第十五話 「刀利き」
「それでは、ご案内致しましょう」
にこやかに微笑むトラマルの先導で、竹刀袋を背負ったタケミと、手ぶらのアルは工房の門を潜った。
「和風ですね…」
一般人の出入りが制限される地下モール、その奥に工房があるのは熱海などと一緒だが、ここの工房は地下にも関わらず門構
えが立派な屋敷の外観に整えられていた。
「どこも似たような造りです。土肥では通常の潜霧装備のみを扱う工房が半数、刀剣類などを中心に扱う武装専門の工房が残り
半数で…、タケミ君のそれ、「黒夜叉」を打ったのはこの工房の先代工房長でした」
まるで料亭のような門構えを抜け、玉砂利に飛び石が敷かれた短い前庭を越えて、自動で開く障子戸を潜ると、そこには美術
館か博物館のような光景が広がる。
「うわ…!」
絶句した少年の瞳に映るのは、体育館ホールのように広い空間を埋め尽くす、ショーケースに飾られた無数の刀剣、槍、薙刀
類。
か浅葱色の着流しに臙脂色の帯を締めた男達が付いている。
一行が入店したのを確認して、店舗奥からのっそりと大柄な影が近付いた。ゆったりとした歩調ながら、しかし客を待たせな
いよう大股に。
「ようこそおいで下さいました」
他の店員同様に着流し姿のその男は、河馬の獣人だった。アル並に背丈があり、さらに胴回りがあるドッシリした体型である。
体が大きい男は、見知らぬ少年達を連れているのが大親分の側役のキジトラ猫である事を確認すると、出っ張った腹が窮屈そ
うに見える程深く腰を曲げ、丁寧なお辞儀をしてから要件を伺う。
「本日は何かお求めでしょうか?トラ兄(とらにぃ)」
生真面目さが窺える態度と物言いの中に、上客として対応するトラマルに覗かせる親しみ、あるいは敬意。ただし河馬の顔は
愛想笑いの一つも浮かべないが。
「いいえ、今日は購入の御用は仰せつかっていません。大親分の客人がはるばるお越し下さったので、土肥自慢として店内をお
見せしたくてお邪魔しました」
土肥の工房直営店はどこもひやかしお断りだが、大親分の傍仕えであるトラマルは顔が利く。客人に見物させたいという事情
を伝えられると…、
「承知しました。御用があれば承りますので、何なりとお申し付けください」
注文聞きの河馬はそう述べて、少年達にも恭しく頭を下げる。
「ありがとう。買い物ではないんですが、大親分から手紙を預かっています。君を名指しで頼みたい事がある、と…。後で少し
時間を貰いますから、フロア長にも手紙を見せて伝えておいてくれますか?」
「承りました。お預かりします」
河馬はトラマルが差し出した封書を恭しく受け取り、もう一度頭を下げてから奥の方へ立ち去り、ホールから姿を消した。
「今のひと、帯刀してました…よね…?他の店員さんも…」
タケミは河馬が居なくなってから、恐る恐るトラマルに訊ねた。潜霧士も大穴内でなければ武装しないにも関わらず、河馬は
その太い腰に大太刀を帯びていたのである。見れば河馬だけでなく、フロアに居る他の御用聞き達も帯刀していた。
それに加えて…。
(素人じゃないっス…。足の位置取りも、重心の運び方も…)
(雰囲気が達人のそれだった…)
アルもタケミも察していた。あの河馬は相当腕が立つと。
「この辺りは他の工房と比べても少し特殊でして…」
キジトラ猫が微苦笑しながら説明する。「お恥ずかしいですが」と。
この辺りの工房で取り扱うのは高額品であるのみならず、いずれも強力で持ち運びも容易な刀剣型レリック中心…。つまり、
一般社会に持ち込まれれば、確実かつ容易な殺傷が可能な凶器となる上に、警官隊でも制圧が難しくなる品ばかり。
これを狙う犯罪者が店に来るとなれば、万引きなどという生易しい物ではなく、武装強盗レベルになる。そうでなくとも、こ
こ十数年はハヤタの尽力で秩序が保たれているが、西エリアは立地的にも犯罪者が流入し易い危険地帯なのである。
そのため、盗難を確実に防止するために、俵一家…ひいてはハヤタお墨付きの腕利きや、元潜霧士元地図師の潜霧経験者など
を、防衛のための「攻撃認可証」を持つ「武装御用聞き」として各店が雇っているのだと。
「武装御用聞きって、すげぇパワーワードっスね…」
「それもだけど、攻撃認可証とか普通に生きてたら一生聞かない単語だと思う…」
同じ伊豆でも、土肥はもはや風習や常識が異国レベルで違うなぁと、目を白黒させるタケミとアル。
「今のおっちゃんも、元潜霧士とかなんスか?」
「おっちゃん?」
アルの問いに、トラマルは一度目をパチクリさせた。
「………あ!もしかしてジュウゾウ君の事ですか?ああ、つまりいま挨拶に伺った河馬の…」
「へ?そうっスよ?」
何故自分が言った事が通じ難かったのだろうかと、不思議そうな顔になったシロクマは、
「…「おっちゃん」…。いや、そう見えない事も、ない…?」
何やら考え込んでいるトラマルの態度で、さらに疑問顔になった。
「あ、済みません。彼、ジュウゾウ君って言うんですけど、まだお酒が飲めない歳です」
『え』
少年達の声がハモる。
「ピッチピチの十九歳ですよ。おふたりの二つ上ですね。刀工のタマゴで、今は武装御用聞き兼この工房の試刀屋(しとうや)。
つまり目利きや実演…試し斬り担当者のひとりです。刀鍛冶としてはまだ見習い卒業という扱いですが、試刀術の腕と審美眼は
ベテランにも劣りません。後ほど黒夜叉について目利きして貰う予定です」
(十九歳…え?)
(2コ上!?アメージング!ってか顔!雰囲気とか顔とか全然ティーンエイジャーじゃないっス!)
絶句する少年達に対し、キジトラ猫は複雑な顔。
「そうか…。もう十九歳…。随分立派になったし、見間違えられる事もあるか…。…さて、ぐるりと見て回りながらお話致しま
すね。今居るここはフロントロビー。商品陳列スペースであり店舗ですが…」
販売店舗も武装御用聞きが警備する工房は、当然ながら刀工達が仕事をするエリアも部外者がおいそれと立ち入れる場所では
ない。何せ材料となる発掘品や回収品が保管されている、危険な貴重品の山なのだから。例え大親分ハヤタの口利きがあっても
日時を指定する事前予約制の訪問となり、当日見に行きたいと言って入れるのはフロントロビーまでである。
この辺りはタケミが連れて行かれる相楽の工房も同様で、呼び出しや商談が無ければ作業エリアに入れないので理解できる。
「刀工の銘別にコーナーを設けてありまして、それぞれの自慢の作品がこのように…」
「いちじゅうひゃくせんまんじゅ…八百万円っス!?」
近くのケースを覗き、一番近くにあった日本刀の値札を確認したアルが仰天する。ここに陳列されているのは歴史的な品物で
もなければ美術品でもない。潜霧で扱う得物…実用品。付加価値抜きの価格である。
「それは「ハダカ」ですので、大穴内の回収品を利用したユニットが搭載されていない分だけ安価です」
「ハダカ!アンカ!ヤスイ!コレデ!マジデ!?」
シロクマが目を白黒させる。タケミが「ユニットって…」と価格に気圧されながらも尋ねると、キジトラ猫は「はい、このエ
リアの工房の特色でもありますね」と頷いた。
刀工達が鎬を削るこの界隈では、刀身そのものも大概切れ味や耐久性がだいぶおかしい業物揃いだが、搭載する機構もまた重
視される。例えば、トラマルなど俵一家やその配下の組がシンボル的に用いる、赤い刀身の鍔が無い長ドスは、柄の中に高速震
動ユニットと持ち手への震動緩和機構を備えた逸品。他にも熱断機能を搭載する刀、帯電する刀など、様々なタイプが作られて
いる。「ハダカ」と呼ばれる何も搭載していない刀剣すらも、ユニットを取り付ける拡張性を持つ値打ち物なのでこの値段。
「刀身は我々などがジオフロントから持ち帰った、警備機械や機械人形類の外装やフレームなど、頑丈な合金から鍛造した物で
す。柄や鞘などの装飾も、拘る客は拘りますね」
このエリアで製造される高品質の刀剣類は、潜霧士にとってはステータスシンボルにもなる。中堅以上になった潜霧士は、扱
えるかどうかはともかく箔が付くので買い求める事が多い。
「黒夜叉を打った刀工は亡くなっていますが、作られた経緯については大親分から聞いて来ましたので、鑑賞しながらご説明し
ますね」
トラマルはそう言って、タケミが知りたかった黒刀についての話を聞かせてくれた。
「タケミ君のお父様が一等潜霧士に認定された際に、大親分が特別に打たせた二振りの一方…それが黒夜叉です。地下大空洞ジ
オフロント、そこに自動生産されている機械人形などが存在している事は、正規ルート以外からも聞こえてきているでしょうか
ら説明は省きますが、彼らの中には一握りの特殊固体…特別な目的で製造された物が存在します」
立てかけられている長大な薙刀の前で足を止め、トラマルは説明を続ける。
「これら刀剣類の多くは、用途に応じて合金の成分や配分こそ異なりますが、基本的にはいわゆる「一般機」から回収した合金
を材料にしています。しかし、黒夜叉は違います。一握りの「特別個体」から得られた希少な合金を元に、特殊な製法で鍛造さ
れた一振りです。…特色については…」
「はい。「単分子ブレード」と聞いてます」
タケミの返答に頷くトラマル。「へぇ~。…なんスかそれ?」とはアルの反応。
「文字通り、刃の縁…一番鋭い部分の厚みが分子一つ分しかない刃物です。言い換えれば、理屈の上では極限に鋭い刃、ですね。
それを鍛造や整形した刀身で実用レベルに形成できる金属や鉱物はそうそうありません」
単分子の厚みしかないという事は、つまりそれだけ薄く脆いという事である。普通に作っても斬る度に零れてなまくらになっ
てゆく刀になってしまう。しかし、ハヤタがジオフロントで手に入れて来た金属は、この問題をクリアできた。
「大親分が持ち帰った希少金属は、特殊な手順で電圧刺激をかけると、その時点での形状を記憶する性質と、自己修復する性質
を併せ持っていました。つまり、刀身を鍛造した後に処置を行なう事で、破損したとしても刀としての形状に自力で復元する品
となるのです。これにより、日本刀を打つ手法で刃の部分は鋸刃を形成し、かつ単分子の厚みの刃を備え、摩耗しても破損して
も自己修復して鋭さを取り戻す、研ぎ知らずの刀ができあがったのです。それが…」
「タケミの刀…っスか」
「ええ。先代の「正宗」が、生涯最高の二振りと評した最高傑作の一方。刃が毀れても欠けても、時間を置けば修復して研ぎ上
がった時点の鋭さを取り戻す、永遠の大業物。「誓願正宗黒夜叉(せいがんまさむねくろやしゃ)」」
「もしかしてっスけど!」
アルがずいっと身を乗り出す。
「オレの鬼包丁って、そのひとのショーガイサイコーケッサクのもう片ほ…」
「あ。アルビレオ君のは見た感じですけど、おそらく土肥の製造ではないと思います。形は似てますけど日本刀の造りになって
ないというか…」
「え!?違うんスか!?タケミとお揃いじゃないんスか!帰ったら母ちゃんに鬼包丁の出所とか逸話とか聞いてみるっス」
「ん?タケミ君、説明で何か気になる事がありましたか?」
キジトラ猫が目を向けると、少年は色白の頬をやや赤くしながら「い、いいえ!」と首を振った。
(凄い名刀だったんだ…。刃が治るって言っても乱暴に使うなよって、所長には言われてたけど…、これからは抜くときに緊張
しそう…!)
キュッと、愛刀を納めた竹刀袋の紐を強く握る。基本的に小心かつ庶民派なので、凄まじい貴重品と知った途端に委縮してフ
ルフル震えてしまうタケミであった。
「そうそう。大親分が剣の腕を見たいとおっしゃっていたので、タケミ君の明日の潜霧は大親分に同行して頂く格好になります。
アルビレオ君は大人数での潜霧参加経験を積むとの事なので、私達と一緒に傘下の組の皆さんと巻き狩りを…」
『え』
少年達の声が被った。
「え?」
ふたりの顔を見たトラマルにも困惑顔が伝染する。
「聞いてないです…」
「同じくっス…」
「…え?」
この予定は最初から組まれていた物だが、今日告げるつもりだったユージンは、少年達が出かける午前9時の段階でもハヤタ
と一緒に宴会場に居た。より正確には、深酒が過ぎて酔い潰れて宴会場でそのまま寝て、ふたりとも起きてこなかったのである。
「所長珍しいっスね…」
とアルは眉根を寄せたが、タケミは少し胸がチクチクする。
自分を引き取ったから、ユージンは知人達との飲み歩きもあまりせず、熱海以外へ出かけるのも最小限にしていた。古い知り
合いであるハヤタとは、話したい事が山ほどあったに違いないと、少年は察していた。
同時刻…。
「何年振りかで足腰立たねぇほど飲んだぜ…。羽目外し過ぎたか」
湯船に浸かって縁に腕をかけ、湯煙と天井を見上げながら金熊が呟く。
「おだがい様だべ」
洗い場で体を洗う大猪が、腋の下をゴシゴシ擦りながら応じる。
貸切風呂の一つで起き抜けの温泉を楽しみながら、ふたりは汗と酒臭さをしっかり洗い流す。
「こっちさ居る間は若ぇのの面倒は見させる。潜霧実地訓練も含めでな。たまに来たんだがら存分に羽伸ばしてげ」
「おう、そうさせて貰うぜ。ワシも訓練に参加してちゃあ、親父殿のとこの上役連中との酒の付き合いも難しくなるからな」
金熊がそう言うと、大猪は手を止めて首を巡らせた。ユージンはダイブする前日から酒を断つ。しかしそれは昔からの事では
ない。若い頃はそんな習慣はなかった。
(潜る前の日がら酒を断づ、が…。ミツヨシの験担ぎだったな…)
やがてハヤタがのっそりと腰を上げ、湯船の縁を跨ぐ。
現役最年長の潜霧士にして、存命する六名の一等潜霧士の一角。もう若くはないのだが、その肉体はどっしりと逞しく肥えた
ままで、やや脂肪の緩みが目立つようになったものの、筋肉量は衰えていない。白い物が混じる赤銅色の被毛も、褪せるという
程には褪色していない。
老いてなお威風堂々。サイズで上回るユージンと並び立って、風体は勿論、実力と実績の面で見劣りしない潜霧士は、ハヤタ
の他数名しか居ない。
この「怪物」から、今のタケミならば学び取れる事もある。ユージンはそう考えて、少年の実地指導を頼んだ。
一方でアルについては、個人での戦闘や少人数での狩りはともかく、潜霧行動全般の実施経験が不足している。とはいえ勘が
良いシロクマは環境への適応力が高い。一流中の一流である俵一家とその直参、配下の組が合同で行う巻き狩りに参加すれば、
集団の中で自分がどう働くのが効果的かという事を、肌感覚で学んで来るはずだった。
(南エリアに行く前に、力をつけさせておかねぇと…。あそこには、生半可な腕のままじゃ連れて行けねぇからな)
広い湯船の端と端、向き合って温泉に浸かりながら、ユージンは思い出したようにハヤタに訊ねた。
「そういやぁ、ワシらを迎えに出た面子、半数はそのまま消えたが、何ぞ仕事中だったか?」
タケミが気付いた事はユージンも把握済み。自分達を妙に大勢で迎えたかと思えば、半数は少人数編成に分かれて霧の中に消
えて行った。あれは仕事中だった者達へ無理に参加を呼び掛けていたのかとも考えたが、ハヤタの性格を考えるとどうもおかし
い。面子は重んじるが、危険が絡む大穴内での仕事でまで体面を繕えと言う男ではない。
「まぁなぁ…。実は…」
ハヤタが言い難そうに声を低くし…。
「…なるほど」
仔細に説明を受けたユージンが唸る。「そいつぁ面倒くせぇ」と。
「しばし警戒はしねげねぇ。そんで二交代で毎日巡回だ。…そりゃそうどな」
大猪は先程とは違う様子で声を抑え、「オメェの指名待ぢ、だいぶ居っと?」と囁いた。
「何でだよ?」
「オメェど床入りすっとツキが良ぐなるって評判でな。二年ぶりだどって皆手ぇ挙げでるそうだ。悪ぃ気はしねぇべ?」
ニヤリとハヤタが目を細め、ユージンは口をひん曲げて「どうだかな」と応じた。しかしセリフとは裏腹に、まんざらでもな
さそうな声音である。
「押しかけられちゃあ情緒がねぇぜ。ええ?…ところで、腰がしっかりしてる若ぇの…、そうだな。経験が浅いのは…」
チラッと、若干湿った熱を帯びた目でハヤタを見遣るユージン。
「八月にへった新人に、腰が強ぇの三人居だな。「名簿」預がってっから風呂あがったら写真見せっか」
そうして、タケミに詳細を語らなかった「色々な用事」について、ユージンはハヤタから詳しく話を伺った。
少年が立ち尽くす。土間のような、平らに整地された土の上で。
向き合うのは着流し姿の河馬。体型はタケミと似た具合で丸々しているが、こちらは上背がアルほどもあり、前後の厚みはそ
れ以上…つまりより肥えている。
トラマルの口利きで工房の一角…まるで屋外のように下が土で、太陽光のように明るい照明で照らされた小部屋に通されたタ
ケミは、そこで待っていた河馬と向き合い、居心地悪そうにしていた。
学校の教室ほどの広さがあるここは、顧客に得物の試しや実演を行なう部屋。どれを買おうか悩む客に品物の特性を説明した
り、どのような事ができるか実演入りで解説するこういった小部屋が、この工房には四ヵ所用意されている。
客の決断力や購買意欲によっては長くかかる事もあるので、壁際には峠の茶屋をイメージした上部に畳が嵌められたベンチが
設置され、品の良い紫の座布団が置いてある。日差しもなく雨も降らないのだが雰囲気重視で野点傘が立てられ、客をもてなす
茶と菓子も用意できる。
「本日、御手前の品を試刀させて頂きます、蒲谷重造(かばやじゅうぞう)と申します」
河馬にペコリと頭を下げられた少年は、
「あ!ふ、不破武美です…!あ、あの、あの…、よろしくお願いします…!」
よく知らない相手と二人きりで密室に放り込まれ、判り易いほど挙動不審。タケミはあまり饒舌な方ではないとトラマルに耳
打ちされていた河馬は、硬直気味な少年の態度を訝らず、「楽になさって下さい」と、目を細め、緊張の緩和を試みる。
「早速、ご使用の物を拝見させて頂きます」
「は、はい。不束者ですが、こ、これをどうぞ!」
相手が着物姿かつ十九歳と聞いてもオッサンにしか見えない風貌なので、相当気圧され気味。やたら硬くなりながら竹刀袋の
口をあけるタケミ。
そこから取り出された、黒を基調にしたシンプルな拵えの刀を、ジュウゾウは大きな手で恭しく引き取る。
「では失礼して…」
スラリと、鈍く光る刀身が鞘から引き抜かれ、手にした河馬が目を鋭く細らせる。
(これは…。噂通りどころか、噂以上の一振り…)
抜く際に感じた鯉口の掛かり、鞘走りの感触、掌に馴染む柄の肌触り…。抜いただけで一級品である事が肘や手首に伝わるほ
どの業物。数々の名品で試しを演じてきた河馬が、物を斬る前から確信した。
(「天下五品」に数えられる品を試刀するのは初めてだが、握っただけで判る。大業物の中の大業物…、至高の一振りだ)
光学兵器や音波兵器が実用化されている昨今、火薬に頼る銃火器すらも需要が減りつつあるのが現在の軍事事情。まして、手
に握って扱う近接戦闘用の武器など、最前線では飾りにしかならない。しかし大穴…霧の中ではこの需要バランスが崩れる。
濃い霧の中ではレーザーは短距離で威力減衰を起こす上に、電力の供給が潤沢ではない大穴内では、大型にならざるを得ない
音波兵器共々、予備電源含めて持ち込んでもかさばる上に有効性を発揮できない。弾薬こそ必要になるが、それら最新兵器より
も実体弾を使う銃器類の方が信頼性が高い。
そして、前時代的な物理武器…剣や槍、槌や斧の類もまた、無補給で長時間探索するケースが多い潜霧士には好まれる。
とりわけ刀剣類は取り回し易さと見た目の良さ…シンボリックな外観から人気がある。中でも土肥の刀工の手による刃物は多
くの者の憧れの品で、大穴の中で倒れた遺体から幸運にも回収できた者達が、天に掲げて歓喜するほど。
若いながらも優れた刀利きであるジュウゾウは、この工房の品だけでなく、他の工房で購入した顧客の要望で他所の刀…時に
は西洋剣を握って品定めする事も多い。これまでも膨大な数の刀剣を見つめ、握り、振って来た。そんな彼が、これまでに手に
したあらゆる刀の上を行くと、試してみる前に評価する。
「あ、あの…。何か、まずかった…ですか…?」
刀身をじっと見つめて微動だにしない河馬の態度で、ひょっとして何処か傷んでいたのか、使い方が悪かったのか、と不安に
なったタケミだったが…。
「いいえ、大変良い物を見せて頂き、感激しておりました。これほどの品を直に握るのはジブンも初めてです」
刃を自分に向けて仔細に観察していたジュウゾウは、刀を下げ、チキンッと刃を順手に返し、「早速、試刀致します」と告げ
てタケミを下がらせる。
体の向きを変え、肩幅に足を開いた河馬が見つめるのは、簡素な人形。一脚チェアのような支えに腰から上の部位が設置され、
両腕も無いマネキンのようなそれには、金属製と見える装甲版が貼り付けてある。
「厚さ30ミリのクロムモリブデン装甲板です。まずはこれで試しを致します」
「え?ちょ、え?モリブデ…」
それは普通、刃物で試し斬りするような金属ではない。潜霧士が使う作業機が外装に使うような金属である。焦ったタケミが
止める間もなく、河馬は黒い刀を振り上げ…。
(わ…。綺麗…)
少年が目を大きくする。
足の幅を左右広めに取って立ち、両手で握った刀を振り上げた河馬は、背筋が軽い弓なりになるほど上体を反らしていた。
スッと一息にその姿勢に至ったかと思えば、突き出た腹がさらに出て目立つその姿勢で、頭上まで振りかぶった上で手首を返
しており、黒刀は切っ先を地面に向け、峰が河馬の背骨と向き合う格好で静止する。
それは、戦うための構えではない。鬩ぎ合うための構えではない。競い合うための構えではない。防御、回避、反撃、牽制、
ありとあらゆる動きへの派生を廃し、また行動の後の事も慮外の物とした、正真正銘、ただ「斬る」という一つの目的にのみ専
心した構え。
「斬る」という事を最上の目的としたその構えには、刀そのものにも通ずる一種の機能美がある。タケミが綺麗と感じたのは、
まさにその部分だった。
「では…。不肖蒲谷重造。刀利き、つかまつる」
宣言と同時に河馬の巨体が動いた。アル以上の体重があるだろう巨漢の、この大きな体がどうやってと思えるほど静かに前へ
出る。力みを感じさせず、むしろゆるりと重心が移動し、前傾した体に追従するように後から前へ動いた右足が、上半身を追い
越して踏み込み…。
ズンと、地が震えた。
静止状態から踏み込みつつ、大上段を通り越して背中まで引いていた太刀を、河馬は瞬き一つにも満たない間に、音もなく振
り切っていた。
ジュウゾウが斬り下ろし、地面すれすれでピタリと止めた黒刀の切っ先を中心に、土埃が薄く立ってザッと左右へ逃げる。風
が唸って上がるボッという音すらも、動き終わった後で聞こえた。
「…お粗末」
ジュウゾウが呟いたその瞬間、瞠目しているタケミの視線の先で、御椀型に斬れたクロムモリブデン鋼が、ゆっくりとずり落
ちる。装甲版で固められた人形が、その頭部を斜めに切断されていた事をやっと思い出したように。
斬った。そして動いた。動作が結果に引き摺られるように、終わってしまえば順番すら逆だったかのような印象を覚える一太
刀の中で、斬撃と動作を印象付けるのは、踏み込んだ足の音と、薄く舞った砂塵、そして動きの余波で太鼓腹や贅肉が軽く波打
つ様だけ。
「切断音が…、殆どなかった…。それに…。今の、「結果」が先に見えて…」
呆然と呟くタケミが聞いたのは、河馬の一閃に際して微かに聞こえた、カッという小さな音のみ。刃が装甲に接触すれば、普
通は金属音が響く物なのだが、そういった音とはまるで質が違っていた。
これが、かつて一等潜霧士不破御影が使用していた愛刀、黒夜叉本来の切れ味。
「これは、聞きしにまさる逸品ですな…」
傍目には判り難いが、やや上ずった声に微かな興奮を滲ませるジュウゾウ。これくらいは容易いだろうと目星をつけていたが、
斬った手応えから受けた感銘は予想以上。
「では、次にこれを…」
河馬が手に取ったのは、近場の台に置いてあったリンゴ。分厚い手でそれを掴むなり、河馬はひょいっとそれを宙に放り、鳩
尾の高さまで落下するのを待ってから動いた。
河馬の着流しで裾が激しく捲り返る。空気が押し退けられて風音を響かせるほどの素早い踏み込みと突き。刃を上にして突き
出された黒刀の上には、リンゴが下側から僅か5ミリほど刃を食い込まされて乗り、それだけを支点にピタリと固定してある。
「なるほど、これは真に良い業物です。ジブンが評価するなど畏れ多いほどの大業物…」
半身になって刀を突き出している河馬が、呟くなりスッと刀を引き、宙に取り残されたリンゴを左手で掴む。その手の中で、
リンゴは刀を真っ直ぐ後ろに引くという動作だけで綺麗に両断されていた。
「どうぞ」
本物のリンゴである事を確認させるように、少年に半分を手渡した河馬は、
「…どう、やったんですか…?」
驚いているタケミに訊かれ、軽く眉を上げる。
「ボ、ボクじゃそんな風に斬れません…。金属板をあんな風に斬ったりできないし、リンゴだって…、同じ事をやったら、刃の
上に乗せた所で二つになっています…!」
黒夜叉の刃は鋭い。単分子ブレードなのだから当然である。放ったリンゴを刃に乗せれば、自重で真っ二つになるはずだった。
「異能でもないですよね!?何かした感じもなかったし…」
「はい。ジブンの異能は、まぁ、なんです。日常生活で多少使い出がある程度の、ほんのささやかな物で、こういった事には役
立ちません」
何故異能使用の有無を確信できたのかと、軽く眉をひそめた河馬は、
(いや、こんな詮索は礼を失する。技術による物だと見て判る、それだけの剣士という事だ)
若いという先入観から見くびってはならないと、自分を戒めながらも少し返答に窮した。
霧の中で危険な生き物と相対し、これを駆除もする潜霧士の戦闘技術と、動かない物を斬って品定めを行なう自分は違う。こ
の技術に興味を持たれても少年の役には立たないだろう、と。
「それは、まぁ、なんです。お客様に印象付けるための演目で、自らの意志で避けぬ物、あるいは意のままに動く物を、正対し
た状況なればこそ斬れるというもの。据え物斬りの大道芸のような物です」
ジュウゾウは謙遜するつもりもなく、質が違うので参考にならないと諭そうとしたが…。
「で、でも!実際に斬りました!ボクにはそう斬れません!斬れませんし、リンゴは斬れちゃう…!なにより今の…、ジュウゾ
ウさんの動作よりも、結果が…!」
少年は上手く言えない。だが、剣術を手ほどきした祖父が幾度か「剣の極意に迫る要素」として、その兆候をこう評していた。
「即ちその一太刀は、結果が先に立つように見える。動作がそれに辻褄を合わせるが如く、傍目には動く前に斬れていたように
感じる」と、薪を、まるで最初から割れていたように二つにしながら…。
思わずといった様子で詰め寄ったタケミは、祖父が薪を割る時にやって見せた事を、同じように金属でやって見せた河馬を前
に、何とか説明しようとしたが…。
「…す、済みません…!言ってる事、あやふやですね…」
結局、明確な答えを聞こうにも口頭で説明できず、シュンと縮んだ。
この様子を見ていたジュウゾウは、少し困ったような、そして気の毒そうな、眉の両端を下げた顔になり、どうすれば元気付
けられるだろうかと迷った様子で口を開く。
「…まぁ、なんです。ちょっとしたタネと申しますか、コツはありますな。練習次第で御身にもおできになる事かと」
「ほ、本当ですか!?リンゴを乗せて止めるのも!?」
声が大きくなったタケミに、「しかし」とジュウゾウが続ける。
「ジブンがお目にかけました技術は斬る工夫を凝らした動作ですので、そのまま御身のような潜霧士様方が実戦へ投入しても、
役に立たないどころか悪い癖を焼き付けかねません。それを踏まえて頂いた上で申し上げる事です」
自分の試刀術は実戦度外視の斬術なので、そのまま取り入れようとするのはかえって危ない。同じ事ができると言った河馬だ
が、そう念を押して忠告する事は忘れない。
「当工房の「子ら」は皆優秀です。腕のある方に使って頂ければ、「どの子」でも同じ事ができます。斬りたい物を斬るのは当
然として、斬れなくて良い物は斬らずにおく事もまた可能…。使い手が斬りたくない物まで勝手に斬ってしまっては問題児です
ので。…まぁそれはそれで可愛い子ですが」
河馬は果汁すらついていない黒刀の刀身を指し示し、頬肉をほんの少しだけ上げた。
本当に微かだが微笑んだのだと気付いたタケミはしかし、ジュウゾウが笑った理由が、目を輝かせている自分の顔を見たから
だとは気付けない。
「失礼ですが、御身は普段どのようにこの黒夜叉を扱っておられますかな?潜霧については素人で、刀鍛冶としても尻に卵の殻
がついたままの未熟者ですが、刀利きとしてはそろそろ一人前と自負しております。潜霧に役立つかは別として、単に「刃の理」
という事であればお伝えできる事も幾ばくかあるやもしれません」
河馬は、先ほどまでとは打って変わって目を輝かせている少年に、鞘に納めた黒刀を返した。
「気持ち良く斬れる藁束も用意しております。ジブンの感想で良ければ、黒夜叉に触れて感じた事を、御身にお話し致します」
一方その頃、トラマルに連れられて防具…甲冑や装束、スーツ類を扱っている階に移動したアルは…。
「あの河馬のひと、何者なんスか?」
タケミと引き離されてちょっと不満げ。刀に詳しい目利きだと説明されても、剣術の腕前が優れているタケミにアドバイスが
必要なのかと懐疑的である。身のこなしからかなり「できる」と感じはしたが…。
不満タラタラではあるがそれをグッと飲み込んで、シロクマは商品類に目を這わせる。実用的でありながら和甲冑の衣装を盛
り込んだ品々は、素材自体が希少な物なので軒並み高値だが。
「十九歳で獣化が完全に進行してるって事は、潜霧してたんス?」
危険生物の外骨格を使った刺々しい籠手をしげしげと眺めながら訊ねたアルは、
「ジュウゾウ君は、十年前の「大規模流出事故」の遺児なんです…」
トラマルが沈痛な声で告げると、グッと顔を顰めた。
(みんなとおんなじっスか…)
幼少期を過ごした白神山地、そこに移住してきた獣人には、十年前の事故の被害者も多く居る。
「俵一家が生存者を捜索した折に、救出できた数少ない生き残りのひとりが、当時九歳の彼でした。…救助できた時はステージ
6まで獣化が進行していて、同じ建物に居た要救助者は、もう…」
「獣化に耐えられたの、あのひとだけだったんスか…」
「ええ…。俵一家付きの目利き…つまり会計部署の品定め担当だった両親も、同じ事故で、別の場所で亡くなっていました。そ
れからは身寄りを亡くしたジュウゾウ君を、大親分と俵一家が一時引き取る格好で面倒を見ていたんです。その頃に刀に興味を
持ったようなんですが、どうも刀利きとして抜群のセンスがあるようだと工房長に目をかけられて…。中学を出るタイミングで
工房長が後見人になって、高校には進学せず工房に入って目利きの勉強をしながら仕事を始めました」
「南エリアの被害の話は随分聞いたっスけど、こっちも酷かったんスね…」
「ええ。特に沼津は、長城が落ちましたから…」
トラマルが左手首をそっと押さえ、アルはその様子に気付いて口を開く。
「その頃の古傷…っスか?」
小さく頷いたトラマルの、
「…痕が消えても、消えない罪、です…」
細く小さな呟きは、アルには聞こえていなかった。
少年二人は工房の訪問を終えた後、トラマルの案内で昼食に老舗のハモ丼を楽しみ、そのまま街見物に出た。
これから土肥に赴いて活動する時の事も考えて、キジトラ猫の案内は潜霧士御用達のモール内各種店舗、潜霧組合の最寄り支
所、治療や疲労回復を行なえる医療施設など実用面をカバー。同時に少年達が楽しめるよう、ほどほどの手持ちで楽しめるゲー
ムセンターなどの娯楽施設、軽食店なども紹介する予定。
「本屋の実店舗なんて、伊豆にもあったんスねぇ…」
データ版が主流になり、物理媒体の入手も通販が基本になっている昨今、在庫を抱えてスペースを取る実店舗販売は少なくなっ
ている。物珍しさから漫画雑誌を買ってしまったアルの横では…。
「そうだね!」
モール外の一般販売店で、あの工房製の刺身包丁を買って来たタケミが、包みを抱いてホクホク顔。愛刀の検分と解説がよほ
ど刺激になったのか、ちょっとテンション高めである。
「…タケミ、どんな話して来たんス?そんな楽しい事あったんスか?」
若干焼きもちを焼いているアルがジト目で覗うも、目をキラキラさせている少年は幼馴染の態度に一切気付かず、「うん!と
ても為になったし、勉強できたよ!」と眩しい笑顔。
「明後日時間を取ってまた見てくれるって、約束までして貰っちゃった…。楽しみだなぁ…!」
(あんなに人見知りなのに何で初対面で打ち解けられたんスか?そんなにリスペクト?やっぱ年上が好みなんスかね…。でも十
九ならオレとあんまり変わらないっスよ?そんな上でもないっスよ?誤差みたいなモンっスよ?オレで良くないっスか?)
などと内心では不満なので口を尖らせるアル。
ホクホクタケミとブーブーアルは、トラマルの案内で夕暮れまで街見物。
ふたりとも、土肥は熱海と比べて治安があまり良くないと聞いていたのだが、案内された街並みは清潔で活気が溢れ、表参道
に並ぶ露店が祭り気分を思い出させる。しつこい客引きも怪しい店も、そういった物を求める客には嬉しい店も、奥の方に引っ
込んで住み分けができていた。潜霧拠点の街としては意外なほど観光向けで、注意を促されるほど危なくは見えない。
アルから問われたこの点に関して、「だいぶ変わりましたから」とトラマルは微妙な半笑い。
「昔は本当に魔窟だったそうですよ。そこら中に薬物中毒者が寝転がったり、ボロ一枚纏った売春夫が立ちんぼしていたり…。
血の気が多い者も集まって、そこに反社会勢力がシノギを噛ませて、恐喝、強盗、詐欺と、あらゆる犯罪が日常茶飯事でした」
それをこの状態まで持って来たのが、土肥の大親分ハヤタなのだとトラマルは言う。
(まぁ、白も黒も住み分けが肝心で、土地柄どうしても排斥できない必要悪は存在する。度を越さない限り軽度な犯罪には目を
瞑るスタンスにならざるを得ないので、犯罪率ゼロには程遠いんですけどね…)
違法行為で保たれる、需要と供給のバランス、経済の流れ、生活と秩序も存在する。
澄み過ぎた水に魚は住めず、締め付けが過ぎれば監視の目を逃れようとして、より巧妙で悪質なやり口が横行する。
清濁併せ飲み、法から外れる者にも一定の理解と旨味を示し、生活と仕事を許す。だからこそ、ハヤタはアウトローを従えて
秩序立った街を維持できる。清廉潔白なだけでは、土肥の顔役は務まらないのである。
(勿論、許されない行ないはある。大親分が目を瞑らない悪事に関しては…)
俵一家、及び懇意の傘下組織が、粛清を行なうのが常だった。
「ふ~…。どっこい~…しょっとぉ!」
夕暮れで朱色を帯びた霧が、強い風に流されてゆく中。一度息を整えた狸は、大きなトランクを指定された廃墟の壁の穴に押
し込む。
三階から上が倒壊して半分の背丈になった元雑居ビル。配電盤が埋め込まれていた部分はケーブルも金属部品も持ち去られ、
ポッカリ空いて荷物を押し込むのに丁度良かった。
「っぷふ~!やっと終わったで~!」
土埃と汗にまみれた狸は、オーバーオールの埃を払い、顎下に垂れた汗を手の甲で拭う。
(しかしまぁ、何や?この置き配の指定今夜までで、明日は明朝から俵一家の傘下が巻き狩りで危険生物駆除…。偶然とは思う
けどタイミング良かったわ。指定が明日でなくて助かったでホンマ…。なるべく出くわしたくないで~…)
狸は外に止めていた作業機に戻って乗り込み、低い駆動音を風に混ぜながら引き上げにかかる。
「さぁ~てとっ!帰って無上の贅沢!冷た~いビールでも引っかけよか~!纏まったゼニも入ったんやさかい、たまには焼き鳥
で一杯もええな!」
そして二時間後…。
「スナギモって砂でできてるからああいう食感なんス?アレ好きなんスけど」
「あ。それはユニークな着眼点ですね!嫌いでなければ砂肝も頼みましょう。タケミ君は食べられない物とかあるんでしょうか?
あれば避けますけど…」
「タケミは鳥なら何でも食うから大丈夫っス!所長も誘えば良かったっスかね?」
「今日は三人立て続けだそうなので、今も頑張…っと!会談の約束が深夜まで及んでですね!頑張っていらっしゃいます!」
「へぇ~、やっぱり偉いとどこに行っても仕事忙しいんスねぇ」
「そうですとも!ええ!」
入店してきたばかりの客達から聞こえて来る声で、狸は身を小さくした。
潜霧時の格好とは違い、肘まで捲ったポロシャツにジーンズ姿で、ゴーグルに代わって度が強い眼鏡を着用している。
(何でアイツ来るんや!?)
土肥の外れ、ブロイラーをガスの火で炙る、安さがウリの焼き鳥屋。仕切りで挟まれた二人用テーブル席で、狸はカウンター
の客から見えないように身を縮めている。
顔を合わせたらまずいという訳では無いのだが、事情があって会いたくない狸は不運を呪った。
大隆起後、復興の初期段階に労働者達を客にして始まったのがこの店。四十年間ひたすらに鶏を焼いてきた店内は、柱も壁も
カウンターもテーブルも、ワックスをかけたように脂が染みてテカテカしている。元がバラック小屋だったので、それをベース
に改築が進んだ今も、当時の名残で便所が店の裏手に離れており、利便性もよくない。
ここは、いわば場末の安い飯屋で、俵一家の活動拠点からも少々離れている。基本的に留守番中でもなければ土肥の大親分の
傍に控えるか、上客の接待を行なっているキジトラ猫が、この店に来るのは想定外だった。
感じ始めていた酔いも吹っ飛んだ狸は、大急ぎで残りの串盛りを平らげ、半分になっていた大ジョッキをゴッキュゴッキュと
飲み下し、食べた気もしないまま「ニーチャン、お会計頼むわ…」と通りかかったウェイターに小声で話しかけた。
ソワソワしながら清算の数分を待つ狸は、気付かれないかとカウンターの方に注意を向けていたが…。
「焼き鳥屋って宿の近くには無かったんスか?」
「いえ、あるにはあるんですが…」
カウンターでシロクマと並ぶキジトラ猫は、小さく含み笑いした。
「昔、たまにここで先輩に奢られたんです」
「………」
複雑な表情になった狸は、支払いを済ませてそそくさと店を出る。
(…ついて来たりしてへんな?何年もコソコソしとったのに、この店でバッタリ会ってまうとか、普通に下らへん…)
身を隠すように裏に回って、後ろを振り返って確認した狸の前方で…。
(表口…。表って、どっちから回れば…)
到着直後にまずトイレに入っていた少年が、余所見しながら角から出て来る。
ドンッとぶつかった両者は、びっくりして声も出ない。互いの出っ張った腹をぶつける格好で当たった一方…タケミが尻もち
をつき、踏み止まった狸がずれた眼鏡を慌ててかけ直す。
「済んまへんなニーチャン!余所見しとったわ!」
「い、いえ!こっちこそ不注意で…!済みませんでした…!」
腰を曲げて前屈みになり、手を差し伸べて来た狸を見上げ、タケミは瞬きした。
(あれ?このひと…)
低い身長の割りに横幅と厚みがある、ビア樽のような体型の狸…。服装は違うが、先日探し物の依頼で潜霧した際に出会った、
六本脚の作業機械に乗っていた男だとタケミは気付く。
は、タケミの視線の意味に気付かず「ん?」と首を傾げた。
(タツロウと同じくらいやろか?可愛い顔しとるわ。まだ二十歳にもなってへんやろ)
手を取って少年を立ち上がらせた狸は、「何処も痛くせぇへんかった?」と、少年の周りを一周する形で、尻を払ってやり、
手を取って擦り剥いていないか確認する。子供の面倒を見慣れているような仕草だった。
「だ、大丈夫です…。あの…。ええと…。前は飴玉、ありがとうございました…」
「へ?」
ぐるりと回って様子を確認し、タケミの正面に戻った狸は、自分より少しだけ背が高い少年の顔を疑問顔で見上げ、一拍置い
て「あ!」と声を漏らした。
「こないだのニーチャンやったか!いやぁ、こりゃ失礼!こっちで潜霧しとったんか~。どこの組に入っとるん?あの地区の探
索に入っとったんやから新人やないねぇ?」
西エリアの潜霧集団に属しているにしては、顔を見た事がないなと不思議がりながら苦笑いした狸に、少年は「いえ、あの、
ボクはいつもは熱海で…。昨日から来てて…」と応じ…。
「あ!やっとタケミ来たっス!…ん?何か拾ったんスか?」
店内に入って来たタケミを、自分の隣の席をポンポン叩いて座るよう促したシロクマは、少年が右手に乗せた何かを見ている
事に気付く。
「ううん、ちょっと…」
タケミはあの日のように貰った、ミックスフルーツ味の飴玉の包みを見つめた。
(あのひと、土肥の潜霧士だったんだ…)
飲み歩く気も失せて安アパートの自室に転がり込んだ狸は、発泡酒のプルタブを起こす。
四畳半に煎餅布団の万年床。日当たりが悪く湿気が抜けない、畳の匂いも消え失せた部屋には、テレビすら置かれていない。
(一家の巻き狩りに参加するんか…。若いのに優秀なんやなぁ、あの坊主…)
インスタント麺のカップが何重にも重ねられた、汚れた狭いシンクの前で、封を開けた缶を口元に運ぶのも忘れて考え込む。
予想外の再会に、今になって思う所があった。
年若い有望な潜霧士。裏を返せば、その人生を霧に溶かすかもしれない若人。
かつて同僚だったキジトラ猫。
何もかもを変えた十年前の事故。
そして…。
(…何や、この落ち着かへん感じ…。胸騒ぎにも似とる…)
狸の脳裏を過ぎるのは、自分が依頼を受けて運んだ、数多くの荷物の事だった。
まだ強さが衰えない風に、霧が鳴く大穴。
かつての栄華と営みを偲ばせる廃墟の一角、雑居ビルであった瓦礫の中で、未だ聳える壁にソレは設置されていた。
見た目はトランク。水分を入れない密封された荷物。
しかしそれらは、狸が全ての設置を済ませて立ち去り、日が落ちた数時間後に、一斉に内部である物を起動させた。
音ではない。光でもない。その信号は霧を貫けず、地上の誰にも届かない。
しかし、それを聞き届けるモノは皆無ではなく…。
「ほう。見物したいのかね?」
照明が抑えられた暗がりで、アーム付きのチェアに腰掛けている男が口を開く。影が落ちて顔は覗えないが、聞く者を落ち着
ける穏やかな口調と声音である。
毛足の長い絨毯が一面に敷かれた広い部屋。電気の灯りはつけず、壁の燭台とテーブルの上で、チロチロと火が躍るそこは、
居室でありながらまるで美術品の倉庫のよう。
壁にはいくつもの絵画が飾られ、彫像が立ち並び、中央のテーブルから一望できる。飾られている物はいずれも贋作などでは
なく、歴史的にも美術的にも価値がある美術品類ばかり。蝋燭を立てられた銀の燭台すら、数世紀前の古城で騎士達に使われた
物や、中世貴族の屋敷の食卓を照らした品である。
「実験の成果そのものには、興味が無いと思っていたがね」
「正直、そうやな。失敗しようが成功しようが、どうでもええ」
座っている男とテーブルを挟み、見下ろす格好で立っているのは、灰色狼の男。
「俺一人程度、追加で同行しても構へんな?」
そう尋ねる狼の筋肉質な厳つい体は、190センチを軽く超え、灰銀色の瞳を光らせる顔は鋭く、そして陰がある。
特徴的なのはそのマズル。重傷を負った治療痕なのか、マズルの付け根と半ば、先端付近には、地肌に直接金属帯を打ち付け
られ、まるで猿轡を嵌めているように見える。
その怪我の影響なのか、狼が発する声は少しくぐもっており、やや聞き取り難い。
「構わないとも。君の気が晴れればと、タイミングを合わせた実験だ。見届けに行くのも良いだろう。…ついでに、実験に障り
が無い程度なら好きに行動してくれて構わない。…例えば「君自身の実験」をしてみても…。君の行動に口出ししないよう、担
当者達には申し送りしておこう」
「おおきに」
踵を返した狼の広い背に、「ああ、そうそう」と男は思い出したように声をかけた。
「新しい刀は気に入って貰えたかな?少々古い品にはなるが、土肥の刀工が鍛えた名刀だ」
「文句のつけようもない切れ味やった。満足しとる」
「それは結構。存分に役立てて励んでくれたまえ。期待しているよ」
「…マジラさん。誤解が無いよう改めて言うとくが」
ドアに手をかけた狼は、肩越しに男へ視線を投げかける。
「俺はアンタらの組織に忠誠を誓うとるわけやない。逃がしてもろうて感謝はしとるが、利害が一致したから行動を共にしとる
だけや」
「それで結構だとも」
男は狼の言葉を聞いてなお、満足げに返す。
「思想への共鳴や組織への帰属意識などは求めないよ。金のため、知識欲のため、生活のため、あるいは私怨を晴らすため…。
参加者各位には、各々のモチベーションが維持できる動機で活動に参加して欲しい。君は我々の財力や労働力を、君自身の目的
の為に利用すればいい。同じく君の腕を目的の為に有効活用したい私にとって、それはギブアンドテイクの関係だ。お互いの利
害が食い違わない限り、我々は協力体制を維持できるのだからね」
「…アンタが理解しとるなら、それでええ。邪魔したな」
狼が去り、ドアが閉じる。
ひとり部屋に残った男は、テーブルの上で指を組む。仄かな蝋燭灯りに照らされる口元は、うっすらと微笑を浮かべていた。