第十四話 「土肥遠征」

 霧中を行く少年の姿が、流れゆく白い闇の中に浮かぶ。

 流動する霧は早く、絶えはしないが時折薄くなる。そこに垣間見える少年は、全身をピッチリ覆うスーツを着用し、狼の頭を

象った黒いヘルメットを被っていた。

(今日はGPSが入る…。上空の霧が薄いんだ。珍しい…)

 籠手を思わせる左腕のアームコンソールに触れる。スライド式のカバーの下から現れたモニターに指を這わせたタケミは、計

測した位置情報がヘルメットのバイザー内に表示されると、

(GPSの位置情報が正確なの、珍しいな…)

 と空を仰いだ。雲は厚くて薄暗いが、霧の成分は薄いらしい。

 電波通信などを阻害する霧のせいで、大穴内ではGPS計測は信頼性に欠ける。そのため潜霧士が用いる位置情報システムは、

GPSが受信できない環境下でも使用できるよう、歩数と周辺の景色にマップデータを擦り合わせる事で現在地を導き出す仕組

みも搭載されている。それ故にマップデータは高額で、最新情報も高値で取り引きされるのだが。

(時間は…よし。予定より四十分も早い。このまま何もなければ、土肥ゲートには一時間早く着くはず…)

 タケミは後続のアルが遅れていない事を確信しながら、幼児が叩き壊したクッキーのように砕けているかつての自動車専用道

を進む。膝丈ほどの段差も、1メートル幅の亀裂も、駆け足に近い一定の速度を維持したまま軽やかに越えて。

 丸々とした体型ながら、少年の身のこなしは素早く軽い。霧に視界が制限される環境下で、不安定な足元も障害物も瞬時に見

極めてスイスイ進んでゆく。
ユージンは滅多に褒めず、少年も自覚していないが、その走破性能は非常に高く、潜霧経験が十年

近いベテランをも凌駕する。金熊の厳しい指導あっての物だが、本人の熱心さと真面目さがなければ、二年足らずでこうまでは

なれなかった。

 熱海のゲートから土肥のゲートまで、大穴を横断する長距離潜霧。今回タケミが主導してアルと一緒に設定した潜霧計画では、

半分までは侵入経験があるルートを活用し、そこから先も比較的安全…、踏破し易い道を選定している。

 安全第一のこの潜霧計画に対して、ユージンは何も言わなかったが、内心では高く評価していた。

 最短時間を目指せば険しいルートを選ぶ。そうなると周囲への注意、アクシデントへの対応力、接敵時の余裕などが大きく変

わって来る。移動距離が長い潜霧の場合、計画とのずれは焦りを生じ易く、それが判断を誤らせる事もあるため、安全性と安定

性を求めるのが基本。

 タケミはその辺りのバランスを早くも肌感覚で把握しつつあり、数年あれば良い先駆者として大成するはずだとユージンも確

信していた。

(天候不順でも決行って聞いた時は、どうしようかと思ったけど…)

 足早に道を進みながら、少年は周囲を窺った。

 道中一度、遠目に土蜘蛛を見かけただけで、今日は危険生物と遭遇しない。そういったルートを選んだのもあるが…。

(所長の言う通りだった…)

 霧に順応した生物達の多くは、強風ではその優れた聴覚を頼れなくなるため、普段よりも索敵性能が落ち、大人しくなる。特

に捕食者は無駄なエネルギー消費を避けようと、待ち構えるスタンスで過ごす。こちらが気を付けて距離を取れば、むしろ接触

を避け易い。要するに悪天候時はこっちと向こうの注意力比べ、これに勝てれば平時より安全。そうユージンが経験則から語っ

た事は真実だったと、タケミは感心した。

 沖からの強風に晒されて、長城の風車が普段の6割増しで運転し、霧を大穴内に押し返して留める中…、こんな悪天候の中で

こそ、先行する者は資質を問われる。タケミはユージンの期待通りの働きでここまで進んでいた。

 

 一方、その後方から追走するシロクマは…。

(飽きて来たっス…)

 大股にひび割れを跨ぎ越しながら、ちょっとげんなり気味に左腕のコンソールをスライドオープン。軽くタッチして立体地図

をホログラフィック表示させ、位置を確認してため息をつく。

 ほぼ完璧なルート選定のおかげで危険生物との遭遇もなく、気構えが空振りになっていた。これはつまりタケミが優秀で、自

分達が描いたルートも良かったという事なのだが、想像していたような活躍の機会が無くて拍子抜け。

(土肥ゲートまで走破!その間に襲い来る危険生物!タケミの危機に駆け付けて千切っては投げ千切っては投げ!タケミ大感謝!

オレハッピー!ホメテ!イェア!…って流れとか考えてたんスけどね~)

 何も無いならそれに越した事は無いと思いつつも、ついつい不謹慎に想像で遊んでしまうアル。歳が歳なので仕方ない。

 なお、頭の中では不謹慎で、気持ちの方も飽きてきているが、動きそのものは完璧。先行するタケミと最後尾のユージンの間

で、逐一アームコンソールを確認して双方のビーコンが受信可能な中間位置をキープし続け、チェイサーというポジションの役

目はしっかり果たしている。

(でもまぁ!土肥に着いたら温泉!美味しい料理!しっぽり浴衣っス!到着ご褒美楽しみっス~!)

 ゴール後の事を考えテンションを取り戻すシロクマ。そしてそのさらに後ろでは…。

 

(悪天候、不慣れなルート、両方含めて予定より40分以上短縮か…。タケミはワシの期待以上に成長しとるぜ)

 強風の中でも全くバランスを崩さず、のっしのっしと安定して地面を踏み締めながら、金熊は上機嫌で笑みを浮かべている。

厳しく仕込んできたが、タケミの芽はしっかり出て順調に伸びている、と。

 基本的に上司兼大先輩としてタケミ達を仕込むユージンは、判り易く褒めたり甘やかしたりはしないが、内心では成長を認め、

そして喜んでいる。

(俵の親父殿にも胸張って紹介できるってモンだ)

 タケミの後見人であるユージンにとって、土肥の大親分と少年を引き合わせる事には、少々特別な意味がある。

 土肥の大親分こと俵早太は、タケミの祖父と懇意にしていた。それに、タケミの父は若い頃、土肥の大親分の所で奉公してい

た事があった。

 ハヤタがタケミの祖父であるミツヨシと友人関係という縁もあっての事だが、タケミの父であるミカゲは、潜霧集団俵一家の

潜り方を学び、剣の手ほどきなども受けている。師弟というほどの堅苦しい繋がりではない親しい間柄。ハヤタにしてみれば、

タケミは友人の孫であり教えを説いた男の息子。

 だからこそユージンは、有望な潜霧士であると紹介できる状態でタケミを会わせたかった。土肥ゲートまでの伊豆横断という

潜霧も、「もう挨拶ついでにここまでできるようになった」という腕の証明である。裏を返せば、ユージンが今回ハヤタにタケ

ミを会わせるのは、一人前の潜霧士と認めた証拠でもあった。

 もっとも、タケミが潜霧士になると言わなければ、極々普通に身内として紹介していたのだが。

(何にせよ、ようやく一つ前進だ。俵の親父殿に紹介したら、次は南に…)

 

 

 

 タケミの予定通り進んでいた今回の潜霧が、初めて予定と異なる事態に遭遇したのは、土肥の長城がそろそろ見えて来そうな

位置に到達した時の事であった。

「え…、えぇと…」

 立ち止まった少年は困惑する。行く手80メートルの距離で平地にずらりと並んでいる、作務衣にも似た黒い和風の衣装を纏っ

た一団を見つめながら。

 要所にプロテクターを仕込む潜霧用スーツと同じように、作務衣の両肩から肘の手前、腰などに和甲冑の物を思わせる装甲を

仕込んであるその衣装は、土肥を根城にする俵一家と、その傘下に入っている潜霧士が着用する品。
これを纏う一団の先頭にし

て中央にあたる位置には、タケミも面識がある年若いキジトラ猫の青年が立って、軽く手を上げて合図していた。

「アル君、聞こえる?所長にも伝えて欲しいんだけど…。お迎えが来てるから、集合って…」

『お迎えっス?』

 ノイズ混じりの疑問の声を返したアルだったが、すぐさま言われた通りユージンにも伝達。神代専務作業所チームが合流し…。

「ようこそいらっしゃいました。お早い御着きで」

 ユージンを先頭に歩み寄ると、一団は揃って深くお辞儀し、土肥の大親分の側役であるキジトラ猫…鋼虎丸(はがねとらまる)

がにこやかに労い、歓迎の言葉を述べる。

「わざわざ出迎えとはな。俵の親父殿に連絡した時間より、だいぶ早ぇんだが…」

「はい。その大親分が、一時間程度は短縮してくるかもしれないとおっしゃいまして…」

 ユージンはトラマルの言葉を聞き、「プレッシャーになる評価だぜ」と口の端を上げた。

「洗浄を終えてゲートを出られましたら宿までご案内致します。すぐにお休みになれるよう、お部屋と入浴の支度はできており

ますので…」

 俵一家と傘下にある組の、多数の精鋭達に囲まれてゲートまで移動しつつ、アルは並んで歩きながら会話するユージンとトラ

マルの背中を見つめ、小声でタケミに囁く。

「VIP待遇っスね…」

「う、うん…」

 緊張の面持ちで頷くタケミ。何せ俵一家の精鋭部隊は殆どが二等潜霧士、他所ならば事務所の看板になれる腕利き揃い。この

手厚い歓迎には恐縮してしまう。

 だが、緊張の理由はそれだけではない。怖がりな少年は、その性格故に勘ぐっていた。

 ゲートから見えない程度の距離で、精鋭直々のお出迎え。迎えるだけならゲート内でも良かったはず。

 おまけに、緩んだ気配は無く、むしろ警戒を怠らない佇まいと身ごなし。ずっと周囲を警戒している。ユージンが経験則から

言った通り、悪天候で危険生物が活発ではない事を、彼らは熟知しているはずなのに…。

 さらに、出迎えた半数は他の仕事があるのか、そのまま四方へ散っていった。何かを探るかのような少人数編成で。

(もしかして、何か事故でもあったのかな…?)

 事故処理の後という事なら空気の引き締まり方も判らなくない。ただ、あまり突っ込んだ事を聞くのも失礼な気がして、少年

は疑問をそっと胸にしまい込んだ。

 

「宿に着いたら温泉っス~!タケミがスベスベタマゴ肌になるの楽しみっス~」

 個室シャワーブース風の除染ルームで、シロクマは少年に後ろから抱きつき、顎で頭をグリグリしながら上機嫌。街並み見物、

温泉、美味い飯と、土肥来訪を楽しみにしていたアルのテンションは高い。

 四方の壁からスプリンクラーのように噴射される水は、霧の成分を効率的に洗い流す。海面活性効果がある薬液を含んでいる

これで全身をくまなく洗い流すのが潜霧後の決まりなのだが…。

「アル君…、くっついてる所が流れないよ…。あとここ個人用…」

 土肥ゲートの除染ルームは獣人ひとりで丁度良い個室仕様。大きなアルにくっついてこられたタケミは窮屈で洗い難い。

「くっついてる所はオレの体で洗うっスよ!」

 出っ腹とデベソを少年の背中にこすり付けるシロクマ。「そうじゃなくて…」と困る少年は…。

「自由時間になったら何処行くっス!?毎日出店開いてるから遊びに出るっスか!」

 そんな幼馴染の言葉に、「ちょっと用事が…」と歯切れ悪く応じた。

「何かあるんス?」

「何かっていうか、調べ物とかがある…かも」

 そう。知りたい事が色々ある。

 ダリアからは、父親が若い時分に土肥の大親分の所で潜霧に関する手ほどきを受けた、と聞いている。

 ユージンからも、父の遺品である刀…黒夜叉は、土肥の大親分がここの刀工に作らせて贈った物だと聞いた。

 刀については、今でも一家と傘下に赤い刀身の刀が愛用されており、工房の名前も判る。黒夜叉について詳しく知る者が居る

かどうかはユージンが前もって俵一家に調べを頼んでいたので、案外すんなり行くかもしれない。

 父の話については、俵一家の頭である大猪から色々と聞けるかもしれないとも思うのだが、何せタケミは自分の性格を知って

いる。話しかけるのも一苦労である。

 ハヤタとじっくり話をする機会は、今日明日の内はあまりないかもしれないとタケミは理解している。今日は歓迎で食事の席

を設けられているそうだし、頼みのユージンも話をする機会を用意してくれそうにない。熊親父は今夜明日は多少用事があると

言っていたので。…用事の内容について聞いたら微妙に目を逸らしながらはぐらかされたが…。

 そしてもう夕暮れ時なので、街に出て工房などを見て回る時間も無い。自分で何とかするにしても、動くのは明日以降となる。

 そんな少年の言葉を聞くと、「ならオレも付き合うっスよ!」とシロクマが張り切った。

 猟師として海外を単身で転々としてきたおかげで社交性がある…というか物怖じせず誰にでもフレンドリーに接するアルは、

話し下手な少年に同行しているだけで間を持たせてくれる。それに、一緒に居るとタケミも少し気が楽で安心できる。

「そうして貰えると、助かるけど…」

 いいの?と上目遣いで確認するタケミに、アルはニカッと歯を見せて笑った。

「弟は兄ちゃんの役に立つモンっス!」

 

 洗浄を終えた三名が軽く水分を補給して外に出ると、俵一家の精鋭達は車を用意して待っていた。

「直通便ですが、よろしいですかい?」

 ハンドルを握るビントロングの半獣人が訊ね、「おう。やってくれ」と助手席のユージンが応じる。トールタイプのワゴンで

天井が高く、アルもユージンも快適な広さ。

 露店がちらほら見える街並みを楽しむ間もなく宿に着いたが、今回の宿泊場所は前回と同じであるものの、俵一家が負傷者含

めた救助と援助のために急ぎ慌てた試験後の収容とは状況が違う。それぞれに個室が用意されていた。

 そして車が宿に着くと…。

「熱海の大将だ!」

「あれが「雷電のユージン」かぁ…」

 遠征の宿に使用していたのか、旅館正面口付近に居た大穴帰りらしき潜霧団が、車から降りた巨熊の姿に気付いて足を止め、

周囲の別の面子…土肥の潜霧チームなどが集まって来る。

「おっと、さっすが有名人」

「図体で目立っとるだけだ。送迎ご苦労オグロ」

 窓を開けたビントロングに応じて、ユージンは宿の係員が待つ正面口へ。俵一家の傘下と言っても過言ではないかつての潜霧

関係者達が営む宿なので、対応の連絡もしっかり通っている。

(ボクなら緊張しちゃう…。所長、全然気にしないんだな…)

 金熊は伊豆で知らない者が居ないほどの有名人だが、他者の視線も好奇心も気にしない。自分なら委縮してしまうなと、一緒

に視線に晒される少年は小さくなる。

 ユージンが堂々と、アルがキョロキョロしながら、タケミが縮こまって自動ドアを潜り…。

 

「豪華っス!和風!景色も…」

 畳の匂いが心地良い十二畳間で、アルは窓を開けて荒れ模様の海を見て、すぐ閉じる。

「風っ!強っ!…景色はまぁ、今度でいいっス」

 三名それぞれが伸び伸びと過ごせる個室を与えられたが、踏み込み付きの客室は、十二畳の床の間付き本間に、寝室となる八

畳間、ヒノキのバスとオートメーショントイレ、洗顔台つき。樫の一枚板に切り出したドッシリしたテーブルには、皿に盛られ

たブランド菓子と、ドリップティーパックの茶飲みセット。冷蔵庫にはジュース類とチーズなどが入っていた。なお、ユージン

の部屋だけ冷蔵庫には酒が入っている。

 純和風の造りではあるが、快適さを重視してバストイレを含め最先端のガジェットも設置されている。空調は音声認識で調整

でき、テーブルの上にはホログラフィックパネルを搭載した端末が置かれ、立体映像表示を見ながらルームサービスなどを頼め

るようになっている。

 数日の滞在を心地良く、というハヤタの気遣いらしいが、あてがわれた部屋の豪華さには流石のアルも感じ入った。

(土肥の大親分には、おっちゃんはよっぽど大事な客なんスね…)

 潜霧士としての知識も常識もあまり詳しくないアルは、ハヤタの事もあまり知らない。義母のダリアから少し聞かされた程度

なので、どんな人物か判らない。印象に残っているのは、キジトラ猫に跳びかかった狼を平手一発で芥子粒のように吹き飛ばし

た豪腕の威力くらいである。

(とりあえず「凄い人」らしいっスけど、それだけ判ってればいいはずっス!それはそうと晩飯楽しみっス!)

 アルビレオ・アド・アストラ。この少年の真に恐ろしい部分は、この怖いもの知らずな性格である。

 

 それから間もなく日が沈み、浴衣に着替えて軽く寛ぎ、一息ついた三人は、迎えに来たキジトラ猫の案内で会食席を設けてあ

るフロアへ通された。

 この宿には複数の宴会場や個室が設けられているが、一行が連れて行かれたのは一般客には解放されていない階にある、特別

な大宴会場である。

「この宴会場も約十年ぶりだぜ」

「そうでしたか…」

 しみじみと言ったユージンに、神妙な顔でトラマルが応じる。やり取りの意味が判らない少年達が視線を交わしたが、それっ

きり宴会場についての話は続かなかった。

「ご案内いたしました」

 夕焼け富士が描かれた見事な襖の前でキジトラ猫が声をかけるが、タケミもアルも不思議顔。連れて来られる途中で50名入

る大宴会場だと聞いていたし、さぞ大勢が列席するのだろうと覚悟していたのだが…。

(静かっス…)

(大勢の気配がしない…)

 室内から返事らしい返事は無かったが、トラマルは「どうぞお入りください」と襖をあけた。

(え?)

 タケミが瞬きする。

 広い宴会場が静かなのも当たり前、広々とした空間の真ん中に、重々しい大きなテーブルが一つ置かれている。

 そこに、赤銅色の被毛を纏う、どっしりと体格がいい肥り肉の猪が、浴衣姿で独りだけ座椅子についていた。

(大親分さん…ひとりだけ…?)

 てっきり俵一家や、土肥の著名な潜霧士などが集まるものだと思っていたタケミは、促されて席に着くと…。

「まだお酒も楽しめない若い所員様方には、知らない顔ばかりの宴会も、御膳をあてがわれての酒の席も、きっと落ち着かない

か退屈でしょうからと、大親分の指示でこのようにさせて頂きました」

 キジトラ猫が目を向けると、大猪は深く顎を引いて肯定。土肥に知り合いもなく、未成年でもあるタケミとアルは、大勢を招

いての酒の席は楽しめないだろうと、ハヤタが指示してこの人数。来訪者三名と、ハヤタ、トラマルの五人だけに纏まっている。

「ただし、滞在中は覚悟しとげよユージン。オメェど飲みでぇって輩ぁゴマンど居っからな」

 猪はそう言うと、目を細めて笑みを見せた。厳めしい猪面だが、笑うと目尻に笑い皺が寄って柔らかい表情になるのだなぁと、

タケミは再び意外に思う。

 土肥の大親分こと俵早太(たわらのはやた)、西エリアで最も優れた潜霧士。歴代十人しか認定されていない一等潜霧士の一

人であり、現役最年長の潜霧士でもある。

 牛鬼と素手で取っ組み合い、その角をもぎ取っただの、大弓片手に大立ち回りを演じ、鵺をほぼ単騎で撃退しただの、その活

躍と逸話は枚挙に暇がない上に、にわかには信じ難い物が大半に至る。ユージンを間近で見ていなければ全く信じられなかった

だろう。何せ、そんな人類が居てたまるかというレベルの逸話揃いなので。

 聞こえた武勇や数々のエピソード、そして西エリアの顔役という立場から、さぞや怖いひとだろうとタケミは前々から考えて

いたのだが、昇級試験で初めて会った時の第一印象は、それまでのイメージとだいぶ違っていた。

「若ぇのは、かだっくるしいのやんだべ(堅苦しいのは嫌だろう)。会席のカッコで料理運ばすが作法も何もねぇ。好ぎに食っ

て話して楽しんでけろ」

 基本的に寡黙なハヤタだが、口を開くと出て来る方言と訛りは岩手県内陸部のそれ。タケミの故郷と同じく奥羽の山言葉に根

差した言語大系に属する物で、少年が元々使っていた白神山地近辺の方言ともだいぶ似通っている。その点でも親しみを覚え、

タケミはまた少し緊張が解けた。

 上座から大猪とキジトラ猫が並び、彼らと向き合ってテーブルを挟んで、上座からユージン、タケミ、アルが並ぶ。現役の潜

霧士でいられるのが珍しい五十六という歳にも関わらず、ハヤタは巨躯のユージンと向き合っても格負けしない存在感。大人達

は運ばれて来た食前酒…梅酒の小さな酒杯を手に取り、少年達は柚子蜂蜜ジュースのグラスを持ち…。

「乾杯。んで食うが」

 仰々しい乾杯の音頭すらなく、軽く酒杯を掲げた猪は、クイッとそれを飲み干した。

 拍子抜けした様子のアルは、「え?もう食って良いんスか?」と驚き顔。乾杯や自己紹介や挨拶など、食べ始める前にイベン

トが色々あるのだろうと考えていたのだが…。

「わっはっはっはっ!腹減ってんのに待ださいんのも難儀だべ?」

 大猪は肩を揺すって大笑した。牙も立派で傷も目立つ強面だが、肉付きがよくて顎下まで分厚い丸顔に、でっぷりどっしりし

た体型なので、表情が緩むとサンタクロースや布袋尊のように柔和な印象になる。

「話は食いながらでもでぎっから、まずおあがんせ(まず召し上がれ)」

 言いながら箸を取り、銀杏の素揚げを摘まむハヤタ。同じく数の子の昆布巻きを口に運ぶユージン。年長者達が率先して料理

に口をつけて見せると、少年達も安心して食事に取り掛かった。

「何スかねこれ?」と豆腐状の物を箸で雑に崩してしまい、結局上手くつまめなくて小皿ごと取るアル。

(見たことないような料理もある…。ええと…、どれが、どういうのなんだろう…?お作法とかは…)

 上品な盛り付けの会席コースを前に、気後れしてしまうタケミだったが…。

「先付と前菜は、松の実と銀杏の素揚げ、数の子の昆布巻き、合鴨の松風焼、烏賊の塩辛、鮪のづけ、蟹味噌豆腐となります。

苦手な物は残して大丈夫ですから、お好きな物からどうぞ。料理はどんどん出てきますが、量の基準がウチの大親分と熱海の大

将のお腹に合わせてありますので」

 戸惑う少年を気遣い、トラマルが微笑んで話しかける。見慣れない料理もあったが、これについても詳細な説明も入れてくれ

て、少し会話ができたタケミはホッとしながら箸をつける。

「この後は伊勢海老と勘八、鮪、帆立の刺身が出てきます。伊勢海老の頭は後ほど煎餅に…」

「煎餅?ワッツ?海老の頭がっス?」

「はい。刺身に使われた魚の骨煎餅作りと一緒に、この席で実演されますので、お楽しみに」

 鉄板で挟み込んで身と味噌と殻を高熱で焼き上げて煎餅にするのだと説明されたシロクマは、「アメージング…!奥が深いっ

スね和食…」と感心しきり。

 少年達が暇しないよう、料理の解説や小話を挟んで会話を弾ませるトラマル。応対に慣れているので若い子らもお手の物。礼

儀正しく上客として扱いながら、しかし堅苦しくしない事で接し易くする対応。相手が過ごし易い雰囲気を作るのも欠かさない。

 その間に、大猪と金熊は近況報告と雑多な話をしていた。大半は潜霧に関わる話だが、少年らが耳にしても問題が無い範囲に

留まっている。

「野衾(のぶすま)の被膜が値崩れしたのはそういう理由か。いきなりでおかしいとは思っとったぜ」

「南の狩猟団は、こっちのが巻き狩りし易いってな喜んでだど。機械の邪魔へんねどってな。連中が土肥で素材卸せば銭も落ぢ

るし、ヒヨッコ潜霧士の被害も減る。悪ぃ話でねぇ」

「長期滞在を受け入れるのはそっちで決めた事だ。ワシが言う筋合いはねぇが、根こそぎ持ってかれねぇよう祈るぜ親父殿?」

「駆除が進むのも良し悪しだべな。そいづ食い扶持に当ででだ潜霧士は、獲物が居ねぐなったらおまんまの食い上げだ。そのあ

だりはまぁ、あんべいぐやっさ(塩梅よくやるさ)」

「段階的に別の稼ぎも考えなきゃならんが、そいつができる連中ばかりじゃねぇからな」

「仕事の斡旋はウヂで取り仕切って何とがする。下手に違法なシノギに走られるよっかマシだ」

 腕のいい潜霧士は仕事に困らない。危険生物の駆除、価値ある素材や物品の回収、そして地図情報など、様々な物を売って糧

にできる。だが、一芸に特化した潜霧士や、そもそも大穴表層でギリギリの腕となると、安定した収入など環境変化の前には望

めなくなる。そうして稼ぎに窮した潜霧士が違法行為に走るのは、昔から問題視されてきた事である。

 潜霧士になる者の多くには、よほどの覚悟か理由がある。莫大な借金を返済するために、身を売るつもりで霧に潜る道を選ぶ

者もある。そうして命を賭した仕事は綺麗事ばかりでは済まない。どうしようもなくなれば犯罪に及ぶ者もある。

 ハヤタは俵一家を立ち上げて以降、そういった違法行為に手を染める潜霧士達の手綱も取って来た。

 度を越した悪事…それこそ本土に多大な被害を与えるような違法行為に走らないよう、多少の悪さには目をつぶり、脱線しな

いよう仕事を斡旋するなどの世話を焼き、無軌道に走らないよう管理する。時に規律をもって、時に公益性をもって、時に人情

をもって、身を持ち崩して不法な手段に飛びついた者達や、生きるために法をおかした者をも許容する。

 法の外の法を担う「外法の者」としての立場もまた、この大猪が「大親分」と呼ばれる所以である。

「わ…。鶏大根だ…」

 刺身に続いて大根と鶏の煮物が出され、幸せそうな顔で箸をつけるタケミ。

 伊豆では貴重な肉類や野菜類が惜しげもなく使われた料理は、いずれも上品な味付けで飽きが来ない。全体的に高カロリー高

タンパクの、疲労治癒と体力増進を主眼にしたこってりした料理が多いものの、合間合間に煮物や飛竜頭入りの御吸物、揚げ豆

腐の甘酢餡かけなど、タケミ好みの玄妙で素朴な味わいの品が出て来る。

 もっともそれらは、味覚がジャンクフードに染まっているアルには薄味過ぎるようだが…。

「濃い味がお好みなら、醤油を足すのも良いですよ」

「良いんスか!?こういう料理ってマナーとかでNGなんじゃないんスか!?」

「普通はあまりよろしくないでしょうが、今日は無礼講と、大親分も料理長も言っておられました。大人向けなので若い人には

物足りない味の品もあるからと、料理長はこの通り、出汁醤油に豆腐のタレなど、調味料をたくさん出して下さいましたので、

どうぞご自由に」

 接待が得意なトラマルが少年達の相手をしてくれている様子を眺めつつ、ハヤタは運ばれて来た新たな冷酒の四合瓶を取り、

ユージンに口を向けた。

「そういや、地殻変動の兆候の件で「流人」がら追加の連絡あったげっとも、そっちさも行ったが?」

 差し出した御猪口で酒を受けつつ、「ああ。組合通して連絡貰った」と頷く金熊。これに猪は意外そうな表情を見せる。ユー

ジンは潜霧組合熱海支部の役員でもある。支部に連絡すれば確かに届く事は届くのだが…。

「事務所さ顔出さねがったのが?」

 その相手は、かつてユージンと組んで数週間規模の長期潜霧も行なっていた。金熊とペアが組める現状唯一のフリーダイバー

…つまり事務所も持たず潜霧団にも属さない、個人で仕事がこなせて収益を上げられる腕利き。しかも、単独でジオフロントへ

潜るほどの。

 ユージンとその男は仕事の上でも性格面でもウマが合う、ごく親しい関係だった。なのに、重要情報の受け渡しですら直接の

やり取りをしなかったのか?と猪は眉根を寄せた。

「ここ一年半ばかり会ってねぇ」

 ハヤタの疑問を察したユージンは、言葉少なくそう告げた。それでハヤタはタケミを視界の隅に意識する。目線は向けず、気

取られないように。

 ユージンはタケミの祖父の死後、身元引受人として少年を引き取ってから熱海を離れなくなり、夜の街への出歩きも、遠征潜

霧もしなくなった。かつては霧の外で過ごす時間の方が少ないと言われるほど潜っていた男が、ここ一年半以上一度もジオフロ

ントに降りていない。

(子供の面倒見ねげねぇ自分さ付き合わせだら、あいづの枷になるって考えだんだべな…)

 自分を引き取ってから活動規模を縮小したと会話の端から察したら、少年が気にしてしまう。そう気付いたハヤタは話題を変

える。

「訊かいでだ「黒夜叉」の話、調べどいだ。オラがあいづば打だした先代は五年ぐれぇ前に亡ぐなってっから当代に訊いだんだ

げっとも、ありゃあ「あの二振り限り」の鍛造法で、後継ぎも黒夜叉に詳しぐねぇそうだ」

「ん、そうだったか…」

 せっかく来た機会に得物について詳しい話…、「それがどういう物か」という事を知れれば良いと少年は考えていて、ユージ

ンもこれに同意していた。が、手がけた刀工は既に亡く後継者も伝え聞いていない。さてどうした物かと金熊は考え込んだが…。

「見物案内がでらトラマルに工房さ連れでがす。打った当時の事は判んねくても、その道の第一人者ならどいな刀が教えでける。

…重造(じゅうぞう)に見さす。手紙書いでトラマルさ持だせどぐが」

「おう、そいつは有り難ぇぜ。餅は餅屋、斬る事に関しちゃ試刀屋だ」

「…で、オメェの方には写真入りの名簿用意すっから、好みの指名しろ…」

 口元に盃を寄せるユージンの手が一瞬止まり、声を潜めて意味ありげな薄笑いを見せる大猪を、コバルトブルーの瞳が責める

ように見る。

「この席でその話はこれ以上するんじゃねぇぜ親父殿。ええ?」

 大猪が、少年達が同席している所でわざと話を出して反応を面白がっている事を察し、釘を刺した金熊は、しかし鼻の下が心

なしか伸びている。

 一方で、アルの方は料理を楽しみながら、トラマルの退屈しない話術も楽しんでいた。

「滞在中にお部屋で時間を持て余した時など、この宿ではお部屋で観られるディスクの貸し出しもしているので利用してみてく

ださい。データレンタルではない古めかしさが好評で、各ジャンルの名作から問題作、マイナー作まで取り揃えてありますから、

興味が湧く物もあるかもしれません。ただ、映画もアニメもドキュメンタリーも、だいぶ古い物混じりですが…」

「古い物?って、もしかしてアレもあるっス?えーと…」

 呟いたシロクマは、聞いていた昔のアニメの名前を思い出して「ダンザイガーってあるっスかね?」と訊いてみた。

「競争率が高めですが、置いてあります」

「あるんスか!競争率高いんスか!どのくらいっスか!」

「高止まりです」

「高止まりっスか!ナンデ!?」

「隠れた人気作品なんです。ディスクもあまり生産されていませんでしたし、触れる機会が貴重で…」

「トラマルさんも観た事あるんス?」

「ええ、勿論」

「どうだったっスか?」

「伝説になるだけはありますよ」

「レジェンド!マジデ!」

 そんな話を聞きながら、タケミは陶板焼きで振舞われるポークソテーの調味料について考え込んでいた。

 醤油ベースのタレ、ワサビ、塩などを好みでつけて食べるようになっているが、少年の興味を引いたのは、福島県会津地方か

ら取り寄せられているという山塩について。

 古代、この島国の殆どが海中にあり、そこから隆起した頃に、取り残された海水が地層に封じ込められた。当地ではその名残

が今でも塩化物泉や塩として地下から採取されているのだと、キジトラ猫は説明してくれたが…。

(「伊豆だけ」は、成り立ちが違うかもしれない…?)

 少年は、つい先程アルの質問を皮切りにしてあったやりとりについて思い出す。

「伊豆も海の底から浮いて来たんスかね?」

「そういう説と、もう一つ別の説がありまして…」

 トラマルはまず、「浅い海底が隆起して島を形成し、それが本州に合体した」という説について述べた。海底火山が火山島と

なり、島となり、列島と地続きになったという話を。

「別の説というのはですね、「そもそも形成されたのはここではない」という説です」

 キジトラ猫は、列島が乗っているユーラシアプレートに対し、伊豆半島はフィリピン海プレートに乗っている事をまず説明し

た。タケミは覚えていたがアルは忘れていた知識である。

「フィリピン海プレートはユーラシアプレートに潜り込み続けていて、伊豆で地殻変動が頻発するのもこのプレートの運動が原

因です。…で、潜り込み続けている…つまりスライドし続けてきたこの状況から逆算するなら、伊豆はそもそも、海の彼方から

移動してきたドリフティングポイント(漂着点)なのではないかという説もあります。かつての伊豆ジオフロントは、この点に

ついても解明できる場所なのではないかと期待されていたんですが…」

 キジトラ猫が自分の手をプレートに見立てて、下に潜り込んでゆく様子を説明するのは、タケミにとっては全体的に興味深い

話だった。

 伊豆ではかつて「生命の研究」が行なわれていた。大隆起前の隆盛期に、この国を医療大国に押し上げるに至ったその成果は、

事業を立ち上げた者達の目が確かだった証明である。

 だが、「それが何故伊豆だったのか?」。

 土地が余っていたとか、地元の有力者の誘致だとか、政界の意向だとか、理由は色々あって、そのどれもを裏付ける記事、言

説、証言がある。しかしタケミは、その他にも何かあったのではないかと考えている。

 昔々、少年がまだ幼稚園児だった頃、幼い素朴な問いかけに、祖父はこう答えた。

「外から来た神様を拾ってしまったので」

 祖父がそう言ったのは一度きり。後から思い出して訊ねた時は、ミツヨシは知らないと言って発言を否定した。眠たい中で訊

いた話なので、自分が寝ぼけていた可能性も否めないが…。

 一度、ユージンにもこの話をした事がある。あの時は金熊も鼻で嗤っていたが…。

(変な、笑い方だったんだよね…)

 下らないと嗤ったようにも思えたが、よくよく思い返すと、タケミが幼かった当時のユージンは、どんなに幼稚な事や下らな

い事を訊かれてもバカにせず、根気よく話に付き合ってくれた。むしろノリノリで話を膨らませてくれる事が多かったほどなの

に、あの話題の時だけは妙な笑い方をしていて…。

(ボク達にはまだ知る事ができない情報…?お爺さんが「神様」って言った何かが、ジオフロントの研究に関係してた…?)

 四等潜霧士になりアクセスできる情報は増えたが、ジオフロントについては今でも知らない事が多い。事故で迷い込んで実際

に「見てしまった」アルはともかく、三等以上の潜霧士でなければ行けもしないし知しもしない魔境なので、考察するにも今の

タケミには情報が足りない。

 そこへもたらされた、「伊豆はフィリピン海プレートに乗って移動してきたのかもしれない」という説は、祖父が一度だけ口

にした「外から来た神様」という言葉を少年に思い出させた。

「………ので、タケミ君も決めておくと良いでしょう」

「え!?」

 熟考していたタケミは、名前が口にされた事で我に返る。

「聞いてなかったんス?」

「豚のソテー、そんなに美味しかったですか?お代わりもできますよ?」

「おう!ならワシの分もお代わり頼むぜ!美味ぇなぁこの豚!」

 そろそろ酒ルも回って態度がユルくなって来たユージンが口を挟み、このオーダーを受け取って追加注文を厨房に送りながら、

トラマルは「貸切風呂の話です」と少年に笑いかけた。

「有料の予約制ですが、皆さんは無料で使えるように大親分が手配しています。お部屋にあるルームサービスのオーダーと同じ

端末から、空いている時間を見て好きな貸切風呂を予約して下さいね」

「あ、は、はい!有り難うございます!」

 至れり尽くせりだなぁと恐縮しながら、少年はユージンを見遣る。

(所長と温泉入れたら、いいのになぁ…)

 酒が回っている今なら誘えば二つ返事で同行しそうな物だが、そもそも誘う勇気がタケミにはない。そしてもれなくアルもつ

いてくる。

「牛っス!?豚も出たのに牛も出るんス!?」

「飛騨牛のサイコロステーキと牛タンです。今回は料理長が芯タンを用意してくれました」

「オレこれスキー!」

「豚もう一皿貰うぜ」

「肉ばっかでねぐ野菜もあがい」

 などと、賑やかな夕餉を一同が堪能しているその頃…。

 

 

 

(風が唸りよる。こりゃ今夜は収まらへんで…)

 吹き荒ぶ風に、霧が千切り飛ばされてゆく中。窓という窓をぽっかり空いた黒い穴に変え、傾いたまま四十年風雨に晒されて

いる五階建てビルの脇で、男が独り、飴玉を一粒口に放り込んだ。

 160センチほどの身長に対し、肉付きが良過ぎてまん丸い体躯。暗がりの霧に溶け込んで佇むのはオーバーオール姿でゴー

グルを着用している狸。

 ボールのように丸い狸は、左腕のコンソールユニットに触れた。人間の潜霧士が着用するヘルメットのバイザーと同じように、

狸が着用しているゴーグルも情報表示機能を備えている。暗い視界に光る文字が浮かび上がり、現在時刻を知らせた。

(40分経っとる。引き上げるべき…なんやけど)

 約束の時間はとうに過ぎた。もう留まるべきではないと頭では考えるが、気持ちが立ち去る事を許さない。約束されている報

酬は、かなり多めの前金以上に魅力的だった。

 口の中で飴玉を転がしながら待つ狸の傍らには、潜霧士が用いる作業機が佇んでいた。

 タカアシガニを思わせるフォルムのそれは、六脚式で武骨な大型。だいぶ古い型式の作業機だが、補修を繰り返した結果、一

目では原型機種が判り難いほど外観が変化している。

 さらに待つ事5分。50分待ったら引き上げようと、狸はアームコンソールにもう一度触れようとして…。

(…ようやくお出ましかい)

 強風の中に気配を感じ取り、だいぶ小さくなった口の中の飴を噛み砕いた。

 ゴーグルに投影されたのは時刻表示ではなく、物音などから推測される未確認運動体との距離。複数の音源と動きから、計測

数値に現れている他に数人居る事を、狸は勘で察する。

 やがて、ビルの内側でコツリ、コツリ、コツリ、と三度規則正しく音がした。その合図を確認してから、狸は正面口からでは

なく窓穴の一つを潜って中に入る。相手が自分を嵌めようとしている可能性も考え、あらかじめ現場も下見し、逃走し易い窓を

選んで作業機を停めておいた。何かあればすぐ逃げ出せるように待機状態を維持したままで。

 穴だらけのビル内でも、灯りが外に直接漏れない、中心に近い位置の部屋。そこに潜霧用のスーツや装備で身を固めた一団、

八名が入り込む。

 潜霧士に見えるが、全員タグを着用していない。他にも身元を確認できるような物を一切所持せず、検知器を用いても所属を

割り出せなくされている。

 かつてはオフィスだったのだろう部屋は、劣化して一つとして四脚で立っていないスチールデスクや椅子が土埃やゴミに埋も

れ、波打ったまま凍り付いた海のようにボコボコしている。かつては書類やデータが保管されていたのだろう棚は物漁りによっ

て掘り尽くされ、全て空にされていた。

 部屋の中心に持ち込まれていた、何処かの潜霧士がいつか休憩に使ったのだろう錆び付いて穴だらけに腐食したドラム缶の上

に、一団がランタンを置いた瞬間…。

「お早い御着きで」

 崩れていない壁伝いに姿を隠して侵入し、皮肉交じりの挨拶をもって存在を明かした狸に、数名が素早く向き直った。

 気配が窺い易かった者ほど虚を突かれた反応が大きい事を目敏く確認しながら、狸は見えている範囲の外…おそらく正面出入

り口に最低二人は残してあると推測する。

「彼が今回の仕事を請け負った相手だよ。心配ない」

 腰に吊るしていた伸縮式警棒…対危険生物用のスパークロッドを構える三名を、一団の取り纏め役と思われる男が制する。東

洋の龍を模したヘルメットを着用しているので顔は判らないが、スーツを着用している体のボディラインや尻尾が無い点などか

ら、おそらく人間だろうと狸は察した。

 この場で顔を晒しているのは、ゴーグルだけを着用している狸のみ。一団は全員がヘルメットをつけており、人相は不明であ

る。
声の調子からすると五十歳前後と狸が目星をつけた一団のリーダー格は、「遅れた事を詫びよう」と、体ごと向き直って狸

に正対した。

「俵の直参が巡回していてね。予定を過ぎても帰らない潜霧士の探索か、それとも悪天候故の見回りか、あるいは…」

 意味ありげな、窺うような一瞬の沈黙。先程ロッドを構えたひとり…鼠を象ったメットを被る男が「嗅ぎ付けたのか?何故?」

と再び腰の得物に手をかけた。その視線は狸に向き、チリチリと肌を刺すような殺気を放つ。

「はて?ワイは俵一家と無関係やさかい、内部事情までは知りまへんで?勿論やけど、今日この時に誰と会うとるかも、誰にも

喋ってへん」

 肩を竦めた狸は、おどけた仕草を見せながらも、鼠メットの気配と気質を探る。

 反応は過敏で好戦的かつ直情的。出方を探る慎重さはなく、間抜けなふりをして相手を窺う演技力もない。ただし、身のこな

しからその軽快さと機敏さが窺え、荒事…特に暴力行為に馴染んだ手練れであると看破する。行動に移ったら迷いが無い、手心

を加える事も逡巡を見せる事も無く相手を殺せるタイプである。

 鼠メットだけではない。龍のメットもそうだが、鳥、兎など、各々が異なる動物を象ったメットを着用している四名は、残り

の四人…特徴の無いフルフェイスメット達とは気配の質が違う。

(こりゃ厄ネタ引いたんやろか?)

 物騒な連中と関わったなと少し後悔しながら、しかし狸は物怖じせず続けた。

「もっとも…、信用できへん言われたかて証明のしようもあらへん。信用できへんなら、大人しゅう商談畳むだけですわ」

 自分が必要であれば仕事を受ける。気に入らないなら他を当たれ。ただし他にあてがあるなら。

 そう言外に含めた狸を見据え、龍のヘルメットを被った男は「結構」と呟いた。この狸は商談の運び方に慣れている。おまけ

に恐らく荒事にも…。そう判断して仕事を頼むに不足は無いと評価した。

「仕事の内容は事前に仲介屋を通して連絡した通りだよ。我々がここに運んできた品物を、指定する座標に配置して回って貰い

たい」

 龍のメットは軽く右手を下から振り、メモリースティックを放った。顔の高さに手を上げてそれをキャッチした狸は、潜霧士

が使うアームコンソールにも挿入できる、市販品のそれをしげしげと見つめる。有り触れているが故に足がつかない物品である。

「了解ですわ。成功報酬は…」

 報告と確認の後か?と狸が問う前に、龍のメットが「既に振込手続きは済んでいる」と先回りした。

「ほ!気前のええこって。預かった品ごとワイがドロンしたらどないするつもりです?」

 冗談めかした狸に、龍のメットは低く笑って応じた。

「そうするつもりがある者は、そんな事は訊かないものだよ。それに、お互いにメリットとなる商談なら、今後の事を考えるだ

ろう」

 首尾よく行けばまた頼む事もある。そう含みを持たせた龍のメットに、「全くですわ」と応じた狸は、

(ワイが垂れこんだり、荷物盗んだりしたら、後ろからズドンやろ。それは普通に下らへん)

 元からそんな事をするつもりなど無かったが、この連中は「やるとなったら躊躇は無い」と確信し、気を引き締める。そして

思う。美味い儲け話だったが、この連中からの仕事はもう受けるべきではないなと。

 気配が明らかに異質な数名は勿論、その中でも、とりわけ龍のメットを被った男は油断ならない。

 穏やかな口調と落ち着いた物腰は、しかし警戒している者から注意力と警戒心をさらりと取り上げる猛毒。そしていざとなれ

ば、そのやんわりした口調を崩さないまま、殺せと命じるのだろう。

「荷物をお預かりしましょ。明日の夜までには全部配置しときますさかい、すぐ取り掛かりますわ」

 狸が外に向かって顎をしゃくり、旅行鞄にも似たトランク十四個…ロックされたそれらを、作業機に積み始めると…。

 

「見張り役、ご苦労様」

 龍のメットはフルフェイスメット一人を伴い、正面口に待機していた二名の元を訪れた。

「荷物の手配はできた。引き上げ準備にかかってくれたまえ」

 龍のメットがポンと肩を叩いた相手は、イヌ科を思わせる口部が前に伸びたマスクを着用した、190センチを軽く超える大

柄な男。

 メットが隠しているので面相は不明だが、全身を覆うスーツは身に付けていない。纏っているのは濃い暗緑色を基調にしたア

サルトジャケットとパンツ、軍用ブーツで、露出している部位には灰色の獣毛が見られ、尾がある事からも獣人である事は間違

いない。

「随分と執心のようだが、君の期待通りに事が運ぶよう願うよ。我々も貴重な実験になる」

 龍のメットが発した言葉に応じるように、両目を覆うバイザーから透けて見える鋼鉄のような灰銀色の瞳が、微かに光った。

「荷運びさせる相手、信用できるんですか?」

 犬メットと共に見張りをしていた男が口を開くと、「さぁな。だが霧の中で野垂れ死なないだけの腕はあるだろうさ」と、龍

メットに代わって彼を護衛する男が応じた。

「でなきゃ貴重な機材をどぶに捨てるような物だ」

「へぇ。そこそこ腕利きって事かよ?」

 そこへ犬のメットがボソリと告げる。

「…「元」俵一家。十年前まで俵早太の観測手を務めとった男や」

「ホントか!?」

 驚いたらしい男が、「俵一家の関係者!?マジラ様、そんな奴使って大丈夫なんですか?」と龍メットに視線を向ける。

「問題はないだろう。と、判断したよ」

 マジラと呼ばれた龍メットは鷹揚に応じる。そこにもう一人の男が追従した。

「あくまでも「元」関係者。破門されたって事は、無関係どころか繋がりはもっと無いって言っても良いだろう」

「何をしでかして破門になったんだ?着服か?身内殺しか?」

「さあ…?何をしでかしたか知らんが、破門の経緯が知られてないって事は、俵一家が口を閉じるだけの汚点だったって事だろ」

 やがて、ビルの向こうから残りのメンバーが回りこんで来ると、龍のメットは「では撤収しよう。一番近い「穴」から外へ向

かう」と一同に告げた。

 かくして、ビルは無人に戻り、そこで行なわれた商談は痕跡も残さない。

 傾いた墓標のようなビルを去り際に振り返り、イヌ科のメットを被った大男は、そのマズル部分に手を這わせた。

 その隣に、フルフェイスのメットを被ったひとりが近付き、囁く。

「いよいよですね、親分…」

「そうやな」

 短く応じて、犬のメットも、フルフェイスも、風に踊る霧の中へ姿を消した。

 

(さて…。何やろな、この荷物)

 一方、狸は乗機に積載した大量のトランクを意識しながら、指定された十数ヵ所を巡る移動に入っていた。

(潜霧用の中継補給物資…、って体のパッケージではあるんやけど)

 長距離、あるいは長期潜霧用に、物資をあらかじめ運び込んでおくという手法は、時折利用される。特に現地で大規模な掘削

などの作業を行なう場合、物資だけ先に運び込んでおき、道具類を担いで別日に潜るというのは常套手段。

 ただし、今回の荷物はそれにしては妙だと、狸は考えていた。

 第一に、人目を避けるように夜闇に乗じて、自分を使って置いて回らせるのが不自然。

 第二に、場所の指定がおかしい。発掘作業などをする現場に置くなら、これだけ離れた十数ヵ所に分けるのは非効率。

 第三に、重さがおかしい。中身を確認できないので断言はできないが、食糧や薬品類などが中心になる潜霧用追加物資であれ

ばこんな重量にはならない。中身全てが飲料水の場合も重量はかさむが、今回の荷物はそれ以上。ほぼ道具類だけを詰め込んだ

ような重量である。

(厄ネタ、やろな)

 そうは思っても狸は仕事をこなす。正体不明のこの荷物もちゃんと指示通り運ぶ。強気の交渉で商談の切り上げも辞さない姿

勢を見せたが、実際には、狸は金が欲しい。喉から手が出るほど。

(あるかどうかも判らへん遺物遺品漁りとはちゃう、久々に纏まった大金が入る仕事やった。多少怪しい言うても断るのは惜し

かった。…けど、次は無いわ)

 ゴーグルの中で狸の目が鋭く細まった。

 金は欲しい。だが命と引き換えにはできない。死んでしまったらそれ以上稼げない。だからまだ死ねない。いたずらに危ない

事へ首を突っ込むわけには行かない。

 怪しさと危険性を考えれば、もうあの連中とは関わらない方が良い。

(死んでもうたら一銭も持ち帰れへん。稼ぎもワヤになってまう。それは普通に下らへん)