゃあそうだ!」

 笑ったユージンは「だが」と片目を瞑る。

「立派に育った。爺さんは育て方を間違えなかったし、ヌシも育ち方を間違えなかったぜ。ええ?」

 それはユージンの本音である。

 潜霧士としては発展途上でも、金熊の水準から見れば未熟でも、タケミという少年が立派に育った事に間違いはない。

 この世にただ独り、同種の存在しない人狼。両親は無く、何もかも話せる相手は少なく、普通に生きる選択肢も捨てた若き潜

霧士。…その素性と状況ならば、歪んでも曲がってもおかしくはない。なのにタケミは優しい子に育った。優しさ故に気弱で遠

慮がちで臆病で、しかし後ろ向きでもなければ屈折もしていない、至極真っ当な性格に育った。

 …強制的に人狼化した際などに、防衛本能からか、容赦のない冷酷さを見せる事を除けば、だが…。

 しばし会話が途絶えた。庭から虫の声がリィリィと聞こえて来る中、思い思いに昔を懐かしむ、居心地のいい静寂。

「…爺さんは、もっと長生きすると思っとったぜ」

 沈黙を破ったのはユージン。

「んだスな…。ボグも、ずっと元気ど思ってだっス…」

 応じるタケミは、訃報を聞いて慌てて駆け付けたユージンの、動揺した顔を思い出す。

 大丈夫かと問うよりも前に、出迎えた自分を抱き締めてくれた逞しい腕…。あれが、あまりにも突然で実感を伴っていなかっ

た祖父の死を、自覚させて涙を流させた。

 ユージンの動揺した表情をタケミが見たのは、あの一度きりである。

「タケ坊は長生きしろよ。あんまり早くに会いに行ったら、爺さんに叱られるぜ。ヌシもワシもだ」

 そう言って、ユージンは大きな手でタケミの頭をワシワシと撫でた。昔のように優しく…。

「あ、あい…!」

 顔を赤らめたタケミは、それからしばらくユージンと話をしてから寝床に戻った。

 凄い寝相で布団を蹴り散らかしているアルの横で、タオルケットを腹にかけて仰向けになり、少年は目を閉じる。

 

 タケミは程無く、少し昔の夢を見た。

 胡坐をかいた太く分厚い足の上に、すっぽり収まるように座った線が細い幼子の頭を、大きな手がゆっくり撫でている。

 寄りかかっているせり出した腹は柔らかく暖かく、下からも体温が昇ってきて、ホカホカ暖まって眠くなった男の子は、うつ

らうつらと頭を揺らしながら、頑張って起きている。

 庭に面した廊下の半ば、大きな窓に向かって座るユージンに、幼い日のタケミは抱かれていた。

 その隣には老齢の男が座っている。巨躯の金熊と比べれば普通に見えるが、筋骨逞しく、180センチを超える長身で、背も

腰も曲がっていない。

 特筆すべきはその眼光。切れ長の目は鋭く、黒瞳は深く、姿勢正しく背筋を伸ばしたその姿と眼差しは、見る物を緊張させ、

居住まいを正させるだけの威厳に満ちていた。

 獅子鼻の四角い顔、老いてなお筋骨隆々の祖父が、湯飲みを片手にポツリと呟く。

「タケミの因子汚染耐性は、儂やミカゲと同レベルだそうだ」

「…そうか」

 一拍の間をおいてユージンが応じる。タケミの頭を撫でる手は、一瞬止まったが何事も無かったように動きを再開した。

「同時に、ヨウコさんと同じく獣化適性が高い。ジークフリート線を確実に超える数値だという話だ」

「そうか」

 ユージンは視線を落とし、今にも眠ってしまいそうな幼子の頭を見下ろす。

「一億人に一人の因子汚染耐性保持者で、お袋と同水準の獣化適性者…。タケ坊は、だから「こう」なのか…?」

 名前に反応して寝ぼけ眼を開き、真上を向いて自分の顔を見上げた男の子に笑いかけ、ユージンはおでこを撫でてやる。「寝

とっていいぜ。ええ?」と。

 まだ幼稚園にも通っていない子供には、祖父達の話は難し過ぎて、聞こえて来る言葉は完全に意味不明、低い声で歌われる子

守唄のような物。加えてユージンに抱っこされていると暖かくて、子供が眠気に抗うのは酷だった。

「…お主と似ておる…。まるでこの子も、大穴に挑むために生まれたような…」

 祖父が視線を孫に向ける。鋭いその目に浮かんでいるのは、期待…ではない、愛しい者の行く末を案じるような、愛情深くも

哀切な光。

 成せなかった悲願を、孫に為せとは言わない。自分達の後を継げと言う気もない。どんな生まれにせよ、その人生の選択権は

この子自身にあると、老人は考えている。本人がそう望まない限り、大穴に挑ませるつもりはない。

「…潜霧士にするのか?」

 ユージンの問いかけには、躊躇いの響きが宿っている。

「判らん」

 顎を引いて視線を下げ、老人は言った。

「望むならその道もあろう。が、それ以外の将来を否定する物でもない。この子には、この子が選んだ道を歩ませるつもりだ。

…両親の良い所取りで見目も良い事だ、案外、アイドルや俳優などにもなれるやもしれぬ。爺の贔屓目込みだが利発な子でもあ

るからして、大学の教授や研究者にも向くのやも…」

「可能性は無限大、ってか?」

 厳しい男がポロリと見せる孫馬鹿な面に、ユージンは微苦笑した。

「うむ。好きに生きて良い。生まれたその日から、この子は多くを失っている。父に、母に、普通の体質…。なればこそ、これ

以上は何も失わせたくない物よ」

 とはいえ、と老人は顔を起こして庭を真っ直ぐに見つめた。

「本人が好む好まざるに関わらず、現状唯一無二の存在であるこの子の人生には、おそらくどんな生き方を選んでも危険が付き

纏う。護身術として刀の振り方は仕込んでおくが…」

「爺さんが仕込む護身術か…。そりゃあ危険生物を殺す技と何が違う?」

「同じだ」

「同じか」

「駄目か」

「良いぜ」

「よいか」

「おうよ」

 湯飲みを口元に上げてぬるくなった茶を啜り、ユージンは笑う。

「真っ二つにされようが串刺しにされようが、手ぇ出した方が悪ぃ。正当防衛だろ」

「儂もそう思う」

 ユージンが笑い、その震動が腹の揺れになって背中に伝わる。

 難しい話で眠くなったタケミは、結局この時も、その他の時も、祖父とユージンの話を抱っこされて聞いていたという記憶に

しか残せなかった。

 だが、心地良くて満たされていて寂しくなかったと、そんな自分の思いだけははっきりと印象に残っていた。

 

 

 

 翌日、朝食を平らげた後で、三人は思い思いに過ごした。

 ユージンは剪定鋏を手に庭木の手入れをはじめ、アルはタケミを連れて友達と遊びに行き、タケミはまた途中でそこから静か

に離脱した。

 今日一日をここで過ごしたら、明日の朝には出発し、熱海へ戻る。正月やお盆とは違い短い滞在だが、次の潜霧予定も決まっ

ているので、こちらにあまり長く留まる訳にはいかない。

「もう明日行っちまうのかよ。忙しいんだな?」

 大きな熊が、汗が染みて来たティーシャツを脱ぎながら言うと、林道入り口のベンチに腰掛けて山々を眺めていたタケミは、

「うん…」と顎を引く。

 つい先ほどまでアルや皆とドッヂボールをしていた熊の少年は、また独りでタケミの所に来ていた。

 どうして自分の居場所が判るのかと訊いたタケミは…。

「俺ぁ鼻が利くんだよ」

「え…!?」

 熊が自分の黒い鼻を指さすと、慌てた様子でシャツを摘まんで鼻先を近付けた。

「ぬはははは!別に臭ってねぇって!例えだ例え、「そういうもん」だと思っとけ!」

 熊が体を揺すって大声で笑うと、タケミはその顔をチラッと見て、ハッとした。

(そういえば、目の色…)

 熊の瞳は、鍛造されたばかりの剥き身の鉄材を思わせる明るい鈍色だった。

 潜霧士としてユージンから様々な知識を与えられたタケミは、昔はともかく今は気付けた。

(そういう物だと思っておけって…。つまり、「そういう異能持ち」だったんだ…)

 獣化…つまり因子汚染がステージ8という最終段階まで至った者は、何らかの異能を獲得する。

 その異能の性質は瞳の色で判断できる傾向が強く、銀や鉄のような金属のような色だったり、灰色など白色が加わったグレー

トーンだったりすると、「干渉型」と呼ばれる異能を獲得する場合が多い。

 干渉型は肉体に何らかの操作を加えられる力で、対象の神経系に働きかける対外式の異能や、もっとシンプルに自分の肉体に

働きかけ、身体機能を調節したり心肺能力を強化したり、感覚を増幅させるなどの異能などが代表的。

 この熊が昔からよくフラリと自分の所に現れていたのは、異能によって感覚を弄るか何かして、居場所を感知していたのだろ

うとタケミにも察しがついた。

 皆と違うのは自分だけではなかった。その事を知らず、気付かず、自分だけが皆と違って孤独なのだと思い込んでいた。しか

しこの熊は、異能を抱えながら何でもないように、皆と一緒に過ごしていた。きっと、違いを自覚するタイミングは日常の様々

な所にあっただろうに…。

 皆と違っている事に、苦しんでいる素振りも見せなかった熊の隣で、恥ずかしくなったタケミは俯く。

「伊豆の南エリアって、仕事で行ったりするか?」

「え?う、ううん、まだ行った事がないよ…」

 熊の問いに、タケミは動揺を飲み込んで応じる。

「でも、これから行くことになる…っていうか、年内には必ず行かされると思うけど…」

 大穴表面の全地区を一通り巡らせるとユージンは言っていた。土肥までの縦走と東エリアの危険区域探索を経験したら、次は

南エリアに行くとも。

「そっか。…いや、仕事の事とか部外者に話したらおんちゃんも困るんだろうし、何かの決まりとかに違反したらまずいから、

お前は何も言わなくて良いんだけどよ…。返事いらねぇから聞くだけ聞いてくれ」

「…うん…」

 おずおずと頷いたタケミに熊は染めたような深い青の空を見上げた。

「俺、南エリアに住んでた頃によ、「ヤマギシ」って、少し年上のひとによく遊んで貰ったんだよ。俺はヤマ兄ちゃんって呼ん

でてさ。親父もお袋も忙しかったし、いつも面倒見て貰って…。でも、大規模地殻変動で警報が出たあの日…、長城を越えて霧

が海まで駆け下ってったあの日から、どうしてんだか判んねぇんだ。ウチは家族で脱出して、知り合いの無事もだいたい判った

けど、ヤマ兄ちゃんだけは…、無事なのか、それとも…」

 熊は空を見上げたまま、体の両脇でベンチについている手をギュッと握り締めた。

「身寄りがねぇって言ってたんだ。伊豆以外には居場所がねぇって。…だから、大規模噴出事故を生き延びたなら、まだあそこ

に居るかなって…。南エリアって地殻変動が起きる度に派手に地形が変わるし、建物も間に合わせで次々建て替えられるから、

住所だってあてにならねぇけどな。名前も、苗字しか知らねぇしよ…」

 だから手紙などで連絡も取れないのかと、タケミは納得する。

「もしヤマ兄ちゃんに会えても、話すのがまずいなら俺には報告とか要らねぇ。ただ、会えたら、サツキは元気だって、もう泣

き虫じゃねぇって、それだけ伝えてくれ。俺が生きてるってこと、向こうが知ってりゃそれでいいんだ」

 熊は一度口を閉じ、「…今のナイショな?」と、ズイッと少年に顔を寄せた。

「泣き虫だったとか知られたらガキ大将のイメージ崩れちまうからよ」

「う、うん…!」

 近い近い、と焦りながら頷いたタケミに、熊は思い出したように言った。

「あ!もしかしてこういう頼みでも依頼料とか必要になるか?あんま払えねぇけど…」

「そういうのは取らないよ。大穴の中に探しに入る仕事じゃないし、会って、伝えるだけなんだから…」

「そっか。良かったぜ」

 ホッとしたように顔を緩ませた熊は、「何か飲むか?」と顎をしゃくった。

 林道入り口の自動車用待避所は、チェーン着脱所でもあり駐車場でもある。自動販売機が三つ並び、今では珍しくなった公衆

電話ボックスまで設置してある。

 遠慮して断ろうとしたタケミだったが…、

「依頼料代わりと口止め料代わりに何か奢るぜ。安いけどよ」

 熊が真面目くさった顔で本気とも冗談ともつかない事を言うと、流石に笑いが込み上げて来て、声が漏れないように我慢しな

がら頷いた。

 

「タケミ何か良い事あったっス?何処か行ってきたんスか?」

「え?」

 夕食時、怪訝そうなシロクマに問われて、黒い狼が丸顔を上げた。

「さっきからボーっとしてるし、「変わってる」っスよ?」

「え!?」

 指摘されて初めて気付いたタケミは、箸を持つ自分の手が黒い獣毛に覆われているのを確認して耳をピンと立てた。

「珍しいじゃねぇか、ええ?」

 ユージンも不思議そうな目つきでタケミを見ている。

 基本的に、タケミは人間の姿を自らの基準とし、人狼化はよほどの事でもない限りは行わない。我を忘れるような危機的状況

や、命の危険にさらされての強制的人狼化を除くと、人間の姿を崩さない。この形態維持が崩れるのは、よほど気が緩んでいる

時か、気持ちが高ぶっている時だが…。

「タケミ今夜はそのままでいるっスよ」

「え?どうして?」

「ポワポワの毛の手触り、最近滅多に味わえないっスから」

「えええええ…」

 アルとやり取りして困惑顔になるタケミに、ユージンが尋ねる。「恩師とでも会えたか?ええ?」と。

「え?えぇと…!そんな感じで…」

「何先生っス?マッキー?アベカズ?それともガンマー?」

 よく問題を起こしたり破壊事故を起こしたりして先生方に怒られていたアルは警戒心満載の表情。先生と会って嬉しいという

感覚が理解できないタイプの悪ガキである。大人しいし勉強もできるし、交友関係の構築に積極性が無い事を除けば問題点がな

く、教師ウケが良かったタケミとは正反対と言える。

 夕食は、鶏肉とホウレン草とシメジのバター醤油炒めに、岩魚の塩焼き、ナメコ汁というメニュー。今夜はいつものようにタ

ケミの料理で、地元の食材が中心になっている。派手ではないがじんわり美味い家庭的な料理に舌鼓を打ちながら、ユージンは

熱燗を楽しみながら帰ってからの計画を再通達する。

「帰ったらまず、ワシは今月の決算資料を纏める。練習がてら二人で縦走計画を立ててみろ。翌日には買い物含めて支度して、

準備を整えたら挑戦だ」

「オーケーオーケー!腕が鳴るっス!」

 潜霧経験が浅いアルにとっては、大穴の中はだいたい何処も未経験の地。毎回新鮮である。

 少しプレッシャーを感じるタケミも、アルのテンションに引きずられてか、高揚感を憶えている。

 しかし、緊張などに挑戦心が勝るのはそれだけが理由ではない。

(土肥の大親分さんは、お父さんの事をよく知っているって、ダリアさんが言ってた…)

 雌虎の話によれば、タケミの父は俵一家の潜霧を実地で学ぶため、一時あちらの客分という身分で行動を共にしていたらしい。

特に土肥の大親分自身に剣術の稽古もつけて貰ったそうで、たいそう気に入られていたとも。

 自分が知らないエピソードも知っているはずなので、話す機会ができたら色々聞いてみるといい。ダリアはタケミにそうアド

バイスしていた。

(この間はあまり話せなかったけど、どういうひとなのかな…)

 

「御取込み中、失礼します大親分。そろそろ休憩のお時間かと…」

 ペコリと頭を下げた作務衣姿のキジトラ猫は、頭を下げたまま少し待った。

 襖と広間を四つ隔て、廊下も遠い一室。文机…というにはいささか大き過ぎるが、体に合わせた仕事机を前に胡坐をかいてい

る黒浴衣姿の巨漢は、筆を紙から離し、顔を上げる。

 データ化された物は複製も盗み出しも容易、故に本当に大事な物は昔ながらの紙に直筆。それが土肥の大親分こと俵早太(た

わらのはやた)の遣り方である。

 大猪が筆を置いた事を気配で察した鋼虎丸(はがねとらまる)は、ゆっくり顔を上げて背筋を伸ばした。

 ハヤタは恰幅の良い巨体をゆさりと揺すって少し楽な姿勢になり、首の脇に手を当て、頭を左右に傾けて筋を伸ばす。

 半日がかりの机仕事は、各方面への情報伝達や照会事など、様々な内容の文書作成。土肥の大親分名義で出すそれらの手紙の

中には、法に抵触するような物や、反社会組織とのやり取りも含まれる。

 賭場に花街、闇市に無認可の潜り屋、不法滞在者に戸籍を売り払った根無し草…、正規の届け出が成されて目零されている物

もあれば、そうでない物もある。放置すればごった煮の闇鍋だが、無法の法を俵一家が敷く事で、傍目には観光客にも優しい大

人の街として成立しているのが土肥。ハヤタが清濁併せ呑んでこそ、この土肥は大崩落以降ここまで発展し、混沌の坩堝であり

ながら一定の秩序を持った場として機能している。

 茶と菓子が乗ったお盆を手に歩み寄ったキジトラ猫は、「お茶を淹れ直します」と、年配の大猪の傍らに正座した。

 温くなった茶が残る湯飲みを下げ、テキパキと代えを支度しながら、作業する手元に視線を置いたままトラマルが口を開いた。

「堤一家と田賀組の揉め事の件ですが、双方が大親分の和解案を受け入れ、大穴内で乱闘騒ぎを起こした当事者達にのみ謹慎処

分、取り分は折半、昇降機の補修は半々の支払いという形で手打ちとなりました」

「………」

 目で頷くようなハヤタの反応を確認すると、トラマルは続ける。

「それから…。例の「脱走者」、今度は沼津の境近辺で姿が確認されたそうです。引き続き警戒を続けます」

「………」

 大猪が無言で顎を引き、「逆恨みで熱海の大将の所にでも手を出されては、たまった物ではありませんからね」とキジトラ猫

はため息をついた。

「もうじきにこちらへいらっしゃる予定ですから…、嫌なタイミングですね。本当に」

 猪が再び顎を引き、トラマルは急須から静かに熱い茶を湯飲みへ注ぐ。話しながらも手付きは流れるようで、滞りなく茶の支

度が進んでゆく。合間に「甘味は芋羊羹を用意致しました」「夕餉の支度はいつも通りに手配させてよろしいでしょうか?」「

特に何も変更が無ければ、今宵の湯浴みは予定通りこのトラマルめがご一緒致します」などとキジトラ猫が発言する度に、大猪

は黙って頷いていた。

「一息つかれながらで結構ですので、大事なご報告が…」

 世間話や労いの言葉、予定の確認と同じトーンで大猪に声をかけながら、トラマルは芋羊羹を綺麗に切って並べた皿を文机の

角に置く。

 大猪の目はそこに向くと、皿の下に敷かれた一枚の紙片を確認した。

「最近は崩落洞内を徘徊していたらしき「流人様」より最新の報です。手書きの地図と説明の仔細はそこに…。頂いた文面まま、

要点を申し上げます。「崩落跡外周に亀裂を確認。地層へのたわみの掛かり方から推測するに、近々大規模地殻変動が起こる恐

れあり。外れる事を願うけど的中すれば十数年来の被害になるナ。くわばらくわばらだよ」、とのお話で…。マッパーズギルド、

熱海の大将、南エリアの「月乞い」、そしてグレートウォールの監視室にも同時に報せを送っておられるとの事です」

「………」

 爪楊枝で刺した芋羊羹を顔の前で止め、ハヤタは数秒考えてからトラマルに一瞥を向けた。

「は。地図と文の写しを土肥の潜霧組合事務所に届け、各方面と情報共有致します。…大通り及び花街は保つでしょうが、前回

の規模の地殻変動となれば、下町…特に下宿場は…。ええ。老朽化した「巣箱」の方にも被害が出る可能性は否めません。…了

承致しました。傘下の宿に一部空き部屋を用意し、被災者受け入れに備えるよう、通達致します。また、可能であれば備えの補

強工事なども行うよう促しておきます。それと、各親分、若頭も招集致しますので、大親分から直々の訓告をお願いいたします。

日取りと時刻の取り決めは後程各方面の予定を確認してからで…。その後、各宿のオーナー、番頭の面々にも個別に話を通し、

必要であれば援助の申請を促します。よろしいでしょうか?」

 ハヤタはずっと無言だが、目配せや頷きだけで察したトラマルが先回りし、大親分の意図に沿うよう打つ手を提案。これを大

猪が審理し、承諾された物をキジトラ猫が手配する。傍から見ればトラマルが独りで喋っているように見えて不可解なやり取り

に見えるが、これがこの二人の当たり前の姿である。

「ええ、来訪の件については抜かりなく。熱海の大将が好まれそうなお部屋を、どの日程でも確保できるよう押さえております」

 大猪は満足げに大きく頷き、茶を啜ると…。

「…荒れそな天気だべ」

 窓の外を見遣って呟く。

 数日後、沖を台風が通過する予報となっている。直撃ではないが、天候が乱れる事は間違いなさそうだった。