第二十話 「ダイバーズハイ」

― 10年前 ―

 血が混じった薄汚い涙が、ヒリつく眼球からとめどなく流れ落ちる。

 顔をグルグル巻きにした包帯を、雑に毟るようにして隙間をあけて、そこから覗く、霧で白く濁った街並みを抜ける。

「ハァ…、ハァ…、ハァ…」

 霧に響く耳障りな異音、それが自分の荒れた呼吸だと、途中まで気付けなかった。

 作務衣を模して装甲を要所に配した俵一家の潜霧服は、所々血染めで黒くなり、下履きが何ヵ所も破れており、左足は太腿の

外側大部分が、右脚は膝周りが出ている。前合わせの紐は千切れて結ばれたまま片側からぶら下がり、襟は合わずに左側がベロ

リと垂れ、右側は脇腹部分に抉り取られたような大穴が開き、さらしで止血した腹が露出している。

 血が混じった鼻水が止まらない。涙腺がバカになって、涙の分泌がおかしくなっている。両目を覆うように巻かれていた包帯

は、目を覆っていた部位がグショグショに濡れており、そこがほんのり赤味を帯びている。

 満身創痍の狸は、ふらふらと霧の中を行く。膝が笑い、よろめいて手をついたブロック塀はじっとりと湿った感触。原因は手

汗だけではない。崩落点から溢れ出し、長城を超えて流出し続ける高濃度の霧による結露のせいでもある。

 主要道には本土へ向かう車が列を作り、大半は開け放たれたドアもそのままに乗り捨ててある。乗り捨てられていない車は、

内側から崩壊するようにズタズタに変形した所有者が乗ったままである。窓ガラスには内から血塗れの手形が残され、急性中毒

による肉体の激変で苦しんだ最期を物語る。

 道端にも点々と死体が転がる。自家用車に乗り込もうとして間に合わなかった者。バスが来なくてバス停のベンチ傍で死体に

なった者。損傷が激しいいくつかの死体は、霧に乗じて出てきてしまった危険生物の餌食になった者。

 灯りが点っている建物もあった。ただ、それが霧を締め出して籠城戦を続行しているのか、それとももう生きている者が居な

いまま灯りだけが残されているのかも定かではない。

 何処かでアラームが鳴り続けている。もう止める者が居ない家の中で、無人のまま鳴っているのか、それとも、どれだけ鳴っ

てももう起こせないのか。

 夕暮れ近付く海側を見遣れば、波の反射とは異なる沖からの光。自衛隊の艦が海上を封鎖し、土肥に、伊豆半島全体に、睨み

を利かせている。何かあればすぐにも艦砲射撃を行なう心積もりなのだろう。本土の安全のためなら、半島の命はいくらでも切

り捨てられる。大隆起以降…、否、あるいは大隆起が発生する前からそうだった。

「ハァ…、フゥ…!…ックハ!ゼヘッ…!」

 濃い霧にむせ返る。ステージ8の獣人ですら不快に感じる、観測史上最悪の濃度の霧。ジオフロントの最も濃いエリアに匹敵

するそれを、適性が無い者が吸えば秒単位で死に至り、適性があっても一時に吸えば肉体の激変で命はない。たった一吸いで致

死量となる猛毒…、それが、半島の大部分で壁を越えてしまっている。

 俵一家やその傘下が関係する湯宿、旅館などの店は、いざという時の為に流出霧に対する備えも万全で、外気を遮断した状態

で数ヶ月の立てこもりもできる。潜霧組合などが有事に備えて建造していたシェルターや、地下モール内の工房などの関係機関

も、ある程度の籠城ができるよう設計段階で備えてある。

 だが、それらだけで住民の全てはかくまいきれない。

 警報発令から霧が溢れ出るまでに、いち早く本土側へ向かえた者は幸運だった。だが伊豆半島から本土へ出るには検疫を抜け

る必要がある。その検疫ゲートが渋滞し、不幸にも出遅れた者は霧に飲まれた。

 警報を甘く見た者達。

 老いた親を実家へ迎えに行った子。

 子供を保育所や学校へ迎えに行った親。

 呼びかけや避難指示を最後まで行なっていた現場監督者や、各企業会社団体の責任者や担当者。

 彼らを等しく飲み込んで、霧は、街を一色に染め上げた。もう二日になるのに、湿度のせいで溢れ出た血も生乾きのまま腐敗

が始まり、甘苦くて、粘膜に痒みを覚える異臭が、鼻孔と喉を焼く。

 吐き気をもよおす白の中、侵された土肥の街からは生活音が消え、潮騒だけが、悼むように響いている。

 俵一家や土肥の潜霧団は、大穴内、あるいは破れた長城、もしくは危険生物が侵入してしまった市街地で、それぞれ対処活動

を行なっている。本来狸は大親分の傍らでサポートを行なうべき役目を担っていた。
だが、長所である目をやられ、負傷した自

分はもう大親分の役に立てない。狸はそう自分に言い聞かせ、治療を受けていたベースから抜け出した。立場上まずい事は判っ

ていながら、どうしても確認したい事があった。

「ハァ…、ゼハ、ハァ…!」

 かつて暮らしていたアパートの近くでも、無惨な肉塊となった人々が点々と、物のように転がっている。

 狸が見知った顔も中にはあった。ちょくちょく利用したコンビニのレジにも、真っ赤な頭陀袋のように変形してもたれかかる

店員が見えた。いつも暇そうにしていた釣具屋はドアが開いたままで、中にひとの気配は無い。ただ、出入り口に向かって奥か

ら流れた生乾きの血の川が、店内の様子を物語る。

 脚を引き摺り、息を切らせ、狸はやがて、ある民宿の裏手に立ち…、そのまま立ち尽くした。

「………」

 車があった。老人の軽トラックと、奥さんの電気自動車と、家族で出かけるワゴン車と、三台ともあった。サッカーボールが

玄関前に転がっていた。使わない時はいつも玄関にしまってあったボールが、遊ぶ者もなく出しっ放しになっていた。

 足早になって玄関へ近付く。全身からダラダラと不快な脂汗が吹き出して、顎下からポタポタ垂れた。

 インターホンには返事が無かった。

 三度押しても反応が無かった。

 ノックをしても返事は無かった。

 乱暴に叩いても反応が無かった。

 もういいだろうと、ここには居ないと、頭で思うのに立ち去れなかった。

「旦那はん!若旦那!おられます!?ワイです!ヘイジです!奥はん!若奥はん!皆おられまへんか!?タツロウ!」

 居ないなら居ないで良い。むしろ居ないで欲しい。もぬけの空であって欲しい。

 いや、やはりみんな逃げたのだ。家族揃って脱出できたのだ。無事に本土へ向かったのだ。

(そうや…。返事は無いわ。みんな避難したんやから…)

 半笑いを浮かべ、血走った眼でドアを見つめ、そう自分に言い聞かせる狸。

 しかしその後ろには、家族が使っていた車が、三台とも並んでいる。

 震える手でドアノブを掴む。鍵は、かかっていなかった。少しギシギシ音を立てて回るノブを、狸は青褪めて見つめる。そし

てノブは回り切って、ドアはあっさりと開いた。

「…誰か、おられますやろか…?」

 細く開いたドアの隙間から中を覗き、狸は目を見開いた。

 そこに、赤い布に覆われた塊が転がっていた。

 赤いソレは血染めの割烹着。全身至る所から、白い、骨のような牙のような物が不規則に生え、それに貫かれた皮膚と肉が血

を噴出させ、全身がいびつに捩じくれたその肉塊は、もはや男性とも女性ともつかない。

 容姿に生前のおもかげは全く残らず、顔にあたる部分は縦一文字に開いたおぞましい亀裂で半ばまで割れている。それが口の

出来損ない…顔面が左右に開く格好で口が形成され直した結果である事を、こういった死体を見慣れた狸は察する。

「…若奥はん…」

 狸の喉から掠れ声が漏れた。ボコボコと気泡のような盛り上がりで変形し、膨れ上がった、元は手だったと思しき部位に、見

慣れた結婚指輪がキツく食い込んで残っている。銀色のソレは夫妻の、妻の方の指輪だった。

「誰か生きてへん!?誰か!だれっ…ゲェホゲホッ!」

 外と変わらない濃度の霧に満ちた屋内に、咳き込みながら呼びかけ、よろめきながら玄関に踏み込み、リビングに入った狸は、

窓の際で折り重なっている、イモムシのような形状になった二つの肉塊を見つけた。赤黒い塊から視線を巡らせ、二階に通じる

階段がある廊下側へ進む。

 何かを引き摺ったような血の筋が、床にベッタリと残っている。それに誘われるように狸は足を進める。

 階段には、上から流れて生乾きになった血が、チョコレートがけのようにドロリと溜まっていた。

「…えへん…。…りえ……。りえ…ん…」

 ブツブツと、我知らず狸は呟いていた。

「ありえへん…。ありえへん…。こんなん…、ありえへん…」

 二階の子供部屋の前で、また赤黒い塊が横たわっていた。

「若…旦那…?」

 崩れ行く体で、それでも何とかドアを閉めたのだろうソレの、伸ばした手の先には、妻とペアのリングが肉に食い込んで埋も

れながら光っていた。

 耳障りな音がする。ヒュウヒュウなるほどの過呼吸で、自分の喉が音を立てているのだと、狸は気付けない。

 ゼリーのような血糊で床に貼り付いていた肉塊を、そっと丁寧にずらす。

 塞がれていた子供部屋の、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと引き開ける。

「ああ…」

 いくらしてもしたりない感謝。いつか報いようと常々思ってきた。

「あああああっ…」

 なのに…。

「ああああああああああああああああああああああっ!!!」

 絶叫が、霧に満ちた民宿を震わせた。

 

 

 

 役立たずや。

 ワイは役立たずや。

 肝心な時に間に合わへん、普通に下らん役立たずや。

 

 

 

(子供はな、護らなあかん)

 赤く発光する単眼を睨みつけ、床を蹴った狸の左手が、ドスを強く握り締める。

 ザシッと摩擦音が耳元で鳴り、頬を掠めて機械人形の右手が行き過ぎた。

 常人の反応速度を超える、予備動作の無い機械人形の突きを掻い潜り、狸は体を預けるように体当たりした。

 最速時は音速を超える動作を行なう機械人形。普通ならば反応すらできないその挙動を、狸は引き延ばされたような時間感覚

の中で把握している。

 むず痒いほどの血流増加と鼓動の加速。瞬間的な感覚の鋭敏化と反応速度の上昇。その一瞬だけ、ヘイジの感覚は機械人形の

電気反応に比肩するレベルまで跳ね上がる。

 それは霧の恩寵。霧に抗い足掻く者の、反逆の狼煙。

 腰溜めにしたドスの切っ先が、機械人形の胴体…球体関節と装甲の隙間に突き立てられ、グリッと捻り込まれて抉る。

 当然だが機械人形に痛覚は無い。負った損傷が即座に行動不能に陥るほどでなければ、行動は続行される。左手が手首から先

をドリルのように回転させ、ヘイジの側頭部を掘り返さんと、フック気味に繰り出された。

 が、狸はその丸く肥え太った体躯に見合わない機敏さで身を屈めつつ、鋭く体を捻って低い姿勢で蹴りを放った。突き刺した

まま手放した、ドスの柄を靴底で踏むように。

 ガキンと音を立てて、より深く刺さったドスは刃部分を残して折れたが、機械人形は流石に動作不調をきたしてガクガクッと

痙攣しながら後ろによろける。そこへ…。

「釣銭はいらんで!」

 腰から取った潜霧作業具…トーチを握った狸の親指が、ハンディドリルにも似た形状のグリップに設けたスイッチを下げる。

 それはヘイジが施した改造に伴って設置したセーフティーレバー。バッテリーの出力制限が解除され、オーバーフローした電

力が、トーチのバーナーを直剣並みの長さまで伸長させる。

「遠慮せんと、取っときやぁっ!」

 プラズマ化して空気を焼き、反応したイオンと共に太陽光のような強烈な発光を見せるそれは、まるでプラズマで形成された

光の直剣。たった一秒足らずでバッテリーが焼き切れ、一度ごとに使い潰してしまうが、機械人形の真珠銀製の装甲すら融解さ

せ、内部機構に深刻な熱損傷を与える、ヘイジの切り札。

 下から逆袈裟に振るわれたプラズマブレードが、機械人形の胴を薙いだ。プラズマジェットの奔流が装甲を溶かしながら吹き

飛ばし、融解した金属の飛沫が火花となって激しく飛び散る。

 が…。

(しくじった!)

 狸は目を見開く。

 斬り付けが浅い。安全に金を稼ぐことを優先し続けた十年間で、体がなまっていた。数年ごしの対機械人形戦で、勘が鈍って

いた。
胸部装甲表面を浅く溶かされ、顔面を覆う半透明のカバーも半分焼け落ちているが、機械人形はまだ、致命的な損傷を与

えられていない。

(予備バッテリー!装着と追撃、間に合うか!?)

 グリップ操作で拳銃のマガジンを思わせるバッテリーをリリース、左手で腰後ろのポーチのフックを解除、替えのバッテリー

を取り出して装着するまで1.5秒。体勢を立て直される可能性が高いと踏んだ狸は…。

(何でや?)

 手を腰の後ろに回しながら、踏ん張って体勢を戻しにかかる機械人形の顔を見つめる。

(おかしいやろ?)

 首が巡っている。単眼が自分から逸れている。その先に居るのは…。

(何でそっち見るんや!?)

 ジャッと音を立てて人形が跳んだ。その先には、ヘイジが下がらせたタケミが居る。

「あかん!」

 ヘイジが焦りの余り裏返った声を発した。それに重なって金属音が響く。

「くっ!」

 タケミは何とか反応して黒刀を振るい、バネ仕掛けのような唐突さで跳んできた人形の腕を弾いてやり過ごしたが、

(目が…眩んで…!)

 不幸にも、ヘイジのプラズマブレードの閃光に目をやられて、相手をしっかり視認できない。シルエットへの反射的対応で腕

を弾きのけたに過ぎない有様である。暗い室内でさえなければ問題なかったのだが、場所が悪かった。

 人形が腕を振り上げる。ジャコンと五本の指が伸び、熊手のように広がっている。しっかり視認できていないタケミは、単な

る振り降ろしと考えた。横に半歩、それで回避して反撃を…と。そんな事をしても広がった指の範囲に捕らえられ、音速に近い

それに体を寸断されてしまう事に気付けない。

「こんのっ!」

 そこへ介入したのはヘイジ。バッテリー交換を瞬時に終えたものの、角度と位置が悪い。ここでプラズマの刃を出して機械人

形に斬り付けたら飛び散った火花をタケミが浴び、スーツに穴があきかねない。重傷を負わなくとも「人間ならば霧が致命的」。

 タケミを巻き添えにできなかったヘイジは、機械人形に後ろから組み付く。そのおかげでバランスが狂い、機械人形の拡大し

た五指はタケミに届かず空を掻いた。

「ワイが片付ける!部屋の外に逃げとくんや!…のわっ!」

 人形が腰から上を回転させ、振りほどかれたヘイジが床に転がる。再び腕を振るった機械人形に、タケミは対処し損ねた。

 バキャンッと音が鳴った。側頭部に腕が当たったタケミのヘルメットが割れ…。

「あ…」

 その光景を目の当たりにし、狸の口から声が漏れた。

(役立たずや…)

 砕けた狼メットの破片が飛び散る。

(ワイは役立たずや…)

 脳裏に蘇るのは十年前の惨劇。

(肝心な時に間に合わへん、普通に下らん役立たずや…)

 横向きに倒れ込んでゆくタケミの動きが、突然スローになった。

(まだや!)

 再度、鼓動が加速し血流が増加、神経が鋭敏化する。

 大穴の中で長時間過ごし、霧中環境に適応した者は、瞬間的な感覚の加速や鋭敏化、自律神経や不随意筋など、本来意図して

動かせない器官や組織のコントロールまで可能になる。

 人間、獣人、因子汚染のステージを問わず、繰り返された潜霧の末に体に染みつくそれは、極限環境に対する生命の反逆。擦

り潰されてなるものかと、命が上げる逆襲の狼煙。

 潜霧士は、死に抗い霧に挑むために与えられたようなこの力を、「ダイバーズハイ」と呼ぶ。

 ダイバーズハイを再発現させ、刹那の間を一瞬に、一瞬の間を一秒に、体感時間が引き延ばされた狸の手は、トーチのセーフ

ティを解除して投擲する。

 プラズマの刃を伸ばしたトーチは、回転しながら機械人形の背中を垂直に撫で斬り、動力源と制御コアを断ち、頭部を真っ二

つにする。

 その間にも、狸は四つん這いの姿勢から疾走した。倒す事よりも、敵の確認よりも、ただ一つの命を繋ぐ事を優先した。

 倒れたタケミの体がまだ弾んでいるその一瞬の内に、ポーチから簡易マスクを掴み出しつつ接近、一呼吸でも霧を吸わせまい

と少年の元にザシッと駆け付ける。

「息止めとくんやで!」

 少しでも肺の中に霧が残らないよう、タケミの胸にマスクを掴んだ手を押し当てて圧迫し、息を吐き出させながら首の後ろに

手を入れ、上体を起こさせ…。

「!?」

 硬直したヘイジの背後で、機能停止した機械人形が、けたたましい音を立てて倒れ込む。

 金属音がこだまする残響の中、大きく見開かれた狸の目に映るのは、前面から左側面にかけて派手に割れたヘルメットの中身。

(犬…いや、狼…?…獣人…やて?)

 割れた狼型マスクの中から現れた少年の顔は、記憶にある人間の物ではなく、ヘルメットを鋳型にしてそのまま中身が出て来

たような、黒い、狼の顔だった。

「う…」

 タケミが呻く。脳震盪を起こして視線が定まっていないが、とりあえず無事だと認識した狸だったが、

(そういう異能なんやろか?人間に化ける異能?ワイみたいな幻覚の異能とか?)

 疑問が頭を駆け巡る。推論が空回りし、何となくだがそのどれもが違うような気がする。しかし、それでも…。

(生きとる…。無事や…。大事なんはそこや。それ以外のモンはとりあえず、一旦ええわ…)

 今度は間に合った。今度こそ間に合った。泣きたくなって、目を回している少年狼を、起こしたその体勢で抱き締める。

(おおきに…。生きとってくれて…)

 少しだけ、ほんの少しだけ、取り返せるはずもない後悔が、埋め合わせられたような気がした。

 そしてタケミは…。

(当たった…?頭グルグルする…。状況は?こめかみ痛い…。でもちょっと、何だろう、柔らかい?ズキズキがおさまって…)

 意識がはっきりして視界が明瞭になって来ると、助け起こされた自分の顔を、狸が覗き込んでいる事に気付く。

「ヘイジさん…。あ!き、機械人形は!?」

 慌てて床に手をつき、身を起こしたタケミは、ヘイジの後ろでうつ伏せに倒れ、胸部から頭頂部までを裂かれて停止している

機械人形を見つける。

「骨の折れる相手やったわ~。けどもう、これで心配要らんで」

 狸に笑いかけられ、ホッとしたタケミは、

(あれ?バイザーの表示が出てない…)

 ビクンと身を跳ねさせる。たった今気が付いた。メットが割れて、人狼化した顔を晒している事に。

「あ、あ、あ…!あのこれはっ!」

 両手で顔を押さえたタケミは、

「ええて。ワイも手の内明かすと弱点になる異能やさかい、聞かれて困る気持ちも判るわ。そういう異能なんやろうけど、細か

い事まで詮索はせぇへん」

 手を上げて遮った狸が「よっこいしょ」と腰を上げ、追及の姿勢を見せなかった事で、拍子抜けした顔できょとんとする。

「さて、まず外に出よか。こう薄暗いとかすり傷なんかの確認もし辛いし、辛気臭いし、ええことないわ」

「は、はい…」

 狼になっているのを追及されなかった事を安堵しつつも、これでいいのかな?といううしろめたい思いで胸が重苦しくなった

タケミは、トランクの機械人形が停止している事を再確認し、改めて悪寒を覚えた。

 見た目が酷いというだけではない。これを造った者の意図が読めない。理解不能な悪意を前にして抱いた物は、少年が他者に

対して抱く「怖い」という感情とはまた別種の、重たく冷たい恐怖であった。

(何のために…。どうしてこんな事を…)

 怯えたように被毛を逆立てて輪郭を丸くしている少年。あまり子供に見せるべき光景では無いなと、再び促そうとした狸は…。

(は?)

 トーチを拾って部屋を出ようと視線を巡らせ、部屋の入り口を通過しようとした目を、そこで止めた。

 白い、人型のモノがそこに立っていた。扉が倒れてポッカリあいた出入り口の、縁に手をかけて中を覗き込んで。

(もう一体…)

 ヘイジが声を発する前に、機械人形の単眼が光る。その顔は位置が近い狸ではなく、タケミの方を向いている。

(何でまたワイやなくて…)

 先程、機械人形が交戦中の自分ではなく、タケミの方へと優先的に向かったのが何故だったのか、ヘイジは理解した。

(そういう事なんか…!)

 タケミを優先標的に設定したのではない。たまたまタケミがその進路に居て、障害と認識されただけ。機械人形は最初から最

後まで…。

(トランクの残骸を視認して、状態確認を優先しとったんや!)

 予備動作も無く機械人形が動く。背を向けているタケミは気付いていない。ヘイジは…。

「させへんでぇ!」

 躊躇いなく跳び出していた。機械人形とタケミの間へ割り込むように。

 肩から体当たりに行ったヘイジが機械人形に衝突し、進路を僅かに変え、そのまま、持って行かれた。

 タケミのすぐ横で、後ろから吹っ飛んできた何かが壁に当たり、突き破る。

「え!?」

 反応した少年の視界の隅を一塊になって通過したのは、機械人形と、取っ組み合う狸。

 壁を突き破り屋外に出て、地上三階の空中で、落下しながらもヘイジは機械人形の首を右手で掴む。

 トーチも無い。ドスも折れた。狸はそれでも機械人形の首に喉輪の格好で手をかけている。その左手には、ポーチから取り出

した缶のような物体…先程襲撃してきた男達の荷物から取り上げた、指向性爆弾が握られている。

(コイツだけでええ!コイツだけで!あとはええから…!)

 力と祈りを手にこめる。この一体だけは仕留めさせてくれと。今度こそ目の前の命を救わせてくれと。

 機械人形の首を捕らえ、三階の高さからの落下を加え、地面に叩きつけつつ爆破しての破壊を試みるヘイジだったが、機械人

形は自分の首に手をかけるヘイジの手首を握ると、その肘へ、直角に曲げた左手を外側から打ち込んだ。

 ボギッ。

「!!!」

 狸の目に、関節が逆に曲がって人形の首から離れる、自分の利き腕が映り込む。

(腕の…一本や二本!どうって事あらへんわ!)

 爆弾を手放し、左手で人形の肩を掴む。逃したらすぐ少年の所へ跳んでゆくだろう人形を、開放する事はできない。

 何とか落下の下敷きにしようと組み付く狸の左脇腹に、腹部から下の下半身を180度旋回させた機械人形の右脚が、人体で

はありえない角度と速度でめり込んだ。

「~っ…!」

 大口を開けても声すら出ない、腹が破けたかと思うほどの衝撃と苦痛。胴体の三分の一ほどの深さまでめり込むローリングソ

バットを食らわされ、

(まだ…や…!)

 それでもヘイジは吹き飛ばされず、苦痛を堪えて意識を繋ぎ、掴む腕の力を維持し、機械人形を離さない。

 その執念が、地上までの距離を埋めきってのけた。

 ドォンと地面を震わせる音と衝撃。罅割れだらけの駐車場で、砕けたアスファルトの破片が飛び散る。

「ヘイジさん!」

 壁の穴から見下ろしたタケミが見たのは、折り重なる狸の体を押し退け、立ち上がる機械人形の姿。

 ヘイジによって叩きつけられたのか、半透明なフェイスカバーに縦断する亀裂が走っているが、動作そのものには支障がない

ようである。

 一方、押し退けられて転がった狸は、タケミの方に背を向ける格好で横臥したまま、ぴくりとも動かない。

「あ…、あっ…!」

 泣きそうな声を漏らす黒狼の、不安げに胸元へ引き上げた手に、コツンと軽く何かが当たった。

 それは、潜霧用フルフェイスメットの破片。紐を通して認識票と共に首にかけている、あの日誓った証の欠片。

(ミキさんに誓ったんだ…)

 軽く握り、離した左手を、右手で握った刀の柄に這わせる。自分が伸ばした手をすり抜けるように、通り過ぎて零れてしまっ

た命を思う。

(もう、救える命を取りこぼさない…)

 黒狼の顔から表情が消え、瞳から感情が消える。

 即座に血流が増し、感覚が鋭敏化し、力が四肢の末端まで行き渡る。

 そして、壁の穴から床を蹴り、黒狼は眼下の機械人形へと飛びかかった。まるで、鳥が落とす影のように、素早く、避け難い

速度で。

 交錯は一瞬。甲高い金属音と共に火花が霧に散って、地面を滑りながら制動をかける黒狼の振り向く視線と、上げた腕で刀を

防いだ機械人形のメインセンサーが交差した。

 落下からの滑走、そして制動を経て、まるで彼の保護者の動きを再現するように、黒狼は爆発的な速度で機械人形に突撃する。

その後方で、蹴られた地面が抉れて土砂を噴き上げ、道を譲り損ねた霧は通過後に荒れ狂う。

 二度目の金属音。接近の勢いそのままに胴を薙ぐ斬り払いを仕掛けた黒狼と、それを防いでドリルのように回転させた手首で

頭部を狙った機械人形は、すれ違って5メートルほど間を空ける。両者の中間で散った火花が、散らされた黒毛が、思い出した

ように一拍置いて荒れた霧の渦に飲まれる。

 瞬間的な発現に留まる恩恵、ダイバーズハイ。ほんの一瞬、生死を分かつ間隙に、死に抗う者の背を押す反逆の狼煙。

 しかしタケミは、二つの意味でその例外。

 余計なバイアスとなる感情を完全に排した精神状態…ユージンも認め、ユージンが望まない、「類い稀な殺戮者の素質」が発

露した状態に限り、彼のダイバーズハイは数十秒間途切れずに続く。

 つまりこの黒狼は、獣人の基準から見ても異常な身体性能と反応速度を、一団を、群れを、見える範囲の敵対者を、殺し尽く

すに充分な時間、持続可能なのである。

 そして、黒狼は「最初から」これができた。物心つく頃には「時々訪れる妙な感覚」として自覚していた。何年も霧に挑み、

感覚と体が順応し、やっと身につくはずのダイバーズハイを、人狼化状態であれば最初から扱えた。

 人形が駆ける。その挙動の把握が困難な動作と速度に対し、両手で構えた黒刀をゆらりと水平に寝かせた黒狼が、迎え撃つよ

うに高速で肉薄する。

 衝突する黒い刃と白い腕。甲高い金属音に続き、弾かれた刀を振り戻して首筋を狙う黒狼。瞬きすらしなくなった感情の無い

双眸に、刃に角度を合わせた左腕で受け止めた機械人形の、右手が指先を揃えて自分に向く様が映り込む。

 残像すら伴って沈み込んだ黒狼の頭部を掠め、手首を伸長させて槍のように突き出された機械人形の右手が霧を穿つ。

 滑るような足さばきで半歩後退しつつ、戻す刀を手首で返し、コンパクトな旋回を絡ませて頭上で回し、逆方向から首筋へ打

ち込む黒狼。伸ばした腕の上を滑走して首を取りに来るようなそれを、胴を背中側に90度曲げて仰け反り、回避する機械人形。

 その人体ではありえない挙動から、寸前まで防御に使用していた左腕が、肘関節で高速回転、ネックが不規則に動くプロペラ

のように振り回されるそれを、戻した刀で数度打ち込み、正確に撃ち返す黒狼。

 連続する激突音と火花が霧に散って、接触しては離れ、離脱しては激突し、繰り返し交錯する二つの影。本来は足止めなどで

機動性を殺し、その間に弱い部位から破壊するのが対機械人形戦のセオリーなのだが、単身の黒狼は真っ向からの斬り合い以外

の手段がない。名刀中の名刀である黒夜叉でも、真珠銀の装甲に浅い刻み目をつけはするが、切断には至らない。

 焦る様子も見せず、冷静に、決定打に欠ける事を自覚する黒狼は、

「………」

 間合いを取って機械人形と相対した数度目の対峙で、ある事を思い出した。

 かつて不破御影は、この黒夜叉で機械人形を斬った。

 金熊は幾度も見たその様子を、「内部構造ごと綺麗に一刀両断」と評していた。

 この黒夜叉は不朽の業物。年月を経て劣化する事はない。

 では、何故?

 何故、自分には斬れない?

 接近する機械人形に応じ、自らも飛び込んでゆきながら、黒狼は先日、少年が刀利きと交わした会話を思い起こした。

 

「何も難しい理屈ではないのです。これからジブンが告げる事は、あくまでも感覚的な物として、頭の片隅で押さえてだけおい

て頂ければ」

 試し場の端、休憩用ベンチに並んで座り、茶の用意をしながら着流し姿の大柄な河馬…ジュウゾウは、アドバイスを乞うタケ

ミにそう前置きをした。

「御身は、料理などなさいますか?包丁を握って」

「は、はい、一応…。美味しいかどうかは別として、少しは…」

 何事にも自信が持てないので謙遜する少年に、河馬は「それならば話は早い」と頷く。

「大根を切る時と、肉を切る時、芋の皮を剥く時、物により切り方…力の掛け方や刃の角度は違います。より適した切り方をす

るように持ち替えるなどして」

「そう…ですね?」

 考えながら、タケミは何かに気付き、「え?いや、でも…」と困惑した。これにジュウゾウは「いいえ」と目を細めて首を振

る。自分が言いたかった事を全て語り終える前に、少年が先回りして理解したと察して。

「理屈は何も違わないのです。難度は勿論異なりますが、工夫の仕方は同じ。「斬るべき物を斬るように」という点において、

包丁や刀、それ以外の刃物も、心の置き方と扱い方は共通します。…どうぞ」

 湯飲みを手渡し、河馬は言う。

「しかし、努々お忘れなく。ジブンの試刀術はあくまでも物体を斬ると共に、品定めをするための物。御身が求める物は、霧の

中において人外…そして時には「それ以外」と相争うための技…」

 吹いて茶を冷ます少年に、河馬は穏やかに、諭すように忠告した。

「刃を傷めず綺麗に斬る事を追求するジブンの技を、そのまま御身の物とは成されるな。相手は動き、御身を襲い、傷つけ、殺

そうとする敵です。黙って斬られてくれる物ではありますまい。御身は御身の必要とする中に、ジブンが話せた中から役立つ物

だけを取り入れれば宜しいのです。…そう、例えば今お話しした包丁の扱いなどは、御身の技を崩す事無く「刃の理」の一つと

して、すぐにも役立てられましょう」

 

「………」

 二合打ち合い、スイングしてのフックを潜り、三合目の火花を挟んで跳び退いた黒狼は、少年が実演した剣術に対しての、河

馬の感想を思い出す。

 霧中戦闘での合理性を認め、理解しながら、あの刀利きはこうも言っていて…。

 

「恐らくですが、御身に見せて頂いた今の一太刀…」

 大きく旋回しながら切り捨てて、上下に分断した藁人形を、肥えた体を窮屈そうに屈めて検分した河馬は言った。

「牽制の意味もありましょう。大きく振るう事で、混戦における制空権…間合いの支配域を勝ち取る意味もあるのでしょう。ま

た、四方から殺到された際に、危険生物を纏めて斬り払う事も視野に入っている物と見受けますが…」

 河馬は次の藁人形と少年を正対させ、その背後から密着して寄り添い、少年の手の上に自分の手を被せるように添えて、刀の

握りを少し変えさせた。体格差があり過ぎて、少年は後ろから河馬に包み込まれるような格好になってしまう。

「土肥の刀匠が手掛けた刀は、その刃でこそぎ取るようにして斬ります。鋸の刃のように、滑走させて切断します。その切断力

を高めるには、刀の刃を的確な角度で当てる事と、接触面を素早く滑走させる事が肝要ですが…」

 大回転しながら対象を切断、斬り抜けるタケミの剣技に、ジュウゾウは少年も知らなかった、もう一つの側面が宿っている事

を指摘した。

「これが正解かは判りませんが、物は試しとも申します。ジブンが思う形で、一太刀試して頂きたく…」

 

「…何も難しい理屈ではない…」

 足を止めて人形と向き合い、黒狼が呟く。

「斬るべき物を斬るように…」

 河馬が告げた言葉を反芻して。

 取った構えは、少年がよく行なう、大回転を伴う斬り抜け薙ぎ払いのそれ。ただし、柄を握る両手はやや離れ、普段より握り

を広く取っている。

 機械人形が迫る。一瞬で間合いが狭まる。迎え撃つ格好で相対距離を自ら潰し、黒狼は腰高で水平に寝せた黒刀を、弾丸にも

迫る速度の機械人形の腕…指を揃えて射出形態に移行したソレに、「根元」で合わせた。

 人間でいう手首の位置に、鍔に近い位置で刃を当て、その表面を滑らせるように、一定の接触点を保ったまま「引き斬る」。

根元から切っ先まで、滑らせる刃の軌跡を僅かにもずらさず、真一文字に。

 カッ…と、軽い音がした。陶器が割れるような軽やかな音に続いて、板付きのカマボコのような形状の何かが宙を舞う。

 機械人形の前腕が、手首から入って肘の球体関節まで、滑らかな断面を晒してスッパリと切断されていた。

 斬撃の勢いのまま一回転した黒狼が振り切った黒夜叉の刃は、チリチリッと細かなオレンジ色の光を散らしている。単分子の

厚みしかない鋭い刃の、分子サイズの鋸刃が真珠銀も内部フレームも纏めて分子一つ分の厚みでこそぎ取り、それが摩擦熱で赤

熱化していた。

 ジュウゾウ曰く、大回転を伴うタケミの剣術は、複数の危険生物との立ち回りを想定した動きである事は間違いない。だが、

おそらく用途はそれ一つではなく、日本刀の特色を活かす側面も併せ持っているはずだと河馬は述べた。その仮定による斬り方

がこれである。

 摩擦による切断を旨とする日本刀だが、刃の滑走距離…つまり切断のための運動を加えられる長さは刀身で決まっている。そ

の限定された距離と、大回転に伴う加速を組み合わせ、斬り難い物すら容易に斬る斬術…、それが回転切断というあの形が持つ、

もう一つの側面なのではないか?

 そのジュウゾウの仮定は、結論から言えば正解だった。黒狼は河馬の理論を実践し、刃の根元から刃先までを押し付けるよう

にして、回転の加速まで加えて「鋸を引くように」切断してのけた。

 しかし、これでまだ完成形ではない。タケミの父、不破御影は人間の身で、機械人形を真っ二つに両断してのけたという。技

巧の極みはまだまだ先の彼方にあり、追いつけていないと黒狼は実感する。

「…?」

 その視界に、ふっと一瞬だけ、重なる景色があった。

 薄く視野に重なって見えるのは、霧の中で刀を振り切り、静止している黒狼と、片腕を激しく損傷しながらも、制動をかけて

反転しようとしている機械人形。

 背後から狙われている事に気付き、間一髪で跳んだ黒狼の肩口を掠め、切り離して射出された機械人形の指が、ライフル弾の

如くスーツを掠めて穿ち、黒毛を散らす。

 回避に成功した黒狼が、今見えた景色は何だったのかと疑問を覚える前に、再び半透明な景色が視界に割り込む。

 機械人形と正対している黒狼の視界に重なるのは、霧の中で、背を向けて立つ機械人形を中心に置いた視野。それは機械人形

越しに自分の姿も捉えていたが、不意に下向きに動き、レバーを握る何者かの手を映す。

 理解と反応は稲妻の速さ。即座にダッシュした黒狼は、片腕を損傷し、もう片腕からは指が無くなっている機械人形に肉薄、

腕で防がれはしたが一刀叩き込み、交戦と見せかけて五秒打ち合い、唐突に右方向へ横っ飛び。

 機械人形は金属音の残響の中、黒狼をメインセンサーで追い…。

 ガゴォンと、激しい音と地面を揺らす震動が走った。

 機械人形の背中に柱のような太い金属塊が降り下ろされ、地面にめり込ませ、霧を吹き散らすほどの砂埃を上げる。

 それは作業機の脚。最新モデルとは程遠い、旧式であるが故の武骨で重々しく頑丈な作業肢が、機械人形を叩き潰している。

その作業機の上で…。

「こいつで…、しまいやっ…!」

 大量吐血で胸元どころか腹まで真っ赤に染め、目を血走らせた狸が、握ったレバーを力いっぱい倒す。

 狸が乗る作業機の六脚は、先端部がローラー、クロー、キャタピラの選択式切り替えユニットになっており、地面の状況に応

じて使い分けられている。機械人形を地面に埋め込んで押さえつける脚はキャタピラになっているが、その外側で三本ある歩行

用クローが下向きになり、地面に食い込みながら人形を掴み、捕らえた状態でキャタピラが全速回転を始めた。

 ガギャギャギャギャギャッと耳をつんざくような激しい音と共に、強度で劣るキャタピラが欠け飛びながら火花を上げ、機械

人形の背中側を擦りおろすように削ってゆく。

 もがく機械人形が首を180度回転させて振り向き、背中側に両腕を曲げ、作業機の脚を挟み込んで音波破砕攻撃を仕掛ける。

鐘を叩いたような音と共に、武骨な作業肢がひしゃげて折れ曲がり、関節部からもげたが…。

「まだ…まだああああああああああああぁっ!」

 血を吐きながら叫んだ狸が、再度レバーを倒す。続けざまに、破壊された脚を押し退けるように入れ替わって二脚目が降り下

ろされ、自壊しながらも機械人形の削れた背中を圧砕し、クロー部分で胸部を貫く。

 同時に、作業機の脚と機械人形の間で、ボパンッと爆発が生じた。

 先程襲撃してきた男達から失敬してきていた、スプレー缶のような指向性爆弾。固着テープで愛機の脚に固定し、とどめの一

発の仕込みをするのも、瀕死の重傷を負った身では困難だったが…。

 ガグンッと身を反らせた機械人形の顔面から、メインセンサーの発光が消えてゆく。最後の一撃は胸部の装甲を貫き、爆破に

よる衝撃がコアを含めて内部を破壊し、完全に機能停止させていた。

 黒狼は、駆動音を低くしながら力尽きたように姿勢を低くする作業機と、沈黙した機械人形、そして座上の狸を見つめ、ふわ

りと体から力を抜いた。その瞳に、瞬きと共に感情の色が戻る。

 同時に、膝がグラっと揺れてタケミは軽くバランスを崩した。人狼化した強靭な肉体でもガタが来るほど、機械人形とのせめ

ぎ合いは堪えた。

「…無事やった?…へへ…、ええ反応やったで…。視界割り込み…ぶっつけやったけど…、上手く行ったわ…」

 作業機の上で、力尽きた狸がシートにドサリと、倒れ込むように座った。

 ヘイジの異能スタンダード・チープは、視覚情報にインタラプトする事で幻覚を見せるという物。その応用により、例えば今

のように、自分が見ている物を味方にも見せるという、多重情報表示及び視界共有も可能。

 かつて土肥の大親分に、自慢の視力で捉えた敵影を共有する事で無敵の砲台を完成させ、精鋭部隊に俯瞰情報を個別に与えて

集団戦を完成させたのが、当時は違う名で呼ばれていたヘイジの異能である。

 かつて与えられた名は「ビヨンド・ビジョンズ」。

 「ビジョン」ではなく「ビジョンズ」になったのは、「霧を越えた先」を「皆で望む」という兄貴分の願いがこめられたから。

 十年前の負傷のせいで、ゴーグルや眼鏡なしには日常生活にも不自由するほど目が弱くなってしまった。今ではもう全盛期ほ

どの使い勝手は無く、もはや誰かと潜る事も無いと、霧を越えた先を目にする資格も無いと、異能を改名してしまったが…。

「ヘイジさん!」

 タケミが疲れた体に鞭うって、停止した作業機を駆け登る。シートにぐったりともたれかかった狸は、弱々しくも満足げな微

笑を浮かべ、ゴポリと血塊を吐き出した。

 右腕は折れ、肋骨が四本やられ、肺に刺さっている。この分だと内臓もどれか破裂したかもなとぼんやり考えながら、ヘイジ

は口を開いた。

「済まんなぁ…。今日はもう…店仕舞いや…。人形が…まだおったら、アカン…。移動せな…」

「は、はい!何処か…何処か安全なところ…」

「……安全な…ところ…。はは…。そんなん…そうそう、あらへんなぁ…。参ったわ…」

 狸はレバーに手を伸ばす。霞む視界の真ん中、タケミの肩越しの前方に、白い人型の影が立っていた。

「とりあえず…離れとき…。おびき寄せられたの、おるから…。遠ざかるのが…先決や…。ワイの、後ろに…全力ダッシュ…。

走れるとこまで…走って…、振り返ったらアカン…。ええな…?」

 この時点でタケミは気付いた。狸の手がレバーの側面でカバーを外し、露出した数字の文字盤に何か入力している事に。

「え…!?」

 焦点が怪しくなっている狸の視線を追い、三体目の人形に気付き、動揺したタケミにヘイジは告げる。

「生きな…あかんで…。若い内に死んだら…あかん…」

 その指が、十年連れ添った愛機に最後の命令を下した。即ち、水素エンジンのオーバーロードによる自爆命令を。

 潜霧作業中の落盤、あるいは地下通路を塞いでの機能停止、そういった事態を打破するために、作業機には自壊機能がついて

いる。時には道を切り拓くために、大穴の中でその火は幾度も上げられてきた。

 最後の命令コードを入力し、狸は血塗れの口元を不敵に歪める。

(ろくな武装もせんと、三体や…。ワイも案外衰えとらんな…。ほな、一緒に逝こか…)

 生き永らえたい理由があった。銭がどうしても欲しかった。だが、この状況ならこういう最期も仕方ないし、そう悪くもない

かなとヘイジは思う。

「さ、行くんや…。できるだけ遠くに…、俵一家に見つけて貰える、位置まで…、走るんや…」

 タケミの肩を押す。が、少年は動かない。その左手が首元で、黒い欠片を強く握っていた。

「嫌です!ヘイジさんも一緒です!」

「…無理やから…。ワイもう、一歩も…動けへん…」

「ならおぶって行きます!連れて帰ります!生きて戻ります!絶対に!」

 眩しいなぁと、狸は目を細める。頑としてきかない少年に、言う事を聞いてくれない少年に、「後生や…、困らせんといてぇ

な…」と苦笑い。

「はよ…行って…。自爆まで…、十秒あらへん…。ワイはもう、間に合わへん…」

「それなら!」

 作業機の上で押し問答する二人を捉え、機械人形が加速する。ここへ呼んだ信号は途絶えているが、見かけた者を駆除しよう

と走る。

 跳躍した機械人形が、その放物線の頂点に差し掛かるタイミングで、タケミはヘイジの両脇に腕を入れて、正面から抱える格

好で、作業機の上から跳んだ。

 ふたりがもつれ合うように落着し、地面を転げて、さきほど砕けて落ちた作業肢の後ろに入った直後、白く火柱が上がった。

激しい放電を伴って水素エンジンが動力機関を巻き込み、座席を吹き飛ばして最後の熱を放出する。

 キュドッ…。

 激しいスパークに続き、作業機のボディが内側から突き破られる格好で垂直に火を噴き、音すら飲まれる衝撃波が周辺へドー

ナツ状に広がった。
作業肢の陰に首尾よく飛び込んだタケミと、引きずり込まれたヘイジの上を駆け抜け、地面を抉り返して爆

風と衝撃波が拡散する。

「!!!!!!!」

 声にならない悲鳴を上げ、なおも抱えた狸を離さず、瓦礫と土砂に全身を叩かれながら、タケミは爆風に抗って身を伏せ続け…。

「…うそ…」

 爆風が収まった後、周囲に充満する粉塵の向こうに、少年は見た。

 狸の上に覆いかぶさって、上体を起こしたタケミの目に映るのは、揺れる炎の向こうに立つシルエット。

 引きつけが足りなかった。爆発の瞬間を察知した機械人形は、上半身をプロペラのように高速旋回させて滞空。爆発の瞬間に

爆心地へ飛び込むタイミングから逃れていた。

 一度吹き飛ばされはしたものの、熱も爆風も致命傷にならず、軽微な損傷で済んだ機械人形が、センサーを乱す熱と音の中で

駆除対象を確認。赤く、その単眼を光らせた。

「ヘイジさん!動けますか!?」

 タケミが呼び掛けるが、ヘイジは気を失いかけて朦朧としている。爆風に揉まれ傷に響いたのか、半開きの口からコポコポと

血泡が零れて来る。もはや少しも動かせる状態ではない。

 自分が何とかしなくてはならない。疲労と恐怖の中、自分を奮い立たせて地面を踏み締め、黒刀を握り締めた少年は…。

「…あ…」

 轟音を聞いて見上げた。

 上がった炎に焦がされる空を、彗星のように尾を引いて何かが駆け抜ける。

 落下を伴う高速接近。察知した機械人形が向きを変え、それを見上げる。

 共有データに合致する個体情報がある。最優先除去対象となっている特定個体の反応と同定できた。

 光の尾を引いて飛来したソレは、地響きを上げて隕石のように着陸し、何十メートルも地面を抉って滑り、やがて停止して…。

 巨躯の表面をスパークが走り、ガツンと、ゴツい拳が二つ、分厚い胸の前で打ち合わされた。

「…雑に行くぜ」

 熱で揺らめく、霧すら吹き飛んだ空気の中に、金色の雷電が降り立った。