第十六話 「巻き狩り」

 キリリッと弦が引き絞られ、次いでヒュンッと矢が走った。

 霧を穿って飛んだそれが、宙を滑空する生物に鏃を食い込ませた。

「ブェイィィィーッ!」

 後ろ足の付け根に矢が刺さり、苦鳴を上げたソレが手足をばたつかせ、羽ばたくような動きを見せながら落下する。

「落どした」

「はいっ!」

 目を見張るようなサイズの大弓に二の矢を番える大猪の傍らから、若いダイバーが駆け出した。メットの形状もあり、霧を裂

いて走る姿は黒い狼を連想させる。

 地面に落ちて石ころや土塊を飛ばしながら跳ね起きたのは、真っ赤な目を持つハクビシンのような生物。ただし体長は2メー

トルを超え、全体的に見れば異形の生物である。

 口元から覗く犬歯はコブラのように長く、顎と両頬からは風を測る器官として鬚の束が老人のソレのように垂れて靡く。燕の

尾のような形状の尻尾を備え、前脚と後脚の間にはムササビのように滑空のための被膜が張っている。四肢には猿のように発達

した指が前三本、後ろは親指一本、向き合う配置で生えている。足場や獲物をしっかり掴むための鉤爪は、牙と同じく自己生成

する毒を注入する機能を有している。

 野襖(のぶすま)。本来はもっと霧の濃度が濃い大穴中心部寄りを好む危険生物だが、土肥ゲート付近ではここ四ヶ月ほどの

間に出現報告が急増し、危険度の高さから駆除が優先されている。

 素早く身を起こした野襖に接近したタケミは、刀を腰の高さで大きく後ろに引き、脇構えに近い姿勢で踏み込む。反射的に振

るわれた鉤爪の直前で減速し、顔の前を通過したソレに瞬きもせず、コンビネーションのように振るわれた逆の前脚にも反応、

クンッと首を下げて掻い潜りつつ、大きく旋回した。

 体ごと回転する横薙ぎ一閃。獣が後ろ足で立ち上がったような、重心が完全には前に出ない姿勢の野襖は、その前脚と後ろ脚

の間を繋ぐ被膜を、肘の際…付け根に沿ってスパンと綺麗に断ち切られる。

(切れた!…でも、ジュウゾウさんはもっと、こう…)

 旋回しつつ距離を取って向き直りながら、少年は手応えと記憶を擦り合わせる。

 河馬が実演した試し斬りほど綺麗には行っていないと感じた。この刀…黒夜叉は、本来はもっと切味の鋭さを発揮できるはず

だと。それはともかく…。

「飛びます!左被膜損傷!」

 少年が手短に情報を告げると、優位に立てる頭上を取ろうと飛び上がった野襖は、片側の被膜を切り裂かれたせいでバランス

を崩し、滞空しかけた所で斜めに傾き鳴き声を上げる。そこへ、音も無く矢が飛来した。

 コスッ…。

 野襖の頭部がそんな音を立て、眉間を射貫いて後頭部まで、針のような矢が貫通する。

 力を失ってドウッと地面に落ちた野襖の前で、タケミは大きく息を吐いた。

(巻き尺を当てて計ったみたいにど真ん中だ…!)

 タケミに斬り付けられて、宙へ逃れた野襖。その滞空時のバランスの崩れを見事に捉える矢を放った巨漢は、のっしのっしと

大股に歩み寄る。

「いい腕だ。ユージンが付ぎっ切りで仕込んだだげのごどはあんなぁ」

 大猪は絶命を確認して野襖を見下ろしてから、少年に目を向ける。

 剣術の腕は勿論、野襖の離陸を抑えに入れる疾走速度も、回避能力も、狙う場所の的確さも満点。一緒に駆除を行なうハヤタ

の得物が弓である事に、初回から順応して追撃し易いよう合わせてきた。

 どのようなスタイルの潜霧士とも組める。タケミはそんな部分がとても優秀だとハヤタは評価する。

 一方、タケミの方は…。

(凄い…。被膜が風を孕んだ音に反応して、あの大きな弓ですぐさま狙いをつけて射落とした…!とどめの一矢も正確で、野襖

はもしかしたら、自分が射られた事に気付かないまま死んだかも…!)

 生きる伝説のような大猪の腕前に、驚きと感動を覚えている。

 身長メートルを超えるハヤタが、下端を地面につけて矢を番えると、丁度肩の高さになる巨大弓。節が刻まれた象牙色の巨大

な角二本を加工してあるその弓は、土肥の大親分の代名詞として知られる。

 銘は「鵺射り(ぬえいり)」。潜霧士が手にした大穴由来の武具の中でも特別強力な、「天下五品」に謳い上げられる逸品。

弓の形と仕組みではあるものの、破壊力と有効射程から言えば、もはや大砲やロングレンジライフルのような武器である。

 この巨大弓の素材となっている牛鬼の大角は、この状態になっても組織自体はまだ生きており、破損しても傷がついても自己

修復する。そして、生きている状態であるが故に、本体に生えていた時と同じ機能を備えている。

 牛鬼の角は、その剛柔をある程度変化させる組成変換機能を持つ。硬度が高いダイヤのようにも、粘りのある合金のようにも

なれる。同時に、多少であれば角の湾曲角度が変えられる。

 この機能を生かした鵺射りは、弦の張り具合、弓そのものの反発力などを、ハヤタの思考をトレースしてリアルタイムに変化

させる。これにより、大砲のような破壊力を持つ手槍のような大矢や、先に野襖に射った通常の矢、そしてとどめに使った傷口

を最小限にとどめる針矢などを、それぞれの威力を含めて自在に使い分ける。

 特別なのは弓だけではない。ハヤタ自身も百発百中の腕前で、対象が見えているなら外さない。見えていなくとも、あるいは

見えないほどの距離でも、観測手のサポートがあれば的を外す事はない。

 なお、大弓の他に左腰には朱色の長ドスを挿しているのだが、ハヤタがこれを抜く事はあまり無い。基本的に、この猪に狙わ

れて射殺されない危険生物はほぼおらず、白兵戦距離まで近付けるケースも殆ど無いので。

 ハヤタが大弓を頭上に持ち上げると、それがゴグンッ…と重たい音を立てて握りの下端部分を支点に、弦側へ畳まれて二つ折

りになった。弓なりの大角二本で作られた大弓は、折り畳まれると蟹の爪の先の部分にも、鈍器染みた何かにも見える。収納状

態では質量兵器にもなるのも、この鵺射りの特徴の一つである。

「んで、こいづ運んだら昼飯にすっか」

 弓を背負ったハヤタは野襖の尾を掴むと、空の袋でも持ち上げるように引っ張り上げて宙に舞わせ、軽々と肩に担ぎ上げた。

 慌ててその後について行き、手が塞がっているハヤタの周辺を警戒して歩きながら、タケミはまた溜息をつく。

(西で最も優れたダイバー…。偉いだけじゃなく、腕前も一番の…)

 噂で想像するよりもずっと凄いと、少年は畏怖すら覚える。何せ、ハヤタは実力の片鱗も見せていない。先の二射すら手遊び

のような軽い物、そもそも自分に仕事を与えるために一射で仕留めなかったのだと、少年は察していた。

「巻き狩りの方は、ダースって言ってだな。つまり12匹が駆除目標だ。オラほは…んだなぁ3匹も駆除すりゃ充分だべ」

 歩きながら、のんびりとした口調で大猪は言う。普通の潜霧団なら7~8名でかかるのが基本の危険生物なのだが、大親分の

計算は基準に当てはまらない。

 今日は絶好の狩り日和。今朝からは低気圧がだいぶ遠ざかったおかげで、風も弱まり日差しも強くなった。沖から寄せられた

冷えた空気が入ったせいで、霧もやや薄く、太陽光で明るく光る。危険な大穴の中とはいえ、白く光る霧に霞んだ廃墟と山々は

美しい景観である。

 そんな風景の中を歩きながら、ハヤタはタケミを見遣った。

「ユージンがらも聞いでるし、ダリアがらも連絡あった。親父の話が聞きてぇんだってな?」

(ダリアさんからも!?)

 マダム・グラハルトが気を利かせてくれたと知り、タケミは、恐縮しながら「は、はい…」とおずおず頷いた。

「知ってるごどは何でも話す。腰据えで話すのも、休憩んなって丁度いいがらな」

 大猪が顎をしゃくって示したのは、斜めに削り取ったように倒壊し、蔦に覆われて輪郭を緑に滲ませたビルの廃墟。元は三階

建ての事務所だった建築物だった。

 大隆起以前は伊豆西側の物流中継拠点となっていた土肥エリアには、その当時の名残で運送業関連のしっかりした建物が、崩

れながらも面影を残して佇んでいる場所が多い。かつては日に何百台もの運搬トラックが出入りしていた巨大な物資集積所もガ

ワだけは残っており、大穴内での臨時活動拠点として重宝されている。

 中を確認し、危険生物が入り込んでいない事を確認してから獲物を引き摺り込んだハヤタは、昼食休憩前にテントを張ろうと

ザックを開いたタケミに、

「オメさんはテント要らねぇんだべ」

 と声をかけ、手を止めさせる。

「あ、えぇと、そうですけど…」

 タケミは秘密を守るため、普通の人間の潜霧士と同じ行動を心掛ける。霧の中でも平気な人間など存在しない…。テントも張

らずに素顔を晒して食事などしようものなら、異常である事が一発でバレる。だから、「ふり」をするのは習慣であり必須行動

でもあった。

 そんなタケミの特異体質について、ハヤタはユージンから改めて詳しく聞かされた。人狼化…つまり人間の姿から獣人形態へ

と「変身」する前例のない個体である事。人間の姿の時ですら霧による汚染を受けない事。そして、その人狼化は基本的に本人

の意思で制御されているが、命の危険が迫った時や、過度な緊張、あるいは興奮状態で勝手に「変身」してしまう事もあるとい

う事…。

 データとして残すのは、流出した際の危険性に鑑みて避け、トラマル共々口頭での説明を受けるに留まっている。こんな稀有

な例、情報が出回ってしまったらタケミがどんな目に遭うかは想像に難くない。政府側でも一部要人のみがこの事実を知り、情

報を厳重に秘匿している旨をユージンから聞かされはしたが、それで安全かと言えばそうではない。

 反社会組織、他国のスパイ、場当たり的な犯行に及ぶアウトロー…。大穴を取り巻く危険分子はいくらでもあり、その全てが

共通してタケミに価値を見出せる。大猪はこの情報は一家内でも公表すべきではないと判断したので、この秘密を知るのは自分

とトラマル、そして古株の御意見番の、計三名のみに留めた。

 不憫。

 それが、大猪がタケミの境遇に対して抱いた第一印象。

 例えばこれがタケミだけでなかったなら、他に何人も同じ体質の者が居たなら、大手を振って明らかにできる事柄であったな

ら、潜霧の大きなアドバンテージになる資質や才能ですらある。しかし現状ではタケミ自身を危険にさらす秘密でしかない。そ

れが大猪には不憫に感じられた。

「ユージンがら詳しい事情は聞いでる。万が一に備えでテント張ったりしねげねぇんだべげっとも…、こごなら誰の目にも止ま

んねぇ。せめでヘルメット外して休んだって構わねぇど?」

 大猪がニッと口元を緩めて笑いかけると、少年は少し迷った後に、狼型マスクを脱いだ。

 不思議な光景だと、ハヤタは感じる。

 人間が霧に肌を晒す光景に、長年の経験で染みついた反応として、焦りを覚えさえする。だが、軽く肌が汗ばんだ少年は霧に

蝕まれる事も無く、平然としているどころか、締め付けから解放されて楽になった様子。

 霧を克服した新人類。

 ふと、大猪の脳裏をそんな言葉が掠めた。獣化現象…獣人が霧に適応した存在だとすれば、この少年は、それとも違う関係性

を霧と築いた存在なのではないかと。

 廃墟の中の倒れた柱をベンチ代わりにして、弁当包みを広げるハヤタ。テントを張り終えたタケミは、大猪に手招きされてお

ずおずと、少し間をあけて隣に座り、用意された弁当を受け取る。

(豪華…!)

 潜霧の際には手早く済ませられる食事…主に携帯食料を摂るのが主流。神代潜霧捜索所もそうなのだが、俵一家が用意した弁

当には、三角のお握りが三つ、ローストビーフに焼き鮭、生野菜のサラダ、塩分補給用の白菜のお新香、甘納豆が詰め込まれて

いた。水筒には冷たい麦茶がたっぷり入って、中で氷がカラカラ歌っている。

 流石に遠出の時は荷物も厳選するが、今日のような近場での長時間労働には士気を維持するためにも栄養満点の弁当を用意す

るのだと、ハヤタは少年に説明した。特に今回のようなゲストも参加する大規模な狩りでは、大穴内での食事も労いの為に豪華

にする。

「食って休まねぇど働ぎは落ぢっからな」

「あ、判ります…。所長も、食べて休まない者は使えないって、よく言ってて…」

 昼食休憩しながら、ハヤタはタケミになるべく話を振るようにしていた。大猪はどちらかと言えば寡黙な性分だが、少年があ

まり饒舌ではない事を金熊からも聞いている。ふたりでだんまりでは間が持たないし、なにより少年が緊張を解けない。

「…春の試験で三等昇級狙いが」

「早ければ、ですけど…。仕事ぶりとか評価とか、四等までよりも厳しいって聞いてますし…」

 少年の昇級試験目標を聞き、ハヤタが頷く。秘密の坩堝であるジオフロント…大空洞に降下するのは三等以上の潜霧士のみ。

表層とは比較にならない危険性と、一般社会に出回ってはいけない品や知識、技術に満ちた場所。そして、タケミが潜霧士を志

した目的もそこにある。

「ミカゲの遺体、なぁ…」

 少年が潜霧して目指す物を、ジオフロントで消息を絶った父の遺品や遺体である事を聞いたハヤタは、危ないからやめておけ

とは言わなかった。

 息子が危険まで冒して、会った事も無い父の遺体を探す…、それは親孝行ではないかもしれない。父親自身がそれを望まない、

と諭す者もあるだろう。

 だが、ユージンもそうだが、ハヤタもまた生き方を指図しない。明らかな過ちであれば止めもするが、生半可な覚悟ではそも

そも四等潜霧士になる前に音を上げる。ここまで来たのが覚悟の証。その道を阻むような言葉は無粋だと、ハヤタは考える。

 それに、ダリアからも言われていた。タケミは両親に対してどんな感情を抱くべきか、自分でもまだよく判っていない。霧の

ように手応えが無い両親について、今も向き合い方を模索しているのだと…。であれば、その模索に外野が水をさすのは無粋と

いう物である。

「あの…。大親分さんの所で、お父さんが、勉強したっていう…。あの話は…」

 ハヤタの努力の甲斐あって、ちょっと話し易いおじさんかもしれないと、少し警戒を解いたタケミはおずおず訊ねた。

 正直、聞き難いだけで、聞きたい事自体はいくらでもある。祖父との関係、ユージンとの関係、ダリアとの関係、自分が生ま

れる前の大穴と潜霧士の事…。

「ん。ずっと昔、一時だげだが」

 頷いたハヤタに、タケミは迷いを見せた。何から聞こうか?どういう事を聞こうか?そんな迷いを。口を開きかけては躊躇う

少年に、大猪は「何でも話すど」と笑いかけた。急かしもせず、質問を待つ猪に、タケミが発したのは…。

「ボクは、お父さんに似ています…か…?」

 それは、当たり前と言えば当たり前の質問。面識のない父の話を傍から聞くだけの少年が、子供として気にならないはずがな

い問いかけ。

「んだなぁ…」

 ハヤタは目を細めて顎を引き、「とごろどごろ似でっとごもあれば、似でねぇどごもある」と応じる。

「目の形は似でっけども、角度が違う。下がり気味で優しそうに見えんのは母親にも似だがらが。髪なんかは父親似、んだども

肌の色はお袋さんに近ぇ。んで、一番似でんのは…」

 ハヤタは運び込んだ獲物…野襖を見遣った。

「狩りの立ち回りど、腕前がもな」

 この危険生物は、経験豊富な潜霧士達でも厄介だと口を揃える相手である。

 野襖の危険な所は、DNA群ごとに成分が異なるせいで完全な解毒剤が作れない毒と、その機動力。特に毒については少量で

呼吸困難と麻痺を引き起こし、運が悪いと死に至る。

 鳥のように高空まで飛べる訳ではないが、比較的低空とはいえ飛行可能という点も恐ろしい。狙われたら振り切るのは困難で、

逆に向こうが逃走に移ったら追尾が難しくなる。頭上を飛び回られるという点は、整地された道路上でもなく、車にも乗れない

状況で、霧の中の気配に集中を強いられるダイバー達には、非常に大きなハンデとなる。

 無防備に頭上から襲われた場合、一噛みで潜霧士のメットに牙が穴をあけ、頭部に致命傷を負わされる。そうと知らずに野襖

の活動地区に踏み込み、この奇襲の餌食になるダイバーは後を断たない。

 さらに防御面では、その体は針金のようにコワい毛で覆われ、角度が良くなければ弾丸が弾かれ、皮膚を破れない。簡単に穴

をあけられそうに見える被膜など、毛の丈夫さに加えて膜の柔軟性のせいで最も破壊困難な部位である。

 そして機敏な運動性能。単純な闘争ポテンシャルもまた恐ろしい。抑え込まれたら人間では為す術もない筋力に、猫のように

柔軟な体、そして栗鼠のような目にも止まらない機敏さは脅威である。

 そんな危険生物に、タケミは接近して適切な一太刀を加え、全く危なげのない満点の立ち回りで仕事を終えた。危ないと感じ

たら即座に射殺せるようハヤタが番えていた二の矢は、結局とどめまで放たれなかった。

「的確などごもだが、「狙いが綺麗」などごも似でんな」

 ハヤタがそう評価するのは、タケミが加えた一刀の成果。被膜を付け根付近で切断しているので素材として完璧。真ん中に穴

などが開くのと違い、広く面積を取って解体できる、上物素材として回収できる。

 タケミの父であるミカゲも、獲物は綺麗に仕留めて無駄を出さなかった。ミカゲが特にハヤタを感心さたのは、「命の奪い方」

である。

 彼は多くの場合首を刎ねた。瞬時に絶命に至らしめ、反撃も悪あがきも許さず、二次被害も出さない殺し方を徹底した。卓越

した…否、神がかった剣の腕あっての技ではあったが、脛骨の間を断つという殺し方を心掛けていた。

 首を刎ねるという殺し方は、見方によっては残酷だろうが、それはミカゲの優しさでもあった。彼の太刀で首を胴から切り離

された危険生物は、痛みも苦しみも殆ど味わう事無く絶命した。

 タケミはまだその域に達していない。追いつけるかどうかも定かではない。だが、その剣を振るう姿にハヤタがミカゲを重ね

て懐かしんだのも事実。きっとこの子は大成する。そう、土肥の大親分は予感していた。

 ハヤタはまずひとしきり、タケミを見ていて思い出したミカゲの事…、何気ない仕草や癖、行動の傾向やよく口にした話題な

どを軽く話してやった。

 少年はそれを熱心に聞いていたが、夢中になる余り緊張を忘れ、少し間をとって座っていたのに隙間を詰めて、ハヤタのすぐ

隣で相槌を打つようになった。

 だいぶ解れたと感じた大猪は、話題を変えて少年に訊ねる。

「工房行って刀利ぎして貰ったんだべ。どうだった?」

「はい!あの、お陰様で大変ためになりました!担当してくれたひとが、とても親切で、素敵な方で…!黒夜叉を直接は知らな

いし、打ち方の資料も残されていないって言ってたけど、一緒に探るからって、目利きしてくれて…!色々教えて貰えて、明日

も会ってくれるって約束を…!」

 珍しく少し興奮気味になったタケミは、しかしジュウゾウの素性もハヤタとの関係も聞いていない。大親分への気遣いやお世

辞、社交辞令や持ち上げ抜きに、素直に河馬の印象と感謝を口にしている。

 少年が自分達の関係を知った上でジュウゾウを持ち上げているのではないと理解している大猪は、目を細めて話を聞きながら、

繰り返し何度も頷いた。

 一方で、ハヤタはジュウゾウの方から昨夜直接電話を貰い、既に仔細と感想を聞いている。緊張気味で硬かったものの、腰が

低くて奥ゆかしい、好感を覚える客だったと。

 一時預かっただけとはいえ、ジュウゾウはハヤタにとって親戚の子供のような近しい存在。礼儀正しく遠慮を知り、立場を弁

え甘える事を律し、子供らしさをちっとも見せない男の子だったが、甘えずとも慕ってはいた。

 そんなジュウゾウだからこそ、遠慮が強過ぎるタケミの気持ちも少しは理解できて、単なる接客よりも親身になったのかもし

れないと大猪は感じている。

「ジュウゾウは気立でがいいおどごだ。刀鍛冶目指すだげあって、刀の事に関しちゃ専門家の目で色々教えでけっから。何なり

気になったら遠慮しねぇで声かげだらいい。本人がら直通連絡教えらいだなら、ウヂの紹介無しでも予約取れっからな」

「は、はい!あの、紹介して貰えて、本当に良かったです…!ありがとうございます…!」

 と、タケミとハヤタが早めの昼食休憩に入り、親睦を深めていたその頃…。

 

「ベーリグー!ポジションタイミングどっちもマスト!かち割るっスよー!」

「任せた!」

 左右から息を合わせて十文字槍を突き出し、野襖の両前脚に深手を負わせた猪メットの潜霧士達が、反撃の的を絞らせないよ

う同時に跳び退いたそこへ、黒い大刀を担いだシロクマが猛然と飛び込む。

 野襖は絶好の位置で、接近は最良のタイミング。さらに傷を負った前脚での跳躍では、流石の野襖も一拍遅れる。お膳立ては

完璧だった。

 斜めに大きく振り上げ、全身を使って袈裟に斬りおろし、黒い虹のように霧に弧を描いた剣閃が、野襖の頭部を首の付け根ま

で両断し、勢い余って地面を叩き割る。

 頭に当たれば頭を、胴に当たれば胴を、それ以外に当たれば当たった所を、重さと強度で圧断するのがこの大刀とアルの腕力。

振りが大きくならざるを得ない大味な武器だけに、素早い危険生物にもクリーンヒットさせるシロクマの技量の高さが際立つ。

「お見事!」

「よくやった!」

「イェア!ホメテ!モット!」

 野襖の絶命を確認し、左右から歩み寄った猪メット二人とハイタッチを交わすアル。元々雇われ猟師で即席チームを渡り歩い

てきたシロクマは、潜霧開始からたった数時間ですっかり狩猟班メンバーと馴染んでいる。

 馴染んでいるのは気持ちだけではない。離脱の隙を与えない、間髪入れずに畳みかける波状攻撃は、これが一回目とは思えな

いほど完璧で、集団狩猟に完璧に近い順応を見せている。大穴内の知識や潜霧経験、座学ではやや劣るものの、狩猟に関しての

腕前は抜群。肉体的ポテンシャルも戦闘センスも二等潜霧士に迫る逸材である。

「運搬機、前進いいぞ!大物だ!積み方急げ!」

「セゴ(勢子)より移動再開の連絡!10分後追い込み開始!」

「ブッパ(仕留め役)今の内に小休止!水分摂っといてよー!」

 アルが参加しているのは、俵一家とその傘下、及び協力する地元潜霧団による「巻き狩り」。獲物を広範囲で包囲し、迎撃戦

力が待ち構えるポイントへ追い込んで仕留めるという手法の潜霧狩猟である。

 今回は土肥で目撃例が急増している野襖を中心とした大規模一斉駆除が目的。今日の巻き狩りの発起人となっているのは俵一

家。ただし大半が第二編成部隊で、ハヤタと共に主力を務める精鋭部隊からは、十二人の内二人が来ているだけ。ハヤタの側役

であるトラマルまで加えた彼らは、今日は「野暮用」があって参加できないという事になっている。

 中心となっている俵一家の第二部隊は、一般的な表現で言えば二軍にあたるのだが、しかし大半が二等潜霧士で四等以下が居

ない強者揃い。ハヤタ抜きでジオフロントまで潜霧活動に赴く事もある二十四名。一流潜霧事務所の総戦力クラスの充実した戦

力である。

 そこに大小様々な規模の傘下が加わって、総人数八十名を超える、伊豆半島全体で見ても珍しい規模の巻き狩りとなっている。

戦力的には余裕を通り越す人数なので、勢いがある声こそ飛び交っているが切羽詰まった印象は無い。むしろ大量の獲物を仕留

めてお祭り騒ぎ、気を抜いている者は居ないが声も表情も明るい。

「おう!アルビレオ!すぐ次来っから今のうぢに何か飲んどげ!ションベンも済ませどげよ!」

 アルに威勢のいい声をかけたのは、いかにも山親父といった風貌の、五十三歳のツキノワグマ。180センチ近い体は歳をとっ

ても筋肉質で、肩幅があって胸も分厚い。ラグビー選手のようなガッシリした体型で、張りがある声はとにかく大きい。

 俵一家の古参面子だが、第一部隊でも第二部隊でもない、若手及び傘下の教導官的な立場に置かれている板津甚吉(いたづじ

んきち)という二等潜霧士。今では実働要員として潜霧する事は殆どなく、俵一家のご意見番兼若手指導員となっているが、そ

の理由は左足を見れば判る。

 ツキノワグマの左脚は、太腿付け根から武骨な金属製の義足で補われている。脚一本を根元から丸ごと失う負傷が、彼が第一

線から身を引いた理由である。

「オメェ、セゴもブッパも立派にこなせんなぁ!初めでど思えねぇ良い働ぎっぷりだ!」

 今日はお目付け役として同行し、傘下の組の新人に指導と檄を飛ばしていたジンキチは、シロクマに飲料入りボトルを放って

呵々大笑。自身もかつてはハヤタの片腕として第一部隊を固めた身。それに加え、若輩の指導を通して数多くの潜霧士を見てき

たジンキチの、実力をはかる目は確かである。

 加えて言うなら、前半にアルを引き受けていた勢子班で指導と引率に当たっていた俵一家の中堅潜霧士も、シロクマを「まず

まずじゃ」と評していた。ひどく厳しい男なので、まずまずという評価は80点から90点と言って良い。

「おいおい、トッツァンがベタ褒めとかどんだけだよ」

「口説いちゃだめっすからねイタヅ先生」

 珍しいなと驚きながらも茶々を入れる第二部隊…かつての教え子達に、ジンキチが怒鳴り返す。

「うるせぇ!オメェらも若手にカッコイイどご全部持ってがれんじゃねぇど!」

(あー、オレこれ好きっスね~…!)

 ジュルジュルとドリンクを啜りながら、アルは顔を綻ばせている。

 フリーの猟師として各国を渡り歩いてきたアルは、配属されたチームの戦法戦術に即時対応できる技能が身についている。流

石に霧の中ではやや勝手が違い、移動や待ち伏せの仕方、追い込み方など覚えなければならない事も山ほどあるが、多人数で当

たる現場には古巣に帰ってきたような懐かしさがあった。

 実際の所、行軍に関わる工夫やコツでは指導を必要としたものの、アルは十分以上に動けており、どのポジションでも役割で

もお目が高いジンキチが太鼓判を押す働きぶりを披露した。

(なんつっても基礎体力がバケモンだ。飲み込みが早ぇっつぅが、野の獣みでぐ置がいだ状況に順応、対処する。一番槍に合わ

す追撃、外した場合に後ろさ行がせねぇ位置取り、戦い慣れでんなぁ。…こんで17歳、んで、ステージ7…。まだ異能が備わっ

てねぇってんだがらなぁ…。末恐ろしいやろっこだ。まるで…)

 同じ班に配備された先輩同業者達に肩を叩かれているアルを眺めながら、ジンキチは思い出す。

 最初の完全獣化到達者。「奇跡の帰還者」のひとり。かつて霧の中を駆け抜けた「災厄殺し」。大穴に関わる誰もが知ってい

るその名を。

(ジークフリートの再来。…って言いてぐもなる。同じ北極熊の獣人だしなぁ)

 

 

 

 そうして、アルとタケミが巻き狩りに参加している頃…。

「良かったぜ。ここしばらくご無沙汰だったから、なおさらな」

 赤金色の巨体に一糸纏わぬ姿で、ユージンは水差しから湯飲みに水を注ぎ、一口に飲み干す。コバルトブルーの瞳は気怠げで

ありながら満足げ、全身に漂う疲労感すら心地よさそうに見える。

 汗の香りと青臭い雄の匂いが充満する和室。窓の障子がその白さで日差しの強さを物語るが、灯りは一つもつけられていない

ので、室内は薄暗い。

 掛け布団が乱雑に畳の上に零れ出て、枕だけが乗っている敷布団の上には、三十路前後と見えるゴールデンレトリーバーが、

乱れた浴衣を羽織って座っていた。

 ここは、トラマルが少年達を案内しなかった区画にある湯屋の一つ。俵一家と繋がりが強い店で、宿泊、食事、入浴に垢すり、

そしてそれ以外のサービスも提供する場所。

「ゆうべ相手させた新人達にも、同じような事言ってたんじゃないですか?」

 薄く笑って皮肉を言ったゴールデンレトリーバーに、ユージンがニヤリと笑いかける。

「そうだと言うのと、そうじゃねぇと言うのは、どっちが嬉しい?ええ?」

「意地悪にはぐらかすのが上手ですね。主水(もんど)さんみたいです」

 湯飲みをテーブルに戻す途中で手を止め、一拍置いてゴールデンレトリーバーを振り返る金熊は、ビックリしたような真顔に

なっている。

「………………」

「どうしました?」

「…うつったかな?」

「何で動揺するんです」

 微苦笑したゴールデンレトリーバーは、膝でユージンにいざり寄り、テーブルの上の煙草盆に手を伸ばした。引き出しがいく

つもついているそれはミニチュア箪笥のような瀟洒な品で、火鉢、皿、煙管台を備えている。

 テーブルの縁に背を預ける格好で足を投げ出して座っているユージンに、しなだれかかるような格好で煙草の細切り葉を丸め

るゴールデンレトリーバー。

「で、所員が働いている最中のお楽しみはどうでしたか?」

「意地が悪ぃのはどっちだかな」

 煙管に葉を詰め、マッチを擦ったゴールデンレトリーバーは、吸い点けたキセルを巨熊の口に咥えさせた。

 深く吸い込み、一服つけて紫煙を吐き出すユージンの、ゆったり上下した太鼓腹を、ゴールデンレトリーバーの右手が円を描

いで撫でている。

「この後の予定は?延長しても構いませんが。何せ「疵物」は暇を持て余し気味なので」

 ゴールデンレトリーバーは左腕を軽く上げる。浴衣の袖から覗く左腕は、前腕半ばから欠損していた。

「まぁ、もう一発行くのも悪かねぇが…」

 呟いたユージンの下腹部にゴールデンレトリーバーの右手が移動する。

 下腹部から股の間まで逆三角形に盛り上がる、肉厚なユージンの秘所。その茂みにはゴロリと丸い、分厚い包皮を被った陰茎

が顔を見せている。

 根元が厚い肉に埋まっている上に、体格に比べると小さく見えてしまうが、勃起時のサイズは相立派な部類。怒張すると直径

4センチほどにもなる男根は、ゴールデンレトリーバーに軽く握られるなり、段がついた土手肉の下で早くもムクッと首をもた

げた。

 鼻の下を伸ばしかけたユージンだったが…。

「あいつらが帰るまでに臭いは消しとかねぇとな。戻ったら労いに街見物して、ソフトクリームでも食わせてやるか」

 ゴールデンレトリーバーの右手を掴み、股間から離すと、その掌を左鎖骨から胴を斜めに走る古傷に沿わせた。

「久しぶりすぎて忘れてますか?ウチみたいな店で、家族や恋人の話は避けるのがマナーですよ」

 薄く笑うゴールデンレトリーバーは、熊の古傷をツツッとなぞった指を、そのままユージンの口へ蓋をするようにヒタリと添

える。

「おっと…。そうだな、そうだった…。延長頼むぜ?ただし床相手じゃねぇ、風呂屋業務で」

「承知しました。石鹸の匂いも残さず、隅々まで洗ってさしあげますよ。いけない保護者さん」

 

 

 

 やがて太陽が中天を過ぎる。

 大穴の中の強風もすっかり和らぎ、しかしそれだけ霧が流れにくくなった頃。この大規模駆除作戦と、警戒態勢で巡回する俵

一家第一部隊の様子を、距離を置いた高台から観察している者があった。

「はぁ~、壮観やで。こないな頭数揃えた巻き狩りなんて、見るのは十年ぶりや」

 懐かしそうに呟いたのは、大型六脚作業機の上で、双眼鏡を構えたオーバーオール姿の狸。

(…何で来てもうたんやろ、ワイ…。こんなトコ見つかりでもしたら普通に下らへんわ…)

 双眼鏡を下ろし、ふぅ、と溜息をつく。

 たぶん関係ない。取り越し苦労だ。自分が置いて回ったあの荷物は、案外今日の巻き狩りに参加する潜霧団が前もって配置し

ておきたかっただけの非常用物資に過ぎないのかもしれない。

 …そう頭では考えようとするのに、狸は「違う」と、勘で解ってしまう。

 今日の巻き狩り用ならばコソコソと隠れて手配する必要はない。そもそも俵一家がホストなのだから、物資が不足するような

手配も配置も行なわれるはずがなく、別に非常用物資を運び込んでおく理由が無い。

(巻き狩りとは無関係な、どっかの潜霧団のダイブ用やろ…)

 そう考える。が、働き過ぎる頭がそれを否定する。だったら日付の指定は何だったのだ?と。

 飴玉を口に放り込み、転がし、しばらく落ち着かない様子で双眼鏡を覗いたり、周囲を見回したりしていた狸は、苛立ったよ

うに飴を噛み砕いた。

(あ~も~!気にはなるけど一家と顔合わすのは勘弁や!どないしたらええのん!?)

 何事も起こらなければいい。取り越し苦労であればいい。そう祈る狸は、

「あ」

 双眼鏡を水平に走らせ、広く状況を観察しているその最中、二人組で狩りを行なう別動隊に気付いた。

 一方は、黒い狼のヘルメットを着用した若い潜霧士。

 もう一方は、大弓を携えた赤銅色の大猪。

 大猪が番えた矢を立て続けに二射し、ふたりの存在に気付いて宙に跳んだ野襖の右前脚と後ろ足を射貫く。

 バランスを崩して地面に落ちた野襖めがけて駆け込んだ少年が、体勢を立て直す間も与えずに刀を一閃させ、首の側面…頸動

脈に致命傷を与える。

 苦しむ様子も見せず、野襖はぐったりと伏して動かなくなった。適切な距離を取り、構えたまま様子を窺う慎重な少年にのっ

そりと歩み寄って、大猪がポンと肩を叩く。労いの言葉をかけられたのだろう少年が肩から力を抜き、振り返って頷いて…。

(大親分の客やったんか…)

 一連の流れを見守っていた狸は、双眼鏡を覗く目を細めた。

(奇麗な立ち回りに、剣捌きなんかべらぼうな腕やで…。俵一家でもあそこまで上手く刀を使うてやれる奴はそうおらんわ。将

来有望な子なんやろなぁ…。なんやいつも緊張しとるようやけど、礼儀正しいし、若くて四等なら見所もあるわ…。いずれは一

家に加わる予定なんやろか?トラマル達と仲良うやってくれたらええなぁ…)

 そして狸は、何かに反応するように耳を震わせ、素早く双眼鏡を巡らせる。

 穏やかに緩んでいた顔は一瞬で引き締まり、目つきが険しく吊り上がる。

「…何や…、何が起こったんや…?」

 

 狸が気付くのと時を同じくして、野襖を臨時拠点へ運ぼうとしていたハヤタとタケミもソレに気付いていた。

 少年は納めた腰の刀に手をかけ、大猪は一歩大股に進み出て前に立ち、タケミを制するように、そして庇うように左腕を横に

伸ばす。両者の視線は同じ方向…狸が双眼鏡を向けた方角へ注がれていた。

 感じたのは振動である。地鳴りとは違う、伊豆半島に住まう者達は地殻変動の揺れに慣れているからこそ、一瞬のソレが異質

である事を肌で感じる。

 タケミもハヤタも理解していた。それは、衝撃による振動である、と。例えば、何かが爆発したり、超重量建造物…橋などが

落ちたような。

 やがて、霧に濁った大気の向こうに色濃い煙のような物が昇る。

 霧の中でも目立つ紺色狼煙。その意味は…。

(巻き狩りの打ち合わせで、確か朱色が「避難勧告」で、紺色は「救難要請」…!)

 少年が「大親分さん!」と視線を上げれば、肩越しに一瞥した大猪が即座に頷く。

「走っと!」

「はい!」

 獲物も荷物もそのままに、大猪と少年は霧の中へ駆け出した。

 

 その頃、巻き狩り本隊に同行していたアルは…。

「何スか今の!?爆弾とか使う予定あったっスか!?」

 確認するように同じ班の潜霧士に問いながら、しかしこれは予定と違う事を理解している。

 追い込みの手法も狩りの手順も、効率的に、逃がさないよう、獲物を囲い込んで仕留める体制が徹底されていた。異常に気付

かれ警戒を強いるような、爆発を伴う手段や道具は使わないはずである。

「アクシデントだ!使用予定に無い爆発物は持ち込んでいない。参加してる組は全部そうだと思うが…」

 猪メットが応じたすぐ後で、そこから200メートルと離れていない距離から紺色の煙が上がった。

 地面が隆起して、切り立った崖になった向こう。獲物を追い込むいくつかの勢子班が回り込むルートで移動していた高台。名

残として残る民家や工場などの残骸が、乱杭歯のようにギザギザのシルエットを霧に刻む崖上から、連続する銃声が響く。

「通信が通んねぇだと!?」

 状況を確認しようとしたが、中継要員を介しての連絡も通らないという報告を受けたツキノワグマは、

「妙なノイズが入って、聞こえ難いどころか完全に雑音しか…」

「!?」

 通信不良の状態を説明するその言葉で顔色を変えた。

(…いや、そいなはずねぇ…。地下ならともかぐ、こいな所にゃ…)

 考え過ぎ、と思いながらも気を引き締め、指示を飛ばす。

「俵及び直属傘下組!偶数班南がら!奇数班は北!完全武装で回り込んで崖上急げ!現状把握!救助優先!それ以外はこごで移

動準備して待機!」

 ツキノワグマの銅鑼声が響くなり、俵一家と近しい傘下組だけが迅速に行動を開始。何が起きているか判らず行動の指針を決

め兼ねている組も、移動準備という目前の指示を与えられた事で、持ち上がりかけていた混乱の気が薄れる。

「オレも行くっス!」

 左右に駆け出した班員達の中、置いてけぼりの格好になったアルが挙手。

「ダメだ!こごさ残って移動の支度…」

 指示を追って出しながら集団を纏めるジンキチが、制止しながら振り向いたその時には、大刀を背負ったアルは猛然と崖めが

けてダッシュしていた。一応声をかけはしたが、この少年の場合、最初から質問ではなく行動宣言である。

「ここショートカットっス!」

 ほぼ垂直。かろうじてオーバーハングになっていない、岩と土がむき出しの、草もあまり生えていない崖面に、シロクマは駆

け込んだ勢いそのままに飛びついてフリークライミング開始。指三本引っかかれば体を持ち上げられる馬鹿力で、グングン昇る

アルはあっという間に地上10メートルの高さに至る。ずんぐりした巨体が右に左にブレながら、指がかかる位置を即座に選ん

で登ってゆく様は、まるで風船が揺れながら上昇してゆくよう。

 そのデタラメな登攀力に「ヤモリが何かが!」と呆れつつ怒鳴ったジンキチは、止めるのを諦めて叫んだ。

「射手!坊主が登ってる間、周り警戒してやれ!近付く危険生物居だら攻撃!」

 アルが無防備な所を襲われないよう、危険生物などに注意するよう周囲に呼び掛けつつ、ジンキチはシロクマに警告する。

「まず様子見で、合流優先!いいが!無茶すんでねぇど坊主!」

「イエス・サー!」

 右手一本で岩にぶら下がった状態で、アルは器用に身を捩じって半面振り向き、左手を上げて敬礼。

 ふざけているようで、しかし実はちっともふざけていない。

(一緒に潜霧した誰かが死んだら、たぶんタケミはまた落ち込むし悲しむっスから)

 シロクマは、少年が常に首から下げて行動を共にしている、ヘルメットの破片の事を考える。

(潜霧作業は命がけ。全員無事で無傷で誰も死なないとか、ありえないって解ってるっスけどね…。タケミの周りじゃ、なるべ

く犠牲は出したくないっス)

 逞しい腕でグングン体を引き上げて、五階建てビルにも匹敵する崖を一気に登り切ったアルは、頂上からなだらかな坂になる

平地を踏み締めつつ背中の大刀に手をかけ、鞘蓋を跳ね上げ振り抜いて構えた。

 屈んで左手を地面に沿え、右手にダンビラを構えた獣染みた低姿勢から、周囲に鋭く視線を走らせる。

 能天気で陽気で楽観的で衝動的、そんな年頃の少年らしい性質も間違いなくアルビレオ・アド・アストラの本質だが、狩猟と

戦闘に関する警戒心や用心深さ、徹底した容赦の無さもまた本質。霧の中で神経を尖らせ、身のこなしはにわかに野獣じみる。

 生い茂った低木の枝葉や蔦、霧に結露した草の中、乱れた息を二呼吸で落ち着け、耳をそばだて周辺を観察、そこから動き出

すまで三秒。

 銃声はまだ続いている。崖下からでは距離が掴み難かったが、予想したよりずっと近い。

 霧で変質した外界では見られないカビに浸食され、倒れて朽ちる途中の枯れ木を飛び越え、苔むした枝を潜り、音源目指して

一直線に移動したアルは、茂みから飛び出して視界が開けた瞬間…。

「…ワッツ…?」

 立ち止まり、顔を蒼白にして呟いていた。

 ここに居るはずの無い、しかし見間違えようもない、幼少期に霧の中で見た、悪夢その物を目にして。