第二十六話 「あるいはそれもまた平凡な日々」
えけど、他所では知らんぷりや。ええかな?」
伊東の地下モールを出た所で、ヘイジは隣を歩くタケミにそう切り出した。
「え?は、はい…。あの、もしかして規則に抵触しちゃうような話…」
「いや、グレーゾーンって辺りやな。大っぴらにせんほうがええけど、知ってへんと不都合があるさかい、教えられる分には構
わへんって類のモンや」
機械人形に関する話でもあるので、既に討伐実績があるタケミは聞いても咎められないのだと、狸は説明する。
「タケミはんファーストフードはイケるクチやろか?」
「え?はい、好きな方ですけど…」
「ほな…、あの売店でホットドッグ買うてこか!それと、どっか落ち着いて食える場所は…。お?あそこええな」
狸が指さしたのは、モールを出た所から見える、少し離れた臨海公園。ベンチが点在しており、人の入りはまばら。あそこな
らば誰かが近付いて来ればすぐに判るので、盗み聞きへの対策はバッチリだとヘイジは判断する。
広々としたそこへホットドッグとコーラを買って移動し、ベンチに腰掛けると、ヘイジは食事しながら、高度なAIを搭載す
る機械が大穴に投入される事への懸念点について、少年に説明を始めた。
「タケミはんも組合の研修やら、昇格試験の勉強やらで、大隆起以前に伊豆半島がどないな都市やったか知ったと思うけど…。
研究都市伊豆…ジオフロントも含む半島丸ごとを支えとったAIの名前は覚えとるやろ?」
「はい。超高性能AI…「チエイズ」…ですよね?」
「せや。当時最高峰…ってか何世代も先取りしたような、現在でもそれ以上の物が生まれてへんAIやな」
当時最高の科学者を集め、研究者を招聘し、技術者が集結し、国運すら委ねるレベルで注力した国家プロジェクト。その中枢
に近い位置で全体を補佐、管理する役割だったのがチエイズ。
研究都市伊豆、ジオフロント、そして伊豆生命研究所…、かつて伊豆で行なわれた研究、開発、成果、それら全てはチエイズ
のサポートがあって成し得た偉業である。ただし、現在はジオフロントへのあらゆる情報アクセスが死んでいるため、チエイズ
がどのような状態にあるのかは憶測の息を出ない。
ジオフロントはチエイズのおかげであらゆるハッキングを遮断され、正当なアクセス方法でしか外部へ情報を持ち出せないよ
う、厳重に管理されていた。機密情報を保護するプロテクトが強固な上に、データは外部からのアクセスでは表層部しか確認で
きず、あらゆる研究資料類はデータとしての持ち出しが不可能だった。
それ故に、ジオフロントのデータベースも施設そのものも現状を確認できなくなった大隆起以降は、当時の研究内容が完全に
は把握できない状態となっており、既に実用化され、再解明が進んだ物だけが活用可能となっている。
「で、チエイズが狂って人に牙を剥いたて、そんな説もある。聞いた事あるやろ?」
少年は頷く。チエイズが発狂し、予測できていながら大隆起を警告せず、災害に乗じてジオフロントを掌握したという説は、
多数が信憑性を認める通説の一つとなっていた。
勿論それも憶測に過ぎないのだが、自然発生するはずがない有害な霧が、絶えずジオフロントから出続けているのは確か。機
械人形の生産、修理、バージョンアップなどは、確実にジオフロントの製造プラントで行なわれている。大隆起以降、誰かがジ
オフロントに籠って占拠しているという現実味が薄い陰謀論などもあるが、真っ当に考えれば大隆起以前と同様にチエイズが統
括し、手足となる人形や自律機械を生産し、霧を流出させていると見るべきである。
(でも、所長は…)
少年は金熊の顔を思い出す。
昔々の話…大隆起前、ジオフロントが正常だった頃の話をする時、ユージンはチエイズの事も話してくれた。
(人類の味方だって言ってた…。何が起きたら、人類に敵対したり、狂ったりしてしまうんだろう…)
そんなタケミの胸中はともかく、ヘイジの解説は本題に入る。
「チエイズは高度な人工知能。今現在の最先端AIや演算設備でも歯が立たへん、今となってはどうやって生み出されたのかも
判ってへんオーバーテクノロジーみたいなモンや。…で、そこが問題なんや」
「そこ、ですか?チエイズが高性能な事が…」
「せや。機械人形の自律システムは比較的シンプルやけど、あれも一種の人工知能…。それを統括しとるのは、今の状況から考
えればたぶんチエイズなんや」
「…そう、ですね…。チエイズが人類と敵対しているなら、機械人形が人を襲うのは、あっちの意志みたいな物で…あ!」
タケミの目が大きくなった。気が付いたと察したヘイジは、神妙に頷く。
「せや。「半端に自律機能を持っとる機械はチエイズに支配されてまう」。…チエイズ以下のスペックのAI、自律型プログラ
ム入りの機械類なんかは、恐ろしゅうて同伴させられへん」
これを聞いて少年は絶句した。考えてみれば、潜霧士のナビゲーションシステムや他の電子機器類も、単純な物を含めてAI
が搭載されていない。OSの類なども簡単な情報のフィルタリングや情報掲示を行なう程度で、自己判断する機能はオミットさ
れている。大穴の中の記録を自動で保存しないようにセキュリティが働いているのもそうだが、チエイズの影響下に「自動で動
く物」を持ち込むのは危なっかしいというのが真相だった。
想像するだけで恐ろしかった。自分が頼りにする端末が、悪意を持って誤情報を流したり、必要な情報を隠したりするような
挙動を行なうのは。
「チエイズって、優秀な人工知能だったって聞きましたけど…。どうして人類に敵対したんでしょう…」
「せやなぁ…。高性能な人工知能やったチエイズは、機能面が優れとっただけやない。人格者そのものの倫理観や判断力まで備
えとったらしい。人類愛を持ち、倫理観もばっちりで、研究者が人道に背くような実験をする時には止める役目もあったて聞い
とるわ。もうチエイズと対話した経験があるモンはみんな死ぬか年寄りになってもうたけど、直接知ってはった年寄り達は皆が
おかしいて言うとった。「アイツがそんな真似するなんて信じられん」て…。機能と安全性、そして内面…、何もかも完璧やっ
たさかい、どこから考えても狂ってまうなんておかしいてな」
(所長が言ってたのと同じだ…)
「チエイズ自体が機密の塊やから、誕生経緯もワイらには判ってへん。同レベルのモンを再構築するのも無理やて。人類には過
ぎたモンやったんやろか…」
そんな話を聞きながら、ふと少年は思い出した。
外から来た神様を拾ってしまったので。
かつて祖父が漏らした言葉。伊豆が研究都市になった理由を訊ねた際の言葉。ユージンに訊いても鼻で嗤うだけで、答えが無
かった言葉。
「あの、チエイズって外国から来たんですか?」
タケミの問いに、「いや、国産のはずやで?」と狸は考えながら応じる。
「開発した中には外国人も居ったはずやけど、主体はこの国や」
「…「外から来た神様」って、聞いた事ありますか?」
「へ?」
ヘイジは素っ頓狂な声を上げる。急に話題が変わったような気がした狸だったが…。
「ふ~ん…。タケミはんのお爺はんが、そうおっしゃったて…?」
話の出所を聞いて唸った。聞いた覚えのない言葉だが、潜霧の第一人者、もはや伝説とも言える地下の生還者が、伊豆半島が
研究都市になった理由を問われてそう答えたのならば…。
「子供相手やったから、何かを神様に例えた…?いや、チエイズの事やないはず…。最初に研究都市の候補地選定があって、そ
れからチエイズの配置て順番やったはずやしなぁ。それにしても…」
狸は眉根を寄せて、何故か妙に引っかかりを覚える部分について考えた。「外から来た神様を拾ってしまったので」というこ
の言葉に、やけに胸がザワついてしまう。
「「外」って事は外国…やろか?当時やったら「半島」の外は「本土」て言わへんやろし…」
「伊豆半島はフィリピン海プレートの上に乗っていて、昔は遠く離れた所にあったとか…。そんな説を聞いて、その事かな?と
も一回思ったんですけど…」
「ん~…。伊豆半島自体を「神様」て表現した訳やろか?恵みとかそういったモンをもたらしてくれたとかで…」
そうであれば、伊豆半島が研究都市となった理由への返答と思えなくもない。しかしそれでも気になる点がある。
「タケミはん。「拾ってしまったので」て、お爺はんはおっしゃったんやな?」
「はい。そこが印象に残ってるって言うか…、何だか…」
ふたりの印象は一致していた。
「拾って「しまった」ので」…。
(大将がタケミはんに聞かれても何も答えへんかったのは、それがジオフロントの情報に触れる事やから…か?それともやっぱ
り、子供の質問をはぐらかすための方便やったから?何にせよ、ええ印象がない表現やで…)
そう考えはしたが、ヘイジはすぐさま後者…タケミの質問をはぐらかすための方便ではないだろうと思い直す。答えられない
質問、あるいは説明したところで理解できない質問をされて、子供をはぐらかすか納得させるならば、もっと判り易い作り話で
もすれば良いのだから。
そもそも、伊豆半島が地質的に本土と異なるという意味で「外から来た神様」であったならば、言い換える必要など全くない。
地質的に珍しいのでと、そのまま説明すればいいだけである。
「いや…、おかしいで…?」
ヘイジは我知らず呟いた。そしてその瞬間に首周りの毛を逆立てる。
「おかしいって…」
何が?とタケミが言う前に、狸は「順番が合わへん…」と唸った。
ヘイジが知る伊豆半島…研究都市伊豆の起こりはこうである。
まず、場所の選定があった。誘致で成果を上げたのは当時の地元の有力者の活動だったとも言われているが、それはまず置い
ておく。とにかく伊豆は「複数の候補の中から選ばれた」。
それから開発が行われた。山と谷ばかりの半島を埋め立て、掘り返し、台地の形状に均した。これは実際に作業が行われ、現
在に近い形になったので間違いない。
そしてその途中で地下の大空洞…後のイズ・ジオフロントの中心となる空洞が「発見された」。
研究都市開発計画そのものは、伊豆半島や、後に発見されたジオフロントありきで立てられた訳ではない。…はずだった。
「…タケミはん。今の話、あんまり言わん方がええかもしれへんで…」
ヘイジがそう言った意味を、顔色が悪くなった少年は理解していた。
「外から来た神様」こと、「伊豆半島の何らか」が原因となって研究都市が造られた…。タケミの祖父の言葉がそういう意味
であったならば、選定される以前に伊豆の研究都市化は決まっていたと考えられる。
そして伊豆ありきで研究都市化や、他の事業が進んだのであれば、世間一般で知られている経緯は冗談では済まされないレベ
ルで念入りに詐称されているという事になる。それこそ国家レベルで。
そこまで大掛かりに、リスクが大きい偽情報の公式発信などという手間までかけた理由は…。
「…何かを隠したかった…からですか…?」
タケミの震え気味な声に、ヘイジは黙って頷いた。
最初に、「ソレ」があった。外から来た神様を拾ってしまった。だから伊豆は研究都市化された。
では順番を偽ったのは何故なのか?あたかも伊豆は候補の一つに過ぎなかったという体を装わせたのはどうしてなのか?
「辻褄を合わせる為…やろか?本当は順序が違うて、バレたらアカン理由て…。…あ」
狸は何かに気付いた様子で目を丸くした。同時に、同じ事を考えたタケミの白い肌がブワッと粟立った。
かつて、伊豆生命研究所で発表された、時代を先取りする新機軸の様々な医療技術。それまでの常識を覆す新説や新理論。ひ
との技術に生じたそのブレイクスルーは、もしかしたら人類が自力で到達し、通過したのではなかったのではないか?それらは
「何かを基にして成立した」ブレイクスルーだったのではないか?その「何か」こそが…。
ヘイジは「いや…」と首を振る。想像の域を出ないのだ、と。材料も証拠もない妄想に過ぎない、と。
「大将には、話したんやったな?」
「はい。でも…」
ユージンの反応についてタケミが細かく、受けた印象まで伝えると…。
「たぶんアカンやつや。これ」
ヘイジは額に手を当てて呻いた。
少年は、面倒見がよくて子供にも付き合いが良かった当時のユージンの態度としてはおかしいと感じている。ヘイジは、それ
とはまた別に、より客観的におかしいと思った。
ユージンはぶっきらぼうなようで根は親切な男である。相手が口にした情報の中に、為にならない勘違いや、後々不都合を生
じそうな間違いがあれば、損や害に繋がらないよう訂正してやる。だから、子供だったタケミに対してそんな態度を取ったのは、
その問いから遠ざけるためだったのではないか、とも思えた。
答えなかったのは、当時のタケミに教えるべきではなかったから。
否定しなかったのは、タケミの祖父の言葉は間違いではないから。
そう考えると辻褄があうようにも思え…。
「…もう一回、聞いてみます。三等潜霧士になったら…」
少年は手元に視線を落としながら言った。
「ジオフロントに行けるようになったら、話せるような事なのかも…」
「…せやな。それまでは、ワイに話した事も黙っとった方がええやろ。ワイも誰にも言わへんし…。この話、ワイの他にも誰か
とした事あったん?」
「アル君になら…。ずっと昔、小学生の頃ですけど」
「ま、それはノーカンやろ。判るはずもないて。一応聞いとくけど、アルはんは何か言っとったん?」
「ええと…、あの時は確か…」
ある秋の宵、鈴虫が鳴く縁側で、色白の線が細い男の子の隣に胡坐をかく、ムチムチした短パン一丁半裸姿のシロクマは、
「ふぉんふぁふぉふぉっふは?(そんなことっスか?)」
話を聞くなり、四分の一サイズの西瓜をシャグシャグ食べる合間に応じた。夢中になって食べるあまり、溢れた果汁がダラダ
ラと垂れてズボンを湿らし、パンツまで染みているがお構いなしである。
「カミサマなんスから、どこから来たかなんて決まってるっス!」
「え?決まってるの?」
驚いている男の子に、いつも教えられる側のシロクマはちょっと得意げになって応じた。
「カミサマは空に住んでるっス!テンゴクとか、テンカイ?とか、ゼンブ空にあるんスよ!だから、カミサマは上から来るっス!
つまり!」
シロクマは星が瞬く宵の空を指さして断言した。
「カミサマが来た「外」は、空の事っス!」
「…って、言ってました」
「なっはっはっ!アルはんには敵わんわ~!」
当時のアルが口にした無邪気な答えを聞いて、ヘイジはカラカラと軽快に笑った。
なお、昔は無邪気で今も相当無邪気なアルは、今頃は講習でだいぶヘバっている。
そして、日も暮れた後…。
「は!?」
素っ頓狂な声を上げる金熊。
事務所兼自宅のリビング、ユージンの真ん丸になった目が見つめるのは、大画面テレビに映し出されている、障害物と道が碁
盤のようになっているゲームステージ。
二頭身のコミカルなゲームキャラクターが爆弾でバトルロイヤルを行なうという、内容的にはどう見てもデスゲームでしかな
い物を、ポップでライトな曲調のBGMとグラフィックで対戦ゲームに落とし込んだ往年の名作多人数対戦ゲーム。そのゲーム
で、ユージンが操作するキャラクターは、ステージ右端の通路を歩んでいる所で、上と下と左に次々爆弾…通行できない障害物
兼即死攻撃オブジェクトを設置されていた。
直後、爆弾は爆ぜ、爆風が駆け抜け、無惨に爆死するユージンのキャラクター。絵に描いたような見事な封殺であった。
「イエス!所長また一抜けっス!」
ガッツポーズするアル。本人に煽る意図は無い純真無垢な煽りである。
「は、謀ったなヌシら!?」
「え?そ、そんな事は…!」
「これも勝負やで、悪く思わんでや大将」
「端っこ歩いてるのが悪いんス。ケーソツ。ケーソツがち。そしてペーソス。ペーソスぎみ」
「前から気になってるんだけど、アル君のそういう謎の語彙、どこから来るの…?」
それぞれ夕食を終えてから帰宅した夜半。講習会を頑張って受けたアルへのご褒美で、晩飯には約束した通りお気に入りの店
のトンテキを食わせてやった上で、要望に応じてゲームに付き合う事を了承したユージンは、四人対戦で既に9セットほどコテ
ンパンにされていた。
ユージンは驚くほどゲームに弱い…というか操作が下手糞である。ボタンの位置を確認して、いちいち手元のコントローラー
を見る動作を挟む。そもそも太過ぎる指でボタンを同時に押し込んだりもする。操作に連動するようにして体が妙に揺れる。そ
んな、典型的なゲーム初心者の挙動なので、もはや勝つどころの騒ぎではない。
「大将、機械が苦手ってわけやないでしょうに、何でダメなんやら…」
「繊細な装置を壊さねぇように動かすってだけで気を使うんでな」
などと零しながら缶ビールを煽る金熊。なお、おつまみは先に帰っていたタケミとヘイジが作っておいた焼きビーフン。安価
な品が食の中心だったヘイジは、家計に優しいレシピに限られるが自炊できるので、タケミの手伝いもテキパキこなせる。
「アル君、明日はダリアさんの所に帰るんでしょ?」
「うス!カタモミ!コシモミ!オヤコーコー!」
週末なので実家に帰るアル。なお、バストの重さで肩が凝るダリアにとって、アルの肩揉みは毎週の楽しみになっていた。
「ワイはちょっと出かけますわ。日曜の夜には帰って来ますけど、何や用事あったら直通コードで連絡お願いしますわ大将」
と告げるヘイジは、笑顔ではあるが若干引き攣り気味。というのも、古巣の土肥に、後輩のキジトラ猫達から招かれているか
らである。なお、飲み会は先輩であるヘイジの奢りという事が黒豚の提案で決定されてしまっている。
(あ。と言う事は、週末は所長とボクだけになるんだ)
タケミの霧抜きもあるので潜霧の予定は週明け以降。久しぶりにユージンとふたりだけの週末である。
「あの、所長の予定は…」
「ん~…?」
冷蔵庫に缶ビールを取りに行っていたユージンは、腰を下ろしてプルタブを起こしながら応じる。
「予定は何も入れとらんし、買い出しの必要もねぇ。久方ぶりに昼間から酒飲んでダラダラ過ごすか。カズマちゃんに貰った酒
も、秋の新酒もある。一日のんべぇも悪くねぇな」
そう応じてグビグビとビールを飲むユージンは、妙に機嫌が良さそうに見えたが、シロクマと金熊の研修施設でのやり取りを
知らない少年が、その理由に見当をつけられるはずもなかった。
(平和だなぁ…)
判らない事もまだまだあって、気になる事もいろいろあって、仕事には危険も伴って、それでもタケミは束の間の平穏を、目
の前にある平和を、有り難い物として噛み締める。
そして翌朝、アルとヘイジが一緒に船外機付きボートで小島を離れ、普段通りに起床したタケミが食パンを焼いて、ベーコン
エッグをおかずに一人で朝食を取り、料理番組を見たり、売り出しの広告をチェックしたり、小島の桟橋で釣りをしたりと、の
んびり過ごして昼が来ると…。
「おう、おはよう…」
体中寝ぐせだらけの金熊が、上は紐が一本解けて着崩れた甚平、下は褌という、やたら涼し気な恰好でリビングに降りて来た。
クア…、と欠伸するユージンは巨体丸ごと酒樽に漬け込んだように酒臭いが、これは明け方五時までずっと酒を飲んでいたせい。
「おはようございます!お昼ご飯、どうしますか?」
「おう…」
タイミングよく、ユージンの腹がグゥ~ッと鳴った。
「…魚でも焼いて食うか。この匂い、釣ってあるんだろう」
鋭い嗅覚で少年が魚を釣っていた事を察したユージンは、前合わせの所から手を突っ込み、モソモソ腹を掻きながらニィッと
相好を崩した。
「ヌシも昼飯はまだだな?天気もいいし、庭で雑多な網焼きと行くか」
「はい!」
かくして、ひと眠りしても酔ったままで態度が柔らかいユージンと、それが嬉しいタケミは、庭に鉄網とグリルのセットを出
して、今日釣ったばかりの魚と、網に入れて海水につけておいた貝類、冷蔵庫にある物と合わせて網焼きで昼ごはん。
庭の丸太ベンチに座るユージンは、タケミが幼い頃にそうしていたように隣に座らせ、一緒に焼きながら食事を楽しみ…、
(え?まだお酒飲むの?)
早くも迎え酒をやり始める。磯物の塩気でアルコールを楽しみ、酒盛りなのか食事なのか遊びなのかも判らないバーベキュー
の始まりである。
「タケミ、ベーコンかハムはあったか?」
「スライスベーコンはまだ結構ありました」
「おし、長葱をベーコン巻きにして焼くか!」
「はい!」
思いついた物をその都度持って来て焼くという、行き当たりばったりな自宅バーベキューは、一日飲んで過ごすとユージンが
決めた日に突然勃発する。ユージンにしてみれば目の前でツマミを焼いて酒を飲むという楽しみで、タケミにとってはちょっと
したイベントのような楽しみ。なによりこういう時は金熊が常に酔っているので、昔のように優しい点も嬉しかった。
「アル君とヘイジさんが居る時にすればよかったですね?」
「そうかぁ?あいつらが居るとワシの食う分が減る。特にアルだ、片っ端から我先に取ってくせいで、こっちはおちおち味わっ
て食う暇もねぇ」
口を尖らせる金熊の口調と不満がおかしくてタケミが笑い、その反応を見てユージンも笑う。
「ヌシは気にしねぇで良いから、たっぷり食うんだぜ。ええ?」
「は、はい…!」
肩を組んできたユージンに、少年は顔を赤らめて頷く。
が混じり合った、何とも言えない体臭が鼻孔をくすぐるが、不快ではない。むしろ、加齢臭と思しき物も含めて、タケミはユー
ジンの匂いが好きだった。
「で、でも…。あまり食べ過ぎるとまた太っちゃうかも…」
「ぬはははは!気にすんな、ワシの腹なんかこうだぜ?比べりゃあヌシなんぞまだまだだ!はっははは!」
甚平の薄い生地越しに出っ腹の肉を鷲掴みにして揺すって見せるユージン。ただでさえ目立つ腹が、豪快に笑うと大きく弾む
ように揺れて一層目立つ。
「だがまぁ、コイツはヌシのせいだぜ?ええ?」
「え…?」
芝居がかった様子で声を低くし、ユージンは酒臭い息でタケミに囁いた。
「ヌシが作る飯が美味いせいで、ワシもブクブク肥えちまう。前はダリアのとこでたまの贅沢を楽しむ程度だったが、ヌシと暮
らすようになってからは毎日飯が美味い。こいつは、うむ。ヌシのせいだな。ぬはははは!」
肩を組まれているので笑う震動が直に伝わって来る。笑っていいのかどうか少し迷う少年。確かに以前と比べればユージンの
体は少し肥って緩んできたようにも思えるが、それはもしかすると加齢のせいではなく…。
(ほ、本当にボクのせいだったり…)
飯が美味いと褒められて嬉しいのが半分、本当に自分のせいかもと済まなく思うのも半分で、少年が浮かべたのは微妙な半笑
い。現在のユージンの腹は一年半自分が肥育した成果だと思いたくは無いが…、割と信憑性のある話である。
ユージンが一人暮らししていた頃は、外食か適当に温めた冷凍物か海で獲った物を不規則に摂っていた。栄養価よりも手軽さ
を重視し、たまに美味い物にありつければ良いという、自身の体の丈夫さを担保にしたエネルギー取得中心の不摂生な生活スタ
イルである。酷い時には大穴にダイブしたまま何週間も過ごし、その間は霧にまみれて因子が変異した現地の動植物を生で食す
という事も珍しくなかった。タケミと暮らし始めてバランスは改善されたが、食事量が増えたのも事実。
気まずさと嬉しさが半分な気持ちを誤魔化すようにタケミが酒瓶を取り、御猪口に清酒を注いでやると、ユージンは喜んで耳
を倒し、目じりを下げて笑った。
「ヌシとアル坊も早く酒が飲める歳にならねぇもんか…」
口元に運んだ御猪口をチビッと舐めて、金熊は「その日が楽しみだぜ」と口の端を上げる。
「最初に飲ませる酒は、実は決まっとる」
「え?どういうお酒ですか?」
当然気になってタケミが尋ねるも、ユージンは「まだナイショだぜ」とウインクする。
「だが、ヌシらにはこれ以上ねぇピッタリの酒だ。ワシが手取り足取り、酒の飲み方も酔い方も教えてやろうな。…いや、案外
同郷の連中なんかと先に飲む機会があるか?う~ん、一番乗りは難しいか…」
チビリと酒を啜ったユージンは、「お、そうだ!」と何か思いついたように笑みを深めた。
「まだジャガイモがあったろう?ワシらで焼いて食っちまおうぜ」
「え?良いんですか?」
因子汚染に対する忌避感から、伊豆半島の海産物は在庫がダブついて地産地消、軒並み安価になる一方で、農地などが不足す
る伊豆では新鮮な野菜穀物肉類は高値の食材。ジャガイモは少し贅沢をして箱買いした物がまだ少し残っていた。
「アル坊もヘイジも今日は美味ぇモンを食うだろうぜ。ワシらが気兼ねする事ぁねぇ」
と述べるユージンだが、自分が美味いツマミにありつきたい気持ちも確かにあるものの、本音を言うと、出かけなかったタケ
ミに良い思いをさせてやりたいのである。
普段は上司として、指導者として、先達として正しく導くために厳しく接し、甘い顔をしないが、本心ではタケミが可愛くて
仕方ない。大事な大事な少年を、ユージン本来の性格ではベタベタに甘やかしたいほど。常に自制しているので普段はそのそぶ
りも見せないが、逆に言えば平素から甘やかせないストレスを抱えているとも言えて、酒でタガが緩むと相当甘やかし気味にな
る金熊であった。
「せっかくだ、網焼きバター醤油ジャガにするか!」
「それじゃあ準備します!」
強く要望されたタケミが、喜んでジャガイモを取りに行ったその頃…。
「どうスか母ちゃん?オレ上手くなってるっス?」
ベッドでうつ伏せになっている虎婦人の足側で、右脚を膝から立てさせる格好で起こし、脹脛を揉んでいるシロクマが、得意
げに視線を向けた。
せめてこの程度は孝行できなければと、アルは帰国してからマッサージの教本データを購入し、色々と勉強した。育ててくれ
たタケミの祖父の肩なども昔からよく揉んでいたので、適切な力加減は心得ている。
「ああ、だいぶ…、イイよ…。はぁ~…。揉まれるそばから、解れてくのが判るねぇ…」
完全にリラックスモードのダリアが身に付けているのは「大きい」とバックプリントされたシャツ。例によってアルチョイス
の謎デザイン。確かに大きい、が、そんな事は見れば判る。体も胸も腹も。
教本を読んでほぐすポイント、凝り易い個所などを学習した今、シロクママッサージはダリアがうっとりして液体のように脱
力するほど心地良いレベルに進歩していた。雌虎は時折「はふぅ…」と絞り出されるように心地良さげな息を漏らしている。
「気持ち良かったら寝ちゃって良いんスからね?夢の中の母ちゃんを隅々までマッサージするっス!」
「そうは行かないよ。ふぁ…!」
ベッドを回り込んで頭側に立ったアルが、組んだ腕に顎を乗せているダリアの背に手を乗せ、肩甲骨の間を親指で押し込み刺
激する。料理に立ち仕事にバストの重さと、背中や肩が凝る要素には事欠かない雌虎の僧帽筋は、柔らかな脂肪層の下ではだい
ぶ筋張っている。筋肉繊維の中にスジのように走る凝った部位を、シロクマの指がコリッ、コリッ、と押して鳴らし、丁寧に解
してゆく。
「夜は仕事なんスから、今は休んでおくのが良いっス」
ダリアの仕事は潜霧士達が引き上げて来る夕刻以降。その日の仕込みは当番制で店の者がやるが、開店時にはマダム・グラハ
ルトが居なければならない。アルが帰って来る週末は、普段休息に当てている日中の時間帯を養子と過ごすため、ダリアは生活
サイクルを変える。それで疲れては元も子もないと、シロクマは養母に寝て良いと言うのだが…。
「でも、アンタの夕飯は作らなきゃね…」
水入らずの週末くらい、普段親らしい事をしてやれていない分だけ尽くしてやりたい。それがダリアの正直な気持ちである。
「グラタンとかどうだい?」
問われたアルは、「グラタンっス?」と視線を少し上に向けて、そういえばしばらく食べていなかったと思い出す。
「ああ。チーズとマカロニ、シーフードたっぷりなグラタンさ。思い切りクーラー利かせた部屋で、映画でも流して、熱々のホ
ワイトソースをハフハフ食べるってのは、贅沢だろう?」
「いいっスね!グラタン賛成っス!」
週末だけ一緒に過ごす親子は、こうして今日も仲睦まじく日中を共にする。
また一週間後、次は何をして過ごそうかと、話し合いながら。
そして、半ば強制される格好で土肥に呼び出されたヘイジは、余裕をもって早めに現地入りしていた。
昼飯はどうしようかと考えながら、脚は自然にバスロータリーから離れ、賑わっていない方向へと動き出す。ジギリとはいえ
一応破門の身、俵一家のお膝元で、傘下の組の者や見知った相手と出くわすのは気まずい。
(下手に流行りのラーメン屋にでも入ってばったり顔見知りに会うてまうのは普通に下らへん…。せや。昔住んどったアパート
の辺りでも見に行ってみ…)
ピタリと、脚が止まった。
行く手に一人、浴衣姿で隻腕のゴールデンレトリーバーが立っている。向こうもこの遭遇は予想外だったようで、目をパチク
リさせているが…。
踵を返す狸。
腰を軽く沈めるレトリーバー。
直後、互いに全力疾走で通りを駆け抜ける二頭。
「何で追って来るんやニノミヤはん!」
指を伸ばした手を素早く前後させる、妙に綺麗なフォームのダッシュ狸。
「じゃあ何で逃げるんだヘイジ君!」
片腕を胸の前に当てる前傾した格好で、忍者のような姿勢のダッシュレトリーバー。
「気まずいからや!」
「正直か!とにかく話を聞かせて貰おうね。ようこそ土肥へお越しになりましたお客さん!」
「やめて!急に接客モードで話しかけんで!ワイ湯屋に行くつもりやあらへんで!?」
「じゃあ何処に行くんだ!?教えてゴ、ラ、ン♪」
「コッワ!ニノミヤはんの猫撫で声コッワ!って…」
狸は前方を注視する。
行く手に一人、やたら芋くさいデザインの小豆色ジャージを着た、片脚が義足のツキノワグマが立っている。向こうも完全に
予想外だったようで、目をパチクリさせているが…。
腰を落とす熊。重心を低くして腕を左右に広げたキャッチの姿勢は、相撲で見られる雲竜型の横綱土俵入りにも似ていた。
「イタヅ先生!?なんでやねん!」
悲鳴に近い声を上げたヘイジは、ダッシュ中にずれてきた眼鏡を戻し、意識を集中。
ダイバーズハイ。推奨されないその無駄遣いで全神経を研ぎ澄ませ、疾走姿勢から前傾して重心を低め、フェイントを交えた
方向転換でツキノワグマを迂回する突破を試み…。
「甘い!」
右に踏み出した狸の進路に、グッと肩を入れて圧をかける熊。
「温い!」
即座にステップチェンジし、肥った体を揺すって逆方向へ体を振る狸を、腰を捻って正対した状態に捉える熊。
「拙い!」
「ぎゃあ!」
フェイントを、読んで潰して三拍子。ラグビーのようなタックルで捕らえられ、地面に押し倒されたヘイジは、そのまま腕を
取られて寝技に持ち込まれ、あっという間に腕ひしぎ十字固めをかけられた。ダイバーズハイを平常状態のまま捕らえるという、
絶技の酷い無駄遣いである。
「ナイスです先生!実にお見事!」
「こんぐれぇはまだまだ朝飯前だべ」
「現役時代と変わってへん手際にヒクわー!ってアダダダダッ!」
笑い合う二人の間で、「ギブギブ!折れてまう!折れてまうて先生!」とタップするヘイジ。
流石に目立ったので人が集まって来て、「あれ俵一家の?」「呼び戻されたのか?」「やっぱり大親分も惜しかったんだろう」
と、興味津々の野次馬が推測を語り合い始める。
「やめてー!放してー!晒し者にせんでー!」
「よぉし、放す代わりに今から一杯付き合って貰うが!」
「良いですね!では我らが湯屋へ…。お客様ふたりご案内~!」
「ええええええええええ!?」
こうして、なるべく知己と会いたくなかった狸は捕獲され、本番前に昼間から強制的に古馴染みと飲み会をする羽目になった。
色々あったので敷居が高く感じられているが、本人はともかく、ヘイジは今でも皆に好かれたままである。
そして、その日の太陽が沈んで一時間後。
パチパチと爆ぜる火を、ずんぐりとした影が挟んでいる。
そこはビルと見間違えるほど大きな船の甲板。かつては立派な客船で、今では朽ちてゆくだけの巨大な亡骸。その上で男が二
人、焚火を挟んで座っていた。
「今日も北風だナ」
口を開いたのは、襟が黒く青が基調となっている法被のような服を纏った巨漢の狸。相撲取りのような逞しく肥えた体つきで
ある。
立ち上がれば2メートルはあるだろう大男は、廃材を組んで囲炉裏のようにした場所で燃える火で、竹串に刺した魚を、時々
向きを変えながら炙っていた。
湿度が高い大穴内では、火が必要な時は固形燃料などにトーチで点火するのが基本。乾燥した薪や火種になる物を確保するに
はコツが要るため、草木を燃やした焚火ができるのは採取技術が確かで経験豊富な証拠。
さらに、夜間に火を焚けば危険生物の注意を引いたり、刺激してしまう事もある。大穴内で夜を越し、火まで焚くのは、腕が
立つ証とも言えた。
大狸の左脇には雑嚢が、背負い蓑を上に被せる形で置いてあり、右脇には鞘に納めた刀のように筒に収納した、大きな和傘を
寝かせている。その脇には脱いだ下駄もきちんと鼻を揃えて置いてあった。身を軽くしてはいるが、いつでも危機に対処できる
体勢である。
焚火で焼いているのは岩魚だが、大穴の中で霧に晒されて育ったそれは因子汚染され、「本土」の物とは既に塩基配列が異な
る。
これは土蜘蛛などの捕食者から逃れるだけの泳力を発揮する上質な身を持ち、大穴の中で霧の成分が育てる栄養価が高いミズゴ
ケなどを主食にしているおかげ。
大きめの岩魚を六匹焚火で炙りながら、大狸はネイビーブルーの瞳を甲板の外に向けた。
気温が下がり、霧が地表に濃く溜まる、大穴の夜。伊豆半島南エリアではこの時間帯になると独特の風景が見られる。
それは、霧の海に、無数の船が浮かぶ光景である。
かつての大隆起で港が陸地になり、陸に打ち上げられたいくつもの船は、夜になると下部がミルク色の霧に覆われ、霧で煙っ
た海に停泊しているように見えた。
北側からの緩い風で、濃い霧はゆっくり南へ流れており、ずっと眺めていると客船が航行しているような錯覚に囚われる。
行き着く先で霧は長城の風車に吹き返されるが、それでも完全には阻めない。今日も南エリアの人々は霧の成分が濃く混入し
た空気の中で生きている。
やがて大狸は、串を取って岩魚に火が通った事を確認し、「焼けたよ」と、焚火の反対側へ声をかけた。
そこには、黒いメッシュのタンクトップを着込み、夜のようなディープブルーの戦闘用ズボンを穿き、釣り人が使うような折
り畳み式のチェアに腰掛け、黙々と大型の山刀…どんな素材でできているのか、銃器を思わせるガンブルーに輝くククリナイフ
を研いでいる丸い青年の姿。
一見すると判り難いほど肥って丸みを帯びているが、狐の獣人である。幅や厚みはともかく背丈は170センチほどなので、
床に胡坐をかいている大狸と比べると小柄に錯覚する。
剥き出しの腕や肩はそれなりに筋肉がついて逞しいのだが、タンクトップの生地を引き延ばす腹は臍の陰影がはっきり判り、
垂れ気味の胸のアンダーラインも判り易い。とはいえそれは贅沢をしてついた肉ではなく、低品質なカロリー食品を、若さを担
保に合理性と安価さで選択し続けている結果である。
くすんだ白のレインコートのような外套を畳んで脇に置き、その上にはグリップを挟んで上下対称に銃身を持つ、Hの形をし
た独特な銃火器が乗せてあった。いかにも重そうで扱い難そうなそれこそが青年の得物である。
狐は作業を中断し、傍らの小さな折り畳みテーブルにククリナイフを置き、代わりに塩の小瓶を取って大狸に放る。宙で受け
取った大狸は焼けた岩魚に塩を振って狐に放り返すと、各ヒレを引き抜くように取り除いてから軽く身を揉み、かぶりついた。
投げ返された瓶を取った狐もまた、同じように処理して岩魚にかぶりつく。
しばし黙々と食事が進んだ後で、大狸は飲料水入りの瓢箪をあおってから口を開いた。
「近い内に、そこそこ大きな地殻変動が起きるかもしれないよ」
岩魚にフゥフゥと息を吹きかけていた狐は、銅板のような赤い金属色の瞳を大狸に向ける。
「色々見て来たけど、中部以南で顕著に予兆が見えたナ。ぼくは一度こっち側から大空洞まで潜って、深部の様子も確認して来
るつもりだよ」
「………」
無言の狐を見返して、大狸は「ま、十年前みたいな被害にはならないと思うよ」と付け足す。
「けど、そろそろここは厳しいかもネ」
客船を見回す大狸。至る所に蔦が這い、苔と錆に浸食されて、船体はだいぶ傷んでいる。そもそも水上に在るのと陸に揚げら
れている状態では、船体にかかる負荷が違う。航行を前提に設計されている客船が、船底を土に埋もれさせた状態で40年も置
かれているのだから、各所の傷みは目に見えている以上に激しい。
狐は普段ここで暮らしている。この船の墓場が庭で、幽霊船が憩いの住まい。物資の補充などでゲートから出る事を除き、常
にここを拠点に活動していた。一度のダイブで何ヶ月も霧に潜り続ける大狸もそうだが、普通ではない。こんな生活をしている
のは彼らぐらいのものである。
「ウィル君。そろそろ、ここを離れる事も考える頃合いだよ」
大狸は甲板に視線を走らせ、そこに突き立てられている古びた武器…槍や銃などの七本の得物に目を止めた。
「ぼくが言えた事じゃないけどネ…。十年経ったよ。もう、充分じゃないかナ」
「………………」
狐は目を閉じ、耳を澄ます。
微かな風に軋む船体の声が、キシリ、キシリ、とくすぐるように鼓膜に届く。
やおら、パンッと小気味いい音が霧に響いた。
「ごちそうさまでした!」
胸の前で手を合わせた大狸は、満面の笑みで糧に感謝すると、荷物を掻き集めて腰を上げ、下駄をつっかけた。
「それじゃあ一晩部屋を借りるよ。明日は夜明け前に発つから、見送りはいらないからネ。それじゃあ、お休み」
狐は頷いて大狸を見送る。
そうして船室の一つを借りるべく、コロン、コロンと下駄の音を響かせる大狸が船内に消えて、ひとり残されると、狐は先ほ
どまで巨漢が座していた焚火の向かい側を見遣る。
残されていたのは、機械人形の希少部品が詰め込まれた、掌に乗るサイズの巾着袋。岩魚共々一泊の宿代として大狸が提示し
た物だが、かさばらないサイズの物ばかり集めたそれは、宝石を詰め込んだ袋と同等の値打ちものである。
「………」
狐は再びククリナイフを取り、研ぎ始める。微かな夜風と軋み音…慣れ親しんだそれに耳を傾けながら。
表情が判り易い大狸とは対照的に、終始無言だった丸い狐は、一切表情を動かさなかった。