第三話 「霧抜き」

 シャキシャキトントンと、リズミカルに音を立てて、まな板の上の胡瓜が輪切りにされてゆく。

 シンクもガス台もピカピカになっている清潔なキッチンに立つのは、後ろから見ると尻の肉付きが目立つぽっちゃりした少年。

 ここは神代潜霧捜索所。事務所、作業場、そして自宅が一つになっているユージンの家。住み込み従業員であるタケミは、こ

こで潜霧士として働きながら家事の大半を引き受けている。

 長らく独り暮らしだったユージンが家事をできない訳ではないのだが、光熱水費や部屋の賃借料など抜きで住まわせて貰う分、

自分の仕事として家事の分担を多めにしてくれるよう、タケミの方から頼み込んだのである。

 もっとも、ユージンからすればそんな必要はない。タケミの祖父の遺言で少年が成人するまでの後見人を引き受けているので、

自分は保護者という意識である。もしタケミが潜霧士になりたいと言い出さなかったら、接し方も扱い方も違っていただろう。

 半袖短パンにエプロン姿のタケミは、鼻歌混じりに見事な包丁さばき。ガスコンロの上の鍋を時折窺いつつ、野菜類を奇麗に、

そしてまるで機械類でカットしたかのような怖い程の均等さで刻んでゆく。

 やがて少年はコンロの火を止め、刻んだ野菜を皿に盛り付けながら窓の外を見遣った。

 本日は快晴。輝く相模湾をフェリーがゆっくりと滑って来る。顔からまだあどけなさが抜けきっていない少年は、今日の洋上

は気持ち良いだろうなと顔を綻ばせ…。

「…妙…かも?」

 疑問の声を発した。誰に聞かせるでもない疑問なのに自信がない声音なのは、この少年の性格である。

 時計を確認する。この曜日のこの時間に定刻運航しているフェリーは無いはずだと、少年は首を傾げたが…。

(所長が起きたら話してみよう。…って、あれ?起きてくる気配がないな)

 いつもなら顔を洗う音などが聞こえて、起きている事が判る頃なのだが、今日はやけに静かだった。少年は包丁とまな板を水

で流すついでに手を洗い、火元をもう一度確認してからキッチンを離れ、カウンターを回ってリビングを横切り、廊下に出た。

 階段を登って二階に向かいながら、タケミは小窓を見遣った。天気は良く、大海原が青く輝く向こうに、絶えず霧を漂わせる

大穴を頂いた伊豆の大地が望める。ただ見ているだけならば美しい景色だが…。

 大隆起で地形が変わったのは伊豆半島本体だけではない。大小様々な島や岩場が、半島を取り囲むように海面から顔を出し、

海岸線の様相も大きく変わった。ユージンの家はそうして隆起した小島の一つ…直径20メートルほどの小さな岩場に建てられ

ている。

 部屋数は少ないが一部屋は広く、二階建てなのでふたりで生活と作業をする分には充分な面積。

 一階にはキッチンとリビング、風呂に脱衣場、洗面所など、生活に必須なスペースが集中しており、来客用の応接間もこの階

にある。

 二階は居住スペースであり、プライベートな空間。バルコニーつきのユージンの部屋や、タケミの部屋もこの階。かつて幼い

タケミが祖父に連れられて時々熱海に来ていた頃は、今タケミが使っている部屋に寝泊まりさせて貰っていた。

 地下にも二室あり、片方は潜霧計画や地図の確認を行う作業スペース兼ミーティングルーム、もう片方は器具類や装備の保管

庫になっている。

 ユージンは潜霧捜索所を立ち上げた際に個人で運営するつもりだったので、他の同業者の事務所などと比べると、だいぶ小ぢ

んまりしている。昔の同僚や知人友人などの来客用に、寝泊まりできるよう部屋数だけは余裕をもって建てていたので、タケミ

を引き取る事になっても居住スペースに困らないのは幸いだった。

 家が建つ岩場の西…陸地側には桟橋が設けられ、陸と行き来するために必須となる足…八人乗りのモーターボートと、水上バ

イクが接舷されている。

 半島全域で居住可能な土地が少なく、首都圏の一等地を越えるほど高値なため、土地持ち家持ちの潜霧士は本当に少ない。相

当な稼ぎがあるユージンのような潜霧士や、社員寮を持つ大手の潜霧捜索所に所属している者など以外は、半島外周に乱立する

タワーマンション…通称「巣箱」に身を押し込んで生活している。

 だいたいの新人潜霧士は、狭くて不自由な巣箱での生活を数年経て、待遇の良い潜霧捜索所に所属したり、稼ぎでマンション

に移り住んだりするなど徐々にステップアップしてゆく物なので、タケミは、自分は特別恵まれた待遇なのだなと、ユージンや

祖父に感謝している。

 二階に上がると短い廊下がある。左右交互にドアが並んだ四室の、右手沿い一番奥にあるドアがユージンの部屋で、逆に階段

に最も近い左手前がタケミの部屋。

 中の二部屋も客を泊めるようにできているのだが、あまり使われなかった片方は、ユージンが蒐集した膨大な書籍で埋まって、

書斎と倉庫の中間のような有様になっている。

「あの…、所長?おはようございます…」

 神代潜霧捜索所は、今日は「霧抜き」という事になっている。仕事も入れていないし、ダイブの予定もない完全な休日である。

しかし何もしない訳ではなく、むしろやる事は色々ある。ユージンもゆっくり寝ているというような事は言っていなかった。朝

食の支度もできたので、そろそろ起こして食べさせたいのだが…。

「…所長?」

 呼びかけに反応が無いので、タケミはゴクリと唾を飲み込み、「失礼します」とドアノブを回した。

 少年の祖父は、起きて来るのが遅いと思って呼びに行った朝、布団の中で亡くなっていた。その記憶があるので、タケミの性

格上心配になってしまう。

 そっとドアを開けてユージンの私室に踏み入る。

 大きなテラスに面した窓にはカーテンが引かれ、部屋の中は薄暗いが、中央に置かれた直径1メートルほどの丸テーブルと、

その上に立っている日本酒の四合瓶何本かと、空になったツマミの皿、台に置かれた煙管が見えた。

 部屋自他はだいぶ大きいのだが、タケミの部屋と同じ広さのはずのそこは、大きな本棚が多いせいと、部屋の主が大きいせい

で、少し縮んで見える。

 右の壁は天井まで完全に高い本棚で隠れ、ドアの左右の壁にも小型の箪笥類が押し付けられた上にブックラックが乗っている。

あいたスペースには伊豆全域の地図やエリアごとの詳細マップ、高度などが判る図面などが貼られており、壁紙が見える隙間が

殆ど無い。

 大量の本は、その大半が潜霧に関する書籍を中心とした専門書。潜霧組合が発行している会報誌も創刊から全て揃っている。

残りは、大隆起前の伊豆半島に関する書籍。研究都市化されてからの物が殆どだが、開発される前の自然豊かだった伊豆の山々

やひとの暮らしについて記された古い本もある。

 左側の壁も本棚が一部埋めているが、その間に、壁に押し付けられる格好でキングサイズのベッドが鎮座していた。サイズは

ともかく、頑丈さ重視で選ばれたベッドはシンプルで飾り気がない。その、ドッシリした素朴な木製ベッドの上に、大兵肥満の

熊がひっくり返っている。

 時折「クカッ…」と鼻の奥を鳴らし、気持ち良さそうに大口開けて眠っているユージンを見て、タケミはホッとした。

 四肢を投げ出して仰向けで寝ている巨漢は、タオルケットをベッドから蹴り落としており、寝間着の甚平も紐が解けてはだけ

られている。

 袖を通して引っかける、奇しくも仕事中のジャケット姿と似た羽織り方になっていて、分厚い胸とこんもりと盛り上がった太

鼓腹が、規則正しく寝息で上下していた。

 気持ち良さそうなのでこのまま寝せておきたいが、タイムスケジュールがどうなっているのか判らないので、タケミはそっと

近づいて起こす事にした。

 酒と寝汗がトッピングされた体臭に鼻をくすぐられながら、少年は巨漢の、赤褌で申し訳程度に覆われている股間に意識して

目を向けないようにしつつ、分厚い胸と肩の間…胴を斜めに走る目立つ裂傷の付け根に当たる、鎖骨付近に手を置いた。

「あの…、所長?朝ですよ~…」

 かなり控えめに、吐息のように小さな声をかけながら、そっとユージンを揺するタケミ。揺するとはいっても相手の体重が体

重で質量が質量、手の動きに合わせて毛皮がずれる程度である。が…。

「んん~…」

 軽く呻いた巨漢は薄く目を開け、コバルトブルーの瞳に少年の顔を映す。

「おはようございます、しょちょ…」

「あと…、ごふ、ん~…」

 おもむろに伸びた左腕が、少年の肩から回ったかと思えば、タケミはそのままバフンと、倒れ込むようにユージンの上に抱き

寄せられた。

「わっぷ!」

「くか~…」

 顔を胸の被毛に埋める格好で倒れ込んだタケミ。お構いなしで再び目を閉じるユージンは、添い寝させるようにグイッと少年

の体を自分に寄せる。

 巨漢の上へ、斜めに倒れ込む格好で寝そべったタケミは、少ししてからクスッと笑みを零した。

 ユージンはまだだいぶアルコールが残っている。

 仕事休みの前夜は、星空を見上げて独り晩酌するのがユージンの習慣。特に昨夜は、助かるべき者が助かり、思わぬ実入りも

あった事で、飲み始めも早かった上にカラスミを肴にだいぶ深酒しており、息は勿論体臭まで酒臭い。

 それはつまり、昨日は良い日だった、成功だった、と言い換える事も出来て…。

(頑張って良かった…)

 タケミは巨漢の胸にポッテリした手を這わせ、胴を走る傷痕を指でなぞった。

 左の鎖骨から鳩尾を通り、右脇腹上部へ抜ける大きな裂傷。本人はこの傷を負った経緯についてタケミに語った事はないが、

「忘れられない、名誉の負傷」だと、マダム・グラハルトは言っていた。

 名誉という表現は、あながち間違いでもないのだろう。ユージンはいつもジャケットの前をはだけ、胸から腹にかかるこの大

きな傷を晒し、いつでも分厚い胸を張る。誇りに思っているか、少なくとも恥じて隠すような物ではないと察せられる。

 名誉の中身については知らないが、忘れられないという意味については判っている。

 その傷は、タケミが生まれた日に負った物。だからユージンはどんなに忙しくてもタケミの誕生日は絶対に忘れないのだと、

雌虎は笑っていた。

(七夕だから、忘れ難い誕生日だけど…)

 傷をなぞられたユージンは、眠りながらも心地良いのかこそばゆいのか、笑うように寝息を乱す。

(せっかくだから、ちょっとだけ…)

 タケミは巨漢の胸から腹にかけて、赤金色の被毛をゆっくり撫でる。

 ユージンは腹側や背中側を撫でられると喜ぶ。口には出さないが、短い尻尾がモソモソ動くのですぐ判る。これを知るタケミ

の祖父は「撫でられて心地良い、犬のような反応」と言っていた。

 左右に盛り上がった厚い胸、上下するそこを優しく撫でると、熊の口元が緩んだ。皮下脂肪と豊かな被毛で表面は柔らかく、

内部には強靭な筋肉を搭載し、頑強な肋骨に支えられた胸は、人間とはボリュームが段違いである。逞しくも柔らかく、撫でた

手触りはフカフカで気持ち良い。

 鳩尾から盛り上がる丸く張った腹に手を這わせ、被毛を撫でつける。中年太りと本人は称するが、昔からこの体型だという事

はタケミも知っている。贅肉はついているが張りのある太鼓腹。窪みが深いヘソはいつも晒しているので見慣れた物。ヘソの窪

み周辺を円を描く形でサスサスと撫でてやると、満足げな深い息がユージンの口から漏れた。

 撫でる側の手も心地良いので、ずっとこうしていたくなるが…。

(…い、いけない…!ボクも寝ちゃいそう…)

 タケミは半分落ちかかった瞼を慌てて開けると、名残惜しさも感じながら身を起こし、ユージンから離れる。

 自分を目で確認した半覚醒から再びまどろみに入ったという事は、のんびり起き出して問題ないのだろうと判断して、タケミ

はそっと部屋を出て、音を立てないよう気遣いながらドアを閉めた。

(あれ…、体ちょっと汗ばんだかな?肌が火照ってる…)

 

 そして、三十分後の午前八時…。

「ふあぁ…!」

 背後から大きな欠伸が聞こえ、キッチンで麦茶を仕込んでいた少年は振り返る。

「おはようございます、所長!今日はいい天気です!」

 顔を綻ばせて挨拶しながら、鍋のシジミ汁を火にかけ直す少年に、まだ酒が残っている熊の獣人は、「おう、おはようさん…」

と寝ぼけ顔のまま緩んだ笑みを返した。

「今日はいい天気です。濃霧警報の心配はなさそうかもですね」

「おう、この分なら大丈夫だろうぜ。…お?この匂いは…」

 ユージンは鼻をクンクン鳴らすと、鍋を見て笑みを深めた。

「シジミ汁かぁ…!」

「はい!ゆうべはお酒が多めだったみたいなので、冷凍していたシジミを汁にしたら丁度良いかなと…」

「ヌシは本当に気が利くぜ!ん~…!」

 嬉しそうに笑ったユージンは、タケミの黒髪を撫で上げるように手で押さえると、その額に軽くキスをする。そのえらく酒臭

い息を嗅いだタケミは…。

「………」

 色白な頬を真っ赤に染めて硬直した上に、目のやり場に困った様子で視線を横に逃がす。

 それは、まだアルコールが抜けていないユージンのスキンシップだけでなく、格好も原因である。

 この熊のルームウェアは甚平。ただし上だけ。暑いし蒸れるからと下履きは着用せず、腰につけているのは赤い六尺褌一丁。

甚平の裾は太腿の付け根までの丈しかないので、角度によっては股間の膨らみがチラチラと目に入ってしまう。特に正面に股な

ど広げて座られると丸見えになってしまい…。

「ご、ご飯も…炊けてます…!すぐ朝食にしますか…?」

「おう。酒でこなれて腹ぁペコペコだぜ」

 突き出た太鼓腹をサスサスと撫で、空腹を実感して切なそうな顔になったユージンは、山盛りによそわれたどんぶり飯をタケ

ミから手渡されると、ドレッシング類が乗っているトレイを手に、カウンターを挟んでキッチンと繋がっているリビングのテー

ブルセットに向かう。

 常々仏頂面で、その強面でも眼光でもひとを委縮させるユージンだが、アルコールが入って精神が弛緩していると、態度が柔

らかくなる。

 しかし、古馴染みの雌虎に言わせればむしろこちらが地。豪快で大雑把、気さくで人懐っこい、気のいい巨漢というのが素の

ユージンだと彼女は述べる。普段の隙が無い潜霧士としての態度は、数少ないベテランかつ一等潜霧士という立場と責任を意識

しての振る舞いで、厳しい上司の顔は、タケミを一人前に育てるために気を張っているからだとダリアは言う。

 タケミも、ユージンが厳しい態度とは裏腹に、内心では自分を大切に思ってくれていると感じており、よく懐いているし尊敬

もしている。何より、小さい頃によく遊んで貰った時の思い出があるので、ユージンがどんな男なのかは説明されなくとも判っ

ていた。

 今日タケミが拵えた朝食は、新鮮な各種野菜のサラダ、焼き鮭、焼き海苔、大根の沢庵と蕪漬け、山盛りの白米とシジミ汁。

献立はシンプルだが、大食漢のユージンを基準にしているので量はかなり多い。そして、今日の伊豆半島では高値になる野菜類

をふんだんに使った、少し贅沢な朝食でもある。

 ユージンはモリモリと朝食を平らげながら、定時運航から外れているフェリーの話をタケミから聞いて、「臨時便か…。おお

かた、政府のお偉いさんなんかが都合で変えさせたんだろうぜ」と、珍しくもなさそうに応じた。

「時々あるんですか?ああいう事…」

「まあな。各潜霧所に連絡がねぇ臨時便は、だいたい政府の手配だぜ。ようするに国家機密とかそういう面倒なモンに絡んだ動

きか、でなけりゃ「やんごとないお人」の都合ってヤツだな。ん~…!シジミ汁、うんまいなぁ~!はらわたに染みわたるぜ!」

「えへへ…、祖父にはよく、味が濃いとか薄いとか、ダメ出しされたんですが…!」

「爺さんは特にグルメだったからな。おまけに頑固な職人気質、なかなか良しとは言わなかったろ?」

「ええ、だいたい「まだまだ」って…」

 亡き祖父の声を懐かしく思い出しながら、タケミはふと気になってユージンに訊ねた。

「あの…。所長でも祖父からダメ出しされたりしたんですか?」

「うん?そりゃあそうだ。褒められる事なんぞ稀だったぜ。特にワシが食事当番の時はヌシより褒められた事ねぇな」

 タケミの祖父も潜霧士だった。それも最上級…一等潜霧士。国家資格として潜霧士制度が成立した、最初期の潜霧士のひとり

である。

 孤児だったユージンは、半ば養子のような格好でタケミの祖父に育てられた。伊豆の大隆起後、復興どころか被害の拡大防止

で国が傾いていた時代の話である。

 潜霧士という職業が確立された頃、ユージンはタケミの祖父と共に「不破潜霧捜索所」を立ち上げ、専属の潜霧士となった。

代表的な同僚は、タケミ祖父の息子…つまりタケミの父と、後にタケミの母となる女性、そしてダリア。今では伝説のように語

られる潜霧団である。

 つまりユージンにとってタケミの祖父は元上司である以前に親同然の存在であり、タケミの父は兄弟同然、タケミ自身は甥っ

子のようなものである。

 タケミの母は潜霧中に亡くなり、父親はその日に消息を絶ち、以降行方不明。法律上は死んだものとなっている。

 祖父はこの事故のすぐ後、加齢を理由に引退し、生まれ故郷の白神山地に数十年ぶりに戻って、男手一つでタケミを育てた。

 ダリアの引退はもう少し早く、タケミの両親が結婚したすぐ後の事。全盛期は過ぎたと、余力があるうちに引退を決めて、潜

霧士達のための酒場を作った。様々な理由で働く場所が見つからない、元潜霧士達を雇う格好で。

 そうして、それぞれの理由で他のメンバー達も減って行き、所長の引退をもって不破潜霧捜索所が解散となり、最終的に独り

になってなお、ユージンは個人で事務所を立ち上げて潜霧士を続けた。伊豆を離れて普通に暮らすなら一生金に困らないほど稼

ぎながらも、引退など考えていないし、伊豆を離れるつもりもない。

 そんな彼の事を、「それ以外の事を知らない、霧に潜る為に生まれて来た男なのだ」と、同業者達は口を揃えて評する。

「特にダメだと、爺さんからよく言われたのは…、試験前だったぜ」

 ユージンの何気ない発言で、少年の顔色がサーッと目に見えて悪くなった。

「ん?タケミ、ヌシは心配要らんだろう。成績優秀、筆記なんぞちょちょいのちょいだ」

「で、でも…。自信ないです…」

 タケミはとにかく弱気である。胎盤辺りに自信をくっつけたまま生まれて来てしまったのではないかと、ダリアが妙な心配の

仕方をするほどに。

 だが、自信がなく、怖がりで、気弱でありながら、腕は立つし頭も良い。場数を踏んで経験豊富な潜霧士でさえ、重火器不携

帯での単独交戦が非推奨となっている土蜘蛛と、刀の一本で立ち合えるほどの身のこなし、河童の動きも見切る反射神経や剣の

腕、これらは既に常軌を逸した冴えを見せ、素性を知らない者には、獣人かつ二等潜霧士辺りと誤認される事まである。

 実力と根拠を伴わない自信家は周囲に迷惑をかけるものだが、タケミはその真逆。辺りが歯がゆさを覚える程、実力に対して

自己評価が低い。もっともユージン曰く、その辺りはタケミの性格でもあるし、歯痒くもあるが可愛いところでもあるらしい。

アルコールが回っていない限り本人には絶対に言わないが。

 ただ、友人の少なさだけはどうにかならない物かと、金熊は以前から頭を悩ませ続けている。

 田舎…というか山の中、学年に生徒ひとり居るかどうかという過疎区域で小中学校を出た少年には、友人と呼べる相手が極端

に少ない。その育った環境も影響しているのだろうが、人見知りで友人を積極的に作れない性格もその原因である。

「とにかく、次の試験でヌシも四等…、表層で行けん所はなくなる訳だ」

 潜霧士の等級は、正規六等級と仮免許の合計七段階あり、それぞれに活動範囲やレリックの所持について、細かく制限が定め

られている。

 二等以上の潜霧士は、大穴内のあらゆる地区に制限なく立ち入りできる権限を与えられている。その一方、仮免許は大穴内で

の単独行動が認められず、登録したゲート以外からのダイブも許可されない上に、ホームにしたエリアのゲート周辺のみと、活

動範囲を著しく制限される。

 そして六等はそれよりマシだが、大穴の外周側でしか活動できない。

 タケミは現在五等で、表層の大部分で活動できるが、「大穴」の名の由来でもあるクレーター状の中心地、地下に通じる「崩

落点」の近辺や各所の地下行きルートには立ち入れない。表層での無制限活動ができるのは四等からで、ジオフロントにダイブ

できるのは三等からとなる。

 四等になって最初の潜霧の時に、崩落点まで連れて行ってやる。ユージンはかねてより少年にそう約束していた。かつて自分

が、タケミの祖父や両親、ダリア達と共に挑んだ、ジオフロントの入り口を見せてやる、と…。

「そうそう。昨日テイクアウトの注文をした時にダリアから聞いたが、今度の試験を受けにアル坊も帰国するらしいぜ」

「え?」

 ユージンの言葉に反応して少年が顔を上げる。

「先月辺り、ヌシが四等試験を受けると話したら、「じゃあオレも受けるっス!」とか言ってその場で帰国を決めたらしい。相

変わらず尻が軽い即断即決だが…、ヌシと同じ立場に立って居てぇんだろうよ。可愛いモンじゃねぇか、ええ?」

 熊が名を口にした人物はマダム・グラハルトの養子であり、タケミと同い年で同期の少年潜霧士。幼少期を共に過ごした幼馴

染であり、タケミの祖父に剣術を習ってもいたので同門生の兄弟弟子とも言える。

 そして、タケミの極めて数少ない友人である。

「ふたり揃って四等試験に合格したら、パーッと祝うか。またプライベートビーチを借り切って、ダリアだの身内だけ呼んで、

気兼ねなくバーベキューと海水浴をするのも良いな。纏まった休みを作るもよし、久方ぶりにアル坊と二人で遊んで回るのも良

いだろう。…努々、片方だけ落ちるなんて、慰め方に困る結果だけは避けるんだぜ?」

 ニヤニヤするユージンに、タケミはコクコク頷いた。

「…じゃあ帰国は来月…あと数日だ…!五ヶ月ぶりか…」

 嬉しそうなタケミをしばらく眺め、期待と喜びを堪能させた後で、ユージンは口を開いた。

「さて、今日の午前は予定通り試験勉強だ。午後は買い物、器具の発注、河童の査定も聞きに行くし、帰ったら装備のメンテナ

ンスだ!仕事がなくともやる事はたっぷりあるぜ。いいな?」

「はい!」

 元気よく返事をするタケミを見ながら、

(ワシら以外にも人見知りしねぇで、こういう返事ができりゃあ良いんだがなぁ…)

 などと、内心ため息をつくユージンであった。

 

 大穴を満たしている霧は、吸い込んだ人間の体に因子汚染を生じさせ、物理的な変化を起こし始める。大半は自壊すら伴う急

激な肉体変化に耐えきれず、外傷性ショックで死に至る。

 ただし、変化の進行には状況差や体質による個人差もあり、条件次第では即死も免れる。

 例えば、時間あたりの摂取量が極々微量で、吸引総量が少なければ、死に至るような劇的な変化は現れない。直接吸引は防ぎ、

目などの粘膜から微量に摂取し続ける状況が続くなどしても同様である。

「身近な例ではダリアなんぞ正にこの症状だった。やっこさんは地盤崩落に巻き込まれて、四週間霧の中に取り残された。マス

クの機能も徐々に落ちる中、危険生物を捕まえて食い繋いだ。その間にステージ4から6まで、徐々に獣化が進行した訳だが…。

200メートル滑落して瓦礫に埋まっても、自力で這い出して救助を待ってる時点で驚きだったぜ。結局、除染も投薬も効果な

しで、最終的にはステージ8まで獣化が進行したが」

「えええええ…」

 顔を引きつらせるタケミ。

 眼鏡を着用し、ワイシャツとズボンとサスペンダー姿になったユージンは、ミーティングルームでホワイトボードに書き記し

ながら、席についているタケミに説明する。アルコールもすっかり抜けたので、今はいつもの厳しい熊親父に戻っていた。なお、

講師らしい格好として演出しているが、眼鏡は伊達。両目の視力は測定が難しいほど良く、もはや人間の基準内にない。

 昨日も実地で確認したが、タケシの潜霧技能はユージンも認める水準で、四等潜霧士に相応しい。自主勉強を怠らない勤勉な

性格なのでペーパーテストも不安は無いのだが、念のため、迫る昇級試験に備えて基本知識のおさらい授業をしている。

 ユージンは実務だけでなくこういった指導経験も豊富。ベテラン潜霧士として、ビギナーを集めた講習会の講師依頼をされる

事もあるし、組合の依頼で仮免を引率し、潜霧の実地指導も行う。そんな経験豊富な教導官から見ても、タケミは非常に優秀な

生徒だった。

 ユージン直々に事前指導を行っていたとはいえ、平均一年前後と言われる仮免期間をたった半年でパスし、一緒に仮免を取っ

た友人ともども、ちょうど一年ほど前…去年九月の試験で六等認定を受け、正式な潜霧士の免許を与えられるに至った。そして

五ヵ月前の年度末には五等に昇給している。これは一部の二等潜霧士達にも匹敵するスピード記録である。

「ダリアの場合、救助されるまでに吸収缶がキャパオーバーし、少しずつ霧に浸食された。それでもだいぶ急激に獣化が進んだ

部類に入るが、やっこさんは頑丈だし体力もあり、体質的にも霧を抑え込む力が高かった。そして、発狂も絶望もせず、霧の中

で進行する獣化に耐え切った。四週間もジオフロントに居て命があったのは、死ぬべき時じゃなかったからなんだろう。…とに

かく、ワシと爺さんが引き上げた時はもう、顔は完全に虎だった」

 ユージンはホワイトボードにキュキュッと、「ステージ1」から「ステージ8」と、縦並びに文字を記す。

「さてここでおさらいだぜ。獣化段階について、それぞれの特徴を言ってみろ」

「はい!ステージ1は、因子汚染率5パーセント以上11パーセント未満。浸食症状とみなされる初期ステージです!症状は感

覚の鋭敏化、体力増進などで、体に害がある副作用はなく、潜霧に理想的とされる範囲内です!」

「その通り。では次、ステージ2は?」

「ステージ2は因子汚染率11パーセントから20パーセント。ステージ1の症状に加え、精神の高揚、集中力の増加などが現

れます。ここまでは霧の吸引を一定期間避ける事で自然回復し、後遺症もありません!あ、ヤベさんの潜霧所の皆さんも、ロー

テーションを組んで調節して、このラインを維持しているんでした!」

 このステージ2を維持するのが、高度な汚染を受けていない一般潜霧士には理想の状況とされる。サプリメントの摂取による

除染と、耐霧マスクによる吸入防護。それらを駆使しても汚染率が下がらない場合、潜霧士は「霧抜き」と呼ぶ休暇に入り、ス

テージ1と2の範囲内にとどまるよう調整する。この範囲内ではメリットこそあれど、因子汚染と聞いて万人に懸念されるよう

な、致命的な変化や重大なリスクは無いのである。

 なお、本日この事務所が休みなのも、この霧抜きのためという事になっている。

「よし。ではだいたいの問題でキモになる、ステージ3は?」

「因子汚染率21パーセントから30パーセント。個人ごとに感じ方は違いますが、歯の根や爪の付け根の疼き、眼の奥の違和

感などが自覚症状として現れ、さらに進行すると不可逆な変化…「獣化」が始まります」

 因子汚染がここまで進むと、人間の肉体は物理的に、目に見える形で変化を始める。どのような特徴が現れるかは個人ごとに

差があるが、因子汚染率が21パーセントを越えた辺りから毛髪の質に変化が生じたり、色が変わったりし、さらに進むと徐々

に鱗や獣毛が発生し始める。

 歯茎の違和感などの兆候や毛髪の変化だけの状態であれば、ただちに霧から上がり、投薬などの治療を受ける事で正常域まで

戻るが、20パーセント台後半まで汚染が進行すると、どんな手を使っても完全には元に戻らない。

 かつて伊豆生命進化研究所が開発し、今や世界的に活用されている遺伝子治療なども、これには無効。というよりも…。

(霧は、それらの上位に当たるシロモノだからな…)

 そして濃霧を吸い込んで劇的な変化を生じる状態…いわゆる急性中毒になると、このステージ3を超える所で九割九分ショッ

ク死する。因子汚染と聞いて多くの者が想像するのが、元の容姿すら残らないこの凄惨な最期…。大隆起直後に多くの命を奪い、

人類にトラウマを植え付けた、この劇的な変性である。

「ステージ4は、獣毛や鱗の範囲がさらに広がり、瞳や爪、歯などが人間の物ではなくなります。また、変化が早いひと…俗に

言う「霧中環境適合者」の多くは、この段階で耳や鼻が獣の物になり、位置なども変えます」

 因子汚染率が31パーセントを超過すると、個人ごとに異なる獣化の行く末が判って来る。ネコ科、イヌ科、はたまた熊か牛

か馬か猪か、瞳孔、爪や牙などが変化して個性が現れるので、この段階でおおまかに「何の獣人」になるか予想できる。

 また、多くの場合は手足の先、頭頂部など体の端から変化が現れ、徐々に範囲が広がる。例外もあるが、体の中心部付近から

変化が顕在化する事は極めて稀なので、この辺りになると服から出ている部位でステージ4未満か否かを判別できる。

「ステージ5は、変化がさらに広範囲に広がって、頭部の形状が完全に獣になり、手足の変化も完了。外見上は4割ほどが獣人

の物になります」

 このステージまで来ると、個人の適合性や耐性にもよるが、変化後の部分と人間のままの部分…つまり内臓などで、機能が噛

み合わないなどの深刻な体調不良に陥る者もある。多くの場合、この段階で適合しない者は…。

「ステージ6、尾を生じるなどして、外観はほぼ獣人になり、人間のままの部分はごく一部になります。…この段階での生存率

は、急激な変化が生じなくとも、確か…、えぇと…、四割未満。そして二割は重大な障害を抱えて再起不能に…」

「正解だぜ。俗に「ジークフリート線」と呼ばれるボーダーラインが、因子汚染率60パーセント。ステージ4の段階で問題な

しと太鼓判を押される霧中環境適合者、そして運が良かった例外…、そういったケースだけがこのラインを越えた汚染に耐えら

れる」

 急激な変化に見舞われず、徐々に変化が進んだとしても、統計上、この段階に至った者の内、6割は多臓器不全を起こして短

期間で死亡し、2割は重大な障害が体に残る。逆にここを乗り越えた者は、これ以上因子汚染が進んでもそれが原因で命を落と

す事はない。

 この、獣人になって生き延びるか、それとも死ぬかが、完全に決まるのが「ジークフリート線」。越えられない者には命を捨

てても越えられない基準線。

「ステージ7まで進行すると、完全な獣人になります」

 因子汚染率が61パーセントを越えると、全身を鱗か毛で覆われ、獣の頭部で尾なども備えた、完全な獣人の姿になる。

 この段階に至ると肉体的な頑強さ、感覚の鋭さ、筋力に運動性能などは、生粋の人間から逸脱したレベルになる。

 絶対真空内でも長時間生存し、放射線にすら耐える生命力、霧への絶対耐性に、ある程度の危険生物は肉弾戦で圧倒できるな

ど、大穴での活動に非常に有利な肉体となる。ただし、抜け毛だとか換毛期だとか、人間の頃には無かった生理現象などに悩ま

される事もあるが…、これは慣れるしかない。

「そしてステージ8…。「異能」に覚醒します」

「そう。因子汚染が齎す、ステージ序盤からだいぶ間が空いた恩恵だ」

 異能。それは重度の獣化に至った者が獲得する、超能力とも特殊能力とも呼ばれる力。

 例えば発火現象、あるいは放電現象、そういった物を行使する事が可能になる。ただしこのステージに至るまで存命できる潜

霧士はあまり多くない上に、どんな力が覚醒するかはまちまちなので、異能の種類の体系化も大雑把な物。何とか原理の説明が

できる物もあれば、何が何だかさっぱりな怪現象まである。

「ダリアの「メガブロワー」なんかは理解し易い方だが、ワシの「雷電」みてぇに、実際に見なけりゃ判り難い物もある」

 マダム・グラハルト…一等潜霧士ダリア・グラハルトの異能は気圧操作。ひいては気流のコントロールにまで力が及ぶため、

潜霧という仕事において非常に有用であった。緊急時には霧を押し流して安全地帯を作り出す事もできる彼女に、命を救われた

潜霧士は数知れない。

「今回はここらにしとくか。昼飯を食いながら陸に上がる。ワシは桟橋に出てエンジンかけとるぜ。出かける支度をしてこい」

「はい!ありがとうございました!」

 立ち上がってお辞儀した少年は、小太りな体を弾ませる駆け足で軽快に退室する。

 ユージンは眼鏡を外すと、少年の嬉しそうな後ろ姿をそっと、まんざらでもなさそうな笑顔で見送った。

 

 小島の桟橋にエンジン音が響く。

 救命ジャケットを羽織り、水上バイクに跨った大熊は、係留ロープを解いた少年が飛び移ると、片腕を伸ばして手を取り、安

定させてやりながら後ろに跨らせた。

 ユージンの太い腰には腕が回り切らないため、腰の両側でベルトを握る格好でしがみついたタケミは、「オッケーです!」と

エンジン音に負けないよう声を張り上げた。

 ふたりとも救命胴衣を着用しているが、半袖半ズボンの軽装。そのまま街を散策する格好である。

「おし、出発」

 景気よく吹かして水上バイクをスタートさせたユージンは、500メートル向こうの岸辺を目指して風を切る。

 道中あちこちに岩が顔を出している岩礁地帯なので、直線移動ではなく大回り、かつ所々蛇行するが、ユージンにとっては勝

手知ったる自分の庭のような物、目を瞑っていてもぶつける事は無い。

 大隆起で地形を変えたは伊豆半島で、あちこちで小島が生じる隆起活動は沖にも及び、遠浅になった部分も多い。おかげで半

島に大型船を直付けする事は不可能になり、海岸線近辺を行き来できるのは小舟などだけ。大型船は沖合を通って熱海、沼津の

整備された大型港を利用する事になる。

 また、危険生物の飛散防止用レーザー照射機を一時でも停止させる訳には行かないため、空路による進入も不可能。半島から

鳥達が完全に姿を消してから、もう30年以上になる。

 海路も空路も、ともに大穴への侵入経路にできず、縁から徒歩で潜りに行くしかないというのが、今の伊豆半島の現状。

 そして、大隆起以降は地殻変動の影響で地熱が増しており、半島周辺は冬でも暖かい。大隆起から今年まで、大穴に雪が降っ

た事はたったの一度しかないほどである。

 よって、一年通して防寒の備えはそれほど必要ないのだが、暖かい事は良い事ばかりではない。気温が一定以上に保たれてい

るため、霧が絶える事が無く、危険生物の活動が鈍る事もないのである。

 また、現在の伊豆半島は沿岸沿いにのみ生活圏を築く事ができるので、半島外縁部はグルリと、帯のように長く街が構築され

ている。重要な陸路は大動脈で、その左右…場所によっては山側、場所によっては沿岸側の、狭い土地に建物が密集していた。

 大規模な工場の類こそないが、潜霧士の装備を生産したり調整したりする工房や、危険生物の死骸やそれを元にする素材の加

工業者が点在するため、狭いながらも工業化が進んだエリアもある。生活用品が揃うマーケットや、薬局や電化製品店など、各

種業者が賑わっているのは、人口が狭い範囲に密集しているおかげで、客足が安定しているせい。

 また、物見遊山の、獣人も因子汚染者も区別しない酔狂な旅行客などが宿泊する施設もそれなりにある。何せ、いかに変わろ

うと絶景が連なる風光明媚な土地である事と、温泉が豊富な土地柄という点は昔と同じなのだから。

 そして、そんな状況の伊豆に出入りする物品に、制限がかからない訳もなく…。

 

「また豚肉は値上げか…!今年に入ってから値上げ多くねぇか?ええ?」

 定食屋前のウィンドウ、飾られている見本品に添えられた値札を見て、ユージンが眉間を押さえる。

 この店の人気商品であるカツカレーの値札には2,800円と記されていた。

「鳥南蛮蕎麦も…、先月より500円も値上がりして…」

 タケミも蕎麦の値札を気落ちした様子で見つめる。

 陸地の大半が居住不可エリアになっている伊豆は、農業や畜産などに充てられる土地が無い。海産物以外の食材は大半が「輸

入」に頼る形になるのだが、これが元々高値な上に、運搬費用の煽りをモロに食らって頻繁に値上がりを起こす。40年経って、

穴の外に霧が出る事を完全に防げる現状に落ち着いても、伊豆に入りたくないという人間が大半なのである。

 その一方で、伊豆から持ち出される品や技術にも厳しい検疫が設けられており、潜霧士用の物品や、穴の中から回収された品

などは、鑑定と安全確認が行われた上で、一部がようやく持ち出し可能になる。それは海産物も同様で、唯一豊富な魚介類は持

ち出しに時間がかかる。しかも半島近海で採れた物は忌避感から買い控えされる事も多い。そのため、豊富な海産資源はもっぱ

ら地産地消されており…。

「今日はカツカレー諦めて、海鮮丼にするか…」

「ボクはエビフライ定食に…」

 海鮮丼は一杯800円。エビフライ定食も同額。魚介系がメインの品は、高品質かつ漁獲量も多いのにやたらと安価である。

貧乏な訳ではないが、ふたりの金銭感覚は一般的なので散財はあまりしない。

 ユージンとタケミが少ししょぼくれながら、七階建ての墓標のような雑居ビルの、一階のデンタルクリニックと二階のカラオ

ケ店を通り越し、三階にある定食屋に入ると…。

「あ。あのひと達、このまえ酒場で見た…」

 テーブル席を囲んでいる旅行客の一団が視線を向けた。先日、ダリアの店で打ち上げ中の潜霧士達を眺めていた観光グループ

である。

 料理をオーダーしたユージンとタケミが何か話をして、大窓の外に広がる海を眺めたり、水を啜ったりしている様子を、旅行

客達がコソコソと話しながら見ていると…。

「やばい、見過ぎた?」

 男のひとりが少し焦った声を漏らした。

 のっそりと立ち上がった巨大な熊が、少年を席に残したまま、真っすぐに歩み寄って来る。

 どうしようかと、黙り込んで焦る旅行客達に…。

「熊は珍しいか。ええ?」

 2メートル半の高い位置から、巨漢の厳めしい傷だらけの顔が視線を投げかけた。

「あの、済みません…」

「気分を害したなら謝ります…」

 巨躯に圧倒されながら、口々に詫びる一団だったが…。

「気にしねぇでいい。獣人なんぞ「本土」じゃ生で見る機会がそうそうねぇだろう?」

 怒っているような仏頂面に見えたユージンの顔が、一転してニカッと笑みを見せた。漫画やアニメで擬人化された熊が笑った

らこうなるだろうという、気の良さそうな笑顔である。

「嫌いで見られとったら判る。が、ヌシらにはそんな感じがしねぇぜ。単に物珍しくて見てただけだろう?」

 怒っている訳ではないと判ってホッとした一行に、「ヌシらは先日、酒場にも居ったな?」と、ユージンは顔を確認しながら

言った。

「伊豆はどうだ?気に入ったか?飯は美味かったか?楽しい旅か?」

 ユージンは一つ一つ質問を投げかけ、やがて太い笑みで口元を彩り…。

「なら結構!旬の物が変わる季節にでも、また遊びに来るといい。どれ、旅行記念なら写メでも一緒に撮るか?おっさんはこう

見えて記念撮影に慣れとる。ポーズでもなんでもつけるぜ?」

 タケミはその様子を、席に座ったまま黙って見ていた。

 ユージンは伊豆を訪れる外の者に寛容である。自分が生まれたここを、もはや「人外地区」と呼ばれるようになったここを、

好いてくれる人間が居る事を喜ばない理由は無いだろう、と本人は言う。

 物品や危険生物由来の物などとは異なり、ひとの出入りについては特に制限はないが、伊豆に出入りするより海外旅行する方

が気軽というのが実情である。例え獣人化が進んでいても伊豆の出入りに制限はないが、伊豆の外では周囲の目が気になって暮

らし辛いというのが実情。感染するような物ではないという常識が知られてなお、「獣人は汚染された者」という感覚が拭えな

い者が大半。旅行者も同様で、伊豆入りしたなら帰った後の周囲の目も変わる。大半の人間が獣人を蔑視し、因子汚染された者

を忌み、伊豆を忌避しているのである。

 だからこそユージンは、それでも伊豆に来る者達を好意的に迎える。自分の故郷に興味を持ち、好いてくれる者達を、客とし

て受け入れる。

 旅行者達と海側の窓をバックに記念撮影したり、サイズが判るように一人一人と並んで撮られたり、手を重ねて比べた写真を

撮ったりと、サービスよく付き合ったユージンは、食事を終えていた一同が退店するのを見送ってから席に戻った。

「お、もう飯来とったか。先に食ってて良かったんだぜ?」

 困ったような微笑を向ける、気を使って待っていた少年に頷きかけて、ユージンは一緒に食事に取り掛かった。

「状態が良かった河童は、査定額も高くなる。ヌシのスーツもまたキツくなって替え時も近かった。思い切って新調するぜ」

「でも、こんな頻度で新調するなんて無いって、工房長も…」

「育ち盛りだ、仕方ねぇ」

 などとユージンは言うものの、タケミ自身は急激に太って来たせいだという自覚がある。贅肉がだいぶついてしまった腹回り

や胸などはいつも隠して、家でも肌を晒さない。工房で採寸され、工房長に「肥えたな…」とボソッと呟かれる度に顔が熱くな

る。良い生活をさせて貰っているという感謝がある一方で、それに甘えて肥えてきた体は、いかにも楽をしているようで恥ずか

しいのである。 

(所長もアル君も、ダリアさんも気にしてないけど…。自分に自信があると、堂々としていられるんだろうな…)

 などと考えているタケミに、ユージンは声を潜めて言った。

「…「無駄」な買い物とか、考えるんじゃあねぇぜ?「ヌシにはヌシの理由で」必要だ」

「は、はい…。承知してます…!」

 ユージンやダリアのように、獣化が全身に及んだ者には霧による変異がそれ以上生じず、急性ショックも起こさない。しかし

それ以外の潜霧士には、マスクやスーツ無しでの潜霧は命取りという事になっている。

「ヌシは因子汚染ステージ1、しっかり管理して2で止まり、行ったり来たりを繰り返す…。そういう事で良い」

「はい…」

 叱られたような顔でシュンとしたタケミは…。

「…飯食ったら工房に顔出して採寸して貰うぜ」

「え」

 突然そう言われて硬直した。

「で、でででも!いまご飯食べたらその、お腹が張っちゃって…!寸法が合わなく…!」

 反射的に腹を引っ込める練習をしながら、日取りを改められないかと逃げ腰になるタケミだったが…。

「腹が減っとる時の寸法で作っちゃあ、またすぐキツくなっちまうってモンだ。この後に測るのが丁度良いだろうぜ」

 ユージンの中では既に工房行きは決定されており、覆りそうにない。

 採寸で太った体を測られるのは、タケミにとっては恥ずかしい定期イベント。気が重くなる少年だったが…。

「そいつが済んだら、査定の確認がてらソフトクリーム食うか」

「はい!」

 ユージンの提案で、すぐさま元気に顔を上げた。肥る体は恥ずかしいが、止められないのが甘い物である。

 だが、海鮮丼を五つ夢中になって胃袋に詰め込むユージンは、気付いていなかった。

 観光客にサービスしている間に、携帯通信機に神代潜霧捜索所の番号経由で、着信が入っていた事に…。