第二十九話 「月乞い」

 潜霧団月乞いの事務所にあたるスペースは、街に点在する立方体状の建造物の内、最もゲートに近い物の中にあった。

 安全な居住区画が限られるため、この街では職が違う者も立場が違う者も、同じ建物に押し込められる。

 各立方体はいずれも九階建て、窓が取れる外周部が住民の居住用に割り当てられており、2LDKの統一された間取りにデザ

インされている。窓が無い内側には、小規模な店舗、作業場や物資配給所、物品倉庫などになっている他、洗濯乾燥室などの共

用スペースとして活用される。

 このエリアの各潜霧団は、一般人が住まう居住建造物に、コンクリートが剥き出しの通路と部屋を、ある程度纏めて占有して

一種の事務所としている。流石に一般人が同フロアに踏み入る事はできないが、同じ建物内に一般人が居住し、潜霧団が事務所

を構えるというこの状態が、南エリアの異様な環境を物語っている。

 つまり、安全な所など長城の外側にすら無い。これが「南」の常識。

 一般人居住区画に居を構える潜霧士達は、霧と共に壁を越えて迫る事も有り得る脅威から、日夜関係なく人々を護る寝ずの番

でもある。

 月乞いもこの例に漏れず、専用の建物に独立して本拠地を置いている訳ではなく、ゲートから最も近い集合居住建造物…言い

換えれば壁を脅威が超えて来た際に、最も早く危険に晒される居住区の最上階を根城としていた。

「俵一家とかとだいぶ違うっスね…」

 細かな亀裂がいくつも生じている床を見下ろして歩きながらアルが呟く。ゲートに到着してから微震を何度か感じた。小さな

地震や地鳴りは伊豆に住んでいると毎日何度もあるが、こちらでは熱海よりも頻度が高い。

 こちらに到着してから人間を一人も見ていないのも、聞いてはいたが奇妙な感覚。ゲートに常駐する係員も、長城の中で働い

ている者達も、全て完全に獣化した姿か、人間の部分が外見からは判らないほど残っていないステージ6である。

「ここじゃあ生きてるだけで贅沢だ。何もかも他所とは違うぜ」

 ユージンが応じ、タケミはここまでに見た殺風景な街…更地に建物が点在する風景と、霧のせいでやけに暗い夕暮れを想う。

(ここがサツキ君達の故郷…。事故の後は誰も帰っていなかったらしいけれど、この風景を見れば当たり前だって思う…)

 懐かしんで、あるいは何かの節目に、そんな普通に許されるはずの理由で帰って来るには、ここはあまりに過酷で、危険で、

懐かしむ景色も悼むべき物すらも残されていない。

 十年前の大震災。

 伊豆半島全域に甚大な被害をもたらし、各地で大規模な霧と危険生物の流出事故が起きた日に、最も大きな被害が生じたのが

この南側一帯だった。

 長城は崩落し、陸からは霧が溢れ、海は牙を剥いた。

 地割れと隆起によって乱杭歯のように変貌した市街地は、押し寄せた高波に洗われ、霧に巻かれた者もそうでない者も一緒く

たに失われた。

 十年経っても終わらない地盤整備に、人類の生息域の復興と復旧。

 まるで、巨大な災害が何もかも根こそぎ持って行ってしまった後のような景色。

 遮る物も無いにも関わらず、霧に煙ってはっきり見えない海岸線から、うら寂しく響く潮騒。

 何かがあって、そして永久に失われた傷痕。人の営みと生命の残り香が、極限まで薄まって、砂埃と霧の中に漂う潮風。

 怖がりのタケミですらも、被害を想って恐怖するどころか、あまりの「何も無さ」に呆然とした。皆はどんな所で育ったのだ

ろうかと、あれこれ想像していた風景など欠片も窺えなかった。

 普段の陽気さもなりを潜め、言葉も失って立ち尽くすだけだったアルの胸にあったのは、「寂しさ」であった。次に白神山地

へ帰ったら現状を教えてやろうと思っていたのに、土産話など持ち帰れそうに無かった。

 おそらく同級生達がかつて見た景色も失われ、昔の面影など何処を探しても残っていないのだろう。現在の長城の内側にかつ

ての長城の残骸が二本も残っている事から、街並みどころか居住可能区画自体が大きくずれたのは間違いないと、初めて来たタ

ケミにもアルにも察せられた。

(サツキ君が言っていた「ヤマギシ」っていうひとの事…、誰か知っていると良いけれど…)

 建物にはエレベーターの類も無い。完璧ではない除染空調の音が、老朽化して傷んだ大型換気扇の苦鳴のように低く重く響く

中、外も曇って霧が濃く、窓明かりもあまり入らないので薄暗い屋内を、一行は金熊を先頭に歩いてゆく。 

 狭苦しい通路は空気が湿っていて、霧が完全に排除できていない。先程通った階段に設置された霧の計測器には濃度が1%と

表示されていた。他のエリアであれば流出警報と避難命令が出される、生身の人間には危険な数字である。

 階段から各階の様子を覗けば、通路を挟んでドアがいくつも並ぶ、集合住宅のような長い通路が見えた。碁盤の目のように配

置された通路と住居、共有スペースとなる洗い場や物干し用の部屋。洗濯物や食料を運んでいるなどして姿が見えた住民は、一

同を一瞥しただけですぐ各々の作業に戻る。

(ここ、まるで戦時中の国みたいっス…)

 猟師として活動していた頃に海外で経験した、戦時下の国や紛争区域の、難民キャンプや避難壕にも似た空気を、シロクマは

感じていた。

 霧の中の生物を、生物兵器の研究目的で国家に売りさばこうとするディーラーは少なくない。そしてそういった商談に応じる

のは、紛争区域の国々ばかり…。必然的にアル達猟師が「狩り」を行なう舞台がそういった地域になる事も多かった。いつもの

陽気な振る舞いからは想像もつかないが、アルはタケミが経験した以上に壮絶な二年間を歩んでいる。

 そして、経験者であるシロクマが抱いたこの街の印象は、概ね正しいとも言える。

 この街は常に臨戦態勢であり、霧による攻撃を受け続けているとも取れる。暮らす人々の精神性や危機意識は、戦時下のそれ

にも似通っており、余所者である一行に向けられる視線には興味を宿す余裕もなく、単に危険かどうかを確認するために目が動

くだけ。

 潜霧士でない者は居ても、霧に無関係な者は存在しない。ここはそんな街だった。

「贅沢なもてなしは期待するなと言ったが、意味は判ったな、ええ?」

 ユージンの言葉に無言で頷く少年二人。建物全体に緊張感と、終わりなく続く霧との闘いによる疲労感が満ちており、気が休

まるとはとても言えない環境だった。だが…。

「それでも、ここの人達はここで暮らす事を選ぶんですね…」

 聞いていた話と、目の当たりにした過酷な環境。それらを合わせてようやく印象が固まった今、タケミが感じた最も大きな事

は、まさにその点だった。

「せや。ここで暮らす皆はんは諦めてへん。いつか霧からここを取り戻す…、そう心に決めてはるんや」

 ヘイジが頷くと、少年は小さく呟いた。

「…立派だと、思います…。危ないからとか、他所の方が安全だとか、軽々しく言っちゃ、いけない気がしました…」

 その言葉を背中で聞きながら、先頭を歩むユージンは一時軽く目を閉じた。

 臆病で怖がりなタケミは、いつしかひとの生き方を尊重できるようになっていた。

 気持ちが判る訳ではない。だが、そういう選択をした者達の覚悟を軽んじない。それはきっと、目の前で失われた命と、今も

首に下げている黒いメットの破片が教えてくれた事…。

「あそこから先が月乞いの縄張りだ」

 ユージンが歩きながら一行に告げる。一般人の立ち入りを制限している最上階への階段を抜けると、他のフロアでは反対側ま

で見通せる通路になっていた部分に大扉が設けてあった。その前には屈強な体躯のピットブルが立っており、ユージン達を見る

なり背筋を伸ばして踵を揃え、敬礼で迎える。

「お待ちしておりました熱海の大将。人払いも済んで、中の安全は確保しております。どうぞ、リーダーがお待ちです」

「おう。忙しい中悪ぃなアキデラ、邪魔するぜ。ああ、それと…」

 インカムで他のメンバーに客の到着を告げようとするピットブルを、ユージンは片手を上げて一度制すと、「持ち込んだ品が

ある」と言いながら斜め後ろのヘイジを見遣った。

「土産て言うのもささやかですけど、作業機に物資積んで来とります。後で搬入の都合つけてもろてええです?」

 目配せされて説明を任された狸が、持ち込んだ品目を記したデータを端末に表示して向けると、ピットブルは眼差しを鋭くし

て検分した後、大きく目を見開いた。

「こ、こんなに…!」

「ゲートの検疫は済んでますわ。運び込みの指示だけ貰えれば、ワイが作業機で下まで持って来ます」

 ボイジャー2は今回、運動性能が多少落ちる程の荷物を積載してきた。その大半…およそ1.5トン分は食料。圧縮された乾

物やカロリークッキーなど、日持ちする物ばかり選んであり、概算で1万食以上の量になる。

 現状、非常事態に備えた物資の備蓄が課題となっていた所へ、まるで要望を聞いて届けてくれたかのような嬉しい差し入れ。

「助かります!丁度物資面についての懸念で頭を悩ませていた所でした!」と、大層有り難がって恐縮するピットブルが、一同

をドアの中へ通し…。

『…にて機械人形の発見報告あり。順路に異常なし。危険度「低」。危険度「低」』

「こいつもこっちの日常…、ゲート近辺での脅威報告だ」

 電子音声が流れるスピーカーを見上げた少年達に、ユージンが説明する。他所からの助太刀も期待できないここでは、あらゆ

る脅威に一丸となって対処する。情報は共有され、常に誰かが出撃できる体制が維持されていた。

 その、少年達にとっては非日常で、ここの物達にとっては常識の中、フロアのほぼ中心の位置…通路の真ん中に設けられた扉

が一同を迎えるように開いて…。

「よう」

 ユージンが足を止め、軽く腕を上げる。

 後ろに従う三名も立ち止まり、所長の巨体の左右から通路の奥を見遣った。

 開いた扉の向こうから出て来た戦闘服姿の偉丈夫達四名が、通路の左右に整列して敬礼の姿勢を取る。

 そしてその後ろから、逞しい体躯のアラスカンマラミュートがツカツカと歩み出て、そのさらに後ろからのっそりと、弟以上

に大柄なグレートピレニーズが姿を見せた。

「変わりねぇな、月乞い」

 口の端を上げて目を細め、親し気な笑みを見せて破顔したユージンに、

「そちらもお元気そうで何よりです。熱海の大将」

 盲目のグレートピレニーズが穏やかに微笑み返す。

 あれ?と、タケミがマスクの中で眉をあげた。

 初めて聞く声である。流石に名前は知っているし、映像記録も見た事があったが、今日が初対面。なのに、聞いたばかりの第

一声、穏やかで深みのあるバリトンボイスに、まるで親しい馴染みの相手の声を聞くような安堵感を覚える。

「二年前とメンツに変わりはねぇな?上々だ」

「欠けない事に関してはその通り。しかし増えない事は悩みの種ですが」

 一攫千金を夢見て、最も危険な南に夢を見る駆け出し潜霧士は居る。だがここに定着する者は殆ど居ない。命からがら逃げ帰

るか、命を落とすか、霧から二度と戻って来ないか…、大半がこの辺りである。

 そして、知っている者ほど南には軽い気持ちで足を向けない。生活と命が大事ならば、他で仕事をするのが良いに決まってい

る。そうでなくともジオフロントにダイブするなら、準備が容易な他のエリアからアクセスするのが理に適っている。

 よって、南エリアは顔触れが変わらない。一時身を置く遠征組などを除けば。

「ヌシも元気そうで何よりだぜ、テンドウ」

 メンバー一人一人に声を掛けながら兄弟に歩み寄ったユージンは、兄の脇に控えた弟を見遣る。

「聞いたぜ。のっぺらぼうを単独で破壊したってなぁ。大戦果じゃねぇか?」

「お褒めに預かり光栄です!大将!」

 背筋を伸ばして大きな声で返答したマラミュートは表情を変えないが…。

(喜んでる…?)

(喜んでるっス)

(喜んではるわ)

 ユージンに声を掛けられた直後から尻尾を激しく振っているので、他のメンバーにも喜びははっきり判った。

「長旅お疲れでしょう、どうぞ中へ。行き届いた歓待はできませんが、紅茶と軽食を用意しました」

 ジョウヤが踵を返すと、テンドウはその脇を抜けて先に立つ。兄の足が向く先へ一度は先行し、安全を確保するのが弟のマラ

ミュートの習性になっていた。

(穏やかなひとって、聞いていたけど…)

 ユージンに続いて中に通されながら、タケミは自分の内心を再確認した。

 人見知りで臆病な自分にしては珍しいが、ジョウヤに対しては苦手意識を感じるどころか、声を聞いているだけで気持ちが落

ち着く。テンドウは厳しそうな印象から少し苦手意識を覚えたが、逆に言えばそれだけで、怯える程ではない。

(何だろう?団長さんの声…、安心する音程…なのかな?耳に心地良かった…)

 雪のように白い盲目のダイバー。

 歴代十名しか存在しない一等潜霧士の一人。

 ダイビングコードの「白波(しらなみ)」よりも、異能名であり本人の異名でもある「ドレッドノート(恐れ知らず)」で広

く知られる巨漢。

 底知れない生きる伝説。同じ時代を生きる偉人。そう知っているのに、タケミは何故か土肥の大親分と対面した時に感じたよ

うな緊張よりも、親しみのような物をジョウヤに覚えていた。

 

「…ま、打ち合わせしとくのはこんな所か」

 三十分後、互いの挨拶と自己紹介を済ませ、今回の南エリア滞在予定期間と、少年達の実地訓練を兼ねた潜霧について話を終

えたユージンは、紅茶が入ったカップをあおって喉を湿らせた。

 折り畳み式の長テーブルをいくつも寄せて、大テーブル代わりにした会議室。神代潜霧捜索所の面々と机を挟んで、月乞いか

らは二名…団長のジョウヤと副団長のテンドウが席についている。

 様々な設備や住民の居住区も内包した、立方体型の大型建造物。その最上階の北側半分…およそ400平方メートルが月乞い

の事務所およびメンバーの居住空間であり、それ以外は倉庫や資料室になっている。

 この簡素な部屋は応接室も兼ねているが、普段はメンバーが潜霧計画や打ち合わせを行なう仕事場である。それだけで余裕が

ない環境がひしひしと伝わってきて、タケミはお茶を出されたのも負担になったのではと恐縮してしまう。

「潜霧自体が経験になるし、試験に備えた潜霧実績も必要だ。こっちでのダイブ経験はゼロでも腕の方は保障する、存分にこき

使ってくれ」

「有り難く、巡回に設備点検などに付き合って貰いましょう。…ユーさんはどうするんですか?」

 ジョウヤがそうユージンに訊ねた瞬間、タケミもアルもヘイジもハッとした。

 ユージンを愛称で呼ぶ者はそう多くない。その呼び方だけで、白犬と金熊が実は親しい仲なのだと理解できた。

「一応単独行動。ゲート中心に歩き回って、目についたモンを片っ端から駆除だ。若手の授業料代わりに、仕留めたモンは全部

ヌシらにやる」

「太っ腹ですね。こちらは少し奥まで案内しましょう。せっかく南まで来たのなら、「間欠霧」や「幽霊船」などは見て行きた

い所でしょうから」

「そうしてくれ。ヘイジは作業機の学習がある。ここらの地形ならボイジャーのドライビングサポート機能にハードトレーニン

グを課せられるからな。運搬役やら連絡役やら何やら、とにかく距離を歩かせてくれ」

「何でもやりまっせ~!一番の若手はワイの愛機やさかい、こっちでの運用も大事な経験や!」

 ボイジャー2は自律機能を持つ機械類とは違い、システム周りも機体の造りも比較的旧式だが、ヘイジの操縦に慣れて追従性

能が上がったり、繰り返された操作をよりスムーズに実行できるようになったり、対物センサー類の自動判断能力が向上したり

と、乗れば乗るほどアップデートする。限りなくマニュアル操作寄りの機体ではあっても、使い慣らされた道具が新品よりも滑

らかに動くように、使い勝手を自己修正してゆくのである。

 加えて、操縦者であり構築した本人であるヘイジも、乗り回す事でボイジャー2の改良すべき箇所や、より良くカスタムでき

る箇所を把握できる。過酷な環境でこそハードルが上がるその確認作業は、いずれユージンが求める水準に到達する道程を縮め

てくれるはずだった。

(そらまぁ、「万が一の時にジオフロントから生存メンバー連れて脱出できるスペック、道中の機械人形との戦闘完勝も込みで」

て言われたら、南エリアぐらいは楽勝で駆け抜けへんとあかんわ…)

 ゴールは遠いなぁと、胸の内でため息をつく狸。

 そんな調子で打ち合わせが一通り終わると、ジョウヤが一行の休息に言及した。

「個室が四つ、もう支度はできていますので、すぐにもお休み頂けますが…」

「その前に、ヘイジに指示して物資を搬入させてくれ。あと、ワシはコイツを連れて医務室に向かうから、ドクに連絡を頼む」

 ジョウヤに応え、アルに目配せしたユージンは、メットを被ったままの少年をちらりと見遣った。

「…ヌシからタケミに話をしてやってくれ。「何もかも初めて」だ」

「はい。ではテンドウ」

 グレートピレニーズは微笑んで、「作業機を誘導して、物資の運び込みを監督しておくれ」と弟に指示を出す。

「は!お任せを!」

 立ち上がったマラミュートは、

(ああ、兄者の笑みは今日も春風の如し!)

 などと思いながらヘイジを案内して外へ向かい、ユージンは「飯はそれぞれで適当に食うぜ」と言い残してアルを連れてゆき、

タケミとジョウヤだけが部屋に残され…。

「………」

「………」

 静寂。揃えた脚の上に手を置いているタケミは、テーブルの表面に視線を貼り付けて黙り込む。紅茶が入っていた空のカップ

を分厚い手で覆っているジョウヤも言葉を発しない。

(何か話さなきゃ…。ええと、質問とか…)

 沈黙を何とかしなければと、固くなりながら考えるタケミだったが、聞くべき事が纏まらない。すると…。

「場所を変えようか。ここでは落ち着かないだろう」

 椅子を軽く鳴らして、グレートピレニーズが立ち上がった。

「は、はい。あの、どこへ…」

 目が見えないのだから手助けしなければと、慌てて立ち上がってテーブルを回り込もうとしたタケミだったが、

「とりあえずは僕の居室へ。除染もされているプライベートな空間だから、他者に気兼ねする事もない。そこなら君も楽な恰好

で居られるだろう」

 ゆったりとした歩調で、ジョウヤは会議室の出口へと迷わず移動する。その安定した歩みと、まるで見えているかのようにド

アノブを掴む動作に、タケミは疑問を感じた。

(あれ?確か目が見えないって…)

 訊いて失礼に当たらない事かどうか判断がつかなくて、タケミは大人しくグレートピレニーズの後について行き…、

「事務所内なら見えなくとも心配は要らない。間取りは勿論、何が何処にあるかも全て暗記しているからね」

「そ、そうなんですか…!」

 向こうから疑問の答えを提示して貰えてホッとした。

(やっぱり、何だか不思議な感じだな…。団長さん、初めて会話したのにあまり緊張しない…)

 せっかくなので訊くべき事を纏めておこうと、案内されながら少年は考えを整理した。

(…「ヤマギシ」っていうひとの事も、訊いてみようかな?)

 

「こりゃあ、だいぶ強い反応症状だな」

 月乞いとの面会後、熱っぽさが引かないアルを建物内の医務室へ連れて行ったユージンは、中年の医師からそう告げられた。

 医師も獣人で、マヌルネコである。歳はユージンと同じ辺りか、まだ五十代にはなっていない中年といった見た目。

 据わった目をした医師は恰幅が良く、流石にアルやユージン程ではないが、180センチ近い身長に、軽く見積もっても19

0キロ…人間であれば140キロ近いだろう大男。座った椅子もついているデスクも相応に小さく見えてしまう体格の良さ。肩

幅もあってガッシリしたプロレスラーが、歳を取って不摂生で太ってしまった…そんな体型である。

 胴周りと厚みがあり過ぎて、羽織った白衣が前で締められないマヌルネコは、アルの舌を覗いたり瞼の裏を確認したり熱や血

圧を計ったりした後で、ぶっきらぼうに言う。

「多少調子の悪さが感じられるだけで、体に危険は無い。…落ち着かんだろうから解熱剤と降圧剤だけ出しとく」

(あれ?意外と優しいっス?)

 いくらかマシになったとはいえ、まだ怠そうなシロクマを診察し、ユージンからステージ7である事を聞き取りしたマヌルネ

コは、アルの青い瞳を覗き込んでライトを照射しつつ呟いた。

「あ~…、こりゃあもしかすっと、そろそろ「出る」かもしれんな」

「ワッツ?「出る」?何がっス?」

 目を広げられて観察されているアルが、瞬きを我慢して大人しく診られていると、

「低ステージでは死傷に至る激変に及ぶような汚染数値の進行でも、既に獣人になった者にはあまり問題にならん。せいぜい少

し調子が悪くなる程度だ。逆に言うと、獣人になった者が霧で体調を崩すのは、「より霧に順応する事を肉体が選択した」ケー

スぐらいだ」

 と説明したマヌルネコはアルの顔を放し、フスーッと鼻息を漏らしながら椅子に座り直し、説明する。

「つまり、「異能が出る」時が近付いているのかも、という事だ」

「………」

 アルは黙り込んで固まる。繰り返す潜霧で慣らされてきたシロクマの肉体も、いよいよステージ8に近付いていた。

「ダイバーズハイもまだなのに異能の兆しとは…」

 ユージンが呆れた様子で笑う。

「つくづくデタラメだな、ヌシは」

「順番おかしいのは海外生活の影響っスね…」

 海外に持ち出された危険生物を駆除する猟師として活動してきたアルは、戦闘能力や狩猟技能がべらぼうに高い一方で、大穴

内の知識や探査経験、霧中活動の累計時間が同期の潜霧士と比べても極端に少ない。腕は立つが何もかもチグハグという、ある

種面白いとも言える状態である。

「ま、潜霧士として腰を据えた以上、経験も霧慣れもこれからは順当に重ねられる。今だけだ、今だけ」

「そうなるように頑張るっスハッスル。で、所長、先生?」

 シロクマは目を輝かせてふたりに問う。

「オレ、どんな異能になるっスかね!?」

「さぁ。ちょっと判らんな」

「即答っス!?」

 マヌルネコ医師がカルテを書きながらぞんざいに応じ、少年は大袈裟に目を丸くした。

「おおまかな分類というなら、当たるかどうか確実ではないものの、一応可能性として言える事はあるが…」

 医師はカルテに記したアルの特徴に、「アイカラー:スカイブルー」と項目を書き加えた。

 確実ではないが、獣化進行後に瞳に変色が生じた場合、瞳の色に異能の傾向が現れている場合が多い。

 金や黄色などが混じった瞳は「現象型」…気流操作や加熱、冷却、放電などの、自然現象の増幅や操作を行なえる者に多い。

ダリアの金色の目などがこれに該当する。

 白や銀が入った瞳の者は「干渉型」…対象の神経系などに干渉して誤作動を起こしたり、自身の不随意部位に干渉して身体性

能を引き上げたりできる者に多い。ヘイジの鉄色の瞳などもこれに該当する。

 このアイカラータイプによる法則性から言えば、アルはユージンと同じく「法則型」…既存の法則外にある現象を司る異能に

なる可能性がある。

 とはいえ、アルの瞳は生来青かった。人間だった頃は体毛がプラチナブロンドで、双眸は元々ブルーだったのである。毛色は

確実に変化したが、瞳の色は幼少期に比べていくらか薄くなると共に明るくなった程度。この瞳の色が獣化の進行に伴ってスカ

イブルーとなったのか、それとも元々の青が別の要素を加えられて変色したのか、それとも特に関係無く単なる成長期の変化な

のか、この辺りがはっきりしないので確実な事が言えない。

 そんな瞳の色の変化についてシロクマから聞くと、マヌルネコはカルテに走らせるペンを止めて考え込み、呟いた。

「ストレートに解釈するなら青系で法則型。色が薄まったとすれば、白系が入ったとも考えられ、干渉型も有り得る。そもそも、

目の色に異能の特徴が反映されない体質という事もあるんだが」

「早く知りたいっスけどね~。判るなら先に名前考えとくんスけど!」

 そんなシロクマと医師の会話を黙って聞いているユージンは…。

 

「異能の分類が大雑把に過ぎる。自己を対象とするか、外部を対象とするか、その程度の分類では何の参考にもならない。…と

いうよりは、今はまだそういった括りにするしかない、異能というギフトの未解明部分の大きさが問題なのか。もう少し細分化

し、系統立てて解明できれば良いのだがな」

 幅広い椅子でもなお狭苦しそうな巨体を揺すり、雑に切れ目を入れて塩辛いハムを挟んだ硬いパンをメリメリと噛み千切って、

見上げるほど大きな男がテーブルを挟んで座る中年に目を向ける。

 8メートル四方の無機質な部屋だった。壁も天井もコンクリート打ちっ放しで壁紙なども貼られておらず、剥き出しの壁にエ

アコンと換気扇が雑に取り付けられている。

 部屋の中央には樫の木材をそのまま組んだような素朴で重々しい四角いテーブルが置かれ、同じく樫製のウッドチェアが四つ

セットしてある。テーブル上には飲み物が入った瓶や、ジョッキやコップが置かれ、モサモサした硬いパン類と、塩気が濃い保

存用のベーコンやハム類が大皿に雑然と積まれていた。

「ミツヨシさん。建造中の大壁に集まっている研究主任達の態度、どう思う?ええ?」

 噛み千切るのも難儀するほど質が悪くて硬いパンを、事も無く咀嚼しながら話しているのは、北極熊の巨漢である。歳は四十

になるかならないかという頃。優に2メートル半はある長身で、素肌にサバイバルベストを直接羽織った軽装。青を基調にした

タイガーパターンのカモフラージュに彩られたカーゴパンツを着用し、ゴツいアサルトブーツを履いている。

 その腕が届くテーブル脇の壁には彼の得物…全長2メートル30センチを超える巨大な銀の剣が、抜き身のまま立てかけられ

ていた。

 奇妙…を通り越して異形の剣である。

 刀身は180センチもあり、身幅が40センチ、柄も50センチ余り、刀身部分の厚みは5センチを超える。鍔などの実用的

な物を含めて装飾が無く、グリップに合成樹脂の滑り止めバンドが巻き付けられているだけ。手からすっぽ抜けるのを防ぐため

に柄頭は少し膨らんでいるが、余りに飾り気が無いのでネジ頭のように見えてしまう。

 大きさを除き、まず目を引くのはその刀身の異様な形状。先端は長方形の短辺のように角張り、切っ先すらない。長方形の各

辺がそのまま研がれて刃になったような具合だが、切れ味その物はあまり良くない。分厚い鉄の板にそのまま握りが取り付けら

れたような武骨なフォルムである。

 ジオフロントから回収した特殊合金でできている武骨なそれは、斧のように重量と厚みで対象を叩き割るための武器だった。

 腹が丸く張って胸も出た肥満体だが、どこもかしこも大きく逞しい。力強い体躯の巨漢は、スカイブルーの瞳を不満げに光ら

せていた。

「公表できる情報に制限をかける必要性は理解している。陥没した伊豆の現状に汚染霧の事、ジオフロントの惨状などは特に周

知できる内容じゃない。だが、対外的な話はともかくとして、霧に入って捜索する者や、汚染の最前線で踏み止まる者、異能が

確認された獣化進行者については、最新の研究成果を現場レベルで共有するべきじゃあないのか?ええ?」

 北極熊の眼差しと声音には不満がありありと浮かんでいる。目にした光景、自分達が直面する現実、いずれ為さねばならない

事、それらを見据えた上で現状は状況にそぐわない体制だと考えている。

「部下、関係者への説明に苦慮しながら、彼らを宥めて落ち着かせ、この激甚災害で陣頭指揮を執るアザフセ港湾守備局長の苦

境を見れば、情報の統制にも遣り方があるという事を上が認知していないのではないかと疑いたくなる。…そうでなくとも数は

力だ。情報公開の範囲を広げ、参加する研究者自体を広く招聘するなどして解明に当たれば、今よりもずっと効率が上がるだろ

うに、連中は…」

「お主の言い分はもっともだ」

 北極熊と向き合って座る中年が応じる。こちらもまた筋骨逞しい体つきで、レスラーのような骨太な体躯に加え、切れ長の鋭

い目、黒々と蓄えた口鬚顎髭と四角い顔は、日本人でありながら南方系の逞しく力強い民族を想起させる。

 四十代の実年齢よりも老けて見える顔立ちだが、眼光と肉体に衰えは無い。脇の壁に立てかけてある、鞘に収まった2メート

ル近い刀…日本刀を厚みも長さもそのままのバランスで拡大したような異様な大太刀が得物だが、これを苦も無く振り回すだけ

の膂力と技術を、中年は備えている。

「まして、汚染霧に踏み入る事を承諾する者はいまだ少なく、霧の中でマスクなどの装備無しに活動できる獣化進行者も極々少

数。情報の不足による現場の危険性増大については、関係筋が政府にも訴え続けている所だ。が…」

 一口齧ったきり、パンを皿において食事を中断している中年が言葉を切ると、北極熊は剣呑に瞳を光らせた。

「国益、か…。この国難の最中でも」

「その通りだ。大隆起に端を発する汚染霧…それがもたらす人体への影響や、生態系の劇的な変化すらも国益に繋がるとして、

情報の秘匿を優先すべきという議員が大半を占めている。災害発生直後に送り込まれたお主らのような、他国の軍、救助チーム、

その他諸々は、今後新たな侵入を許可されないだろう。許可は政府が「自国所属の者」にのみ下すという方針が固まるのは避け

られまい」

 ふぅ、と中年が溜息をつき、「人手が絶対的に足らないと、言いたい所だ」と北極熊が唸る。

「まったくだ。何もかも足りない中で、最も足りないのは人手だろう」

「あの「大穴」を人の手で漁り尽くすとなれば、どれだけの人数が必要になるか見当もつかない。何百人だ?何千人だ?それで

何十年かかる?その間にどれほどの命が失われる?事態が収拾する頃、オレ達は生きているのか?」

 「大穴」とは言い得て妙だと、中年は半眼になる。

 地層断裂と崩落によって生じたジオフロントまでの長大な縦穴のみならず、危険な霧に覆われた半島一帯は、まさに底の見え

ない穴のような物だと。

「「こちら側」の政治家達も国外援助の取り付けが叶うよう努力してはいるそうだが、これに関してはまず説得は無理だろう。

…まったく、これまでの人生、家族、血縁、そして母国に、己という個人の経歴…、本名までも…。全てを捨ててここに在るお

主を前に、情けない限りだ…」

「「オレのこれ」は良い。親類家族友人を護るためには、オレが何処の誰だか判らないようにするのが一番良かった。悔いはな

いし、実際に軍は上手くやってくれて、妻も娘達も安全に不自由なく暮らしていける現状に満足している。ミツヨシさんがそこ

に気を遣う事はない」

 中年に詫びられた北極熊は、決まり悪そうに言ってジョッキをあおろうとし、中身が空っぽになっている事に気付いて猶更バ

ツが悪そうな顔になった。

「ジークは、家族に会いてぇと思わねぇのか?」

 北極熊と中年の視線が動き、四角いテーブルを挟んだその横…ふたりの中間に座っている子供へ向けられた。ずっと沈黙して

固いパンを噛んでいた子供は、コバルトブルーの瞳を北極熊に向ける。

 赤味を帯びた金色の被毛。実年齢よりだいぶ上に見える大きな体。顔立ちはまだ丸みを帯びて幼さを窺わせるものの、感情が

読めない仏頂面に加えて眼光が鋭く、十歳にもならない子供には到底見えない。

 その子供は、熊の顔をしていた。

「会いたいか、か…。勿論会いたいと思う事もある。だが現状はこれがベストだ。オレの血縁関係が辿られれば、獣化の素養が

あるかもしれないという理由で全員が実験施設送りになる。そうでなくともオレの異能は原理不明。今の科学力では再現不能な

代物で、研究のし甲斐もある。「試行回数」が多い方が良いと結論付けて、同じ異能を期待してどれだけ遠縁まで対象にされる

か判った物じゃない。…連中が平和に暮らせるなら、オレは会わなくとも我慢できる」

「相手が幸せなら、そっちのが良いって事か?」

「ユージンにはまだ難しいかもしれないが、そういう事だ。お前も大きくなって大切な物ができたら、きっと、この気持ちがだ

んだん判ってくるだろう」

「子供扱いすんじゃねぇ」

 ブスッとした熊の子に、保護者である髭面の中年は、そういうセリフが出て来る内は子供だ、と言いそうになったがギリギリ

飲み込む。話が拗れそうだったので。

「そうだな。ユージンも立派なオレ達の同志だ。一人前の仲間だ」

 スカイブルーの目を細め、腕を伸ばした北極熊は、熊の子供の右肩を軽く叩いた。

「そろそろハヤタが戻る頃だ。オレは入れ替わりで街の様子を見て回って来るが、気分転換で一緒に行くか?」

 

「………」

 四十年近く昔の事を思い出し、ユージンは無意識に左手で右肩を押さえた。

 「もしかしたら」と思わないでもない。だが、もし本当にそうだったなら…。

(もし同じ異能だったら、同質の物だったら、アイツが隠したかった素性に、グレートウォールの連中が勘付く可能性も…。い

や、アイツとアル坊は瞳の色も獣化後の種も同じ…。この形質だと誰でも同じ異能になるのかもしれねぇとか何とか、言い逃れ

できるか…?)

「所長はどう思うっスか!?」

「ん"っ!?」

 突然話を振られ、動揺のあまり喉が変に鳴ってしまったユージンは、

「まぁ、アレだ。ヌシのはダリアみてぇな異能になるかもしれねぇと、ワシは思うぜ?」

 と凄まじい速度で脳を回転させ、当たり障りのない回答で誤魔化した。が…。

「母ちゃんみたいなのっスか~…。なら格好良いっスね!」

 まんざらでもない様子のアル。養母が聞いたら喜んで高い肉を焼き始めるところである。

 

 

 

「…それで大親分さんと一家の皆さんに、犯人達は捕まえられて連行されて行ったんです。もしもアル君が気付いてくれなかっ

たら、あの土蜘蛛の集団発生が仕掛けられた物だって、誰も思わなかったかも…。でも、その後で犯人達には脱走されちゃった

そうですけど…」

 四等への昇格をかけた試験でのアクシデントについて、少年が一通り話を終えると、グレートピレニーズは口角を少し上げて

微笑んだ。

「当事者の話は噂に優る。とても判り易く、聞き応えがあったよ。とんだ災難だったね」

 タケミはマスクを取って顔を晒しているものの、潜霧スーツはそのまま。普段着や替えの衣類はボイジャー2に積載してあり、

ヘイジが下ろしておいてくれる事になっている。

 仕事着姿の少年に対して、ジョウヤもズボンとブーツはそのままで、上衣だけ脱いで薄手の黒いタンクトップだけになった武

装半解除の格好。モサモサした長毛に食い込むように着用されたメッシュのタンクトップが、肉の厚い豊満な上半身のラインを

強調する。分厚い胸も皮下脂肪で丸みを帯び、腹もボヨンと競り出てベルトに乗っているが、ユージン同様、脂肪の下に骨太な

骨格と密度の高い筋肉が詰め込まれた体型だとタケミは気付いている。

 そこは小さな窓が一つあるだけの、5メートル四方の狭い部屋である。タケミはジョウヤに案内された彼の部屋で、問われる

がまま自分の潜霧経験について語っていた。

 伊豆半島において、収入が安定しない者などが入居する手狭な集合住宅…「巣箱」よりは遥かにマシだが、このエリアの顔役

の居室とは思えないほど質素な、他の住民が暮らす部屋と同じ間取りの住まいである。

 リビングと言うのも憚られるような、狭い丸テーブルに椅子が二つのセット。地震が多いからだろう、耐震措置で壁に固定さ

れた棚には、防災ラジオとテレビが設置面を粘着テープで止めて置かれている。調度品と呼べるのは、ソーラー充電式の循環装

置をセットされたメダカの水槽だけ。

 体全体が金属光沢を帯びて銀色に輝き、光の当たり具合でヒレ先が青白く光るメダカは、タケミが知る物と少し姿が違う。背

ビレと腹ビレが上下対称に近い形で、尾ビレは扇形。時々青白く光を弾くメダカ達は十匹余り居て、水草と岩、底砂でデコレー

ションされた大きめの水槽内を泳いでいる。

 タケミは見ていないが寝室なども似た様子で、まるで仮住まいのように物が少ない。それは、雑多に物が増えると盲目のジョ

ウヤには生活し辛くなるからでもあるのだが、元々彼が質素で身軽な生活を好むからでもある。

 ジオフロントと行き来する者…それも一等潜霧士となれば、稼ぐつもりならいくらでも稼げる。生還さえできるならば、一度

のジオフロントへのダイブで一生食うに困らない程度の稼ぎを上げる事も可能。だが、字伏常夜という男はろくに貯蓄をしない。

ユージンのようにやりくりが下手糞なのではなく、稼いだ内、自分に必要な取り分と、潜霧団の活動に要る分を除き、組合に寄

付してエリア全体の経費に充てて貰っているせいである。

(でも、物がたくさんある訳でも、立派な内装な訳でもないし、畳敷きの和室でもないのに、居心地がいい…)

 少年は話の合間に、落としても割れないからだろう木製に統一してあるカップを持ち上げ、アイスティーを啜る。空調は完全

で室温は涼しいほど。除湿も効いているので空気の肌触りは外と段違い。だが、居心地の良さはその快適さとは違う気がした。

(所長とかアル君を除けば、誰かの部屋なんてあまり入った事ないし…。二人きりで話すのもあまり無いんだけど…)

 タケミは向かいに座る巨漢をチラリと見遣る。見えていない白濁した目は穏やかで、垂れ耳と長毛がユーモラスな雰囲気を醸

し出す。落ち着いた口調もそうだがバリトンの声質が耳に心地よく、怪物揃いと称される一等潜霧士の一角としては意外なほど

威圧感が無い。

 だいぶリラックスしていたタケミは、しかし自分などが経験するような事は、この超一流潜霧士が珍しがるような物でも、聞

いて面白いような物でもないだろうにと、少し疑問に感じ…。

「その時、マスクが外れた所を土肥の大親分達に見られたのだね?」

「!?」

 一瞬で緊張した。が、ジョウヤは「ユーさんから君の事情は聞いた」と付け加えた。

「この秘密が知られる危険性についても理解している。公にするつもりはないから安心して欲しい。こちらでは僕だけが知って

いる事で、弟にも伝えるかはまだ決めていない」

「そ、そうだったんですか…」

 少し安堵したタケミは、

「辛かったろう」

 囁くようなジョウヤの声と、その表情で、言葉を続けられなくなった。

「「気持ちが判る」とは言えないが、苦労して来た事だけは、想像に余りある」

 終始穏やかな表情だったグレートピレニーズはこの時、耳の基部を倒し、見えない目に瞼を半分下ろして、実に哀し気な顔を

していた。

 その、親身になって少年の気持ちを量るジョウヤの真意を、タケミはまだ、知る由も無かった。