第二十三話 「血清」

「もうじき桜が咲きそうやで」

 車いすを押しながら、狸が男の子に話しかける。

「伊豆は開花早いけど、今年は特別あったか~い風吹きよったさかい、蕾がみんなプックリしとるわ」

 病院の長い廊下。窓が広く取られた外側の通路は、この病棟から容易に外へ出られない病状の患者達に、少しでも解放感を与

えようと設計されている。駐車場との間に遊歩道付きのちょっとした庭が設けられており、近付く春に備えて青々とした新しい

葉を伸ばした木々が、日に日に勢い付いていた。

「大穴の中には、一年中咲いてる桜もあるって、ほんとう?」

 車いすを押されている男の子が聞き返すと、「ああ、狂い桜やな?ホンマやで!」と、狸は大きく頷いた。

「年中霧に中てられて温められとるのと、…まぁ色々で、毎月咲いて散ってを繰り返すんや」

 狸が一瞬口ごもったのは、何故咲くのか判らないからではない。因子汚染による変異という言葉を飲み込んだせいである。

 男の子は無邪気に「そうなんだぁ…。フシギだね」と笑った。

 少し変色し、毛質も変わった髪。片側だけ色が変わった瞳。一年半ほど前に高濃度の霧に晒された男の子は、生き残れたもの

の半身不随になり、病棟から出られない体になっていた。

 あの事故を機にフリーの潜霧士となった狸は、身寄りを亡くしたこの男の子を養っている。

 看板も名声も無い個人事業者に潜霧依頼が持ち込まれる事は少なく、仕事の依頼をあてにする事はできないので、狸はフリー

ダイブ…潜霧で様々な品を拾って回り、それを売却する事で収入を得ていた。

 少しでも多く男の子の医療費を稼ぐため、住処は安アパートに定め、潜霧用の機材類は組合の格安倉庫をレンタルした。

 所持していた、土肥の名工の手による打刀と脇差や、機械人形のフレーム材を加工した鎖帷子など、まとまった金になる物は

全て売り払った。

 単身で潜っても一度に持ち帰れる量は知れているので、少しでも多く、そして重量のある値打ち物や、破損し易い品を安全に

運ぶため、型落ちどころか骨董品の仲間入り寸前の旧式作業機をローンで購入した。

 自分にもしもの事があった時の為に、何十年も先の分まで男の子の入院費用も支払った。

 だが、それで解決ではない。

 まだ男の子は「助かっていない」。

 不完全な獣化と、大部分がそのままの人間の部位が、機能衝突を起こして身体に負荷をかけ続けている。機能不全は改善する

どころか、治療の手立てを模索している段階…。このままでは、男の子はあと十年前後で死に至る。

「たくさんあるの?」

「ん~…、多いとは言えへんかな?大穴全体で十何本かや。大隆起前から枯れんで残った桜は、あんまり無いからな~」

 ずっと病棟から出られない男の子は、狸の来訪を楽しみにしている。あまり長く起きていられず、座っているだけでも疲れて

ゆくのに、なるべく長く一緒に居ようとする。

 他に縋る相手が居ない男の子の、いじらしいその頑張りに気付きながら、狸はやがて病室へと車いすを向かわせる。

「今日もおもろい話ぎょうさんあるで!ベッドに戻ろか~」

 機能が半分停止している脳の覚醒時間が過ぎ、男の子が眠るまで、寝台の横で手を握りながら話を聞かせる。そして眠ってい

る内に去る。それが狸の訪問サイクル。

 いつか、と狸はよく口にする。

 いつか遊園地に行こう。いつか映画を見に行こう。いつか買い物に出かけよう。いつか。いつか。いつか…。

 その「いつか」は余りに遠く、どうすればその「いつか」に至れるもかも判然としない。

 かつて伊豆生命研究所がもたらした医療技術は、大隆起によってそれ以上の開発や進歩が無くなった今でも、医療の最先端で

ある。言い換えれば、三十一年前の時点で百年以上先を進んでいた研究に、未だ追いつけていない。

 人類は生命研究所が万全であったころの何十分の一にも満たない速度でその医療技術を更新しているが、それはあくまでも微

調整や誤差修正、レアケースへの適応調整といった物で、根本的なレベルでの進歩は見込めていない。

 そして、霧がもたらす変化にはこの医療技術は効果が極めて薄い。これは因子汚染が、伊豆生命研究所由来の再生医療の、あ

る意味で上位互換に位置するからである。

 因子汚染が起きた部位については、再生医療では因子の書き換え、修復などができない。より上位の物でなければ、因子汚染

が齎した変化に干渉できない。再生医療が有効なのは、因子汚染の影響が薄いか、あるいは因子汚染の影響があってもその変質

に逆らわない方向性となる治療に限られる。

 つまり、霧がもたらす変化に対して、人類はほぼ打つ手がない。そんな技術も知識も理論も、人類は持ち合わせていない。男

の子の身体を治癒する手段は、今の人類の手の内には無い。そして男の子が生きている間に有効な手立てが見つかるかどうかも

怪しい。

(堪忍やで、タツロウ…。ワイは全然助けられてへん…。全然救えてへん…。どうしたらええか、全然わからへん…)

 眠りに落ちた男の子の痩せ細った手を両手で包みこみ、狸は項垂れる。

 自分はまだ男の子を助けきれていない。状況を打開する何かが間に合わなければ、男の子は結局助からない。

 もしも、因子汚染の、より上位に位置する何かがあったなら…。

 もしも、生命研究所の再生医療の上を、人類が手に入れられたなら…。

 その「もしも」は、縋るには遠過ぎる灯火。

 …だった、が…。

 

 

 

「確実に成功するとは約束できません。効果がない可能性だってあるし、失敗のリスクだって当然ゼロじゃない。半身不随の方

がまだマシっていう、悪化の可能性だって排除はできない。ま、医療あるあるですよ。運が悪ければ小指の爪の手術で死ぬ事も

あるように、ね」

 レッサーパンダの説明を、車いすに座らせた少年と一緒に聞きながら、恰幅の良い女性看護師はポカンとした。

 施術の説明で失敗の可能性についても言及するのは当然の義務なのだが、見た目だけは愛らしいこのレッサーパンダ青年の説

明はどこか投げやりで、説明を受ける側の不安を払拭する努力や注意、配慮が一切なされていないばかりか…。

(逆に不安を煽るまであるっ…!)

 流石にこれには同席しているカズマも鼻白んだ。

 伊豆半島北壁。グレートウォール内部の厳重隔離区画…立ち入りが厳しく制限されているエリアの、医療研究施設内。見た目

はそのまま病院の診療室のような、説明用モニター、寝台、デスク、ベンチなどが置かれたそこには、車いすの少年タツロウ、

付き添いの女性看護師、カズマ室長、そして、ユージンの要請を受けて白神山地の研究所から派遣されてきた研究員…レッサー

パンダのナミと、助手の猪…タイキの、五名が集まっている。

 少年と看護師はナミが示すデスク上のモニターを見つめているが、そこには簡素な人体図が表示されていた。

 カラフルな水色の人体図はシルエット表示で、脊髄に当たるラインがオレンジ色に表示されている。そこへ人体シルエットの

外に表示されている赤い説明文入りの枠から、脊髄の位置に数ヵ所、矢印が伸びていた。

「そもそも脊髄に注射を行なう時点でリスクゼロだなんて事はないし。まぁそういった事で生じた不具合なんかは従来の再生医

療で対応できますから心配は要りません。即死とかでなければ」

 伝えるべき情報は余さず伝えているしリスクを隠さないだけ誠実とも言えるのだが、ナミの説明はひとの心が無いようなザッ

クリ具合である。これでは施術を受けるかどうかを決断する前に、タツロウが尻込みしてしまうのではないかと、カズマは心配

になった。
事実、少年の顔色は悪い。もともと青褪めた白色の肌がすっかり血の気を失って、片側だけ変色している瞳には明ら

かな怯えが見えている。

 もう少し励ますような内容を主軸に説明をして貰えないかと、カズマがナミに訴えようとしたその時…。

「ナミぃ、そういう言い方ないだろ?」

 それまで黙って一緒に説明を聞いていた猪が眉を八の字にし、ブスーッと不機嫌そうに鼻息を吹いた。

「そうかな?」

「そうだよ」

 首を巡らせたレッサーパンダに猪が大きく頷く。

「可能性とか確率の話は確かに大事だろうし、正直にリスクの説明しなきゃなんないのも判るけどなぁ。もっとこう上手く行っ

た時の明るい話とか、希望とか、あるだろ?挑戦のメリットの話とかさ」

「………確実でない事についてはあまり大袈裟には言いたくないけど、まぁタイキが言う事も一理あるし。そうだね、そっちの

話もしよう」

 レッサーパンダは一拍置いて呟くと、一つ頷いてから少年と看護師に告げた。

「過剰な期待をすると、そうならなかった時に落ち込むだろうし、そういう事もあるかもしれない…程度に聞いておいて欲しい

話ですけど。施術の効果が期待通りに出たら、とりあえず君の体は何不自由なく生活できるくらいに回復する。完全な健康体っ

ていうレベルまでね。そして…、ああ、こっちは取り方によってはリスクかデメリットになるかもですけど…」

 レッサーパンダがそこまで話すと、斜め後ろに立っていた猪は自分の顔を親指で指し示した。

「彼のように、確実に獣化が完全進行します。これは、言ってしまえば因子汚染を安全に進行させる…、つまり獣化を行ける所

まで行かせて身体を安定させる施術なので」

「え…」

 看護師の口から乾いた声が漏れた。

「そ、それじゃあきっと無理です。安全に獣化を進行させるのは、確かに凄いですし、獣化が済めば安定するのも…、それは確

かにそうですけど…。タツロウ君は獣化適性自体が無くて…」

「いいえ、それも問題にはなりません」

 今度はカズマが口を開いた。

「これは、先に「内容の詳細について一切訊かない事」を承諾頂きました極秘案件に関わる事なので、詳しい事は説明はできま

せんが…、適正についての問題はクリアされます」

「………」

 看護師は押し黙る。顔色が悪いのは、職業上これがどういう事なのか一般人よりも理解できてしまうからである。

 ジークフリート線。獣人になれる者だけが超えられる、変化か死かを問う絶対の線引き。これは獣化適性を有しているという

点でしか越えられない。…はずだった。

 適性が無いタツロウを完全獣化させられる。そんな事がもしも可能なのだとしたら…。

(誰でも獣人になれる…?いや、それどころの話じゃなく…。霧の線引きを、適正の有無を無視できる…?なら、それはもしか

して…、因子汚染の、「より上位の何か」が…、もう在るっていう事…!?)

 事の重大さと、推測できる情報で動揺している看護師は、

「あくまでも条件付きです。…冒頭に説明があったように、これはまだ確立されていない治療法なので、誰にでも無制限にでき

る事ではありません。長い目で見た時、将来まで健康が保証されるかどうかもまだ判りません」

 カズマの言葉で冷静になった。

「そう、でした…。「研究治療の一環」というお話しでしたしね…」

 未だ公表されていないという事は、実用化には程遠いか効果が出るケースが少ないのだろうと看護師は納得する。それでも…。

(夢は、見たいわよね…)

 ずっと診てきた少年の横顔を窺う。

 この看護師に限らず、伊豆の医療従事者は獣人に偏見も忌避感も持たない。勿論、「本土」では奇異の目に晒されるのは知っ

ているが、それでも、獣化して生き永らえた方がずっと良いと、看護師は個人的に考える。

 日に日に死んでゆく体を車いすに預け、保護者の顔を見る事だけを生き甲斐に、緩やかに近付く確実な死を見据え続ける、残

り数年の人生を想えば…。

(どんな姿の獣人に変わっても、長生きできるなら…。立って歩けるなら…。したい事ができるようになるなら…。だいたい…)

「サガラさんだって獣人なんだから…」

 看護師が無自覚に思考を呟きに変え、タツロウ少年は軽く眉を上げた。

 あ、そうだった。

 それが、少年が気付いた素直な気持ちだった。保護者と同じ…見た目は違うかもしれないが、獣人という点では同じになる。

これはタツロウにとってデメリットでも何でもない。

「僕、受けたいです」

 思いのほかはっきりした声が出て、自分でも少し驚いたが、タツロウはレッサーパンダとカズマに訴えた。

 何せ、本来ならば死んでいるような環境と状態から救出された、万に一つの死に損ない。奇跡はこれ以上望むべくもない状況

へ、降って湧いたこの話は僥倖以外の何物でもない。

 何より、自分が健康になれたなら、救われるひとが一人居る。ずっと苦しんできた、苦労してきた、血も繋がっていないのに

見捨てないでくれた保護者が…。

「僕は、元気になりたい。元気になったら、ヘイジ兄ちゃんも自由になれる。僕のために不自由しないですむ」

 不意に、レッサーパンダの目が遠くなった。

 因子汚染の不完全進行で昏睡状態に陥ったまま、十年間眠り続けている弟の事を想う。

 タイキはどうにかできた。次は弟を救うのがナミの目標。

 ひととして欠陥があると自認しているレッサーパンダだが、今のタツロウ少年に、自分の弟を重ね見た。

「一つ訂正」

 ナミは少年の目を真っすぐに見つめて告げる。

「失敗の可能性についてはさっき話した通りだし、効果が出るかどうかも断言はしないけど。施術における人為的なミスについ

ては0パーセント」

 レッサーパンダの後ろで、猪がニッと笑って大きく頷いた。

「ナミは絶対に失敗しないからさ!そこだけは安心してていいぞ!」

 

 透明な壁に隔てられた病室。

 水槽に横たわったままの狸を、持ち込んだ椅子に座った金熊が見つめる。

「…全て、ヌシの承諾次第だ」

 設置されたばかりのスピーカーが仲介するユージンの声に、ヘイジは動揺していた。

 バイタルサインのモニターが判り易く心拍数の上昇を表示するが、どうあってもこの話をしなければならないと、ユージンは

医師を説得し、何があっても誰も部屋に入れないという約束を取り付けている。

 これは、重大な機密にも関係して来る話である。

 不破武美という人類唯一のイレギュラー…「人狼」の存在以上の最重要機密。

 政府関係者の中の数名、そして各機関の極々一部の人員、一般人数名しか把握していない、秘匿されたジオフロントの真実に

も関係する事柄。

 だからこそ、医師達にも聞かせる訳には行かない。

 数分前、挨拶もそこそこに本題に入ったユージンは言った。「タツロウ少年を延命する手段がある」、と。

 タツロウは中途半端な獣化がもたらした機能不全によって全身が蝕まれている状態…、いわば人間のままの部分と獣化した部

分が、機能上噛み合っていないせいで体の各所に不具合が生じている。獣化適性がある者ならば時と共に体質も機能も安定化す

るし、いっそ獣化が進んでしまえば問題もなくなるのだが、少年は獣化適性が無く、霧を少量ずつ吸入させるなどの獣化の意図

的進行は不可能。これ以上霧にあてたら死んでしまう。

 そして、現状維持にも限界があるというのが実情。タツロウの臓器不全は年々深刻になり、担当医の見立てではあと三年もつ

か五年もつかというところだった。だからこそヘイジは、確実に帰還できる浅い潜霧を休みなく繰り返し、節約に節約を重ね、

少しでも希望が持てる治療であれば金を惜しまずタツロウに受けさせた。

 たった一つ、霧の中から取り戻せた命を、返し切れなかった恩の欠片を、ヘイジは必死に守り続けて来た。救う手段が提示さ

れた今、選択の余地などないはずだった。

 なのに、動揺している理由は…。

「その施術を受けたら人間じゃなくなる。おそらく数ヶ月内にステージ7に到達する…つまり完全に獣化するのは避けられねぇ。

適性の有無に関係なくだ。その一方で、進行に伴って機能不全は最適化されて、確実に解消される」

 そんな現象、方法、情報、全く聞いた事がない。しかしヘイジにとってはそんな驚きすら問題ではなく、金熊から聞かされた

事をデマか間違いだと疑う事もない。

 ユージンは真顔だった。怖いほど真っ直ぐな目で自分に問うて来るその視線は、厳然とした事実を告げていると理解するには

充分だった。

「本人は、ヌシが良いと言えば受けると言った。ワシらはヌシの決定に従う」

 ユージンは沈黙する。ヘイジのバイタルサインはずっと乱れている。

 救いたかった。治してやりたかった。生き延びさせたかった。例え獣化が進んでも、どんな姿になったとしても、タツロウが

生きていればそれでいいと思っていた。…はずだった。

(ワイが…、ワイが決めるんか…。ここでワイが承諾したら…、タツロウは…)

 なのに、ヘイジはここに来て苦悩した。

(ワイがタツロウを、獣人に変えるんか…!)

 自分が決める。少年を獣に変えるか否かを。その決断の重さが潰れた肺にのしかかる。

「…こいつは、独り言だがな」

 ユージンは長い沈黙を破り、呟いた。

「ワシは、生きてて幸せだぜ。ヌシはどうだったろうな…」

 しばしあって、ヘイジは三度、立て続けに瞬きした。

 それが、今は喋れない狸の、承諾のサインだった。

 

「判りました。そう伝えます」

 そろそろ目の下にクマが浮いてきた寝不足のカズマは、通話を終えるなり傍に居たレッサーパンダに顔を向ける。

「ナミ君。ユーさんが保護者の承諾を得た。正式に施術を依頼する」

 グレートウォール内、下層に近い位置にある一室。

 ゲストや駐屯部隊、様々な人員が寝泊まりできるように個室や休憩室、仮眠室や宿泊室などが潤沢に用意されているグレート

ウォールには、グループで占有するロビーつきのルームセットも存在する。カズマがタツロウと看護師を匿って、ボディーガー

ドに警護させていたのは、そういったVIPルームの一つだった。

 タツロウが意思を固めたとはいえ、ユージンが彼の保護者であるヘイジの了承を得るのは、面会の制限などもあって時間がか

かる事だったため、レッサーパンダと猪も一度こちらに通されて待機していた。

 何せナミとタイキはユージンの要請を受けてすぐさま準備させられ、大急ぎで飛んできたので、一晩ろくに休んでいない上に

入浴もしていなかったのである。広い浴室をふたりでのんびり使ってくつろぎ、食事もしっかり摂って休息し、施術への備えを

万全にしている。

「最後に聞きますけど、ホントに良いんですね?」

 向き合ってソファーに座ったナミが問う。

「ああ。ユーさんの希望なのは勿論、総理の承諾も得…」

「その辺りはどうでもよくて、ボクは「獣人を造って良いんですね?」って訊いてるんです」

 言葉尻に被せられたレッサーパンダの声に、カズマは「…ああ」と頷いた。

 ナミは責めている訳ではない。少年の存命期間の長さを考えるならば、現状で選択できる手段の内で、これが最も良い手だと

レッサーパンダも考えている。それでもカズマに確認した理由は単純な事。それが倫理的に大丈夫な事かどうかを他者の見解で

知りたかったのである。

「ボクに反対する理由はないし、貴重なケースです。もしかしたらウミを昏睡状態から目覚めさせるヒントが得られるかもしれ

ない観察対象が増えるんだから、施術自体には賛成です。でも、正しいかどうかの判断はまた別の話だし」

 ナミは、自分に善悪を判断する機能と倫理観が欠けている事を自覚している。頭脳と思考の性能は凡人と比較にならないと客

観的に理解しながら、同時にひととしてはどうしようもない欠陥品であると自認している。どんなに非道であったり人道に背く

ような行為であろうと、それが最適解、最高効率な手段で、最終的に採算がとれるのであれば、良心の呵責なく、道徳と倫理を

抜きにし、眉一つ動かさずに採用する…、そういう生き物なのだと。

「ナミ…」

 レッサーパンダと並んで座る大柄な猪青年が、控え目に声をかけた。

「オレは「こうなって」良かったと思ってるし、決断してくれたナミに感謝してるよ。後悔とかは全然してない。この姿で、オ

レはオレだ」

「そう」

 ナミはタイキに顔を向けると、

「なら良かった。タイキは昔も今も男前だよ。顔が変わってもね」

 その頬に顔を寄せ、軽くキスをする。

「!!!」

「…のろけは、目立たない所でにしてくれるかな?」

 苦笑するカズマ。立ち上がったナミは、不意打ちキスで固まっているタイキの肩をポンと叩く。

「じゃ、仕事だよ。ケースよろしく」

「は、はいぃ~…!」

 眩暈でも起こしているのか、フラフラと立ち上がったタイキは、フワフワした足取りでナミについて行った。

 

 少年は既にここのドクターとスタッフによって事前処置を済まされ、麻酔をかけられて施術室に入れられた。

 その隣の準備室で、タイキは持参した大きなアタッシュケースをテーブルの上に置く。

「うう、緊張するなぁ…」

「大丈夫だよ」

 アタッシュケースのサイドにあるカバーをスライドし、現れた数字盤を素早く押してゆくナミ。確認表示のモニターもないそ

れは、18ケタの暗証番号を五秒以内に入力しなければ開かない。

 第一のロックを解除するとケースの上蓋が開き、二重蓋の中蓋が露出する。今度はこれについているレンズにタイキが顔を寄

せ、虹彩を読み取らせて開錠、中蓋が開く。

 次に現れたのは、アタッシュケース内部に緩衝材で動かないよう固定された、一回り小さいケース。今度は、表面にあるアル

ファベットと数字のキーで、ナミが英数混在する8ケタ3セットのパスワードを制限時間内に入力してロックを解除。

 そのケースの内側から現れたのはまた一回り小さいケース。今度はタイキが掌を押し当てて生体認証をクリア。

 まるでマトリョーシカ人形。開けても開けても現れるケースは、その都度変更される最新のパスを記憶している者と、持ち出

しに応じて生体認証登録される者の、ふたりが揃っていなければ途中で詰まる仕様。しかも不正開錠と判定されたり、破壊され

るような衝撃を感知すると、仕込まれた爆薬でケースは中身諸共に抹消される造りになっている。

「最後」

 ナミがケースの最奥から現れた、手のひらサイズの小さなボックスを取り出し、持参した物理キーを差し込むと、中から現れ

たのはガラスの小瓶…薬品アンプル。

 その中身は、赤味がかった黄色とも、夕焼けの色とも取れる半透明な液体で、量は3ミリリットル程度。

「ナミ、注射器セットを」

「ありがと」

 注射器など、必要な器具一式が納められた小さなケースをタイキが差し出し、受け取ったナミは、「じゃあ行こうか」と隣室

に向かう。

 そこは狭い施術室。中央の寝台へうつ伏せに寝かされているのは、麻酔で眠らされた少年…タツロウ。

「固定器具のチェックよろしく」

「了解…!」

 緊張気味の猪が、タツロウの体がちゃんと固定されているか最終確認をしている間に、ナミはアンプルの頭を折り、内部の薬

品を専用注射器で吸い上げる。

 針を立て、気泡を抜き、寝台に歩み寄ったレッサーパンダは、少年の首筋に指を這わせ、脊髄のラインを確認する。

「…ねぇ、ナミ…」

 猪が囁く。うつ伏せに寝かされた少年の、部分的に毛色と毛質が変化している、薄茶色の毛髪を見つめながら。

「助けて、やりたいよな…」

「勿論、ユーさんが望んだしね。それに、キミもそう望むなら…」

 ナミは無表情で、しかしきっぱりと言い切った。

「ボクは絶対にミスをしない。霧になんて、もう一度だって負けてやらない」

「…うんっ!ナミは失敗しない!オレ達、いつか霧に勝つんだもんな!」

「じゃあ、施術始めるよ。バイタルチェック頼むね」

「ま、任された…!」

 猪がモニターを注視する脇で、ナミは慎重に、少年の肌へ注射器の針を近付け…。

 

「終わったそうです。タツロウ君を搬出しなければいけませんから、同行して頂けますか?」

「え、もうですか!?」

 タツロウに同行してきた婦人看護師は、施術に入ったと聞いてから十分も経たずにカズマから声をかけられ、慌てて席を立つ。

 優男の案内で施術室まで、余計な所へ立ち入るのを防ぐ目的の黒服達に囲まれながら移動すると…。

「どういう施術内容なのか、少し教えてくれても…」

 白衣の男達が、片づけをしているナミに言い寄っていた。

「ヒミツです。ボクには無関係な相手に教える権限はないですから」

 グレートウォール内、研究の最先端を担う者達に対してすら、ナミはこの態度。相手はかつて同じラボに入っていた事もある

元同僚なのだが、親しげな様子は全く見られない。

 今回ナミが行なったのは、ここの職員にすら詳細を教えられない施術。元同僚のよしみでヒントだけでも…と言い寄る職員達

だが、レッサーパンダは一切応じようとしない。

(こういう時、ナミは強いよなぁ…)

 タイキは小心で気が優しい青年なので、相棒のように相手の懇願をスパスパ切るのは難しい。むしろ何か頼まれると断るのが

苦手な部類に入る。

 ナミは使用済みアンプルと注射器を専用の袋に入れ、元のアタッシュケースに収納しロックする。溶液が僅かにでも付着して

いる物は全て厳重に封印して持ち帰るのが決まり。これで再び二人揃っての開錠を行なわなければケースは開かない。

 さっさと荷物を纏めたナミは…。

「もう済んだのかい?いやはや出遅れちゃったなぁ!」

 キーが高い早口な声を聞き、ピクリと耳を震わせた。

「クロイ主任、どうも」

 カズマが会釈し、タイキが居心地悪そうに身を震わせ、ナミは殊更に視線を向けない。

 職員達が道を開け、入室したのは黒い犬…ポメラニアンの獣人。

「室長、人が悪いね呼んでくれないなんてさぁ!」

 プーッと頬を膨らませるポメラニアンの名は、黒井仁安(くろいじんあん)。政府直轄の主研究機関における、霧と因子汚染

研究の第一人者。見た目は若々しい…というか小柄さも顔立ちも手伝って幼く見えるが、歳は六十歳近い。

「そっちの子が施術されたんだね?」

 背が低いポメラニアンが背伸びして覗き込む先では、まだ眠っているタツロウが運び出されようとしていた。

 施術されたばかりの少年は、使用済みアンプルや注射器以上に、余人に調べさせることができない。様子を見守る看護師を黒

服達も手伝って、逃げるように部屋から出てゆく。

 その、移動寝台を見送って…。

「ああ、素晴らしい…!」

 黒いポメラニアンは両手を軽く左右に広げる。その両目は感涙のあまり潤んでいた。

「人類が霧に打ち勝つ、そのための一歩がまた刻まれた…!私達は因子汚染すらも克服できる…!いつか必ず乗り越えて…!」

 天井を仰いだジンアンの両頬を、スーッと涙が駆け降りる。

「人類は大穴に敗北しない…!決して…!」

 声を震わせ感動の涙を流すポメラニアンを、一瞥もしないままナミは部屋を出てゆき、タイキがその後を慌てて追う。

(皆から聞いてたけど、本当にナミ、元上司が嫌いなんだな…)

 白神山地の研究所では、ナミはそれなりに馴染んで働いている。上司のハンニバル主任はじめ、先輩達とも摩擦無く仕事に打

ち込めている。

 だが、ジンアン主任…数多くの研究者の最高峰とも呼ばれる天才とは、どうにも折り合いが悪かったという話を、タイキは聞

いていた。

(う~ん、見た所、感動屋な部分とかが気に入らなかった?ナミはドライなトコあるからなぁ…)

「これで…」

 すれ違う者も居ない機密エリアの通路をしばらく歩いた所で、ナミは口を開いた。

「結果待ちだけど、ユーさんの要請はクリアした」

「あ、そこなんだけど…」

 タイキはナミのすぐ後ろを、アタッシュケースを胸に抱えて歩きながら口を開く。

「ユーさん、何であの子に施術させようと思ったんだろう?何か複雑な状況に居る子…って言うか、現在進行形で調べが進んで

る事件の、重要参考人の身内なんだろ?」

「ほぼ容疑者扱いの潜霧士の身内、だね」

「いやまぁ、厄介事に自分から首を突っ込んでくひとだし、今更驚くような事でもないのかもだけどさぁ…」

「不満?」

「不満なもんか!タツロウ君本人はその事件とも無関係なんだろ?酷い目に遭って欲しくないし、助かるなら助かって欲しい。

オレ達と似た者同士なんだから…。ただ、ユーさんがどういう考えであの子に「血清」を使わせたのか、想像できなくてさ…。

政府や潜霧探索管理室、研究所に借りまで作ったろ?今回」

「判らない?」

「判らないって!オレはナミほど頭良くないんだからさ」

「ユーさんの目的なら判り易いと思うよ。今回はね」

「そうかなぁ…」

「これであの少年は、政府と研究機関にとって重要な観察モデルになった。まぁ、定期的に検査が受けられる生活を送って貰わ

なきゃいけないけど、白神山地で暮らす分にはその辺り問題にならないしね。ある意味安全は確保されたし、それなりの自由も

手に入る訳だ」

「あ、それはそうだな!」

 レッサーパンダの説明を聞き、理解の表情を見せた猪は…。

「同時に、あの少年の保護者も重要な監視対象になる。ユーさんは保護者にも「血清」の説明をした。その保護者に取り調べで

変な事を証言されても困るから、当然、司法機関諸々の要請があったとしても、政府の承諾なしに呼び出す事も身元を預かる事

もできないように、タネジマ室長が手配する。あの子も保護者も、立派な超法規的措置対象の仲間入りって訳だね」

「………はぇ!?」

 タイキは目を真ん丸にした。

「「政府の監視」っていう強力な免罪符を発行する。同時に少年も助かる。ユーさんも「父さんも」思い切った物だけど、それ

だけ大事な相手なのかもね。その重要参考人」

 肩を竦め、ナミは言う。

「とにかく、これで「血清」を打たれたケースが一人増えた。ウミを起こす手掛かりに繋がるかもしれない、データサンプルの

提供元がね。ボクらにとっても重要な患者だ。丁重に扱おう」

「そ、そうだ…!ウミのためにもなるんだし、そうでなくても「オレの仲間」だ!親切にしてあげなきゃだな!」

 それから、ふたりはしばし休息を取る。

 極秘にタツロウを移送する車両に同乗して、白神山地へ帰るまで。

 

 

 

「確認できた範囲だと、集まった機械人形は一番深い奴で地下700メートル近辺から上がって来てたって」

「おかしいだろ?地上より空気の流れが悪くて霧が溜まってるってのに、そんな深くから信号を拾って上がって来るなんて…」

「そういうのが本当に可能だったら、南エリアとか今の何倍も機械人形が湧いてるよな?」

「ってかドコの情報だよそれ?デマじゃねえの?」

「いや確かだ。たまたま潜ってた地質調査隊が地下で機械人形にでくわしてて、助けられたんだと。それと前後して調べた伝言

預かって来たそうだ」

「助けられた?」

「伝言って、誰から?」

「「流人」だとさ」

『あ~…』

 土肥のモール内、鞘に納めた長ドス片手に刀匠の店を訪れた黒豚は、ダイバー達の噂話を耳に挟みながらロビーを抜け、御用

聞きに話を通して奥へ向かった。

 午後二時。ゲート近辺を中心にして行われた機械人形の捜索は、最終的には脅威無しという判断に落ち着き、最低限の警戒巡

視だけを継続して人員は引き上げられた。見張り兼護衛にも交代要員が入ったので、黒豚はようやく外を出歩ける状態になって

いる。

 地下モールは昨夜から大賑わいだった。あんな騒ぎの後なので、警戒心、あるいは功名心から、武装の手入れのためや、新た

な得物を購入すべく繰り出してきた潜霧士達の数は多い。機械人形の掃討が済んだ今も、回収し損ねられた破片などを求めて他

エリアからやってきて、霧に潜ってゆく者が後を断たない。

 巻き狩りは中断されたが、彼らが大挙して押し寄せたおかげで、野襖達は大穴外周から離れて奥へと移動しつつある。俵一家

としては当初の目的は一応果たされた格好となった。

 さらに、収穫物もまた賑わいに拍車をかけている。今回の件で機械人形の素材が大量に確保されたため、すぐさま買い付けに

来た商魂逞しい商売人や技師などが押し寄せたのである。

 基本的に深く潜らないと出くわさない上に、運搬の労力や回収の危険性もあって、機械人形のパーツ類はそうそう大量確保で

きる物ではなかった。それが今回はかつて無い量だったので、値崩れは必至。今の内に確保したい者や、流通に乗る前にある程

度の在庫を抱え込んでおきたい者、逆にプールしておいた素材を本格的な値崩れ前に売りさばきたい者など、それぞれの理由で

スピード勝負になっている。

(ま、土肥が潤うならそれでええんじゃ)

 自身も撃破カウント1/2体となっている黒豚は、しかし臨時収入をそれほど当てにしていない。素材の値打ちがどう変わろう

が、困るような事は無いのである。

(さて、ジュウゾウは仕事中らしいが…)

 目当ての相手は試刀場で接客中との事だったが、長居する余裕も無い。少し客の邪魔をしてしまうが、顔を見せて用件だけ伝

えたら引き上げるつもりである。

 そして、和風の造りに拘ってデザインされた接客エリアの、試刀場の一つへ踏み入ると…。

「御免。…何してんだ…?」

 ムラマツは声をかけた直後に音量を低くした。

 茶屋の席を再現したような、畳が嵌められたベンチに座っているのは、巨体の河馬。胡坐をかいているその太い脚に、すっぽ

りと頭を乗せてベンチに横たわっているのは、熱海から来た少年。

「だいぶ、お疲れのご様子だったので…。身も、心もです」

 ジュウゾウは黒豚を見遣り、声を抑えながら応じた。その分厚い手で頭を撫でられている少年は完全に眠りに落ちており、規

則正しい寝息を立てている。

 これが、蒲谷重造の異能。端的に言えば相手をリラックスさせ、入眠、疲労回復させるという物。

 ジュウゾウは特殊な生体パルスを接触式で対象に流し込む事ができる。軽い音波マッサージのような微弱な物を発する異能な

のだが、その波長と到達深度、パルスの強さの全てが合致し、極めて理想的なヒーリング作用を持つ。

 神経系のリラックス、リンパ系の流れの改善、細胞の活性化、疲労物質の分解と排出促進、ホルモンの分泌…、あくまでもそ

の生物に備わる範囲で生体調律を促し、調子を向上させる、ただ癒す効果しかない異能…。即効性は全く無く、抱擁する、膝枕

するなど、互いの肉体がある程度広い面積で一定時間接触が保たれなければ効果が現れないので、眠気を誘う効果を戦闘などに

応用する事もできないこれを、知る者達は口を揃え、こう表現する。「この世で最も優しい異能」と。

 この異能は、生体パルスを受け取る側が微かな、そして心地良いノイズを聞きながら眠りに誘われる事から、「さざなみ」と

呼ばれる。

 タケミの場合は、ジュウゾウに促されて彼に背を向けてベンチに跨り、肩を揉まれながら立てた親指で首の後ろを指圧されて

いる内に眠りに落ちた。ジュウゾウがあえて事前に説明しなかったのは、遠慮がちな少年に対する心遣い。こうして胡坐をかい

た脚を枕にさせて寝かせている間も、河馬の生体パルスは少年の疲労を取り除き、調子を取り戻させてゆく。

「今日会う約束をしていたからと、疲れた体に鞭打って、ご来店下さったのです」

「義理堅ぇこった」

 少年を癒している河馬の横顔を眺めながら、黒豚も起こしてしまわないよう気を付けて、声を低く維持する。

「疲労だけではありません。ヘイジさんの件でも心を痛めておられるご様子…」

「かなりの距離を一緒に行動したそうじゃ。情が移ったんじゃろう」

「お優しい御仁です」

「そうじゃな…」

 ムラマツはトラマルからも、少年がヘイジの事を心配していると聞いている。ずっと付き合いがあった訳でもないのに元身内

を案じてくれる少年について、俵一家は揃って好印象を抱いていた。

 汚い事も危険な事も非情な事もしなければならないこの界隈だからこそ、組を支える仲間同士の結び付きは強い。今でこそ一

家の面子ではなくなったヘイジだが、それでも彼を助け案じてくれる少年に、黒豚達も感謝している。が、それだけではなく…。

(ジュウゾウも随分気に入った様子じゃ)

 よほど気が合ったのだろうか。試刀の予約が日に何度も入って忙しいジュウゾウが、一家の紹介があったとはいえ、刀を買う

予定もない客と数日の内に続けて会う約束をするのも珍しい。歳が近い友人が居ない河馬には、視界を広げてくれる丁度良い客

になったかもしれないと、ムラマツは考える。

「機械人形の装甲を、斬ったそうですな」

 ジュウゾウが少年の髪を優しく梳きながら口を開く。

 今日、店内で顔を合わせるなりタケミから礼を言われた。アドバイスのおかげで機械人形にも通用する斬り方ができた、と。

 正直驚いた。練習してコツを掴むでもなく、アドバイスとして告げた試刀術のコツをぶっつけ本番で自分の剣術に落とし込ん

で、使ってのけたという事実に。

 そして嬉しくもあった。自分が伝えた物が、タケミが生き延びる役に立ったのだという事が。

「ああ。聞いた時は半信半疑じゃったが、事実、見事断ち割った。大したタマじゃ。大親分と仕留めた野襖に、ヘイジさんと仕

留めた機械人形の分が1
/2…。一日の戦果としちゃあ四等潜霧士の分を遥かに超える。流石は、あの土蜘蛛共だらけになった昇

級試験の首位突破者じゃ」

 おや?と、少年の寝顔を見つめていた河馬は、顔を上げて黒豚を見遣る。

「何じゃ?」

「いえ…」

 このひとが若手をこうまでベタ褒めするのは珍しいなと感じたのだが、たぶん指摘しても、照れ隠しでムキになり、褒めてい

ないと否定されるので、ジュウゾウは黙っておく。

「それはそうと、仕事を頼みに来たんじゃ」

 黒豚は左手に持っていた、鞘に納めた長ドスをズイッと突き出す。

「折れた。……………そんな顔で見んなっ…!」

 河馬が目を丸くし、次いで驚いたような泣きたそうな顔をして、黒豚は気まずそうにサッと目を逸らす。

「ソイツの刀身の新調と、もう一つ…」

 悲し気なジュウゾウから何か言われる前にと、ムラマツは急いで話を続けた。

「使いでが良い刃物を一つ、見繕ってくれ。贈り物じゃ」

「…贈り物…ですか?」

 河馬が意外そうに聞き返したが、黒豚は繰り返さない。そっぽを向いている。

 俵一家やその傘下には、命を救われるような大きな借りができた時、小刀などの刃物を相手に贈るというならわしがあった。

何十年も前に、ハヤタがタケミの祖父へ特別誂えの大業物を贈ったのがその始まりと、ジュウゾウも聞いている。

「どのような御仁にお送りになるのか、伺っても?」

「そうじゃな。…どんな、って言うと………。白くて、デカい」

 品選びには全く参考にならない情報。ぶっきらぼうに言った黒豚の顔も声も、到底感謝しているようには感じられない。むし

ろとことん面白くなさそうにすら見える。

 それでも、恩を形にして贈るほどの相手なのだなと、ジュウゾウは笑いを堪えた。

 

「タケミ、元気出ると良いんスけどねぇ…」

「ご心配なく。…という言葉だけでは何ともならないのでしょう。ヘイジさんの意識が戻ったのは朗報でしたが、タケミ君は賢

くて優しい子のようですから、今後の事を思って憂いてしまうのでしょうね…」

 土肥のゲートから離れた屋台が並ぶ、毎日が縁日のような賑やかな区域。浴衣姿のアルを、同じく浴衣を着込んで案内してい

るトラマルが、平静を装って応じた。

 子供達に心配させないよう努めよ。また、大人の世界の綺麗ではない裏事情まで関わって来る件なので、なるべく忘れられる

よう楽しませる事。

 それが大親分からトラマルに下された指令。無論、昨日の今日で土肥は騒がしいので、最善のボディーガードとして遣わされ

ているのもあるが。

「あ。ちょっと待って下さいアルビレオ君。帯が…」

 アルの腰帯がずれて下がっているのに気付いたトラマルは、シロクマを立ち止まらせると、屈み込んで帯を一度軽く緩めて、

位置と締め付けを調整する。

「えへへ…!オレ太ってて腹が丸いからっスかね?それとも姿勢が悪いんスか?帯がすぐ下にずれてくっス!」

 何処か嬉しそうに笑うアルを見上げ、締め付け過ぎない程度に帯の結び目を丁寧に整えながら、トラマルも微笑み返す。

 だがそうしてエスコートしながらも、アルの視線が向いていない時、トラマルの表情は沈む。

 ヘイジの件が気掛かりなのは当然だが、自分が世話役になっている少年達に申し訳ない気持ちでもあった。

 元々は、彼らが土肥に滞在している間、最上級の賓客としてもてなすためにトラマルは配置された。深く知っているユージン

はともかく、本格的に知るのはこれからという若人に、土肥を好いて貰えるようにと大親分が配慮した結果である。そうでなく

とも彼らの試験の時には、こちらのエリアの潜霧団が酷い真似を働いたのだから、悪い印象を払拭したいというのもあった。

 だが、もう予定通りには行かない。今日明日は俵一家が懇意にしている潜霧団に紹介して回りながら、土肥観光を楽しんで貰

うはずだったのだが、この騒ぎのせいで土肥はこれから数日は慌ただしくなる。ユージンも数日予定を切り上げて少年達を熱海

に返すと言っているらしい。

(土肥を、嫌いになって欲しくないんですが…)

 少年達の好感度はあまり上がらないだろうなと、キジトラ猫が鬱々とした気分になっていると…。

「土肥のダイバーって、熱海と結構違うんスね」

 屋台で買った綿飴を、口や指をベタベタにして苦戦しながら食べつつ、アルが言う。

「オレも本格的に潜り始めてそんな経ってないっスけど…。熱海って特に仲が良い事務所とか除くと、付き合いは結構ドライっ

て言うか、ビジネスライクなトコ多いっス。メンバーなんかの入れ替わりも多いからかもっスけど…」

 熱海は伊豆で最も潜霧が盛んで賑わっているエリアだが、他のエリアと比べて街並みや設備などが整っている反面、振興事務

所などが進出し易い場所でもある。長く続く老舗事務所はともかく、出ては消える小さな潜霧団などは、潜霧の常識やマナーが

なっていない事も多い。

 新参者がイザコザを起こしたり、怪しい業者が体裁だけ整えて潜霧の事務所を出したり、反社会的組織が鵜飼のように若者を

潜霧士に仕立てたり、獲物の横取りや口封じなど、アルがユージンから聞かされた怪しい話は枚挙に暇がない。

 最も賑わっている界隈特有の、外面の綺麗さに反する水面下の混沌さが、熱海にはある。

 だが土肥は、確かに荒っぽい雰囲気の潜霧士が多く、洗練された街並みの空気は無いものの…。

「だいたいみんな、似た匂いがするんスよね」

 上手く表現できなくて、アルは「匂い」という言葉を選んだが、これには「雰囲気」や、「潜霧に対する気構え」や、「精神

的姿勢」という意味も含まれている。

 言ってしまえば、荒くれ者やヤクザ者、堅気には到底なれない荒っぽい連中の吹き溜まりが土肥である。だがそこには、そう

いった気風の者同士が抱く連帯感、一体感、そして矜持による同族意識が、不文律の掟となって存在している。

 俵一家、そして土肥の大親分の存在も大きいのだろう。だが、そもそもここで仕事をしようと思い、居着いた者達は、根っこ

の価値観や精神性が似通っているのかもしれない。

 アルにはそういった事が感覚で何となく判るのである。長らく猟師として他国を渡り歩き、その都度違う同業者と一緒に仕事

をしてきた少年には、「似た匂いの人種」とでもいうべき物が。

 快活で陽気で向こう見ず、少年らしい性格のシロクマだが、そもそも根っこはそれほど単純ではない。ダリア譲りと言うべき

か、血気盛んで剣呑で凶暴な部分も存在しており、その辺りは土肥の任侠共に通じる物がある。

「オレ、土肥とここのみんな好きっスよ。声デカくて、荒っぽくて、フレンドリー!みんなでやる巻き狩りとかベリークール!

オレの性に合ってるっス!」

「…そう…、ですか…!」

 一度意外そうな顔をしたトラマルの表情が、次第に和らいで笑顔になる。率直で飾らない、それだけに気持ちがじんわりと伝

わるアルの感想は、キジトラ猫にとっては嬉しい物だった。

「それはそうとっスよ?タヌキのひとがどうなるか、いつごろ判るんスかね?はっきりしないとタケミがモンモンしちゃったま

まっス。ひとが怖いくせに、ちょっと関わった相手の事はいろいろ考える性格っスからね…。フクザツカイキ!」

「それは…、すぐには決まらないかもしれません…」

 疑いが晴れなければ法の裁きを受け、その審査に時間がかかる。そして有罪という事になれば、それこそ服役する羽目になる。

そうなった場合の刑の重さは…。

 左手首を軽く押さえ、トラマルは小さく息を吐いた。

(若頭…。あなたなら、こんな時でも不敵に笑って、どうにかしてしまったんでしょうね…)