第二話 「実地訓練」
「あの…、済みません…」
大穴の縁をぐるりと囲んだ、長城を思わせる建造物の中、ダイビング用のスーツのようなピッチリした服でぽっちゃりした体
を覆った少年が、アクリル板で隔てられたカウンターから職員に声をかける。
カマボコを思わせる、天井がアーチ状の広い空間。数十基並ぶベンチを背後にオドオドしている少年は、声が小さ過ぎて聞こ
えなかったようなので、躊躇いつつももう一度「済みませ~ん…」と呼ぶ。恩人は頑張っているつもりだが、声の大きさ自体は
あまり変わっていない。
控えめ過ぎる声に気付いて、向き合っていたカウンターのパシコンから視線を上げたのは、事務服姿の妙齢の受付女性。目に
入ったのは、小脇に抱えた狼を象った潜霧用メット、神秘的な紫紺の瞳、ショートボブにカットした奇麗な黒髪、そして色白で
餅のような肌の丸顔。
ぷっくり丸々した肉付きの良い少年は、目鼻立ちや顔のパーツ類の造形を見るに、細くなれば紅顔の美少年になるだろうと察
せられた。
少年は、「あの…、計画書、です…」と、オドオドしながら書類を一枚、カウンターのアクリル板にあいた小さな穴に差し入
れた。
「ああ、君は確か大将んトコの…」
職歴も長い受付女性は、一度見た事がある少年の事を覚えていた。本人がどうのというよりも、この少年を連れていた人物が
有名人なので、インパクトが強かったのである。
受付女性は提出された潜霧計画書を手に取り、内容を確認し始め…。
「おたくの捜索所がこっちのゲートから潜るなんて珍しいね」
「は、はい…」
「おや、もう五級になってたんだ?おめでとう」
「あの、ど、どうも…」
「大将は厳しいかい?」
「え?えっと…」
書類にチェックをつけてゆきながら話を振る女性に、ぽっちゃりした少年はしどろもどろな対応。返事は曖昧で声もやけに小
さい。
タケミは女性が苦手である。免疫がなく、接し方も判らない。老いも若きも関係なく。少なくとも大隆起以前の生まれだろう
受付女性が相手でも同様である。
「はい、内容不備は無し。これ君が書いたの「フォルフ」君?」
ダイビングコード…つまり潜霧中に使用する個人識別用のコードで呼ばれたタケミは、「は、はい…」と伏し目がちになって
頷いた。
「字が綺麗だね。大将とは大違いだ。…おっと」
女性は口を噤む。少年の後ろからのっそりと歩み寄る、2メートル半の巨漢に気付いて。
「あらやだ聞こえました?大将」
「字の汚さは自覚しとる。ちっと反省はするが、反論も怒りもしねぇぜ」
応じたのは、赤みが仄かに混じるレッドゴールドの被毛に覆われた熊の獣人。マズルの上や右眉、左の頬などに目立つ傷が残
る強面だが、口の端に微かな苦笑いを浮かべて見せ、言葉通り怒ってはいない。いないが…。
(ダリアにも言われとったが、そうか、汚ぇか…。練習するか、ペン習字とか…)
ちょっと気にした。
「そろそろウチの若ぇのにも、計画書の作成をやらせるべきだと思ってな。こいつも勉強だぜ」
「珍しいですけど、こっちのゲートから潜るのも?」
「勉強だぜ」
女性とやり取りを交わしながら、ユージンは首を巡らせた。
「今日は少ねぇな…。ここらの連中、大仕事でも入ったのか?」
伊豆の大穴を取り囲む長城は、内部から危険生物が、そして霧が、外へ漏れないよう封鎖する防壁であると共に、大穴に立ち
入る者を制限する関所でもある。
伊豆の大穴をぐるりと囲む長城は、物理的な障壁であると共に、霧を押し返す風車、寝ずの番である大灯台、それが備える、
飛行する危険生物を自動で撃ち落とす防衛レーザー装置を支える基部でもある。
同時に、霧に潜る者達が通過するゲートでもある。
場所によって寸法は多少異なるが、長城内はおよそ50メートルの厚みがある三階建てで、休憩所、斡旋所、医療所などを、
それぞれ広いスペースを確保して内包する。詰めている職員は潜霧組合の者達が中心だが、他にも志願制かつ交代制で24時間
非常事態に備える潜霧士、経験豊富な医師などが常駐している。
また、大穴内の気象及び地理状況の変化を速報で知らせるために、マッパーズギルドの地図士も連絡役として、常に一人以上
は各ゲート付近に待機していた。
そしてユージンとタケミが居るここは、ゲート前の大ホール。ここで受付に潜霧スケジュールを記した書類を提出し、許可を
受けると逆流防止措置込みの三重扉を通り抜けられるようになる。
普段であれば受付の順番待ちでベンチに座っている者が常におり、霧の中の遺留品情報や、危険生物の目撃情報を求め、ある
いは手持ちの情報の交換目的で、潜霧士が何人もたむろしているのだが、今日は受付待ち人数はゼロ、情報目当てに帰って来る
ダイバーを待つ者達がちらほら居る程度である。
「東伊豆ゲートの方にテレビクルーの取材が来てて、皆そっちに行ってるんですよ。インタビューとかサービスとか色々です。
…ほら、あの可愛いレポーター来てるから…」
「…去年潜霧事故起こした事忘れたのか?「isティービー」も、テレビに群がるミーハー共も…」
ユージンは顔を顰める。体当たりレポートと称したテレビクルーの潜霧取材が、大混乱を起こしたのは昨年の事。
丁度その日は年に三度しかない潜霧士の昇級試験で、五級の試験に挑むタケミをつっけんどんに、しかし内心はハラハラしな
が一人で試験に向かわせ、ユージンは同業者達とアライアンスを組んでミストダイブ。潜霧計画から外れて迷子…つまり遭難し
たテレビクルー達を救助に向かった。
結局、仮免許では立ち入れない場所へ、事故を装って迷い込む事で撮影しようという魂胆だったらしい。
が、ふりのつもりが本格的に遭難。最終的には熱海の潜霧士達だけでなく、半島西エリアからも捜索する羽目になり、その折
には一刻を争う事態だった事もあって、ユージンは西岸一の潜霧士「土肥の大親分」に、休暇を切り上げて協力して貰う羽目に
なった。
「懲りてねぇのか、連中は…。ありゃあ民間が絡んだ中じゃ去年最大の事故だぜ…」
なお、ボヤくユージンは怒っている猛獣の顔に見えるが、実際には呆れ顔である。
「ともかく、今日は演習がてらの潜霧捜索作業だ。ひとが居ねぇなら居ねぇで、集中できて都合が良いってもんだぜ」
ユージンはそう言うと、腰の後ろで水平に固定し、右手で抜けるようにしてある銃のグリップを確かめた。
水平に銃口が二つ並んだショットガン…ただし機構が単純な中折れ式で、取り回し易いように銃身と銃床を切り詰めたカスタ
ム品、ソードオフショットガンである。無論、本来ならば腰溜めか、肩に銃床をつけて構えた射撃が前提の物なので、片手で拳
銃のように扱えば冗談ではない反動が手首にかかる。
今回の装備はそれに加え、常に装備しているトーチとリボルバーマグナム。衣服自体はジャケットにカーゴパンツと、いつも
通り潜霧士用のスーツも着用しない軽装。
ユージンには霧対策が必要ない。吸い込んでも因子汚染の心配が無いため、密封型マスクやスーツは要らないのである。
一方タケミは小太りな体にピチピチのダイバースーツ姿で、愛用の狼ヘルメットを持ち、左腰には刀を、右腰にトーチを装着
している。そして今回の勉強用に、自分の胴体よりも幅があるザック…いつもはユージンが背負う物をおぶっていた。
「審査オーケーですよ。2番ゲートへどうぞ。今回も安全なダイブを」
「おう」
「は、はい…」
受付女性が会釈すると、ふたりの右手側…進行方向に並んだ大扉の一つが、上部のランプを赤から青に変えた。
重々しい音を立ててスライドする扉の向こうには、隔離用の小部屋。これが二つ挟まった先で、気圧コントロールによる除染
機能と物理的な堅牢さを兼ねる最終門が、大穴と外界を隔てる。
「行くぞ」
「はい!」
大股に歩むユージンに従うタケミを、受付女性はひらひらと手を振って、「気を付けて~」と見送った。
生命の保証がない魔境へ赴くのだが、今回は見送る側も気楽な物である。何せ、先導するのが東エリア最高のダイバー、熱海
の大将こと神代勇仁なのだから。
40年前の大隆起の発生以降、大部分が崩落して埋まった伊豆ジオフロントからは、今日までずっと霧が漏れ続け、大穴を満
たしている。
それは乾燥に弱く、湿気が無ければ長時間残留する事はない。日光にも弱く、長時間の日照で成分が無害化される。だが、霧
に溶け込んでいる場合はその効果が失われない…。ここがネックだった。
霧は…つまりそこに含まれる成分は、地下研究所で生成されている。活用していた地熱発電が裏目に出て、半永久的に設備は
稼働し続ける上に、潤沢な地下水により霧自体が絶える事もない。
大隆起以降、地下から絶えず水蒸気が湧き出るようになった穴の中は、今や「人間を殺すか、人間以外の何かにする」霧が溜
まった魔境と化した。
しかもこの霧は電波などを通し難い性質を帯び、大穴内部では従来の無線通信の類が満足に機能しなくなる。潜霧士達は比較
的マシな使い勝手の装置を用いているが、それでも完璧ではない。霧の濃度によっては有視界範囲内ですら通話が不可能になっ
てしまう。
研究施設の要であり守護神でもあったはずの人工知能チエイズは、他の研究所関連の警報及び通報装置同様に、大隆起直前の
警報を最後に沈黙しているが、あの大災害で損傷して発狂し、今もなお機能し続けており、穴の中を霧で満たしているのだとい
うのが通説である。そこに、悪意があるだの、人類に反旗を翻しただの、様々な私見が混じって陰謀論のように囁かれる事もあ
るのだが…。
少なくとも、チエイズの悪意や叛意はともかく、大穴に立ち入って霧を吸い込むのは危険という事実に変わりはない。
「…っと、到着です…!えぇと、時間は…12秒!」
坂道を下り切り、そこに立っている巨漢の傍に寄ると、タケミは左腕のコンソールの時間表示を確認した。
すり鉢状の斜面…幾度もの往来を受け入れ、道筋が刻まれている坂道を50メートルほど下ると、そこからは倒壊した建物と
残った建物が混在するエリアとなる。霧は大穴外周の縁まで満たしており、何処から侵入しても坂道の途中からは視界が真っ白
になる。
「ここはいつものルートより距離がある。12秒なら及第点だ」
ユージンはタケミをそう評し、視線を巡らせた。
「今日は潜霧日和だ」
霧は出ているが空は晴れており、日差しが強いので霧中の建造物が視認し易い。霧そのものも日差しが強い間は少し薄いので、
見通しもだいぶよくなる。
「伊東の斜面は熱海とそう変わらん。東伊豆ゲート側だとゆるくて長い所もあるが、そっちはまた今度連れて行ってやる」
「はい!」
少年が潜るのはいつも熱海のゲートから。ここ伊東のゲートは三回目だが、瓦礫の多さも斜面のキツさも似ており、ホームグ
ラウンドに近いコンディションである。また、生息する危険生物などもほぼ同様なので、地理に不安がある事を除けば普段通り
の活動ができる。
「「南」と「西」はがらっと変わる。特に南はしんどいぜ。いずれはアザフセ兄弟にナシぶって訪問するつもりだが…、あっち
に遠征する時は覚悟しとけよ、ええ?」
「は、はい…!」
ユージンが脅す風でもなく念を押すように述べ、委縮するタケミ。
現在の伊豆半島は大雑把に、東、西、そして南のエリアに分類される。
ユージン達が仕事をしているのは、熱海、伊東、東伊豆からなる東エリア。関東圏との大動脈が直結されている熱海を中心に、
半島内では物流が最も盛ん。立地が良く、ここから仕事を始める駆け出し潜霧士も多いため、目ぼしい物は掘り尽くされている
とも言われている。
半島の反対側は、西の玄関口である流通拠点沼津、西伊豆、そして「旧伊豆」こと防衛拠点土肥から成る西エリア。東エリア
で上手く行かなかった者や、はみ出し者が多く集うエリアで、観光客などには来訪が勧められないとされている。しかし治安が
悪いという程でもない。ユージン同様に地区筆頭として一目置かれるベテラン潜霧士、「土肥の大親分」こと「俵早太(たわら
のはやた)」が睨みを利かせているため、潜霧士崩れも売人も大きな顔はできないのである。
そして半島南部の南エリアは、大隆起の影響が最も大きく、潜霧環境も最も過酷である。
伊豆の研究が最盛期を迎えていた頃、南部には新たに建造された港を中心に賑わった。技術、薬、人員、それらが海を隔てて
外国と交換される、玄関口となっていたのである。
当然、港は勿論として船の整備ドック、ホテル、ひとの流れがあれば必ず求められる各種サービス業などは充実していた。
が、この一帯は40年前、最も地殻変動が激しかった。
数々の舟を迎え入れた港は、今や海抜400メートル。干上がった海岸線ごとごっそりと山脈上に盛り上がっており、今も南
側の各ゲートからは霧の中に船影が見える。さながら幽霊船のように。
物流の面で言っても不遇で、半島先端部まで物を運ぶ業者は少ない。運搬価格は常に高値で推移し、物価は半島で最も高い。
何より、好んでここで霧に潜ろうとする者が少ないため、必然的に駆除の手が足りず、他のエリアと比較しても危険生物の数
が多く、活動も活発である。
故にこそ、獲物を求めてここから潜る者も居るが、危険性は他のエリア以上。一獲千金を夢見て軽率に踏み込んでは、そのま
ま遺体も見つからない最期を迎えるケースが大半である。
こちらのエリアでは「岬の狛犬」こと「字伏(あざふせ)」という腕利き潜霧士兄弟が筆頭として挙げられており、他のエリ
アと比べて少ない土着潜霧士達は、彼らのもと強い連帯感で結びついている。
そして、エリアとして数えられないのが北。
こちらは大穴から本土への霧や危険生物の侵入を完全に封鎖するため、高さ200メートルという、他の箇所とは比べ物にな
らない長城…通称「グレートウォール」が睨みを利かせている。ここには大隆起以後に発足した自衛隊の部隊…特別自衛隊、通
称「特自」が駐屯している。
大隆起直後、まだ安全な潜霧技術も確立しておらず、ノウハウも判らなかった時点で、実験動物のように大穴へ大量投入され
たのは自衛官達だった。
死と「新化」を、世代どころか個体レベルで強制され、大穴の表層を亡骸で埋め、しかし極々一部の自衛官は、それでもジオ
フロントから生還した。人間の姿を失いながらも。
そうして因子汚染が引き起こす、死以外の変化…「獣化」の存在を身をもって証明した彼らは、長城の建設、大穴の封鎖、除
霧設備の設置など、数年に及ぶ大事業を最前線で支え続けた。
政府機関だけでの事態の鎮静化が諦められ、大穴探索と危険生物の除去作業への民間参入が閣議決定される折、その法案を立
案したのも、潜霧士や地図士という職業体勢制度を固めたのも、この時に防人となった自衛官達とその関係者、及び退役自衛官
の尽力による物だと言われている。
しかし今の彼らは、最悪の事態が生じた場合に、伊豆半島その物を物理的に本土から「隔離」するための戦力…、最終防衛装
置でもある。
そんな各エリアの特色のおさらいを話がてら、ずんずんと霧の中を進むユージンは、タケミに自生している植物などを見かけ
るなり、「あれは何だ?」と問題を出していた。
「霧キノコ…、アカマダラです。霧の成分を溜め込むから人間には毒です。…ただ…」
「ただ?」
「毒抜きすれば美味です。あと、毒抜きした乾燥粉末は強壮剤になります」
「おし、正解だ」
ホッと胸を撫で下ろすタケミ。
霧の中で強制進化をさせられるのは、人間や動物、甲殻類だけではない。植物や菌類も霧の影響で、この土地独自の進化を遂
げている。
「あのバス停のベンチにくっついてるのは?」
「あれも霧キノコ、ビロードキクラゲです。無毒だから食べられますけど味も殆どありませんし、グニグニヌルッとしてて、噛
み切れないくらい弾力が強いです。…確かアル君が車のタイヤみたいな食感だったって…。水分を抜くと、有害な煙も出さない
で長く燃焼する、良い燃料になります」
「正解だ。………じゃあ、あそこのベランダにぶら下がってる果実は?」
「黄金アケビです。毒性はなく、生でも食べられて、霧の成分…って、ええええええ!?」
「ビンゴ、だぜ」
回答の途中で驚くタケミと、仏頂面のまま顎下を撫でるユージン。ただし巨漢は機嫌が悪いのではなく、単に驚き顔が不機嫌
そうに見えるだけ。色々と損な顔と表情なのである。
「で、黄金アケビの詳細は?」
「は、はい!強力な解毒作用があって、霧を吸い込んだ直後なら、えぇと…、そうだ!服用することで因子汚染を起こす前に中
和できる…っていう効能だったはずです。霧の濃度にもよるけど効果だけは確実で、霧中事故での救命措置、症状緩和など…。
あと、取って帰ると医療関係者の皆さんに凄く喜ばれます!」
「おう、そうだ。最後のトコも結構大事だからな」
霧の中で手に入るのは、霧に変質させられた事による価値を持つ品ばかりではない。潜霧作業や霧の毒性対策に有用な、霧に
抗う進化を遂げた物も存在する。
「で、でもこんな…、ゲートから1時間もかからないような所に…」
「採り尽くされてねぇのも驚きだが、危険生物に食われてねぇのも驚きだな。場所が良かったか…」
ユージンとタケミが見上げるレモンイエローのアケビは、三階建ての建造物…ショーウィンドウを広く取った写真館の三階テ
ラスからぶら下がっていた。屋根が半分崩れてトタンが垂れ下がり、影になっているため、真下を通っても見え難い。
無論、そこまで有用な物なら栽培も試みるという物である。だがこの黄金アケビはこの霧の中でしか生育できず、必然的に、
大穴で採取した霧の成分を濃縮して持ち出し、人為的に環境を整えての栽培実験が行われた。
結果だけを述べると、実験場所に選ばれた真鶴半島は、先端に建てられた人工霧再現施設から半島中心辺りまでが20年前か
ら立ち入れなくなっている。
「お、大きいですね、全部…!あれで何十人助かるんだろ…!」
黄金アケビ一つで、通常は緊急措置用の錠剤が20個ほどが作れる。見えているだけで大ぶりな実が四つ見えるので、単純計
算でも最低80個。サイズが立派なのでそれ以上の量になる事も期待できる。
「後回しにして、狒々(ひひ)にでも見つかって食われちゃあ事だぜ。荷物になるが今の内に確保する」
「はい!」
「おし、飛ばすから上手くやれよ?」
「は…ええええ!?」
返事をしかけたタケミが悲鳴を上げた。
基本、タケミは自信が無い。失敗したらどうしようと、まずそこから考えてしまう性格である。特に今回は回収する果実が超
貴重品なので、誤って傷物にしたらどうしようかと不安である。
「いいからやれ。これも勉強だぜ」
ユージンは反論を許さず、写真館の入り口脇で壁にドンと背中をつく。テラスは半壊しており、内部も崩れている。倒壊の恐
れがあるので中から上がるのは避ける。つまり、アケビを回収する方法は…。
タケミは数歩下がって距離を取り、ユージンと正対した。そして、スー、ハー、と深呼吸して…。
「…あの、やっぱり所長が取った方が間違いな…」
「さっさと来い!」
「うひぃ~ん!」
半泣きで駆け出すタケミ。グンッと一気に加速してユージンに迫ると、巨漢が指を噛ませて差し伸べた両手に合わせて足を上
げ、その掌にブーツの底をしっかり乗せつつ膝を曲げ…。
『せぇのぉっ!』
ふたりの声が重なって、両腕を下から頭上へ振り上げたユージンから、カタパルトで打ち上げられるような加速を与えられて、
タケミが飛ぶ。
駆けこんだ加速と打ち上げの勢いを利用し、タケミは写真館の壁にすいつくようにして駆け登る。丸々とした肉付きの良い体
は、見た目に寄らず軽やかで機敏だった。
「はひっ!っと!」
三階の高さまで壁を駆け上がり、減速した所で、タケミはテラスの縁に手をかけてぶら下がり、見事侵入に成功した。
「おし、アケビ四つ、全部回収しろ」
「しょ、所長!七つありました!」
「マジでか。おし、全部だ全部」
登ったら登ったで見えていた他にもアケビがあり、大慌てでもぎ取ったタケミは、次々とユージンに投げ落とす。巨漢は大き
な手で危なげなくキャッチし、回収用の袋に収め…。
「おし、最後はヌシだ。跳べ」
「あの…。ロープで安全に降り…」
「面倒臭ぇ。跳べ」
「うひぃ~ん!」
タケミはユージンに急かされて、後ろ向きで手すりにしがみ付く格好から、恐る恐る後ろ向きで飛び…。
「おっし!」
バフッと、落下した少年は重々しくも弾力があり、ほどほどに柔らかい物に抱き止められた。
分厚い胸と腹でボインと衝撃を吸収して受け止め、逞しい両腕で抱き止める格好で少年をキャッチした巨漢は…、
「…今夜の飯は少し奮発するか。勉強させるつもりが、予想外の収穫になったぜ」
口元に太い笑みを浮かべ、地面に立たせた少年を見下ろした。
稼ぎが無い訳ではない。むしろ潜霧士としてはトップクラスの収入があるユージンだが、基本的に過度な贅沢は避ける性格で
ある。曰く、欲望に限りはなく、惜しむ気持ちを忘れると簡単に浪費に走るのが人類というものだから、との事。ただでさえ潜
霧士用の機材は高値で、この仕事をしていると何かと経費がかかる。蓄財は働く基本の精神である。
よって、贅沢をするタイミングは決めている。予想外の収入があった時と、祝うような喜ばしい事があった時、そして弔いの
時、と。
「ワシはトンカツにする。ヌシは何が良い?」
「じゃ、じゃあボクは…、チキンソテー…とか!」
「お、そいつは良いな。で、帰りはアイスクリームだ」
「はい!」
ユージンは何でも食べるが肉が好きである。特に豚肉が好物。そして大酒飲みだが甘い物も好み、水羊羹などは冷蔵庫に常備
している。
タケミは鶏肉が好きである。特にガーリックソースやオニオンソースなど、香りが強いソースや胡椒を利かせた物が
そしてユージンと同じく甘い物が好き。
しかし…。
(ふふふ…!所長は本当にアイスクリームが好きだなぁ…!嬉しそうな顔、ステキだなぁ…!)
(んふ。タケミはアイスクリームと聞くだけで顔を輝かせやがる…!悪ぃ気はしねぇぜ)
この辺りにちょっと認識の齟齬があるのだが、ふたりとも気付く様子が全くない。
「設営完了です!」
「5分21秒…まずまずだな」
タケミがザックから出したテントを張り終え、使用可能にするまでのタイムを計測したユージンが顎を引く。少年がセットし
たテントは、トーチをハンマー代わりにしてパイルもしっかり打ち込まれて接地しており、文句をつける所が見当たらない。
基本的に潜霧士は日中しか霧に潜らない。夜間は霧が濃くなる上に、日光を嫌う夜行性の危険生物も多い。「宵越し」は可能
な限り避ける物である。
しかし地下まで行くような数日がけの工程を前提とした潜霧作業ならば話は別で、遭難すれば嫌とも言っていられない。宵越
しの体勢を整える技術は必須で、ビバークの場所を選ぶ目も大切。
ユージンはあまり褒めない…というよりも口に出して褒めるのが下手糞というのも憚られるレベルでダメなのだが、タケミは
優秀である。場所選びも安全性優先で、退路などの選定も怠らない。慎重な性格がプラスに働いている。
「では大休止にするが…」
ユージンは耳を立てながら周囲を巡らせる、視線と聴力、そして嗅覚で確認すると…。
「タケミ、周辺には誰もおらん。ここならメット取っても構わんぜ」
「は、はい…!」
少年はいそいそと狼型ヘルメットを外し、餅肌を霧に晒して「プハ~ッ!」と息をついた。
タケミは顔の汗を拭い、濃霧の中で深呼吸するが、ヘルメットを外しても良いと言ったユージンは咎めない。
そのままレーションを食べ、休憩しながらも、ユージンはタケミにあれこれと問題を出し、少年はそれに回答してゆく。
一人前に育てるという目標もあるが、ユージンが今日もタケミに問題を出して勉強をさせているのは、昇級試験に備えての事。
潜霧士資格には等級があり、ランクによって潜霧許可が下りる範囲が異なる。一等潜霧士のユージンには行動制限が無いのだ
が、現在五等のタケミは大穴表層を部分的に探索できるだけで、ジオフロントに続く亀裂や穴、「大穴」の名の由来でもある中
心部の「崩落点」には近付けない。
タケミには霧に潜る目的がある。ユージンは身元引受人としてタケミを育てる一方で、その夢も応援している。
いつか「崩落点」を抜けて下へ…ジオフロントへ至れるように、ユージンはタケミを大事にしながら、先輩潜霧士として厳し
く仕込む。自分の目的は一度脇に置いて…。
「さて、引き揚げ準備だ。帰りは特にやる事もない、先行して安全確保する。ヌシは片付けをしてから追って来い。降りて来る
連中が居たら事だ、メットは被り忘れるなよ?」
「はい!」
来る時に安全を入念に確認してきたルートを、油断せず先行確認するユージンが、先に引き返す。
テントを片付け、ヘルメットを被り、忘れ物が無いか確認したタケミは…。
「!緊急コール!?」
被ったばかりのヘルメットで、同業者からの通信を受信した。
高い音域の警報音、レンズの端には点滅する赤紫の光。
点滅する光は、赤なら滑落などで動けなくなっている状況からの救難要請。黄色なら物資の不足や機器の故障など、物品の補
充やフォローが必要な状態。そのように数ある緊急コールの色だが、中でも最も注意を要するのが赤紫…危険生物が絡む救難信
号。端的に言えば、「襲われている」という救難要請である。
「所長!」
連絡が取れるよう通信範囲を意識して先行しているユージンからは、すぐに反応があった。
『座標はヌシが近い。先に駆けろ!』
「え…」
単独先行を命じられて怯んだタケミだったが…。
『「え」じゃねぇ!人死にが嫌なら、人死にが減るように、動けっ!』
「は、はいっ!」
発破をかけられるなり、少年は左腕のコンソールを素早くタッチして、ヘルメットに受信した座標情報へのナビゲーションを
起動する。
視界に表示される、霧の中に重ねても目立つ赤色のルート案内を追い、タケミは全力疾走に移る。
その速度は、普通の人間としては異常な物だった。
潜霧士のスーツは一種のエグゾスケルトン。カスタムの度合いにもよるが、素材の伸縮機能を活かして運動性能をサポートす
るパワードスーツの役目も持っている。コロコロと太っているタケミの体は、鍛えられてプロアスリート並の運動性能を獲得し
ている上に、スーツのサポートを受ける事で、伊豆の外の人間から見れば異常なレベルのダッシュ、ジャンプが可能である。
崩れた家屋の残骸を飛ぶように超え、信号の発信元へまっしぐらに向かったタケミは…。
(居た!)
祭りで見る狐面を思わせるデザインのヘルメットを着用した潜霧士を視認した。足を挫いたのか、今しがた倒壊したらしい陸
橋の脇にへたり込んでいる。
基本的に潜霧士は集団で動く。長年個人で動いてきたユージンは例外だが、それでも今はタケミとツーマンセルで動いている。
しかし負傷した潜霧士は、どうやら散開しての個別作業中だったようで、仲間の姿が周囲にない。その代わり…。
「所長!かかかかか河童ですぅっ!2体、どっちもカエル顔!怪我したひとを挟んで、今にも襲おうとしてますぅっ!」
ひどく慌てた声を上げるタケミ。怖いし不安だし緊張する。しかし…。
『ワシは間に合わん…!ヌシに任す!』
苦渋に満ちたユージンの声が耳に響くなり、スッと、眼が鋭くなった。
任せられたプレッシャーと、極度の緊張を振り切って、少年の意識は「今するべき事」に集中する。
危険生物「河童」は、蛙が因子汚染されて誕生した種である。
背には亀のような甲羅を持ち、頭頂部は滑らかな円形の甲殻で保護されており、これが河童の皿のように見えるのが命名理由
となっている。しかしそのフォルムは蛙にも、伝説上の妖怪である河童にも似ていない。
身体つきは、狩猟犬のソレに似る。胸部から腹部にかけて急激にくびれ、手足は細く長い。そんな体は蛙同様の皮膚に覆われ
ており、手足には水かきも備わっており、吸着能力で壁にも貼り付く。
体重は60キロ程で、体高80センチ、体長は1メートル程度。危険度で言えば土蜘蛛に及ばないが、その運動性能は、巨大
化したバッタに例えられる。
右脚を投げ出して座る潜霧士は、拳銃のような形のトーチを河童に向けていた。
霧の中での信号装置であり、視界を確保する灯りでもあり、瓦礫の溶接、あるいは切開作業にも使われる潜霧士必需品のそれ
は、ターボライターのように円柱状の炎を放射できる。鉄を溶接可能なその熱量は相当な物で、危険生物の体組織も焼けるが、
そう長くはもたないし、刃物のように即座に傷つけられる訳ではない。トーチはあくまでも作業用の物であり、戦闘用の道具で
はない。
火に驚いてくれればと、牽制でチカチカ点火しているが、河童達はそれを脅威ではないと認識したのか、円を描くように潜霧
士の周りを歩き、徐々に間合いを狭めていた。
「グワ?」
アヒルのような声が訝しげに響く。そして、その首が傾いた。
疑問を感じて首を傾げた…と見えたが、違う。傾いた首はそのまま下がり、胴体から離れ、ベチャリと地面に落ちる。
ザシャシャシャッと音を立てて滑り、霧の中から飛び出した少年が、減速しながら自分の傍に寄る様子を、座り込んでいる潜
霧士はポカンと見つめた。
「君は…!?」
「五等潜霧士「ウォルフ」です!救援に来ました!」
その手には抜き身の刀。霧の中で黒く目立つそれは、河童の首を骨ごと、まるで豆腐を切るように切断してのけている。
(「レリック」…!?刀の…、黒い刃のレリック…!?)
潜霧士は丸っこいムチムチした少年が構える太刀を見て、昔名が知られていたある潜霧士の事を思い出す。
一振りの刀を得物に、霧に挑み、霧に消えた、狼の面を被った潜霧士の事を…。
仲間を斬られた河童は、まず驚いたのか動きを止め、次いでその口を大きく開けた。
瞬間、タケミは座り込んでいる潜霧士の肩を掴んで引っ張り倒した。その仰向けになった眼前を、弾丸のような速度で駆け抜
けたのは、河童が伸ばした舌である。命中すれば面を割り、顔面を貫通して後頭部まで突き抜けていただろう。
だが、弱っている方から仕留める…そんな闘争の鉄則に基く定石は、逆に予測し易かった。討伐レコードホルダーであるユー
ジンから、危険生物との戦い方をミッチリ仕込まれている少年にとっては。
潜霧士を引き倒し、そこから片腕を一閃。先端に鋭い槍のような甲殻を持つ河童の舌は、伸び切る前に切断されて、投擲され
た槍のように吹っ飛んで行って霧に消える。
タケミは自信がない。いつも不安である。成功のヴィジョンを思い描く事に優先し、「上手く行かなかった時の事」を考えて
しまう。
そして、いつでも最悪の事態を想像してしまう少年は、それ故に、緊張時にこそ油断が無いとも言える。
自分が失敗する結末を想像するからこそ、舌での不意打ちは最初から想定内。そこにユージンから叩き込まれている河童の行
動傾向を重ねれば、この通り、危険生物相手の先読みすら容易い事となる。
河童が舌を切断された事も認知できていない間に、痛みを感じるその前に、少年は「所長!」と叫んでいた。河童の舌を迎撃
した刀が振り終わる…、そんな、タッチの差のタイミングで、轟音が響いた。
河童の横合い、霧の中から、花火でも打ち上げたような音と同時に、濃密な白を巨躯で押し退けて接近するのは金色の熊。右
手に握ったソードオフショットガンを突き出しながら、ユージンはまだ自分を視認していない河童へ突進している。
放たれた砲弾のような勢いで肉薄したユージンは、まだ口を開けている河童の頭部…その頬に銃口を向けており、充分に近付
いた所でトリガーを絞る。
巨漢が霧から現れ、銃口から放射状に閃光が広がり、河童の頭部が霧散するまでは、瞬き一つの間の出来事。殆ど突き付ける
格好で銃撃された河童は、最後まで、自分を殺した者の存在すらも知覚できていなかった。
河童の頭部を粉砕したユージンが、ショットガンの反動を軽々と捻じ伏せつつ、突進の勢いのまま通過。四つん這いに近い低
姿勢で制動をかけ、ギュギュギュっとブーツの底が音を立て、焦げ臭い香りが霧中に漂う。
「ようやったぜ、タケミ!」
珍しく褒め、珍しく笑みを見せたユージンだったが…。
「…コホン…」
すぐさま咳払いし、身を起こしつついつもの強面に戻す。
「あ、熱海の大将…?何故ここに…」
潜霧士は安堵すると同時に困惑もした。ホームグラウンドではないここにユージンが居る、これはつまり、自分はとんでもな
い偶然で奇跡的に助かったという事で…。
「ヌシは運がいいぜ。死ぬ時じゃねぇって事だろうな」
太い笑みを浮かべたユージンは、潜霧士に歩み寄るなり…。
「!?」
その大きな手が、潜霧士の狐面メットを左右から勢いよく挟んだ。
バチンと激しい音が響き、ビックリしたタケミが「ひっ!」と悲鳴を漏らす。ユージンがその気で圧し潰せば、土蜘蛛の脚も
ペシャンコになる。メットを被っていても人間の頭など一たまりもない。が…。
「タケミ!テント設営じゃ!」
「?…は、はい!」
疑問を後回しにし、タケミは大急ぎで練習したばかりのテント設営に入る。
「ヌシは、運がいい…」
驚くのを通り越して呆然としている潜霧士のメットを両手で挟み込みながら、ユージンは先ほどと同じ事を繰り返した。
陸橋の崩落で足をくじいた潜霧士は気付いていなかったが、ユージンは目聡く見つけていた。おそらく転倒した際に入ったの
だろう、ヘルメットの亀裂に。
後頭部側に走る亀裂は広範囲で、間違いなく霧が流入している。気付かないままでいれば十数分で急変していただろう。とは
いえ、気密性は失われても機能は死んでいないので、除染装置は稼働し、濃霧をそのまま吸い込む事だけは避けられていた。
つまり、今ならまだ、因子汚染を軽減できる。
「死ぬ時じゃねぇって事だろうな」
割れたメットを力任せに圧着して霧の侵入を防いでやりながら、ユージンは「自分達が運良く黄金アケビを見つけた」のでは
なかったのだと考える。
危険生物にも食われず、潜霧士にも採取されず、今日あそこで、たまたま潜った自分達の目に止まった黄金アケビ…。
そして、大半が出払っていて手薄で、同僚達の救援も間に合わないタイミングで、駆け付けられる位置にたまたま遠征してき
ていた自分達…。
運が良いのはこの潜霧士。巡り合わせとはこういう事だと、巨漢は口の端を上げた。
ひとは死ぬ。理由なく死ぬ事も多い。だが、生き延びる事にはきっと理由があるというのが、ユージンの考え。
「設営できました!除染、安全数値まで進んでます!」
「おし!ワシは外で見張る、アケビを食わせてやれ!それから瞳孔と四肢末端の獣化兆候観察、怠るなよ!」
「はい!」
慌ただしく緊急措置が始まり、周囲を警戒するユージンは、やがて駆け付けた潜霧士の同僚達をトーチで誘導し…。
「今日はユージン、宅飲みでもする気なのかい?ウチで食ってきゃいいのに…、冷めちまうよ」
「え、えっと…。はい…。ですね…」
開店準備中の酒場…ラウドネスガーデンで、ユージンからの連絡でテイクアウトメニューを準備しておいた雌虎は、訪れた少
年にずっしりした包みを持たせた。
まだ店内に客はおらず、席のセッティングをするスタッフが行ったり来たりしているだけ。料理の仕込みが進んでいる厨房か
らは香ばしく熱と脂が漂い出ていて、少年は空腹を自覚させられる。
大窓からは、既に濃い藍色に染まりつつある空の下、目覚めるように黒くなってゆく大穴が望めた。寝ずの番たる灯台群が、
今夜も夜通し見張り続ける。
伊豆半島に夜が来る。殆どの潜霧士は引き上げて、憩いの宵に生を感謝し、明日の実りを祈念する。今夜もこの酒場には大勢
が訪れ、喧騒の中で食事と酒を楽しむのだろう。
「まあいいけどねぇ。サービスでガーリックチップを山盛りつけといたし、ポテトとソーセージもたっぷり詰めといたよ。三種
のソースも多めにしといたから、余ったら肉でも食う時に使いな。今日はよそのゲートから潜ったんだろう?たっぷり食って疲
れを癒しな!アンタはまだまだ育ちざかりなんだからねぇ!」
気のいい笑み…見慣れない者には獰猛な野獣の笑みを見せるダリアに、タケミは曖昧な愛想笑いを返して、笑う度に揺れる大
きく開いた胸元から目を逸らしながら礼を言い、そそくさと帰路についた。
救出した潜霧士は急変を免れたが、ユージンは発見当時の状況説明のために同行し、時間を取られている。
その後には仕留めた河童の運搬手配などもあった。いつもなら、出先の獲物は出先の査定所に持ち込むのだが、今回は特別で
ある。高値がつく黄金アケビに、表皮が上質なスーツの素材になる河童が、頭部以外無傷の状態で二頭も得られた。査定価格に
期待できるので、馴染みのある地元の査定所に持ち込みたかったのである。
特に、一体分は査定所を間に挟んで売却するのではなく、懇意にしている工房に直接卸したいという思惑もある。
そんな理由でユージンがあちこち動くため、タケミは独りでマダム・グラハルトの所へ、ユージンが注文したテイクアウトメ
ニューを貰いに行かされたのである。
いつもガラガラのバスに乗り込み、日没後の沿岸沿いの道を流れるヘッドライトの群れを眺め、ふたりの職場兼住まいである、
ユージンが個人所有している小島へとタケミが帰還すると…。
「おう!お帰りタケミ、ご苦労!」
「………」
先に帰っていた巨漢が玄関先で少年を出迎えた。半裸…というか九割以上裸で。
どうやらユージンは風呂上がりらしく、湿り気が残っている体に赤い六尺褌一丁、首にタオルというあられもない恰好である。
(あ、所長もうお酒飲んでる…!)
酒臭い息を嗅ぐ以前に、表情が柔らかいのでそうと確信したタケミは、満面の笑みを浮かべた。
助かるべき者が助かった。こんな夜は祝い酒で夜を迎えるのがユージンのやり方。帰るなり景気付けにグビッとやったのだろ
うと察しが付く。
「ダリアさん、たくさんおまけしてくれたそうです!こんなにずっしり!」
「おう、そいつは景気が良いぜ!タケミも腹減ったろう?さっそく食うか!それとも、先に風呂にするか?」
軽くアルコールが回ったユージンは、普段の態度から一転して甘くなり、スキンシップも多くなる。
少年の肩に腕…は身長差があり過ぎて回り難いので、体を斜め後ろから押し付けるような格好で背中に密着し、頭の上に手を
置いた巨漢に、「ご飯が先で!」とタケミは笑顔で応じた。
突き出た太鼓腹でグイグイ押すように、リビング兼キッチンへと促すユージンの体温を、タケミは背中で噛み締める。
そして、こんな時にはいつも再認識する。
ユージンは厳しい。だが、かつては見せなかったその態度は愛情の裏返し。立派な潜霧士に仕上げるために、そして、両親や
祖父に変わって一人前に育てるために、あえて厳しく教導しているだけ。中身は昔から変わっていない。
祖父と暮らした白神山地の実家。時々土産を持ってあそこを訪れては、タケ坊タケ坊と幼い自分を呼び、よく遊んでくれた優
しいユージンの顔は、今でも酒が入った時に表に出てくる。
少し酒臭くて、まだ汗臭くて、シャワーの水気が残っている半裸の巨漢にくっつかれ、乱暴に頭を撫でられながらリビングに
向かうタケミは、幸せな気分になり、同時に決意もし直す。
(お父さんやお母さんやお爺さんのように、きっと、ボクも立派な潜霧士になりますから…!所長が自慢できるような、立派な
潜霧士に…!)