第二十一話 「鎧袖一触」
(…ああ…。良かったで…、ホンマ…)
薄れゆく意識の中、眼鏡も飛んでろくに見えていない目で、それでも見間違えようのない男の到着を確認し、瀕死の狸は口の
端を僅かに痙攣させた。
アレに勝てる存在など大穴の中にもそうは居ない。彼がここに居るというただそれだけで、もう少年の安全は保障された。
もはや笑う事もできないが、安堵はした。
タケミは助かる。骨折りはしたが、まあ、損はしなかったかな、と…。
(はぁ…。普通に下らへん人生やったけど…、まぁ、ワイにしてみれば…、まずまずな…、幕切れ…)
暗く閉ざされた視界に、笑顔の少年が見える。
(タツロウ…。ワイ…)
心残りは、やはりあったが。
「ヘイジさん!?」
人狼化したままのタケミは、機械人形と相対する巨体を確認するなり、狸を見下ろした。
「ヘイジさんしっかりして下さい!もう大丈夫…、大丈夫ですから!…ヘイジさん?」
ズシッと、ブーツが地表を踏む。巨躯に電撃を纏い降り立った金熊は、大股に、無造作な足取りで機械人形に迫る。
作業機の自爆でそこらじゅう燃えているが、ユージンに触れる事を恐れるように、炎が外側に棚引いて道をあける。
チリチリと体表を走る放電。ユージンは目線だけでタケミと、彼の傍で倒れている狸を一瞥すると、そのコバルトブルーの瞳
を機械人形に向け直した。
顔の中心のメインセンサーを赤く発光させた機械人形…一つ目小僧は、両手を肘の高さまで上げ、腰を沈める動きすら一瞬に
留め、前傾から即、トップスピードでユージンに迫る。
機械人形の両手は指を揃え、至近距離での射出に備えている。
確実に命中させるべく距離を詰めたそれに対し、迎え撃つように踏み込むユージン。
そこから先は、瞬き程度の短い間の出来事。
金熊が左足を大きく外側に踏み出す。機械人形の目標追尾も振り切る速度で、頭の横を右腕が掠めるほど最小限の動きで潜る。
機械人形の右脇、その下の空間へ、勢いをつけて自らの上体を、背を丸めて屈めながら、投げ込むように力強く踏み込む。単
純な回避ではない。それは攻撃のための動作と一体化した回避行動。
そしてユージンの直角に近い格好まで曲げられた右腕は、その上半身を振る勢いと、体重と、スピードを重ね合わせ、機械人
形の胸装甲に燐光に包まれた拳を叩き込む。
ジョルトブロー。体全部を投げ出すような動作から撃ち込むそれが、機械人形の胸を捉えた。メキリと真珠銀の外装がひしゃ
げ、拳の形にへこむ。
左腕を引き付けて脇を締め、上半身を大きく捩じり、叩き込まれた強烈なブローは、インパクトの一瞬だけ拮抗するように速
度を落としたが、その停滞も一瞬の事。
刹那、ユージンの右肘の後ろで光の粒子が渦巻く。そして着火されたエンジンのように後方へ閃光を噴いた。
それはまるでロケットブースターつきのハンマー。弾丸すら物ともしない機械人形の胸部が拳圧で大きくへこみ、推力を得て
再加速したユージンの右腕が、文字通りそこを殴り「飛ばす」。
フレームが外れコードが千切れ、胸ブロックをそのまま撃ち抜かれる機械人形。遥か向こうに丸ごと飛んでいった胸部ブロッ
クが、地面に当たって跳ね上がり、ガコォンと遠く音を響かせる。
動力部も中枢もまとめて強制パージさせられた機械人形は、即座にあらゆるセンサー類を停止させ、腹部から下、両腕、頭部
が、ガランガコンとバラバラに落下した。悪い冗談の形にアレンジした達磨落としのように。
鎧袖一触。無造作に歩み寄り、殴りつけ、破壊するまで、余人の目には何が起こったか判らないほどの短時間である。
「タケミ!」
右腕を大きく振り抜き、半ば反転する程踏み出して静止したユージンは、破壊した機械人形の大破を見届ける間も惜しんで振
り向き…。
「しょ、所長ぉっ!ヘイジさんが…、あの!お、大親分の知り合いで!ボクを助けてくれたひとっ…!ヘ、ヘイジさんが息っ、
息を、してなっ…!」
ユージンの到着を確認した瞬間から、黒狼の少年は狸の容態を確認していた。が、ヘイジはもう呼吸していない。脈すらも確
認できない。
胸を押して心肺蘇生を試みる少年に代わり、駆け込んだ金熊は狸の肩ベルトを引き千切り、オーバーオールの胸部部分を捲る。
ヘイジが身に付けるオーバーオールの裏地には、安物だが防弾繊維のパットが殆ど隙間なく縫い付けられており、これが救命作
業の邪魔になっている。
「時間がねぇ、雑に蘇生する!根性入れて手伝え!」
「は、はいぃっ!」
ユージンがヘイジの上体を引き起こし、座らせる格好を取らせると、タケミは狸の横について体勢を維持させるように支えた。
金熊は少年を潜霧士として厳しく育てた。早く一人前になれるようにと。探索の仕方、安全の確保、危険生物との戦い方、そ
して、ひとの救い方も。
獲物を殺す事と同じだけ大切な事だと、ユージンはタケミに救命方法を繰り返し念入りに仕込んだ。正統派の基本から、乱暴
な緊急時の措置まで。こっちの方はもう一人前だと、厳しい熊も信頼している。
金熊は狸の背中側で片膝立ちになると、背中側のシャツを引き裂いて背中を晒させ、鋭く目を細めて位置を見定めた。
肋骨の骨折による変形と腫れで、左右のバランスが崩れる程歪んだ狸の背中、その背骨のラインを中心に正確な位置を見出す
と、ユージンは左手の指でスッと宙に円を描く。その指の軌跡の跡、ヘイジの背中から2センチほど離れた空中に、記録用ディ
スクのような薄い燐光の円が生じた。
それは、二つの力場の面で支えられた、極々薄いエネルギーの板。膝立ち姿勢のユージンは、右腕を軽く曲げて脇腹の辺りま
で拳を引くと、ボディブローを放つような姿勢でヘイジの背中…その手前に浮く光の円を打つ。
インパクトの直後にはもう腰まで拳を引く、一瞬だけの鋭く素早い一打で、光の円はパンッと弾けるように拡大し、広がって
薄くなり、消える。
熱崩壊や炸裂を引き起こさないように調整された円が、残したのは衝撃のみ。打ち据えたユージンの拳の延長線上へ、真っす
ぐに、収束する格好で衝撃が突き抜けたのは…。
ドクン…。
「あ!」
狸の上体を脇から支えていたタケミは、腋の下に入れていた手に脈を感じた。沈黙していた腋窩動脈に反応があり…。
「心臓動き出しました!」
「おし!寝かせろ!」
即座に仰向けに寝せたヘイジの、出っ張った腹…その鳩尾のすぐ下辺りに、ユージンは人差し指と中指だけを一関節分起こし
た右手をあてがい、ぐぐっと、力を込めて押し込む。
金熊の大きな右拳が手首まで埋まり、腹を押し込まれた分だけヘイジの胸が上がる。圧のかけかたを調整するように、ユージ
ンが慎重に力をかけ続けると…。
「…えぷっ…」
狸の喉が鳴り、口内からゴポゴポッと血が溢れた。
折れた肋骨が刺さった肺、そのもう片側まで入り込んでいた血を押し出して吐き出させたユージンの頭には、ヘイジの損傷し
た胸部内の図面がほぼ正確に描かれている。一刻を争う状況下、一歩間違えば救うどころかとどめになるほど乱暴だが、しかし
この措置は的確でもある。ダイバーズハイをコントロールできる潜霧士相手ならば。
「ヘイジ!心臓を動かせ!息をしろ!」
エブッ、ゴブッ、と血を吐き出し続ける狸に、ユージンは怒鳴り声で呼びかける。
「意識を途切れさせるんじゃねぇ!血流を把握しろ!出血を制御しろ!」
霧の中で潜霧士が目覚める機能…ダイバーズハイは、不随意筋などの本来自らの意志で動かしていない物を、部分的に操作で
きる。血流を増加させ、脈を速め、体温を上げるそれは、訓練次第で逆の使い方もまた可能。昔のヘイジはできなかったが、今
はそれができるようになっているはずだと、ユージンは確信していた。
「意識を保て!集中して命を繋げ!投げ出して楽になろうなんて思うんじゃねぇぜ、ええ!?」
心臓どころか、主要な臓器全体を無理矢理刺激するマッサージを続けながらユージンがかける、気付けの声は…。
「モンドがここに居たらヌシに何て言う!?」
「………」
狸の耳が震え、薄く目が開いた。
(若頭…)
ぼんやりと戻りかけた意識は、
「っっっ!」
激痛で吹き飛びかけた。かろうじて心臓が脈を打つだけの、ボロ雑巾のような重傷。遠ざかっていた全身の痛みが鮮明になり、
また気絶しかける。が…。
「起きろ!生きろ!意識を繋げ!痛み止めなんぞ使わねぇぜ。激痛で神経の隅々まで覚醒させろ!」
ユージンの叱咤が、飛びかかった意識を引き戻す。
死んだ方がマシ。そんな意識が頭をよぎるほどの苦痛の中、ヘイジは、途切れそうな意識を保ってダイバーズハイを駆使し、
自身の肉体制御を試みる。
出血部位の活動鈍麻。頭が受け入れ難い程の激痛信号のシャットアウト。今まさに浸水して沈没しかけている船舶が必死の延
命措置で抗うように、狸は自分の体を無理矢理保つ。
「タケミ!「栄養剤」使え!腰の右後ろだ!」
「はいっ!」
指示を受けた少年が巨熊の後ろに回り、腰のベルトポーチから薬剤入りの瓶と注射器を取り出す。
「四の五の言ってられる状態じゃねぇ、太腿の静脈に三本全部打て!」
「は、はい!」
ユージンは栄養剤と言うが、実際には心臓や血管に負担がかかる強烈な薬である。安易な使用は推奨されない劇薬だが、生き
るか死ぬかの瀬戸際に、迷えばそれ自体が不正解になりかねない。
数多の生と死を、この霧の中で見つめ続けてきた金熊は、助かるかもしれない命に対してはシビアで容赦がない。死にたいと
本人が願うほどの苦痛の中でも、確実に助からないという状態でさえなければ絶命を許さない。
タケミがヘイジのオーバーオールを切り裂き、太腿を露出させ、位置を正確に見定める。怖がりな少年に、しかし迷いはない。
ユージンが自分を実験台に提供して何度も指導した通り、即座に正確な位置を選んで注射器の針を押し込んだ。
たちまちの内に薬剤が血管内へ放出され、ヘイジの体がガクガクと痙攣する。流し込まれた火のような薬が全身を駆け巡り、
細胞が燃え上がるような耐え難い熱を感じる。
生きようとしていた。ヘイジの体は、細胞は、五体は、まだ生きようとしていた。
「タケミ、ヘイジをおぶれ」
尽くせる手を尽くした末に、狸を包帯と自らの上着で縛るように覆ったユージンは、少年に命じた。
「なるべく揺らすな。慎重に運ぶ事にだけ集中しろ。道中心配する事は何一つねぇぜ。道は、ワシが切り拓く。全部任せてつい
てこい!」
上半身裸になった金熊がキッと見遣り、視界に重ねた脳内の地図は、最短距離で俵一家とその傘下が居るであろう区域へ向か
う直線ルートを描き出す。
危険生物が居ようと、機械人形が居ようと、その道は譲らない。障害は全て打ち砕く。
「頼んだぜ?ソイツはワシの…」
少年に狸を背負わせ、しっかりと括り付け、その進路上の全てを薙ぎ払う覚悟で大股に踏み出したユージンは、
「ワシのダチだ」
「………」
幾度も途絶えそうになる意識の中で、ヘイジは確かにその声を聞いた。
涙が、目尻から静かに零れた。
ガィィンッと音が響いて、白い腕が弾かれて宙に泳ぐ。
機械人形と一対一で向き合い、白兵戦を挑んでいるのは、老いてなお逞しい、180センチ近いツキノワグマ。
左腕を打ち払われた機械人形が、人間ではありえないバランスの取り方で右腕を腰の低さからスイングし、下から抉ろうとし
たが、これも返す刃で叩き落とされた。
年増のツキノワグマ…俵一家の若手指導役ジンキチが握るのは、刃渡り60センチ弱、幅20センチ以上、厚みは3センチに
もなる大鉈。もはや斧のような質量のそれを、ジンキチは機械人形の攻撃に叩きつける格好で迎撃してのける。
速度では機械人形の方が上なのだが、ツキノワグマはまるで相手の行動があらかじめ判っているかのように、先手を取って動
き出し、初動の差で制している。
「手出しすんでねぇぞ!」
後ろに庇った傘下の面々や若手に怒鳴ると、ジンキチは機械人形の左肩に一撃、重い鉈をぶち込んだ。
装甲が一発でひしゃげる強烈なそれが、機械人形のバランスを崩させた所めがけ、立て続けに、今度は首筋へ一発。
首筋から切断されたコード類が露出し、火花を散らしたそこへ、人間で言う鎖骨部分へ叩きつけるように、さらに一発。
小気味良いリスムはまるで木こりの仕事の音のよう。ただしけたたましく、殺意溢れたその三発で、流石に機械人形も立って
いられなくなり、仰向けに転倒した。
その胸部を、ジンキチは太腿の付け根から金属製の義足になっている左脚でガンッと力いっぱい踏みつけた。
機械人形がその足首を掴んで除けようとした瞬間、その足裏がガスンと音を立て、一つ目センサーが明滅し、力を失った両腕
がガランと落ちる。
ジンキチの左脚を補う義足には、足裏にスパイクを撃ち出す機能がついている。これは脚が不自由なツキノワグマを、足場が
悪い環境でサポートするための機能でもあるが、真珠銀すら貫通する合金製のそれを最大威力で撃ち出せば、もはや攻撃用の杭
打ち機。このように機械人形を串刺しにもでき、急所を捉えれば一撃で装甲ごと貫き破壊できる。
粗野で乱暴で、しかし効率的な喧嘩殺法。歳を取ってもなお、その傍から見ると相当バイオレンスな戦いっぷりに衰えは無い。
「よぉし!移動再開!急ぐど!」
号令をかけ、視界が開けた安全な場所へ皆を誘導し始めたジンキチは…。
「む?」
行く手から聞こえたモーター音と、すぐ霧の向こうに浮かび上がった影に気付いて目を細める。
それは、リバーストライク…前輪が二つ、後輪が一つの、機動性を重視した移動用作業運搬機。八台のそれに便乗して現れた
のは、俵一家と同じ仕様の装甲付き衣装…ただし雅な紅の作務衣を身に付けた男達。
先頭のリバーストライクを駆る片目のビーグルの後ろで、ゴールデンレトリーバーが立ち上がり、妙に長い左腕を振った。
「金次郎(きんじろう)!オメェら…!」
予想外の援軍にジンキチが顔を綻ばせる。
「疵物部隊、呼ばれてませんが参上ですよっと」
ツキノワグマの手前で停車したリバーストライクの上で、ドライバーのビーグルのベルトを腰の後ろで掴んでいるのは、ゴー
ルデンレトリーバー。
前腕の半ばから失われている左腕には特製の義手が装着されている。左腕にすっぽり被せられたそれは、刃渡り1メートルに
も及ぶ、出刃包丁のような巨大な刃物。
左腕の肘から先が巨大なブレードと化しているゴールデンレトリーバーは、「酒が抜けた頃合いで幸いだったよトッツァン」
とウインク。
「何の!酔っ払ってだって頼りになっから!」
破顔一笑、ジンキチはかつての同僚の肩をバンと叩く。
駆け付けたのは、ゴールデンレトリーバーを含めて普段は湯屋でサービス業をしている面々…既に大穴から身を引いた元潜霧
士達、俵一家縁のふるつわもの共である。全員が何らかの深手を負い、引退を余儀なくされた身だが、有事の際にはこうして馳
せ参じる。
「足を活かしてフォローに入るのが良いだろう?手が欲しい所は?」
「助かる!近場がらなるったげ掻き集めだが、まだ足んねぇ。合流できてねぇ班がなんぼがある。迎いさ行ってけねぇが?」
「お安い御用。…ところで、ユーさんが先に出たんだけれど、トッツァン会った?」
「熱海の大将が?いや…」
首を振ったジンキチは、大将と言えば…と、思い出して振り返る。
「………うぉいっ!?白いのどごさ行った!?」
やたら目立つ白くて大きな少年の姿が、いつの間にか消えていた。
「要らねぇって言っとるんじゃ」
「霧の中じゃツーマンセル以上が良いって、所長から教わってるっス」
ザッザッザッと足早に進む黒豚に、シロクマがついてゆく。
黒豚はジンキチの命で、まだ連絡が取れていない班…食料や医薬品などの物品を運搬している非戦闘員達の集団が居るエリア
に向かっている。通信を試みながら移動しているが、低い位置で霧が濃く、電波障害でまだ連絡が取れていない。
気が付いたら追いかけてきていたアルを、追い返そうかとも思ったムラマツだったが、ここから単独行動させるくらいなら付
き合わせた方がまだマシかと考え、悪態はついているが帰そうとはしない。
「…戦闘要員、居ないんス?そこ…」
「みんな潜霧士じゃ、戦えねぇなんて事はねぇ。が、武装がろくにねぇ」
まして、運搬サポートの学習として班に組み込まれている、経験が浅い者も居る。機械人形と遭遇した場合、被害が出てしま
う可能性は高い。
「ただ、経験が豊富なのは何人も付いとるんじゃ、補給は生命線じゃからな。そうそう遅れは取らん」
黒豚の言葉で、皆が心配はしていてもそれほど焦った様子を見せていなかった事に納得した。装備が十分でなくとも経験で乗
り切れるので、滅多な事にはならないと信頼しているのである。
「そろそろ、連中が待機しろえう、テントが張られた場所…」
黒豚が言葉を切った。
「あ」
アルが目を丸くした。
霧の中に人影が見える。それが、もう一つ…やや小さめの人影を、首を捕らえる格好で吊り上げており、いきなり地面に叩き
つけた。
高角度喉輪落としで地面に激突させられたのは機械人形。そうして地面に埋め込んだ機械人形に、鋭い角のような小型の槍の
ような、奇妙な形の武器をガヅンと突き立てて胸を串刺しにしたのは…。
「大親分!」
黒豚が走る。アルもそれを追い、走りながら背中の鞘から解き放った鬼包丁を右手で水平に構える。それぞれ武器を抜いて、
駆け込みながら攻撃に参加するつもりだったが、結果から言えば加勢は不用だった。
大猪は機械人形を一体仕留めるなり、飛びかかって来たもう一体を、
「三秒ルール、な」
異能「金剛」を開放して、最小限の動きで超加速しながらすれ違いつつ、腕を掴んだ。そのまま力任せにスイングし、小枝の
ように軽々と頭上に吊り上げて振り回す。
そうして濡れたタオルでも振るように遠心力を加えて腕一本で地面に叩きつけ、さらに背中を踏みつけて、力任せに腕を引っ
こ抜き、これを霧の中に投擲。迫っていた三体目の胴体を、手槍のように放られた機械人形の腕が貫通して破壊する。
片腕をもがれて地面に半分埋まり、ガタガタ痙攣している機械人形の背中を、ゴリッと踏み潰して沈黙させたハヤタは、三秒
経過で異能が切れたタイミングで、畳んでいた大弓を頭上に掲げて展開。
ドシンと地響きを立て、下端を地面に固定する。即座に腰の矢筒から三本、四指の隙間に挟んで抜いた矢を番えるなり、狙い
を定めたのかどうかも判然としない速度で射放つ。矢が飛び去った霧の中で、ガガガンッと音が響き、何かが倒れる金属的な音
がした。
三発三中。霧の中から接近していた機械人形は、三体とも正確に胸甲の中央を射貫かれて機能を停止していた。
「済んだ」
弓を構えた腕から力を抜いたハヤタは、駆け寄った黒豚に短くそう告げると、霧の中に聳える背の低い建物へ顔を向けた。
アルはポカンと口を開けたまま声が出ない。発見から駆け寄るまで五秒ちょっと。その短時間でハヤタは機械人形を一方的に
蹂躙してのけた。一方黒豚は慣れっこのようで、特に驚いた様子も無く、大猪が指さす方向を見ながら「お疲れさんです大親分」
と応じている。
「全員無事だど」
「そりゃあ何よりです。良い撤退判断じゃ。これだけの機械人形が集まって、損害なしとは恐れ入る」
見れば、元は消防隊のポンプ車倉庫だったらしい建物の、ガラスが無くなった二階窓から、中に避難していた輸送隊の面々が、
こちらを見下ろし安堵の表情を浮かべている。
「オラが着いだ時には、輸送隊は中さ避難して気配殺してだ。近ぐにトランクあったが、もう壊したがら安心だべ」
「手際が良いこってす。トッツァンも心配しとったが、これで一安心じゃ。大親分、矢の補給は要りようで?」
「まだ足りでる」
そんな会話を交わす二人の傍で、
(アメージング…!)
アルは目を真ん丸にして呆然としていた。
機械人形の性能は肌で知っている。それを、二体どころではない複数体、同時に相手取って圧倒、短時間で片付けるハヤタの
戦闘能力には、夢でも見ているような気分にさせられた。
武器が優れている。異能が優れている。そんなアドバンテージだけで説明がつく物ではない。鍛え上げた肉体、積み上げた経
験、練り上げた武芸、その極みが武器と異能を支えている。それらを纏め上げて使いこなせるからこそ、鬼神の如き戦いっぷり
を、涼しい顔でやってのける。
(一等潜霧士は、全員バケモノだって言うっスけど…。みんなこういう感じなんスか…!?)
そこまでの状況になった事がないからまだ見ていないが、ユージンも、ダリアも、自分を育ててくれたタケミの祖父も、こう
いうレベルの存在なのかと、シロクマは改めて潜霧の深さを思い知った。
一方、ツキノワグマに頼まれて二手に分かれ、それぞれ援護に向かったリバーストライク部隊は…。
「キンちゃん!救難信号だ!」
ドライバーのビーグルが、索敵モードのゴーグルが信号を捉えてハンドルを切る。
「救難優先で直行するぞ!」
「あいよっ、任せた!」
急な方向転換で片輪を上げながら曲がったリバーストライク四台が、列を崩さず信号へ向かう。そして…。
「熱海の大将だ!」
「は?いやいや、いくら何でも遠くに来すぎでしょうよ。トライクより速いとか、どんだけ飛ばしてるんです?どこまでも生物
離れしてるんだから…」
ゴールデンレトリーバーが苦笑いし、ビーグルの報告通り、霧の向こうに巨体を見つける。
「張り切りっぷりに恐れ入ります。手助けが必要でしょうか?」
救難を求めるとは思えない相手の前にリバーストライクが停まると、ゴールデンレトリーバーは軽い調子で尋ね…。
「ああ、一刻を争う。ここでヌシらと遭えたのは運が良かった」
ニコリともしない金熊が首を巡らせ、トライク部隊は、彼の少し後ろから歩いて来ていた、簡易マスクで口元を覆った人間の
少年に気付き…。
「…まさか、ヘイジ君!?」
ゴールデンレトリーバーが声を上げ、トライクから皆が慌てて降り、狸をおぶっている少年に駆け寄った。その間にも金熊は
ゴールデンレトリーバーに、施した処置の内容と狸の容態を知らせる。
「…だが結局は重傷だ。何とか保たせたが、早く「外」に運び出して治療を受けさせんといかんぜ」
人間の姿に戻って、簡易マスクも装着しているタケミから、リバーストライク部隊は狸を受け取り、搬送用の担架兼寝台に固
定する。
「緊急搬送はこっちで。護衛で二台割きます。責任をもって必ず…」
「頼む」
「ええ、全力を尽くしますとも。本人がどう言おうと、「身内」ですから」
「…タケミ」
ユージンは少年を振り返る。
何か言いかけ、一度口ごもり、ヘイジの安全な搬送準備に忙しいトライク部隊がこちらに注意を払っていない事を確認し…。
「…よくやってくれたぜ…。ヌシは、ワシの自慢だ…!」
「………!」
ユージンは目を細め、口元を二ッと緩めて笑っていた。昔よく見せていた、あの優しい顔で。
大穴の中で褒められた覚えなど殆どない、厳しい所長が、今日は…。
タケミは自然と背筋が伸びた。疲れが吹っ飛ぶ思いだった。褒められて気が緩むどころか、引き締まる思いだった。
「ヌシは十分やった。今日は連中と一緒に、作業機に乗せて貰って引き上げろ。アルにも、引き上げて仕事終いにして良いと伝
えろ。…ワシは大親分とも話がある。すぐには戻れねぇが…、ヌシらは休め。良くやった…!」
褒めたユージンに感極まりながら頷いたタケミは、トライク部隊の方へと背を押された。
「キンジロウ!ウチの若手も一緒に引き上げさせてくれ。帰りの道中で、もうひとりにも伝言頼む、巻き狩り本隊の付近に居る
はずだ」
送り出された少年は、金熊を振り返り…。
「あ、あの…、所長!」
「ん?」
普段の気難しい顔に戻ったユージンは、
「気を付けて…!」
「…おう」
口の端を僅かに上げ、不敵な笑みでタケミに応じた。
そして、ゴールデンレトリーバーが乗るリバーストライクのドライバーを務めている、片脚のビーグルは、移動再開前に、周
辺警戒の為に金熊達が来た方向を双眼鏡で窺い、絶句した。
(何だ、こりゃあ…!)
点々と、煙を上げる何かが転がっている。そのことごとくが一撃破壊で沈黙させられた機械人形。確認できる範囲で五体は下
らない。
接敵するなり瞬殺。ヘイジを背負って歩くタケミの安全を確保してのけたユージンの歩みは、まさに無人の野を往くが如しで
あった。
やがてヘイジとタケミを連れたトライク部隊の三台が折り返し、残りが当初の目的に従って走り去ると…。
「…ふぅ~…」
ポーチから手の平大の扁平な小袋を取り出し、端を犬歯で噛み切って、中身をジュゥッと一気に啜った。
ゼリー飲料のような食感のそれは、ブドウ糖とカロリーの凝縮液のようなもの。ユージンは急行するために異能を使い過ぎ、
ここまでの戦闘でも消耗を重ねたが、タケミの前では弱った姿など見せず、やせ我慢で平静を装っていた。
「まだ届いてるか?「きょうだい」」
無人の霧の中に呼び掛ける。が、何の反応も無い事を確認すると、「そうそう地上まで繋がるモンでもねぇ、か…。タケミと
アルの位置が判ったのは幸運だったぜ」とひとりごち、ユージンは歩き出す。
(仕方ねぇ。情報がねぇなら手あたり次第、片っ端からだ)
殲滅開始。足で稼ぐのは、古い潜霧士である金熊にとって苦ではない。
霧の中で、影が二つ重なっている。
まるで恋人達が抱擁するように、片方がもう片方の胸に身を預ける格好で。
「四体目…」
呟いたのはキジトラ猫。センサーから光を失う機械人形の胸にひたりと寄り添うトラマルの右手は、長ドスを握り、機械人形
の胸甲の鳩尾側から首筋まで、斜めに貫く格好で串刺しにしていた。
機械人形は攻撃を潜られて懐に入られ、たった三秒、たった一突きで破壊されている。
「結構居ますね」
ドスをスッと抜いて、倒れる機械人形から離れたトラマルの耳に、イヤリング型スピーカーがビントロングの声で話しかけた。
『ご苦労さん。そのまま直進でよろしく』
「もしかして、こっちは一番遭遇率高そうなルートですか?」
『そうだよ。不満?』
「いいえ、好都合です。私は一番働かなくちゃいけませんから」
『遅参の埋め合わせって事なら、全員で連帯責任だけど?』
「長尾(ながお)さん…。そういう気持ちは有り難いですけど…」
『まぁそっちじゃない理由も判るから止めないけどさ。アンタは何せ、土肥の大親分の懐刀。働きを示さない訳に行かないだろ
うし』
「ええ、頑張りますよ…!」
長ドスを鞘に納め、トラマルは霧の中へ姿を消す。
報せを受け、広域警戒から舞い戻った俵一家の精鋭達が参戦。
辺りで一番の高台…部分的に倒壊してなお屋上まで残るタワービルに陣取り、ビントロングが霧の海の上から通信中継を行な
う事で、地図、位置情報、トランクの座標が共有され、各地に現れた機械人形達は、相応しい戦力で駆逐されて行った。
ピチョッと、水滴が濡れた洞窟の床に落ちる。
地下、400メートル。
大穴表面とジオフロントの間の、比較的浅い層。
崩落点と呼ばれるジオフロントまでの断崖絶壁…地獄を覗くような縦穴を中心に、大穴の地下にはかつて使われていた物資運
搬用のエレベーターや、中継貨物整理基地、そして天然の洞窟…地盤のズレや水脈によって穿たれた穴などが、無数に存在して
いる。
その中でも、元々ジオフロントの設備の一部として登録されていた人工の道や設備については、機械人形が警備対象として巡
回している。
比較的安全と言われているのは、そういった登録がなされていない天然洞窟や、大隆起後に掘られたルートなのだが、そこに
も危険生物が現れるので、気が休まる箇所など地下には殆どない。
そんなエリアの一つ、土肥と崩落点のほぼ中間点の地下に存在する、地層のズレによって遥か昔に生まれ、今では天然の鍾乳
洞となっている、危険でさえなければ美しい、見事な石筍があちこちに立つ洞穴で…。
「どういう事かナ…」
男がポツリと呟いた。
ピチョッと、水滴が真珠色の金属装甲に落ちる。
一部が崩落点の縦穴と繋がり、絶えず霧が流れている洞穴は、平均でも高さ5メートルを超える。この付近も天井まで8メー
トルはあり、幅も広くなっているのだが、そこに、白く光沢のある装甲と、金属そのままの色のフレーム、雑多な破片が散乱し
ていた。
十体分は下らない数の機械人形が、残らず原形を留めないスクラップになって散らばる真ん中に立ち、その男は左手に持った
棒状の物で肩をポンポンと叩きながら考え込んでいる。
纏っているのは襟が黒く青が基調となっている法被のような衣服。基本色の海のような青に対し、上衣の袖や裾、膝上までの
丈しかない下履きの裾にも、白く踊る波の意匠が施され、俵一家の戦装束のように、要所に和甲冑の意匠で装甲が取り付けられ
ている。ただしどこもかしこも土や煤で汚れてくすみ、長いこと洗われていない事が窺える。
足につっかけているのは二枚歯の下駄。背には古い時代の雨具…蓑をこんもりと被って背面全体を覆う。
右腰には大ぶりな瓢箪がぶら下がり、左腰には太刀の鞘を吊るすように装着した長い筒。腰の後ろには蓑に隠れて大部分が見
えないが、刃渡り50センチはあるだろう大鉈が、水平に寝かせて装着されている。
右手を法被の前合わせから腹の所に突っ込んでいる男が、先程から左手に握って肩を叩いている棒状の物は、畳まれた和傘…
これも青を基調にして縁にぐるりと白波が描かれた物。長さが150センチほどもあり、柄…軸部分が異様に太く、広げれば傘
の直径が200センチを超えるだろう、そのまま野点傘になりそうなサイズである。また、先端部の頭(ろくろ)には穴が空い
ており、熱でももっているのか、その周辺で空気が揺らいでいた。
太い尾を揺らして考え込んでいる、まるで昔話の絵本から抜け出してきたような格好をした男は、大きい。
身の丈は2メートルを軽く超えている。腹が出っ張って目立つ肥満体だが、四肢も相応に太い。あまりにも幅と厚みがあるの
で、遠目ではバランスから見てさほど身長が高くないように錯覚してしまう体型の、狸獣人である。
(上を目指してたナ…。どれぐらい下から移動して来てたんだよ?)
一体たりとも逃さず残骸に変えた機械人形の山をしばし眺めていた大狸は、刀を納めるように左腰の筒へ和傘を収納すると、
おもむろに振り返る。
大男の後方、20メートルほど先の曲がり角には、潜霧用の装備で身を固めた六人の集団がへたり込んでいた。地質を調査す
るために潜っていた、学者を含む政府の調査チームである。
「とりあえずは、今ので打ち止めみたいだよ。でも移動はした方が良いネ。近くに共用のセーフルームがあるから、そこまで案
内するよ」
調査チームは、運悪く地表を目指す機械人形達に遭遇した。そして運良く、この大狸と遭遇した。
九死に一生を得た調査チームを連れて、最寄りのセーフルーム…潜霧士達が利用するキャンプ地でありシェルターへ移動しな
がら、大狸は小声で繰り返す。
「さて…、どういう事かナ…」
破壊総数六十二体。
トランク全機回収。
後続が時間差で地表に出て来る可能性も考慮し、翌日の一斉捜索を決定し、夕刻をもって全潜霧団帰投。
そして、陽が地平線の向こうに沈み…。
「しばらく動けませんが、一命は取り留めたとの事です」
宿の部屋で待機していたタケミとアルの元へ赴き、ハヤタに命じられて世話に戻ったトラマルが報告したのは、午後七時の事。
相当働いてなお疲れた様子も見せないキジトラ猫が告げたのは、病院に担ぎ込まれたヘイジの容態について。
「よ…、よかっ…た…」
へなへなと脱力したタケミを支えながら、「所長はまだ帰って来ないんスか?」とアルが尋ねた。
「はい。今回の件、突き詰めていけばいくほど状況が複雑になってきまして…、大将は大親分とご一緒です。忙しくなるので今
夜は戻れない、と…」
今回の機械人形大量出現は、原因がはっきりした事もあり、ただちに捜査体制が整えられた。夜間の潜霧は危険が伴う上に効
率が悪いため、明朝を待って現場の細かな調査を行なう予定だが、問題は…。
「…ヘイジさんは、誰から荷物を…」
「それは、まだ何とも…」
タケミの呟きに、トラマルは答えられない。
ヘイジがハヤタに打ち明けた所によれば、機械人形を誘い出すという前代未聞の品物は、依頼されて運んだ物らしい。その依
頼主が判らないため、土肥の各有力者が疑心暗鬼になりかけている。せめて何処の誰が糸を引いているのか判れな、ヘイジの立
場も多少はマシになるのだが…。
「今日の所は、食事をこちらに運んで貰ってお部屋食にします。お疲れでしょうからごゆっくりなさって下さい」
「あ、そう言えばトラマルさん、黒豚のムラマツお兄さん、帰って来てるんス?」
「ええ」
「そうっスか!じゃあちょっと挨拶に行っ…」
「マッツァンから、アルビレオ君が外に出たがったら「飯食って寝ろ」と伝えろと…」
「すげー先手っス!…まだ大穴の中に居るんス?」
「いいえ、もう上がりました。今は…」
白い壁、白い天井、白い床…。薬の匂いが漂う清潔な廊下で、ドアの一つの両脇に、ビントロングと黒豚が立っている。
双方ともに潜霧時と同じ戦闘装束で、ビントロングは腰に朱塗りの鞘に納めた長ドスを帯び、機械人形相手に得物が折れた黒
豚は、黒漆と装飾が派手ではないが見事な打刀を、鞘に納めたまま左手で握っている。
「「前科」があるしなぁ、ヘイジさん」
「そうじゃな」
ビントロングの言葉に黒豚が頷く。かつて、ヘイジは治療を受けていた所から脱走して姿をくらました。
そのため今回はこの二人が見張りに置かれていた。窓も無い集中治療室の、たった一つの出入り口前に。
「…何で、俺らじゃ…」
ポツリと黒豚が呟く。
「知った仲だからじゃない?」
ビントロングが応じる。
しばしの沈黙を挟み、「なぁ、マッツァン」とナガオは尋ねた。
「ヘイジさんが意識取り戻して、もしも逃げようとしたらどうする?」
「止める」
即答する黒豚に迷いはない。今、ヘイジは非常に危うい立場にある。知らずに協力したという本人の言葉を信じる者ばかりで
はない。信用に足る情報が出なければ、今回の大事件を引き起こした「犯人」と目される。だからこそ、絶対に逃がす訳には行
かない。
「弁明させなきゃ、ヘイジさんの立場悪くなる一方だもんな…」
もっとも、二人がここに配置されたのは、ヘイジを逃がさない事だけが理由ではない。ヘイジに荷物の運搬を依頼した輩が、
口封じに出るかもしれないというのも理由の一つ。ただし、その可能性はそう高くないと、俵一家は考えている。
口封じ前提であれば、仕事を済ませた後でもう一度会う機会を設けるはず。それが無く、ヘイジが相手側の情報をまるで知ら
されていなかったらしいという点を鑑みると、元から二度と接触する気がなかったとも思える。
程なく、ふたりは背筋を伸ばした。
通路を埋める程の並んだ巨躯。気を付けをしたふたりの前に立ったのは、土肥の大親分と熱海の大将。
「容体は?」
「変わりなしですが、安定してるそうですよ」
猪にビントロングが答え、「まだ意識不明か」と金熊が呟く。
「様子だけ見だら引き上げっけど、今夜は交代で見張り頼むど」
『は』
ビントロングと黒豚が応じ、ハヤタとユージンは治療室の中へ。
そこは、正立方体の部屋の中央に、水槽のような長方形のケースが寝かされた部屋だった。
出入り口の所に透明な壁の仕切りがあり、医師の許可なく患者に接触できないようになっているそこを、ふたりはじっと見つ
める。
水槽の中はハチミツのような色の液体で満たされ、そこに全身をコードとチューブで覆われた狸が寝かされていた。
かつて伊豆生命研究所が世界にもたらした恩恵、再生医療。損壊した細胞を補い、手の施しようがない重傷からでも、施術に
よって救えるラインまで肉体を修復できる治療法。霧による被害や、因子汚染には効果が無いが、外傷を治癒するという点では
これ以上の手段は無い。この特殊な溶液は全身に浸透し、各細胞にゲノムを設計図とした基本形への現状回復を促す。
霧の汚染を受けていない人類であれば、失った四肢や器官をも再生できるのだが、獣人の場合はそこまでに至らない。既に霧
によって肉体が変貌を遂げているせいで十全の効果は得られず、あくまでも自然に治る範囲の自己治癒を高速で行なわせるだけ
に留まる。
ヘイジはこの治療を受けて、容態が安定し次第、本格的な外科手術を受ける。かなりの大手術にはなるが、ひとまず一命は取
り留めたと見て良い。
「…どうする気だ?親父殿」
腕を組んで難しい顔をするユージン。その隣で、ハヤタは右手を透明な壁に当て、眠り続けるヘイジを見つめている。
不幸中の幸いで死者は出なかった。だが、原因となる荷物を設置し、これだけの事件を起こし、皆を危険にさらした…。片棒
を担ぐ格好になったヘイジは、例えこうなる事を予測できなかったとしても、無関係ではない。
事態を重く見た伊豆「圏警」は、ハヤタがヘイジ本人から聞いた事情を元に、責任が狸にあるというスタンスで動き始めてい
る。政府にも動きがあり、潜霧探索管理室が土肥方面まで出張って来るらしい。
「言いたくはねぇが、俵一家でかくまうって事は考えるんじゃねぇぜ。ええ?そいつは、十年前にもヘイジ自身が嫌がったろう」
「………」
大猪は目を閉じた。
十年前、戦線を放棄する格好で姿を消したヘイジは、自らその責任を取る事を望んだ。
俵一家内や、懇意にしている関係組織からはヘイジを庇う声も上がったが、元の鞘に納めては傘下にも他所にも示しがつかな
いと、狸自身が一番判っていたから。
「…親父殿。今回の処遇、ワシにも一枚噛ませちゃくれねぇか?」
ユージンは組んでいた腕を解き、ポケットに手を突っ込む。
「実を言うと、少し前から手は打ってある。ちぃとばかりな」
金熊が胸元に上げた手には、送信先選択画面になっている通信端末が握られていた。